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登科以前の王昌齢(上) : 王昌齢評伝・一

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(1)考、え、しばら-前から準備を始めた. 「秦時の名月藻時の開、万里長征して人未だ還らず」 かぐわ. (「出塞」)、「西. 宮夜静かにして百花香し-'珠簾を捲かんと欲して春恨長し」. (「芙蓉楼送辛漸」)などの旬で広-知られる彼は'もっぱら七言絶句の 名手として名高-、事実、百八十余首にのぼる現存作品の約四十パ-. 岡. 田. OKADA. 充. そこに並ぶ「神品」. 状態である.彼の作品も同様に、制作年代の明らかでないものが大多. 前の時期においては殊にそれが甚だし-、それなりに時間を費やして. 数で'難読の箇所も少な-ない。小稿において先ず対象とする、萱科. 登科以前の王昌齢∽. 岡田. 的な評価へと迫ってみることも必要であろう。. さらに進んで、時に彼の七絶が覗かせる欠点をも視野に入れた、総合. 幾人かの先学の研究にもかかわらず、依然として多-が不明のままの. 王昌齢の経鮭については、極めて乏しい資料しか残されておらず、. 絡めつつ包括的に取り上げ'その文学的達成と限界を探ってみたいと いうのが、筆を起こすに当たっての私の心づもりである。. 窺われるようにも思われる。 そうした絶句から古詩にわたる王昌齢の詩菜を、彼の生涯の足跡と. 七絶の成功の陰に隠れて語られることの少なかった、彼の別の相貌が. 特に古詩を中心として少なからぬ佳作が見出される。そしてそこには、. 会派的な長篇、清掃な自然や隠棲の日々を詠う自然詩・閑適詩など、. また1方、絶句以外の作品群の中にも'辺境問題をテーマとした社. The)ifeandpoetryofWangCh.ang・)ingbeforesuccessinanimperialexamination -AcriticalbiographyofWangCh.ang・lingNo.)-. Ⅰ王昌齢評伝・一-. に. セン-が、この詩型によって占められている。ただ、私たちとしては、. 博. 一九. (明・胡震亨の評語)に目を奪われるのみに留らず、. Mitsuhiro. 登科以前の王昌齢岨. め. 盛唐の詩人王昌齢の生涯と作品について、評伝風に論じてみたいと. じ. 春怨」)、あるいは「洛陽の親友もし相聞わば、一片の雄心玉壷に在り」. (「西宮. は.

(2) 豊科以前の王昌齢旧. はみたものの、確かな結論に到達できない問題がほとんどであった。 およそ評伝の書き出しらしからぬ、迂遠な議論に終始する悪文となっ たが、諸賢の御教示・御批正を仰ぐことができれば幸いである。 なお、執筆に当たっては左に挙げる諸論文・注解の恩恵を被るとこ 『王昌齢詩注』から'様々な教示と示唆を受けた。特に. ろが大きかった。なかでも、評伝では原田憲姓氏の「王昌齢」、・詩注で は李雲逸氏の 記してお礼申し上げたい。. [年譜・評伝]. 一'生い立ち 1.生. 王昌齢は、広大な唐の版図のどの地域に、何時生を受けたのであろ うか・.彼に関する零細な伝記資料は、この点についても確かなことを 敢えては-れない。. まず王昌齢の生年であるが、Fr)れがはっきりしない.陸侃如・準耽. 君『中国詩史』、開1多『唐詩大系』は、いずれも則天武后聖暦元年(六. 九八)の生まれとしているけれども、確かな根拠があるわけではない。. 生年推定の唯一ともいえる手がかりは、王維の「青龍寺の曇壁上人見 一九七〇年. じて之に序せしむ」あ1節である.この詩と序文は'天宝三年(七四. の院に集う」詩の序文に見える「時に江寧大兄は片石を持し'維に命. 1九六三年. (香港中国語文学社). の生年については様々な所説が登場することになった。主要なものを. 長という奇妙な現象が生じてしまう。この点が指摘され'E)以後,王維. 没した(両『唐書』本伝による)弟の王締の方が、兄の王維よりも年. けれどもこの避殿成の説に従うと、連中二年(七八こに八十二才で. 安元年(七〇こ-粛宗上元二年(七六一)説が従来届じられてきた。. 六十一なり。」とある記事をもとに清の遭殿成が推定した'則天武后長. 王維の生卒年については、『新暦書』本伝の「上元の初め草し、年は. であるが、実はこれに関しても様々な議論があって決着がついていな. 生年が確定すれば、少な-とも王昌齢の生年の下限が明らかになるの. 王昌齢の方が王維よりも年長だったことが分かる。となると'王推の. 斐辿らが青龍寺を訪れた際のもので、「江寧大兄」とあるところからI. 四)、任地の江寧から一時長安に戻った王昌齢とともに'王維・王播・. 『唐詩研究論文集』. (補筆改訂). 1九八〇年. 一九七一年. (古林人民出版社). 一九八〇年. (方向社). 一九八四年. (中華書局). ⊂=). (四川人民出版社). 『文学遺産増刊』第十二輯. 王昌齢行年考 辞優学. 年. 『唐代詩人行年考』. 原田憲雄『方向』十四. (中華青馬). 『中国古典文学研究論叢』第一輯 『唐代詩人叢考』. (台湾文史哲出版社〓九七三年 (江西人民出版社輿百花洲文庫》〓九八1年 (上海古籍出版社《唐詩小集¥一九八四年. 0. 王昌齢伝H. ヽ _V. 王昌齢事跡考略 俸癖帝. つど. 岡田. 『南克師院学報(哲学社会科学版)』一九八四年第四期. 王昌齢年番系詩 胡間涛 [詩集校注]. 『王昌齢詩注』 李雲逸. 『王昌齢詩集』. 『王昌齢詩校注』李国勝 貴明.

(3) 挙げれば'r①生年を聖暦二年(大九九)とし、『新唐書』. の「六十こ. (7). 他説を主張する研究者たちが指摘するように、生年を引き上げること. によれば開元九年(七二1) の萱第の年、王維はすでに三十才という ことになる。この年齢は、十代後半で単身上京し、皇族貴族のサロン. を「六十三」の誤りと考える嘩②卒年を上元元年(七六〇)とし、 によって逆に生じる年譜上の矛盾点も無視できないoたとえば、④説 は双子か、あるいは同年の初めと終わりに生まれた'珍しい例の兄弟. の寵児となった彼の経歴を考えると、いかにも遅いように思われる。. 生年を王宿と同じ聖暦三年(七〇〇)と考える'a(この場合、経と籍 ということになる)、③王維の生卒年は遁殿成の推定が正しいとし'『唐. 首の作品も残されていない点、さらに二十二-二十八才の間の作と推. 音』の王籍の享年に誤りがあるとする嘩④王維の詩作晶中に見える そして何よりも不可解なのは、登第までの十数年の間、不遇を託つ一 「懸串」「六身」「鳩杖」など年齢に関わる言葉をもとに、-彼の享年を七. 定できる作品がな-'萱科前の重要なこの数年間が、創作の空白期と. 結局、④説が抱、えるこうした問題点を考慮に入れると'私達はこの. 王経とも、かなりの年令差が生じてしまうことになる。. なってし辛つ点である。また'さほど歳の開きがないと思われる弟の. 十才前後と推定し (「懸串」は七十'「六身」は七十三、「鳩杖」は七、 八、九十才という年齢につながる故事をそれぞれ持つ)、生年を則天武 后如意元年(呆九二)あるいは天授二年(六九こまで引き上げよう とする説、等である。. 新説に対しては、なお慎重な態度をとるべきであるように思われる。. 以上、王昌齢の生年にかかわる問題として、先ず王維の生年に関す. る諸説を簡単に眺め渡してみたが、ここで再び論点をもとに戻すこと. 大別すれば六盲九十年代初頭と末年の二派となる、王維の生年をめ ぐつての論争は、現在もなお決着がついておらず、正に諸説紛々とい った感がある。ただ'以上の諸説のうち①②③説の場合、それぞれに. にしよ、つ。. ているけれども、これは帝氏自身が述べるように陸・鳩・開氏の説を. 評優学「王昌齢行年考」は、昌齢の生年を聖暦元年(六九八)とし. 意見は対立しても、結局のところ推定年の差はわずか三年に過ぎない0 したがって、もともとはっきりしない王昌齢の生年を考えるに当たっ ては、さほど神経質になる必要はないように思われる。しかし、問題. そのまま踏襲したもので、新たな論拠に基づいているわけではない。. (ただ傍証としては、辞氏は「代扶風主人答」詩を考えているようであ る。これについては、次の茸益元論文の紹介で触れる。)この聖暦元年. は過殿成説とは十年近い開きを生ずる④説であろう。において初めて提唱されたものである。王. この大胆な新説は'一九八二年、王従仁「王維生卒年考塀」(『文学 評論叢刊』第十六輯所収). 説を批判して、昌齢および友人の作品中の言葉から生年を推定しよう としたのが、博疲環「王昌齢事跡考略」である、。博氏は、開元二十八. 氏の論文は一部に基本的な誤りを持つものの、学界に大きな反響を呼 び起こし,幾つかの修正,補強誠が発表されるなど,1時期かなり有. 午(七四〇)'江寧に赴任する王昌齢を送った卑参の「王大昌齢の江寧. いたず. 力な説となった。しかし'ここにも依然として問題は残る。「六身」「鳩. に赴-を送る」詩に見える「自首徒らに文を攻む」の一旬と、三年後. (6). 杖」などを詩的なレーリック、あるいは実年に関係な-単に老齢を詠. に昌齢が詠った「瀬上に宿り、侍御喚弟に寄す」詩の「応に首尺の於. ≡. んだ言葉と取れば、旧説を覆す決定的な論拠とはなり得ない。また、 豊科以前の王昌齢岨. 岡田. おさ. ・ま卓.

(4) 豊科以前の王昌齢g. 余命を貸きんことを乞う」と。鏑日-、「王昌齢の親は誰に与え. 五七)のことである嘩この記事によれば昌齢の両親ないしは片親は. 王昌齢を殺害した聞丘晩が張鏑に枚数されたのは、粛宗至徳二年(七. 前後とする。胡開涛「王昌齢年常系詩」も博氏のこの考えに従うけれ ども、ただ'江寧赴任を開元二十九年(七四ことして逆算するため'. の年はそれから六十七年後のことである。したがって、その親の年齢 となると、二十で昌齢を産んだとしても八十代の後半ということにな. なお健在であった。仮に昌齢が六九〇年に生まれたとするならば、こ. 生年は武后長寿元年 (六九二) となっている。 こう紹介して-るだけですでに察しがつ-ように、博・胡両氏の説 も論拠は極めて頼りない。その後発表された熊簿「《天宝文学編年史》. ろう。『新暦書』にいう「親」が母親であれば、特に女性が早婚だっだ. ば、問題はかなりすっきりするのであるが'先にも述べたように、王. 生年を天授元年(六九〇)以前と断定する。この論定が正しいとすれ. 説によって補執しようとしたものである。熊氏は王従仁説に拠りなが ら王維の生年を再検討し'天授二年(六九〓とした上で'王昌齢の. 氏の考えである。杜甫の詩句「人生七十古来稀なり」(「曲江」)を思い. 断して、王昌齢の生年はもう少し引き下げられるペきというのが、茸. あれば、九十あるいはそれ以上の高齢ということになる。ここから判. ても当時の平均的寿命を大き-越える。また逆に、二十才よりも後で. この時代、長男(「玉大昌齢」の「大」の排行が示すように彼は長男だ った)との年齢差はさらに縮まる可能性も考えられようが、それにし. 維の生年に関してなお議論の余地が残る以上、私たちは熊氏の鋭にも. は、この点注目される。茸氏は'博癖帝説の論拠と. こ礼. 侍癖偉観に比べると、葺氏のこの説は確かに丹念な考察に基づいて. 出される.(下限の七〇〇年は'遭殿成説の王維の生年七〇1年による もので、新見はない。). ることはありえないとし、ここから六九五年という生年の上限が導き. 年」の用法が現代語よりも幅広いことを認めながらも、三十才を越え. の旬があり、この「少年」に黄氏は注目するo氏は、この時代の「少. 置いて、昌齢の生年を考えている。)詩中、扶風の宿の主人が昌齢に語 りかける言葉のなかに、「少年は運と合えるに'何事ぞ悲端を発するは」. 「扶風の主人の答うるに代わりて」である。(帯優学もこの詩を念頭に. 起こせば、これにも1理あろうO いま一つの論拠は、王昌齢が開元十三年(七二五)に扶風で詠った. の記事である。 昌齢-世の乱るるを以て郷里に還らんとし、刺史の閣丘暁の しら. 音』巻二〇三・文芸伝の昌齢の伝記に見える、彼の生みの親について. から生年を六九五-七〇〇年の範囲内と推定する。その一つは、『新唐. なった卑参の詩の「自首」を詩的な誇張として退けた後'二つの論拠. 九九二年第二期). うか.最近発表された貴益元「王昌齢生平事速塀証」(『文学遺産』. 素直には従いがたい。 となると、王昌齢の生年を探る上で、他に手がかりはないのであろ. 齢的辺塞詩写作年代及生年」は、博氏の説を、王維の生年に関する新. 中的幾簡問題」(『重慶師院学報』. 1九八六年第二期所収)中の「王昌. て養わしめんと欲す」と。暁黙然たり。. 二二. の、空し-鍾山の蔑に老いるべからず」の1聯をもとに、「自首」の老. 1. 齢を五十才と考、え、ここから昌齢の生年を則天武后天授元年(六九〇). 岡田. 為に殺さるo張鏑 軍を河南に接べ、兵大いに集まるも、晩最 も期に後れたれば'将に之を裁さんとす。辞して日-、「親有り' まさ.

(5) 坐-無いわけではないし、また、老人の日に、三十を過ぎた人物が「少. に思われる。王昌齢の死後、九十才前後の親が健在であった可能性も. はいる。しかし、定説とするにはやはり不確かな要素が多すぎるよう. 小弟鄭荘尚漁猟. 河畔達者酔不迷. 故園今夜満陵西. 今在り. 君に逢い. 溺陵の西に. 酔うも迷わず. 数行の噂. なみだ. 小弟は隣荘に尚お漁猟す. 書は寄す. 送りながら、満陵(長安の東南郊外にある漠の文帝の陵墓の名.古は長安東郊の地名であった。)の西にある「故'&]と,そこでなお不遇. 南方の遠地で詠われたこの作品において、王昌齢は都に赴-李浦を. 齢の生年に関しては、安全な考え方としては、六九〇年代という十年 ほどの幅をもたせた推定に落ち着-ことになろう。そして、さらに絞 り込むとすれば、茸氏が主張する六九五年以降の可能性が高いという. 2.籍. 集』巻中・『唐才子伝』巻二の記載に基づ-oもう一つは京兆(現在の. 三説がある。一つは大原(現在の山西省大原)とする観で、『河岳英霊. あったことを確認し、残る二説について検討してみよう。. 身の故郷と考えていたかという主観的な問題のほうが、はるかに重要. 籍・生地が何処であったかという客観的な事実よりも'彼が何処を自. であろう。江寧に近い潤洲(江蘇省鎮江). で詠われた「寓歳棲」詩の. た所であり、ここから彼の官蕗として用いられた。唐代の資粕にも, しばしば「王江寧」とあるところから、誤って生地と考えられたもの. なはずである。私たちは先ず、王昌齢の心に在る「故郷」が都の地で. 駅西省西安)とする説で、『旧唐音』巻一九〇の記載に基づ-。残る一 とする説で、『新唐音』巻二〇三・『唐. 考えてみれば、一人の人物について語ろうとする時、その人物の本. 久し-住み、この地に対して故郷の感情を抱いていたことは疑いない。. ない。しかし'これも原田氏が指摘するように'王昌齢が長安近郊に. を残したからといって、それが即彼の籍貫を示す証拠となるわけでも. ないし (日本中世の 「ふるさと」にちか-'愛するひとのいるところ の意)、官僚の1貞であった昌齢が都の長安とその近郊で詠われた件品. 昌齢伝r」が指摘するよう'a',「故園」は必ずしも籍貫を指すわけでは. の他の幾篇かの作品の中にも姿をのぞかせる。もっとも'原田憲雄「王. (13). つは江寧(現在の江蘇省南京). についてであるが'これには旧-. 十年の幅はいかにも不都合である。私としては、ひとまず可能性の高 い責説の方向で、六九〇年代中頃以降の誕生と考えることにしたい。. 煩項な議論の割には暖味な結論に納まらざるを得ない点'なお大き な不満が残るけれども'現存する資料から推測できるのは、ほぼこの e].ただ、王昌齢の生涯をたどるに当って,生年の 辺りが限度であろ',. の日々を送る弟のことを懐かしんでいる。この満水の淀城の地は、彼. 一封書寄数行噂. な. ことになる。. 年」と映ったとしてもおかしくはな〈=.となると,結局のところ王昌. 河畔故園 1封. 詩紀事』巻二四・『郡素読書志』巻十七・『直貴書録解題』巻十九等の 記事がその拠り所となる。 生年同様に紛糾しそうな様相ではあるが、しかし、この間題に閲す ゆ. る研究者の見解は、多-京兆説に傾-。「李浦の京に之-に別る」と題 岡田. する、次の七言絶句の冒頭がその根拠となる。 豊科以前の王昌齢山. 冒:. (ll). 江寧は『新暦書』その他の資料に見えるけれども、王昌齢の籍貫で はない。この地は左遷された彼が娘丞として七年前後の歳月を過ごし. 次に籍貰(本籍地あるいは生地). 貫.

(6) 豊科以前の王昌齢山. は都長安の地だったのである. ところで、王昌齢と結びつきがあったと考えられる太原について、. ニ四. 一時期居住していたことがわかる。「槍演の東」、すなわち江寧に向か おうとして回顧される「太行の北」ということであれば'そこは彼に. おく必要があろう。次にこの間題について考えてみたい。-. 辞氏の説に素直に納得する前に、私たちは異説の主張にも耳を傾けて. と、この大原説にも全-根拠がないわけではな-、昌齢と「大行の北」 る。しかし、「太行の北」という言葉によって示される地域は余りに広 -、「旧居」も郷里を指すとは限らない。したがって、昌齢の籍貫を大. い事実をもとに新説を唱えたのが、博壌壕である。. 王昌齢の郡望を大原とする帯氏の推論も、『英霊集』の記載以外に拠 るべき確かな資料があるわけではない。これに対して、一つの興味深. 3.郡. 原と見なす論拠としては、脆弱と言わざるを得ない。また、「駕幸河東」. とのそうした浅からぬ結びつきをもとにして生まれたもののようであ. 「寒食即事」など、太原において詠われた作品(この二首は後で取り上 げる).にも、郷里を連想させる感情は読み取れず、先の京兆説を退け るだけの説得力は持ちそうにない.やはり、故郷とい,Tよりも何らか の地に住んだという事実は、. の砂かりの地と見てお-のが、無難なのではないだろうか.(ただ'王 昌齢が一時期太原ないしは「大行の北」. 意外なことに彼は大鹿の王氏ではない。『新居書』巻七十二の「宰相世. あるが'それは全-見られない。となると、恐ら-は同じ郡望の血縁 S].)しかし,王喚の郡望をたどってみると、 と考えるのが自然であろ',. ろう。これについては後で言及する。). から'昌齢の郡望は太原ではな-破邪だったと結論づけ、さらに傍証 として鄭還古の 『博異志』を引-0. 系表」によれば、彼は醜郡の王氏に属しているのである。博氏はここ. 味な点は依然としてつきまとう。しかし、現存する資料から上記の三. 昌齢」の一条は'内容的には廟神の報応を述べた小説であるが、その. 『太平広記』巷三百に、『博異志』からの転載として収められる「王. 説を比較検討する限りにおいては、やはり京兆説が最も有力な説とし て残ることになろう。少な-とも王昌齢の意識のなかでは、彼の故郷. 籍貫に関しては、以上の考察から、おおよその結論に達することが できよう。厳密に考えれば、王昌齢の本籍・出生の地についても'暖. 辺塞詩人としての彼を考える際、あらためて思い起こされるべきであ. 位にまで昇った人物である。昌齢はその王喚をここで「弟」と呼んで いる。(実の弟ならば、二人の伝記に何らかの言及があってよいはずで. 博氏は昌齢の「浦上に宿り侍御の喚弟に寄す」詩に注目する.題名 中に言う王塊は、道術によって玄宗に重用され、粛宗の時代に宰相の. 望. とって何らかの深い思い出につながる土地だったはずである。とする. 評氏の推測である。なるほどこれなら筋道は通ることになる。しかし、. この家系の出身だったところから大原の王昌齢と呼ばれたというのが、 が見、え,太行山脈の準える北の'B(大原もそのなかに位置する)に、. 讃優学はこれを昌齢の郡望(血縁の名族およぴその出身地)と見なす。. 旅愁を発す」も傍証となる。. 岡田. 太原は、・『河岳英霊集』 の記事という点では最も古い資料になるが、 昌齢自身は、この地との関わりについて何も述べていない。ただ、左. 結句、「晩に向かいて. ヽ. 太原の王氏といえば破堺・京兆と並ぶ王氏の三大名族の1つであり、. ヽ. 遷されて江寧に赴-際の作'a'は,「旧居大行の北,遠雷漁撰の東」の旬. 荘荘.

(7) 逸・胡問涛両氏はともに、この破邪説に従っている。 ところで、破邪の重民ということで注目されるのは、この郡望が晋. のかも知れない。いずれにしても博氏の考証にも説得力があり、李雲. 隅に忘れ去られがちな資料のなかに、意外に事実が潜んでいるものな. 「養を力めんとするも給せざるを思う毎に、則ち覚えず洗練し、鼓を畷 り米を負えり。」と、困窮の実情を告白している。表現上の誇張は差し. いて、彼は「昌齢は貧購に久し-、ここを以て多ぐ危苦の事を知る。」. ていたためと考えられる。萱科前に書かれた「李侍郎に上る書」にお. 薄い傍系であって、昌齢の生時にはすでに貧しい無名の家門に零落し. 1つは、破邪あるいは大原の王氏とはいっても、おそら-は血縁の. 言及していない点である。理由は二つ考えられる。. 以来、爵位官位のみならず、歴代文才の士を輩出させたことにおいて もその名を知られる、超」流の名門だったことである。著名なところ. なかで昌齢は「破邪王昌齢」と紹介されている。あるいはこうした片. では、書聖と仰がれる晋の重義之もその一族であった。『梁書』巻三十. たぐ. 引いて考えねばならないにしても、彼の育った環境が決して豊かな恵 まれたものでなかったことは、ここから想像がつこ、つ。そうした生い. 三および『南史』巻二十二の王靖伝の一節は、破邪の王氏を知る上で 参考になろう。伝に引かれている子僕達への書簡のなかで、王筒は誇 らしげに次のように述べている。 史伝に称す、「安平の雀氏及び汝南の応氏は並びに果菜文才あ り、所以に花蔚は雀氏離龍と云えり」と。然れども父子両三世 に過ぎざるのみにして、七葉の中、名徳光を重ね、爵位相継ぎ、 人々集まる有ること、吾が門の如き者有るに非ざるなり。沈少. ごと. 博約は常に人に語りて云えり、「吾少-して百家の言を好み、身 は四代の史を為りしが、開聞より以来、未だ爵位の蝉聯し'文 才の相継ぐこと、王氏の盛んなるが如きは有らざるなり」と。 汝等堂構を仰ぎ観て、思いて各々努力せよ。 (『南史』) 王昌齢の郡望が破堺とすれば、当然彼もこの誇り高い一門の学術の 伝統と、優れた血統を受け継いだと思われる。彼がこの名門の未喬で あると考えれば、「詩家の天子」の才能の輝きも、いっそう得心のゆく ものとなろう。. っと. ごと. たてまつ. まめ. ●. えるのは、専ら「備に王侯を軽んずるもの有りて、当世の務めを脱略. 持ちになるのが、人情であるように思われる。しかし、彼の作品に見. がなお強固な盛唐期にあっては、い-ら繋がりの薄い傍系とはいって も、(むしろそうであればなおさら、)その郡望を頼り誇ろうとする気. 力を悼みとするタイプの人間だったことが挙げられる。門閥的な観念. いま一つのより大きな理由としては、王昌齢が郡望よりも自身の能. 立ちを持つ彼にとって、この郡望は、おそら-実感としては直接自身 と結びつきに-い、疎遠なものとなっていたのである。. せお. すo」「応に盲尺の於の、空し-鍾山の寓に老いるべからず.」「僕は本 と東山にて国の為に憂い、明光殿前に九噂を論ず。兵書を蔑読して冥. 捜を尽-し、君が為に掌上に権謀を施せば'山川に洞映すること与に. 儒うもの無し.」といっ'B強い自負で凍る.微かな繋がりを持つ郡望よ りも造かに確かな拠り所を、彼は自己の能力に見出していたのである。. 王昌齢の郡望についても、確かな結論は出しに-い。しかし'彼の. こうした性格のうちに、門閥の遺制に対抗して'自身の才能を悼みに. 世に出ようとした、当時の新興士人層の一つの典型を窺い見ておくこ. も. わか. こう見て-ると、破邪説はいっそう魅力を持(a'.ただ,いずれの誠. とも. つく. によるにしても注目されるのは、当の昌齢自身が'郡望について全く. 冒. え. 豊科以前の王昌齢山. 岡田. まさ. ゆ.

(8) 登科以前の王昌齢旧. とは可能であろう。 4.家、族 生年・籍貫・郡望とたどってきたところで、次に彼の家族と生い立 ちについて簡単に触れ、本節を結ぶことにしたい。 すでに述べたように'王昌齢の伝記には、家系はもとより父・祖父 についての記載もない。おそら-は下級の官吏として、無名のうちに 生涯を終えた人物だったと考えられる。長男であった彼には、先の「別 李浦之京」詩に見える満陵の「小弟」がいたが'他に何人の弟や姉妹 がいたのか不明。妻子については、全-記録が残っていない。 この他、現存する作品の題名の中から、数名の近親の名を捜し出す ことができるけれども、宰相にまで出世した王壌を除いては、彼等を 知る手がかりはない。. 王昌齢がどのような幼年時代・少年時代を送ったかについては'皆 目わからない。私たちがただおぼろ気に想像できるのは、豊かとは言 えない暮らしの中で、立身を目指し夢見る、一人の聡明で多感な少年 の姿である。. 時代は、折しも則天武后の統治から葦后の専政へと統-'女権の世 を迎えていた。ただ、歴史の中では極めて変則的なこの時期も、当時 の人々にとっては、必ずしも暗い不安な時代ではなかったようである。 則天武后は'確かに独裁者としての残忍な性格を持ち、酷吏たちを 利用した恐怖政治によって、敵対者を次々と粛正していった。しかし 一方、彼女が政治家としての非凡な能力と手腕を備えていたことも' また事実である。この女帝は、名君太宗が築いた唐王朝の基礎を受け 継ぎ'国名を周と変えながらも、それを五十年もの長きに渡って維持. 神尊兄年(七〇五)正月、張東之らのクーデタ」によって中宗が即. ても、家柄にとらわれることな-、実力によって抜擢する方針を採っ. 噛・張説・沈栓期・宋之閉らを中心として'著名な詩人たちが集った。 また、自身が1流門閥の出身でなかった武后は、人材の登用にあたっ. れ'B.文芸を愛好した彼女は,文化人を優遇し'宮廷サロンには、李. 発展させていったが、とりわけ文化面で果たした役割は大きいといわ. 責. たらす変化だったはずである。幼年期・少年期の王昌齢を包んだ時代. 登用の門戸は、功罪両面の結果を生むことになったにせよ、才能を持 ちながら門閥の厚い壁に苦しむ中下層の士人達に対しては、期待をも. ではない。加えて'武后から葦后にかけて大き-開かれていった人材. 王朝内部での権力闘争という点では波乱の時代だったこの時期も、 それが社会的に大きな不安と動揺を巻き起こす事態にまで至ったわけ. るのであ'iS.. 年間は'見方を変えれば、そうした新興層が経済力を背景に、貴族た ちに伍して官界へ大き-進出した、活気に満ちた時代だったとも言え. 乱脈な政治に揺れた神龍(七〇五-七〇七)景龍(七〇七-七10). 地主層や商人層の官界への道を切り開-ことになった。中宗・童后の. すれば'身分や職業を問わずに官爵が与えられるこの制度は、新興の. 売官制産も、意外な結果をもたらしたようである。銅銭三十万を持参. なお、この葦后と娘の安楽公主が実施した悪名高い「斜封除官」の. でも文運隆盛の気運は途絶えることがなかった。. ろうとして自ら破滅の道をたどったのが章后であったが、こうした中. 乗ずるoこの後'庸繋な未申宗に代わって権力を握り、第二の武后た. 位し、国号は再び唐に戻り、失意の武后はこの年の十一月に上陽宮で. た。. 岡田.

(9) と環境は、1方に厳し-不安定な側面を覗かせるとはい、え、未来への 希望と確信を育むには十分な地盤を備えていたのである。. -‥都留春雄『王維』(岩波書店・中国詩人選集6)解説。入谷仙介『王維 研究』によれば'これは都留氏の発見であるという。 2‥入谷仙介『王維研究』(創文社)、楊軍「王維事迩証補」(『唐代文学論 1九八二年第二期)・「王維詩文系年」 (『天津師大学報』 1九八三年 第四期)'王達津「王維的生平和詩」(『唐代文学論叢』第三輯)'桃真申. 「唐詩札記‥王維生年」 (『文学遺産』一九八六年第二期)など。 3‥張清華「王推生年考耕」(『文学評論叢刊』第三十輯)・『王経年沓』(学 林出版社) 4‥陳鉄民「王経年譜」(『文史』第十六輯)・「王維生年新探」(『文史』第 三十輯) 5‥張安祖「王維生年小考」(『北方論叢』一九八五年第三期)'熊篤「《天 宝文学編年史》中的幾歯間題‥三、王維生年問題新証」(『重慶師院学報 (哲学社会科学版)』一九八六年第二期)、避昌平「王維生卒年考補」(『中 華文史論叢』一九八七年第一期)など。 6‥r六身」は、「暮春東端素錬見過」詩に「門観五柳識、年算六身知」、「鳩 杖」は、「春日上方即事」詩に「鳩形賂刻杖、亀殻用支淋」と詠われてい る。それぞれが「五柳」の「五」、「亀殻」の「亀」と対を成す必要から 選ばれた言葉だとすれば、王維の年齢をここから算定しょうとする方法 は'いささか危う-なる。 なお、「懸串」の解釈に関しては、陳鉄民が「王維生年新探」で詳細に 論じ、王従仁鋭に反顧を加えている。 7‥王従仁鋭に対する反論は、陳鉄民「王維生年新探」、張清華「王維生年. 9‥熊篤「炎天宝文学編年史》中的幾簡閲題」の「王昌齢的辺塞詩写作年代. 及生年」は'すでに紹介したように、王従仁説をもとに王維の生年を六 九1年、王昌齢の生年を六九〇年以前と考えるが、三十才以上の人物を. 「少年」と呼んだ例として、韓愈の「柳子厚墓志銘」などを挙げる。. ー0‥一応の結論にたどり着きながら、問題をまた蒸し返すようで気が引け るが、王昌齢の生年推定の手がかりとなった王維の序文の「江寧大兄」. -いo)とい、呈1E葉は、同年代の人物に対する敬称としても用いられるは. には、実はなお釈然としないものが残る。「大兄」ないしは「兄」(博氏 は「大兄」の「大」を排行と考える。どちらによるべきか判断がつけに. ずで、もしそうだとすれば、王維の生年が確定したとしても、確実な手 がかりとはならな-なってしまうOいずれにしても昌齢の生年が六九〇 年代を大き-外れることはないであろうが、「大兄」をどう理解すべきか、. 識者の御教示を仰ぎたい。 1‥王運興「王昌齢的籍貫及其(失題)詩的問題」(『光明日報』一九六二. 年二月二十五日号「文学遺産」、のち上海古籍出版社刊『藻貌六朝唐代文 学論叢』に収録)は、大原説を採るけれども、他の研究者はほとんど京 兆説を支持する。. 2‥王昌齢はまた、「頑上閑居」と題する作品において、「鴻都に帰客有り、. 滋陽の村に償臥す」と詠っており、この滋陽村が「故園」だったのでは ないかと推測される。滋陽は、武伯給「唐長安郊区的研究」(『文史』第. 三輯)によれば正陽のことであり'滴慈雨水に挟まれた白鹿原の高地に 位置する。この白鹿原の北には漠の文帝の満陵があり、「別李浦之京」の. ただ'藻居間の滴上'韮陽の位置とその移徒については、李健超「蛋. 内容とも符合しょう。(李雲逸注も武氏の論文を引いて、その説に従う。). 上与長安」(『西北大学学報』一九八四年第一期)'辛徳勇「諭覇上的位置 及其交通地位」「再論最上的位置」(『駅西師大学報』一九八五年第1期・ 1九八六年第三期)に論争が見られ、なお詳細な検討が必要と思われるo 今後の課題としたいo. 3‥例えば、「瀬上閑居」のほか「濁遊」「風涼原上作」「題帝池」「宿商上. 寄侍御塊弟」など。また、俄には「弔報道鹿」がある。 4‥「王昌齢伝」三七頁。. 云. 1 1. 注. 考耕」『王経年譜』などに見え、なかでも陳氏の論文が最も詳しい。本文 中に指摘した幾つかの矛盾点も'主として陳氏の論文に基づ-。 8‥『資治通鑑』は、至徳二載十月の粂に閣丘暁杖殺の記事を載せる。 登科以前の王昌齢∽. 岡田. 1. 叢』.

(10) 登科以前の王昌齢旧 5‥輩敬「翰林学士李公墓碑」、李肇『唐国史補』巻下(「開元日-位卑両 署名者」)など。 ー6‥「洛陽尉劉妻輿府願渚公茶集天宮寺岸道上人房」詩 ー7‥江寧を指す「鎗演東」との対応から考えて(江寧は現在の南京で、「槍. せんと欲す。--」と、当時が回想されている。. 詩句の意味をやや詳し-検討してお-と、冒轟の一句は、『易』の. ニ八. 襟引」 に見える旬o ‥例えば'外山軍治『則天武后』(中公新書)は'文化面における武后の. 上九に「王侯に事えず'その事を高尚にす」とあるのに基づ-。統-. 第二旬は『晋書』巻七十九謝尚伝の「細行を脱略し、流俗の事を為さ. の曽祖父の従兄にあたる人物で、世俗の事に構わない不轟なところが. 窺われて興味深い。第三旬の「藍渓」は、『全唐詩』では「藍田」に作 る。藍渓は藍水とも呼ばれ、駅西省藍田県の東の藍田谷に源を発し、. あった。「細行を護らず」と評される昌齢の生きざまが、すでにここに. まも. 西北に流れて濁水に合流する。先の「李浦の京に之-に別る」の「満. 陵の西」の故固よりやや南になるが、満水の上流に位置する名勝壷. 渓は景観の美しさで名高い)として'このように泳い込んだものであ. ろう。あるいは一時期、実際にここに住んだとしてもおかし-ない。. 四旬日の「漁y]は、魚や鳥を捕る生活を指し'同じ『晋書』巻七十. 九謝安伝に見える言葉である.謝尚の従弟にあたる彼は'若年のころ. 仕官の勧めを辞退し、会稽に寓居した。そして、この地で王義之・許. 準支遮らと交遊し、「出でては則ち山水に漁ぺし、入りては則ち言. 属文」する日々を送ったという。原田憲雄「王昌齢伝」によれば、「昌. 齢の旬は、庶民の漁夫・猟師のような身すぎ世すぎのためではなかっ. たが、大貴族謝安のような悠々自適の生活でもなかったと、二重の意. 味をこめているのだろう。」ということになる'解釈をめぐっては微妙 に意見が分れようが'参考にすべき優れた分析であることに違いはな. 説明が長-なったが、ここから私たちは青年時代の王昌齢を想像し. 「無何」の方が通りがよいであろう。. 成長して青年期を迎えた王昌齢についても、私たちが知り得る事柄 は少ない。ただ、日々の生活の貧しさは相変わらずだったようで、後 も. は、「備に王侯を軽んずるもの有りて、当世の務めを脱略す。本と藍漢 疎どな-. まさ. の下に家するも、漁yの為に非ず.無何窮耕に困しみ'且に永路を馳. ため. い。なお「無何」は一に「無才」に作るが、意味の漁れから言って、. 原. に作られた「鄭堤にて陶大の公館中に宿り'鳩六と元二に贈る」詩に. 1.大. 二、青年期. ある.(1〇一頁). 役割を高-評価する。(一九七-二〇〇貢) ‥砺波護『中国・上』(朝日新聞社・「地域からの世界史」二)に指摘が. ‥それぞれ「鄭願宿陶大公館中僧鴻六元二」、「宿瀬上寄侍御喚弟」、「璽. の呼称を用いることもありえようし、博説も絶対的なものとは言えない。. 王喚を実弟と見るが、そこまで限定はできない。 ー9‥なお'武伯給「唐長安郊区的研究」は'京北を王昌齢の郡望と推測し ているが'博癖球観によればこれも退けられることになる。ただ、郡壁 を異にしてはいても'義兄弟的な親しい結びつきの間柄においては'「弟」. ろう。 8‥博氏はこの点について明言はしていない。偉観を踏襲する胡間涛は、. の地」ではな-、「大行山脈の撃える北の地」の意味に取られるペきであず。」などと重ね合わされよう。謝尚は'山水詩人として有名な謝霊運. 渓」すなわち大海に接する東の地)、「大行北」は「大行山脈のさらに北. つか. 岡田. 2ー. ゆ. 1 1 20 22.

(11) 卑屈に腰を折ることも、官途に汲々とすることむ潔しとしないこの気. てみることができよう。儒者として出仕の願いを持ちながら、貴人に. ことがなかったわけではない。青年期の作と推定される作品を通覧し. ところで、京兆に育った王昌齢ではあるけれども、この地を離れる. 行し、あるいはその地にしばら-滞在したこともあったようである。. の修学期、彼もこの時代の詩人たちの多-がそうしたように遠地に旅. 骨と自鮎が、青年王昌齢を内側から支、葺いたのであり,それがまた てみると、河東・井州・激府・浬州などの地名が注意を引く。萱科前 彼の困窮と、脱俗的隠逸的な志向の原因ともなっていたのである。 また、次の1題満池二首」.は、李雲逸・胡間涛の両氏によって、出. 仕前の作と推定されている作品である。もっとも、寂賞と馴れ争っよ 先の「鄭県にて陶大の公館中に宿り--」詩には'「昨日石門を辞し,. 田からは西南五十里ほどの距離にある。)ここで回顧されている'郷里. 五年秋露を変ず」の1聯も見える.(「石門」の名は各地に見られるけ. 拭い切れないが、豊科前の満陵での退居生活のなかにも、∴」れに通ず る沈んだ心境の一時はあったと思われる。ここでは先の詩に見られた. に別れを告げた後の五年間のうちには、そうした旅のこ七も含まれて. ぅな、どこか若者らし-ない感情も流れており、後年の作の可能性も. 向こう意気は影をひそめ、不如意の日々を送る者の悲しみが、作品の. いるのであろう。. 錬を腰に何-に之かんと欲す 東園に秋の亜を刈る ふたL). (3). (2). 彼の脚は、右に挙げた地名が示すとおり、もっぱら北方に向けられ. ているが、ます注目されるのは、前節でも触れた太原であるo現存す. 門を開きて長川を望めば. 礁曳に和す. 浄橋商圏徒. る王昌齢の作品のうち、制作年代を確定できる最も早い詩が、実はこ. 漁者を見る. 閉居天業盛 4人柿聖恩膿. 万国従う. 唐を開きて天美は盛んii. 柿に入りて聖恩は渡し. 肇より下りて三象を回らし. 日月を懸け. 開元十一年(七二三)に挙. 碑に題して六竜に任す. 此の時に逢う. 「駕は河東に草す」と題されたこの詩は'. 替明懸日月 8千歳此時速. 題碑任六龍. の大原で詠われているのである。 -曹水干度合 干度合し. 白頭の貴. 下撃退三象. 借間す. 幾年なりや. 世事、復びは論ぜず. れども'ここでは満陵よりさらに南の石門谷を指すと考えられる。藍. 底を静かに流れてゆ-のが読み取れる。 腰鎌欲何之. 東園刈秋亜 世事不復諭 悲歌和礁曳 開門望長川. 薄暮見漁者 借間白頭翁 垂給幾年也. 第一首の「世事不復論」という姿勢は、結びの「悲歌」と呼応する ことによって、そこに断念の悲しみを漂わせている。第二首の釣り糸 を垂れる白髪の老人には、出仕前の太公望呂尚のイメ-ジが重ね合わ されるのではないだろうかo退居の暮らしのなかで'1度は断念した. めぐ. 行された、玄宗皇帝の河東井州完原)・港州(治所は山西省長治県). ニ九. はずの出仕への気持ちが'この時ふとまた呼び覚まされるのである。. まか. ゆ. 悲歌. 豊科以前の王昌齢3. 浄橋晋水. いず. 薄暮. 岡田. 千歳孝明. にら. 重給.

(12) 豊科以前の王昌齢9. 授は1に京兆・河南府に準ず.百姓拾復すること1年、葦戸復. 娘の捜し揚げ、具に名を以て薦むるに委ぬ。上親ら起義堂の嶺. て飛龍宮と為す。辛卯、井州を改めて大原府と為し、官吏の補. 罪より巳下を曲赦し、給復すること五年、別に其の旧宅を改め. (十一年春正月)庚辰・井州・港州に幸し、父老に婁し'大騨. この時の様子を次のように記している。. を輝かせるための一大行事だったのである。『旧居書』巷八・玄宗紀は、. の故地であった。)を訪ねて祖業を称え、併せて玄宗自身の功績と威徳. ていた当時'大原留守の職に任ぜられてこの地を治め、息子の李世民 らと共に、ここから障王朝打倒の兵を挙げた。つまり、大原は唐王朝. かし'実のところそれは、唐の高祖ゆかりの地(高祖李淵は晴に仕え. の祭礼を復活させ、五穀の豊俵を祈るという目的が建前であった。し. 開元十一年のこの河東への行幸は、久し-廃されていた紛陰の后土嗣. 佐を得て政治の基盤を固め、その後着々と治世の実をあげていった。. のものにした玄宗は、宰相の桃崇・宋環を始めとする有能な臣下の補. 即位の翌年'敵対勢力となった太平公圭一派を粛正し'帝位を不動. をもたらすに至った、英明な君主の誕生であった。. 帝位を譲り受けて即位し、ここに盛唐の玄宗の時代が始まることにな る。後に「開元の拍」と称えられる治世の下に'唐王朝に空前の繁栄. めた功労者である隆基は、二年後の先天元年(七一二)、父の審宗から. 臨滴王李陸基(のちの玄宗)であった。武后没後の王室内の波乱を鎮. 后・安楽公主とその1党を課滅し、容宗を復位させたのが、彼の三男. めに、景龍四年(七一〇)娘の安楽公主と共謀して、終に大の中宗を. 事か. 及び書を制し、石に刻んで功を太療府の南街に紀すo--. ゆだ. 毒殺するに至る。この事件に際し、周到な準備のもとに兵を挙げて葦. つ曹. すること二年、元従の戸は復すること五年。武徳の功臣及び元. への行幸を詠う頚歌である。作品を論じる前に、ここでしばら-開元. 従の子孫に、才の文武に堪うるも未だ官有らざる者有らば、府. 三〇. 初期の中央の動向に日を向けておこ'1.i. 中宗復位ののち政治に容曝しはじめた章后は'政権掌握の野心のた. 岡田. であった。. 随行の役人の下僚という可能性もな-はないであろうが、自負心の強 い彼の性格を考えると、想像をふ-らませに-い。. から見守る旅行者達の一人としてであったと推測される.あるいは'. せよ,豊科前の身である以上、おそら-1行の後を追い、行事を遠-. ば,郷里の「石門を辞し」たのは'行幸の開元十一年(七二三)とび ったり符合することになる。ただ'倣に行幸と共に長安を出発したに. 開元十五年(七二七)進士萱第までの五年間を詠ったものと解釈すれ. 館中に宿り-」詩の「昨日石門を辞し、五年秋露を変ず」の一聯を'. い。もっとも、原田氏が指摘されるように、先の「鄭県にて陶大の公. たことになる.しかし、実はこの作品は、『文苑英華』には宋之間の作 として載せられており、残念ながら確かな証拠とするわけにはゆかな. 収められており、題名から推測すると、この詩の方が「駕幸河東」よ りも先に長安で作られ'昌齢は玄宗の1行につき従う形で長安を発っ. 彼の詩集には、この「駕幸河東」の前に「駕出長安」と題する作品も. 王昌齢がこの時なぜ大原にいたのかについては、はっきりしない。. 月の庚午(五日). これらの行事を滞りな-終え、玄宗一行が長安に帰還したのは、三. 勲一転を嘩っ。浄陰を改めて宝鼎県と為す。. 巳上には1爵を加、え'四品巳上には1階を加、え'階位の官には. 王子、后土を浄陰の准上に嗣り、壇に昇りて行事の官の三晶. まつ.

(13) また、罪優学説に従って王昌齢の郡望を大原と考える原田氏は、昌 齢の大原旅行の目的について、彼がこの地の「功臣及び元従の子孫」 ならば、「才の文武に堪うるも未だ官有らざる者」として抜擢される資 格があり、出仕のためには最高の機会だったという'興味探い仮説を 提示される。ただ、前節で見たように、大原郡望説に疑問が投げかけ られるとなると、この仮説も成立しにくくなってくる。. 通りの意味がある。ひとつは周公の作といわれる古代の音楽の名'も うひとサは日・月・星の三つの天体o原田説は前者を取り、楽の昔の. もと'天子が車より降り立つさまと解釈するが、李注は後者を取る。. 後者であれば、串より降りた天子の威光が天体を巡らせるほどである、 といった意味になろうか。六旬の「六龍」は天子の串駕をいう。「題碑」. は'先の『旧暦書』玄宗紀に見られた'大原府の南街に立てた石碑の せ懸けたほどと称える。. ことを指す。第七旬「容明懸日月」は、玄宗の叡智を天に日月をあわ. 形で把捉することが難しい。しかし、いずれにしても、大原で玄宗の. 結局のところ、この作品が詠われた前後の事情については、確実な 巡幸を仰ぐ昌齢の胸中には、この楓爽たる英主に認められて朝廷の堆. 期待と希望に自身も包まれて、この玄宗寮歌を詠った王昌齢ではあ ったが、しかし、作品の出来自体は、さほどとも思われない。無難に. あわせて込められていよう。あるいは原田氏が想像されるように、こ. 作品かもしれないと述べたが'あらためて読み返してみると、それと. 纏められてはいるけれども、平板な対句には、これといった輝きが感 じられないのである。先に私は'この詩が玄宗に献上されようとした. 列に並ぶ自身の姿が、ふ-らむ希望と共に思い描かれていたに違いな い。「千歳此の時に逢う」という結びの句には'昌齢のそうした期待が の詩そのものが、登用の願いをこめて、玄宗に献上されようとした作. は別の想像もしてみたくなる。. 事を踏まえて'玄宗の井州入りを詠う。薬玉朝を創立した高祖劉邦は、. た高祖・太宗の創業を指し、四旬の「入浦」は、『史記』高祖本紀の故. 出世の機会に恵まれない1介の書生が'なお具体的な形をとらない肴. あるいは情熱的な内容となったようにも思われるからである.むしろ、. 彼がそれを強-意識していたならば、(本来、類型的な表現に陥りがち なのが賛歌の宿命であったとしても')この作品はもう少し個性的な'. 身の登用と直結させて考えていたのであろうか.というのは'もしも. とは疑いない。しかし、この時の彼は、泳い上げる作品を果たして自. この詩の背後に、昌齢自身の未来への期待が重ね合わされているこ. 品なのかもしれない。. 詩の第一旬二旬に見える「曹」「浄」は'大原付近を流れる川の名0 「千産」は、李雲逸注によれば、居民の家々が立ち並ぶ繁華なありさま を指すとされるが、「行在の仮設の建物」とする原田氏の説がよいよう. 藻の十1年'柿に帰って故郷に錦を飾っている.揺らぎかけた唐室を. に思う。第三旬の「開唐」は'この地より挙兵して唐王朝を打ち立て. 復興して開国の故地を訪れた玄宗の姿は、昌齢の目には、その漠の高. とを結びつけたい願望がなかったわけではあるまい.しかし、それは. 望のなかで詠った作品だからこそ、こうしたいわば月並みな項歌とな ったとも考えられよう。無論、王昌齢の心の内に、行幸と自身の登用. 祖にも匹敵する、輝かしい存在として映ったのであろう。また'この 井州と共に一行が足を運んだ港州は'青年時代の玄宗が'別駕として. おそら-絶好の機会といった確かなものではな-、夢にも似た漠然と. ≡. 一年半を過ごした任地でもあった。第五旬に見える「三象」には、二 豊科以前の王昌齢山. 岡田.

(14) 豊科以前の王昌齢山. 大原での作には、 -曹陽寒食地. 風俗嘗束博 鴻雁の天. 竜蛇の火. 晋陽は寒食の地 旧来伝う. 雨は滅す 春は生ず 泣多-して流水は溢り. なみL). 歌発りて舞要は旋る 之推の廟の な. て、彼にはこの後も数年、不遇な日々が続-ことになる。 この他に「寒食即事」がある。. 視点を変えれば'さらに様々な憶測が可能であろうが、いずれにせ 。そし よ結果的には、この作品が彼の登用と結びつ-ことはなかった-. あらわ. 「曹陽」は、唐の井州(大原府)の治所が置かれた県で'現在の大原. を持ち得ない'自身と皇帝との間の遠い距離を思いやっていたのであ. 眺めながら、王昌齢は、そうした幾多の悲劇と、未だに結ばれる機縁. なお、第三旬の「雨減龍蛇火」は、言うまでもな-上記の「龍蛇の. ろう。. の故事が、その起源と伝えられる。著名な話ではある. 歌」を踏まえる.文公と之推の遺恨の火を消すかのように'冷たい雨 が降る、の意。五、六旬の「泣多流水溝、歌覆舞雲旋」については、. 介子推(之推). が、念のため概略を示してお-ことにする。. の巽礼と考える必要はない。介之推を偲ぶ多-の人々、あるいは王昌. 踊りの催しも開かれたのであろう。ただ'「泣多」は'必ずしも祭就中. 李注は'寒食の祭死のなかで果する者、歌舞する者を詠んだ一聯と解. 釈する。当時、寒食の節句はすでに遊楽化きれており、賑やかな歌や. 賞を与えたが'ひとり子推だけが忘れられていたo彼は黙したまま母 と共に身を隠した。子推の従者がこれを憐れんで、宮門に「龍蛇の歌」. 介子推は晋の文公の臣下で、即位前の文公(重耳)の長い亡命生活 につき従って苦難を共にした。帰国即位の後、文公は従者・功臣に恩. 『史記』巻三十九・晋世家、『初学記』巻四所引の『琴操』等に見える. 市。「寒食」は、この地に由来を持つ中国古来の年中行事。冬至から数. 埋めようのない深い亀裂を生じさせてしまう。介之推を観る廟を西に. わずかな過誤が、強い鮮で結ばれ続けていた主君と臣下との尚にも、. 俗と結びついて、後世に伝えられることになったのである。. 子鞍を模し出そうと火を放った。しかし、子綜は木を抱いたまま焼死 してしまった、と。後味の悪い話であるが、これが火を断つ寒食の古. 綴字堆に同じ)自身であって、それを読んだ文公は、山にこもった. 『史記』によれば以上のような話であるが、これが『琴操』では、ち っと悲惨な結末となっている。すなわち、「龍蛇の歌」を作ったのは千. 過ちを記し、且つ善人を施さん」と。. あや44. 解上の山中に分け入ったと開いた文公は、山の周りに囲いをして子推 をその地に封じた。そしてここを介山と名つけて、言った「以て吾が. 気づいた文公は慌てて使者を送ったが、時すでに遅かうた.後'彼が. 所を見ず.」明らかに'文公を龍に、子推を蛇に寧えて親した詞である.. を書きつけて訴えた。「龍の天に上らんと欲するに、五蛇輔けを為す。. な. した期待だったのではないだろうか。「駕幸河東」の類型的な番辞はI. 三二. 龍すでに雲に升り、四蛇各々その宇に入る.1蛇独り怨み、終に処る. たす. 玄宗一行に対して昌齢が感じているなお遠い距離と、焦点を結ばない ままふ-らむ憧れを反映しているようにも見えるのである。. 岡田. 空しく人の憐れむ所と為れるを. 西に見る. めぐ. 雨滅龍蛇火 4春生鴻雁天 泣多流水瀧 歌蓉舞雲旋 西見之推廟. 風俗. えて百五日目の前後三日間'火気を禁じて冷たい食事をとる.俗に、. 8空鳥人所憐. おこ.

(15) 白頭吟を. この前後の作と推定され. 齢の涙を集めたかのように、夜来の雨で流水はみなぎる、の意味に取 りたい。. 聴-勿れ. 北のかた大行山に上り. 安-んぞ願う所に従うを得ん. 若し槍浪子に非ずんば. 憂怨し易し. やす. また、「悲哉行」も詩中に見える地名から、 ている。. 1勿聴白頭吟 人間易憂怨 若非槍浪子 4安得徒所願 北上大行山 臨風間吹甫. 明帝が最初の作者であった。また続いて引かれる『楽府解題』の説明 によれば、陸棲、謝恵連らに作品があり、皆「客遊して物に感じ憂思 して作」られたものという。王昌齢の詩もその直系ということになろ 1つ0. 第1句の「白頭吟」は、古楽府の題名.湊の司馬相知の妻、卓文君. の作に始まると伝えられる。相知が茂陵の人の娘を側室にしようとし. た時、卓文君は「白頭吟」の詩を作って彼に送り、離婚を申し出た。 このため、相知はその女性を迎え入れるのを止めたという。歌辞の内. 正直な心を持つ官女や臣下が、蔑藷によって主君の恩愛を失ってしま ぅことを傷むo王昌齢のこの旬も、そうした後世の白頭吟を念頭に置. 容は、自首に至るまで情誼を保ち続けられないことをにくんだもの。 しかし、時代が下って、南朝宋の飽照、陳の張正見らの作品になると、. 倹忽として膚寸に還る. いて歌われていよう。なお'「勿聴」は、『文苑英華』では「毎聴」に. 精意は詠ずること能わず 息むことを容さず. れている。. 第三句の「槍浪子」は、『楚辞』の「漁父」篇に典故を持とう。放逮 された楚の屈原に対して隠者と覚しき漁父が歌ったとされる'「槍浪歌」 海上の人の. 始めて悟る. は余りにも名高いが'李注はここから、世を避けて住む隠者を指して. 詠われている「玄菓子」は'唐代の隠士張志和の号。)王昌齢のこの「槍. が、漁父と下の旬の「従所願」とがいまひとつしっくり結びつかない. すべきであろう。となると、『楚辞』め漁父ということになるのである. 例を見ると、明らかに固有名詞として用いられている。(併称する形で. 上太行山、報哉何醜貌」をそのまま借用しており、したがって、フィ クションの可能性も十分考慮に入れなければなるまい.しかし、詩を. 浪子」も同様に、隠者一痕ではな-、特定の人物を指していると解釈. 岡田. 「悲哉行」は、『楽府詩集』巷六十二に引-『歌録』によれば'貌の 登科以前の王昌齢山. :冒. 体験を詠っているように思われる.. 通読した印象から言えば、大行山上からの眺望の-だりは、やはり実. 作品に「鎗浪子の後の玄貴子,冥冥として江の氾に釣し隠前」とある. 「漁場子」と称するようになったと説明する。ただ、中庸の詩僧瞭然の. 君に辞して永-飛過せるを. 草蔓を生ず(-). 作るけれども'強い印象を与える歌い出しとしては、「勿聴」の方が倭. 其の微減の時を観るに. 数千里. 風に臨んで吹万を閲す. けみ. あた. ゆる. 長雲散千里 8倹忽遠膚寸. なか. 是る処. やす. 観其微減時 精意莫能論 百年不容息 l・2是庭生芋蔓 始悟海上人. 百年. 第五旬の「北上太行山」が、制作年代推定の手がかりとなる。もっ とも、楽府題の作品である上に、この旬は、貌・曹操「苦寒行」の「舵. 箭岩永飛遊. 人間 も いヂ. 長雲 いた.

(16) 豊科以前の王昌齢山. 参考に、君子の出世の途を阻む小人の喰えと解すれば'第一旬の「白. 蔓草と成り、徒らに千載の魂を悲しましむ」などから類推すれ. 気もする・あるいは,誰か別の隠者ないしは仙心を指してこういって 「霊跡. ば、栄華の地の荒廃した有様を指すと取ることも可能であろう。. 第十三旬の「海上人」は'栄達・富貴を捨てて海辺の地に逃れ去っ. る長大な薯も、忽ち小さな1片にもどる」と詠う。第十旬の「精意」. 膚寸にして合す」とあるように、雲は岩石に触れて任じ、小片が合し て大きくなると信じられた。この旬は、それを逆用し、「数千里にわた. 人.高踏的な生き方を守って出仕しなかったが、他人の難儀を救うこ とを喜んだ。斉の将軍田単が燕軍の立て龍る柳城を攻めあぐんだ際'. は、普通、心を尽-す'専心するの意に用いられる。しかし'ここは、 精妙な意味・道理のことであろう。李国勝『王昌齢詩校注』によれば、 明の正徳刊本は,「精義」に作るという。この一聯、「その雲の消滅の時 を観察してはみたものの、万象の変転の精妙な道理は説き明かせそう. はしいよま. れ隠れて日く、吉. したが. 富貴にしてひとに敵わんよりは'寧ろ貧購にして. 世を軽んじ志を韓にせん、と」とあるo李注は、『列仙伝』た見える秦. 始皇帝の時代の仙人、安期生を挙げている。李国勝『校注』が秦の方. 士徐福の話を引-のは、適切でない。十四旬の「飛遊」は'「飛遁」「肥. 涯百年にわたって、過ぎ行-時にせき立てられ'しかも思うに任せぬ. 王昌齢は、この後も折に触れ隠逸への憧れを泳い続ける.1方に登. 彼にはあらためて深々と理解できた気がするのである。. れを告げて隠逸の自由の世界へと旅立った「海上の人」の胸のうちがI. 憂いの人生.それを思う時、俗世の1切の束縛を断ち切り、主君に別. ほぼ同義で、押韻のために語順を逆にしたとも考えられる。孟浩然の. 革葺」に作るのに従ってみた。「草蔓」は、雑草やつる草。「蔓草」と. (生気、活力)」が荒れ衰えると解釈するが、「蔓」1字でこの意味に用. を見,その中の微小な存在に過ぎない人間の1生に思いを馳せるo生. 大行山に登った吉日齢は、眼下に広がる世界に万象の変化生. からざるなし」とあるのに基づ-0. 遊」とも書き、隠居、遁世の意味。『易』の撃上九に「肥遊、利ろし. よ. にない」といった意味になろう。 第十一旬の「百年」は、人の一生。「不容息」は、『准南子』の原遺 訓に「時之反側、間不容息」とあるのに基づ-。『文苑英華』が「不容 易」に作るのはよ-ない。次の第十二旬は、意味が取りづらい。「是塵」 は「到処」と同じで'到るところ。下三字は『全唐詩』では「生意蔓」. むし. いる例は他に見当たらず、かなり苦しい。ここでは、『文苑英華』が「生. に作る。李注は'「蔓」を「蕪葺(荒れ果てる)」の意味に取り、「生意. 地に逃れ隠れてしまった。『史記』の記述によれば、「魯連. 伸連は燕軍の将に手紙を送って彼を自刃させ、田単は城を陥落きせる ことができた。凱旋した後、爵位を与えようとすると、伸連は海辺の 海上に逮. 十三に載る魯伸連などはこれに該当しよう。魯仲連は戦国時代の斉の 羊伝』債公三十1年'『説苑』耕物篇などに「曇は)石に触れて出で、. 万物を挙っ働きを言う。第八旬の「膚寸」は、わずかな長さ。『春秋公た隠士。必ずしも特定の人物一人を指すとは限らないが'『史記』巻八. 第六旬の「吹寓」は『荘子』斉物論に見.え、よろずの穴から吹いて くる様々な風。転じて、宇宙の元気に養われる万物'あるいは元気が. 頭吟」ともうま-呼応することになろう。あるいは李白の「古風」の. 岩扇. いるのかもしれないが、管見の限りでは手がかりになる資料が見当た らない。待考。. 岡田. 詩に「蔓草は極野を蔽い、蘭芝は瓢根を結ぶ」(「示孟郊」)とあるのを. おお.

(17) 詩題に見える雀鳳童については、資料が見当たらず明らかでない。 ただ、原田『王昌齢伝』 の指摘は興味深い。氏は、玄宗の娘の高都令. 用への熱い思いを抱き続ける彼が、そうした世界に強-引かれる理由 のうちには、移ろいやす-「憂怨し易い」人の世で'彼が置かれた不. 河の名門として知られる雀氏の出身で'『新唐書』巻七十二・宰相世系. 主の結婚相手であった峯悪童の名前に注目する。この恵量は、河北滑. 運な境遇と、そこからの超脱を願う気持ちがあ.ったといえよう。 なお、険峻をもって知られる大行山は、世路の報難を連想させる詩. がいる.また『唐詩紀事』巻二十五には'恵童と鹿んで、弟の敏童の. 表によれば、父は右鹿衛将軍糞州刺史の庭玉、兄に孝童・嗣童の二人. 的題材であったと同時に、神仙的な世界と結びつ-伝説をも持ってい る。『太平広記』巻九は、『神仙伝』からの引用として'貌の王烈がこ. 徒らに川に満てり』に響いているように. 覆いつ-してゆ-。「龍標(王昌齢). の五言律の音節は多-古詩に似、. 実味と生命を与えられ、川面に満ちる清らかな風とともに作品世界を. かび上がる.そして友を思う彼の心情は'結びの1旬のよって深い真. の孤独な姿は、「粛候郡城閉」以下の前半の情景描写を通じて静かに浮. ひっそりとした旅館の一室で'秋の月に向かい暮れの鐘を問-昌齢. 向けてみることにしよう。. 竪は控えて、友情を詠う詩として、あらためて作品の表の世界に目を. のであったと、この作品は言いたげである。私たちは'これ以上の穿. としても、鳳童に対する友情は決して下心のためではない'真実のも. 詩は詠われていない。むしろそれを消し去るかのように、風量に対す る友情が作品を後半から押し包む。仮にそうした背後の事情があった. ただ、この優れた推論にさらに論拠を与えて-れるようには、この. 感ぜられる。」と,氏は推論を結平. ではないか。それが『清風. 対して、王昌齢が自分の推薦者となって-れることを期待したのでは、 という推測も成り立とう。「昌齢の用件は、鳳童が娩曲にことわったの. 童の兄弟か従兄弟の一人ではないかというのが、原田氏の推論である0 この仮定の上にたってさらに想像を遥し-すれば、この名家の子弟に. 詩が載る.残念ながら鳳童の名は見えないが'ここから類推して'恵 余. の山中で、不老長寿の仙薬となる青色の石髄を得た話を載せ、昌齢も. 寄られている。昌齢も前後してここを訪れたのであろう。詩は、この. 推定される。井州の南音数十キロの距離にある洛州は先にも述べたよ うに玄宗のかつての任地であり、この開元十一年の行幸の際にも立ち. 格好の場所だったようである。 さらに、「淋府の客亭にて雀鳳童に寄す」もこの頃の作ではないかと. 難と、神仙・隠逸への憧れを心に呼び起こす舞台としては'大行山は. 別の「就道土間周易参同契」詩において、この逸話を踏まえて「嵯 に遺骨なし、我を発きて大行に入れしめよ」と詠っている。人生の報. あゝ. 地で知り合った雀鳳重なる人物にあてられたもので、一夜語り合って. 情は依然たり. 偶ま相訪ね. たまた. 秋月は憂客に対し 山鐘は暮天に揺る. 寒煙空し. 別れた後の寂しさを詠う。 1藩侯郡城閉 粛候として郡城閉ざし 旅館空寒煙 秋月封憂客 4山鐘掻暮天 新知偶相訪 斗酒情依然. 長倉を阻み. はぼ. 徒らに川に満てり. いたず. 岡田. 一宿阻長倉 8清風徒浦川. 旅館. 清風一宿斗酒新知. 豊科以前の王昌齢山. 芸. ひら.

(18) 登科以前の王昌齢岨. 清骨閑情は時に其の奥を見る」とは、この詩に対する明の鐘怪の評で (『唐詩帰』巻十こ'確かにそうした賛辞に催する佳作であろ う。彼の詩の一つの特徴でもある清冷な自然の美しさと'そこに巧み. あるが. に溶かし込まれる作者の心情とは、七言絶句のみに限って見られるわ けではない。律詩あるいは古詩にも優れた描写は多-、詩人としての 非凡さを示すそうした一面を、私たちはこの作品を通じて確認し直し てお-べきであろう。 以上、開元十一年前彼の作と推定きれる、最初期の・作品群六首を取 り上げてみた。推定の根拠は必ずしも確実なものではな-'実際には これ以後の作品も含まれようが'王昌齢の初期の詩風を垣間見る役に は立とう。これらの詩は、「駕幸河東」を除けば、いずれも不遇を託つ 心境を反映した作品であり'青年期の彼の困窮をおのずから現わす結 果となっている。また、出仕への強い願望と同時に、隠逸的な志向が 顕著である点も特徴的である、詩型からいえば'七言絶句がまだ登場 してこない点が注目される。彼の七絶作品は制作年代不明のものが多 く、したがって断定的なことは言えないけれども、どうやら彼は、そ の出発点から七絶を創作の中心とする作家だったわけではなさそうで ある。少な-とも前掲の数首を覗いただけでも、王昌齢を単純に七絶 詩人と規定すべきでないことは明らかであろう。 ところで、これらの作品には全-顔をのぞかせていないけれども、 王昌齢という詩人について考える際、忘れてはならない事柄が、この 時期には潜んでいるように思われる。それは、辺域に関する知識の吸 収と蓄積である。 後年( 彼はしばしば、辺塞問題に関する意見を自信に満ちた口調で 開陳⊥ている。辺域の地理に関する知識にも相当な自負を持っていた. :':(. 以て天兵軍大使と為す。. の投降者・内附. る西辺への旅行と共に∵詩人として政客としての王昌齢を理解する上. 内に蓄えていったに違いない。.その意味では、この時期は、後に述べ. は、辺地に関する多-の知識と体験をここで摂取し、我がものとして. ことであろう.大原1帯を旅し、「太行の北」にl時期居を構、え. 原は、都からの旅人に辺域の実情を教えるには十分な役割を果たした. 国境地帯から距離をおいてはいても'異民族とその情報の集まる大. (『資治通鑑』巻二ニー・玄宗開元五年). 請う」と。辛酉、天兵軍を井州に置き、兵八万を集め、嘉貞を. 大原以北に散居せり。重兵を宿さしめて以て之を鎮めんことを. 井州長史の張嘉貞上言すらぐ、「突厭の九姓の新たに降れる者I. 着たちが散居しており、彼らを統治するために、開元五年(七一七) には、張嘉貞の進言によって井州に天兵軍が設置されている9. 大原以北には突厭(-ルコ系の遊牧民族、チエルタ). たと考えられる.また,次に挙げる『資拍通鑑』の記事な'aによれば、. 北方の中心をなす要地であり、辺境の様々な情報もここにもたらきれ. 後に北都あるいは北京の名を冠して重視されたこの唐ゆかりの地は、. 隔たり、辺境とは言えない。しかし、長安・洛陽の東西の都に対してI. 少なからぬ部分は、-この時の太療を中心とした旅行によって得られた ものではなぃだろうか.大原は'異民族と国境を接する地域とはなお. 与に儀う無し」とまで豪語する。こうした自信を支える知識と経験の. らしく、晩年に詠われた「璽裸引」においては、「山川に洞唆せること たぐ. で、忘れてはならない重要な意味を持っているのである。. (続). 岡田. とも.

(19) の頓に、「又西北し、左に狗蜘川水を. -‥後の作品「宿頑上寄侍御喚弟」詩においても、彼は「我が槍演の心は腐 儒の輩を脱略す--」と述べている。 2‥『水経注』巻十九・洞水の「薪水」 合す。水に二源あり、西川は上に観山の析柴谷を暴け'次いで東して苦谷 の二水あり。--其の(苦谷の)水は右に東川水を合し'南山の石門谷よ り出づ。」とある。『読史方輿紀要』は、巻五三・駅西西安府・藍田県の項 で、「石門谷は藍田鼎の西南五十里、唐時に石門鏡あり。」と説明する。 なお'元・絡天顔『類編長安志』巻六には石門湯泉の名が見、え、『旧図経』 を引いて、唐初に発見された石門谷口のこの温泉の由来を紹介している。 石門は当時、藍田・藍漢とともに、この一帯を代表する名所だったようで ある。 3‥原田憲雄、李雲逸は、「箭石門」を登科前の旅立ちを指すと考える。胡問 涛は、開元十五年の及第、出仕のことと見なすけれども'やや無理がある ように思われる。 4‥当時の政界の動向等については、『旧唐音』『新暦書』『資治通鑑』などの 基本資料のほか、何冊かの概説・研究書を参照したが、なかでも許通勤・ 過克尭『唐明皇与楊貴妃』 (人民出版社) が参考になった。 5‥「奉和顔魯公異卿落玄異子船艦舟歌」。なお、「槍浪子」の名は、同じ瞭然 の「訪陸庭土羽」詩にも、「莫是槍浪子、悠悠1釣船」と見える。 6‥この旬は'実は古詩の「西門行」の、「白井仙人王子喬'計骨寿命難輿期。」 を踏まえて歌われている。下旬の「任所顧」と考え合わせると、「鎗浪子」 はただの隠者ではな-、神仙的な存在であるようにも思われる。 7‥『王昌齢伝』五四真。 8‥『旧唐書』『新唐書』の張嘉貞伝にも、開元初のこととして記事が見える。 9‥王昌齢が「大行の北」に居を構えた時期の詳細については不明であるが'. 岡田. 南地左遷が相継ぐ後半生を考え合わせると、豊科以前と見てほぼ間違いな かろう。. 登科以前の王昌齢山. -ヒ. 注.

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経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

  中川翔太 (経済学科 4 年生) ・昼間雅貴 (経済学科 4 年生) ・鈴木友香 (経済 学科 4 年生) ・野口佳純 (経済学科 4 年生)

平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

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学年 海洋教育充当科目・配分時数 学習内容 一年 生活科 8 時間 海辺の季節変化 二年 生活科 35 時間 海の生き物の飼育.. 水族館をつくろう 三年

①中学 1 年生 ②中学 2 年生 ③中学 3 年生 ④高校 1 年生 ⑤高校 2 年生 ⑥高校 3 年生