「犬」を読むために
著者 服部 功夫
雑誌名 同志社国文学
号 21
ページ 46‑56
発行年 1982‑12
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004972
﹁犬﹂を読むために四六
﹁犬﹂を 読むため に
堀 部 功 夫
本文
中勘助﹁犬﹂の文献的成立過程をごく簡便に表示することから始
めよう︒従来は︑単行本所収本文末の記述のみを見て︑初出にあた
り確かめることをしなかったためか︑大正12年作とする記述が多か
︹注︺った︒これでは余りに無造作だろうと思ったからである︒
○大正10年u月 第一稿︑洋罫紙に執筆中︒
○大正10年12月26目 第二稿︑原稿紙に着手か︒
○大正u年3月2目? 右へ鋭筆で手入れ11第三稿︑了︒
○大正u年3月8目 右を訂正浄書11第四稿︑脱稿︒
○︹この間 ﹃思想﹄編輯者が若干字句を削除︒︺
○大正u年4月−目付刊﹃思想﹄第七号に発表︒初出である︒
○大正12年7月4目 改訂本文︑脱稿︒
○大正13年5月10目付刊単行本﹃犬﹄に収録︒ ○この間 読む度に手入れ︒○昭和36年−月30目付刊﹃中勘助全集﹄第二巻に収録︒ このうち︑私の見ることができたのは︑A 初出B 単行本所収C 全集所収 の各本文である︒ Aは︑本文掲載に先だって﹃思想﹄編輯者によるく﹁犬﹂の作者
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑中勘助氏は﹁提婆達多﹂及び﹁銀の匙﹂の作者那珂氏と同一人であ
る︒近来他に﹁那珂﹂と称して物を書いてゐる人との混同を避くる
ため︑氏は今後その実名を署することにした︒ ︹改行︺氏がその寡
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑作に拘はらず︑現代目本の極めて少数な優れたる芸術家の一人であ
ることは︑右に挙げた三っの創作にょって充分示されてゐると思
ふ︒Vとの囲み記事があり︑また本文題下にく︵未定稿︶Vと付す︒
Bは︑Aの改訂本文である︒その改訂部分は︑推敵によるところ
もあるが︑一番口立っのは対警視庁的配慮よりする伏字の多用であ
る︒ Cは︑Bを勘案しっつAを再訂した本文か︒CのくあとがきVは
本作を読んでいくうえで参考となる︒ ﹁犬﹂については
﹁提婆達多﹂ののち頭の中で派沌としてたものが仏教辞典で偶 きぎゃう 然目に触れた鬼形の挿画と︑それから知ったビダラ法といふ呪
法が触媒的に活いて一遍に纏った︒ ﹁思想﹂に出したため岩波
が警視庁へ呼ばれたけれど陳弁これ努めたお蔭で私も無事にす
んだ︒そのとき朱線をひかれた個処はこの本でも全部省いてあ
る︒警視庁はどうやら無事にすんだものの私の周囲や世問はさ
うはいかたかつた︒作者の本意がわからない人びとの軽蔑や︑
嫌悪や︑邪推や︑慣慨や︑大変だつた︒しかし二の人騒がせな
作品は自分ではよく出来たと思つてゐる︒
と述べ︑Cにも︑外圧による省略部分がそのままであることをこ
とわっている︒そのため︑以下の木考に引用する﹁犬﹂の本文とし
ては︑Aを採ることにした︒なお﹁犬﹂本文に限らず︑引用文の字
体は厳密でない︒
︹注︺ ﹁犬﹂大正12年作とするものは
○水沢夏彦︹本考文末掲載文献1︺弘m
﹁犬﹂を読むために ○斉藤昌一二︹本考文末掲載文献3︺P370﹃現代目本文学全集75﹄︹筑摩書房︑昭31・6・25︺の渡辺外喜三郎編一. 中働助年譜﹂叫脱○翻多騨編﹃中学生文学全害一一新紀一兀仕嬰⁝3・一の﹁一中勘 助︺年譜﹂レ醐○吉田精一編﹃日本文学鑑賞辞典近代編﹄︹東京常出版︑昭35・6・30︑ 管見本は後刷︺の熊坂敦子﹁銀の匙﹂項末叫洲 木俣修○川副国基編集﹃人と作品現代文学講座5﹄︹明治書院︑昭35・12・10︺の 長谷川泉 熊坂敦子﹁中勘助﹂弘⁝○藤原久八︹本考文末掲載文献5︺レ附○谷崎潤一郎︹他6名︺編集﹃日本の文学16﹄︹中央公論杜︑昭以・9・ 5︺の浅井清﹁中勘助﹂年譜叫鵬 などである︒このようた風潮のたかで︑正しく初出を報告した功は鉾立春佳にあり︑成立時の中勘助書簡を紹介した労は渡辺外喜三郎にある︒
二 出典若干
︶1有名なガーズニーのサルタソ・マームードは印度の偶像教
徒を迫害し︑その財宝を掠略することをもつて畢生の事業と
して︑紀元一〇〇〇年から一〇二六年のあひだにすくたくと
も十六七回の印度侵入を企てた︒いつも十月に首都を発して
三ケ月の不擁の進軍をっ£けたのち内地の最窟裕な地方に達
する慣ひであつたが︑ ︹略︺ ︹叫1︺
﹁犬﹂の所拠資料などこれまで全く明らかにされていないげれど︑
四七
﹁犬﹂を読むために
この書き出しは︑■苧oo昌岸巨向ミサ曽冬ミミぎ〜ミに拠る部
分があるのではないか︒co昌−艘の同書は﹃提婆達多﹄の参考書の
一つで︑中が目を通していたのはほ父確実である︒oo中&・︵O尊◎a
暮尋¢易−q肩易9岩旨︶の管見本を引用し︑ ﹁犬﹂書き出しに生
かされているらしく思える部分に下線を引く︒ ︑
ま婁§具く冨着忌5プPP訂S︒︒98&&耳プ赤・・◎箏
射&着笛河奉ぎざ寿︸尉o︒ま篶ざ◎署◎9晶亭¢︷◎﹃¢侍■
ぎく邑雪.声宥事︸§易−斗0H︵芦o.8べ︶亭o9◎考■◎︷
COま賞ぎ碕旨q易09箒♀饒異POOぎ斗巨蒜ミ肖◎︷P宥O鼻9
ざ︸オo・8二ぎす冒◎易oo■一s■峯註昌星一ミぎ昌邑¢岸け︸¢
げ易ぎ8oo◎︷巨oo−守8︸買︸亭¢竃◎一go易◎︷巨︷−p凹■︷
s﹃q◎萬芽9﹃肩◎罵﹃︷ざ○︸竃■H.︸oオ8昌り鼻opざ
まき冒邑O昌−易の穿彗8くS箒9¢老&ま◎易ミ◎H邑声
︸事易︸げo■g◎昌1ざ−o︸くo︸尉 oO旨−−■Oo↓◎ずo■p箏p
↓︸o■↓︸H0¢昌◎箏艘oo︐g$p︸昌彗O巨箏胴耳◎■09罧巨昌ぎ8
↓︸¢ユo︸¢go﹃◎く−箏oooo◎︷乎o巨蒜ユ暮.︹poo◎︒甲oo◎︒go︺
右の推測のごとくならば︑中は﹁犬﹂の時代背景的記述を歴史書
の借用で済ませているわけで︑そのてん﹃提婆達多﹄執筆時く参考
書は相当読んだけれど目的は小説で歴史ではないのだから結局自由
な態度をとったV︵﹃中勘助全集﹄第二巻あとがき︶姿勢に通いあ う︒ ﹁犬﹂もいえよう において◎ 四八
時代はそれほど重役をになっていない︑と
2 ︹マームード軍の青年隊長ヂェラルがイソドの娘を凌屠した︒娘はこの異国の青年を憎めず︑かえって慕うようになった︒その娘をみて欲情にかられた老醜の苦行僧が︑起戸鬼をヂエラル方に派遣する︒︺彼は立ちあがつて入口のはうへ歩み寄った︒そして鎖しの紐をほどいて顔を胞すや否や
﹁あつ﹂といつてとびのいた︒と︑解き放たれた入口からぬうつと変
たものがはひってきた︒それは確に人問の形はしてゐるが素
裸で︑全身紫色にうだ腫れて︑むっとするいやた臭ひがする︒
そしてつぶつた目から汁が流れだしてゐる︒腐れか二つた屍
骸なら戦場で見飽きてゐるがこれは生きて歩いてゐる︒︹略︺
手には研ぎすました小刀を握ってゐる︒ヂェラルは覚えず身
をひいた︒一略一そしてヂ一ラルが刀をぬかうくとあせつ
てるうちに相手は突然痙撃的に右手をあげて小刀をぐさと彼
の胸に突きさした︒ヂュラルはどうと倒れた︒そのうへ上折
重って化物の屍骸が︒ ︹以26〜27︺
この屍骸を活動させる呪法1ーピダラ法の知識を︑中は挿画入りの
仏教辞典から得たという︵前掲あとがき︶︒中が用いた仏教辞典とは
いかなる刊本であったか︒
私は︑それを織田得能著﹃仏教大辞典﹄ ︹大倉書店︑大6・1・
5︺ではないかと推測する︒ 仏教辞典︒をいま近代刊・国書に限
定して調査すれば管見分次の通りとなり︑挿画の有るものについて
ビダラ関連項を引いてみたのである︒
・鰍灘校閲・児島碩鳳轟一仏教字典一一白雲精食袈・・
・20︑管見本は後版︺は挿画全く無し︑で間題外︒
○若原敬経編述﹃仏教いろは字典﹄四冊︹其中堂書店︑明30・1・
5︑刊年は第四巻による一︒w四叫55︿吉庶V項にく又吉遮と言ひ︑
正には詑粟著と言ふ﹁所作﹂と訳すVとして﹃法華経﹄を引く︒w
四レ一⁝︿遮文茶V項は﹃翻訳名義集﹄を引くのみ︒r四洲く毘陀
羅V項はく章陀羅に同じVとして﹃法華経﹄を引く︒r三叫21︿葦
陀V項中に章陀羅くとも青へりVと︒いずれの項も不得要領で挿画
を欠く︒︿起ロゾ鬼V︿迷祖羅Vは項無し︒
○藤井円順編輯一鋸鰹議梵語字典一一哲学館大学︑明銚・u
・5︺は挿画全く無し︒
○望月信亨・荻原雲来・加藤玄智・鈴木暢幸編輯﹃仏教大辞典﹄第
一巻︹ア〜キソフ︑武揚堂書店︑明42・3・23︺にくキシキV︿キ
チシヤV項無し︒望月信亨著作となる同書第二巻︹キソラ〜コイソ︑
明44・9・24︺第三巻︹コイソ〜サク︑大5・12・8︺には関連項
未発見︒ ﹁犬﹂を読むために ○浩々洞編纂﹃仏教辞典﹄︹無我山房︑明42・9・10︑管見本は後版︺は挿画全く無し︒○藤井宣正著﹃仏教辞林﹄︹明治書院︑大1・u・30︺にはくきしきV︿きちしやV︿しやもんだV︿びだらV︿めいたらV︿ゐだらV項無し︒○仏教大学編纂﹃仏教大辞彙﹄第一巻︹ア〜コ︑冨山房︑大3・6
・21︺にはくキシキV︿キチシヤ﹀項無し︒第二巻︹サ〜セ︑大5
・12・23︺以伽くシヤモソダV項はく烙摩天の替属たる七母の上首
なり︒胎蔵界曼茶羅の外金剛部院西方に列せり︒赤黒色猪頭にして
冠を戴き︑右手に器皿を持し︑左手を挙に1して腰に当て︑延の上に
埜すVと説明するが︑挿画を欠く︒
○荻原雲来著一灘仏教辞典一一丙午出笑大・⁝u一は挿
画全く無し︒
・柳亮三郎一簿欝螺対校一一出版姦森一轟画全く無し︒
右の経緯で︑織田得能以外の仏教辞典〃を度外視する︒さて織
田の辞典についてみると︑まずレ⁝︿シャモソダV項に猪頭人身の
く遮文茶の図Vを載せく悪鬼の名︒夜叉趣なり︑即ち起戸鬼なりV
と説明︑﹃演密抄五﹄・﹃法華文句十﹄を引きく﹁キシキ﹂を見よVと
指示︒それで叫洲くキシキVをみるとく毘陀羅法に用る鬼の名Vと
説明︑ ﹃菩薩戒疏与成註中﹄・﹃文句十下﹄を引きく﹁ビタラ﹂﹁キツ
四九
﹁犬﹂を読むために
シヤ﹂を見よVとまた指示︒こうして以48を開けると
ビダラ毘陀羅︹異類︺又︑迷恒羅に作る︒西土に呪法あり︑死
屍を起たしめ去て人を殺さしむ之を毘陀羅法と名く︒ ︹十謂律
二︺に﹁有二比丘一︒以二二十九目↓求二全身死人↓召レ鬼呪1戸令!
起︒水洗著レ衣著二刀手中↓若心念口説︒我為レ某故作二砒陀羅↓
即謂二呪術↓是名二砒陀羅成↓若所レ欲レ殺人︒或入二禅定↓或入ニ ラバ 滅尽定↓或入二慈心三味↓若有二大力呪師護念救解イ若有二大力
天神守護↓則不︒能レ害︒是作レ呪比丘︒先弁二一羊↓若得二芭蕉
樹↓若不1得!殺二前人一者︒当殺二是羊一若殺二是樹↓如是作者善︒
若不嚢還殺一是比岳是轟陀羅一一簾騒醗一梵網経
O O O O O O 下︺に﹁叩几殺謂砒陀羅等︒﹂︹同与成ノ疏註中︺に﹁砒陀羅者西
土有二児法イ叩几二死屍一令レ起︒謂使二鬼去殺?人︒﹂︹鼻奈耶一︺に
O O 0 0 ﹁輯陀路婆︒鬼著レ戸也︒使二起殺ヲ人︒﹂︹慧琳意義三十五︺に
◎ ◎ 0 ﹁迷恒羅︒唐言二起屍鬼一也︒﹂案に毘陀羅は起屍鬼の名たり︑
法衆経陀羅尼品に章陀騒と云ひ︑灌頂経に弥栗頭葦陀羅と云ふ
是なり︒.梵くo颪5
の項に至る︒なお︑同書レ湖にくキチシヤV・レ閉にくメイタ
ラV.叫蝸にくヰダラVの各項もあるが省略する︒
中がビダラを知る契機をシヤモソダの図と推測した︒この猪頭人
身の図は︑以下︑人が犬になる伝奇への自然な導入となるものである︒ 五〇
ちなみ信ダラについミ〃祉断叫嘗鬼二十五話一一平
凡杜︑昭53・1・27︑東洋文庫洲︺解説叫洲〜洲が啓蒙的︒いまは
ビダラの俳何する時空がく神々︵特にイソドラ︶や苦行者及びバラ
モソは︑屡々︑人間や天人を呪って︑その姿を動物︑植物などに変
容させるV︵同書叫39訳註︶世界であることを銘記すれば足りよう︒
︹補︺ その他に︑﹁犬﹂は
○︿仏教説話系統の作品V︵伊藤整﹃現代日本小説大系17﹄︹河出書房︑
昭26・u・15︺の﹁解説﹂︶
○︿おそらく仏典から材を取ったらしいこの怪奇講V︵杉森久英・本考文
末掲載文献2︶
○︿仏典から取材したものV︵斉藤昌三・本考文末掲載文献3︶
ともいわれている︒︿仏典Vについて本文にふれた以外は未だ見当がっ
かない︒
三 ﹁つむじまがり﹂との関連から
二で﹁犬﹂の出典調査管見分を報告したが︑中自身の旧作にも
出典〃がないわげではない︒
といって︑恋愛・結婚・愛情に関する中の言葉はすでに渡辺外喜
三郎が丁寧に列挙しており︑人間の醜悪を扱った﹃提婆達多﹄との
つながりも従前に指摘がある︒こ上では今迄注意されなかった﹁つ
むじまがり﹂︹﹁銀の匙﹂改訂本文の後半︺との関連に絞ってみる︒
3︵ □娘をわがものにした僧は︑娘を独占するために︑呪法を用いて白分と娘とを犬の姿に変えてしまう︒この境涯から娘は逃亡を試みる︒︺彼女は息をころしてそつと身を起した︒そして忍び足に︑僧犬の目ざとい動物の眠りをさますことなしに首尾よく住みかをぬけだした︒外はまだ暗かつた︒彼女は今こそ天恵となった鋭敏な犬の感官を極度に働かせて出来るだけ速くクサカのはうへかげだした︒彼女はあせりにあせつたけれど路のわかれたところへくると間違なく方面をきめるために暫くは蟻賭しなければならなかった︒彼女は気が気でなかった︒僧犬が目をさますまでにせめてあの川を越して
しまはねばならぬ︒追ひっかれぬうちに︑早く早く︒彼女は
ひた走りに走つた︒幸に道も問違はず︑夜のしらくとあけ
る頃川岸へっいた︒彼女はそこですこし息をっかねぱならな
かつた︒そして汀から頸をのぱして水をのまうとした︒その
時彼女は後ろのはうにぼたくといふ足音とはげしい息づか
ひをきいた︒
﹁もうだめだ﹂
と彼女は思つた︒
﹁くやしい︒くやしい︒私は逃げそくなってしまった﹂
︹以51︺
この脱出行は︑私にすぐ﹁っむじまがり﹂
歴談の一節を思い出させる︒
﹁犬﹂を読むために のくばあやVが語る経 ︹略︺ぱあやはその男︹夫︺が嫌で嫌でならずどうぞして逃げ
やうと思ひつ二も終に逃げおほせずに幾年を過して︹略︺その
後また性懲りもなく女を連れこんでばあやの横腹を突いたのを
当身をくはして殺さうとするのだと思って家を逃げ出しその時
分には大きな猪など沢山ゐた△△山を越江てある寺に泊めても
らったがもうそこ迄も手が廻ってるとは知らず和尚に巧く騎さ
れてもと来た道を帰るところをどっこい待ったと爺さんにつか
まへられぢつとか£んでしまつたら
﹁この馬鹿め帰れく﹂
といつて引立て二戻つた︒︵﹃東京朝目﹄︑大4・5・24︶
︹補︺ 恋人を追って川岸へたどりっき︑それからさきのかなわぬ場面に
﹁生写朝顔目記﹂のかげが揺曳するが︑未検討である︒
4︵ ︹娘は依然ヂェラルを慕いっ父けるので︑僧犬は嫉妬に苦しむ︒︺﹁わしはこんな身体ぢや︒さきはもう見えてゐる︒わしはこのま二では死んでも死にきれぬ﹂ そんなこともいった︒実際彼の身体はひどく弱ってきた︒全身の悪瘡はますく烈しくなつた︒彼は問がなすきがたそ
れを爪と歯で掻きむしってゐる︒そのたんびにぱらくと毛
がぬげて赤肌から血膿が流れる︒燭れ目のうへに眉毛も髭も
なくなり︑肉ぱかりの尻尾がちよろりと垂れて︑見るもいや
五一
﹁犬﹂を読むために
らしい姿になった︒彼は痒さに責められて疲れきった時のほ
かはおちくと眠ることもできない︒気力春力も衰へはて
二今はた父猛烈な獣慾ぱかりが命をつないでゐる︒ ︹叫65︺
この醜態も︑ ﹁つむじまがり﹂でく私Vが飼ったことのある犬の
病状を髪髭とさせる︒
そのうち冬の初め頃どこかで腫物をうつ二て来たのが次第に
体ぢゆうにひろがって頭から尾の先まで瘡芙落らけの見るも嫌
らしい赤裸の犬になつてしまったが自分の姿を見しらぬあはれ
のものは腹がへるとは眉毛のぬげた顔に媚をっくり毛のない尻
尾をちよろちよろと振ってせびりに来る︒腹がよげれば日向を
よってほとくと寝てゐるが目の醒めてる間は絶江ず体ちゆう
を掻きむしるため腫物からは血膿が流れ後足の掲指の爪がぶら
くに窪れてしまった︒彼が疲れきって寝てるのは日の高い
うちで朝夕はあはれにまるくくるまって目を閉ぢたま二ふるへ
てゐるし夜は固より夜どほし眠ることも出来ずくうくと泣声
を出してゐる︒もはや犬の仲間でも鼻つつまみになつて相手に
されぬらしくこないだまで仲よく遊んだ隣の犬までが傍へよら
うとすると歯を剥きだして追ひのけてしまふ︒ ︵﹃東京朝日﹄︑
大4・5・22︶
中がく僧犬Vを書くとき︑右箇所か実際の情景かを思い浮かべて 五二
いたと推定する︒
た父し︑ ﹁つむじまがり﹂にうか父われ︑後の﹁しづかな流﹂で
く病みほうけて常よりもいつそう醜くなったタゴ︹飼犬︺はかへっ
てそれだげ私の愛情を深くさせたVと明記される︑犬への愛が︑
︿僧犬Vに対しては全くみられない︒嫌忌のみが記される︒これは
く僧犬Vが専ら獣欲の化身・淫乱の妖物であることに起因する︒
︿中は自分で﹁自分には色魔的要素がある︒白分には色魔に堕落
する機縁は十分にあつた﹂といふやうた意味を語つたこともあるV
よし︵安倍能成・本考文末掲載文献8︶︒色魔が人事でたいから︑懸
命に性欲を抑えようとし︑嫌忌一点張となったものであろう︒後年
の夢で蜘蛛男とでくわしく総毛立つやうな気味わるさをおぼえたV
あとく蜘蛛男は実は我我お互のなかに遍在してゐるのだと︹略︺知る
と同時にだしぬげにとつっかれはしないかといふ不気味さはなくた
つたが︑そのかはりあのいやらしいものが自分をはじめあらゆる人
問の肉︑骨︑脈管︑毛髪の先までも根をはつて宿命的な組成分になつ
てゐるといふことに対してたまらない不愉快を感じたV場合と近い︒
それに︑偽善への反嬢が輪をかげる︒︿婆羅門の権威と清僧の
誉V︹以2︺をもっく聖者Vが己の飼い太らせた獣欲で女人を躁賄す
る1この破倫の加重を別挟するため︑いきおい描写も露悪的になっ
たのだと私は理解している︒
四 〃犬智入との対照から
5︵ ︹恋人のもとへ行こうと︑娘は再度逃走︒僧犬が追いつく︒︺
彼はさも憎さうにいつた︒
﹁これ︑血迷はずとようきげよ︒あの男は死んだぞよ﹂
﹁え﹂
婆はぶるくとした︒
︹略︺﹁え︑ではほんとうに・:⁝﹂
﹁殺したがどうした︒切りこまざいても飽き足らぬわ﹂
彼女はぐらくとした︒凄しい女の怒に燃えた︒彼女は矢
庭にとびか二つて相手の喉くびと思ふところへぐわつとくひ
っいた︒僧犬は不意を襲はれて仰向げに倒れた︒彼女はのし
か二ってしつかとおさへながら死物狂に頭をふって喉笛をく
ひちぎらうとした︒そして僧犬がげえくとかすれた声を出
してはねかへさうくともがくのをどこまでも噛みふせてゐ
た︒僧犬はとうく息がとまつた︒ぐたりとしてころがつ
た︒彼女は血みどろの口をはなした︒そして恋人の墓石に身
をすりっけて悲鳴をあげた︒ ︹弘69〜71︺
このようなく彼Vの末路は古伝承−昔話犬費入
決められたなりゆきであった︑といえる︒
断っておくが︑作品と古伝承と接触の明証は無く︑
﹁犬﹂を読むために にてらしても性欲・嫉妬の 閉魑・人が犬になる変身などが犬智入〃には無い︒直接的彰響関係は多分に否定的だげれど︑た父犬鐸入〃との対照にょり白ずと
﹁犬﹂の世界が際立っはずだと思うので︑犬知耳入〃を採録した延宝
6年9月刊﹃御伽物語﹄巻二第七﹁七人の子の中も女に心ゆるすま
しき事﹂より抄引する︹野間光辰校︑古典文庫︑昭27・12・15に拠
る一︒山伏に聖者・犬にヂ一ラルをそれぐ置換えて読んでほしい︒
︹略 親か犬に娘の小便の掃除をすれは娘の夫にすると約
束した︒成人後の娘の縁談を犬が妨害する︒娘は犬の妻になっ
て山に入る︒︺あるとき山ぶし有て此山をよぎる︒ならべし軒
もみえなくに︒そのすがたやさしき女︒もの待風情に見えたり︒
なを過がてに立より︒いかにおことはたがとふてこの山には住
給ふといふ︒女われにも夫のさふらひてといふ︒山ふしつく
く聞て︒花奮ば手折雪ならぱっくねんにと一ふたいふこと
葉の露も我恋ぐさにをき余りかきみだしたるうき草の︒心の水
にさそひ行たさけの淵もあさからで︒ふかきちぎりもむすびた
く思ひげれぱ︒さて其かたらひたまふはいづこにていかたる人
ぞと尋れば︒いはでもとおもふがほに︒はづかしながら犬にち
ぎりて侍るといふ︒さてはさうかとさらぬ体にてたち立︒この
をんないぬにそはすべきやうこそなげれと︒ある所に待ゐしに1︒
例の犬みえたり︒さらぱこれたるべしころさんとおもひ︒胴に
五三
﹁犬﹂を読むために
かくれて待ゐる︒犬更にしらず︒はかりすましてたN一かたた
にうちころし︒からは土に埋め︒目をへてかしこに又とふらふ︒
女れいたらずなげく︒空しらずして何をかなしひ給ふぞといふ︒
されぱ圭これくなり︒たふりそめにたち出て︒げふ吉
になり侍り︒行ゑおもはれ候そやと︒なみだとともにかたる︒
さてはさやうに候か︒猶ゆく身よりのこりし御身のいかがなり
給はんいとをしくこそといふ︒さてしもくやむかいもなし︒我
いまだ定まりし妻もなし︒きたり給は1さそひゆかんといふ︒
をんなもたよりなき身なれぱ︒そのこ二ろにまかせて︒ながく
そひ侍り︒としの矢もかずたちゆけぱ︒子を七人までまふけた
り︒山ぶしある夜かたらく︒御みがそひし白犬は︒かくかたら
ひたきま二に我殺し侍ると語る︒心のした紐うちとげしははか
なくぞ侍る︒をんたっらくこれをうらみ︒っゐにやまぶしを
ころせりとたり︒故にこそ女には心ゆるさぬとかたれり︒
︹下略︺
福田晃﹁犬葺入の伝承﹂ ︹昭50・6﹃昔話 研究と資料 ﹄
4号︺の整理を利用して︑ ﹁犬﹂との対照を表示する︒ 端展開結末 ︵皿︶女と犬との結婚︒
ポー山舳州刑引馴刊・⁝⁝
︵v︶山伏と女との結婚︒
.〜レパ〜む︸・⁝⁝⁝
︵M︶女の仇討︒
︵w︶教訓︒ 五四
す淳浪濯潅淳けド
聖者が異教徒を殺す︒ 聖者は僧犬となって彼女を妻 にする︒出刈削釧パゼ伽ギ£恥︑⁝
彼女は僧犬を殺す︒展開・結末部に対応・相似がある︒
にもかかわらず︑ ﹁犬﹂が犬葺入〃と反対に︑前夫ではなくて
後夫の方を犬にしている相違点は見逃がせない︒被害者でなしに︑
加害老の方が犬︑という顛倒に︑前述した犬の妖物への転落が利い
ているからである︒
しかも︑その犬に堕ちているのがく聖者Vである︒こ二にく聖
者Y︿僧犬vとの結婚生活の票くしさが浮上する︒まこと
マ マ︿神意によつて結ぱれたる夫婦 は邪教徒の凌屠よりも蓬に醜悪︑残酷︑且つ狂暴であつた︒V︹叫47︑初出のみ︺
彼女の運命を損ったく僧犬Vはすでに死んだ︒彼女のくこの身の
稜れを浄め︑今一度もとの姿にして︑どうぞあの人のそばへやって
くださいVという祈が神にとどき︑人間にかえった彼女がく奈落の
底へ堕ちていVく︹レ71︺ところで︑﹁犬﹂は終わる︒犬智入
の場合︑︿女には心ゆるさぬVことという一片の教訓でけりがつい
︹付︺ ﹁犬﹂参考文献 た︒しかし︑﹁犬﹂では︑らちあき培明はないのである︒ 性欲を持つ人問のつらさが示されたま二︑
番号一署
名題名 年・月・目掲載誌︵出版杜︶一巻号 1水沢 夏彦 近世好色文学考 昭23・9・15 ︵南有書房︶︑=ポペ.駄ヂ乳欺ジ〜:肌実句を起こしたらしい引例本文は何に拠一をのか︑︑朴︑
明︒
・杉森久英亨順筆文斥中勘助 万.・︒.妬現代文学総説一学燈杜一 ︑⁝⁝ポピザ︑.中〜翫ピ﹁犬−.む釘ポ牢象プ午.昏ポ蛋.一.ヅ.一.骨一外⁝
u3 斉藤昌三 ﹃犬﹄の性欲描写 昭28・2・15生活文化 1 ︑=︐.︑針ポペ.み乳かむ虹を琴ポ反力で犬にたることが出来たが︑余り自由過ぎて
も肉体が保てないと悟つて︑再び人問に戻らうと苦悶する筋Vと誤読︒︿性欲描写V引用︒これも
何に拠ったものか︑不明︒
4渡辺外喜三郎
︑⁝一.8⁝⁝3⁝︒⁝ P〜30 本的文献︒
L心灘縮顎嘉一 昭蝸⁝土鋪灘臨離大学文
中の言葉を丁篭たど一︑1伽釘苧転一紅客臥ピ︸. .ズ却闘影牢
2・藤原久八一中勘助の文学と境涯 亙・・⁝一全一曇店一 ︑ポピダ一︑.かい・⁝馴ピ航ピピ臥∴糾恥か鮒舳ポパ帥創ゼ︸︑=ジ︸い岬〜む
はほとんど﹁犬﹂の梗概︒
﹁犬﹂を読むために五五
﹁犬﹂を読むために五六 6
一関口宗念 雇飽粥躍離鴇二嬰・・⁝一
聖和一・
レー8〜32︒婆羅門・娘から本能的な運命に流された人問の醜と美を読みとり︑﹃提婆達多﹄と表題
二作とを三部作と称す︒
7
丁室静一中勘助の世界 万 ⁝工
法政T
叫41︐43︒人問性の醜悪をっきっめた作と評︒︿義姉との関係V云々は要再考︒山室は﹃日本詩人
全集﹄十八付録︹新潮杜︑昭43・6・20︺﹁中勘助︑八木重吉︑田中冬二﹂でも﹁犬﹂がく人間性
の深淵をえぐり出したV作と;目評︒
8
一安倍能成一中勘助の死 一鴉 ⁝土
し丁八・
叫74に色魔的要素に対する中の闘争を伝え︑︸75で﹁犬﹂の描写にふれる︒
9一渡辺外喜三郎
⁝﹁鳩汐け々ぷ箏∴一昭・・・・⁝一鹿児島大学文科警 一・
叫3︐11︒﹁犬﹂が人問の醜悪無残を描いたことを示す︒
以8〜10︒大10・u・6付絵ハガキ︑大u・3・3?付封書に﹁犬﹂執筆記事あり︒渡辺の続稿
︹昭55・9・30同紀要16︺以mの昭27・1・18付封書には﹁犬﹂文庫本化についての記事あり︒
11
一浜田伸子 一中勘助﹁イソド三部作一望二要・・⁝一
冬扇■
一・
叫47〜51︒三部作展開中﹁犬﹂が男女の性欲と愛とのかかわりを扱ったと位置付げる︒
﹃鹿児島大学文科報告﹄u・13・16各号抜刷は渡辺外喜三郎氏の︑
﹃冬扇﹄3号複写は中島尚氏の御好意によって参看するを得た︒ま た天理図書館の蔵書を利用させていた£いた︒
表する︒ 記して深甚の謝意を