<記録>C.J.L.ベーツ宣教師の生涯と思想(第
52回関西学院史研究会)
著者
神田 健次
雑誌名
関西学院史紀要
号
26
ページ
147-168
発行年
2020-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00028595
神
田
健
次
の ウ ォ ル タ ー・ R・ ラ ン バ ス 宣 教 師 の 著 作 に つ い て は、 『 キ リ ス ト に 従 う 道 ― ミ ッ シ ョ ン 医 療 宣 教 ― 二 重 の 任 務 』( 二 〇 一 六 年 ) 等 の 主 著 が、 何 れ も 関 西 学 院 大 学 出 版 会 よ り 刊 ・ J ・ L ・ べーツ宣教師(Bates, Cornelius John Lighthall
著 作『 ベ ー ツ 宣 教 師 の 挑 戦 と 応 戦 』( ル ー ス・ M・ グ ル ー ベ ル[ 監 修 ] 神 田 健 次 / 池 田 裕 教 師 』 と 略 記 ) が、 今 年 の 五 月 に 大 学 の 助 成 を い た だ き、 関 西 学 院 大 学 出 版 会 よ り 出 版 学 院 史 編 纂 室 の 宣 教 師 研 究 の 重 要 課 題 で も あ っ た だ け に 大 き な 喜 び で す。 ベ ー ツ 宣 教 つ い て、 監 修 者 の グ ル ー ベ ル 元 院 長 は、 序 文 に お い て、 「 C・ J・ L・ べ ー ツ は、 関 西 学 馴 染 み の 名 前 で あ る に も か か わ ら ず、 彼 に つ い て 知 ら れ て い る の は、 ス ク ー ル モ ッ ト ー 学院で過ごした三〇年間、
(二〇一九 ・ 一〇 ・ 一四)
特 に 院 長 を 務 め た 二 〇 年 間 に、 関 西 学 院 の 発 展 に 決 し て 消 え る こ と の な い、 大 き な 影 響 を 与 え ま し た。 二 〇 世 紀 前 半 の 危 機 的 時 代 を 生 き た、 こ の 知 的 で、 創 造 力 豊 か で、 人 間 的 魅 力 溢 れ る 謙 虚 な 人 物 の 存 在 と リ ー ダ ー シ ッ プ な し に、 今 日 の 関 西 学 院 を 想 像 す る こ と は 困 難 で す 」( 『 ベ ー ツ 宣 教 師 』 二 頁 ) と 適 切 に 述 べ て い ま す。 本 書 の 構 成は、第一部が翻訳、第二部が論文と講演、そして第三部は原文と、三部構成になっています。 今 回 の 講 演 の 構 成 と し て は、 【 一 】 関 西 学 院 に 赴 任 す る ま で、 【 二 】 関 西 学 院 時 代 と 帰 国、 【 三 】『 神 学 評 論 』 掲 載の論考から、 【四】
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に込められた思想、という順で進めたいと思います。 【一】関西学院に赴任するまで (一)宣教師としての召命 ベ ー ツ 先 生 の 生 ま れ 育 っ た 故 郷 は、 カ ナ ダ の オ タ ワ 川 南 岸 の ロ リ ニ ャ ル 村 で し た。 故 郷 の 文 化 圏 は フ ラ ン ス 語 圏 で あ り、 少 年 時 代 に お け る 教 会 生 活 に つ い て、 大 変 興 味 深 く 回 顧 し て い ま す。 「 少 年 時 代、 ロ リ ニ ャ ル に は 大 き な カ ト リ ッ ク 教 会 が 一 つ と 小 さ な プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 が 三 つ あ り ま し た。 日 曜 の 朝 は 長 老 教 会、 午 後 は 聖 公 会、 夕 方 は メ ソ ヂ ス ト 教 会 に 通 う の が 当 時 の 私 た ち の 習 慣 で し た。 三 つ の 異 な る 教 会 を、 祈 り の 家、 礼 拝 の 家、 讃 美 の家と私は考えていました。 この三つの教会を知ったことは、 私の生涯の仕事に対する何よりの準備となりました。 私 た ち は 皆 違 っ て い ま し た。 そ れ ぞ れ が、 自 分 た ち の 文 化 と 言 葉 と 教 会 が 一 番 だ と 思 っ て い ま し た。 し か し、 寛 容 と 良 い 意 志 と 互 い を 敬 う 心 が 問 題 を 友 好 的 に 解 決 し て く れ ま し た。 」( 『 べ ー ツ 宣 教 師 』 二 四 頁 ) 実 際 に、 こ の よ う に 叙 述 に 示 さ れ て い る、 相 互 の 異 な る「 文 化 や 教 派 」 に 対 す る ベ ー ツ 先 生 の 寛 容 で 友 好 的 な 態 度 と 姿 勢 は、 日 本での宣教師としての基本的姿勢を培っていたと言えます。 大 学 は、 フ ラ ン ス 語 圏 の ケ ベ ッ ク 州 の モ ン ト リ オ ー ル に あ る、 カ ナ ダ で も 最 も 歴 史 あ る 名 門 マ ギ ル 大 学 の 教 養 学 部 で 学 生 生 活 を 送 っ て い ま す。 マ ギ ル 大 学 に は 三 年 間 通 い、 卒 業 は し ま せ ん で し た が、 そ の 後 英 語 圏 の オ ン タ
あ る 名 門 ク ィ ー ン ズ 大 学 で 哲 学 を 専 攻 し、 金 メ ダ ル を 授 与 さ れ る ほ ど 優 秀 な 成 績 で 修 士 ク ィ ー ン ズ 大 学 で は 高 名 な ジ ョ ン ・ ワ ト ソ ン 教 授 の 下 で 指 導 を 受 け、 「 ギ リ シ ャ 哲 学、 ド の 原 典 研 究 を 通 し て、 知 の 信 頼 性 と 宗 教 的 信 仰 心 を 確 信 す る 根 拠 を 注 意 深 く 探 る 土 台 を 二七頁) と語られるように、 ベーツ先生の堅固な学問的基礎が培われたと言えます。 学 在 学 中 に、 キ ン グ ス ト ン 近 郊 ポ ー ツ マ ス の メ ソ ヂ ス ト 教 会 学 生 牧 師 と し て、 一 八 九 八 そこでの精神病院の患者や受刑者との出会いについて語っています。 「教会はロックウッ キ ン グ ス ト ン 刑 務 所 か ら も そ う 遠 く あ り ま せ ん で し た。 病 院 と 刑 務 所 の 職 員、 さ ら に 教 会 に 参 加 し て い ま し た。 あ る 日 曜、 受 刑 者 か ら ホ リ ー・ ジ ョ ー と 呼 ば れ て い る カ ー ト 受 け、 刑 務 所 で 説 教 し ま し た。 受 刑 者 の 一 人 が 壁 に 描 い た 等 身 大 の 宗 教 画 に よ り 美 し く 腕 を 拘 束 さ れ た 受 刑 者 が 約 三 〇 〇 人 い ま し た。 」( 『 べ ー ツ 宣 教 師 』 二 六 ~ 二 七 頁 ) キ ン 写真 1 クイーンズ大学で修士学位 を取得(1901 年頃) アルマン・デメストラル氏所蔵 グ ス ト ン で の 学 生 牧 師 と し て、 特 に 精 神 病 院 の 患 者 や 受 刑 者 に 出 会 い、 そ の 痛 み に 触 れ る、 若 き 日 の 貴 重 な 経 験 を 読 み 取 ることができるのではないでしょうか。 クィーンズ大学で修士学位を取得後、 一九〇一年の夏にベー ツ 先 生 は、 ウ ェ ス レ ア ン 神 学 校 に 入 学 し、 モ ン ト リ オ ー ル の ド ー チ ェ ス タ ー 通 り メ ソ ヂ ス ト 教 会 に 派 遣 さ れ て い ま す。 そ してその年の一一月、オタワのドミニオン教会の尊敬するS ・ P・ ロ ー ズ 牧 師 よ り 按 手 を 受 け、 正 式 な 牧 師 に な り ま す。 そ の 後、 「 私 は カ ナ ダ の 諸 都 市 の よ り 貧 し い 地 域 の 生 活 状 況 を 学 ぶ 機 会 に 恵 ま れ ま し た。 そ の よ う な 貧 困 と 飢 え が カ ナ ダ に 存
在 す る こ と を 私 は 知 り ま せ ん で し た。 宣 教 師 と し て 日 本 に 行 く 前 の さ さ や か な 勉 強 に な り ま し た 」( 『 べ ー ツ 宣 教 師 』 二 八 頁 ) と 語 っ て い ま す。カナダの諸都市における貧困地域の生活状況を学ぶ経験は、 後年、 神 戸 の 貧 困 層 に お け る 賀 川 豊 彦 氏 の 働 き に 共 感 し、 交 流 を 深 め て ゆ く 布石と言えるでしょう。 一 九 〇 二 年、 ベ ー ツ 先 生 の 生 涯 の 大 き な 転 換 点 と な っ た の は、 一 つ は 二 月 に ト ロ ン ト の マ ッ セ イ ・ ホ ー ル で 開 催 さ れ た 学 生 ボ ラ ン テ ィ ア 大 会 に お い て、 宣 教 師 と し て 召 命 を 受 け た 出 来 事 で す。 「 一 九 〇 二 年 は 私 に と っ て 最 大 の 挑 戦 の 年 で し た。 そ の 挑 戦 は、 こ れ ま で 私 の 人 生 に 応 答 を 求 め て き ま し た。 …… そ の 大 会 で ジ ョ ン・ R・ モ ッ ト が 中 国 か ら の 電 報 を 読 み 上 げ た 時 で し た。 『 北 中 国 は 呼 ん で い る。 ギ ャ ッ プ を 埋 め よ 』。 そ れ は、 二 五 〇 人 の 宣 教 師 と 二 五 〇 人 の 中 国 人 信 徒 が 殺 さ れ た 義 和 団 事 件 を 指 し て い ま し た。 そ の 時、 若 き 預 言 者 イ ザ ヤ が 神 殿 で 聞 い た 言 葉『 誰 を 遣 わ す べ き か。 誰 が 我 々 に 代 わ っ て 行 く だ ろ う か』を使って、モットはマッセイ ・ ホールの大観衆に挑戦したのです。 三 〇 〇 人 の 男 女 が イ ザ ヤ の 献 身 の 精 神 に 応 え ま し た。 『 わ た し が こ こ におります。わたしを遣わしてください』 。……数週間後、 私は中国へ の任命を受けましたが、 それはすぐに日本に変更されました。 」( 『べー ツ 宣 教 師 』 二 八 ~ 二 九 頁 )( 写 真 2、 写 真 3) ジ ョ ン・ R・ モ ッ ト は、 現 代 の エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 の 先 駆 と 呼 べ る 世 界 宣 教 会 議( 一 九 一 〇 年、 エ デ ィ ン バ ラ ) の 議 長 と し て 活 躍 し た 世 界 の キ リ ス ト 教 界 の 指 導 写真 2 トロントのマッセイ・ホール 撮影:Gary Blakeley 写真 3 J.R. モット (1865 ~ 1955 年)
者 で あ り、 一 九 四 六 年 に は ノ ー ベ ル 平 和 賞 を 受 賞 し て い ま す。 大 変興味深い点は、この時同時に召命を受けた中に、W ・ M ・ ヴォー リ ズ 宣 教 師 も 同 じ マ ッ セ イ ホ ー ル に い た と い う こ と で す。 し か も ヴ ォ ー リ ズ 宣 教 師 も 日 本 に 派 遣 さ れ る こ と に な り、 滋 賀 県 の 近 江 八 幡 を 拠 点 と し て ガ リ ラ ヤ 丸 で の 琵 琶 湖 沿 岸 伝 道 等 を 展 開 し て い ま す が、 ベ ー ツ 先 生 が 関 西 学 院 に 着 任 し た 後 に 再 会 す る こ と に な るのです。 (写真4) も う 一 つ の 大 き な 転 換 点 と な っ た の は、 最 良 の パ ー ト ナ ー と な る メ ソ ヂ ス ト 教 会 牧 師 の 娘 ハ テ ィ と 一 九 〇 二 年 八 月 に 結 婚 式 を あ げ、 宣 教 師 と し て 日 本 に 出 発 す る と い う 出 来 事 で あ り ま し た。 ( 写 真5) (二)東京と山梨における宣教活動 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 宣 教 師 と し て ベ ー ツ 先 生 が 来 日 し た の は 一 九 〇 二 年 で あ り、 学 院 就 任 ま で は 主 に 東 京 と 山 梨 を 中 心 と し て 宣 教 活 動 を 担 っ て お ら れ ま し た。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 は、 一 八 七 三 年 以 降 東 京、 静 岡、 山 梨、 長 野 な ど を 中 心 に 宣 教 活 動 を 展 開 し て い ま し た。 東 京 の 拠 点 は、 本 郷 に あ る 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 中 央 会 堂 で あ り、 ベ ー ツ 先 生 が 最 初 に 就 任 し た の は こ の 中 央 会 堂 で し た。 そ の 当 時 を 回 顧 し て、 ベ ー ツ 先 生 は、 「 私 達 夫 妻 が 日 本 に 来 た の は 明 治 三 十 五( 一 九 〇 二 ) 年 の 秋 で あ っ た。 そ し て そ 写真 4 W.M. ヴォーリズ宣 教師(1904 年頃) 提供:公益財団法人近江兄弟社 写真 5 日本に出発前のベーツ家(1902) アルマン・デメストラル氏所蔵
の 時 受 け た 任 命 は 中 央 会 堂 で あ っ た。 …… 私 達 は 当 時 大 い な る 嗣 業 を 受 け た 歓 び と 同 時 に 大 い な る 機 会 に 対 す る 責 任 の 感 を 持 っ た。 私 達 は 東 京 の 内 に 脈 打 つ 知 識 的 精 神 的 生 命 の 鼓 動 を 聴 く 感 を 抱 か さ れ て い た。 …… 私 は 中 央 会 堂 宣 教 師 と し て 過 し た 六 年 の 生 活 に 対 し 神 に 感 謝 す る。 私 は 常 に 信 じ た、 中 央 会 堂 は 明 日 の 日 本、 永 遠 不 滅 の 日 本 の 知 識 的 指 導 者 た る べ き 青 年 に 福 音 を 伝 ふ る 比 ひ 無 き 意 義 と 機 会 と に 恵 ま れ て い る 場 所 で あ る 」( 『 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 中 央 会 堂 五 十 年 史 』 一 九 四 〇 年 ) と 述 べ て い ま す。 ( 写 真 6) 一 九 一 〇 年 に ベ ー ツ 先 生 が 学 院 に 就 任 さ れ て 以 降、 東 京 時 代 に 培 わ れ た 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク が 多 様 な か た ち で 発 揮 さ れ、 学 院 に 学 術 的・ 精 神 的 貢 献 が も た ら さ れ た こ と は 看 過 で き な い で し ょ う。 例 え ば、 河 上 丈 太 郎 氏 や 東 大 新 人 会 の 新 明 正 道 氏 や 松 沢 兼 人 氏 な ど の 優 秀 な 社 会 科 学 者 を 教 授 と して招聘し学院の学術的な水準をあげたと言えます。 さ ら に 一 九 〇 八 年 か ら は、 ベ ー ツ 先 生 は 山 梨 に 移 り、 甲 府 教 会 を 中 心 に 宣 教 活 動 を 担 っ て い ま す。 そ の 当 時 の 模 様 に つ い て、 「 宣 教 師 ベ ー ツ 氏 は 毎 週 日 曜 日 の 朝 は 甲 府 教 会 の 英 語 聖 書 研 究 会 に 出 席 し て 聖 書 の 講 義 を な し 午 後 は 日 曜 学 校 長 と し て 其 任 務 を 尽 さ る。 其 他 市 川、 日 下 部 の 各 所 に 出 張 し て 英 語 聖 書 研 究 の 為 め に 力 を 尽 さ れ 時 々 各 所 の 講 壇 に て 演 説 説 教 を な し 」( 『 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 年 会 第 二 回 東 部 記 録 』 一 九 〇 九 年 ) と 記 さ れ て います。 (写真7) ベ ー ツ 先 生 が、 甲 府 教 会 に 関 わ っ て い る 時 期、 N H K 朝 ド ラ「 花 子 と ア ン 」 で 脚 光 を 浴 び た、 翻 訳 家・ 児 童 文 学 者 の 村 岡 花 子 さ ん( 一 八 九 三 ~ 写真 6 本郷の中央会堂 (1899 年改築当時の会堂) 写真 7 甲府時代(1908 年) アルマン・デメストラル氏所蔵
一 九 六 八 年 ) と も 接 点 が あ っ た と 推 定 で き ま す。 そ の 関 連 で、 関 西 学 院 と 関 わ り の 深 い 米 国 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 ウ ェ ン ラ イ ト 宣 教 師 が 東 京 の 銀 座 の 基 督 教 興 文 協 会( 後 の 教 文 館 ) で 創 立 し、 そ の ウ ェ ン ラ イ ト 宣 教 師 の 下 で 村 岡 さ ん が 働 く こ と に な る わ け で す。 関 東 大 震 災 で 倒 壊 し た 教 文 館 の 再 建 の た め に 尽 力 さ れ た の は ウ ェ ン ラ イ ト 先 生 で し た の で、 教 文 館 の 九 階 に は「 中 興 の 祖 」 で あ る ウ ェ ン ラ イ ト先生を記念して 「ウェンライト記念ホール」 があります。 (写真8、 写真9) 【二】関西学院時代と帰国 (一)原田の森時代(一九一〇~):
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カナダ ・ メソヂスト教会は、 日本においては、 特に東京、 静岡、 山梨、 長 野 な ど を 中 心 に 宣 教 活 動 を 展 開 し、 多 く の 教 会 や 学 校 な ど を 設 立 し ま し た が、 学 校 事 業 と し て は 東 洋 英 和 学 校、 東 洋 英 和 女 学 校、 静 岡 英 和 女 学 校、 山 梨 英 和 女 学 校 な ど が 代 表 的 な も の で す。 し か し な が ら、 一 八 九 九 年、 国 家 主 義 的 な 文 部 省 訓 令 第 一 二 号 に よ っ て、 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 東 洋 英 和 学 校 男 子 校 事 業 が キ リ ス ト 教 主 義 教 育 に 終 止 符 を 打 つ こ と を 余 儀 な く さ れ る こ と に な り ま す。 実 は、 そ の 男 子 校 の 頓 座 と 新 た な 展 開 を 求 め て の 祈 り こ そ、 一 九 一 〇 年 に 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 か ら の 呼 び か け も あ り、 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 写真 8 「花子とアン」の村岡花 子さん(1895 年受洗) 提供:東洋英和女学院史料室 写真 9 銀座教文館のウェンライト記念 ホール
教 会 が 関 西 学 院 の 学 校 経 営 に 共 同 参 加 す る 動 機 と な っ た の で す。 な お、 東洋英和男子校は麻布中学(現:麻布高校)になっています。 カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 が 関 学 の 共 同 経 営 に 参 与 す る こ と に よ っ て、 学 院 が 飛 躍 的 に 発 展 す る こ と に な り ま す が、 ハ ー ド 面 で は 財 政 的 基 盤 が 拡 充 し、 キ ャ ン パ ス が 充 実 し た こ と が あ げ ら れ ま す。 他 方、 ソ フ ト 面 で は ベ ー ツ 先 生 は じ め 優 れ た 宣 教 師 が 赴 任 し、 そ の 関 連 で 学 問 的 に 優 れ た 教授陣が学院に招かれています。 ベ ー ツ 先 生 が、 一 九 一 〇 年 に 赴 任 し た 当 初 は、 神 学 校 の 教 授 と し て 組 織 神 学 や 倫 理 学 を 教 え て い ま し た が、 一 九 一 二 年 に 高 等 学 部 が 設 立 さ れ る と、 初 代 高 等 学 部 長 に 就 任 し て い ま す。 ( 写 真 10) カ ナ ダ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 が 学 院 の 学 校 経 営 に 参 加 し た こ と で 財 政 的 基 盤 が 拡 充 し、 一 九 一 〇 年 以 降、 建 築 事 務 所( 当 時 は、 ヴ ォ ー リ ズ 合 名 会 社 ) の 設 立 に よ っ て 本 格 的 に 建 築 設 計 を 手 掛 け た ヴ ォ ー リ ズ 宣 教 師 の 設 計 で、 煉 瓦 造 り二階建ての神学館が最初の建物として竣工 ( 一二 年三月) しています。 一 〇 年 前 に、 ト ロ ン ト の マ ッ セ イ ホ ー ル に お い て 同 時 に 宣 教 師 と し て 献 身 の 決 意 を 表 明 し た ベ ー ツ 先 生 と ヴ ォ ー リ ズ 宣 教 師 が、 そ れ ぞ れ 異 な っ た 軌 跡 を 辿 り つ つ、 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス の 神 学 館 建 設 で 再 会 し た 出 来 事 は、不思議な導きという他はないと思います。 (写真 11) そ し て 一 九 一 七 年 以 後 の 校 地 拡 充 計 画 に よ っ て、 ヴ ォ ー リ ズ 設 計 に よ り、 普通学部(中学部)校舎の再建(一三年三月に竣工、 四年後に焼失) が 一 九 年 に 完 成 し、 中 央 講 堂 は 二 二 年 四 月 に 竣 工、 そ の 後、 高 等 学 部 用 写真10 神学部のスタッフと(1911年) 写真 11 神学館(1912 年 4 月 18 日 献堂式)
校 舎 が 順 次 建 築 さ れ て い ま す。 ま た 文 学 部 校 舎 が 二 二 年 一 一 月 に 献 堂 さ れ、 最 後 に、 高 等 商 業 学 部 校 舎 が 二 三 年 三 月 に 完 成 し ま し た。 ま た、 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 日 曜 学 校 局 と の 合 意 に よ っ て 一 八 年 に ハ ミ ル 館 が 完 成 し て い ま す。 こ の ハ ミ ル 館 が、 上 ヶ 原 移 転 後 に 唯 一 移 築 さ れ た 建 物( 現 在 は 文 学 部 の 心 理 が 使 用 ) で す。 な お、 ブ ラ ン チ・ メ モ リ ア ル・ チ ャ ペ ル( 資 金 提 供 者 : ブ ラ ン チ ) は、 一 九 〇 四 年 に す で に 建 設 さ れ た 建 物 で す。 ( 写 真 12、 写 真 13、 写 真 14、 写 真 15、 写真 16) 学 院 の ス ク ー ル モ ッ ト ー と 言 え ば、 ベ ー ツ 先 生 の 提 唱 と 言 え ま す が、 最 初 に 提 唱 さ れ た の は、 一 九 一 二 年 四 月 に 高 等 学 部 長 に 就 任 し た 直 後 と 言 わ れ て い ま す。 文 書 と し て は、 そ の 三 年 後、 『 商 光 』 創 刊 号( 一 九 一 五 年 ) に「 Our College Motto 」 と 題 し て 掲 載 さ れ ま し た。 キ ャ ン パ ス が 拡 充 し て 次 第 に 学 生 写真 12 中学部校舎(1919 年 再建) 写真 14 高等商業学部校舎 (1923 年竣工) 写真 15 ハミル館(1918 年に完成) 写真 13 文学部校舎(1922 年 竣工) 写真 16 ブランチ・メモリアル・チャペ ル(1904 年 献堂式)
が 急 増 し た こ と に 伴 い、 学 内 に お け る 教 会 の 必 要 性 か ら 一 九 一 五 年 に 関 西 学 院 教 会 が 設 立 さ れ て い ま す。 そ の 際、 礼 拝 主 事 を 兼 務 し て 初 代 牧 師 に 就 任 し た の が、 ベ ー ツ 先 生 の 関 連 で 甲 府 教 会 の 責 任 も 負 っ て い た 小 野 善 太 郎 牧 師 (一八七五~一九六五年)でした。小野牧師は、学院の宗教活動の進展に大きく貢献いたしました。 (写真 17) 一 九 二 〇 年、 ベ ー ツ 先 生 は、 第 四 代 院 長 に 選 出 さ れ ま す。 院 長 就 任 当 時 の 倫 理 学 を 講 義 し て い る 光 景 は 有 名 で 博 物 館 の 入 り 口 に も 見 る こ と が で き ま す が、 同 僚 と 寛 い で い る ベ ー ツ 先 生 の 笑 顔 は 魅 力 的 で す。 ま た、 当 時 も 強 か っ た 運 動 部 の 選 手 た ち と の 写 真 は、 貴 重 な 一 枚 で す。 ( 写 真 18、 写 真 19、 写 真 20) ベ ー ツ 先 生 が 生 涯 に わ た っ て 交 流 を か わ す こ と に な る 賀 川 豊 彦 氏 と 出 会 う の は、 学 院 に 就 任 し て 間 も な い 頃 と 思 わ れ ま す が、 講 演 で 学 院 に 何 度 か 招 い て い ま す( 拙 稿「 コ ラ ム ベ ー ツ 先 生 と 賀 川 豊彦氏」 『ベーツ宣教師』一八八~一八九頁を参照) 。(写真 21) 写真 17 小野善太郎牧師 写真 18 ベーツ院長(1920 年就任) の倫理学講義 写真 19 1920 年:院長就任 アルマン・デメストラル氏所蔵 写真 20 1920 年度の運動部の選手たち 写真 21 賀川豊彦氏を学院に招いて(1922 年 9 月)
(二)上ケ原時代(一九二九~): We Have No Fence 学 院 の 大 学 昇 格 の 動 き に 伴 っ て、 一 九 二 八 年 に 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス を 譲 渡 し、 阪 神 急 行 電 鉄 の 小 林 一 三 氏 の 仲 介 に よ っ て 当 時 の 兵 庫 県 武 庫 郡 甲 東 村 上 ケ 原 に 七 万 坪( 約 二 三 万 一、 〇 〇 〇 ㎡ ) を 取 得 し、 そ こ に 校 舎 や グ ラ ウ ン ド な ど が 整 備 さ れ ま し た。 新 キ ャ ン パ ス の 全 体 お よ び 各 校 舎 の 設 計 は、 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス に 引 き 続 き、 ヴ ォ ー リ ズ 建 築 事 務 所 が 担 当 し、 同 年 二 月 に 起 工 式 を 行 い、 一 年 後 の 二 九 年 二 月 に 完 成 し、 創 立 四 〇 周 年 に あ た る そ の 年 の 九 月 二 八 日 に 新 キ ャ ン パ ス 落 成 祝 賀 式 が 行 わ れ ま し た。 キ ャ ン パ ス は 甲 山 山 麓 の 上 ケ 原 台 地 に 展 開 し、 甲 山 頂 上 の 三 角 点 と 現 在 の 学 園 花 通 り の 中 心 線 と を 結 ぶ 直 線 を 軸 線 に 定 め、 正 門、 中 央 芝 生、 時 計 台 頂 点 を そ の 線 上 に 位 置 づ け られています。その線の右手に宗教館、 神学部、 文学部(後に大学法文学部) な ど 理 念 的 な 意 味 を 担 う 建 物 を、 左 手 に 学 院 本 部、 中 央 講 堂、 高 等 商 業 学 部 (後に大学商経学部) など実学的な意味を担う建物を配置され、 スパニッシュ ・ ミ ッ シ ョ ン・ ス タ イ ル に よ っ て 統 一 感 が 与 え ら れ て い ま す。 さ ら に 左 手 奥 に は 中 学 部、 学 生 寄 宿 舎、 右 手 に は 宣 教 師 館、 日 本 人 住 宅 な ど が 整 え ら れ ま し た。 こ の キ ャ ン パ ス は、 公 園 的 な 開 放 感 を 持 っ て い る と こ ろ か ら、 ベ ー ツ 先 生は “We have no fence. ” という言葉によってこのキャンパスを評していま す。 (写真 22、写真 23) 学 院 の 理 事 会 は、 連 合 教 育 委 員 会 に 大 学 開 設 の 早 期 実 現 を 促 す 一 方、 学 生 会 は 数 度 に わ た り 学 生 総 会 を 開 催 し、 早 期 実 現 を 理 事 会 に 要 請 し て い ま す。 学 生 会 は、 五 月 の 総 会 で、 最 終 決 定 権 を も つ 連 合 教 育 委 員 会 へ の 英 文 の 決 議 写真 22 上ケ原校地起工式(1928 年2月) 写真 23 完成後の上ケ原キャンパス (1929 年頃)We have no fence !
文 を 送 付 し て い ま す。 さ ら に、 一 二 月 一 六 日 の 臨 時 学 生 総 会 で C・ J・ L・ ベ ー ツ 院 長 の カ ナ ダ、 ア メ リ カ へ の 派 遣 を 決 議 し、 一 七 日 の 理 事 会 も そ の 派 遣 を 決 定、 ベ ー ツ 院 長 は カ ナ ダ へ と 旅 立 ち ま し た。 翌 年 一 月 一 七 日 に ア ト ラ ン テ ィ ッ ク・ シ テ ィ で 開 催 さ れ た 会 議 で、 連 合 教 育 委 員 会 は そ の 大 学 昇 格 案 を 承 認 し、 こ こ に 関 西 学 院 の 大 学昇格運動は大学設立という形で決着したわけです。 (写真 24) 一 九 三 二 年 に 正 式 に 文 部 省 よ り 大 学 設 立 が 認 可 さ れ、 法 文 学 部 と 商 経 学 部 が 開 設 さ れ た の が、 三 四 年 五 月 で し た。大学昇格に尽力されたベーツ先生に対して、 三二年五月に大学学生会から 「大学昇格実現感謝状」 が手渡され、 ま た『 関 西 学 院 新 聞 』 は 大 学 昇 格 記 念 号( 一 九 三 二 年 一 二 月 ) を 特 集 し て い ま す。 大 学 創 設 当 時、 宝 塚 ホ テ ル で 教 職 員 が 集 っ て い る 写 真 が 残 さ れ て い ま す が、 一 つ の 大 き な 事 業 を 終 え た 安 堵 感 と 新 た な 出 発 へ の 思 い が、 初 代 学 長 と し て の ベ ー ツ 先 生 の 表 情 か ら も う か が う こ と が で き る よ う に 思 わ れ ま す。 ま た、 高 等 商 業 学 部 第 一 九 期 生 の 卒 業 式 の 光 景 が う か が え ま す し、 当 時 の 卒 業 ア ル バ ム に 綴 っ た ベ ー ツ 先 生 の メ ッ セ ー ジ に は、 「 …… 利 益 よ り 奉 仕のモティーフが君たちの生きる基準になるように」 と、
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のスピリットが語られています。 (写 真 25、写真 26) 写真 26 旧制大学創設当時の教職員 (1934 年 2 月、宝塚ホテル) 写真 25 高等商業学部第 19 期生卒 業式(1934 年) 写真 24 大学昇格問題の臨時学生大 会と決議文(1930 年 12 月)
大 学 昇 格 も 実 現 し、 幾 分 心 に 余 裕 も 生 ま れ た の で し ょ う か、 ベ ー ツ 先 生 が キ ャ ン パ ス を 描 写 す る 写 真 と、 日 本 各 地 の 見 事 な 絵 画 が 残 さ れ て い ま す。 ( 写 真 27、写真 28) 写真 27 上ケ原の外国人住 宅の庭で(1935 年) アルマン・デメストラル氏所蔵 写真 28 宮島(油彩)
Keep This Holy Fire Burning
最 も 厳 し い 試 練 に 出 会 っ た 時 期 は、 申 す ま で も な く ま し た。 戦 時 体 制 が 進 行 す る 中、 ア メ リ カ、 カ ナ ダ 次 々 に 帰 国 を 強 い ら れ、 ベ ー ツ 先 生 も ご 家 族 共 々、 戸 港 か ら 多 く の 教 職 員・ 学 生 た ち に 見 送 ら れ、 断 腸 の そ の 少 し 前、 何 人 か の 方 々 を 呼 ば れ た 折 に 語 ら れ た 言 burning! と い う 言 葉 と 言 わ れ て い ま す。 愛 す る 学 院 残 さ れ る 学 院 が 心 配 で な ら な か っ た こ と で し ょ う。 こ ) を 燃 や し 続 け て く だ さ い 」 と い う 言 葉 は、 単 な る 言 の 心 底 か ら の 切 実 な 深 い 祈 り で あ っ た と 言 え る の で は 聖 な る 炎・ 灯 火 」 と は、 言 う ま で も な く、 関 西 学 院 の と し て 守 っ て き た キ リ ス ト 教 主 義 に 基 づ く 人 間 教 育 というスピリットであると言えます。 (写真 29) 写真 29 ベーツ院長送別会(1940 年 12 月)
ベ ー ツ 先 生 は、 カ ナ ダ に 帰 国 後、 し ば ら く ケ ベ ッ ク 州 の 娘 さ ん の 家 に 滞 在 し て い ま す。 そ し て 一 九 四 一 年 八 月 に は、 ニ ュ ー ヨ ー ク に お い て、 後 述 す る 全 米 向 け の ラ ジ オ で「 日 本 理 解 」 と い う 演 説 を 語 っ て い ま す。 そ の 後、 一九四三年にサスカチュワン州レジャイナのノックス・メトロポリタン教会の牧師に就任しています。 戦後の一九五九年、 関西学院創立七〇周年記念式典にベーツ先生は招かれて来日し、 名誉学位が授与されました。 ( 写 真 30、 写 真 31) そ し て、 カ ナ ダ に 帰 国 さ れ て 四 年 後、 一 九 六 三 年 に ベ ー ツ 先 生 は 逝 去 さ れ ま し た。 ベ ー ツ 先 生 の墓地は、オタワ近郊のベーツ家の墓地にあります。 (写真 32) 【三】 『神学評論』掲載の論考から (一)時代の先端的思想との対話 ベ ー ツ 先 生 が、 一 九 一 〇 年 に 学 院 に 赴 任 し た 初 期 に は 神 学 部 の 組 織 神 学 や 哲 学 な ど を 担 当 し て い ま し た。 そ の 写真 30 創立70周年記念式典で名 誉学位の授与 写真 31 図書館の前の肖像画の前で (1959 年 10 月) 写真 32 オタワ近郊のベーツ家の 墓地 撮影:池田裕子氏
神 学 的 な 立 場 は、 時 代 か ら の 思 想 的、 宗 教 的 問 い か け を 誠 実 に 受 け 止 め、 そ の 積 極 的 内 容 を 評 価 し つ つ、 そ れ と 批 判 的 に 対 話 し て、 キ リ ス ト 教 の 立 場 か ら 応 答 し よ う と す る 弁 証 論 的 な 立 場 と 言 え ま す。 青 山 学 院 と 関 西 学 院 の 両 神 学 部 が 共 同 で 発 行 し た 学 術 紀 要『 神 学 評 論 』( 一 九 一 四 ~ 四 〇 年 ) に、 四 編 の 論 考 を 掲 載 し て い ま す。 ( 写 真 33) 最 初 に 掲 載 さ れ た 論 考「 生 と し て の キ リ ス ト 教 」( 『 神 学 評 論 』 第 一 巻 第 一 号、 一 九 一 四 年 ) は、 古 代 ギ リ シ ア 哲 学 以 降 の 哲 学 史 を 写真 33 青山・関学共同発行『神学 評論』 (1914 ~ 1940 年) 台 頭 し て き た「 生 の 哲 学 」 の 代 表 的 立 場 や 特 色 を 明 ら か に し、 キ リ ス ト 教 に お け る「 生 」 ら 対 話 と 弁 証 を 意 欲 的 に 試 み た も の で す。 日 本 に お け る「 生( 生 命 ) の 哲 学 」 の 受 容 は、 大正期以降にはディルタイやジンメルなどが紹介されていました。 (訳 以 来〈 生 命 哲 学 〉、 大 正 期 以 降 は、 「 生 命 の 哲 学 」「 生 活 の 哲 学 」「 人 生 哲 学 」 な ど の 訳 語 生 の 哲 学 」 と い う 訳 語 は、 少 な く と も 一 九 一 四 年 以 来 の 訳 語 で あ り、 本 稿 が 掲 載 さ れ ツ 先 生 は、 学 院 に 着 任 す る 前 は 東 京 の 本 郷 に あ る 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 中 央 会 堂 の 宣 の 先 端 的 な 思 想 の 潮 流 を よ く 知 る 立 場 に あ り ま し た の で、 「 生( 生 命 ) の 哲 学 」 に 親 し ん 古代ギリシア哲学以降の哲学史を辿りつつ 「生の哲学」 を考察する叙述には、 クィー か キ リ ス ト か 」( 一 九 一 五 年 ) と 題 す る ベ ー ツ 先 生 の 論 考 は、 大 正 期 に 入 り 本 格 的 に 日 本 て き た ニ ー チ ェ の 思 想 と の 批 判 的 な 対 論 を 試 み た も の で す。 大 正 期 に 入 る と、 「 こ の 人 を 、「悲劇の出生 善悪の彼岸」 (大正四年) 、「ニイチェ書簡集」 (大 正六年) など、 ニー ま り、 ニ ー チ ェ の 思 想 研 究 も 出 始 め て き た と 言 え ま す。 そ の よ う な 思 想 状 況 を 視 野 に 入 ー チ ェ の 思 想 の 特 色 を 要 約 す る か た ち で 考 察 し、 と り わ け ニ ー チ ェ の キ リ ス ト 教 批 判 に
つ い て の 言 説 を 取 り 上 げ て い ま す。 興 味 深 い の は、 イ エ ス に つ い て は 評 価 し て い ま す が、 パ ウ ロ の 思 想 に つ い て は鋭く批判しているなど、 その特徴的な言説を考察しつつ、 批判的に対話している点です。ニーチェの言説を丁寧 に 取 り 上 げ な が ら 対 論 し て い る ベ ー ツ 先 生 の 論 考 は、 既 に 欧 米 に お い て 大 き な 影 響 を 及 ぼ し た ニ ー チ ェ の キ リ ス ト教批判に対して、批判的な対話の必要性を覚えたものと思われます。 (二)宗教間の対話と交流 『神学評論』 に掲載した論考には、 インドのタゴールの宗教思想との対論 「タゴールの宗教」 (一九一六 (大正五) 年 ) も あ り ま す。 タ ゴ ー ル は、 一 九 一 三 年 に『 ギ ー タ ー ン ジ ャ リ 』 に よ っ て、 ア ジ ア 人 と し て は 初 め て ノ ー ベ ル 文 学 賞 を 受 賞 し た 詩 人 で あ り、 宗 教 思 想 家 で す。 一 九 一 六 年 五 月 か ら 約 三 カ 月 間、 日 本 で 滞 在 し 熱 烈 な 歓 迎 を 受 け、 多 く の 講 演 活 動 等 を 行 っ て い ま す。 タ ゴ ー ル が、 最 初 に 船 で 到 着 し た の が 神 戸 で あ り、 ベ ー ツ 先 生 も そ の 歓 迎 ぶ り を 肌 身 で 感 じ て こ の 論 考 を 執 筆 し た と 思 わ れ ま す。 『 ギ ー タ ー ン ジ ャ リ 』 や『 生 の 実 現 』 を 中 心 と し て、 タ ゴールの宗教思想を分析し、 その思想を高く評価しています。この時期、 いまだ宗教間対話が希有であった時代に、 タ ゴ ー ル の 宗 教 思 想 と 積 極 的 に 対 話 を 試 み て い る 中 に、 ベ ー ツ 先 生 の ブ ロ ー ド な 対 話 的 姿 勢 を 見 る こ と が 出 来 ま 写真 34 ラビンドラナート・タゴール(1861 ~ 1941 年)インドの詩人 、思想家 す。最後の結論部では、 タゴールを、 「人をキリストに導く教師」 と 述 べ て い る 点 に は、 他 宗 教 の 真 理 契 機 が キ リ ス ト へ と 導 く と い う、 い わ ゆ る キ リ ス ト 包 括 主 義 の 立 場 と 今 日 で は 呼 ば れ て い る宗教間対話のあり方がうかがえます。 (写真 34) 宗 教 間 対 話 と の 関 連 で は、 さ ら に 一 九 二 一 年 一 一 月 に は、 真 言 宗 の 高 野 山 大 学 と の 三 日 間 に 及 ぶ 学 術 交 流 を 行 い、 ベ ー ツ 先 生 も 講 演 と 対 話 を 行 っ て い ま す。 こ の 学 術 交 流 は、 会 場 を 交 代 し て 数 回 続 い て い ま す が、 い ま だ 宗 教 間 の 対 話 や 交 流 が 希 有 な
時 代 に お け る こ の よ う な 具 体 的 な 試 み は 先 駆 的 と 言 え ま す。 宗 教 間 の 対 話 と 交 流 は 二 一 世 紀 を 迎 え 益 々 重 要 な 課 題 と な っ て い ま す が、 宗 教 の 役 割 は、 自 分 た ち だ け が 良 け れ ば よ い と い う の で は な く、 共 に 社 会 に 貢 献 す る た め に、 世 界 の 平 和 の た め に 祈 り、 具 体 的 に 協 力 す る と い う ス ピ リ ッ ト を ベ ー ツ 先 生 は 深 く 抱 い て い た の で は な い で し ょ う か。 そ れ は、 Mastery for Service の精神と言えるでしょう。数年前、大学院のゼミの学生達と高 野 山 と 高 野 山 大 学 を 訪 れ る 機 会 が あ り ま し た が、 親 し い 高 野 山 大 学 の 先 生 から図書館を案内していただいた時、 昔ベーツ先生から贈呈していただき、 大 切 に 保 管 し て い る と い う 大 き な 聖 書 を 見 せ て い た だ き、 大 変 感 銘 を 受 け た覚えがあります。 (写真 35) 写真 35 高 野 山 大 学 と の 第 3 回 交 換 講 演 会 (1921 年 11 月 19 ~ 20 日 高野山) に込められた思想 申 す ま で も な く、 べ ー ツ 先 生 が 提 唱 し た 学 院 の ス ク ー ル モ ッ ト ー で あ り、 最 初 に 掲 載 Motto ”」 (『 商 光 』 創 刊 号 一 九 一 五 年 二 月 ) に お い て で あ り ま し た。 「 人 に は 二 つ の 人的 で私的 な 面、 もう 一つ は公 的で 社会 的な 面で す。 ……で すか ら、校 訓『マ スタ リー・ “弱虫〟 私 た ち は 強 く あ る こ と、 “ さ ま ざ ま な こ と を 自 由 に 支 配 で き る 人 〟( マ ス タ ー) に な る 私 た ち が マ ス タ ー に な ろ う と す る 目 的 は、 自 分 個 人 を 富 ま す こ と で な く、 社 会 に 奉 仕 す 。(写真 36)
写真 36 Mastery for Service の提唱 『商光』創刊号、1915 年 2 月 実は、すでにべーツ先生が高等学部長に就任した一九一二年に、 Mastery for Service は提唱されていたのです。 注 目 し た い の は、 最 初 に 提 唱 さ れ た そ の 年 に、 当 時、 高 等 教 育 の 可 能 性 が ま っ た く 閉 ざ さ れ て い た 視 覚 障 が い を も つ 学 生 を 日 本 で 最 初 に 受 け 入 れ た 年 で あ っ た と い う こ と で す。 学 院 に 着 任 さ れ る 前、 ベ ー ツ 先 生 は 東 京 の 本 郷 の 中 央 会 堂 で 宣 教 師 と し て 働 い て い ま し た が、 そ こ で 熊 谷 鉄 太 郎 氏 と い う 視 覚 障 が い 者 の 方 と 出 会 い、 熊 谷 さ ん の 熱 い 勉 学 へ の 思 い を 聴 き、 最 初 に 神 学 部 で 学 ぶ 道 を 拓 い た と 言 え ま す。 そ の ニ ュ ー ス が 広 ま り、 ま た 文 学 部 英 文 科 に 岩 橋 武 夫 氏( 日 本 ラ イ ト ハ ウ ス を 大 坂 で 設 立、 ヘ レ ン・ ケ ラ ー の 友 人 ) や 本 間 一 夫 氏「 ( 日 本 点 字 図 書 館 設 立 )」 な ど、 多 く の 視 覚 障 が い を も た れ た 方 々( 戦 前 で 約 一 〇 名 ) が、 勉 学 さ れ て い ま す。 そ の 方 々 は、 日 本 の 視 覚障がい福祉に大きな貢献をされていますが、 その勉学の期間、 ベーツ先生は一貫してサポートをしておられます。 ベ ー ツ 先 生 の 提 唱 し た Mastery for Service は、 単 な る モ ッ ト ー で は な く、 具 体 的 な 内 実 の 伴 っ た 行 動 で あ り、 関 わりではないでしょうか。 (写真 37、写真 38) も う 一 つ 注 目 し た い の は、 一 九 二 三 年 に 起 こ っ た 関 東 大 震 災 で の ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 で す。 大 震 災 で 多 く の 被 災 写真 37 盲人伝道の先駆者: 熊谷鉄 太郎氏 1883 ~ 1979 提供:玉田真牧師 写真 38 日本ライトハウス創設者: 岩橋武夫氏
者 の た め に、 「 関 西 学 院 救 援 団 」 を 組 織 し て 東 京 で ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 し て い る 写真 (「衣類のない方はお越し下さい。 関西学院救援団」 )が残されています。 (写 真 39) 震 災 直 後 か ら、 神 戸 か ら い ち 早 く 東 京 へ 赴 い て 組 織 的 な ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 を 展 開 し た の は、 賀 川 豊 彦 氏( 日 本 で 最 初 に “ ボ ラ ン テ ィ ア 〟 と い う 用 語 を 使 用 ) で し た。 賀 川 氏 は、 ベ ー ツ 先 生 と 早 く か ら 親 し い 間 柄 で あ り、 そ の 前 年 に、 学 院 の 講 演 会 に も 招 か れ て い ま し た の で、 そ の 連 携 も あ っ た か も し れ ま せ ん。 二 五 年 前 の 阪 神 大 震 災 の 際 に、 何 か で き る こ と は な い か と い う 学 生 た ち の 熱 意 に 動 か さ れ て、 二 五 〇 〇 名 に も の ぼ る 方 々 と 避 難 所 の 支 援 を 中 心 に ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 を 一 緒 に 担 う 機 会 が あ り ま し た。 そ の 際、 あ る 高 齢 の 方 が 古 い 新 聞 の 記 事 を も っ て こ ら れ、 そ こ に は 関 東 大 震 災 の 際 に「 関 西 学 院 救 援 団 」 が 活 躍 写真 39 関東大震災での関西学院 救援団(1923 年) て い ま し た。 そ の 方 は、 関 東 大 震 災 で も、 こ の 阪 神 大 震 災 で も、 関 学 さ ん は 被 災 者 と 共 思 議 な 校 風 で す ね、 と 語 ら れ ま し た。 恐 ら く、 学 生 達 は、 Mastery for Service を 実 践 し け で は な か っ た と 思 い ま す が、 結 果 と し て Mastery for Service を 実 践 す る と い う こ と で 代 で し た が、 韓 国 か ら の 多 く の 留 学 生 に 対 し て、 ベ ー ツ 先 生 は 温 か い 対 等 な 態 度 で 接 し っ て い ま す。 そ の 留 学 生 の 中 に は、 学 院 創 立 一 〇 〇 周 年 に 大 学 か ら 名 誉 博 士 号 を 授 与 さ 元延世大学総長や、 欧米でも知られる世界的な民衆神学者の玄永学 (一九一六
す べ き こ と は、 一 九 二 五 年 に 開 催 さ れ た 第 一 四 回 総 会 に お い て 院 長 と し て 出 席 し、 教 育 同 盟 の 会 長 に 選 出 さ れ た こ と で す。 そ し て、 そ の 総 会 の 冒 頭 で、 会 長 と し て「 開 会 の 演 説 」 を 行 っ て い ま す。 こ の 演 説 に お い て 注 目 し た い の は、 ベ ー ツ 先 生 が、 世 界 平 和 の 理 念 を 鮮 明 に 表 明 し て い る 点 で す。 特 に、 一 九 二 五 年 か ら 全 国 の 中 学 校 か ら 大 学 に い た る ま で 正 課 と し て 軍 事 教 練 が 実 施 さ れ る と い う 事 態 に 直 面 し、 ベ ー ツ 先 生 は、 「 キ リ ス ト 教 主 義 の 男 子 学 校 で 当 面 の 解 決 す べ き 重 大 問 題 」 と 述 べ て い ま す。 そ し て、 こ の 困 難 な 問 題 に 対 し て、 一 面 法 律 を 守 る 大 切 さ を 強 調 し つ つ も、 他 面 キ リ ス ト 教 主 義 学 校 と し て、 「 軍 国 主 義 に 対 し て 断 乎 と し て 反 対 す る も の で あ り ま す 」 と 述 べ て い ま す。 そ し て、 「 世 界 の 平 和、 戦 争 の な い 世 界 と い う 理 想 は、 こ れ を 実 現 す る に は 長 い 年 月 を 要 す る も の で あ る と し て も、 こ れ を 希 望 し、 祈 り、 常 に そ の 実 現 に 努 力 し 続 け な け れ ば な り ま せ ん 」 と 述 べ、 そ の 旨 を 決 議 することを呼びかけています( 『ベーツ宣教師』一七三頁) 。 こ の 演 説 に お い て、 ベ ー ツ 先 生 は、 総 会 に お け る 審 議 事 項 と し て、 軍 事 教 育 の 中 止 を 要 求 す る 件 を 決 議 す る こ と を 提 議 し て い ま す が、 議 題 と な る こ と は あ り ま せ ん で し た。 し か し な が ら、 開 会 演 説 に お い て、 世 界 平 和 の 理 念 を 掲 げ つ つ、 軍 国 主 義 へ と 向 か う 時 代 的 動 向 に 対 し て 警 鐘 を 鳴 ら し た 意 義 は 決 し て 小 さ く は な い と 思 わ れ ま す。 こ の ベ ー ツ 先 生 の 軍 国 主 義 的 な 時 代 動 向 に 対 す る 具 体 的 な 提 議 は、 当 時 の 国 内 外 の 情 勢 を 鑑 み る と き、 決 し て 単 な る 理 想 論 で は な い こ と が う か が え ま す。 す な わ ち、 第 一 次 世 界 大 戦 が 終 結 後、 そ の 痛 切 な 反 省 か ら 一 九 二 〇 年 に 国 際 連 盟 が 成 立 し、 新 渡 戸 稲 造 氏 が 事 務 次 長( 二 六 年 一 二 月 ま で ) と し て 国 際 平 和 を 推 進 し、 ま た 世 界 の キ リ スト教界でもスウェーデンのセーデルブロム監督 (ノーベル平和賞受賞) の提唱により平和を求める世界会議 (ス ト ッ ク ホ ル ム、 一 九 二 五 年 ) が 開 催 さ れ て い ま し た。 さ ら に こ の 時 期、 日 本 の 教 育 界 で も 平 和 を 求 め る 機 運 が 高 ま り を 見 せ て い た こ と を 考 慮 す れ ば、 こ の よ う な 国 内 外 の 情 勢 を 見 す え た ベ ー ツ 先 生 の 提 議 は 決 し て 単 な る 理 想 論ではなかったと言えるでしょう。 も う 一 つ の 世 界 平 和 を 希 求 す る ベ ー ツ 先 生 の 祈 り と 行 動 は、 一 九 四 〇 年 一 二 月 末 に 学 院 を 辞 し て、 カ ナ ダ へ の 帰 国 し た 後 に う か が え ま す。 カ ナ ダ ヘ 帰 国 後、 ベ ー ツ 先 生 は 学 院 の た め に 祈 り 続 け て お ら れ た だ け で は な く、
・ R ・ モット(ノー し、 全 米 向 け の ラ ジ オ 放 送 で、 当 時 は 敵 国 の 日 本 に 対 し て 憎 し み を 強 く 抱 い て い た ア メ お ら れ ま す。 こ の ラ ジ オ・ ス ピ ー チ の 原 稿「 日 本 理 解 」( Understanding Japan ) が、 著 載 さ れ て い ま す。 現 在 の 戦 争 で 敵 対 関 係 に な っ て い る こ と で、 戦 争 を 駆 り 立 て る 日 本 の つ、 三 〇 年 以 上 に 及 ぶ 日 本 で の 生 活 経 験 を も と に、 日 本 の 人 々 の 事、 そ の 豊 か な 伝 統 や か 憎 し み を 押 さ え て、 冷 静 に 理 解 し て ほ し い と 語 り か け て お ら れ ま す。 そ し て、 「 隣 人 と の 一 つ は、 そ れ が 個 人 の レ ヴ ェ ル で あ れ、 国 家 レ ヴ ェ ル で あ っ て も、 お 互 い の 立 場 を 理 (『ベーツ宣教師』六九頁)と呼びかけておられます。 影 響 の 下、 何 世 紀 に も わ た る 鍛 錬 の 賜 物 で あ る 日 本 国 民 に し っ か り 根 付 い た 文 化、 そ し 厳 な 山 々、 急 な 川 の せ せ ら ぎ、 静 寂 な 湖、 複 雑 な 海 岸 線 と の 接 触 に よ り 培 わ れ た 日 本 人 る 面 に あ ら わ れ ま す。 日 本 人 は 最 高 に 礼 儀 正 し い 国 民 で、 日 本 で 一 生 涯 を 過 ご し た ら、 何 も な い で し ょ う。 日 本 は、 芸 術 家、 画 家、 詩 人、 繊 細 な タ ッ チ と 匠 の 技 を 持 つ 工 芸 家 日本人がつくるものはすべて芸術の香りがします」と、 日本の伝統文化や自然観、 (『ベーツ宣教師』七〇頁) 散 ら ば る 日 本 の 友 は、 日 本 が 現 在 の 道 を 突 き 進 む な ら、 大 変 な 惨 事 が 不 気 味 に 迫 り つ つ て い ま す。 現 在、 日 本 は 四 方 ― 北、 南、 東、 西 ― の 敵 と 戦 お う と し て い る よ う で す。 中 ま ま、 北 の ロ シ ア、 南 の 大 英 帝 国、 海 上 の ア メ リ カ と 戦 争 を 始 め る の は、 確 か に あ ま り より良く、 より賢明で、 れ る べ き で す 」( 『 ベ ー ツ 宣 教 師 』 七 四 頁 ) と 切 々 と 呼 び か け て お ら れ ま す。 残 念 な が ら、 攻 撃 を 日 本 が 仕 掛 け、 太 平 洋 戦 争 に 突 入 し ま し た が、 戦 争 回 避 の た め に ベ ー ツ 先 生 が ラ
結 び:ベーツ先生のメッセージ 以上、 【一】 関西学院に赴任するまで、 【二】 関西学院時代と帰国では、 ベーツ先生の生涯について、 【三】 『神学評論』 掲 載 の 論 考 か ら、 【 四 】 Mastery for Service に 込 め ら れ た 思 想 で は、 そ の 思 想 に つ い て 述 べ て き ま し た。 最 後 に、 【 2】 関 西 学 院 時 代 と 帰 国 に お い て 言 及 し ま し た ベ ー ツ 先 生 の 三 つ の メ ッ セ ー ジ を、 学 院 創 立 一 三 〇 周 年 を 迎 え る 中でもう一度心に刻みたいと思います。 原田の森時代(一九一〇~):
Mastery for Service
上ケ原時代(一九二九~):
We Have No Fence
戦時体制での帰国(一九四〇~):
Keep This Holy Fire Burning
〈基本文献〉 1. R・ グ ル ー ベ ル 監 修、 神 田 健 次・ 池 田 裕 子 編『 C・ J・ L・ べ ー ツ 宣 教 師 の 挑 戦 と 応 戦 』( 関 西 学 院 大 学 出 版 会 二〇一九年) 2. 『関西学院百年史 通史編Ⅰ、Ⅱ』 (関西学院 一九九七~九八年) 3. 『関西学院事典 増補改訂版』 (関西学院 二〇一四年) 4.キリスト教学校教育同盟百年史編纂委員会編『キリスト教学校教育同盟百年史』 (教文館 二〇一二年)