奈良教育大学学術リポジトリNEAR
ウィリアム・ワーズワース − I Wandered Lonely As a Cloud を読む−
著者 奥田 喜八郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 47
号 1
ページ 123‑138
発行年 1998‑11‑10
その他のタイトル On William Wordsworth −A Reinterpretation of I Wandered Lonely As a Cloud −
URL http://hdl.handle.net/10105/1491
Bull. Nara Univ. Educ, Vol.47, No. 1 (Cult. & Soc), 1998
ウ ィリ ア ム・ワ ‑ ズワ ー ス I"I Wandered Lonely As a Cloud"を読む‑
奥 田 喜八郎 (奈良教育大学英米文学教室)
(平成10年4月20日受理)
キーワード: ウィリアム・ワ‑ズワ‑ス、自然詩人、救世主
平田禿木は『英文学史講話』の中に、詩人ワ‑ズワー スについて(l)、こう語っている。
ワーヅワースは誰も知るごとく19世紀の初めに栄 えたイギリスの詩人で北イングランド、カムバラン ド州(Cumberland)ライダル(Rydal)山中の湖 畔に居を占めて、天然の美、山家の静かな寂しみを 歌った人である。我国でいふと、西行とか芭蕉翁と かいふやうに、塵の世に遠ざかって山河と親しみ、
自然を友としてその想ひを吟詠に寄せたのである。
西洋の詩人で東洋風の趣味をもった人といへば、ま づこのワーヅワースであろう。この天然を歌ひ、山 家のシムプルな寂しみを詠ずるといふ事が、ワーヅ ワースの当時では非常に新しい事であった。といふ のは、 18世紀以来イギリスの詩といふものは、非 常に形式的に流れてしまって、無暗にギリシャ、ラ テンの古典を引き出し、本当に感じもせぬことを昔 の詩型で歌ったのである。それをワーヅワースは当 時の人の気のつかない、詩人の歌はない、まるで新 しい「自然」といふ事に眼をっけて、自分の住んで ゐる山中湖畔の景色を歌ったのである。王侯貴族の 御殿や、築山と池のあるartificialな御庭の景色ば かり詠じてをったのが、広い自然のなかに出て、遠 く湖畔幽谷の生きた風光、師のない、質朴な山家の 生活を見たやうなものである。この意味において ワ‑ヅワースの詩は新しい。ワーヅワース以前のイ ギリスの詩を所謂「和歌」のやうなものとすれば、
ワーヅワースの詩は芭蕉翁の俳句のやうなものであ る。
これは平田禿木のもっとも要領を得た明確な詩人ワーズ ワース観である。また、イギリスの学者ダービシャー (Helen Darbishire, 1881 ‑ 1961)はWordsworthの中 に、 「ワ‑ヅワスは、人間の心の糧となった大詩人の一 人である」と主張(2)し、そして、 「大詩人たちは人間経
験の本質的なものにふれる。そしてこれに対する時、謙 虚にして純心な態度をとる。彼らは自分の経験を強烈な 感情でもって感じ、その経験をすばらしく直裁に表現す る」と指摘し(3)、さらに、 「シェイクスピアはこういう 大詩人の一人である」と強調(4)し、 「そしてミルトンも
そうである」 「ワ‑ヅワスも同じく大詩人の一人である」
と論及(5)しながら、 「彼の詩は、真実性、単純性、言葉 とリズムにおける"生きた"特質、を持っに至ったが、
これこそわれわれがワーヅワス特有のものと認めるもの である」と論破(6)する。自然詩人ワーズワースは、つま り、 「嘘いっわりのないもので、山の流れの如くすき通 るように澄んでいる」という(7)新しい詩境を創造した人 であるといえよう。ダービシャーが明言しているように、
「彼は子供のための詩人と考えられてきた。雛菊や仔羊 や美しい百姓娘を歌った詩人、つまり日曜学校式のキリ
スト教道徳家が愛好する詩人」である(8)という。
それでは、ワ‑ズワースの随分有名な小曲を以下に紹 介しよう。言葉がいかにもやさしい。そして音調が非常 に好い。詩人ワーズワースはこう歌うのである(9)
I wan/‑dered lone/‑1y as/ a cloud
That floats/ on high/ o'er vales/ and hills, When all/ at once/ I saw/ a crowd, A host,/ of gold/‑en daf/‑fo‑dils ; Be‑side/ the lake,/ be‑neath/ the trees, Flut‑ter‑ing/ and danc/‑ing in/ the breeze.
6行を一連として、四連から成立している小曲である。
全体のリズムは「弱強調4歩律」である。しかし、 6行 目の"Fluttering は、 「強者弱音弱音」であることに 注意しよう。
妹ドロシー(Dorothy Wordsworth, 1771‑1855)の 1802年4月15日の日記を見る(10)と、
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Gowbarrow Parkの向ふの林へ行った時、水際に 少しの水仙を見た‑‑‑進むにつれて水仙は次第々々
に其数を増し、遂に樹木の梢の下に、岸に沿うて腕 艇として帯のやうに連り、其幅は殆んど田舎の turnpike roadの広さであった.私は末だ骨てこん な美しい水仙を見たことがなかった。その水仙は苔 むした岩の間其周囲其上に生じ、あるものは労れて 枕に伏すやうに、その頑を岩石の上に横へ、其他の
ものは揺らぎよろめき小躍りし、湖水を渡って其上 を吹く風と共に、実際笑ふかとさへ恩はれた。その 水仙は絶えずきらめき絶えず変化して、非常に華か であった。
と記されている。ここにいうGowbarrow Parkという のは、 Ullswaterの西岸にある公園である。そこは、妹
ドロシーを連れてのワーズワースの日課の散歩道である。
2人は奥深い山間の幽谷を散策する。滝の音が近くに聞 こえる。その滝の音に歩調を合わせて進むと、アルズ ウォーターの湖に出る。そこは、 「いかなる湖水が見せ るよりも素晴らしい、美と壮大との結合した」湖水(ll) であるという。 「ケジック側からマターディルを通って ガウハロウ・パークに下る道が、湖水の上手の最も壮大 な眺めに直接に出会える(12)」散歩道であるようだ。そ こには、 「アイラの滝が左手の峡谷に轟いている」か ら(】3)である。 「互いに高さを競う崇高な形の山々に囲ま れて、様様に姿を変える堂々たる湖の眺め(14)」の、な んと壮大なことか。
第一連の大意は、恐らくは、 「僕は1人さびしく、谷 また谷、山また山の上高く浮かぶ一切れの雲のようにさ まよった。その時俄かに僕は、たくさんの、大群の、
ラッパ水仙の花花を見た。湖のほとりで、樹木の下で、
和風に吹かれて花びらがひらひら散っているのを、また 心地よく踊っているのを見た。」というのであろう。
lonely as a cloudというのは、空を行く一片の雲の ように、孤影瓢然として寂しく、行く当てもなくさまよ う詩人ワ‑ズワースその人の姿をいうのである cloud は、 「孤愁」 (loneliness)をイメージするが、しかし、
「イザヤ書」の第19章(15)に、 「見よ、主は速い雲に乗っ て、エジプトに来られる。」と明示されているように、
「神の乗り物」というイメージを有する。また、 「ダニエ ル書」の第7章(16)に、 「見よ、人の子のような者が、天 の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、そ の前に導かれた。」と明記されているように、雲は「至 高神の顕現」を表すのだ。 onhighというのは、副詞句 で、空中高くとか、天にという意味であるが、しかし、
このような言い方は、どちらかというと、文語である。
口語でないのがよい。というのは、重複するが、神の乗 り物をイメージする雲が空中高く浮んでいることを厳粛 にうたい上げているからである highというのは、も
ちろん、名詞である。高い所とか、天とかという意味で、
たとえば、 the Most Highというと、天神とか、神と かという意味を有することをご存知であろう。 allat onceというのは、副詞句であって、突然とか、俄然と
してとかという意味である。しかも、突然悲鳴が聞こえ たように、不意に水仙の花の群れに出会った、と詩人 ワーズワースは歌い伝えているのだ。こんな場所に、
ラッパ水仙の花が、こんなにも沢山、群がって咲いてい るなんて、夢にも思わなかった。それも、はじめは、な んの花であるのかも気付かなかった、というのは愉快だ。
吹き寄せる風のむきも変わって、どっと詩人の方にむ かって押し寄せてくる花の大群に、その威圧に身がすく む恐れを歌い示しているのも、面白い。その花の群れは ラッパ水仙の大群であることを知って、一時の恐怖も消 えて、詩人ワ‑ズワースはその沢山のラッパ水仙の花の 輝きを打ち眺めているのもまた、ゆかしい限りである。
a crowd of golden daffodilsというのは、たくさんの 黄金色のラッパ水仙という意味を有する hostという のは、客をもてなす主人という意味でなく、物の多数と か、人の大勢とかという意味の名詞である。これは、古 語で、軍勢という意味で、たとえば、 the Lord of Hosts(17) (「万軍の主」)とか、これはエホノ下のことを示 すのであるが、この他にも、たとえば、 the heavenly host (「天使たち」)とかというふうに用いられる名詞 でもあることを患い合わせてみると、意義深い。という のは、重複するが、風の吹く方向が急に変化したことを 同時に明示しているからである。
daffodilというのは、スイ セ ン属Narcissusの、
ラッパ形をした鮮黄色の、ありふれた野の花である。こ れは、別名LentLilyという。 6枚の葉で6片の花冠か ら成る花である daffodilは、シェイクスピア(William Shakespeare, 1564‑1616)の作『冬物語』の第四幕第 三場の「羊飼いの小屋近くの道路」で、オートリカスは
こう歌いながら登場(18)する。
水仙の花咲き出せば、
へィ、ホ‑、谷間の娘さん、
春がきたんだ、ポカポカと 血がうずくのもいいじゃないか。
ここにいう水仙の花は春の知らせをイメージするのであ るが、しかし、同じ作品の中の第四幕第四場の「羊飼い、
道化、モプサ、ド‑カス、その他が、変装したポリクシ ニーズとカミロ‑を連れて登場」(19)し、パーディクー の台詞の中に、
ツバメもまだ姿を見せぬうちに
早くも咲き出して、その美しさで3月の風を 恋のとりこにする黄水仙。
と語られている。ここにいう水仙は、逆境にあっての勇 気をイメージする。このような一連の水仙のイメージを
踏まえて、ワ‑ズワースは水仙の花に託して、踊りを明 示しているのは、心楽しい。先輩詩人へリック(Robert Herrick, 1591‑1674)は、 「水仙の花に」の中(20)に、
Fair daffodils, we weep to see/You haste away so
soon. (「美しい水仙よ、かくも早く急ぎ去るのを見て、
私達は悲しむ」)と歌い上げているように、短命の美を 水仙に託しているとしても、ワ‑ズワースは昔も今もギ リシャで語り継がれている、つまり、 as delicate as a daffodil (「水仙のように優雅に」)のように、水仙に託 して優美を明示しているのもまた、絶妙である。その上、
ワ‑ズワースはこの大群の水仙に託して天使の群れを表 白しているのもまた、巧みである。津村寅二郎説による と、 acrowd,Ahostの前に歌われている"lonely に 対して、上記にすでに指摘したように、 「俄に眼前にあ らわれた群集大群というところに、この第一連の対照の 妙」(21)がある。ワーズワースの詩を味わうというには、
このようなややdelicateな、こまやかに深い感情を汲 みとり、じっくりと味わう事である。しかし、残念なこ とに、上島建吉は『ロマン派詩選』の中に(22)、 「A host
‑a very large number. "a crowd"よりさらに多い感 じ。」という程度の注釈を添えている。また、斎藤和明 は『入門英米詩選』の中に(23)、 「A hostのあとの句切 りに注意。驚きの感じが強調されてあらわれている。こ れは、 ̀a crowd'の言い換えである。」という注釈を添
えている。面白い。深瀬基寛・岡田幸一は『近英詩選』
の中に(24)、 「a crowd, A host: 1行目のIonelyと対照 される。」という注釈はいい。三宅雅明・吉岡丞展は
『英詩の花園』の中に(25)、 『a crowd, A host: ̀lonely' と対照的。 ̀acrowd'は「一群」だが、 ̀Ahost'と言い 換えられると、それが「軍勢」というくらいの垂味を帯 びる。』という注釈もまた新しい。上記にすでに論述し ておいたように、 Ahostに「サムエル記上」の第17章 の中の「わたしは万軍の主の名」というイメージを重ね て、味読すべきであろう。さらに、大群の水仙の花花に、
重複するが、天使の姿を重ねて、味読すべきであろうか と思う。
問題なのは、 6行目のFlutteringという強音弱音弱 音のリズムの変化である。上記に紹介しておいた注釈者 たちは、誰ひとりも、このリズムの変化について説明し ていない。ミルワード(Peter Milward, 1925‑ )は
『英詩へのいざない』の中に(26)、 「Fluttering‑Moving lightly this way and that」という注釈を添えている だけである。残念だ。もちろん、これは、 breezeとい
う風と関連していることは承知している。また、第二連 の6行目のTossingという強音弱音のリズムの変化と 合わせて精読すべきであることも承知しているつもりで ある。三宅雅明・吉岡丞展は(27)、 「ただ、 Fluttering and dancingは3行目の̀saw の目的格補語である」
というのみである。残念至極だ。リズムの変化をどう読 むべきか。
患うに詩人ワ‑ズワースはビュ‑フオート(Sir Francis Beau fort, 1774‑1857)が考案した「風力階 級」(28)を早速、この‑篇の詩の中に用いているといい たい。これを、 「ビューフォート風力階級」といい、風 力を0から12までの13階級に分けて示した表である。
元来、海上用であるが、気象通報などに用いられている
「風力階級」である。詩人ワーズワースはこのイギリス の提督ビューフォート風力階級の正確な知識をもとにし て、 breezeという風を使いわけているのだと思う。す なわち、風力2をIight breeze (軽風)といい、風力3 をgentle breeze (軟風)といい、風力4をmoderate breeze (和風)という。また、風力5をfresh breeze (疾風)といい、さらに、風力6をstrong breeze (大 風)というようである。このように、 breezeはbreeze でも、 5種類のbreezeが使用されていることに、まず、
注意しよう。重複するが、
風力2のIightbreezeは、木の糞が揺れる。
風力3のgentle breezeは、小枝が絶えず揺れる。
風力4のmoderate breezeは、砂ぼこりが舞い上が る。
風力5のfresh breezeは、葉の繁った小枝が揺れる。
風力6のstrong breezeは、大枝が揺れ、電線が鳴る。
といったビューフォートの風力階級を踏まえてみると、
詩人ワーズワースがあえて、この‑篇の詩の中に、たと えばラッパ水仙はFluttering Lていることや、また、
dancing Lていることや、さらに、 Tossing Lている ことなどを歌い定めていることもまた、うなずけるだろ う。
flutterというと、たとえば、 The birds fluttered away. (「鳥は羽ばたきして飛んで行った。」)とか、ま
た、 The bird fluttered its wings. (「鳥は羽をハタハ タ動かした。」)とかというふうに用いられる動詞である。
帆や旗などがハタハタはためく、というふうに用いられ る動詞flutterである。
danceというと、たとえば、 leaves dancing in the wind(「風にひらひら動く木の葉」)とか、また、
dance a baby on one's knee (「赤ん坊をひざに乗せて ゆすってやる」)とかというふうに使われる動詞dance である。さらに、 dance forjoyというと、喜んでこお
どりするというふうに使用される動詞danceであると なると、一体全体、どんなbreezeを明示しているので あろうか。
Tossというと、たとえば、 He tossed the letter into the wastebasket. (「彼はその手紙をくずかごにぽ いと捨てた。」)とか、また、 toss a ball (「ポールを軽 く放り上げる」)とかというふうに利用される動詞toss
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である。そして、 Trees tossed their branches in the wind. (「風に吹かれて木々の枝が揺れた。」)というふ うに用いられる動詞tossであるとすると、詩人ワーズ ワースは、一体、どんな風力のbreezeをここに歌い上 げているのだろうか。
それにしても、非常に気になるのは、重複するが、
flutterというと、たとえば、 A petal flutters to the ground. (「花びらがひらひら落ちる。」)とか、花びら などがひらひら散る、というふうに使われる動詞flut‑
terであることなどを思い出してみると、思うに詩人 ワ〜ズワースはあえて、ここにリズムの変化、それも強 音弱音弱音をもって歌い上げているところを口ずさんで みると、ラッパ水仙その物がハタハタと揺らいでいる風 情を歌い示していることも然ることながら、ラッパ水仙 の花びらがひらひらと散る風情を明示している、とぜひ 味読したい。これは、いかがなものか。ひらひら散る余 情が、この強者弱音弱音のリズムに託されていると精読 してみたい、というのが筆者の解釈である。ある程度の 強い風が吹いて水仙が、まるで鳥などが羽ばたきするよ
うに、旗などがハタハタとはためくように、揺れて、そ して水仙の花びらが落ちる、といった趣を味読するのも また、心楽しい限りである。
強音弱音弱音のあとは、また、もとの弱音強音のリズ ムにもどって、 and dancing in the breezeと歌い定め るのである。 それも、 たとえば、 The little boat danced. (「波に揺られて小舟が躍った。」)ように、風 に吹かれてラッパ水仙が躍るのである。風力の変化とと もに、ラッパ水仙の花花は感動して踊っていることを味 読しよう。
それでは、この第一連をもう一度静かに口ずさんでみ ることにしよう。学習者の皆さんの耳に、なにが最初に 聞こえてくるだろうか。恐らくは、 1の子音がくり返し 聞こえてくるのではあるまいか。この1の子音は(29)、
舌の前端を上の歯ぐきにしっかりとあててはなさず、そ の舌の両側から声をだす子音1である。このとき舌の先 が歯ぐきにくっついていないと、舌の前から声がもれる ので、そうならないように注意しよう。日本語のラ行子 音にならないように、舌を歯ぐきからはなさないことが 大切である。 1の子音は、このように舌の両側から声を だすので、側音という。また、音が流れるように響くの で、別に、流音ともいう。たとえば、 lonely, cloud, floats, vales, hills, all, golden, daffodils, lake、それに、
flutteringなどである。揺れて、踊るリズムを、風力に 合わせて味読しよう。
それに、 rの摩擦音が添えられることによって、一層、
流れるようになる。これは(30)、舌の尖端を上の歯茎の 裏近くまで巻きあげて、舌の中央に溝ができるように なって、そのすき間から声を出すと、このr音ができる。
このとき大切なことは舌尖が決して歯茎や口蓋のどこに もふれてはいけないことに、気をつけよう。たとえば、
crowd, trees, fluttering、それに、 breezeなどである。
‑ズリット(William Hazlitt, 1778‑1830)が初めて 1798年にあった時のワーズワースについて(31)、こう 語っている。
彼は腰をかけ、きわめて自然に、気軽に話をしたが、
その声ははっきりした威勢のよい調子と、太い喉頭 音の抑揚と、酔っぱらいが話すような北方人特有の r音の連発とがあいまじっていた。
というように、詩人ワーズワースの北方人特有のr音に、
注目しよう。アメリカでは(32)、このr音のついた語は すべて発音して、ことに巻き舌になるという。詩人ワー ズワースのr音もまた、アメリカ人のそれのように巻き 舌になるようだ。酔っぱらいの語調に、花花のリズムを 聞こう。
1音に2つの音がある(33)。明るい1と、暗い1である。
Iongのように1が語の頑にくると、澄んだ明るい音に なる。というのは、母音iの口の形、すなわち、平口で、
1を発音するからである。これに対して、 dollの1とか、
Iittleの2番目の1は、前の1にくらべて、呼気も弱く 他の子音と結合して不明瞭な音になる。母音uの口の 形、すなわち、丸口で発音するからである。花花の揺れ
るリズムもまた微妙である。
このような1や、 rの流音に身をまかせて、風の動き を精読してみるのも、興味深い限りである。それに、
cloudとcrowdとは、いかにもよく韻が合っていて、
非常に長閑かな調子をなしている。 a cloudと読んだあ ともなお、心が落ち着いてのびのびしている様子の余韻 があって、しかも、 a crowdと読みきってみても、穏 やかな様子の余韻が永くひいて、尽きないような心地が ある。これも、口は丸く、大きい口から小さい丸ロへ移 る形をとる、 auという2重母音の余韻のせいであるか も知れない。また、 hillsとdaffodilsとは、小刻みで、
よく韻があっていて、心地がよい。それに、 treesと breezeとは、風のあとを慕うような、それで何だかさ
らに吹き続くような心地がしてならない。
木村俊幸は(34)、 「1月にはsnowdrop、 2月にはcrocus、
3月にはdaffodilといったように、花々がゆっくりと 順を迫って開花する」というイギリスの花々を紹介して いる。春を知らせる花daffodilのことについて、上記 にすでに指摘しておいた。中野記偉は(35)、このbreeze について、 「これはgentle windであり、ここでは風力 階級4 (和風)くらいの風速か。」と推測しているのは、
心強い限りであるが、しかし、ビューフォート風力階級 によると、風力4を和風は和風でも、中野説のgentle windではなく、 moderate breezeというのである。こ れは、重複するが、砂ぼこりが舞い上がる程の和風であ
る。どちらかというと、わが国の、春一番に近い風速で あろうかと思う。つまり、これは冬の終りごろ初めて吹 く憩い南風である。もちろん、ここに歌われている風光 は、春のけしきののどかな様子を表白している。春風飴 蕩といったイギリスの湖水地方の東北端に位置している アルズウォーター湖の西岸の風景であるが、しかし、そ こに吹く風は、春に吹くおだやかな風ではない。木の葉 の揺れる風力2のIight breezeではない。恐らくは、
小枝が絶えず揺れる風力3のgentle breezeであろう。
時には、糞の繁った小枝が揺れるような風力5のfresh breezeであったりするが、まずは、中野説のように、
砂ぼこりが舞い上がる風力4のmoderate breezeに吹 かれて、水仙がばたばた揺れているのだと患われる。ま た、風の変化によって、水仙は心地よく揺れていたり、
さらに、時には、軽やかに水仙の花花が揺れているのだ と患う。
I wandered lonelyというのは、 I wandered by myselfaloneといいかえることができようかと思う。
bymyselfはただ1人で、誰も傍にいない、という意味 である。たとえば、 She islivingbyherselfといえば、
庵を結んでいる昔の尼のように、召使いも誰もいない、
「ただ1人住んでいる」との事になる。 for myselfと混 じてはいけない。これは、誰の助けもかりないで、自分 1人でするの意となるのである。 aloneは、 by myself の単独性を強調する普通の語である。誰もそばにいない 事を強調することによって、 Ionelyのもつ、きわめて 寂しく陰うつなものを明示する。
こんな詩人ワ‑ズワ‑スその人自身が、一切れの雲に なぞられている、という対の妙をじっくり味読すべきだ ろう。さらに、谷は谷でも、 valleyを用いないで、あ えてvaleを定めている詩的な語を精読すべきだろう。
valleyを用いると、 2つのシラブルとなり、この詩全 体のリズムをこわす事になる。 valeであれば1つのシ ラブルをもち、弱音憩音にうまく調和するからである、
というのがミルワードの説くところであるが、しかし、
それも然る事ながら、詩人ワーズワースはこのvaleに 託して、もうひとつの隠されたideaを明示している、
というのが筆者の解釈である。
valleyというのは、通例、山合いの川が流れる谷を いう。それに、恐怖に満ちた暗黒の時という意味をもつ。
「詩篇」の第23第の中に(36)、 「たといわたしは死の陰の 谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と明記されてい るように、死の迫る苦難の時を意味する語valleyであ る。この神の言葉を踏まえて、先輩詩人バニアン (Tohn Bunyan, 1628‑88)は『天路歴程』の中に、
「死の蔭」を紹介(37)しているように、 valley‑shadow‑
deep darkness‑deathといった一連のイメージをいだ かせるvalleyに対して、 valeというのは、河流のある
広く平らな谷をいう。そして、天Egに比して苦しみ・悲 しみの場所としての現世という意味をもつ語valeであ る。シェイクスピアは『オセロ』の中に(38)、 「私も年が 傾きかけてきた」という台詞の中の、 thevaleofyears というのは、 old ageを意味するのだ。死の陰をイメー ジする谷valleyを用いないで、わざわざ、苦労や悲し みのこの世をイメージする谷valeを歌い定めないでい られなかった詩人ワ‑ズワースの詩的意図は、重複する が、 「天国」に対する妙境を歌い上げんがためであると いいたい。
詩的な語として、 valeのほかに、 daleという名詞が ある。 daleもまた、 valeと同じように1シラブルであ るが、しかし、これは、 dale and down (「谷や丘」) とか、また、 overhill and dale (「山越え谷越え」)と かというふうに使用される語daleである。また、
dale's manというと、北部イングランドの谷間に住む 人という意味である。くぼ地や盆地(hollow)をイ メージするような語daleではこまる。ここは、やはり、
「天国」に対しての「この世=谷vale」でなければなら ない。というのは、詩人ワーズワースは、 o'er vales and hillsと歌い定めるからである。
まず、 Holy Hillという連結語句を患い出そう。聖な る丘というのは、 「詩篇」の第2篇の中に(39)、 「わたし はわが王を聖なる山シオンに立てた」と明記されている ように、それは、あくまでも、シオンの山を意味するか らである。シオン(Zion)という語は、もと、ヘブラ イ語のSiyyonから借入されたもので、 hillという原義 を有するという。シオンの山は、 Jerusalem旧市東南の 丘である。ここにDavidとその子孫は王宮を営み、神 殿を建て、政治の中心であったようだ。このように、
hillは、 「祈りをあげる場所」であり、 「天国に近いので 天国‑の梯子となり、原始的な祭壇」の場所でもある。
「祖先崇拝のための墳墓」の場所である(40)という、これ らの一連のイメージを歌い上げんがための、 o'er vales andhillsという語順になっていることを十分に吟味し よう。先輩詩人ミルトン(John Milton, 1608‑74)は、
『失楽園』の中に(4D、
他のものは離れ離れに丘に座して、崇高にして高き 患いに耽る、摂理、予知、意志そして運命のこと という詩行を恩い出しながら、詩人ワーズワースは、
o'er vales and hillsと規定したのだと思われるからで ある。
また、北欧神話では、 hillはヴァル‑ラ(Valhalla) への入口(42)であるという。ヴァルバラというのは、グ ラズ‑イム(Gladsheim)にあるOdinの最大の宴会場 であるという。ここは、 「死者が心配なく暮らす場所」
であるという神話を思い出して、詩人ワーズワースは
「谷また谷、山また山の上高く」とうたい上げたのでは
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あるまいか。それにしても、 Flutteringのごとき波打 つような変化の豊かな音韻の文字を使って、さらに、
and dancing in the breezeで、風力の変化とともに小 刻みに、軽るく、風のあとを慕うようで、何だかさらに 別の風が続くような心地がしてならないのは、ただ筆者 のみであろうか。たえまなく、時には強く、また、時に は激しく吹きつける風と同じように、詩人ワーズワ‑ス の歌はわたくしたちの胸にひびきわたって、余韻が尽き ないのである。
Con‑tin/‑u‑ous as/the stars /that shine And twin/‑kle on /the milk/‑y way, They stretched /in nev/‑er‑end/‑mg line
A‑long /the mar/一gin of /a bay :
Ten thou/‑sand saw /I at /a glance,
Toss‑ing /their heads /in spnght/‑1y dance.
「とぎれなく続く天の川に光りそして輝くかの星星の ように連綿と、水仙の花花がある湾の水際に沿って、ど こまでも続く列のなかで背をいっぱいに伸ばしていた。
1万という無数の花花を僕はちらりと見た、快活な踊り の中でそれぞれの頭を軽やかにゆり動かしているのを見 た。」と前章の意を受けて、心が落ち着いていて、のび のびして、悠々として、迫らない、静かな調子をつづけ て、無数のラッパ水仙の花花の美しさと輝きを賛じてい るのは、いい。天上の天の川の星星と、地上の連綿とつ づくラッパ水仙の花花と(夜と昼と)の対の神妙をやは り味読すべきであろう。このラッパ水仙の、とぎれなく 連綿と続く様子を、 con‑tin/‑u‑ous as、すなわち、弱
音強者/弱音弱音強音、というリズムの変化に託して 歌い上げているのは、見事である。ここにいうcontinu‑
ousというのは、 「切れ目なくずっと」とか、 「切れ目な く群がり咲いて」とかという意である。しかし、これは、
3行目のstretchedの主格補語であるというのが、三宅 雅明・吉岡丞展の説明(43)である。そうだろうか。とい
うのは、 2行目のあとにコンマが使われているからであ る。ここは、どう読んでみても、 (Being) continuons
as the stars……, they stretched in never‑ending
live along一一:という分詞構文が用いられているので はあるまいか。分詞構文というのは(44)、 (接続詞+節) の接続詞を省き、その節の動詞を現在分詞に変えて文を 短縮する構文で、文全体を修飾する副詞句の働きをする。
つまり、 (Though they were) continuons……, they
stretched in neveトending line‥‥= :という譲歩を示 すものであろうかと思う。しかし、分詞構文のうち、
be動詞の現在分詞(being+p. p. 〔受動能〕、 being+
補語)と、 be動詞の完了分詞(having been+p.p. or 補語)は通常省かれる事を思い起こしてみると、やはり
分詞構文であるといいたい。もちろん、この場合は、分 詞の意味上の主語(they)一主節の主語(they)の場合 である事に、注意しよう。
stretchというのは自動詞である。人がからだを伸ば すとか、伸びをするとかというふうに用いられている動 詞stretchであると患う。つまり、絶えることなくどこ までも長く咲きつながりつづさながらも、ラッパ水仙の 花花は、切れ目なくずうっと咲きつながる列の中で、背 のびしていた。とぜひ精読してみたい。星が光るように、
また星が輝やくように、花花もまた天にむかって背のび していた、と味読したいものである。これは、いかがな ものか Along the margin ofa bayというのは、も ちろん、アルズウォータ‑湖の西岸の、いくつかある湾 の中の1つの湾の水際に沿って、咲きつらなっている水 仙の大群落を規定するのである。 bayというのは、 gulf よりも小さくて入口の広いものをいう。入口の広い湾の 岸辺に沿って連綿と水仙が咲きつらなっている。それも、
はるか彼方まで咲きつらなっている水仙の大群落を詩人 ワーズワースははっきりと打ち眺めているのだと思う。
一瞬、風が止んだ感じである。
Ten thousand saw I at a glanceというのは、 「一万 をただ一目で見た」という意である ten thousandは、
一万という無数の水仙の花花を意味するのであるが、こ こに詩人ワーズワースは水仙の大群落を見た時の強烈な 印象を誇張的に、また、感情をこめて、また、漠然と表 白している一行である at a glanceは、副詞句で、
ちょっと見ただけでという意であるが、ここに水仙の無 数の水仙を、電光のように読者の眼前にありありと見さ せているのもまた、精妙である sprightlyというのは、
辞書によると、 brisk, vivaciousであり、 Iivelyであり、
gayであるという。つまり、 「歓びどよめく」といった 感じである。水仙の花花がざわざわ騒ぐような陽気な踊 りが明示されているのであるから、その時の風力の変化 を精読すべきだろう。思うに、このsprightlyという形 容詞は、 spriteから派生し、変形した古語である。この spriteという名詞は、古期フランス語のespritから借 入した語である。その原義は、 spiritであるという事を 忘れずに覚えておこう。 spriteは、妖精(fairy)とか、
鬼(goblin)とかという意である。川崎寿彦はこの sprightly (‑spirited)という形容詞について、こう説
明している(45)。
sprightはspriteの変形。すなわちspiritと同じ意 味である。ここでこのようにわざわざ言い直してあ るのは、水仙の「元気さ」が、天地の「霊気」をは らんでいるゆえであることを、暗に説明したもの。
[日本語の「元気」も、よく考えれば、同じ意味合 いをもつ。人類は、もともと、洋の東西を問わず、
基本的に共通するアニミズムに支配されていたから
であろう。]
という。この川崎説を踏まえて、木村説(46)によると、
Iively, gayの意味 spiritedの意味が分かち難く 結びついている。すなわち、詩人は、風に踊る水仙 をただ単に「生き生きとした」存在としてばかりで なく、自然の「霊を帯びた」存在としても見ている。
というのである。両者とも見事な解釈である。筆者も同 感である。両者の解釈に加えて、筆者はさらに思う。
spiritというのは、死後の非物質的な存在(=霊)を表 す(47)ものであると。つまり、無数の水仙の花花に、無 数の死者の霊を重ねて、詩人ワ‑ズワースは、 Tossing their heads in sprightly danceと歌い上げているのだ
と思う。
川崎説によるアニミズム(animism)というのは、
有霊観と訳し、自然界のあらゆる事物は、具体的な形象 をもっと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的 存在を有するとみなし、諸現象はその意思や働きによる ものと見なす信仰である。無数の水仙の花花に、それぞ れの固有の霊の存在を眺めている、というのは非常に感 動的である。このアニミズムを踏まえて、詩人ワ〜ズ ワースは、それぞれの存在する霊に託して(48)、 「真理の 御霊」 (Spirit of Truth) =「助け主」 (Comforter) =律 法をもたらす者、すなわち、聖霊を規定しているのかも 知れない。たとえば、 「ヨ‑ネによる福音書」の第14章 の申(49)に、
もしあなたがわたしを愛するならば、わたしのいま しめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。
そうすれば、父は別に助け主を送って、いっまでも あなたがたと共におらせて下さるであろう。それは 真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、
知ろうともしないので、それを受けることができな い。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、そ れはあなたがたと共におり、またあなたがたのうち にいるからである。
と明記されている「真理の御霊」を、ここに詩人ワ〜ズ ワースは明示しているのではあるまいか。さらに、それ につづけて(50)、
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によっ てつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのこと を教え、またわたしが話しておいたことを、ことご とく思い起させるであろう。
と明記されている「聖霊」を、ここに詩人ワ‑ズワース は厳格に歌い示していると思うのであるが、これは、ど んなものか。
止んでいたと思われた風もまた吹き出した。強い風で ある。湖をわたってくる和風だ。風力5の疾風であるか も知れない。ラッパ水仙の大群落がいっせいに大揺れに 揺れだした。なぎ倒す程でもないが、ややそれに近い様
子である。すこし治まったようだ。上下に揺れる快活な ラッパ水仙の踊りに身をまかせながら、この第二連をも う一度口ずさんでみることにしよう。耳を澄まして聞い てみると、破裂音の子音がよく聞こえてくる。たとえば、
continuons, stars, twinkle, milky, stretched, ending, margin, bay, Ten, glance, Tossing, sprightly, dance
などのk.g, t,d、の子音である。たとえ両唇音のもの であろうと、歯茎音のものだろうと、また、軟口蓋音の ものであろうと、かえって、それぞれが風力の変化にと もなって、花花のリズムを生かしていて、うまく調子を ととのえている。さらに、摩擦音が添えられることに よって、聞くに一層の快活さが心地よい限りである。
また、 shineの光線が、 Iineに伸びていくのもよい。
[a]の音は[ae]と[a:]の中間の音(51)で、ロは日本語 の「ア」より少し大きくかまえ、 「ア」という。この広 い口の「ア」から狭い口[i]に移るのが[ai]である。
これは、 [a]に[i]をつけ加えるように発音する。決 して、「愛」(アイ)をはっきりと「アイ」と発音しない のが、骨である。 [アイ]のようにいえば、大体、 [ai]
に近くなるだろう shineとIineとは、まったく韻が 合って、調子がいい。 wayとbayもまた、よい。 [ei]
という2重母音は(52)、 「英語」の「英」を発音してみる と、 「エ」を強く、いくぶん長く発音して、あとに軽く
「イ」をっけ加えるといった感じだ。決して、 [ェイー]
と剣道の気合いをいれる音にならないのが、肝心である。
天の川(Milky Way)というのは(53)、エジプトにお いて、雌ウシ女神‑トル(Hathor)をイメージすると いう。また、ギリシアにおいて、天の川はレア(Rhea) が自分の乳首を無理やり、ゼウスに含ませようとしたと きにほとばしり出た乳である、と語り継がれているのは、
面白い。また、 ‑ラ(Hera)が偏されてヘラクレス (Heracles)に乳を含ませ、突然ヘラクレスと気づいて 引き離したとき、空にほとばしったヘラの乳であるとも 語られているようだ。また、ヘラクレスが飲みこめない ほど口に含み、むせて空に吐き出した乳でもあるという。
興味深い事に、イギリスの詩人トマス(Dylan Marlais Thomas, 1914‑53)(54)は、 「最下点の精液」 ("The Seed atZero")の中に、 「ビーナスの乳」と歌い上げて いるのだ。
思うに詩人ワ‑ズワースは、このような「乳」のイ メージを下敷にして、天の川を規定するのである。とい
うのは、次の第三連を見ると、湖の水が波立っていて、
飛沫をあげていることを患い合わせてみると、おそらく は、風力4の和風はもちろんのこと、風力5の疾風、あ るいは、時には、風力6の大風が吹き、そのために、岸 辺には打ち寄せられた白い泡がただよっていることを明 示している、と思われるからである。 wayとbayとの、
うつくしい押韻の見事さを味読すべきだろう。しかも、
130 奥 的 喜八郎
潮(lake)というと、どうしても、アーサー王伝説の
「湖上の美女」 (the Lady of the Lake)を想起する。
伝説によると、湖上の美女は水の魔女(awater‑
sorceress)をイメージするものであって、女魔法使い と、魔女は湖のそばに住むことが多いと語られているの も、印象深い。筆者は中学生の頃、岩波少年文庫の
『ア‑サー王物語』を愛読した(55)ことが患い出される。
ふたりはしだいに森の奥ふかくすすんでゆきました。
やがて左右に山々があらわれ、ついに、暗い山々の あいだを縫うせまい谷間を馬ですすみました。とう とう岩にはさまれた細い峠の道へきました。それを 越すと、山々が椀のようになっていて、その中にふ しぎな湖がたたえられているのが、アーサーの目に うつりました。湖のまわりには、山々が黒くさびし くそびえ立っているのに、湖の水は、この上なくす みきった、明るい空色をしていますし、岸辺は、緑 の若草と花でふかぶかとおおわれているのでした。
湖のむこうがわの小高い丘の頂のかなたは、 ll」々が 切れて、ひろびろとした平野につづき、その先に、
ぼんやりと議につつまれて、湖らしいものが見え、
その水面に、たくさんの島が、点をうったように、
うかんでいるのでした。
「これは、妖精の宮殿の湖です。」とマーリンが言い ました。 「‑中略‑さあ、おりて行って湖の姫 と話されるがよい。そのあいだ、わたしはここであ なたを待っていますからな。」
といった物語である。 「美しい姫が、水色の絹の服に金 の昔をしめて、湖をわたって歩いてきます。やがて、岸 へあがり、アーサー王の前へ立ち、こう言いましたo」
「わたしは湖の姫です。」という物語を何度読みかえした ことか。思うに、このアーサー王物語に、詩人ワ‑ズ ワースの「ラッパ水仙」の玉詩を尋ねてみるのもまた、
心楽しい限りである。
wayというのは、聖書に用いられた意義として、身 を処する道という意味をもつ。たとえば、 the way(s) of Godは、神の遺、大道という意である。また、 the Wayは、この道、キリスト教という意で、 「使徒行伝」
の第9章に、また、第19章の中にも明記されているの だ。前者は「この道の者を見っけ次第」(56)とか、また、
後者は(57)、
それから、パウロは会堂にはいって、 3か月のあい だ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。
ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じ ようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言った ので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから 靴Eiサa!
といったふうにthe Wayが明記されていることを思い 合わせてみると、女神たちの乳をイメージする天の川に
託して、詩人ワーズワースは、魂が昇天する道とか、神 の子が流れてくる聖なる川とかというイメージを歌い伝 えている、と精読することはやはり読みすぎだろうか。
というのは、潮は、別に、死者の国をイメージするから である。死者の国をイメージする潮の水が、春の疾風に よって、波立ち、高い飛沫をあげて岸辺にうち寄せる。
岸辺には白い泡がただよう。その水際に沿って、無数の ラッパ水仙の花々が連綿と咲きつらなっている。花々が 輝やいているのだ。
daffodilという語は、もと、ラテン語のasphodelus から借入した語であって、 asphodelという原義を有す る。このasphodelというのは、ユリ科の植物で、ツル ボランという意である。イギリスの詩人たちは、この asphodelをスイセン(daffodil)の意味に用いたので あるが、しかし、ギリシア神話では、不凋花とか、極楽 の花とかという。つまり、死者の楽園に咲く不死の花ア スフォデルであるというのだ。この死者の楽園のことを エリュシオン(Elysium)といって、ここは善人が死後 住む所であるという。 Asphodelは、このElysiumの 野に咲いていると伝えられる花である。すなわち、見方 をかえてみると、この不凋花は、地獄にではなく、地獄 の辺土の草地に咲く花であるともいう。この地獄の辺土 の草地を、リンボ(Limbo)といい、ここは生前行い が良くも悪くもなかった人々が住む草地であるという。
カトリックの世界では、このリンボ、すなわち、古聖 所というのは、地獄と天国との間にあり、キリスト教に 接する機会のなかった人や、洗礼を受けない小児、異教 徒、白痴などの霊魂の住む所であるという。
なにはともあれ、上記のイメージを伝えるラッパ水仙 の花花が湖の、ある湾の水際に沿って連綿と咲きつらな り、陽気に踊っている、と詩人ワーズワースは規定する。
それも、 tossing their heads Lながら、快活に踊って いると歌うのである。 sprightly (or spirited)という 形容詞については、上記にすでに、川崎説を紹介しなが ら、論述しておいた。すなわち、水仙の「元気さが」、
天地の「霊気」をはらんでいるゆえんであることもまた、
その後の筆者の論考で十分に明らかだろう。
しかし、気になるのは、 tossing their headsという 様子である。というのは、 tossというのは、頑などを
ぐいとうしろへそらすという意をもつからである。たと えば、 She tossed her head. (「彼女はつんと頑を上げ た」)というふうに用いられるからである。 She tossed her head angrily. (「彼女はおこってぐいと頑をうしろ へそらした」)という仕草は、つんとして相手を軽べつ する身ぶりであるからである。軽べつだけではなく、も ちろん、いらだちなどを表わす動作でもある。
詩人ワーズワースはあえて、 tossing their headsと いう、つまり、つんとして相手を軽べつしたり、いばっ
たりするという悪いイメージを歌い示すのではなく、こ こは、やはり、 「不屈の精神」、いわゆる、 「がんばり」
とか、 「自信」とか、 「確固たる信念」とかとという好ま しいイメージを高らかに歌い伝えているしぐさであると 味読すべきであろう。積極的な自己主張を重んじる英語 文化圏の「不屈の精神」の持主ワーズワースをまず理解 すべきだろう。そのためにも、 glance, danceの[q:]
という長母音はいい。これは、あくびをするときのよう に口を大きくあけるのが骨である。このように口を上下 左右に広く開いて「ア‑」と長く発音する。それも、奥 の方から声が出るようにするためにも、頭をうしろへそ らす方がよい。このときの舌の位置はうんと低くなるか らだ。
The waves /be‑side /them danced ;/but they Ouトdid /the sparkl/‑ing waves /in glee : A po/‑et could /not but /be gay
In such /a joc/‑und com/‑pa‑ny : I gazed /and gazed /but lit/‑tie thought What wealth /the show /to me /had brought.
「湖の波は花花のそばで踊っていた。しかし花花の歓 喜の方が、放っ水しぶきのそれよりもはるかに凌いでい た。詩人たる者は、このような気楽な交わりの中で、浮
'JEMS.
き浮きしないではいられなかった。僕は凝視た‑そし
VBMi.
てまた凝視た‑が、しかし少しも考えなかった、どれ 程の大きな富をこの花花の光景が自分にもたらしてくれ たかを。」と前章の意を受けて、詩人ワ‑ズワースは波 立っ湖に傾注する。 beside themというthemは、 the daffodilsを指す。そのあとのtheyもまた、 the daffo‑
dilsを指す outdoというのは、凌駕するとか、人にま さるとか、よりももっとうまくやるとかという意である。
たとえば、 He outdid me in mathematics last time.
(「彼はこの前のときは数学で私よりいい点を取った」) というふうに用いられる他動詞outdoである。 gleeと いうのは、 a joyful stateとか、 mernness and happi‑
ness caused by triumph or successとかという意であ る。つまり、勝利とか、成功によってもたらされる歓喜 とか、大喜びとかといった意味を有する名詞である。た とえば、 He was in high glee. (「彼は得意満面だっ た」)というふうに用いられる名詞gleeである。面白い。
というのは、詩人ワ‑ズワースは、疾風が吹きあれて、
湖の水が波立ち、その湖の波の踊りと、ラッパ水仙の花 花の踊りとをくらべているからである。両者を比べてみ ると、波の踊りもすばらしい光景であるのだが、しかし、
歓喜の点で、はやり、ラッパ水仙の花花の踊りの方に、
詩人ワ‑ズワースは軍配を上げていることに注目しよう。
波も高く飛沫を上げて、飛び散る細かい水玉の輝きも称
費に値するのであるが、しかし、両者の輝きを比べてみ ると、ラッパ水仙の花花の方が、誇らしげな様子をして いて、その様子が顔全体に現われている、と詩人ワーズ ワースは規定するのである。そして、詩人ワ‑ズワース は、このような得意の絶頂にうかれている花花の仲間に 加わってみると、詩人もまた陽気にならないではいられ なかった、と歌い上げているのは、軽妙である。
could not but'というのは(58)、否定語が含まれてい るにもかかわらず、内容は肯定的な構文である。
(cannot but+原形不定詞) = (cannot help+動名詞) であるように、互いに書きかえが可能である。両者はと
もに、 「〜せずにはおられない」という意であるが、し かし、詩人ワーズワースは、 cannot help+動名詞の構 文を使わないで、 cannot but+原形不定詞の構文を使 用している。それは、この第三連全体のリズムを、すな わち、 「弱強調4歩律」をより完全なものにするためで ある。ここは、まったく一糸乱れず、整然とうたわれて いる第三連である。というのは、ここは内容的に、花花 の輝きと、飛沫の輝きとを比べているからである。もち ろん、はじめから、比べ物にならないものでは、こまる。
詩人は、優劣の差がない両者の踊りを比較しているから である。あらゆる点で、比べてみて、まだ両者の優劣を きめかねているからである。吟味の結果、歓喜(glee) の点で、輝く水玉の歓喜も然ることながら、やはり、花 花の歓喜の様子に、軍配を上げないではいられなかった 詩人ワ‑ズワースの緊迫した注意力と、勝敗の厳しさな どが明示されているからである。 A po/‑et could/not but/be gayとうたうこの一行のリズムは完聖であるが、
しかし、 A po/‑et could/not help/be‑ing gayであれ ば、ご覧の通り、 be‑ing gayとなって、弱音弱音強音 となる。弱音が1つ多くなって、せっかくの緊迫感が、
このために、おもわず崩れてしまうからである。
それはそれとして、 gleeというのは、別に、音楽用 語として、グリー合唱曲という意味をもつ。これは、多 く無伴奏で、 3部または4部から成る。主として男声の ための曲で、 18世紀に特に流行した合唱曲であるとい う。もとは、酒宴で歌ったものらしい。酒宴で歌う曲で あるから、それは陽気で、上機嫌の、楽しい曲のようで ある。思うに詩人ワ‑ズワースは無数のラッパ水仙の花 花の踊る様子を眺めていると、そこにすでに廃れたあの グリー合唱曲のリズムを思い出したのではあるまいか。
そして、いっしか、花花もまた、上機嫌の、陽気な、楽 しい曲を歌いあげているように思い、詩人ワーズワース もまた、その花花のグリー合唱団の一員となって、歌を うたうのだと思う。一緒に歌をうたわなくても、歌いた くなるような陽気で、楽しく、上機嫌になっているのだ と恩う。
gayというのは、 light‑hearted, cheerful, happy
132 奥 田 喜八郎
andfulloffunという意であるJocundというのは、
merry, cheerfulの文語である。両者ともよく似た意味 であるが、 Jocundという語は、もと、後期ラテン語の Jocundusから借入した語で、 pleasantという原義を有 するという。これは、ラテン語のJuvareから借入した 語で、 to help, delightという原義を有するという。
gayという語は、もと、古期高地ドイツ語のgahiから 派生した語で、 swiftという原義を有するという。前者 のJocundは、 「心地よさ」をイメージする陽気さ、快 活さである。後者のgayは、 「つかの間」をイメージす る陽気さ、快活さなのである。三宅・吉岡説による と(59)、 「詩人たるものは、ひとりでに心が浮き浮きする はかはないであろう/こんな陽気な仲間(ラッパ水仙) とともにいると」という。津村説による(60)と、 「詩人た る者、かやうな賑やかな仲間を得て、どうして浮かれず に居れやうか」という。なにはともあれ、ここにいうa という不定冠詞は、 anyや、 eachの弱い意味で、総称 的に用いられるものである。詩人たる者とか、詩人とい う者とか、いずれの詩人とか、すべての詩人とかという ふうに用いられる不定冠詞aなのである。つまり、詩 人たる者は、浮き浮きしないではいられなかった、と歌 い上げているのであるが、しかし、半面、浮かれ立っ気 分を少し戒めていることをも同様に味読すべきだろう。
このような幸福な状態はそんなに長っづきするものでは ない。つかの間の喜びであるというのが、人間ワ‑ズ ワースの悟りであるといえようか。
gazeというのは、 look long and steadilyという意 味である。これによく似た意味で、 stareという動詞が ある stareというのは、 look fixedly, (of eyes) be wide openという意である。つまり、眼を大きく開い てじろじろ見るとか、驚いて目を見張るとかというのは、
後者の動詞stareである。これに対して、凝視するとか、
見っめるとかというのは、前者の動詞gazeである。こ れは、どちらかというと、おもに興味をいだいてとか、
驚嘆してとか、喜びを持ってじっと見るという意味を持 つ。つまり、得意満面であるラッパ水仙の花花を興味・
驚嘆・喜びを持って凝視した、と詩人ワ‑ズワ‑スは規 定するのである。いわゆる、視線や心を集中して花花を じっと見つめているのであって、目を大きく見開いて花 花をにらみつけているのではない。両者を混同しないよ
うにしよう。
I gazed‑and gazed‑というふうに動詞gazedが2 度くり返されている。また、それぞれの動詞のあとに、
ダッシュの記号が添えられている。ミルワード説によ る(61)と、動詞の2度のくり返しに託して、喜びに満ち た深い思考(ecstatic contemplation)を明示し、さら に、ダッシュに託して、心のはずむ反復(excitedrepe‑
tition)を表白しているのだという。面白い解釈である。
前者の、喜びに満ちた深い思考の喜びに、興味と、驚嘆 とを加えた深い思考を、 2度の動詞のくり返しに託され ているものとして筆者は精読したい。そして、このダッ シュの間は、詩人が深く思考しているのだ、と筆者は思 う。
little thonghtというIittleというのは、副詞で、こ のように、動詞の前に用いて、全く‑ないとか、少しも
‑・ないとかという意である。たとえば、 Helittle knew what would happen. (「彼は何が起こるか全然知らな かった」)というふうに使われるIittleである。つまり、
ここは、全然思わなかったとか、少しも考えなかったと かというのではあるまいか。詩人は花花を長い間じっと 見っめた。そして、見つめながら深く感動した。そして また、詩人は花花を長い間じっと見っめた。そして、見 つめながら、花花の歓喜に深く感激した。見蕩れたが、
しかし、全然思わなかった、と詩人ワーズワースが歌い 上げるのだ。詩人たる者は浮き浮きしないではいられな かったからだ。このthonghtの目的節は次の行である。
滞村説による(62)と、 「此見事な光景がどれ程の富を自分 にもたらしたか、殆んど気付かずにいた」という。
What wealth the show to me had broughtという whatというのは、疑問形容詞である。なん.のとか、ど んなとか、どれほどのとかという意である。どれほどの 富を、と歌うのではあるまいか bring A to Bという のは、 A (物事)=wealthをB (人・場所)=meへもた らすという意である。この光景がどれほどの富を自分に もたらしたか、と詩人ワ‑ズワースは歌い定めるのだ。
ここの過去完了形(had brought)は、すなわち「過去 に焦点」を合わせていることに注意しよう。しかし、完 了時制という考え方は、非常にやっかいである。という のは、本来、日本語に存在しないからである。
長崎玄弥は『奇跡の英文法』の中(63)で、元来、現在 完了は、 have+過去分詞の形ではなかったという。た とえば、現在では、 I have sprained my ankle. (「足首 をくじいた」)というふうに使用しているが、しかし、
昔、 I have my ankle sprained (as sprained). (「くじ いた状態の足首を、今、持っている」)というふうに使 われていたというのである。また、 I have broken the vase.は、 I have the vase brokenが本来の形であるか ら、花瓶を割ってしまって、割れた花瓶を、今、持って いる状態即ち現在完了の現在の部分は、このhaveに相 当するというのだ。 「現在完了を使うとき(過去の事を 述べていても)、話し手は現在に焦点を合わせてい る」(64)というように、 「過去完了を使うとき、話し手は 過去に焦点を合わせている」という事もまた、これでう なずけるだろう。思うに、詩人ワ‑ズワースは読者に 逢って、ラッパ水仙の花花についての昔話をしていると 患うとよいかも知れない。昔話をしていると、現実から
離れて、心も何も、ある過去の時期に戻ってしまうこと がよくある。このような場合に、過去完了がよく顔を出 す(65)ようである。たとえば、 「僕がやっと初段になった とき、君はすでに3段だったね」 ("When I finally got
the first grade in judo, you had already become a
thirdgrade.")といったように、である。
僕はラッパ水仙の花花をじっと見つめていたとき、花 花は(すでに)富を自分にもたらしてくれていたんだ。
("When I gazed at the doffodils, they had (already) brought wealth to me.")というふうに、過去完了が よく用いられることを覚えておこう。そして、この主文 の方を、主格をIにして、長崎説のいう昔の文に書きか えてみると、 I (already) had wealth brought by them.という文になる。これは「花花によってもたらさ れた状態の富を(すでに)持っていた」という過去完了 の過去の部分は、このhadに相当する。筆者は、学生 の頃、過去完了は大過去とも言うということを学んだ記 憶がある。思うにこの名称は、長崎説のように(66)、言 外に小過去とでも呼べる別の過去を暗示するものである かも知れない。たしかに、過去の中に、もう1つの過去 の粋を設定する考え方が過去完了に見られるからである。
それはそれとして、 richesより強い意味をもつwealth というのは、次の最終連の中にうたわれている幸福をさ す。
For oft,/ when on /my couch /I he In va/‑cant or /in pen/‑sive mood, They flash /up‑on /that in/‑ward eye Which is /the bliss /of sol/‑i‑tude ; And then /my heart /with plea/‑sure fills, And danc/‑es with /the daf/‑fo‑dils.
「という訳はしばしば、僕はぼんやりしたまま、ある いは物思いに沈んで自分の長いすに横になっているとき、
孤独という無上の喜びであるその心の目に、あの時の花 花の光景がばっと浮び映ずるからだ。それから、僕の心 は喜びでいっぱいになって、それから、僕の心は花花と ともに踊るからである。」と詩人は歌い収めるのである。
詩人ワーズワースは無数のラッパ水仙の花花が連綿と咲 きつらなっている場所を去って、家に戻り、遠出の疲労 をいやす。疲れをいやしながらも、岸辺にそって連綿と 咲きつらなっていた、あの無数のラッパ水仙の花花の光 景が目に心に焼き付I、ていて、まだその岸辺を散策して いるような錯覚にとらわれるようである。まだ、花花を 道連れとして、花花の中に居るようで、興奮いまださめ ないようである。
Forというのは、等位接続詞で、というわけは‑だか らという意である。これは前置詞の原因、理由などを意
味する、 ‑の故に、から転じたものである。 ̀for the reason that*のthe reason thatを省略した接続詞であ るとみることができる becauseが事実の理由を述べる のに対して、 forは直前の文・語句で述べたことの理由 または、ある語(句)を用いた理由を説明する文を導く 接続詞である。両者を混同しないように気をつけよう。
たとえば、 It will rain, for the barometer is falling.
(「雨になるであろう、というわけは晴雨計が下がってい るから」)というふうに用いられるforであるからだ。
この例文で、 becauseを用いると、晴雨計が下がること が雨天の原因のように聞こえるので使用不可である。
oftは、 oftenの古語である。幾度もとか、しばしばと かという意である。 couchというのは、長椅子の一種 である。一端と背の部分の半分だけが高くなっている長 椅子のような、寝いすである。これはまた別に、詩語・
雅語として、臥所、寝台(=bed)という意味をもっ。
詩人ワ‑ズワースはしばしば、この長ソファーに横に なって眠ることもあるだろうが、しかし、 bedはbed、
couchはcouchとして両者をはっきり区別しているの だと患う。というのは、 whenIlie on my couchin vacant or in pensive mood、と歌い定めているからで ある。 vacantというのは、ぼんやりとしたとか、気の ぬけたとかという意である。つまり、 (ofthemind) un‑
occupied with thoughtという意である。 vacantは、
当然定期的に存在すべき人[物]が存在しないことを合 意する形容詞であることを思い合わせてみると、詩人 ワ‑ズワースもまた、時には、顔にぼんやりした表情を うかべている事もあるらしいo それも、長ソファーに桟 になっているときは、特に、放心状態になっていること がしばしばであるようである。その心の空虚さを、ぽか んとした状態をvacantという語の音に響かせているの もいい。いかにも空っぽといった語のリズムである。
pensiveというのは、もと、ラテン語のpensareから 借入した語で、 to weigh, consider, ponderという原義 を有する形容詞であるらしい。 ・‑をよく考えてみるとか、
熟慮するとか、沈思するとかといった原義を踏まえて、
pensiveという形容詞を味読すべきだろう。物思いに沈 んでいる詩人ワ‑ズワースを精読すべきだろう。それは、
どちらかというと、悲しい思いに沈んでいる詩人を吟味 すべきであろう。
詩人がぼんやりして長いすに櫨になっているとき、あ のラッパ水仙の花花の光景がばっと詩人の心に浮かびあ がる、と歌うのだ。それも、花花がひらめく、とうたい 定めるのである。放心状態のときだけではなく、悲しい 恩いに沈んで長いすに横になっているときにも、あの無 数のラッパ水仙の花花の踊りがそんな詩人の心の目に浮 かぶ、と規定するのだ。それもまた、花花が光り輝く、
とうたうのである。このthatinward eyeというのは、