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A “Light” of Passage-ウィリアム・トレヴァー「アトラクタ」を読む

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A “Light” of Passage——ウィリアム・トレヴァー「アトラクタ」を読む

合 田 典 世

A “Light” of Passage : Reading William Trevor’s ‘Attracta’

Michiyo Goda

 ウィリアム・トレヴァー(William Trevor, 1928-2016)の短 「アトラクタ」(Attracta)(1978) は,「つまらない作品をひとつとして書いたことのない」(若島 113)との定評を誇る彼の作品の 中でも,特別な強度をそなえているように思われる。Gregory A. Schirmer によれば,トレヴァーの 物語に特徴的に見られる「状況や関心事」は,以下のようにまとめられる。

a confrontation between people from different classes, a plot that tracks the attempt of one character to break out of a solipsistic existence and establish some connection with a world beyond his own, and a climactic scene in which one character takes on the role of truth-teller (88)

こうした要素は「アトラクタ」にも当てはまる。とりわけ,ここで言及されている “truth-teller” と は,平穏な日常に亀裂を生じさせ,覆われていた「真実」を露わにするという異化効果をもたらす 点で,いかにも短編にふさわしい,そしてアイルランド作家の先達たるジェイムズ・ジョイス的な 「エピファニー」の演出に寄与する存在であるが,本作品では主人公のアトラクタ(Attracta)が該 当するとひとまずは言える。61歳の小学校教師である彼女は,アイルランドの悲劇的な歴史に起因 する教え子の無念の死をきっかけに,自らの過去を振り返り,学校の子供たちに向けて,これまで に明かしたことのない自分の半生を語り,凄惨な現実を前にしながらも希望を持ち続けるよう強く 訴えかけるに至る——まさしく「独我的世界を脱して新たな世界との絆を築」こうとする “truth-teller” の姿がここに見て取れるだろう。ただし,この作品の「特別な強度」は,アトラクタを含め 実に複数現れる “truth-teller” たちの存在によって「語り」の行為が前景化され,いわば「語ること」・ ・ をめぐる寓話としての深みを獲得することでもたらされるように思われる。本稿では,こうした作 品の深層を掘り起こしてみたい。 1.「アトラクタ」の “truth-tellers” 1-1. 第一の “truth-teller”——新聞記事  作品は次のように始まる。

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if all her life as a teacher she’d been saying the wrong things to the children in her care. It saddened her when she thought about the faces that had passed through her schoolroom, ever since 1937. She began to feel she should have told them about herself. (675) 1

1937年 から教 を執ってきた女性教師,という主人公についての情報を提供するこの箇所はしか2

し,彼女が新聞記事から受けた衝撃と混乱をいわば読者にも追体験させるような格好になっており,

読者はむしろ多くの ——「ペネロペ・ヴェイド」とは誰か,どのような内容の記事だったのか,

そしてなぜ「教員人生で子供たちにずっと間違ったことを言ってきた」「自分のことを語るべきだっ た」と思ったのか——を突きつけられる。物語は以降, “truth-teller” たちの声を借りながら,徐々 にこれらの「 」を明かしていくのだが,ここでまず注目したいのは,“an item … upset her”,“[i]t caused her to wonder”, “[i]t saddened her” といった文型によって,この新聞記事(an item)も,アト ラクタに影響を及ぼす動作主,すなわち「語り手」としての存在感を帯びることで,一種の “truth-teller” として立ち現れることである。果たして,教え子のペネロペ・ヴェイドの自殺(English Girls’s

Suicide in Belfast (676))を報じるこの「語り手」は 彼女の日常に大きな揺さぶりをかける—— 「新聞記事を読んでから半月たっても,アトラクタの動揺は収まら」ず,「夜ひとりで過ごしてい ると,突然心の目の前で情景が動き出し」たりするほどに,記事の内容は彼女の心に根をおろすこ とになるのだ(676)。  この衝撃の度合いは,ほとんど退屈なほどに平穏な日常の描写との対比で一層強調されている。 子供の頃から住み慣れた田舎町でひとり規則正しく過ごすプロテスタントのこの女教師は,今や町 の “familiar figure”(675)である。独身を貫き,過去2度あったという結婚のプロポーズも「みんな 今や大昔のこと」(675)で,断ったことへの「後悔」(675)もなく,たまに街に出かけて映画を 観ても,昔ほどワクワクしなくなったというアトラクタの枯れ具合は,たとえば,かつては “the ・ ・

dreamland of Fred Astaire and Ginger Rogers” の具現であった田舎町の映画館(O’Mara’s Picture House) が今や “a ruin” になっていることがあるいは象徴的に示しているだろう(678)。一方,彼女が働く 教室で, “England’s kings and queens” の肖像画が飾られた壁にあとから “Irish heroes” が加わっている というさりげない描写(675)は,アイルランドに影を落とし続ける歴史的動乱——のちに明かされ るアトラクタの過去の「悲劇」にも関わる——を確かに暗示している。とはいえ,昔から「あまり 変わっていない」(675)慣れた職場で長年続けてきた仕事を前任者と同様70過ぎまで続けられる 「ものと思っている」 (ここでの “assume” という語も結末を思うと不穏な伏線として響く)彼女

「アトラクタ」のテキストは,Trevor, William. The Collected Stories. Harmondsworth: Penguin Books, 1992.による。引

1 用箇所の後の丸括弧内に頁番号を記す。引用中の下線はすべて引用者による。 1937年は,イギリスの自治領であったアイルランド自由国においてアイルランド憲法が公布され,国名をアイルラ 2 ンド(エール)へ変更した年であり,1949年のアイルランド共和国としての完全独立への布石となった。アトラクタ の半生は独立前後の動乱期と重なっており,物語の「現在」の70年代は北アイルランド紛争が激化した時期であった

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は,このまままさしく “ruin” となっていく自身の未来を静かに受け入れているのであり,それはた とえば,“hadn’t much cared for” や “didn’t mind” といった彼女の心情描写に特徴的に現れる否定表現 も示すところであろう(676)。“There’d been tragedy in her life but she considered that she had not suffered.” (676)に至っては,否定表現(she had not suffered)に,“she considered” という語句が添 えられることで,自身のことを他人事のようにしか見ていないような奇妙な距離感が見て取れるが, 却って封印された過去の「悲劇」の不穏な蠢きのようにも捉えられる。果たして,新聞記事を通し て文字通り “defamiliarize” された彼女の生において以降浮上してくるのが,その「悲劇」なのであ る。 1-2. 第二の “truth-teller”——ミスター・パース  「悲劇」の全貌は,アトラクタの回想の中に現れる第二の “truth-teller” によって明らかになる。 その「語り手」とは,11歳になったアトラクタに両親の死の真相を告げるミスター・パース(Mr. Purce)である。3歳で両親を亡くしたアトラクタは,エメライン叔母さん(Aunt Emmeline)のもと に身を寄せるが,彼女が叔母以上に慕うことになった(“She [Attracta] imagined it was what having a father was like”(680))のは,赤の他人であるミスター・デヴェルー(Mr. Devereux)とその家政 婦,ジェラルディン・ケアリー(Geraldine Carey)であった。ところが,アトラクタの子供時代の温 かな記憶を彩るこの二人が,実は過去に過激な民族主義者として活動しており,彼女の両親を誤射 で殺した張本人であったことをミスター・パースから知らされるのである。当然,告げられた衝撃 の内容を,彼女はなかなか飲み込むことができない。

Attracta didn’t know what he [Mr. Purce] was talking about. (681)

   But that her parents should have been shot, and shot in error, that the whole thing had somehow

been the responsibility of Mr Devereux and Geraldine Carey, seemed inconceivable to Attracta. (682)

It was impossible to believe him [Mr. Purce]. It was impossible to visualize the housekeeper and Mr Devereux in the role he’d given them. No one with any sense could believe that Geraldine Carey would kill people. Was everything Mr Purce said a lie? (683)

Attracta didn’t believe that, and more certainly now it seemed to her that everything My Purce said was untrue. (683)

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二人が爆弾を仕掛けたりするさまを思わず「想像」してしまいながらも(684),ミスター・パース の告げる “truth” がこうして “lie”, “untrue” と執拗に否定される以上,アトラクタの “truth” は別の形 で存在するのである。 1-3. 第三の “truth-teller”——アトラクタ  アトラクタにとっての「真実」,そして教え子の死と彼女の人生との関連は,第三の “truth-teller” たる彼女自身の語りにおいて明らかになる。予定されていた授業内容は捨て置き,ペネロペ・ヴェ イドの自殺について,自分に起こった昔の「悲劇」と照らしながら,真剣に熱のこもった調子で教 室の子供たちに語り聞かせる。アトラクタをここまで動かしたのは,次のような洞察であり,それ は彼女にとって一種の啓示であった——“‘My story is one with hers,’ she [Attracta] said. ‘Horror stories, with different endings only’”(688)。アトラクタとペネロペ・ヴェイドは,家族がアイルランドの歴 史の犠牲になったという点においては「同じ(one)」 と言える。が,前者が周囲の人々の優しさ でこれまで幸せに生きてくることができた一方,軍人であった夫の首を自宅に送りつけられ,それ でも負けじと夫を殺されたベルファストで平和活動に尽力する中,同じ敵たちに今度は自分が強姦 されるという目に遭った23歳の教え子は, “[t]he gleam of hope” (689)すら見出せない絶望のうち に死んでいった。のちにアトラクタ自身が認める通り,アイルランドの現実を前にしての希望の有 無という一見小さな要素が,“different endings” をもたらす大きな違いとなったのである。  しかし最初は,なぜ教え子の死亡記事にここまで動揺させられるのか自身でも「不確かに」 (676)しかわからず,いつしか封印してしまった過去を回想することで得られた内省の時間—— 「事実」としては動かしようがない一方,「意味」のレベルでは当初は宙吊り状態に置かれていた 過去が,現在において新たな「意味」を獲得していく過程——を経なければならなかった 。結局,3 衝撃ののちにもたらされたのが,現在と連動する過去の異化,書き換えであったことが,この物語 のクライマックスに至って確認されるのである。 2.「語り」の暗喩性——想像と創造  そして,こうした視野の拡張を導いたのが,次のような “imagine”, “see” という語の強迫的な反 復・強調から顕著に伺える想像力である 。 4

‘Can you see that girl [Penelope Vade] ? Can you imagine men putting a human head in a tin box and

このように,回想する「現在」の経過と連動する形で「過去」が見直されるという語り方は,たとえばカズオ・イ

3

シグロ『日の名残り』(Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day)(1989)にも見られる。

「アトラクタ」と同様アイルランドの凄惨な歴史が “truth-teller” によって前景化される短編 ‘Beyond the Pale’ (1981)

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sending it though the post? Can you imagine her receiving it? The severed head of the man she loved? (686)

She [Attracta] tried to get into the children’s minds an image of a baby sleeping while violence and death took place on the Cork road.(687)

‘But I tried to imagine,’ she said, ‘as I am asking you to imagine now: my mother and father shot dead on the Cork Road, and Mr Devereux and Geraldine Carey as two monstrous people, …’ (687)

‘I tried to imagine a night I’d heard about,’ she said, ‘when Mr Devereux’s men found a man in Madden’s public House …’(687)

‘… I think of her [Penelope Vade] now and I can see quite clearly the flat she lived in Belfast. I can see the details, correctly or not I’ve no idea. …’ (688)

‘… And can’t you see her [Penelope Vade] lying there, mice nibbling her dried blood?’ (688)

アトラクタが受けた衝撃は,この想像の強度と連動している。“image” を脳内に「見る」“imagine” という行為を,(もちろん実際に見たわけではない—— “correctly or not I’ve no idea”)ペネロペ・ ヴェイドの自殺のシーンにおいて実践する彼女は,対象と文字通り一体化してしまう。

‘… I drag my body across the floors of two rooms, over a carpet that smells of dust and cigarette ash, over rugs and could linoleum. I reach up in the kitchen, a hand on the edge of the sink: one by one I eat the aspirins until the bottle’s empty.’ (688)

他者と渾然一体となるほどの「想像」行為とは,「追体験」の極致であり,いわば無から有を生じ させる「創造」行為でもある。 “She” が “I” に取って替わられてしまう語りはこの意味で,フィク ションを創造する作家の営みとしての暗喩性を帯びてくる。さながら読者に対する作家のごとく, 自分が想像/創造したことを,聴き手にもそのまま共有し,追体験するよう誘っているのだ。  ただしここで慎まねばならないのは,一人の女性の啓示への道筋をアイルランドの歴史という重 厚なテーマと絡めて描くことで,想像力や「語り」の行為が神聖化される,というような一見美し い構図に作品を落とし込んでしまうことである。アトラクタの語りの熱に圧されて,こうした安定 的な構図を揺らがせる要素の存在を見落としてはなるまい。  そもそも,このように強烈な想像力の例はトレヴァー作品において枚挙にいとまがなく,たとえ ば,トレヴァー的閉塞状況に置かれた独身中年たちを描く「ロマンスのダンスホール」 (‘The Ballroom of Romance’)(1972)では,ヒロインのブライディ(Bridie)が想像する,ひそかに憧れ る男性ドラマーとの「将来」が異様な具体性を帯びていた。さらなる変奏として,盲目の夫の目の

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代わりを務める二人の妻を描く「ピアノ調律師の妻たち」(‘The Piano Tuner’s Wives’)(1995)は, 先妻に嫉妬する後妻の切ないまでの「嘘」を「見抜いて」いる夫の姿を通して,身体的な視力より も「心の目」のある種の確かさ,重要さを伝えるものであった。全身全霊の追悼へとアトラクタを 動かすのも,実際に見ていない出来事をありありと現前させる「心の目」の働きであると言えよう。 この「開眼」が,本作品におけるひとつの「エピファニー」となっている以上,アトラクタの語り, そしてそれが暗示するフィクションの営みが神聖視されても不思議ではないかもしれない。  しかし,彼女の語りは,戸惑いながら「先生はもう年だから」(689)とあくまで冷静にしか見る ことのできない子供たちの反応や,保護者からの声で早期退職を余儀なくされることになる結末が 示す通り,むしろ失敗に終わっている。さらに言えば,聴き手を戸惑わせるばかりであった点にお いては,アトラクタの語りはミスター・パースの執拗にして一方的な語りと似通っている 。もちろ5

ん,結果よりも伝えようとする行為そのものが尊いという見方もできよう(“but it was something for all that”(689))が,伝えたい相手に伝わらない虚しさは否めない。いずれにせよ,ここで重要な のは,「語り」の成否をあえて小説という物語メディアにおいて扱う作者のふるまいに,「語り」 の行為や「語る」媒体へのメタ的な問題意識が見出せることである。これに関連してまず,登場人 物間の構図に注目してみたい。 3.“light” の限界    アトラクタと彼女をとりまく人々——エメライン叔母さん,ミスター・デヴェルー,ジェラル ディン・ケアリー,ミスター・パース,そして学校の子供たち——の関係は,反転の可能性に満ち ている。すでに見た通り,アトラクタに親切にしてくれたミスタ・デヴェルーとジェラルディン・ ケアリーは実は「敵」であったし,一方,二人に対して最初は警戒を隠さなかったエメラインおば さんは,彼らからの親切をきっかけに態度を軟化させる。ミスター・パースはよかれと思って(つ まりアトラクタの「味方」として)両親の死の真相をアトラクタに告げるが,なかなか素直に受け 入れられないでいる彼女を,最終的には,「悪に染められている」と糾弾しながら死んでいく (685)。さらに,従順であったはずの学校の子供たち(discipline had never been a problem(675)) は,教師の渾身の語りかけにただ戸惑うばかりで,保護者を介してアトラクタの早期退職に至るきっ かけをつくることになる。   このように人物間の対立構造が揺らぐ可能性は,テクストの細部にも見出せる。たとえば,お前 に親切にする二人は「敵」なんだから今後一切近づかないように,と伝えるミスター・パースは一 見,敵が敵でなくなるという啓示に導かれていくアトラクタに比べ,偏見に満ちた頑迷さが強調さ れているように見える。いきおい二人の「語り」もそれぞれ,人物像に呼応させて対照的に読まれ かねないが, “He [Mr. Purce] wanted her [Attracta] not to forget, not realizing that there was nothing for her

聴き手の反応もそれぞれ興味深いことに似た表現で描かれる。“Attracta didn’t know what he was talking

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to remember”(687)という箇所が,子供たちを相手にしたアトラクタの語りにも当てはまることを 見逃してはなるまい。「追体験」というと言葉は美しいが,自らの思いを突然,何の前提も共有し ない相手にぶつけるという暴力性もそこには潜んでいるのである。また,両者の思考回路は(内容 はともかく)相似したパターンをとりうる。たとえば,“He [Mr. Purce] couldn’t help believing that immorality continued in the relationship between Mr. Devereux and his housekeeper.” (685)は,“Yet she [Attracta] could not help still believing that it mattered when monsters did not remain monsters for ever.” (689)と,文型において共鳴する。確固たる「信念」に基づき「語り」に身を投じ,そしてその結 果,聴き手が当惑させられる,という点においては,両者は似ていると言わざるを得ない。  こうした意外な相似関係をどう捉えたらよいだろうか。ここで注目したいのが,ある語の使われ 方である。アトラクタを困惑させたミスター・パースの頑迷さについて,エメライン叔母さんは “Mr Purce saw things in a certain light.”(685)と言うが,興味深いことに,“light” という語は,実に 人物間の境界を超えて,物理的にも比喩的にも登場し,ひとの数だけ異なる信念,真実(truth)が

あるということをも照らし出しているように思われる。ミスター・デヴェルーらとアトラクタの関・ ・ ・

わりを心配するエメライン叔母さんをなだめるフラワー大執事(Archdeacon Flower)の言にも ‘He’s [Mr. Devereux] doing the best he can,’ the Archdeacon continued, ‘according to his lights.’(680)とやはり “light” が登場する。この “light” は,見方,意見という比喩的な意味に加えて,ミスター・デヴェ

ルーらが,言うなれば,アトラクタへの贖罪を自らの余生を明るく照らすべき「光」としながら生・ ・ ・

きていたということも示唆するだろう 。また文字通り物理的な「光」としても,“light” は興味深く6

現れる。そもそも “light” には必ず “darkness” が伴うものであるが,“darkenss” ならぬ “dankness” (680)を何よりも恐れていたという潔癖なプロテスタント独身女性のエメライン叔母さんが家中を “light” で満たしていた(“Her [Aunt Emmeline’s] house … was neat as a new pin, full of light” (679)) のと対照的に,ミスター・デヴェルーらが過去の “darkness” を反映するかのようなブラインドと カーテンで閉め切られた家に住んでいた(“Behind layers of curtains that hung to the ground, blue blinds obscured the greater part of the light”(679))というのはきわめて象徴的である 。 7

 このように,皆が各々の “light” に従って生きている,ということはしかし,両義的である。当然 ながら,“light” の届く範囲には限界がある。つまり,ミスター・パースに典型的であったように, 結局見たいものしか見ない,わかることしかわからない,よって互いに理解し合うことは難しい, という人間的限界を示すものでもあるのだ。それぞれの「信念」に身を投じたペネロペ・ヴェイド やアトラクタにあっても同様である。物語序盤,教え子の死亡記事によって動揺した心を抱えなが ら海辺を歩くアトラクタの描写には,突然,地元の漁師たちの視点が入り込む。 プロテスタントのミスター・デヴェルーが「教会へ行くことはな」く(678),カトリックのジェラルディン・ケア 6 リーが「神から呼ばれていない」とミサにあまり出ない(679)のも,少なからず罪の意識を感じさせる。 ここで見られる家・部屋と住民の照応関係は,トレヴァーに限らず古典的に用いられる文学的意匠である。このあ 7 たりの事情は,たとえば「室内装飾と精神的内面の鏡映」(242)を論じる高山宏に詳しい。イ ン テ リ ア イ ン テ リオ リ テ ィ

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The fishermen spoke to her [Attracta] as she passed them by but she didn’t reply. It surprised them that she didn’t, for they hadn’t heard that the Protestant teacher had recently become deaf or odd. Just old, they supposed, as they watched her progressing slowly: an upright figure, spare and seeming fragile, a certain stiffness in her movement. (677)

ここでアトラクタが話しかけられても返事をしなかったというのは,きわめて示唆的である。作品 の幕切れ,退職勧告に訪れた大執事を見送った後のアトラクタの描写 “She [Attracta] turned the television on again but when the screen lit up she didn’t notice it.” (690)と響きあいながら,想像行為 が,その強烈さゆえにかえって排他的,独善的にもなりうるということが,目の前の現実に反応し

損ねるという描写によってさりげなく仄めかされているのだ 。彼女の内面で何が行われていよう8

と,傍から見れば,耄碌してきた(become deaf or odd; Just old; spare and seeming fragile, a certain stiffness in her movement)頼りない老女としか映らないというのは皮肉であり,同時に彼女の内省か ら生まれる「信念」や「真実」が全きものではない可能性すら示しうる。ある人物の心象に肉薄し たかと思えば,すっと距離をとって相対化するトレヴァーらしい筆さばきによって,あらゆる登場 人物があくまで「同じ平面で眺められる」(若島 116)好例と言えよう。  かくして「光」が乱反射する中,アトラクタの想像/創造行為,ひいてはフィクションの営為が 相対化される。結局トレヴァーは,「語り」の行為を無闇に神聖化することはない。どんなに崇高 な「光」に導かれているように見えようと,人間は宿命的限界から逃れられない。その意味で,ト レヴァーの「語り」が投じる “light” は,ただ冷徹に現実を照らす「光」でもある。 4.時間の「パッセージ」  ただし,人間の限界とともに前景化される「語り」の行為への作家の透徹したまなざしには,限 界だけでなく可能性への信頼も潜んでいる。「語り手」としてのトレヴァー像をさらに鮮明化する べく,アトラクタが教え子の自死を嘆く次のくだりを見てみたい。

‘She [Penelope Vade] died believing that hell had come already. She’d lost all faith in human life, and who can blame her? …’(688)

‘If only she [Penelope Vade] had known,’ Attracta said, ‘that there was still a faith she might have had, that God does not forever withhold His mercy. …’(688)

Yet she [Attracta] could not help still believing that it mattered when monsters did not remain monsters

これに続く “The face of Penelope Vade came into her mind, the smile a little crooked, the freckled cheeks” (690)は,新聞

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for ever. (689)

‘… It matters that she [Penelope Vade] died in despair, with no faith left in human life.’ (690)

「希望」の有無が両者の明暗を分けたことは前述したが,ペネロペ・ヴェイドがもう少し「信念」 をもてれば,何事も永遠ではなく変化する,と信じられていれば,「絶望」せずに自死を免れえた であろうというここでの嘆きが逆に際立たせるのは,「希望」への道筋である。“not…for ever” と いう語句が端的に示す通り,「時間」の経過による変化の可能性をここでの「希望」は指し示して いる。実際,ミスター・デヴェルーらが実の両親のように可愛がってくれた「年月」が,両親を殺 されたという「事実」を「逆向き」し,アトラクタにとっての「真実」を形作った。

The conversation of Mr Purce had been full of the truth but it hadn’t made sense because the years had turned the truth around. (689)

ペネロペ・ヴェイドもアトラクタも同様に「事実」としての悲劇を背負いながらも,前者が絶望す るしかなかった一方で,後者が「敵」と過ごした「時間」は,その「事実」をも無効化する実感に 支えられた「真実」となって彼女を生かしたのである。 ・ ・ ・ ・ ここで,時間によってもたらされる変化という回路が,時間芸術である小説の要諦でもあること を考え合わせれば,アトラクタに恩寵をもたらした時間の「経過」が,「真実」へ至る「通路」とパッセージ パッセージ しての作家の「文章」でもあることに気づくだろう。逆に言えば,こうした「パッセージ」がもたパッセージ らす実感を伴わずして「真実」は存在しえず,よってそれを即座に他者と共有することは難しい。即 時的伝達・理解を追い求める現代における小説の不遇の所以とも言えるこの宿命的困難・限界とは 結局,身体的・現世的な限界なのである。それでもアトラクタさながら,時を経たのちに(“as days passed into weeks, and weeks into months” (677))起こりうる何かに「微かな希望の光」(“[t]he gleam of hope”(689)) を託す稀代の “truth-teller” は,「語り」の営みが,この世を生きる人間の 「通過儀礼」であることを教えている。 ライトオブパッセージ

引用文献

Ishiguro, Kazuo. The Remains of the Day. 1989. New York: Vintage, 1993.

Schirmer, Gregory A. William Trevor (Routledge Revivals): A Study of His Fiction. 1990. London and New York: Routledge, 2014.

Trevor, William. The Collected Stories. Harmondsworth: Penguin Books, 1992. ——. Selected Stories. 2009. London: Viking, 2010.

高山宏『表象の芸術工学(神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)』工作舎,2002.

参照

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