はじめに
ナノテクノロジという単語は,日本人の造語である.1974 年に,東京理科大学 の谷口紀男教授(当時)が,21 世紀に入れば機械工作の精度は 1 ナノメートルに 到達すると予測し,それをナノテクノロジと呼んだ.当時は夢物語だったのだが, 2000年になり,その予測は見事に的中した.そして,米国クリントン大統領(当 時)が,国家ナノテクノロジ戦略 (National Nanotechnology Initiative, NNI) を 発表し,広く使われるようになった.そこでは,主として電子計算機用集積回路 の超高密度化をめざし,具体的には,たとえば図書館の書籍全部が 1 チップに収 められることを目標に掲げている.4∼5 年で 10 倍(ムーアの法則)という高速 性と高密度性を維持してきた計算機製造分野での新たなチャレンジと考えられて いるのである. 我々が目にするすべての物質:鉄鋼,シリコン,高分子,・・・,これらはどれも電 子と原子核からできており,クーロン相互作用をしている系なのである.その記 述方程式は量子力学のシュレディンガー方程式(ないしは相対論的な場合はディ ラック方程式)である.つまり,すべてが分かった系を扱うという意味で,相互 作用が分からない素粒子物理学とは根本的に異なる.あとは,その方程式を解け ばよいだけなのである.これは,ディラックが彼の方程式を発表したときにすで に述べているとおりである.しかし古来,三体問題が困難な命題の代名詞である ことからも明らかなように,多体問題を解くことは難しい.そのため,モデル計 算が多用され,ディラックの言ったようにはならないと思われていた. ところが,コーン教授が 1964 年に密度汎関数法を開発した.これは,複雑な クーロン多体系の量子力学方程式が,縮退のない基底状態に限れば,1 電子に対 する方程式のような形に書き直せるという画期的な理論である.さらに次の年に は,電子の交換相関相互作用に電子ガス理論を適用する局所密度近似を発表し, 具体的な数値計算が可能となった.電子計算機の進展に従い,コーン教授の理論 は,モデル計算を用いない物理の理論に基づいたという意味で,第一原理バンド 計算法と呼ばれ,物性理論の標準計算法となった. 一方,化学の理論研究者は,地道に小さい分子を対象として交換相互作用だけ を考慮したハートリー–フォック法を基本に,それに CI 法などによって電子相関 はじめに vii
を取り込むべく努力を重ねてきた.さらに,クーロン多体系の量子力学方程式そ のものを数値積分することによって解いてしまう量子モンテカルロ法も,近年の コンピュータの飛躍的な高速化によって可能となりつつある. しかし,これらはすべて何らかの意味で近似を使っている.第一原理計算は実 験値をパラメータとしては使わないが,近似をしているという意味で,その成立 限界を知る必要がある.また,多くのよく整備された計算プログラムが市販ない しは無料で提供されるようになり,理論家のみならず実験家も第一原理計算を行 うような時代になってきた.そうなると,単に計算するだけの道具としての利用 も多くなり,マニュアルだけを読んで計算を実行することさえ行われている.いっ そう,適用限界に関する理解が求められるようになったと言えるであろう. このような歴史と現状を考え,第一原理計算の基礎から応用までを一冊のハン ドブックとしてまとめて出版し,研究者や学生が座右において手軽に計算や近似 の内容を確認できる環境を提供することに重要な意義を感じて,本書が企画され た.ナノテクノロジを対象とした第一原理計算に関する事項は網羅しているといっ ても,まだまだ不足している項目も多くあると思うが,通常の研究や学習におい て必要とする「知りたいこと」は,すべて書かれてあると自負している次第であ る.ぜひ,ご活用いただきたい. 本書の最初の企画がなされたのは,すでに 8 年以上前のことになる.この間, 理論やシミュレーションの分野で多くの新しい進展があり,それを本書に取り入 れるためにさまざまな努力がなされた.特に,産業技術総合研究所の方々にはご 協力をいただいた.ほかにも次頁以降にあげる多くの方々の努力と,共立出版の 小山透編集部長の辛抱強い叱咤激励があり,今回の出版にこぎつけることができ た.ここに感謝申し上げたい. 2006年 6 月 川添 良幸 池庄司 民夫 viii はじめに