内藤湖南の台湾観 - 後藤新平との接点をめぐって -
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(2) (『全集』②、424∼38頁) であり、『凶漁報』時代の内藤湖南の論説は、. ①「台湾の鉄道に就て」(31年5月31日)(『全集』未収録). ②「台政近日の失措」(31年11月1/2日)(『全集』②、532∼37∼頁). ③「再び台政の失措に就て」(31年12月13日)(『全集』②、544∼47頁) ④「三たび台政の失措に診て」(31年12月20日)(『全集』②、548∼51頁) ⑤「四たび台政の失措に就て」(32年1月6日)(『全集』②、552∼54頁) ⑥「台湾事業公債」(32年2月13/14/15/17/18目)(『全集』②、563∼76頁). ⑦「台湾総督府当局の為に謀る」(32年2,月28日)(『全集』②、580∼82頁). ⑧「再び台湾事業公債を難ず」(32年3月3/6/9日)(『全集』②、583∼91頁) ⑨「台湾当局の地位安全策」(32年6月8日)(『全集』未収録) である(3)。. 豆 『台湾日報』と内藤湖南 内藤湖南(虎次郎)(慶応2:1866∼昭和9:1934)が台湾に滞在したのは、明治30(1897). 年4月から、翌31年(1898)年4,月の僅か1年ほどの;期間である。この時期湖南は、当時. 台北にあった『台湾日報』の主筆として招かれ、いくつかの論説を執筆している。また、. 帰国後も、『万朝報』及び、『大阪朝日新聞』に、台湾問題に関する記事を執筆。後 の中国(清国)に関するジャーナリスト、文化史観からの研究者としての、いわば原点に 当たる時期である。. 日清戦役での輝かしい勝利によって、日本は台湾・膨湖諸島を新領土として獲得し た。多額の賠償金と共に、台湾は戦勝のいわば象徴であり、直後の三国干渉の屈辱によ り、是が非でも死守しなければならない尊い代償であったのだ。しかし、直後の熱気も. 間もなく冷め、一向に内地化も進まず、台湾は帝国の財政を圧迫する金食い虫、という 厳しい論調が、新聞雑誌の各号を賑わす様になる。そうした頃に、湖南は渡蝕して行く のである。. 内藤湖南は、第3代総督乃木希典、民政局長水野遵・曾根静夫、第4代総督児玉源太 郎、民政局長(後民政長官)に接する機会を得た。当時、台湾統治は様々な問題を抱えて いた。. 1、土匪の抵抗、 2、阿片問題、 3、財政問題、 4、産業育成、など である。. また、統治機構内部の腐敗・汚職も深刻で、その摘発を指揮していた台湾高等法院長の. 高野孟矩が非職され、引き替えに曾根新局長が誕生した。この事件は大きな反響を呼 び、乃木総督も結局帰国する。. 『内藤湖南全集』第2巻383∼84頁(以下、『全集』②p383∼84等と略記する。また、 読者の便宜を図るため、基本的には現代文表記を採用した。)所収の、『台湾日報』最 初の論説文は、 「須らく誤解を正すべし」である。. 意ふに内地に在て当惑の娘形を語る者、大抵かの割取の当時、軍隊と同じく来り、 留まること短きは二三,月、長きも半年乃至一年にして帰りし者、若くは其の身体虚. 弱にして台土の風土に堪へず、疾患を得て帰りし者、其の衛生慎しまず、酒色を貧. 一19一.
(3) 諭し、悪馬に感染して帰りし者、品行正しからず、職事理らず、糊口の資を失ひて 帰りし者、十の田畑なり。……其の台土に在りて、或は疾患、或は行事、意を得ず して帰る者が、口台辞を称揚するを得ざるは、勢の自然なり。凡そ内地人が台土の. 気扱を親しく聞くことを得るの人は、概ね此の如き類なり、……事を為す者、枢機 に当りて案を立つるは㍉器落馬偉の人に宜しく、其の下成規を奉行するは、淳良勤 勅の人に宜し、其の宜しく惇良なるべきの地位に在る者が、動もすれば行険の徒多. はジ し、台政壊頽の一因、此に存せずとせず、而してかの淳良の人をして此に来るを重 からしめざらんと欲せば、亦台密の住み易きを知らしむるより急なるはなし。 まず、ジャーナリストらしく、台湾に関して正しい知識が提供されなければならず、. 同時に台湾で実務に携わる少壮の官吏や技術者に、人材を得ていない点を憂慮してい る。間もなく初代民政局長水野遵が、離任することとなった。当時台湾総督府を巡る 汚職案件や、土匪蜂起に関し、鎮圧部隊が法規に拠らずして苛烈な焼き払いや殺鐵を 行ったこと等が相次いだ。これに対し、高等法院長高野面矩が摘発に乗り出し、世上 に格好の台政批判の材料を提供していた。いわば、これらの責めを負う形で事実上更 迭されたのだが、 「水野前民政局長を送る」と題された7丹24日付けの一文は、日清. 戦争後の下関条約に基づいた領台以来、抵抗軍の鎮圧、統治機構の新設など、困難な 状況下で3年の長きにわたり初代民政局長を務めた水野に対する饅の言葉であり、労 をねぎらう内容であり、水野個人は責めず、逆に政府方針の不定見を批判した内容に なっている。. 次に具体的な「台政批判」を検討してみる。 「変通なき一視同仁」では、. 台湾の施政に根本の謬見あり、変通なき一視同仁内心なり。……小児を愛して、其 の成長を速やかにせんが為に、直ちに成人と同様の衣食:居処を取らしめば、彼れ量 堪ふることを得んや、偏れ孟子が所謂宋人の苗を敵て助け長ずるの説なり、・…・・台湾. 民政の当局にして、其の所謂領土政治を完成するといふを以て、かの文明流の政治を此 土に施行するに在りと解するが若きあらんか、吾輩は断じて謬見と為さゴるを得ず。……. 今一視同仁の経営は、則ち動もすれば其の恵政を布くの美名を藏得せんが為に、此の 最大目的(本国に於ける剰余の人口を溢出せしめ、其の本国に出て興し難き産業を興起 するに在ること:筆者)をも犠牲にし、而して其の美名に殉へんとす、此も亦校務署事務の. 整理(予算不足から全体の六分の一しか設置されていない実情:筆者)と同時に、必ず当 さに一大事件となるべき事件なりとす。……. とあり、なまじ「近代的」な統治制度を画一的に導入していくことが、かえって民心 の動揺を来たし、騒擾の根本的原因となっていることを、鋭く指摘している。ここか ら、本来の自治制度を通してこそ、民心を得た統治が可能となる、という湖南の根本 的な中国理解の一端が提示されていくのである。その後の論説でも、同趣旨の所論が 繰り返されている。. ,『大阪朝日新聞』時代以来、湖南の一貫した論調は、薩長藩閥政府の有司専制に対す. る強い憤りであり、そこから来る社会的不正義・不公平に対する鋭い批判である。それ は、湖南の家系が戊辰戦争で薩長勢力と対峙し、賊軍の立場に置かれた南部藩の重臣桜. 庭家に仕える儒学者であった事による。内藤家の学統は朱子学ではなく、折衷学とい. 一20一.
(4) われる。秩序維持・体制擁護の為だけのイデオロギーに汲々とせず、祖父内藤天爵(仙. 蔵)の頃から特に経世済罠の指向を深めていったと考えられる.生母容子の実家泉沢家 も、内藤家と共に有名な学者の系統であった。また、物心ついた時から、父十湾(調一). から漢学の手ほどきを受けると共に、自由民権運動の息吹を感じながら育った世代で あった事とも無関係ではあるまい。 その後、8月には「交通機関拡大の急務」や、 「台湾政治の大目的」(一)∼(四)、 「台. 湾施政の革新」といった現実的な建策・批判が相次いで草されていった。一つ目の「交. 通機関拡大の急務」では、交通機関を神経系や脈管に讐えている。清朝統治下に於い ては、道路橋梁といった社会資本整備が未着手であったが、台湾が独立した経営を維持. していくためには繁密なる行政網を整理縮小し、その浮費を道路修築等の土木事業費 に充てるべきであることを力説している。また、人民も例え田盧や自記が移動しても不 平は少なく其の便を寧ろ喜ぶであろう事、諸葛亮が蜀を治めたのも法治と道路橋梁を 修整したからである、と例説している。二つ目の「台湾政治の大目的」では、 「之を要 するに日本が台湾の土を領し、台湾の民を得る所以の者は、其の天慶の寵命を享けて、 台湾の土:宜を啓発し、天物を完好にし、天職を奉行するにあり……」、 「吾輩は断じ. て言ふ、台湾の政治、外来内地人の利益に大なる顧念を費さゴるべからず、内地風の 政治を施して成功あらしむべき基礎は、之を内地人のうえに建てざるべからずと。」 等と述べ、あくまで本国のための台湾開発であり、経営であると力説する。 「台湾施 政の革新」では、 「一画の経営を完配せんとすれば、其の方塞の礎定に須たざるを得. ず、……吾輩が所謂台湾経営の大根本とは、即ち此の一定の追継を指す者にして、其 の病弊の大根祇とは即ち此の造意の立たざるを謂ふ也。」と、台湾統治の根本問題が、. 個々の対症療法的な施策にあるのではなく、一貫した統治方鍼の欠如にこそある、と 指摘している。曽根新局長への箴言のあと、 「明治三十一年の台湾」では、初めて同 時代の清朝の虚血亮(熾)・張之洞・歯鏡清・陳其元等の識者の言を引きながら、地政 学上の位置を示し、その経営の必要性を累嘱している。. そして、いよいよ児玉新総督・後藤新民政局長との短い共棲期間を迎えるのだが、 ’『台湾日報』での論説は、「新当路者の性情を臆断すjの後は、「革新雑石」(一)∼(七). で終止符を打つ。前者では、 「山尽きて水開く、窮屈なる乃木総督、気六ヶしき曽根. 民政局長は去りて、開翻なる児玉総督、当落なる後藤民政局長は来れり……。吾輩は 断言す、児玉総督にして失敗せぱ、其の実際的にして余り通なる性情よりし、而して 後藤局長は亦其の抽象的にして自ら抽き出せし原則の外、人言を耳に入れざる処より せんと……。吾輩は二氏に属望する所は、特に其の才の規制ある計画、秩序ある進歩 を台政に与ふべきに適せるを信ずる耳……。」とあり、一応両者に肯定的評価と期待 を示した後で、両者の性情に触れ、何を期待するかを述べている。同時に、一旗組、. 濡れ手に粟の僥倖組をも厳しく戒めそいる。後者「革新雑識」は、湖南の台湾統治論 の集大成とも言うべき内容である。その章立ては、. 一、官吏淘汰、 二、地方行政の組織、 三、移民に対する措置、 四、司法制度 五、財政の措書(上)、 六、財政の措豊(下)、 七、劉匪撫蕃の方略. となっていて、七日間にわたる大論文である。緊急性を要し、先ず着手すべきものか ら順次説き起こしている。以下、長文になるがその主要な部分を引用する。. 一21一.
(5) 一、官吏淘汰:. 台湾統治に就て、多少の幽思を画くる有識の議論は、大抵一致するを見る、曰く成 るべく旧貫に遷り、指扇なる行政によりて、実益ある方法を用みるに如くはなしと。. 総督府をして、駿才を招で奇功を収めしめんと欲せしめんには、議者の常々言ふが 若く、其の俸給を裕かにし、寧ろ其人員に減殺して、其の処務に敏愚ならしむも、 亦必要なるべし。……先づ用人一端を以て、其の新政の第一着とせんことを望む、 是を官吏淘汰宜しく行ふべしと為す。 二、地方行政の組織:. 蓋し当初民政局の方鍼は、成るべく行政区画を狭小に細分して、其の施治を 周密ならしめ。以て速かに化澤の浸潤を望むに在りしが如し。……吾輩は当局が果 敢:に簡僕なる措置を取るの方鍼を以て、擬文明的なる制度を廃撤し、法務署、警察. 署の合一を図らんことを切望す。……心念務署の委任権限を大にし署長と参事とを して、其の地方に於ける百般の料理に責を負はしめて、虚血制度は勿論、或る程度 までは非常臨機の処分をも許し、其の下に管轄せらるる街庄長の如きも、同じく其 の責任と権限とを拡大して、一方の治務を負担せしむるを可とす。台湾の行政は、 警察制度より要なるはなしとは、議者の毎に言ふ所なり、吾輩は之を拡めて真直署 警察署の合一を首長せんとするのみ、亦清国旧制の県治、出面、刑名、兼ね管する. にも鑑みたるなり。… 三、移民に対する措置:. 移民に対する措置も、亦行政上の問題たるべし……。(内地人と土人との混処は: 筆者)眠れ決して希ふべきの事に非ず。さりとて少数なる内地人に徊へて、強て擬 文明的行政を新領±:に敷きしは、従前失敗の基因たることは、前已に論ずるが若し、. 吾輩は此に於て内地人居住地域劃定の必要を主張す。……吾輩はかの無限の富源た る生蕃界の墾拓を以て必行の事業とし、而して之が方策は則ち屯田組織より善きは なきことを信ず。… 四、司法制度:. 地方行政組織と、移民方略との決定は、同時に又全島司法制度の決定たるべし、吾 輩は先づ土人に対する司法制度の設備を按じて、現在制度の極めて不適当なること を知る。……其の法律の若きも、文明的施設の地域が、宜しく内地同様、一般法典 の恵沢を被るべきは勿論なるも、旧貫跳出の地域に至りては、姑らく不成文律とし、. 文明国立法の原理に参するに、清国法律の判例を以てするも、亦極めて時宜に合す とせんか。 五、財政の虚血(上)=. 心添の整頓せる邦国に在りても、財政の臨書は、為政者の尤も心を苦しむる所なり。. ……蓋し清国時代に在りては、台湾が海外に孤幽して僻遠新附の隔たるを以て、務 めて之を白丸し、其の租税の若きも、漫に増徴して以て昆心を擾動せしめんことを 避けたり、故に其の清国他地方に比して、旧より軽税の地たりしなり。・一・ 吾が版図に入るに及で、一意繧撫に急なるの録、又百貨萱金、監魚油を廃撤:し、…. ・。然るに写れ実は歳計上の成算ありて之を三民に約したるにあらざるを以て、… …財務の当局者は、頗る歳計の前途に苦慮し、而して未だ歳入を増加し、予算の根. 一22一.
(6) 拠を謡うすべき適当の方法を得ざるが若し。一… 吾輩が既に論述せる所に従て、行政組織を縮小せば、之に要する費用を減殺するを 得べきことも亦言を待たず、更に徴税法を簡便にして、姑らく旧貫に従はゴ、又冗 費の支出を減じて、之を必需の支途に転ずることを得べし。清国時代に在りては、 徴税の事は自治体なる下級行政部に委任して、一二数名の吏員は、安座して其の成 功を承受せるを以て、費す所極めて少く、入る所の大部分は、之を一品院の出鉱に 納れて其の需用に供することを得たり。…… ?昧荘漠たる台民の富力に賦課するは、勢ひ暫らく旧貫に停りて、保甲自治体の受 負事業に帰し、以て徴税費の減少を図り、漸次に地籍其他民度富力を調査し了する を待つに若かざる耳。 六、財政の措書(下)1. 次に講究すべきは、人民の煩累を滋さずして、増税を行ふこと得べきや否やに在り、. 全島八十余万円の地租は、固より軽きに失せりと錐も、土地の丈量を為さずして、 遽かに其の税率のみを増加せんは、民心を擾動ずるの患あり、軽しく手を下すべか らず、宜しく先づ±:地所有沿革の跡を精査して、地籍を確定し、人民をして増税の. 至当を自ら認めしむるを得て、而る後に処分せざるべからず。…… 但だ吾輩が最も便法と思惟するは、県庁、辮務二等に於ける委任の権限を拡張し、 地方税の徴収を許して、此等官衙の庁費、庁舎建築、道路河川の修築、教育、衛生 等の設備に関する費用を支弁せしむることなり。…… 要するに亦其の地域狭小に、上意下達し易き者ありしなり、其の法を以て遽かに之 を天下に施さば、敗豚せざる者少し、王安石の新法、嘗て州県に敷ありて、天下に 敗れたるを観て知るべし。……抑もかの縦貫鉄道の若き、築港の若き、大事業に至て は、固より此等と同一にして語るべからず、之を議会に諮り、総督府の事業として、速かに. 経営を了へんことは、最も当局に望む所、而して台湾歳計の縮小、国庫補助の減殺は、 亦此等の事業を議会に諮るに於て、有力なる一要因たるべし。又阿片収入の若き、忌辰 を以て法の精神とせるより来る者は、之を経常収入に系属せんこと、宜しく避くべきに似た. り、此を以て全島衛生工事、教育普及等の資に充てば、其処を得たりとせんか。……. 七、剃匪撫蕃の方略:. …意ふに此等の匪徒は、其の絶滅を見んことは、歳月の敷を期すべからずして、. 必ずや制度施治の整頓に待たざるべからずと錐も、若し制法の機宜に適するあら ば、二大に其の患害を減ずべからざるにあらず、而して議者が、往々聯庄堅甲の法 を建て、街庄自衛の策を講ずる者、亦耳を傾くるの価なしとせざるなり。……かの怨. 恨を招くは毎々土匪討伐の際、若くは憲兵警官が、誤て良民を横殺し、捕逮する等 に志するが若くなれば、此弊にして減ぜぱ、民心の繧服を得んこと、益々多望なる. べし。然らば則ち保甲の制を立て、芦品銃器を自衛の団体に付与して、かの匪徒の 跳梁に備へんこと、必ずしも患ふべき程にあらずして、反て一時の便法とすべきに 近からんか。……日夕輻ち起る聚落村市間匪徒の一丸剰絶は、かの保甲をして責任 を帯びて之に当たらしめんこと最も今日機宜に合せりと為すべし。…… 撫蕃の策に至りても.、前清国の時より隆丁屯田の法、既に尤も敷功ありしが若し、. 且つ樟脳業の若きも、此に由りて発達せしが若くなれば、宜しく参酌する所あるべ. 一23一.
(7) し(4)。. 以上の『台湾日報』の諸論説を通読して気付く点は、かなり大胆な「台政批判」、. つまり総督府に対する批判が許容されていた、という事実である。づまり制限付きで はあっても言論の自由が存在しており』 iもちろん、読誘律・新聞紙条例といった言論 統制の諸法律は、台湾でも適角されていた。)‘、この事に先ず意外の念を抱かされる。. 次に、後藤新平(安政4:i857∼昭和4:1929)による、台湾統治の基本方針「台湾統. 治救急案」※(31年1月25日)。井上馨蔵相宛の主要な大部分を、次に引用する。 (a「∼「kの区分は、筆者). a……台湾行政中最モ改良ヲ要スル重ナルモノ如何ヲ問ハゴ、従来翁島非存在セシ 所ノ自治行政ノ慣習ヲ恢復スルが如キハ、蓋シ其急務中ノ最急務ナルモノナラン。. b其レ台湾人民ハ、久シク清国政府二於テ当外ノ民トシテ放任セラレタルヲ以テ、 其文化ノ程度二比スレバ、却テ其自治ノ制鼠壁クベキ発達ヲ為セリ。即チ塁壁街着. 等自治自衛ノ旧慣習見ルペキモノ歴然タリ。此等ノ各自団体二於テハ、其方法ノ今 日ノ学理二適スルト否トハ暫ラク措キ、警察裁判、土兵、収税ノ方法等二至ル迄、. 一トシテ備ハラサルモノナシ。此自治制ノ習慣コソ、台湾島二於ケルー種ノ民法ト 云フモ不可ナシ。 c然ルニ当局者之ヲ察セズ、勿卒ニモ此制度ヲ破壊シ、漫リニ新法令ヲ発シテ、徒 ラニ外観ヲ装フニ急ニシテ、深ク民性ノ特徴ヲ顧ミズ、直二以テ急進的文明ノ政ヲ. 施サントセシバ、施政ノ方針ヲ憲リタルコト謂ハズシテ明ナリ。故二台湾行政改良 ノーハ、之ヲ旧二復シ、総督府ハ専ラ行政監督ノ任三帰シ、漸次其弊アルモノヲ改. 良スルノ策ヲ採ルニ在リ。此ノ如クスレハ、事簡ニシテ其実敷ヲ奏スル事、現行制 度二勝ル万々ナルヲ信ズ。 d然うバ総督府ハ如何ニシテ行政ノ監督判任スベキカ。蓋シ行政ノ事タル、其性質. ノ差異二依リ、其分科モ亦異ナラザルベカラザルハ論ヲ侯タズト錐、之ヲ台湾ノ現 況ゴ徴スレへ其最モ主要ナルモノハ警察制度ノ確立ニアリ。而シテ其所謂警察ハ、 今日ノ警察ニアラズシテ、第十八世紀以前ノ警察、即チ広義ノ警察組織ナルヲ要ス。 e既二台湾施政ノ方針ヲ、広義二於ケノレ警察組織ト為ス以上ハ、裁判事務ノ如キモ、. 第一審ハ警察署二於テ是ヲ実行セシメ、其覆審ヲ要スルモノハ、台北二覆審官衙ヲ 設ケ、全島各地ニハ期ヲ定メテ判官ヲ派シ、巡回覆審裁判ノ組織トナサバ、経費ヲ. 要スルコト少クシテ、其目的ヲ達スルヲ得ベシ。…… f人或ハ警察官ヲシテ裁判官ヲ兼ネシムルヲ難スルモノナキニアラサレドモ、是レ 所謂式二拘泥シテ実二迂遠ナルモノナリ。台湾今日ノ文化程度ヲ以テスレバ、警察 官ヲシテ裁判官ヲ兼ネシムルモ、其人ヲ得ルトキハ、決シテ弊害アルコトナシ。一 従来台湾二於テハ、下級行政区、即チ墜庄二兵制アリテ丸土匪防禦ノ事二当タラシ 翻転ルモ、此ノ如キ転置之ヲ憲兵、若クハ純然タル軍隊ノカニ委任スベキハ勿論ナ リトス。其他憲兵巡査ノ配置、並二其職務権限二関シ、種々ノ説ナキニアラザルモ、. 是亦地方ノ状況二因テ決スベキモノニシテ、明りニ概括的ノ断定ヲ下ス能ハズ。而 シテ、各地方ノ状況二関スル細目ハ、事繁雑二流ル\ノ虞アルヲ以テ、薙二之ヲ論 ゼズ。. 一24一.
(8) g尚ホ地方行政中改良ヲ要スベキモノハ、地方高等官ノ数ヲ減シ、官等ヲサゲ、之 ト同時二俸給ヲ厚スルコト是ナリ。知事ノ如キモ台北台南ノニ県ヲ勅任トシテ可ナ リ。而シテ右二県知事ト錐必スシモ勅任トナスヲ要セズ。然レトモ蛮姻瘡霧ノ間前 出テ身ヲ不時ノ気候陸処スルモノナルが故二、其俸給ハ十分支給スルノ制ヲ設クル ヲ要ス。…. h地方庁既二此方針八津ルモノトスレバ、中央庁即チ総督府、豊二唯リ多数ノ高等 官ヲ置クノ必要アランヤ。漫リニ多数ノ高等官ヲ置クハ、1事務ノ敏活ヲ計ル所以ニ. アラズ。徒ラニ官等ヲ高級ナラシムルハ、権衡ノ宜シキヲ得タルモノニアラズ。現 行の制度ハ頗ル過大二失スルノ嫌アリ。…… i台湾ノ統治ヲシテ其完成ヲ期セシメント欲セバ、本国政府ハ成ルベク其施設二干 渉セズ、其全権ヲ総督二委任シ、総督府ヲシテ自動的活動ヲ為サシメザルベカラズ。. 而シテ之ヲ為サシメント欲セバ、勢ヒ台湾ノ財政ハ総督ニ一任シテ、急劇二任セシ ムルヲ要ス。而シテ同心ノ財政ハ、蓋シ公債二心ルヨリ良キハナシ。乃チ台湾公債 ヲー億乃至一億五千万円迄トシ、日本政府比論テ一定ノ利子ヲ保障シ、外債トシテ 募集シ、鉄道、築港、水道、下水、兵舎、砲台ノ築造ヲ初メトシ、支那沿岸ノ航路 ヲ拡張シテ、輸出入ノ便利ヲ計り、以テ需用品ヲ低廉二得セシムル等ノ経費二充ツ ルヲ要ス。…… j拓殖ノ要項、専ラ民情ヲ斜酌シテ、其方針ヲ定メザルベカラズト錐、之力拓殖事 業二至リテハ、挽近ノ科学的政策ヲ採ルヲ要ス。乃チ第一二鉄道、郵便、電信、汽 船等ヲ初メトシ、道路、治水、水道、下水、病院及学校設置ノ方法等ヲ講ズルニ在 リ。次二殖産工業税収等ノ改良二著手スベキナリ。然ルニ総督府施政ノ跡ヲ見ルニ、. 民情ヲ察スルニ敏ナラズ、且ツ挽近ノ殖産方針、乃チ科学的政策ノ効果ヲ利用スル ノ勇ナク、一歩バー歩ヨリ土民ノ心ヲ失ヒ、其自治ノ良習ヲ破壊シテ、之二代ルヘ キ新政ノ効果ヲ得ルコト能ハズ。文明的ノ法令ヲ敷クハ可ナリト錐、人民未ダ旧慣 ヲ脱セズ、所謂水煮伝的遺風アルヲ如何セン。此人民二臨ミ、母国ニダモ行ヒ難キ 繁雑ナル新政ヲ施サントス、抑々出過テリ。墨庄自治ノ破壊ト共二、塗庄ノ自治費 モ亦国庫費ヲ以テ支辮セザルヲ得ズ。其経費ノ多キニ堪ヘズ、其事務ノ繁二堪ヘサ ルハ、固ヨリ理ノ当然ナリ。而シテ其官吏ハ経験ナキ書生、又ハ新聞記者ニアラザ レバ、母国政府ヨリ排斥セラレタルモノ、其多キヲ占ム。其土匪ノ反抗、外人ノ苦 情、土人ノ蔑視ヲ招クガ如キ、北見易キノ理ナリ。…… k之ヲ要スルニ、台湾統治ノ策ハ左ノ数件アルナラン。 甲、盤庄街社(郡市町村)等ノ旧来ノ自治制ヲ恢復シ、並二之ニヨリテ、国庫ヨリ 支. 出スヘキ行政費ヲ減少スルノ道ヲ講ズルコト。 乙、警察制度ヲ改正シテ、広義ノ警察制度ト為スコト。. 丙、司法制度ハ巡回覆審法ヲ設ケ、本国ノ大審院ヲ最終ノ裁判ト為スコト。 但シ最下級ノ裁判ハ警官ヲシテ之ヲ行ハシムルノ制度ヲ設クルコト。 丁、地方高等官ノ設置ヲ内地ノ制二曲フコトヲ廃シ、更ラニ繁ヲ去り簡二就クノ制 ヲ定ムルコト。. 戊、台湾中央政府、即チ総督府ノ官制ヲ簡単ニシ、官吏ノ支給ヲ厚クスルト同時二 官階ノ高級者ヲ減少スルコト。. 一25一.
(9) 己、外債ヲ募り、挽近ノ拓殖方針、即チ科学的政策ヲ採り、其ノ実施方法ヲ講ズル コト。. 庚、阿片ハ少ナクモ今後三、四十年間ハ、台湾二於ケル有力ノ財源ニシテ、所謂毒 ヲ以テ毒ヲ制スルノ政策ヲ採り、財政整理ノ資料ト為スベキコト。. 辛、鉄道、築港、水道、下水道等ヲ敷設シ、支那沿岸ノ航路ヲ拡張シ、以テ利用厚 生ノ道ヲ図ルコト。. 壬、外国新聞、例言香港「テレグラフ」支那「メール」等ノ類ヲ利用シ、台湾政策 二賛成ヲ表セシメ、之ヲ漢宇新聞、又ハ台湾新聞二翻訳セシメ、大二土民ノ思想ヲ 喚起スルトキハ、之ヲ化スルノ便ヲ得ベキコト。. 以上は、後藤が内務省衛生局長時代に井上蔵相、伊藤総理等に提出した意見書であり、 これにより、台湾総督府の民政局長を拝命することになったのである。(鶴見祐輔『後 藤;新平』第1巻、語草書房1967年pg12∼18) 皿 『出血報』と台湾問題. 帰国した内藤湖南は、五月から『心意報』の論説記者となった。当時の『萬画報』は、. 社長黒岩涙香の下、廉価と政財界の著名人等を対象とした暴露記事で人気を博し、東京 で最も発行部数の多い新聞であった。論説陣の顔ぶれも、幸徳秋水、内村鑑三、田岡嶺 雲等を揃え、やや遅れて堺利彦も加わっている。そして、痛烈な藩閥政府批判が売りの. いわば大衆紙であった。この点、比較的裕福な実業人を読者層としでいた一纏諭吉の 『時事新報』や、部数は少ないが、固定した読者層を持ち、硬派の政論紙であった陸勲 記の『日本』とは、明らかに性格を異にしていた。ここで湖南は、中国に関する論説を、. 多く世に出すわけだが、他にも内政問題を扱った論説を、かなりの数執筆している。正 教社時代以来、最も舌鋒鋭く藩閥政府批判を展開している。その論法は、直線・曲線・. 斜線と、様々な形態が見て取れる。「はじめに」で紹介した論説一覧が、直線的理解の 最たる者である。その他、対岸の福建の地政学を論じ、外交関係や安全保障の観点から、. 間接に直線・曲線的に台湾を論じたものがあり、国政上の財政問題の観点から、台湾 を論じたものがある。また、同じく国政上の政治腐敗を扱ったものもある。加えて、清国. の変法運動を段階的に捉えて、長期的な展望で見守るべき事を唱えた一連の論説があ る。. 先に比較した様に、湖南の「革新雑議」と後藤新平の「台湾救急統治案」とでは、表 面上そう大した違いはなく、後藤も寧ろ台湾統治上の問題点を、ほぼ正確に把握してい る。後藤は、従来からの旧慣を利用して、保甲制度によって円滑に島民を統治し、その上 で土匪の帰順を促し、道路・鉄道・港湾などの社会資本整備を行おうとするものである。 鶴見祐輔『後藤新平伝』によると、後藤がこの制度に思い至ったのは、清代の官回書、. 黄鴻六の『福恵全書』に、保甲の項があるのを見たときである、としている。対して湖 南は、多くの漢籍に親しみ読んでいく中で、郷団による自治こそが、中国社会の安定、. 今後の発展への要である、との結論に達していった。そしてこれらは、明末清心以来 の経世思想家の大きなテーマでもあり、清末の変法運動の担い手、例えば陳熾の『庸書』. 郷官の項などから、湖南も度々引用している。また、太平天国の乱時、曾国藩が郷土防 衛の為に組織した郷勇も、郷団の防衛の為の組織なのである。次に、湖南が『萬朝報』. 一26一.
(10) 時代に著した論説を分析し、当時の彼の関心事に照明を当て、何を問題としてそれをど う批塾したかを、稽詳しく述べてみる。. まず、 「蚕纏近日の失措」から、湖南の論調を拾い出すと、以下の様になる。「現在. の台湾総督と民政長官との初政は、大に従来識者の立議に採択する所ありて、其の鋭 意革弊の挙、人をして称賛措かざらしめ」ている事、 「総督府が開諮なる籠翠手段に. よりて完全なる機関新聞を置」いた為、内閣の交替(第1次大隈内閣から第2次山県有 朋内閣を指す:筆者〉も、返歌には影響していない。しかし、 「土匪招降の一段に至り. て、寛に大破綻を生出せしをや」と、台政安定に欠かす事のできない土匪招降が順調 に進まない点を指摘する。そこで、「…彼地新聞紙の如きは現に総督府の機関たれば」. 其の記事は当然粉飾が多いが、さすがに全くこれを陰弊する事ができずにいる、とす る。ここで彼は稽慎:重な表現で、誇大に世人の耳目を驚かす様な報道はしない、と断っ ている。「然れども台輪の当局は少くとも其の情義の点よりして」、養済堂が未復興で、. 窮民救済が不十分であるのに、却って劫掠行兇の匪徒を赦し、職業まで与えるという 「顛倒見たるを自覚せざるべからず」、盗まずして窮し、遂に行路に痴れる者は済わ れず、反って窮して盗み且つ殺す者は、その後に於て生計を授けられている。つまり、. 治者たる台政当局は、斯様な勧懲の方を施しているが、これは「若し政治面の歯面者 たらずとも猶ほ人道の罪人たるを免かる能はざる者なり。」と、人道的な面から失産 を指摘する。次に、「土匪招降策」については、一定の評価を与えた上で、「但だ此の枢 区駐屯、全島患連の守備法は、かの保精血勇法の完備と相待て、始めて其の敷を奏す べき湿たり」と、警備体制の万全を期した上で、保甲制度との連繋により十全な効果 を期待できる者である。逸るに、保甲制度が未確立なのにも関わらず、乃木総督時代の 三段警備を変更してしまった事は、清国時代の旧俗よりも不安全なる事甚だしい、と問 題点を指摘する。また帰順約定の時、匪首警護の匪徒が銃を民政長官に向けた事、招降. の後、匪徒の兵械を収めず、護身用の名目でその携帯を許した事などが、あらぬ風聞 を生んだ、とする。. 「再び庶政の失措に就て」では、児玉・後藤が共に豪宕の風を備えているが、極めて. 細心緻密に新聞対策を施している事、具体的には「独りかの地の二新聞社を買収し、. 之を合一して完全なる機関新聞と為せるのみならず、内地新聞に至るまで、金を散じ て予じめ其の攻撃の路を柾げりとさへ伝ふる者あり。」と、彼らが巧妙な新聞懐柔策 を施している事を批判している。. 「三たび台政の失措について」ここでは、後藤民政長官が、帝国議会の予算委員会で、. 暗に『萬跳動』の湖南の論説を名指して、事実と異なる批判をした事、また、機関新 聞の記事が、漢文記者は大抵台湾人で、日本の法制度等に通暁せず、判決前の斬鐵も、. 逃脱を図った由の処置であるとの総督府の附会を見抜けず、罪定まりて謙に伏せり、. と記している事、邦文記者も、大抵学術粗略で、原文を細かくそのまま刊行し、かえ って人の指摘に遭っている、とその内実を細述している。更に、後藤民政長官が「言論 を尊重し、反対雑誌の存在を認めている」とする根拠の『台湾商敵』は機関新聞社で印 刷し、また機関新聞社の社員が設立計画したものであり、『高山国』は台湾ではなく東 京秀英舎で印刷している事など、誕妄の例を幾つも挙げている。また台湾守備軍を投入 して生蕃討伐を実行したが、これは速効を期せず、劉銘伝の時の「隆勇隆丁」(屯田し. 一27一.
(11) て、漸次蕃界を減少させる策)の実行以外に妙策は・ない事、また、拙速に人々に収入を. 上申させ、直ちに賦課した為、頗る税額の軽重を来たし、為に民心を失い、騒擾を醸し た事も挙げ、最後の例は、中央政府の歓心を迎える為の忍受であるとし、帝国議会での 厳正なる監督を望んでいる。. 「四たび台政の失措に就て」ここでは、台湾総督府が、.降心簡大隠を再討伐する事. に決した事態を受けて、土匪招降の失態と断じている6その簡大濠討伐も、機関新聞が 記事を誇張して鎮圧の大功を奏しているが、その実首魁臨画獅は遂に逃遁しており、捕 獲できなかった事を指摘する。集中台南においては、土匪が獄蕨しており、幽幽署等の 行政機関も殆ど機能していない事、良好と伝えられる地方税収入も、台北が予算を超過 しているのみの実態に触れている。諸税では、証悟のみが予算を超過しているが、それ. でも清国政府の時代より少ない見積額である事を指摘する。そして、台民の反対は、人 々が地方税の負担に堪えられない所から来るのに非ず、賦課の公を得ざる事に由り、決 して人心悦服の表徴とはなっていない、と世人への理解を求めている。これら四篇の論. 説は、「台政の失命」という共通の見出しで書かれている。稽「春秋の筆法」的な見方 になるが、湖南は寂滅全般の失政とは捉えておらず、措置を誤った点への批判であり、. その意味での軌道修正を求めているのである。いわば「正名論」とでも呼べる様な見地 からの提言であった。. 今度は、少し視点を後方に退いて、敏局の推移」という観点から捉えてみる。明治 31(1898)年11月・に、準政党内閣とも言える大隈(隈板)重信内閣が崩壊、第2次山県有. 朋内閣が成立した。山県は、周知の如く超然主義の中心人物であり、中国での戊戌変法 に対しては冷淡で、為に日本に身を寄せていた康有為は国外に退去させられている。こ の時期、湖南の論説は、清国の変法に関するものと、目本の内政に関するものとを、交 互に並行して執筆している。概して、清国の変法に関しては好意的だが、内政問題の一 環としての議政問題に関しては概ね批判的である。後者については、当時の各紙新聞論 調とほぼ同一画面を取っている㈲。時恰も財政難による地租増徴案が日程に上り、台湾 関係の予算も、その成立の可否に大きく関わっていた。「民力休養」は帝国議会設置当 初からの、民党の一貫したスローガンであった。政党勢力側にとっても、建前上は増徴 に賛成できなかったが、事情はそう単純ではなかった。地租は、地価の25%に固定され ており、金納であった。逆に米価は高水準が続いていた。一般に小作料は米による現物 納であって、地租担税者の比較的富裕な地主層には実質的な減税が続き、好況が続いて. いた。前々内閣の第3次伊藤博文内閣時の6月に、地租増徴案が否決され、7月に第1 次大隈重信内閣が成立したが、予算編成をすることなく短期間で第2次山県有朋内閣 に交替していた。議会で多数を占める民党としては、増徴案を否決し続ける事はできた が、他の財源確保の目途は立っていなかった。憲政党(旧自由党中心)は、農村部が地盤 で、増徴案今の賛成には困難が予想された。憲政本党(旧臣新党中心)は都市の商工業層. が地盤で、逆に商工業への間接税を警戒していた。憲政党は、“押し通る”と緯名され た野心家星亨の強引な党運営の下、山県内閣の与党となり、当初の3.7%を33%に下方. 修正し、しかも5年間の限定増徴と5年間選挙を実施しない事を条件として、31年12月 末に地租増徴案を成立させた。地主層に対する国民の不満の高まりと、実際の担税負担. 能力、憲政党の面子や影響力等を天秤に掛けた、文字通り妥協の産物であった。とこ 一28一.
(12) うが、直後の32年3月、山県は政党勢力の浸透を嫌って突如文官任用令以下を改正し た。為に激怒した憲政党は与党を離脱した。こうした一連の権力をめぐる.“茶番劇’1に 対し、湖南は・『萬朝報』論説を代表して、政府批判を展開していくのである。. つぎに、 「台湾事業公債」という連載論説を分析する。この「台湾事業公債」におけ る湖南の論旨は、以下の如くになろう。後藤民政長官は、当初六千万円(内訳二鉄道三千 万円、築港一千万円、土地整理一千五百万円、庁舎建築四百万円、台北給水一百万円). を計上しながら、その説明責任を十分果たさず、議会通過の為に急遽土地整理千二百万. 円、築港八百万円を減じ、四千万円へと規模を縮めた姑息な修正案を採ろうとしてい る、と先ず一貫性の無さを追求する。.そして、その内容については、滞台一年の経験 と、かつて自ら健筆を揮った得意の分野であり、地勢や民情について、逐一論証を加え ている。つまる所、台湾事業公債の基礎的部分は“本国”日本かちの財政支出であり、. 国民はその税金の内から台湾統治に対して少なからず拠出している。総督・民政長官以 下の総督府の統治であれ、更に上級機関の拓殖務省の統治であれ、日本政府の一機関が. 台湾植民地を統治している事に替わりはなく、台湾に対する財政支出の原資を国民か らの税金で担っている構造には何ら替わりはなかった。その国民に対する説明を、支出 ・歳入の両項目について、議会の場で十分にかつ明朗に尽くせ、と後藤民政長官に対し て迫っていくのである。. 支出部門の根幹は、三大支出項目、即ち鉄道敷設費、築港費、土地調査:事業費である。. 先ず、鉄道敷設費について。現時点では、言うならば先行投資であり、例え主要区間が 完成しても、300万台湾人の利用は極めて限られ、収益率は上がらず、寧ろ対岸の福建諸. 海港や香港向けの行路拡張の方が利益事業である事や、淡水河・大甲渓・濁水渓等治水. の必要な険流が数多く存し、堤防・橋梁建設に十分な調査と費用を要する事などを挙 げ、政治的に建設が決定させたものである、と断ずる。築港費は二百万円では到底足り ず、鉄道と連繋して初めて完成する事業であると、その中途半端さを逆に指摘する。土 地調査事業については、未だ土匪已降策が完遂しておらず、世上喧伝されている「宜蘭. 地方の静穏」は、民政長官の粉飾とは裏腹に、平野部においても警察官の護衛が必要 な事を、最近の報道を基に指摘、政治的な演出であると、論破している。加えて、監獄 ・官吏宿舎の建築費等の箱物、給水工事については、不急の事業であると断ずる。. 次に、歳入部分は、これまた内地税、鉄道収入、阿片収入の三大項目について、分 析する。内地税は、土地調査の後、大抵権を買収しなければならず、著名な劉銘伝を以て しても、土地丈量が極めて困難を伴った例に照らし、そこからの歳入二百万円の算定が 極めて杜撰で危険であるとする。鉄道収入も十分見込めない事を再臨する。阿片収入. に関しては、後藤長官による現行の漸禁主義の阿片政策に基づくもので、それが経常収. 入に組み込まれる事と、収入増を望めば自ずから上食者増を求める事になるという矛 盾、さらには人道的見地から、これを批判する。そして、この事業公債案の議会通過後 の問題について、三十二・三十三両年度は台湾銀行、その後は台湾銀行その他で公債募. 集に当たるという不確実な点、短期間に狭小な台湾に三百五十万乃至五百万円という 資本が投入され、物価暴騰を来たし、為に諸経費が不足する結果を予測している。国民 全体が被る損失を防ぐべきだ、との視点から、批判を展開しているのである。. 「再び台湾事業公債を難ず」では、さらに歳出・歳入両項目の不明な点を再度取り. 一29一.
(13) 上げ、「事業の全く不必要なるが為に非ずして、其の設計の粗漏なると、緩急の別を顧 みざるとに由る」が為、総督府当局の再考と、精確なる計画を立案するのが、・国民の負 託に応える事であり、「責任を以て経画せるを以て、国民の区々たる攣縮を施す可から ざるを言ふ」のは行政官の思い上がりであり、帝国議会による帝国議会による立憲制度 を軽視する事である、と批判する。ここで湖南は、台湾事業公債の費用が、将来にわたっ. て国民に重くのしかかってくるにも関わらず、充分な説明もないまま、議員達が買収さ. れた揚げ句に事業案が可決されていく事に対する抗議表明を行っていたと考えられ る。当時これだけの紙面を「台政問題」に費やした新蘭は、『萬朝報』の他に見られな い。. IV おわりに一文明論と植民地経営論一 以上の編章で婁画してきた:事をまとめ、小論の結びとしたい。. 内藤湖南は、明治三十年から三十一年にかけての約一年間、 『台湾目報』の主筆と して、台湾統治に関する建策を幾つか提出している。乃木・児玉両総督、或いは後藤民. 政長官等から一目置かれていた様ではあるが、結局内地に帰国している。その原因は幾 つもあるだろうが、やはり児玉新総督施政下での、言論統制策(『台湾目報』と『台湾新 報』の合併)が最も直接的な要因と考えられるだろう.帰国後は、『息肉報』で一連の「国. 政批判」を繰り広げる。湖南は、台帳のどこに反対していたのだろうか。後藤薪平の有 名な「生物学の原則」(6)に基づく「旧慣温存」は、台湾の伝統的な地方自治制度に基. づく統治を行い、土匪を招降させた上で土地調査事業を行い、税制を定め、やがて事業 公債を導入し、台湾の経営と開発を進めようとする物である。湖南も、地方自治制度を 重視しており、表面上は、二人の統治策は相似している。しかし、実際の統治方法をめ ぐっては、政治の理想と政治の現実への価値観が、両者の間では相当隔たりがあった。 一方は言論人であり、他方は実務行政官であった(7)。後に湖南は、中国(支那)問題への. 考察をいっそう深め、独自の文化史観を展開していくのだが、『台湾日報』・『萬応報』 の時代は、寧ろ言論人としての姿勢が前面に出て、政麿批判の一環として、「乱政批判」. を展開していたのである。言路を、広く公論に訴え、経世済民を実現する為の重要な手 段と位置づけていた湖南ど、対して現実統治(ある部分は湖南の言う経世済民と重なり 合うが…)を円滑に行う為の演出装置、ある場合には隠れ蓑と考えていた節のある後藤. 新平とでは、例え台湾の伝統的な地方自治制度の援用が、台湾統治の鍵になる、との 一点で共通していたとしても、その方法論、理念は、自ずから大きく隔たっていかざ るを得なかったのであろう(8)。. 湖南は約1年間台湾に滞在し、総督府に種々建策を試みた。やがて帰国後は、より 大きな視野に立ち、政府全体に台湾統治問題を通じて建策を試みた。それは、一世代 遅れではあるが、自由民権運動の流れを継承したものとして、操瓠界を通じて公論に 訴える、という手法を採った。さて、湖南は、台湾という出窓を通して中国(支那)社. 会と接した。そこで、中国を治めるには、地方自治に依拠せざるを得ないという事を 体得した6当時、偶々清国では変法運動が高まりを見せていた。政変による表面政治 上の失敗に惑わされず、湖南は幕末から明治維新に向かった和本歴史の展開と変法運 動とを比較対置する事で、冷後の趨勢を見通す見解を発表していった。やがて、翌明. 一30一.
(14) 治32年に念願の中国旅行を果たした湖南は、単なる政府批判の論陣に飽き足らず、日 本での活躍の場であった『帰朝報』を退社し、『大阪朝日新聞』に再び入社した後は、. 支那社会を形作る文化そのものを凝視していき、従来からの王朝交代論に依拠しない 社会の本質的な変化、螺旋的発展、潜流など、独自の文明論、即ち文化史観を構築し ていくことになる(9)。本論で扱った時期の湖南は、初めて中国(支那)社会の一端を窺. い知る端緒となった事、異なる照準点から台湾を眺めた、という興味深い経験におい ても、後年の湖南を研究する上で、極めて重要な時期を形作った、と位置づけられる のではないだろうか。尚、この時期に湖南が並行して行った変法運動に関する観察、 あるいは文化史観的な視点の端緒については、今後の研究課題としたい。. [参考文献]○『内藤湖南全集』 (筑摩書房1978年、97年復刊). OJ.Aフォーゲル『内藤湖南一ポリティックスとシノロジー』(平凡社、 1989年). ○鶴見祐輔『後藤新平』①・②(詰草書房、1965年)、 *戦前の太平洋会出版部からの『後藤新平伝』各篇の合本復刻。尚、藤 原書店から、『〈決定版〉正伝 後藤新平』全8巻が刊行中。(2004年 12月∼) O北岡伸一『後藤新平一外交とヴィジョンー』 (中公新書、1988年)、 0黄昭堂『台湾総督府』 (教育社歴吏新書、1981年). 註. (1) (註)憶台臨旧邸也、明治高湿(30)予年計二、主筆台湾日報社、二二用品一時俊 才、翌年戊戌(31)出帰東京、今三十余年 。当時同社存没相半、而其留台彊者、独木 村地天、改業二大費、今薙昭和辛未(6)、夏秋之交、余偶獲疾入京都府立病院。……. 〔三首〕 炎徹新藩民四夷 帝差猛士臥治之 憶我棄筆青年目 玉帳看他颯爽姿 (註)乃木将軍時為台湾総督、予屡謁之。. 〔四首〕 聯城射箭事曾聞 猶有書生任解紛 門内不適容綻騎 待吾緩頬設張工 (註)高野君民矩時為高等法院長。山高倉人、遂成大獄。乃木総督、受払感気、 免其職。高野山執法官不得罷免力説、不出告退。総虚聞高野深敬予為人、使人属予 説高野。乱逆約此、二品其説法衙不得容警吏一人、乃抵法衙、徐説高野、而去。張 君謂漢廷尉張釈之。 〔五首〕 筆掃千軍意気疎 諜言融解過秦初. 平生尤感赤絹賞 大局東南在一書 (註)心墨之役、田翁山中允、代瀬上緒紳作書評師部副文正公、心遣李文忠為焉. 蘇之師。壷中允謁公、公日面後東南大局、不出君一書 。戊戌春、児玉将軍代乃木 将軍、為台湾総督、予乃発治台意見於日報紙上累日。会総督招宴朝野紳士、予亦与. 一31一.
(15) 焉。酒問総督顧予日、当所欲改張、十八九皇恩君論尽 。 (「湖南詩存」、『全 集』⑭、P304). (2)『台湾日報』明治31年3月10日「笑笑小腰」に、 (乃木:筆者)総督が政治家としての技イ雨は其後の経験にて一々感服も致しかね. 且つは或る事情より僕等に対して一種の悪感情を抱き居らる}やに.’も聞え候. へども此意見(……水野は扇頭の言を聞ぐことを好で弊害を聞くことを好まな かった。之に反して乃木総督は務めて弊害を聞くことを好む、故に総督の事情. に通ずることは寧ろ水野よりも深いとは水野が非職になりし頃総督府の某官 人が語られ候処なりき。:同文章の前段より、筆者引用)丈は今以て変り回申 候。 とある。. (3)その他に『燕山楚水』の「隠士扁爪記」で文廷式との筆談中に台湾での失政を 触れている。(32年9∼lL月)(『全集』②、65頁)また、.『大阪朝日新聞』時代 の内藤湖南の論説として、「台湾行政改革の説」(34年11,月7/8日)(『全集』③、. 329∼32頁)がある。但し、後者では、 「……台政の版図に入りてより七年にして、其の政策の確立せざるを以て、憂 とせざる能はずと錐も、而かも其の行政改革の歩一歩、簡易にして故俗に親し むに近づけるは、寧ろ以て喜ぶべき変化と為さゴざるを得ず。」 と、『亡朝報』時代とは異なって、一定の評価を与えている。. (4)湖南の台湾統治策は、詳細ではあるが独創的なものではなく、極めて現実的かつ 穏当なものであり、総合的に述べられている。例えば、陸掲南「台湾施政の刷新」(『日. 本』新聞明治30年6月4日)、 「台湾新当局者」(一・二)(『目本』新聞明治3至 年3,月20・21日)、池辺吉太郎(三山)「台湾論」(『日本人』54、明治30年ll月 5日)等、参照。. (5) 「財政の大英断」 (『全集』②p506∼8、7月26日)は、台湾における行財政 の改革に触れ、評価している。「枯骨と香具師」 (『全集』②p526∼28、11月ll 日)は山県有朋内閣と大隈重信内閣への批判への批判、 「重なる大公至正の議」. (『全集』②p529∼31、11月28日)は板垣退助の変節への批判を、それぞれ表 明している。また、 「清国改革の風気」 (『全集』②p517∼228、9月11・13日). は変法運動への期待を、岐那改革説の二時期」(『全集』②p230∼35、10月27 ・29・30日)、 「梁論功が政変論を読む」 (『全集』②p538∼43、12月10・11 日)は、政変後も引き続き変法運動を支持し、長期的展望で隣国の近代化への息吹 を見守るべき事を、繰り返し述べている。. (6) 「それは慣習を重んずる、俗に言へば、さういうわけなんだ。兎に角ひらめの 目を俄かに鯛のやうにしろと言ったつて、できるものちやないゐ慣習を重んじなけ. 一32一.
(16) ればならんといふのは、生物学の原則から来てみる。」 (『後藤新平伝』台湾統治. 篇・上 p27、 太平洋協会出版部、玉943年5月28日) (7) 『台湾日日新報』掲載の寄稿文「捌灯漫録」(明治34年1月1月)には、・. 翌年方伯(伝統中国では忌』一省の民政長官「布政使」を指す6即ち後藤民政長. 官。)が台湾事業公債を帝国議会に提出するや、余意に以て熱りと為さず、時 に方さに触を東京某新聞に操る、其の不可を極論す、方途が経済協会に演説し て、其の方案を弁明するや、乃ち専ら余が駁論に対して、更に反駁を加へたる 也。偶々某なる者あり、方伯を其麻布の邸に問ふ、語余が事に及ぶ、方伯曰く、 内藤文に妙、而かも彼事業を成すの器に非ずと。余が文辞固より道ふに足らず、. 而して其の事業を成すの器に非ざるは、実に品評得破的と謂ふべし、蓋し自ら 尺を柾げて尋を伸ぶるの性に適せざるを知り、意を用世に絶ちて、立言を以て 自ら任とすればなり。 とある。一方、後藤新平の方も、やや後であるが、『台湾協会会報』第7一号、 (明治32. 年4月20日)の「台湾の実況」の中で、 ・それで直る新聞の如きは(土匪昏惑についての総督府の発表と対策につい て:筆者)……今や後藤民政長官は頻りに台湾の事を粉飾して糊塗政策を行う て困難する杯 と言ふのである。我輩は未だ曾て太平なり無事なり杯と言ふ たことはないのである。新聞の報道にはどこそこの鎮定とあるけれども台湾総 督からどこそこの鎮定と云ふことを報道したことはないのである。斯の如き有 様であるから大に閉口して居るのであります。・一即ち保甲条例は総て五人組 のやうなものが出来て、其力を假りてさうして調査をしなければ人口の事が分 らぬ、是に由って始めて人口の事が定まる。……而して土匪功科の如きは……. 此事は世間で言ふが如く土匪を鎮定せざれば台湾の統治を為す能はずと云ふ ことは総督の頭にはないのでございます。……心墨問に於きまして北部に於て. 土地丈量を始めた。……此土地丈量の事は劉銘伝もしくじったにである。劉銘 伝がしくじったから当局者は出来ないと云ふ論は大に誤っている。方法手段を. 変へたならば出来ないことはない。……統治上多少の苦情もあるでありませ う。併しながら其苦情と云ふものは内地人の煽動に係るものも亦多数あるので ある内地人の不平党の煽動に係るものが多数あるのであります。……(経済学 協会に於ける演説) と述べている。. (8)固有の文化・慣習を重んじようとした精神は、明治34年以来、京都帝国大学 教授の岡松参太郎を中心に臨時台湾旧慣調査会を発足させ、調査報告を提出さ. せている。中でも、『台湾私法』全13冊(明治43年)や『清国行政法』全7冊 (明治43∼大正3年)は不朽の大文化事業として結実している。とりわけ『清国 行政法』は、これも京都帝国大学教授の織田萬が中心となったが、支那学の泰 斗狩野直喜が加わった事でも有名である。当時、内藤湖南と狩野直喜は共に京 都帝国大学で教鞭を執っていた。内藤湖南が、清朝史から中国史研究を始めた 事実と比較するとき、湖南と後藤両者の接点について改めて同時代史として考. 一33一.
(17) 察することの興味を深く感ずる。 (9)例えば、『支那論』(1914)、「概括的唐宋時代観」(1922)、『シナ上古史』(1944)、. 『シナ中古の文化』(1947)『シナ近世史』Q947)、等に代表される。. 一34一.
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