五 四
目
普 はじめに 仏 戦 争 の 衝 撃 と 歴 史 学 歴 史 学 の 革 新 者 モ ノ ー 日 一 八 六
0
年 代 の 歴 史 学 雑 誌
□
﹃史学雑誌﹄の創刊 歴 史 学 の 組 織 者 モ ノ ー むすび
次
工
} レ
フ ラ ン ス 実 証 主 義 史 学 の 成 立 と ガ ブ リ
. モノー
渡 邊
三
和
九
‑ T
ノ イ6‑4 ‑597 (香法'87)
レの継承者が︑ モノーより著名なテーヌ︑
フランスの歴史学の確立には殆ど役割を
(4 )
フランス歴史学の制度化を成しとげたのである︒第 モノーが切り拓いた歴史研究の分野との関連である︒今日の中世史研究にせよミシュレ研究にせよ︑
モノーが開拓し整地したうえに蒔かれ刈りとられたものであるといってよいであろう︒
これらの研究分野の土台を築いたのである︒
(5 )
第三に︑今日の社会史パラダイムとの関連である︒
ランスの史学史上︑
ここでもモノーの重要性は︑再び増したと言いうる︒なぜならフ モノーはミシュレとアナール学派とを媒介する歴史家として位置づけられるからである︒ミシュ
モノーであった︒同時代人のカミーュ・ジュリアンがモノーを︑
料集やミシュレの書簡の刊行に努め︑
﹁ミシュレを最もよく知り︑
モノ
ーは
︑
かれの追
パイオニアであった︒
はす
べて
︑
モノーは中世の史
こ ︑
ニ i
その成果
演じていないのである︒モノーを中心とした歴史家集団こそが︑
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こ ︒ルナ
ン︑
フュステル・ド・クーランジュは︑ ても指摘したように︑
この時期︑独立科学としての歴史学を誕生させたのは︑
モノーを中心とした歴史家たちであっ
モノーを論ずる意義は奈辺にあるのであろうか︒それは以下の一二点に求められるであろう︒第一に︑
デミックな歴史学の確立との関連である︒デュルケームの遡源的方法に従うならば︑われわれは今日のフランス歴史
(3 )
学の直接の起源を︑学問としての歴史学がフランスの大学に成立した一九世紀後半に見いだすのである︒前稿におい で
は今
日︑
ルナ
ン︑
(l )
フュステル・ド・クーランジュである︒それは後者の三名の代表作が︑邦訳されていることにも示されている︒それ し
て︑
記憶されている程度ではなかろうか︒
確かに人口に謄灸しているのは︑モノーではなくて︑
ガブリエル・モノーは︑忘れられた歴史家となった感がある︒
は じ め に
せいぜい
ヽテーヌ
﹃史
学雑
誌R
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四〇
アカ
の創刊者と
6‑4 ‑598 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガブリエル・モノー(渡邊)
ヽ~゜し あるクリスチャン・フィステル
︵一八五七ー一九
四
一九世紀後半と二
0
世紀初めのフランス史学の発達の一覧表を
れるプレハーノフである︒かれはモノーを 憶に最も忠実な史家﹂と評したことにも︑ュレの友の一人として︑
(6 )
それは表われている︒リュシアン・フェーヴルも﹁歴史の権化﹂たるミシ
(7 )
モノーを挙げている︒
本稿は︑先述した第一と第二の点について論証することを目的としている
いる︶︒履述すれば︑本稿は学問としての歴史学︑独立科学としての歴史学の制度づくりに尽力したモノーの活動を描
写することを通じて︑第一に実証主義史学の成立を跡づけること︑第二にモノーの歴史思想や歴史学方法論を解明す
ることを目的としている︒なぜならモノーの歴史観は︑
マルキストからも一定程度︑評価されていたからである︒
﹃歴史における個人の役割﹄のなかで︑ランプレヒト論争に言及しつつ︑
(8 )
﹁現代フランスの歴史科学のもっともすぐれた代表者の一人﹂と評価していたのである︒従ってモノーの弟子の一人で
本論にはいる前に︑本稿で用いる﹁実証主義﹂
一 三 ︶
る︒﹁絶えずモノーの思い出に立ち返ることなくして︑
(9 )
提出することはできない︒﹂
アナール学派に接続する内容をもっていたし︑立場の異なる
そのマルキストとは︑﹁ロシア・マルクス主義の父﹂と称さ
が︑次のように記しても︑
それは決して誇張ではないのであ 本稿は前稿の続稿であり︑対象とする時期は︑歴史家モノーが誕生し︑歴史のための闘いを本格的に開始した一八
七
0
年以降である︒歴史家モノーの原型が形成される六
0
年代までのモノーについては︑前稿を参照していただきた の語義について一言しておきたい︒語義にまつわる無用の混乱を避
けたいからである︒モノーが歴史家としての自己形成をとげた第二帝制は︑フランス思想史のうえでは︑﹁実証主義の
︵第三の点については︑別稿を用意して とをつなぐハイフンの役割を果たしたのである︒
つまりモノーは︑
一九世紀のフランス史学と二
0
世紀のアナール史学
6‑4‑599 (香法'87)
ところが現実の一九世紀の歴史家の多くは︑漸次︑諸法則の発見を拒否し︑事実の収集と確認に没頭していった︒
派生的な意味はここから生じたのである︒実証主義の派生的な意味は︑ て挙げられるのは︑本来の意味においてである︒ 意味を指摘しているクローチェを除いて︑
ベル
ンハ
イム
︑
( 1 7 )
は皆︑本来の意味で実証主義を用いているのである︒バックル︑テーヌ︑ランプレヒトらが実証主義史家の代表とし の実証主義史学である︒歴史哲学者や史学史の専門家は︑
一九世紀後半のフランス実証主義史学に対す
マン
ハイ
ム︑
アン
トー
ニ︑
ウォルシュら このような意味で実証主義を用いている︒例えば︑ コントによって体系化されたのが実証主義である︒ところがこの実証主義は︑その理論的展
開の過程で外延を拡大し︑多義的な概念を包蔵するにいたったのである︒
D.G
.チャールトンは︑四つの用法を識( 1 1 )
︵1 2
)
別している︒歴史学との関連では︑少なくとも二つの︑しかも対蹄的な語義を指摘しうるであろう︒﹁実証主義﹂とい
史学
﹂
の歴史的転形の反映にほかならないのである︒カルボネルやブールデは︑頻繁にしかし誤って用いられるこの
ような﹁実証主義史学﹂に代えて︑﹁方法論的歴史学﹂ないし﹁方法論学派﹂という呼称を与えている︒おそらくモノ
( 1 4 )
ーが︑﹁歴史は科学である以上に方法である﹂と述べたことに起因するのであろう︒
語義論的には︑本来の意味と派生的な意味の二つを識別しうる︒本来の意味とは︑オーギュスト・コントの社会学
( 1 5 )
的哲学的実証主義であり︑人間社会に自然科学的方法を適用する科学主義である︒それは第一に事実を観察し確認し︑
( 1 6 )
第二にその事実から帰納的に一般化することで法則を組みたてる方法と要約される︒そして事実から導出された理論
によって︑事実に意味が付与され解釈されるのである︒このような方法で歴史にアプローチするのが︑本来の意味で
コリ
ング
ウッ
ド︑
う術語の語義論的な複雑さは︑ 飛躍的発展を前にして︑ 時
代﹂
として知られている︒
ここに起因するのである︒もっともこの複雑さは︑﹁実証主義﹂の多義性と﹁実証主義 フランス革命以後︑
四
二つの
( 1 0 )
フランスは第二の科学革命の口火を切った国であった︒自然科学の
6 ‑ 4 ‑600 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガプリエル・モノー(渡邊)
もヽ
るさまざまな形容句に明らかである︒﹁歴史のための歴史﹂
( H
・ベ
ール
︶
ス︶とか︑﹁科学的唯名論﹂
( N
・カ
ンタ
ー︑
( 1 8 )
代表的なものであるが︑
R
.シ
ュナ
イダ
ー︶
このような名辞からも窺知しうるように︑事実志向的で理論や仮説を拒否する反理論的経験
主義が︑派生的意味である︒事実の穿竪に自足する状態を指し示すこの用法は︑リュシアン・フェーヴルの辛辣な批
評によって増幅され広められたのである︒もっとも歴史的に眺めてみると︑正反対の意味をもつ
九世紀から二
0
世紀の初めにかけて本来の意味で用いられることが多く︑社会史学派の誕生とともに派生的意味で批判的に用いられることが多くなったと言いうる︒
カルボネルは︑﹁実証主義
p o s i t i v i s m
e ﹂に対応する形容詞として
p o s i t i v i s t
e と
p o s i t i f
とを区別し︑前者を本来の意
味での実証主義︑後者を派生的意味での実証主義と定義し︑
この術語の曖昧さを防ぐために︑史学史のうえでは
( 1 9 )
p o s i t i v i s m e ‑ p o s i t i v i s t e
(W<~
呼王芸〖中入学子)のみを使用し、positivismeーpositif
(宰
会祉
中念
子︶
を用
いな
いよ
う埠
竺︱
‑Eし
てい
る︒
一九世紀後半のフランスの歴史学が本来の意味での実証主義史学とは正反対に位置してい
たと述べるのである︒語義の混乱を避ける点で︑
史学に派生的意味しか認めない点には︑疑義がある︒フランスの実証主義史家の第二世代には︑確かに
p o s i t i
f に含意
されるような素朴実証主義ないし史料実証主義の弊害が見られたのも事実である︒ところが第一世代と第二世代の実
証主義史家は︑程度の差こそあれ︑
うに思われる︒
カルボネルの定義に筆者も異論はない︒しかしフランスの実証主義
やはり実証主義の本来の意味をも︑
モノーが師と呼ぶルナンとテーヌ︑それにリトレが
に留意すべきであろう︒なるほどルナンやテーヌの実証主義が︑
四
とか︑﹁解釈学的歴史主義﹂
( G
.イッガー とか︑﹁過剰経験主義﹂
( F
. K
・リンガー︶がその
その歴史学方法論のなかに取りいれていたよ
かれらのフィルターによって歪曲されていたとして
( 2 0 )
コント自身よりもコントの﹃実証哲学講義﹄に忠実であったリトレの存在は︑﹃史学雑誌﹄が社会学的実証主義の そのうえでカルボネルは︑
﹃史
学雑
誌﹄
の協力者として名を連ねていたこと
﹁実
証主
義﹂
は︑
6‑4 ‑601 (香法'87)
精神に鼓舞されていることを内外に顕示するものであった︒
批判を読むとき︑
の歴史観であり︑
( 1 )
カルボネルの言葉でいえば︑ 半のフランス歴史学に︑
︐ ー
ょ ︑
'
と
また第二世代のセーニョボスやアンリ・オーゼルの歴史
( 2 1 )
かれらの眼が決して隣接領域に閉ざされていなかったことを知るのである︒
反理論的経験主義のレッテルを貼ってすますことはできないのである︒実態は︑
雑であったようである︒前稿でも定義したように︑筆者のいう
﹁実
証主
義史
学﹂
この意味で一九世紀後
もう少し複 モノーを中心とした第一世代
( 2 2 )
それは
p o s i t i v i s t
e と
p o s i t i
f の中間ないし混交したものといいうる︒
筆者はモノーの著作がかつて翻訳されたことがあるのかどうか︑寡聞にして知らない︒博雅の
t
に御教示願えれば幸いである︒テーヌ︑ルナン︑フュステルの翻訳は以下のとおりである︒テーヌ﹃英国文学史﹄全一︳一巻︑平岡昇訳︵創元社︑一九四九年︶︒テー
ヌ
﹃ 近 代 フ ラ ン ス の 起 原 旧 制 度
﹄ 岡 田 真 吉 訳
︵ 斎 藤 書 店
︑ 一 九 四 七 年
︶
︒ ル ナ ン
﹃ イ エ ス 伝
﹄ 津 田 穣 訳
︵ 岩 波 文 庫
︑ 一 九 四六年︶︒ルナン﹃幼年時代青年時代の思ひ出﹄杉捷夫訳︵創元社︑/几四0年︶︒フュステル・ド・クーランジュ﹃フランス封建
制度起原論﹄明比達朗訳︵御茶の水書房︑一九五六年︶︒クーランジュ﹃占代都市﹄田辺貞之助訳︵白水社︑一九六一年︶︒
( 2 ) デュルケームは︑﹁fつの慣行とか制度︑あるいは 1つの法律の規則とか道徳上の規則を本当によく理解するためには︑できるか
ぎりその最初の起源にまで遡ってみることが必要である﹂︵﹃デュルケーム家族論集﹄小関藤一郎訳編︑川島書店︑一九七二年︑一‑.
二貝︶とか︑﹁社会制度がもつ︑その将来発展すべき方向︑生成の過程においてあらわす力は︑その根源である最初の萌芽の性質
に緊密に依存している︒⁝⁝教育制度の発展の仕方および生成の帰結を理解するには︑もっとも遠い起源まで遡ることをいとって
はならない﹂︵デュルケーム﹃フランス教育思想史﹄小関藤一郎訳︑行路社︑1九八一年︑四九\五0頁︶と主張している︒
( 3 ) 前稿とは︑渡邊和行﹁歴史家の誕生修行時代のガブリエル・モノー一八四四\/ハ七
0 1
﹂﹃香川法学﹄第六巻第三号︵一
九八六年︶のことである︒
( 4 )
ここで﹁制度化﹂というタームの定義をしておきたい︒﹁制度化﹂とは︑第一に﹁人々が当該活動の社会的機能の重要性を評価し︑
これを受けいれている﹂こと︵主観的側面︶︑第一;に﹁当該活動が職業的役割として社会制度のなかに組みこまれていて︑その従
事者はそのなかで報酬を得て生活ができる﹂こと︵客観的側面︶を意味している︒この定義は︑富永健q﹃人類の知的遺産
7 9
現
四四
6 ‑ 4 ‑602 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガブリエル・モノー (渡邊)
( 1 3 ) ( 1 4 )
( 1 2 )
( 7 ) ( 9
) ( 1 1 )
( 6 )
( 5 ) 頁 ︒
四 五
一九七七
年︶
ご)
一三
四
代の社会科学者﹄︵講談社︑一九八四年︶六1\六︱‑頁からの引用であるが︑J
.ベ
ン
1 1デービッド﹃科学の社会学﹄潮木・天野訳
︵至
誠堂
︑
1九七四年︶九九頁の定義より︑簡潔明瞭であると筆者には思われる︒
ホブズボームの指摘にもあるように︑社会史が何であるかについては議論もあることであろうが︑筆者は以
F
のような特徴をもったものと理解している︒第一に︑事実に対する貪欲な探求である︒学際的方法によって記述資料以外の資料を発掘し︑有意味な事
実を引きだす積極的な態度である︒いわば事実観のコペルニクス的転回である︒第:に︑総合的視点によってこれらの事実を位置
づけ︑歴史の全体像を構第廿んとする力払的態度てある︒このためには仮説在必要とする︒このような社会史研究かめさしている
ものは︑﹁社会的結合関係﹂.﹁国民統合と対抗社会﹂.﹁マイノリティーヘの眼ざししという象徴的用語によって︑その特色を知る
ことができるであろう︒二宮宏之﹃全体を見る眼と歴史家たち﹄︵木鐸社︑.九八六年︶︑
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カミーュ・ジュリアン﹃近世佛闇西史学概観﹄讃井鉄男訳︵白水社︑一九四.年︶一四九頁︒
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( P a r
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19 53 ), p .
42 3. 長
谷畠
川輝
工大
訳﹃
歴中
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ため
の闘
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( 8 )
プレハーノフ
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﹂
以下の語義については︑
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6 5
‑1
8 8 5
(
T o
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,
19 76 ), pp .
401ー
40 8.
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u e s
( P a r
i s ,
19 83 ), p .
13 7.
︵岩
波文
庫︑
﹃ 歴 史 に お け る 個 人 の 役 割
﹄ 木 原 正 雄 訳 一 九 五 八 年
︶ 三 七 頁
︒
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(1 91 2) ,
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下︑
R.
H.
と略
記す
る︒
( 1 0 ) 佐々木力﹃科学革命の歴史構造上﹄︵岩波書店︑一九八五年︶第三章︒ベン
1 1 デービット︑前掲書︑第六章︒
チャールトンは︑①社会学的実証主義︑②宗教的実証主義︑③コントの全思想体系︑④哲学的実証主義を区別している︒
D .
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1852‑1870
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1
95 9) , p .
5.
J . s
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ルは
︑﹁
実証
的﹂
という言葉を﹁客観的側面からすれば現象的︑主観的側面からすれば経験的﹂と言いかえることで︑語意の﹁曖昧さを減らすこと
と指摘している︒
J . s
.ミル﹃コントと実証主義﹄村井久二訳︵木鐸社︑一九七八年︶一六頁︒
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(1 97 6) , 3 35 ., G
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XX XI ( 18 96 )
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546 .
︵創
文社
︑
6‑4 ‑603 (香法'87)
( 1 8 )
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Ke yl or , A ca de my n a d C om mu ni ty : T he Fo un da ti on of h e t Fr en ch Hi s t o r i c a l P r o f e s s i o n ( Ca mb ri dg e, 1 97 5) ,
p p .
( 1 9 ) ( 2 0 ) ( 2 1 )
( 1 7 )
( 1 6 )
( 1 5 ) この時代の︵自然︶科学信仰を示す好個の事例として︑哲学者ブレンターノの言葉は引用に値する︒かれは一八六六年に︑﹁哲学
の真の方法は自然科学の方法にほかならない﹂と断言したのである︒﹃世界の名著
5 1
プレンターノ︑フッサール﹄︵中央公論社︑
一九
七0年︶細谷恒夫解説︑ロ一頁︒
アンリ・セーも批判するように︑実際のコントは︑歴史を重視したとはいえ︑歴史は普遍から特殊へ進むべきであると考えていた︒
歴史は事実の収集から始まるというのが︑セーの立場であった︒
He nr i S e e , S c i e n c e e t p h i l o s o p h i e de l' h i s t o
苔i
z e e d . ( P a r i s ,
19 33 ), p p .
7
9
ー
80 .
クローチェ﹃歴史の理論と歴史﹄羽仁五郎訳︵岩波文庫︑一九五三年︶三四六\三七0頁︒ベルンハイム﹃歴史とは何ぞや﹄坂ロ・
小野訳︵岩波文庫︑一九六六年︶四五\四九頁︒コリングウッド﹃歴史の観念﹄小松・三浦訳︵紀伊國屋書店︑一九七0年︶一三
四\一四二貝︒マンハイム﹃歴史主義﹄徳永拘訳︵未来社︑一九七
0
年︶九0
頁 ︒
C・アントーニ﹃歴史主義﹄新井慎一訳︵創文
一九七三年︶一四〇\一四二︑一八0
頁 ︒
w . H
・ウォルシュ﹃歴史哲学﹄神山四郎訳︵創文社︑一九七八年︶一九五\一九
社 ︑
八頁
︒
8‑ 10 .
C a r b o n e l l , i H s t o i r e e t h i s t o r i e n s , p .
40 7.
C h a r l t o n , o p . cit•
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s . I V , V I
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I I . な
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J
. s
. ミ ル も リ ト レ を
︑
﹁ 弟 子 た る こ と を 自 任 し て い る 人 々 の う ち で
︑
点からみても最も卓越した人物﹂とか︑﹁コント氏の誤謬から脱却している唯一の人物﹂と評価している
九︑
八七
頁︶
︒
コントの
(J .S
・ミ
ル︑
前掲
書︑
Ch ar le s S ei gn ob os , "
Le s c o n d i t i o n s p sy ch ol og iq ue s d e l a c on na is sa nc e e
n h i s t o i r e ,
"
Re vu e p h i l o s o p h i q u e e d la Fr an ce e t de
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(1 88 7) ,
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32 ,
168ー
17 9. ,D o . , L a m et ho de hi s t o n
・ q u e d p p l i q u
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1901) . , ,
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Fa wt ie r e d . , "
La de mi er e l e t t r e d e C ha rl es S e ig no bo s
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(1 95 3)
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12 .,
Ma rt in Si e g e l , "
He nr i B e r r ' s R ev ue de sy nt he se hi s t o r i q u e , "
H i s t o r y a nd Th e o r )
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︑X
I
(1 97 0) ,
329‑330.
( 2 2 )
渡邊和行︑前掲論文︑一九頁︒なお前掲の富永健一﹃現代の社会科学者﹄は︑実証主義史学について触れるところはないが︑﹁実
証主義﹂対﹁理念王義﹂という枠組によって実証主義潮流の整理を試みており︑有益な文献といいうる︒そのなかで氏は︑一九世
紀のサン
1 1シモンやコント︑
J . s
.ミルらの古典的実証主義から二十世紀の論理実証主義を経た新実証主義への展開を鳥諏され
四 六
どの
6 ‑4 ‑604 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガブリエル・モノー(渡邊)
のような状況が︑
モノーが歴史研究の道にはいったときの状況であった︒
四 七
つまり両校ともに︑歴史家を系統的に養成す 欠であった状況を浮きぼりにしよう︒ モノーの弟子の一人であるクリスチャン・フィステルは︑﹃史学雑誌﹄の五
0
年記念論集において︑のフランスの歴史研究の状況について述べている︒この一文に依拠して︑この時期のフランスに歴史学の革新が不可 両校の教育は︑
この時期のフランスでは︑歴史学は二つの教育機関で教えられていた︒高等師範学校と古文書学院である︒しかし
ともに不十分なものであった︒古文書学院の教育は非常に専門的で︑しかも中世に限定されていた︒
この時期の古文書学院では︑あらゆる一般化は禁じられたままであり︑
とは必定である︒古文書学院はなによりも︑古文書学者と古文書保管人の養成を目的としていたのである︒これに対 して︑高等師範の歴史教育は一般的であり︑最終学年の三年になって一級教員資格試験のために︑歴史と地理を大急 ぎで学ぶというありさまであった︒この試験のための授業計画もなかったし︑高等師範の初めの二年間は︑学士号の
準備にあてられていたのであるが︑
していたが︑歴史研究者はそこには含まれていなかったといってよい︒
る制度や機関は不在であり︑
そこでは歴史学は締めだされていたのである︒高等師範は︑教授の養成を目的と
まったくの偶然による以外に︑
てい
る︒
普仏戦争の衝撃と歴史学
いきおい研究も瑣事に埋没したものとなるこ
フランスでは歴史家は生みだされなかったのである︒こ
一 八
七 0
年前後6‑4 ‑605 (香法'87)
といってよい︒ 門雑誌との関係については前稿で触れたが︑ ともあれ普仏戦争におけるドイツの勝利によって︑
一八七二年から一八八
0
年の
間に
︑
一八七一年の七四四五点から一八七五年の フランス諸学の活性化は︑以下の諸
この状況を大きく展開させたのが︑普仏戦争である︒旧稿においても指摘したように︑実証主義史学の成立に︑普 仏戦争の敗北は大きなインパクトを与えた︒敗戦の結果は︑フランス諸学の︑とりわけ歴史研究の大いなる発達であ
( 3 ) ( 4 )
った︒ランケ史学の成立にドイツ・ナショナリズムが大きく寄与したように︑実証主義史学の確立にもフランス・ナ ショナリズムが貢献したのである︒ただし︑一九世紀前半のナショナリズムが︑非合理的で想像力に富むロマン主義
一八
七
0
年代のナショナリズムは︑合理的な科学主義に支えられていた点にその特色
のちの仏独両国の歴史学の展開を規定する因子として重
要である︒なぜならドイツの歴史学が︑歴史主義という思想によって歴史個体にアプローチし︑個別的事実を発見し
たからである︒堅実な考証という技術をフランスがドイツから学んだとしても︑ フランスの歴史学は︑実証科学の精神によって導かれ事実の確定をめざし
フランス歴史学が独自の道を歩んだ
のもここに起因するのである︒すなわち事実の認識を基礎づける哲学が異なっているのである︒
フランス諸学の活性化を望む声は︑
イツから科学的刺激をうけたフランスは︑学問の遅れを取りもどすべく努めた︒
事実に示されている︒第一に︑知的生産の指標ともいいうる出版件数が︑
(5 )
一四一九五点へと倍増したことである︵約四
000
の定期刊行物を除く︶︒第二に︑
多くの学術雑誌が創刊されていることである︒﹃ロマニア﹄・﹃史学雑誌﹄・﹃文献学雑誌
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地理
学評論
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哲学
雑誌
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e ﹄などが代表的なものである︒学問研究の発達と専
これらの雑誌は殆どがドイツから知的刺激をうけ︑範をドイツに仰いだ 理解するという道をたどったのに対して︑ が見られる︒論点をさきどりして述べるなら︑ に色どられていたのに対して︑
この
差異
は︑
一層強まったのである︒ド
四八
6 ‑4 ‑606 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガブリエル、・モノー(渡邊)
戦はフランスを二つの方向にいざない︑この二方向は期せずして歴史学の革新に向かって収束していったからである︒
をすることであり︑
フランスの過去の栄光に光があてられた︒二方向ともに︑歴史的アプローチを必要としたのであ
第一の敗因の究明は︑以下のプロセスをたどって歴史学の科学化をもたらすことになる︒
ではなくて内に求められた︒﹁われわれは敗北の原因をわれわれの内部にもっていた﹂という文部大臣ジュール・シモ
ンの言葉は︑左右を問わず︑当時の知識人の共通認識となっていた︒排外主義に眼を曇らされていない知識人にとっ
(8 )
て︑フランスの敗北はフランスの知性の敗北︑とりわけ教育制度の敗北であると理解されたのである︒普仏戦争に勝
(9 )
利したのはドイツの大学であるというルナンの言葉が︑それを象徴的に物語っている︒エミール・ゾラもドイツの﹁科
( 1 0 )
学的精神こそが︑われわれを打ち破ったのである﹂と述べている︒敗戦というクルティウスの亀裂が︑
の危機的状況を満天下に晒けだしたのである︒
つまり学問の危機とは︑学問が生に対する有意義性を喪失したことに ほかならないのである︒それだけ危機は︑深かったのである︒敗因が高等教育の立ち遅れにある以上︑そこから導出
フランスの教育制度を改革することであった︒敗戦国が軍 ラヴィスやセーニョボスが七
0
年代に
︑
される結論は明白であろう︒ドイツに進んだ知識を求め︑
事的勝利に決定的役割を演じたと考えられる戦勝国の進んだ諸制度をとりいれることは︑
それにしてもかつての文化大国フランスが︑宿敵ドイツに学ぼうという態度を示したことは先例のない事態であった︒
ドイツ史の研究やドイツの教育制度の視察に赴いたのも︑ドイツに学びドイ
ツの強大さの理由を探るという国策的動機があったのである︒ る ︒ 第一の方向は敗因を究明することであり︑ このように敗戦は︑
四九
いわば歴史的公理である︒ フランス諸学の復興の契機となったのである︒そのなかでも歴史学は︑
とくに重視された︒敗 フランスの過去の総点検がなされた︒第二の方向は敗北という傷口の手当
フランスの敗因は︑外に
フランス諸学
かくして敗因の究明は︑学制改革と結合することとな
6 ‑ 4 ‑607 (香法'87)
った︒教育制度の改革の一環として︑歴史学の革新も位置づけられることになる︒それは歴史学を︑哲学や文学から
独立した学科目とする努力として表わされた︒このためにはデカルトによって否認された歴史学を︑科学として措定
する必要があったのである︒
力すべき目標となったのである︒歴史学内部から︑科学性の追求という認識論的要求が自生してくる︒歴史学の科学
性を担保するものとして︑方法論の科学性が重視されるにいたる︒ドイツの歴史学方法論は︑歴史学が科学たるゆえ
んを証明する武器と考えられたのである︒
第二の方向も︑歴史学の発達に貢献した︒敗戦は﹁フランス社会にひどい混乱﹂をもたらし︑
( 1 1 )
生はどこから来るのかを自問して︑息苦しいほどの不安に陥った﹂と告白している︒敗戦の結果は﹃フランスの内乱﹄
︵マ
ルク
ス︶
であ
り︑
ナ ン
︶
かくして歴史学を独立科学として制度化するための認識論的切断こそ︑若き歴史家の尽
アルザスとロレーヌ両県の喪失であった︒フランス領のドイツヘの割譲は︑﹁国民とは何か﹂︵ル
( 1 2 )
ということを再考させる機会となったのである︒﹁国民﹂の再定義には︑当然︑歴史が動員されるはずである︒
このようにフランスの精神的な﹁救済と再生﹂
う精神的外傷を癒す特効薬として重宝がられたのである︒すなわち︑敗戦という現在の恥辱を過去の共和主義的栄光
によって慰撫し︑国民に衿侍を取りもどさせることが︑歴史学に要請されたのである︒歴史学は︑意気阻喪した国民
( 1 3 )
に一体感と和合をもたらし︑愛国的な国民感情の涵養に役立てられんとしたのである︒
含めた科学の制度化にナショナリズムが大きく関与していたことは︑
この研究によってこそ︑
ラヴ
ィス
も︑
の道の一っが︑歴史学に求められたのであった︒歴史学は︑敗戦とい
一九世紀において︑歴史学も
( 1 4 )
つとに指摘されているところである︒
われわれはわが国が必要とする精神的統一と精神的な力とを︑
率直
に宣
︱︱
‑E
している︒﹁われわれの主要任務であるフランスの過去の研究は︑今日︑国民的重要性をもつにいたった︒
( 1 5 )
わが国に与えうるのである︒﹂
フランスの文化的衿侍への恒久的損傷を何よりも危惧していた︒それは次のような不満となって吐露さ モノーは﹁救済と再
五〇
モノーも
6 ‑4‑608 (香法'87)
フランス実証主義史学の成立とガプリエル・モノー(渡邊)
は め
︑
義と結合した科学の概念を提唱していたのは︑ れるのである︒
フランスの過去の知的栄光を取りもどす手段について︑ かつては偉大な科学的発見をなしたフランスが︑今やドイツの後塵を拝する国に転落しているという
( 1 6 )
まった<論じられていないと︒
めの処方箋は愛国的かつ共和主義的な国民精神の作興であり︑
したのである︒
五
つまり傷口の手当のた
ドイツの﹁大学教育が国民精神を発展させ﹂︑歴史家がドイツ国民の精神的統一に貢献していたからで
このように歴史学の地位向上を願う歴史家の考えと︑共和主義的な国民作興を計らんとする政治家の考えとが一致
( 1 8 )
共和政と歴史学との同盟が成立する︒民主主義と科学との同盟と言いかえてもよいであろう︒民主主
( 1 9 )
の協力者でもあったエミール・リトレである︒かくして歴
と い う の は ︑
( 1 7 )
あ る
︒
の に
︑
﹃ 史 学 雑 誌 ﹄
史学の革新に︑すなわち実証主義史学の制度化に有利な環境が築かれつつあったのである︒とはいえ歴史学の革新が︑
スムーズに進捗したのではないことに注意すべきである︒例えば高等師範でも︑何らかの改革の必要性についてのコ
. .
.
ドイツの影響にくつわを
ンセンサスはあったが、普仏戦争後、校長に任命されたピエール•E.ベルソーのように、( 2 0 )
一般教養的教育を擁護する人物がいたからである︒
( 1 )
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なおフィステルは︑一九一九年から二 六年までストラスプール大学の文学部長を務め︑二七年から三一年まで学長でもあった︒このストラスプール大学は過去の経緯か らして︑フランス・アカデミズムの﹁ショーウィンドー﹂として位置づけられた重要な大学であった︒モノーの弟子のフィステル が︑アナール学派の第一世代たるリュシアン・フェーヴルとマルク・プロックの同僚であった事実は︑フェーヴルと実証主義史家 との関係に新たな光を投ずるものとして興味深い︒かれらの人事に誰の推薦があったのか不明であるが︑少くとも同じ歴史家であ
この点でもドイツの大学がモデルとなったのである︒
6‑4‑609 (香法'87)