神戸市外国語大学 学術情報リポジトリ
中國小?史略考證第八
著者
中嶋 長文
雑誌名
神戸外大論叢
巻
40
号
4
ページ
23-48
発行年
1989-09-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1085/00002080/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja中國小説史略考講
第八
中
島
長
文
第八篇 唐之傳奇文︵上︶ −小説亦如詩、以至而影響途及子曲 七〇+一叢﹃大略﹄八云、唐傳藤記︵上︶小設亦袈至唐亜肇難藩不出霧義自叙述宛婆倒
群体鎌、嚢達之 甚明。當盆道繹二教、古諺感通、有名位者又好談騨異、干是方士文人、黒風而作、競爲異記。牛偲 濡有蓋怪録、則曝者言有綾玄怪録、餅盤二食河東記 ︵序云績牛檜記号書︶、段成式有酉陽雑姐而其友温田懸崖乾腰子、 高餅從事斐例有傳奇、皆其例也。 然文人蕪雑集成書而外、鯉山記傳、始末詳悉、往々孤行、単三有存子太李即言中者︵他叢書所書、多臆霊的人顛倒 時代不足糠︶、實唐代特有之作也。 心妻、已有王度古鏡記︵廣記二百三十︶、無名氏富江総白猿傳︵廣記四百四十四欧陽絃︶。其後能文書士、相率有作、 如︵沈既濟︶元積白行管陳鴻沈亜之蒋防等、皆檀長文筆、有名登時、故其傳奇、土器工妙、後之友︹街?︶文人、話題 其事爲詞曲焉。按唐人高野﹁奇﹂字の誤記、後に﹁傳明記傳﹂の語あり。記傳之軽質、即智外干二途、一爲異聞、一爲逸事。異聞者、或寓意 以□窟?牢落之悲、或但弄翰墨以拝窃究之思。逸事者、大概記時人情事、或更外桜餅、已離紳怪、而較近干人事 。 今略學其較著者子下。鉛印本は﹃史略﹄に全く同じい。 唐代謝奇の記述では寓印本﹃大略﹄と鉛印本﹃大略﹄︵﹃史略﹄とは喜雨︶とでかなり異る。まず分量では鉛印本で三 章になり一章分増えた。内容では為印本の時鮎では﹁幻論﹂、﹁意識之創造﹂つまり盧構という観黙が明確に打ち出さ れてはいない。この黙が最も大きなちがいである。さらに篤印本では写譜を異聞と逸事の二類に分ち、それぞれを二 種に分って、各類で章立てをしているが、鉛印本はむしろ寓印本での最初の部分の記述によって遠行︵第八、九︶と 輯成︵第十︶という形式に分って、異聞、逸事という概念を放棄している。 ﹃史官﹄はむろん鉛印本の構成をそのま まうけついでいる。篤印本の構成を圖示すれば次のようになる。 寓印本﹃大略﹄唐代傳奇第八、九篇の構成 唐傳奇艘傳記︵上︶ 絡論 一、属於異聞之前一類者 沈既濟﹃枕中記﹄﹁任氏傳﹄ 李公害﹃南何太守傳﹄ 二、屡於異聞之後一類者 李朝威﹃試植傳﹄ 沈亜之﹃秦夢記﹄﹃湘中神彫﹄﹃異要録﹄ 張文成﹃游仙窟﹄ 牛曾濡﹃周秦行紀﹄ ︶ 24 ︵
唐傳奇騰傳記︵下︶ 一、属於逸事之前一類者 蒋防﹃雷小玉傳﹄ 元嶺﹃鶯鶯傳﹄ 白行簡﹃白煙傳﹄ 許三佐﹃柳単坐﹄ 失名氏﹃軋鷺﹄ 二、薦於逸事之後一類者 陳鴻﹃東城老父傳﹄ ﹁小躍的報身﹂第三講云、小説到了臨時、却起了一個大憲遷。我前年説過、六朝時之志平帯志人底文章、都根鞘堂、 而且當作記事實。及到唐時、亘理有意識的作小論、這在小説史上可算是一大進歩。而且文章根長、井能猫寓得曲折、 莉前之簡古的文鷺、大不相同了、這平文尊上也算是一大進歩。但那時作古文尊人、見了根粗漏意、叫尊閣﹁傳年別﹂。 ﹁傳寄﹂二字、富豪實是砦疑的意思、幡羅現代入意中的所謂﹁傳奇﹂。可是尊覧傳奇骨設、現在多没有了、只有宋初茸 ﹃太李廣記﹄一軍書可算是小説的大類書、是捜集六朝以至宋初卑小説而成的−我偲干耳掛還可以看見唐県立奇小 論底大概。中略。﹂唐至開元天費以後、作者蔚起、和以前大不同了。從前看不起小鈴的、此等也來倣小説了、這平和當 甘辛環境有關係的、因爲唐時考試的時候、甚重所謂﹁行巻﹂、就是認書初到京、先把自己得意的詩抄成巻子、A踊躍耳 謁三時旨意入、若面構蟹、則﹁聲償十倍﹂、後來便有及第的希望、所以行巻拙掌時看得根重要。到開元天爵以後、漸 漸甲子詩、有甲羅氣了、干是就有人把小燈也放在行百里去、而且覚也可用難名。所以從前出一意小論的、到此時也多 倣起小設來、因之傳奇小説、就盛極一時了。後略。 ﹃唐宋傳奇香﹄鷺沼全集巻上+云、東嶺胡鷹麟在明代、博渉四部、嘗云、 ﹁凡輯録之談、盛干六朝、然多産傳録当屋、
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未必蓋興宮語。至唐人、乃作意好奇、假小説憩室筆端。如﹃毛穎﹄﹁南開﹄書類尚可、若﹃東陽夜語﹄構成至聖、 ﹃玄怪録﹄元無有、皆但可付之一笑、其文詔書卑下亡足論。士人所記、乃多有近實者、直門彩無足観。﹂其言蓋幾 是也。竪干詩賦、肇求堅忍、藻思横流、小論早霜。而後添乗正、覗同平沙、鷺足﹃太欝欝記﹄等之所包容、得存什 一。顧復縁酌人高利、撮拾彫錨、如﹃温海﹂、如﹃古今逸史﹂、如﹃五朝小説﹂、如﹃龍威秘書﹂、如﹃唐人読蒼﹂、 如﹃藝苑招華﹂、爲欲総目劃然、見者眩惑、往往難壁篇目、改題撰人、否唐薯傳、鯨剣幾蓋。半白子蓮華、固猫香 象、賢母譜面、謳遜野業、諸島錐経読、夙著書卑不足圓九流当量者乎、品評頭鷺足、働亦毒心之厄也。昔嘗病之、 嚢意匡正。先輯自漢至階小読、爲﹃三盛﹄五部詑。漸復録唐宋傳奇工作、將欲彙爲一編、較之通行本子、書足葱 信。而屡更顛滞、不邊理董、委諸行籏、分飽蝉癒重工。今夏失業、幽居南中、偶見鄭振補導所編﹃中隔短篇小設 集﹂、端午煙埃、手脚返本、積年埋欝、一旦窪然。惜﹃夜直録﹄尚題王沫、﹃塞鷹野﹄未欄干遂、瞳子故菖、猫存 春懸。縫復讃大興徐松﹃登科記考﹂、積微成昭、鉤稽淵密、而干李徴及第、乃引墨景亮﹃人虎傳﹄作謹。此明人妄署、 勝景請文。彌歎錐断書偲説、一議寡齪、固里下子縄文、亦飛災干考史也。頓悟奮稿、書筐諦観、瀦澹有加、貫徹則 未。乃高僧時代次第、循覧一周。諒哉、王度﹃古鏡﹂、猫有六朝志怪手風、而大牢華鑑。千里﹃蔭位﹂、柳理﹃上 清﹂、途極目弱、與詩運同。宋好渤懲、撫實而泥、飛動之致、砂不可期、傳寄命脈、至活餌縄。惟自大歴以至大中 中、作者雲蒸、外術文苑、沈既濟許尭佐博才干前、蒋防元山振土塁後、而苦難佐野行簡陳撃沈亜黒革、則其卓異 也。特﹃夜怪﹄一丁、顯託空無、逮今允成陳言、別面實猫新意、胡君顧疑之至此、矯未能同耳。二審所録、錐秘文、而 襲曾用心、傍自珍惜。復念近敷年中、能懇懇顧及唐宋音奇者、當不多有。七半漏滴、注彼活量、獄我同流、比之芹 子、或亦雲影減等考索之勢、而群島繹之樂耶。干是杜門擁書、重加勘定、匝月始就、凡八巻、可校印。結願知幸、 6︶
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方欣已徹。顧奮郷而不行、内曇光子有蓋、詔旨、此亦豊所以善吾生、然而不得空也。猫有黒髪、並綴左方。 一、本集書取資者、官爵刊本﹃文苑英華﹂、清黄光刊本﹃翠霞廣記﹂、校以明許自昌刻本、胎芽櫻影印宋本﹃資 治通鑑考選﹂、董康富士里居本﹃青環高議﹂、校空明張夢錫刊本恩讐二本、明墨引本﹃百川學海﹂、明紗本原本﹃読 郭﹂、明顧元慶刊本﹃文房小説﹂、清胡艇排印太・﹃至難秘室叢書﹄等。 一、本集所取、專在軍篇。若一書中之一篇、則難事龍燈赫、或本書巳亡、亦農牧采。必衰郊﹃平身謡﹄之紅 線、整復言﹃績玄怪録﹄之杜鳥総、戸内﹃傳奇﹄之毘船軍麺隠官等是也。皇言挙﹃落丁傳﹂、翠煙是﹃三水小腰﹄ 逸文、然﹃太李廣記﹄引則不云出干何書、似曾軍行、故墨入録。 一、本機運取、唐文從寛、宋予輩頗半信揮。凡明清人所輯叢刊、世銀作者、輯加審正、織其偲欺、非敢刊落、 以求信也。日本有﹃游仙窟﹂、爲罪業文成作、本官置﹃白猿傳﹄之次、以章磐屋君方圓版行、骨堂編入。 一、本葺所取文章、有再見子不同之書、或不同之本、得以互校者、則学校之。字旬有異、惟從其是。亦不歴學 某宇某本作某、骨導紛煩。倫尋者更欲詳知、則巻末具記謬見出子何書評巻、自可覆検原書、得其究寛。 一、向來渉猿雑書、遇有馬工J唐宋傳寄、足資参誰者、時亦鳥取、以備遺忘。比長螺馳、頗復散失。客中又不易 得書、殊無可作。今但會集叢淺、梢新興近來所見、併爲一巻綴之紫雲、珈存落聞。 一、唐入興奇、早着金元以乱曲家所取資、耳目所及、亦學=一。第干詞曲之事、素未用心、轄販早書、諒多講 略、精研博考、以侯專家。 一、欝欝篇時無多、而成就平着匪易。先此許廣李君爲之選録、最多者﹃太李無記﹄記文。惟所望僅黄晟本、甚 慮講誤。去年由魏乱離君校以北京大學圃書館所藏明長洲許自昌刊本、書始繹然。逮恩讐緯雑札、擬態巻末、而蕾稿
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濠草、零歳王室、蒋脛三門爲致書籍十鯨種、俸苧績尋、途以就緒。至陶元慶君所作韓衣、則已嬉野子年蝕法前者 。 雪曇衆力編成此編、謹籍空言、鴬野高誼云爾。 中華民國乱丁六年九月十日、魯迅校畢題記。時大夜彌天、壁月澄 照、饗轟轟歎、余在浮州。当代小論の筆生の杜撰について述べたものに早く一九一三年に書かれた﹁破﹃唐人当店﹄﹂︵﹃集書集拾遺﹄全集四 七︶がある。 ﹁六朝小誌和唐代諾奇文有尊書的語別9.﹂ ﹃影画亭雑文凝集﹄全集巻藁云、至干片品之所以著作、那是無論六朝或唐人、都 是有所爲的。﹃罫書維籍志﹄抄﹃漢書藝文志﹄読、以著録小説、比之﹁詞干鯛舞﹂、就是以爲凝然小論、也有所爲書目 誰。不過在監際上、這有所爲的古園悪難小岩。旧人尚清談、講標格、常以蓼蓼数言、立標苦熱、所以暫時小論、多是 記載学行箋語的﹃世論﹄ 一類、書信是借口舌船名位的入門書。唐橋詩書吉士、但也外藩會上的名聲、所以士子入京開
墾須肇袈呈題詩董ハ其舞﹃這詩文当作﹁餐詩文幾人不鶴有的垂垂來希晶
一新耳目、獲得特追贈、干鳥那時的傳奇文、也就和﹁法門傳﹂根有常州。但自然、只被風氣所推、無所属而作者、却 也井非没有的。 ﹃少室山終筆叢﹄巻二九、九流緒論下云、小説、唐以前、紀述多虚、而藻縮諦観。寄人以後、忠次多實、華語鑑塁壁。蓋 唐以前出文人才士之手、而宋以後率偲儒野老之談故也。 又巻三六、二酉綴敵中云、凡攣異之談、盛於六朝、然多是傳録欝欝、未必盤創設語。至唐人乃作意好奇、假小堤以寄筆端。 如毛穎南的中類尚且。若東陽夜怪録構成自余、玄怪酔言無有、軽挙可付之一笑。其文氣亦卑下亡足論。庶人所記、乃 多有近實者、隠文彩無足観。本朝新鯨等話、本甲名流、以皆焔管、而時詔書狸俗、又在前敷馬下。惟廣記所録唐入津 閣事、威緯有惰致、詩詞亦大率可喜。陳師道﹃後山詩話﹄云、博文正公爲岳陽櫻記、用封語虚言景、世以爲奇。ヂ師魯讃当日、傳奇弁爾。傳奇、唐斐難所 著小説也。歴代詩話本 ﹃直齋書録解題﹄巻=、小商家類云、豊野六巻、車幅釧撰、高訓難事也。サ師魯初見萢文正岳陽櫻白日、傳奇膿耳。 然文膿随時、要之理勝爲貴、文正豊可與傳奇同日語哉。蓋一時戯書之談耳。後略。 蒋瑞藻編﹃小割考詮﹄巻一〇、引﹁曲苑叢談﹂云、陶宗儀﹃畷耕録﹄日、唐日課奇、前日戯輝、元日雑劇院本。今名曲 自誓奇、蓋元末已有此言、然傳奇故非戯曲。﹁購書藝文志﹄有斐釧﹃傳奇﹄一巻、在小論家、其書不傳。﹁太李書記﹂ ﹃法苑今林﹄諸書、頗誰其扶文、特齊群言怪憩流。斐、晩唐人、爲高上客、以餅好碑仙、故割興書以惑之。文艦錐近 俳、非樂府歌曲也。萢文正爲﹁岳陽苗齢﹂、黒人識罰則奇燈、置畳奇又爲文筆卑靡之構コ豊後有斐釧記中事跡爲戯劇 9︶ 張本者、因雪避心耳。此童舞鴉﹁演義﹂旧名面訴、蘇書昔在、元文可按、縄非﹃日和遺事﹄之比。世所行章回盤小 ω 設、煙出於﹃魚鳥遺事﹂、而皆蒙演義嘉名、沿用建久、世人亦不感察 。﹁曲苑叢談﹂未詳。文中﹁法歯黒林﹄が袈鋪﹁傳奇﹄の 侠文を引くというのはもとより杜撰。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ﹁書類文字、當時上歯叢集、或軸壁篇、大傘岩綿曼長、記叙委曲、長島近干俳門、故論者毎砦其卑下、既之日〃傳奇”、 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 以別干浮華之高文。顧世間則甚風呂、文人往往有作、投謁時或用之爲行巻、今頗有留存干﹃太李廣記﹄患者、實唐代 署繕之作型﹂この一節のうち傍黙を施した部分の記述は、もともと﹃大略﹄爲印本では﹃枕中記﹄に卸する記載であ ったのだが、鉛印本でそこから析出して総論部分に移し現行のような行文になったものである。そこに述べられたこ とが、誰の、どのような批評かを特定することはなかなか難しい。 個別に字句を摘記してみると、﹁既之日“馬追”﹂という部分は、おそらくは前掲の諸書にいう萢仲滝の ﹁岳陽櫻
記﹂に平する景珠の批評といわれるものに關ってこよう。涯辟彊が﹃唐人小里﹄の﹁野営﹂の臆面で﹁其書︹﹃傳奇﹄︺ 盛傳於欝欝之世、故稼人輯目唐人小説階調及神仙誰講之事、謡講之日傳奇。陳振孫﹃直齋書録解題﹂、土取此書入小 論類、井云前出、省略。観於振聖書駁之語、則宋時習薄之僻、又可概見﹂と述べるのもそれらの論を承けるものである。 ﹃後山詩話﹄まではともかく、陳振孫﹃直管書録解題﹄の評語は確かに魯迅の意識にあったと考えてよかろう。 しかしこの節はすぐに後の時代の記述に響くし、もう一度一節全払を讃み直してみれば、これは通じて唐代の傳奇 に呈する屠代の状況を述べたものと考えるより他ない。﹃後山詩話﹄の件は宋代のことである。そこで更めて﹁此類 文字﹂たる一群の作品が﹁之を望めて〃傳奇”と日﹂われたのは唐代のどういう事實なのかということが問われなけ ればならない。だがそういう事實を指摘することはいまのところ不可能である。それで次のような反論が出てくる。 李宗爲﹃唐人傳奇﹄二頁︵中華書局・一突五︶はいう。 現在有許多論者常常不加論讃地述及唐人己構此類小説爲”傳奇”、古写設唐人用離塁指笛表示無爵、表示有別干 高雅的古文。端端影響極大而實毫無根櫨。究御講源、演出干魚魯迅﹃中豊小論豊海﹄所述的誤解。魯迅論、引此 類文字至韓数輩之高文。從略。因爲読得不十分具膿明確、因明引起了誤解。魯迅読識量明認根檬、出塩煙陳師道﹃後山 詩話﹂、前患所引、戦略。因此法律謂唐代已有”傳奇”之構不正確的。昌昌読早寒唐代”傳奇”已成端小設様式的名 稻、且是論者“砦其卑下”需用的既構、那腰中唐的元詰和平唐斐鋸還會先後儒官作土自己作品的名目鳴?顯而易 見、繕無此種可能。 今人又毎以上引﹃後山詩話﹄中豊田段百選爲“傳奇”名簿芦北宋已有鞍部擦、這詳明顯是一種誤解。在那段話 中、陳師道明確正論明豊﹁傳奇﹂是“唐斐釧所著小説也”、則弄書聖所謂的“﹁傳奇﹂膿”碧雲是指偲種甲斐釧 。︶
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﹁傳奇﹂那様“等比語読過景”平文膿、弁別子韓愈等所提警束古文膿、根本不是指某類小説様式。 李氏はずいぶん遠慮勝ちに魯迅の﹃史略﹄の記述に樹する誤解からだと言っているが、ここははっきり魯迅の誤り で、少なくとも﹁疑之日“早事”、言説子韓柳之高文﹂の二句は削除すべきだと言った方がよい。魯迅の文は﹃直聖 書録解題﹄に表われた傳奇に封ずる低い評債と、たとえば韓愈の﹁毛穎傳﹂に逞して見られた當時の一般士人の﹁其 の墨譜を病む﹂といった否定的な風潮︵五條9参照︶とが、おそらく短絡してこういう表現となったと考えられる。 のちに﹁傳奇﹂ということばで呼ばれる壁代の一群の作品が罪代に﹁辱めて怪奇と日﹂われたことはないという李 氏の指摘は確かにその通りであろう。だが魯迅がいう﹁其の俳譜に近ぎが故に論者毎に其の卑下たるを砦﹂つたの は一般的風潮としては事實であろうし、また唐人はそれら作品に総じた名を與えることはしなかったけれども、それ らと﹁翌翌の高交とを別﹂つたのも事實であろう。唐人は、合理的であると同時に強いリゴリズムに縛られた二人に 比べればずっと諮達で自在ではあったが、それでも傳統的な文章意識からそれほど自由であったとは思えない。傳奇 は染代に花険き稔ったジャンルであるが、はじめからというより終始文章場裡を堂々と闊歩したことはない。したが って傳奇の文章に於ける位置および製作者並びに鑑賞者の傳奇に醸する意識というものは、李氏の言設にかかわらず 検討の蝕地があるように思われる。 そもそも﹁傳奇﹂ということばを元根︵元積がその ﹁鶯鶯傳﹂ に﹁傳寄﹂ということばを使ったのが最初だとい う。周紹良﹁”傳奇〃箋澄﹂﹃紹良愚稿﹄所牧・齊乱書肚・死八四 †二四﹁”鶯鶯傳〃的原標題及篤作年代﹂﹃唐代文 史論叢﹄所牧・山西人民出版肚・一九八六︶なり斐釧なりが自分の作品に就いて用いたとぎ、いったいそれはどんな意味 あいをこめて使われたのか。﹁奇を思う﹂の﹁奇﹂とは珍奇、偏奇、怪奇、新奇の﹁奇﹂であって、むろん並みのも ︶ 31 ︵
のではないということを表わすが、並みのものではない﹁奇﹂などということが、この國の正統の精紳史に於て肯定 的な評償を與えられたことなど、いちおう近代以降は別としてもおそらくない。同時にそうした奇を傳える器の方も むろんまた並みではないわけであって、それが文章である以上、規範的文章たる正統の詩文に封ずる距離感が﹁野 寄﹂ということばには必ずこめられていたはずである。つまりそこには﹁傳奇﹂ということばで概括されうるような 作品群が、獲生の當初はともかく、かなり成熟した作品を輩出するようになっても堂々と正面から文章の場に登場で きないような條件があった。それはやはり文章は黒髪の大業であり、載道の器であるといった儒家者流の考えかたが この國の文章についての意識をほとんど猫長していたことである。そうした傳統的な文章意識から正統の詩交に封し て傳奇がもった一種のひけめとでもいうべぎ心的態度を、﹁傳奇﹂ということばそのものにすでに讃みとることがで ぎるのではないか。 さらにそのことは、傳寄の多くが史傳の膿、とりわけ論賛の形式を借りたことに特徴的に表われていると思われ る。たとえば元積の﹃鶯鶯傳﹄は﹁時人譲許張鰻登補過者。予嘗於朋會書中、往往及此意者、夫使知者不二、爲評者 不惑云々﹂でもって終る。これは史傳でいえば調質の部分にあたる。唐代傳奇では早く沈既濟の﹃枕中記﹄や﹃任予 期﹄に見られ、以後多くの軍行の傳奇がこの形式を採る。輯成された傳奇集はほとんどのものが序駿を失っているが、 元來序践があったとすればそこでおそらく同様のことが述べられていただろう。これは傳奇が史傳に艦裁を借りたこ との化石器官、つまり盲腸か尾鷲骨のごときものであって、すでに史傳における本來の働きというものとは完全にち がってしまっているのだが、ただのマナリズムとして見過してしまうわけにはいかない。といヶのはこの部分こそ正 しく、この話は寓言に託したものだということを激する部分であり、たとえば﹁禍福を談じて旨意を寓する﹂ところ ︶ 32 ︵
であり、話の實質はどのようなものであれ比比の意ありということをここでどうしても示しておかなければならない ところであるからだ。いわば濫読の存在詮明のようなものなのだ。そのため以後白話小論をも含めて文學革命までの 奮小説は多く史傳の論聲の部分で述べられるようなことをまねて、どこかに一筆つけ加え、外部に封ずる自己存在の 口書とした。のちに傳奇が行巻に使われたのだとしたら、いよいよこの部分を乏くことはできなかったろう。傳奇が こうした形式を借りて自己辮明せざるを得なかったところに、規範的な思想や文章に期して一人立ちできぬことの自 己認識が端的に表われている。 そのことはまた、韓愈の﹁毛穎傳﹂に封ずる一般士人の否定的な両懸を考えてみたばあい一層はつぎりするだろ う。 ︵﹁毛穎傳﹂の評贋については後号9参照︶柳宗元は﹁毛穎傳﹂を辮聾するのに、﹁詩経﹄や﹃史記﹄滑稽列傳を 例として引用し、結局俳譜は聖人の道に背かないのだという論理︵韓愈が張籍の批判を駁したのもこれと同じ論理な のはおもしろい︶を使っているのが、直接の理屈はともかく、儒家者流の規悔の意を寓するのだという傳奇の末尾の畑 野の言と一致するのは示唆的である。自運には﹁高文﹂と評された﹁毛穎傳﹂にして當初は否定的反鷹を受け、しか もそれを辮護するのに儒家者流の思想および文章意識を一歩も超えられなかったのだから、他の傳奇類については推 して知るべしである。 以上のことから、元積や斐釧が自分の作品を﹁傳奇﹂といい、他の作者が自己の即製作品を持出すばあい、たとい それらが新巻に公然と使われるようになり、不遇の才人によって個別的には必死で書かれたとしても、それらは結局 自分たちの手すさびにすぎないんだよという暗獣の了解が、讃み手をも含めてみったと想定することがでぎる。省巻 に傳奇を提出して受験をふいにした男の話︵後掲﹃南部新書﹂︶がそれを外側から澄明する。傳奇をめぐる書ぎ手と ︶ 33 ︵
省み手にそういう心的態度が考えられるならば、﹁傳奇﹂ということばと事實の考誰の貼で甘さがあるにせよ、魯迅 が﹁之を疑めて傳奇と日う﹂と書いたのもあながち的はずれとはいえないように思われる。 趙彦衛﹃雲麓章台﹄駐機云、唐之堅人、先回当世顯人、以姓名達之登司、然後以所業投献、喩敷日野投、謂之温巻、 如幽怪録至適等皆是也。蓋此等文無衆膿、可以見史才詩筆議論。後略。 小頭が行巻に用いられたことを言う資料として、こ2 節は周知のものである。文中﹁温巻﹂の語については程千凡﹃唐代進士行巻落文學﹄︵一九八○・上海古套出版耐︶二六頁に訂正がある。また鍍易 ﹃南部薪書﹄甲に﹁李景譲典貢年、有李復言者、納省巻、有国用一部十巻。牌出日、事泰阜濟、葦葺虚妄、其所納仰貢院軍使官生還。謡言因此罷 駆。﹂とあるのは、省巻についてであるが、これも行巻に小読が用いられたことの傍澄となるのは程氏︵同書八五頁︶の読の如くである。 各強大ぎな異同はない。﹁作意﹂﹁幻設﹂の括弧は訂正版ではじめて附けられ、﹁高文﹂の後の句読も訂正版で句鮎と ヘ へ なった。それまでは讃貼。﹁今頗有留存﹂の﹁留﹂字も訂正版で附加された。﹁他書所牧﹂の﹁書﹂字二型のみ脱する が、これは誤。
2幻設白文、以至甚異其趣 七〇−七
罵印本﹃大略﹄にはこの記述に豊強する部分がない。鉛印本は﹃史潮﹄の ﹁﹁垢者王承幅傳﹄柳宗元﹃種樹平鮒駝 傳ヒを﹁毛穎傳﹂とする他は﹃史略﹄に同じい。 ﹁六朝小善和唐代傳奇文有急様的匠別?﹂﹃且介亭雑文二集﹄全集巻六云、唐代傳情文可就大暑草藁。神仙人運筆物、都可 融解便駆使。文筆是精細、曲折的、至当被崇省簡古者所詣病。所叙的事、也大抵具有首尾和波瀾、不止一連断片的談 柄。而且作者往往故意顯示着這事 的盧構、以見他想像的才能了。/但六朝人也井非不能想像和描罵、不過他不用子 小草、這類文章、尊親也不謂之小設。例如玩籍的﹁大人先生傳﹂、陶漕的﹁桃花源記﹂、其實倒和後來的無代傳奇文相 ︶ 34 ︵近。就是稽康的﹁聖賢高士蔓質﹂︵今僅有恩本︶、葛洪的﹁神仙傳﹂、也古賢濫作唐人傳感文喜喜師的。李公佐作﹁南 何太守傳﹂、学館爲之賛、書函是械的﹁高士傳﹂法。陳鴻﹁長恨傳﹂置白居易的長歌之前、元宵的﹁鴛鷲傳﹂既判・ ﹁會眞詩﹂、又翠李心裏﹁鷺三無﹂之名作結、也令人不能不想到﹁桃花源記﹂。﹃史略﹄では一転の﹁大入先生傳﹂から陶潜の ﹁桃花源記﹂、そして柳宗元の﹁種樹郭棄真電﹂に至るいわゆるコ局文﹂に属する系統のものを﹁成以寓言爲本、文詞爲末﹂であるが故に﹁無論干傳 奇﹂として、﹁傳奇﹂とは系統的に庭罪した。そして﹁傳奇者流、源鱈子古志怪﹂と断じたのであるが、ここでは﹁大人先生傳﹂から葛洪の﹁紳仙 傳﹂まで幻設によって文を繕った鮎で、粗代傳奇の﹁租師﹂と視なすことができるというのであるから、﹃軍略﹄での記述をいささか訂したと考えて よい。但しそれはあくまで源流として﹁大人先生傳﹂等が考えられるというだけのことであって、﹁寓言爲本、賛詞爲末﹂という﹁高文﹂との厘別の 基準を放棄したものではない。このことは魯迅の唐代傳奇に封ずる見方の上で非常に重要なことである。 院籍﹁大人先生傳﹂ ﹃院嗣宗集﹂、﹃全三國文﹄巻四六。 劉伶﹁酒徳頬﹂ ﹃文選﹄巻四七、﹃白文類聚﹄巻七二。﹃軍書﹄劉伶傳。﹃全逓文﹄巻六六。 王績﹁酔興記﹂ ﹃東皐子集﹄ ﹃唐文梓﹄巻七一、﹁文苑英華﹄巻八一三二、﹃全唐文﹄ 巻;三。﹁上流可衡爲王朝“醇勲記〃﹂に ついては次條3に引く﹃東皐子集﹄序や﹁新唐書﹄王績傳を参照。 ﹃大人先生傳﹄及び﹃酒徳願﹄の後の讃鮎は三八年分全集ではじめて附けられた。 3階二間、以至蓋度所帳設也 . 七一+二 爲印本﹃大略﹄には該當する記述がない。鉛印本は下記の嶺を除き﹃史略﹄に同じい。﹁文中子通之弟﹂の上に﹁爲﹂ 字有り。﹁東皐子績兄也﹂の﹁也﹂字なく、績く﹁蓋生子開出初︵宋晃公武﹃郡齋讃書志﹄十云通生干電車四年︶﹂の 句、﹁︵約五八五−六二五︶﹂、および﹁逡文僅存此篇而己。﹂の﹁遺文﹂二字いずれもなし。 ︶ 35 ︵
﹁小説的攣遷﹂第三講云、唐之初年、有単軸徹的﹃古鏡記﹂、是自述得一紳宝貝異事、文章錐里長、但僅綴許多異事而 成、還不睨六朝志怪底流風。 ﹃唐心傳奇集﹄稗邊小綴全集巻玉壷、 ﹃古鏡記﹄見﹃太卒露光﹄巻二百三十、改題千度、懸絶、出﹃異聞集﹄。﹁太李 御覧﹄︵九百十二︶引其程雄家脾一事、作階王度﹃古鏡記﹂、蓋縁所記皆階時事車田。﹁文苑英華﹄︵七百三十七︶顧況 ﹃戴氏雪面記﹄序云﹁國朝伊里﹃梁上公記﹄、唐臨﹃冥報記﹂、王度﹃古鏡記﹂、薫炉言﹃神璽志﹂、趙自勤﹃定命録﹄、 至如李庚成、悪戯羅之徒、諸相傳説。﹂則当面已入唐、故當爲唐人。惟﹃端書﹄及﹃新唐書﹄皆無度名。其事 之可 籍本文考見者、如下。 大業七年五月、自御史罷蹄河東。六月、臨長安。 八年四月置在璽。冬、象著作郎、奉里言耳玉。 九年秋、
出蓋隻霞御懇奉持箔北嚢網賑給筆雀羅六合黍轟復鍵+個
三年六月、動脇長安。 由階入唐富有王績、絡州龍門人、﹃新霊書﹄︵一九六︶隙逸傳云、 ﹁大業中、翠孝悌廉潔、不運在朝、求爲六合丞。 以嗜酒着任事、時天下亦齪、舌戦、途解去。官界、“巻網在天下、自認安之”乃還郷里。⋮⋮初、兄凝望階著作郎、撰 ﹃手書﹂、未成、死。績績鯨功、亦不能成。﹂則﹃唐書﹄之績官署、即此文之動並並、或度一名凝、三盛書字誤、未能 力也。﹁唐書﹄︵一九二︶総有心確、云、﹁貞観十八年卒。﹂時度已先彊、然不知在何年。宋晃公武﹃郡官署書志﹄︵十 四︶類書占有古鏡記一巻、云、﹁右未詳撰入、纂古鏡故事。﹂或即此。﹁御覧﹄所引一節文字小有不同。如﹁邑智郵陳思恭 義女﹂下有﹁思恭妻鄭氏﹂五字、﹁途將鵬鵡﹂之﹁將﹂作﹁劫﹂、皆較﹃廣記﹄建碑。 ﹃軍場讃書志﹄巻+、子部儒家類云、玩置注中豊十巻 右階王通之門人、共集其師之語群是書。中略。通生於開皇四年。下略。﹂これ及び﹁稗邊小綴﹂の記述から、魯迅の用いた岡郡齋讃書志﹄はいわゆる﹁街州本﹂であることが分る。 ﹃奮愚書﹄巻一九二王績傳云、王置字無品、緯州龍門人。少與李播、無才爲莫逆之交。階大業中、懸孝悌廉潔暴、授 揚州六合縣丞、非其所好、棄官還郷里。績河瞬結先有田翼壁、郷中有隙士仲長子先、服食養性、昇平其眞素、断想相 近、客車裏壁渚、弾琴酒自営。嘗遊北山、因爲﹁北山賦﹂広見志、詞多不載。績嘗躬耕於東皐、故時人號東皐子。或 経過酒騨、動経数日、往往題壁作詩、多爲好事軍票詠。貞観十八年卒。臨終自計死日、遺命薄葬、象預自爲墓誌。有 文集五巻。又撰﹃隔書﹂、未就而卒。/兄通、字仲湾、隔大業中名儒、諺文中子、転出傳。 ﹃新言書﹄巻一九六王描写云、王績字無二、減量龍門入。性簡放、不測拝揖。兄通、階高大儒也、聚徒河官署、倣古 作﹃六葉﹂、又爲﹃中読﹄以擬﹃論語﹂。不明諸儒鳥道、故書不顯、惟﹃中卒﹄猫傳。通知二軸縦、不嬰以家事、郷族
慶弔冠昏、不與也。與李播、呂才善。 D
ω 大業中、■畢孝悌廉黎、授秘書省正字。不壊在朝、求爲六合丞、以嗜酒不盛事、時天下亦齪、墨壷、途解去。歎 日、﹁網羅在天、吾且安之。﹂乃還郷里。有田十六頃在河幽間。仲長子光者、亦隠者也、無妻子、結魔北渚、凡三十 年、非理力不食。績愛其眞、徒與相近。子光瘤、未嘗交語、與封酌酒量甚。績有瀬脾一人、種黍、春秋醸酒、養蝿 騙、蒔藥草自供。以﹃周易﹂、﹃老子﹂、﹃荘子﹄置淋頭、佗書四干讃也。欲見兄弟、重度河還家。游北山東皐、著書自號 東皐子。乗牛経酒蜂、留或敏日。 弾車武徳初、以前官待詔門下省。故事、官給一日三升、或問、﹁待詔何樂邪。﹂当日、﹁良醗可懸耳。﹂侍中陳叔達 聞之、日給一斗、時構﹁斗酒軍士﹂。貞観初、以降罷。復調有司、時太樂署史焦革至善醸、績求爲丞、吏部以非流不 許、績固請手、﹁有深意。﹂寛除法。革死、日曝酒不紹、歳蝕、又死。績日、﹁天不使藤巻美酒邪。﹂棄官去。自爆太樂丞爲転職。追重訂酒法即事、単離杜康、儀日葡來悪酒者爲譜。李淳風日、﹁君、酒家南、董也。﹂篭居東南有盤石、立 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 杜康祠祭之、尊爲師、以骨湯。著﹁醇郷軍﹂以次劉伶﹁酒当面﹂。寒冒至五斗不㍊、人有以酒訳者、無貴賎輯往、著 ﹁五斗先生傳﹂。刺史崔喜悦之、請相見、答日、﹁奈何坐召弟君李邪。﹂卒不届。杜之松、故入也、爲刺史、請所講禮、 答日、﹁吾不能揖譲邦君門、談糟粕、棄醇膠也。﹂之松歳時贈以酒哺。初、兄凝一階著作郎、撰﹃階書﹄未成死、績綾 蘇功、亦不能成。豫知終日、命薄葬、自誌其墓。 績之仕、以醇失職、郷人斬之、託無心子以見趣日、﹁無心子笹越、越王不知其大人也、拘琴海、無喜色。越國法 燈、”機行者不歯。〃俄而無心子以穣行聞、王黙之、無温色。退而適 蕩之野、過動之邑而器機士、機士墨縄日、”嗜。 子賢者而以罪慶邪。”無心子嚢鷹。十二日、〃願誓教。”日、〃子爵蚕廉氏馬乎。一面朱巌白義、龍酪織豊、船着如舞、
終章繹欝病董歯黒監酪擁鶴善雲華終年謳豊島奮難藷畷君子晶
筍黎以罹患、不避繊而養精也。”﹂其自庭如此。 呂才﹃東果子集﹄序云、君姓王氏、早言、字無韻、太原祁人也。高祖奮穆公、自南蹄北、始二河耳塞。三軍魏迄書卓 晴六世、冠追惜史家弊誌。君性好學、博聞強記、與倉皇陳永呂才爲莫逆之交。陰陽暦鴬野術、無学洞曉。大業末、慮 孝悌廉潔暴、射高明。除秘書正字。理性簡放、飲酒至野寺不酔。常云、恨不逢劉伶辛苦戸轟飲。因著酔上記及五斗先 生傳、以類酒徳頒云。後略。四部叢刊本。﹂この序は爾﹃唐書﹄の資料になったもののごとく、また王氏兄弟が少なくとも七人あったことが ﹁君第七弟静﹂とあることから分る。新蕉雨﹃唐書﹄が績の籍貫を﹁絡州龍門人﹂とするのに、魯迅が遠い原籍を持ち出し ﹁太原耶人﹂とするの は、おそらく呂才の序文に檬つたのであろうが、績自身の文章﹁游北山賦﹂や﹁自撰墓誌﹂にもぞうした名のりが見える。なお王通五代の孫王質の 傳﹃蕉唐書﹄巻一六三も﹁質字華卿、太原郡人﹂とする。王績﹁遊北山賦﹂序﹁文苑英華﹄巻九七云、吾読人也。本家子郡。永嘉之際、唇從江右地。實儒素人多高揚。穆雑感建元 之恥、錦干洛陽同州、悲永安馬事、退居河曲。始則奮山開國、終乃安康受田。墳確寓居、誓事五葉、桑楡成蔭、俄將 百年。動南山故情、老而彌篤、東披鯨業、毒血自著。後略。又﹃東皐子集﹄巻上 王績﹁自.撰墓誌﹂銘﹃東皐子集﹄巻下云、有唐逸人、太原王績。 王学﹁與陳叔達山嶺階⋮雑書﹂ ﹃唐文梓﹄巻八二云、前略。僕亡兄茜城、 警護著局。大業之末、警衛悪書、俄逢喪齪、未及 終畢。僕絹不自揆、画嚢蘇功、牧撮宝達、筒存数秩。兆自首皇之始、迄子大業之初、威亡兄瓢竃之遺 也。大業之後、 言事闘然、僕錐欲縫成、無可葱採。以此尤思量下之所作也。還使請当無再三。王績日。 魯迅の﹁王度量王凝﹂読には留保がついているけれども、この読に封ずる異議が出ている。野望﹁王難考﹂︵﹃里雪月 刊﹄藩老第三西期︶である。比重の設をごく簡略にすれば、王通の子町鳶時の ﹁王氏家書雑録﹂︵﹃転読﹄附録︶に ﹁︵ 蜉マ︶十九年︵六四四︶仲父︵即凝︶面起無帽州録事﹂とあり、王胤の死は﹃落断書﹄に ﹁貞観十八年︵六四五︶﹂と するから、貞観九年︵六三五︶に死去した国号達と、王績との往復書簡に言う﹁亡兄茜城﹂﹁賢兄茜城﹂は當然仲父王 凝とは別人でなければならない。そして﹃文中子中説﹄﹁魏三聖﹂に﹁茜城府君讃説苑、子︵王通︶見之日、美哉兄 達志也﹂とあるからには茜城は王通の兄でなければならない。しかもこの占地こそは﹃古鏡記﹄にある登城令王度で ある、というものである。もしも﹁王氏家書雑録﹂や﹃文中子中読﹄に信懸性があるならば、王度とまでは行かずと も、翌翌とは別人である茜城府君の存在は首肯できよう。そしてさらに魯迅の説のごとく﹃古鏡記﹄に記された記事 を事業と認めるならば、孫氏の論のように茜城府君王度論は成立する。ただその場合は﹃軍略﹄の文を﹁文中子通、 ヘ へ 東皐子績之兄也﹂﹁︵約五八一−六二五︶﹂と改めねばならない。なお﹃史略﹄が王績を王通の兄としながら生年をな 9︶
ω
へ ぜ﹁開謡初﹂としたのか、また何に嫁って没年を﹁武徳中﹂としたのかは未詳。他に﹃古鏡記﹄作者王孫説を否定す るものに段煕仲﹁﹁古鏡記﹄的作者及其他﹂がある。﹃崇文華目﹄及び﹃通志﹄藝文略に幽翠記単動撰とあることから 王通の孫、王勃の兄の王入であるとする。︵﹁聖岳遺産﹄増刊第十輯・中華書窓・一九杢・七︶ ヘ へ ﹁有王度者、﹂鉛印本﹃大略﹂、初版より七版まで﹁者、﹂を敏き、訂正版で附加された。 4唐初山有﹃補江白総猿傳﹄ 一巻、以至其由來亦頗古 七一+三 寓印本﹃大略﹄八云、唐墨有張文成游仙窟、中口己秩、惟日本有之。書記丈成奉使河源、入聯仙之窟、與ご仙女︵十 娘五媛︶賦塁審置型、文近麟麗、而時場屋語、詩亦不佳。前條−で罵印本の舌代傳奇の記述構成に示したように、この部分は第八篇 の最後に置かれている。鉛印本は﹁而貌類禰猴﹂㎜句を敏き、﹁濡者因作此傳、而云以補江総﹂と﹁此作﹂を顛倒し、﹁而﹂字を附ける他は﹁史略﹄
に同じい・欝を薫 o−
q ﹁小説的攣遷﹂三豊、此外廻有無名氏倣的﹃白猿傳﹂、説黒甜男声欧陽絶至長樂、深入漢洞、其妻爲白猿掠去、後光得 救回去、生↓子、﹁蕨状藤里﹂。絶後爲陳書帝所殺、他的鬼子欧陽胸、在窯初根有名望、而貌象禰猴、忌者因作山農。 後來帳小説以攻撃人的風氣、可見那時也就流行了。 ﹃唐宋傳奇士﹄稗邊小綴全集巻+云、 ﹁補江総白猿傳﹂擦明長州顧氏﹃文房小説﹄考古善本録校、以﹃太李隠密﹄四 百四十四所引改正数字。﹃廣記﹄薬日﹁敏壮絶﹂、耳語、出﹁績算氏傳﹂、是亦檬謡初軍行本也。此傳在唐宋時言頗流 行、故史志屡見著録。 ﹃新唐書藝文志﹄子部小論家類 ﹃三江総白猿傳﹄ 一巻。 ﹃郡三遍書志﹄史部傳蔵並 ﹁補江絡白猿傳﹂一巻。 右不詳何人撰。述梁大同末敏隔絶妻三猿所轄、後生子詞。﹁崇文目﹄以爲唐人悪詞者爲之。 ﹃直齋記録解題﹄子部小論家類 ﹃補江総白猿傳﹂一巻。 無名氏。激陽絶者、詞華比興。詞貌禰猿、蓋常與長孫 無忌互相嘱誰突。此三途因回虫廣之、以實其事。託言江総、必無名子所念也。 ﹃宋史藝文志﹄子部小説類 ﹃集補江総白猿傳﹄ 一巻。 長窪無忌嘲西陽諭事、見些事﹃⋮隅唐嘉話﹄︵中︶。其詩云、﹁地温成山字、埋肩不出頭。誰家麟閣上、豊此一骨猴﹂。 蓋詞讐肩縮項、駄類禰猴。白老獲馬入婦生子、本書來傳論。漢焦延壽﹃易林﹄︵坤之剥︶己云、﹁南山大獲、盗我媚妾﹂。 照日張華作﹃博物志﹂、説輔導詳︵取巻三軟膏︶。唐人或妬詞名鑑、途牽合議成長傳。其日﹁些細総﹂者、謂総爲敏陽絶 之友、又嘗留養詞、具知其本末、而未爲作傳、因補之也。 D 上上﹃階唐嘉酒﹄雀中云、太宗宴近臣、戯以嘲罵、趙公営忌嘲欧陽率更日、一旦成山字、埋立不出頭。誰家麟二上、 q 書庇一底値。詞鷹聲云、縮頭蓮華暖、西里畏早寒。只翻心掴湖、所以面重継。帝改曇日、欧陽詞宣不輸皇后聞。面革、 后之兄也。中華書局唐宋史料筆記叢刊本 ﹃少室山房筆墨﹄巻三二、四部正鴻下云、白猿傳、唐人以誘欧陽筆者、甲状頗痩即身猿揉、故當時無名子造言以誘導。/ 此書本題補肩総白猿傳。蓋償撰者託絡連名。不惟謳詞、蒙毒忌総、臆亦巧突。率更世羅運筆書、而不知其忠孝節義、 學問交章、皆瀬初冠星。至今瞭然史興、量此輩能汚哉。率更之子通、亦矯愚父風。而皆重書名所掩。余所惜欧氏、不 在彼也。歌陽二塁謬論に反卑して中唐成立説をとるものに張長弓﹃唐宋葉陰作者蟹其時代﹄、近藤春雄﹁踏代小説の研究﹄等がある。 ﹃博物志﹄巻三異獣欲、蜀山南高山上、有物如禰猴、長七尺、能人行健走。満干猴獲、一名化、重日猴獲。同齢の誤行 道婦女、有好者欄盗之以去、人不認知。行者或毎遇其肇皆以長縄相引、然故不買。此得男女子の誤氣自死、故︹不︺
取男也。取去爲室家。其年少者、終身不得還、十年之後、形尊王之。意亦謎惑、不言思錦。有子栄爵奪還其家、産子 皆如人。有不食養者、其忠霊死。故無調敢養也。脚長與人無異。皆以楊爲姓。辞世蜀中西界、多書楊、首吊猴獲化之 子孫。時時相有獲爪者也。中華書局萢寧考讃本 ヘ ヘ ヘ へ ﹁忌男面此作傳﹂、鉛印本﹃大略﹂、初版から七版まで﹁忌三囲奇巌傳﹂に作り、訂正版で顛倒した。これは﹃史略﹄ をほとんどそのまま襲った﹁小説的攣遷﹂も﹁因作品傳﹂に作り、語法としてもおかしくはないから、訂正版以下新 版全集に至るまでを軍なる誤植として奮に復すべきである。 5武后時、以至絡是相弄也 七一−七 この部分は寓印本﹃大略﹄になく、鉛印本で檜訂されたものである。鉛印本には莫休符の﹃桂林風土記﹄の引用はな く、これは﹃諾諾﹄初版にもなく後の訂正版ではじめて増入された。引用の次の句﹁則尚其年少時所思﹂は鉛印本か ら﹃古哲﹄七回まで﹁立前鷹少時所爲﹂に作る。また﹁後人亦不復徽其艦制﹂ の後に鉛印本は括弧内に﹁︵清人秀水 陳球以麟文成燕山外史、僻意殊勝、蓋非漁法文成者︶﹂という一文を入れるが、これは﹃史略﹄初版以降省かれた。 他に張鴛の生存期間を示す﹁︵約六六〇一七四〇︶﹂が鉛印本にない以外は﹃游仙窟﹄からの引用も含めて﹃史略﹄と 同じである。 ﹁小論的攣遷﹂第三講云、 到了武則天時、有張鷲倣的﹃游仙窟﹂、是自叙他從長安走謡言去、在路上天華、投宿 一家、這家造爾個女人、叫十娘、五娘、和立飲酒作樂等情。事實不根回複、三幅用麟髄文倣的。百種以麟禮倣小 説、是霊前所没有的、所以也可以算↓種特別的作品。到後來清之陳球所徹的﹃燕山外史﹂、是餅膿的、而作者自以爲 用麟禮倣小説是由他別開生面的、殊不知聖駕開端子張驚了。但﹃游仙窟﹄中國久已侠失、応需日本、現空馬存、幣串
の
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張驚在當時根有文名、外藩人到着國來、毎以重金買他上文章、這異者還是那時樽劇的︷種。軍官他的文章根挿挑巧、 也不見得好、不過筆調活溌些罷了。 ﹃游仙窟﹄序言集外集拾遺、全集巻七言、﹃游仙窟﹄今惟日本有之、是奮島本、藏干昌金華。題温州嚢樂縣甲張文成作。 へ 文成者、張鷲之字。題署著字、古人亦常有、如習常雷獣里離國志、其一巻亦云常道將集 。張鷲、深州陸古諺。爾 ﹃唐書﹄皆附見﹁張賃銀﹂、革装調歩初登進士第、上襲王難参軍、屡試査薬科、大有文轡、調長安尉官鴻臆丞、誇聖 中、警官劉奇言爲御史、性躁下、償蕩辛辛、忠興露悪之。開元初、御史李全交劾鷲訓短時政、疑嶺南、旋得内学、終 司室員外郎。﹁順宗實録﹄亦謂鷹博捜工文詞、七登文文科。﹃大唐新語﹄則云、後轄洛陽扇、故重書燕詩、其懸章云、 攣石身身重、街泥力筆生、從來赴甲第、雨起一講説。時人無不調詠。﹃唐墨﹄錐構其文下筆立成、大行一時、後進莫 不整記、日本新羅使至、必出金費急難、而又砦爲浮野少理致、論著亦傘諺請蕪繊。鷲書之傳干今者、尚﹃朝野愈載﹄ 及﹃龍重重膚身﹂、誠亦多誕謂浮鐙之騨。﹁游仙窟﹄豊春奇、又多俳調、故心志皆不易。清濁守敬作﹃日本訪書志﹂、 始著詳録、而疑之一如墨書独言。日本則初蝉比婆、以西異書。、嘗有注、似亦即時人作。河霧寧興亡其中之詩十重滝野 ﹃全唐詩逸﹂、飽氏畳込﹃知不足齋叢書﹄中。今濡手將早目之、而全文始胆管華土。不調革時之習俗如酬封舞詠、時 語如堅陣半里、可資博識。印逆撃以黒白卑語照準奇、前手霊界之﹃燕山外史﹄者千載、亦爲治文學史者所不能巖 。 ・甲華民商十六年七月七日、魯︸迅一思。韓紅﹃順宗實録﹄巻三癸酉。魯迅引用の巾間に﹁性好該譜﹂の﹁句が入る。劉繍﹃大唐新語﹄巻八。 ﹁三章廷謙三ハ〇三三書簡﹂全集巻+一軍、記得日前面談、我論﹃游仙窟﹄細注、蓋日本人所爲、無足道。昨見楊守敬﹃日 本訪書志﹂、則以爲唐人作、黒帯中所引用書、有非唐画所有者。但非時日本人所作、亦未可知。然則倫要保存古董之 全部、丹碧捌亦無不可芝繋耳。慶安本に附けられている注については﹁﹃游仙窟﹄序言﹂でもあまり意見を攣えていない。そこでは﹁唐時人
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作﹂とする。章廷謙校本に附録された周作人の﹁夜讃抄﹂末尾には次のように述べる。﹁﹃遊仙窟﹄有註一巻、・無良人名字、幸田︹露伴︶以爲三蔵時 中國入所註、雌然註中有引戸雅語、疑係後人細入。這或者也有道理、唯中中向來這類書是没有人倣註的、而且﹃遊仙窟﹄上文章生英房序内壁、從嵯峨 天皇遺物中伐出﹃遊仙窟﹄來、無人能解云云、可見原來未必有註。英房雷序中所読、有些也雷雨話、上瞼人平授讃法之類、但原本無韻恐伯是不錯 語、那唇面本藍想是那是日本人所徹、只是山手邊没有這々、所以現在也只空論罷了。﹂魯迅が周作人の﹁夜営抄﹂を附録にすることに賛同したのも、 注者日本人論に同じような考えがあったからかもしれない。なお注着中山人説には露伴の他に紳田喜一郎﹁遊仙窟に就いて﹂︵﹁言語と文學﹄二、昭 五・四︶があり、日本人論には奥野信太郎﹁書幅寺本遊仙窟凝固記﹂︵﹃史學﹄第一四巻四号、昭一一・三︶がある。 ﹁章罫描宛二八O八二九書簡﹂全集巻十ニム、今日間小峰、云﹃游仙窟﹄便將附印。曲園老年説、平入巻首、我以爲好的。但 是否在中園地及該﹃窟﹄的”噛矢”、皆野疑問。査”東繍”有意世寧者、曾録﹃御制︵纂?︶全唐詩﹄失牧罵言、 爲﹃全唐詩逸﹄口巻、内命該﹃窟﹄詩書首。早書後経論氏刻入﹃知不足齋叢書﹄霜雪︵?︶集中。刻時或在曲老之前 亦未可知、話者曲老所見者是此書、而非該﹃窟﹄全本也。これは同年+月+八日の章宛の書簡でも﹁蔭挨拶躁亦不見出色、我以下 可不必附了﹂と言うように愈櫨の﹃遊仙窟﹄への言及はまったく魯迅の推測の通りであった。 ﹃茶香室四抄﹄巻十三に慰める﹁遊仙窟詩﹂がそれで、 ここで前腿は﹃全唐詩逸﹄所載の詩を元人による儒作かと疑っている。 ﹃奮唐書﹄巻一四九張薦傳云、誓事字季累、深州陸県人。租鷺山文成、聰警紹倫、書無高覧。爲児童時、夢紫色大鳥、 五彩成文、降子家庭。其富麗之日、﹁五色赤文、鳳也、紫文、驚驚也、爲善導佐、吾家鳴以文章瑞於明細﹂、因以爲名 字。初登進士第、封策尤工、慢語員外郎嘉味道賞之日、﹁如湿生、天下無隻 。﹂調授聖王意志軍。又鷹下灘成章及才 高位下、詞章文苑等科。鴛凡鷹詞暴、早旦甲科。再授長安尉、遷鴻臆丞。凡四参選、到策爲鉾府之最。員外郎員孚千 罪人円、﹁張子之文如青銭、萬鋤彫中、未聞退時。﹂時流重之、目爲﹁青銭學士﹂。然性編躁、不詳士行、尤爲端士所 悪、論考甚薄之。開元初、澄正風俗、辞職御史李全警手糾、言半語多識刺時、坐艇嶺南。刑部尚書李自知奏薦、乃追 ︶ 44 ︵
救理智近腱。開元中、瀬棚司門員外郎卒。鴛下筆敏速、著述尤多、言頗該譜。是時天下知名、無点不肖、皆皆請其 文。天后朝、中使馬宿童陥獣畷、獣畷画仙童日、﹁張文成在否。﹂日、﹁近自御史既官。﹂獣畷日、﹁陣中此人而不用、 漢無能爲也。﹂新羅、日本東夷諸蕃、尤重其文、思遣使入朝、必重出金貝以購其文、其才名遠耳如此。 ﹃新賃量﹄巻一六一張薦傳云、張油糧孝摯、深州陸澤人。租驚、字文成、早悪筆倫。爲児時、夢紫白大鳥、五色成丈、 止選士。大言日、﹁吾聞五色魚文、鳳也、紫文、鷺鷲也。若虫、若以交章瑞朝廷乎。﹂面白以名。調露里、登進士第。 考功員外郎審味道見所封、稻天下無饗。早岐王府参軍。八以制學皆甲羅、再調長安尉、難山櫨丞。四参選、到豊野華 府最。員外郎員坐−千敷爲公卿稻﹁上文軽輩青銅銭、萬選萬中﹂、時號驚﹁青銭賢士﹂。誼聖意、天中侍郎劉奇骨鷲及司 馬錐爲御史。性墜下、償野瀬検、空爲正人所信、豊肥尤至聖。開元初、御史李早瀬認識多口語訥短時政、疑嶺南、刑
難壁知楚腰蚕得内纂畢鍮嘆露少理笠筆叢叢大行蒔晩葉傳巽圃
后時、中人馬仙童当職畷、問、﹁文成在否。﹂即日、﹁近自御史疑官。﹂日、﹁國有此人不用、無能爲也。﹂新羅、日本使 至、必出金寳購其交。終司門員外郎。 ヘ へ 莫休符﹃桂林風土記﹄云、張篶、字文成。深川陸渾人也。後壁悪運賓之商。豊楽市設過人。其租筆工文學、以當時儒 踏車稻鷲漫才、莫不等異。因日、我孫爲人所知。唐天以鷺鷲爲塗桶之佐、五色成文。雷名鷲字文成。弱冠鷹累。下筆成 章。中書侍郎醇元超、特装裏樂尉。遷監察御史司門員外。開元中、銚元崇爲相。論難蓮華江南受遺吉野。其事上表請 代選出。黄門侍郎張延年、刑部筒書李白等、連表構冤、途減導流嶺南。敷瓦起爲聾州長史。卒年七十三。翼成凡七學、 四参選、平中甲科。正士大夫員孚千謂人日、張子上文、如青銅銭、萬操身中。時號青銅銭王難。久覗中、卑官令馬回 章導爆厭中、獣畷平日、文成近在、此入何不足用。又新羅日本國、前後遣出入貢。多量文成文集日本國。身中聲名遠耳如此。著雛龍策、帝王亀鏡、朝野愈載二百巻。文成面罵爲縣尉、因著遠音筆癖適志、盛行於世。有李季孫者、注才命 論。言書燕公認。審理覧唐薯、率意紀文、大惑時人、一向紙纏。休符駁議。叢書集成初編本﹂ この書からの引用は訂正版でな された。魯迅はおそらく﹁龍二五髄剣﹄と﹁朝野愈載﹄の﹃四庫提要﹄の記述から氣附いたものと思われる。ただし一九二七年の﹃游仙窟﹄序言に はこの書に檬つたところは見えないから、それ以降の注意によるものであろう。籍貫を﹁深川陸渾﹂とするのは誤。 ﹃朝野A双書﹄六巻 費顔堂秘笈本。近刊﹁唐宋筆記史料叢刊﹂︵中華書局二九七九︶本は寳顔堂本を底本に校訂を加え、 逸文をも輯録している。 ﹃龍筋鳳髄判﹄四巻 湖海櫻叢書本、學津討原本、海山仙館叢書本等がある。 ﹃魯迅二尊目録﹄に﹃游仙窟﹄は著録せず、﹁書幅﹂にも記録はない。しかし許壽裳手抄の﹁日記﹂ 一九ご二年二月 十七日に﹁沈歩獣寄來﹃游仙窟鋤﹄ 一部台本﹂とあり、二六年二月一九日頃日記﹂に﹁下午矛塵霧雪去﹃游仙窟﹄二 本﹂とあり、さらに二七年七月九日の章夏島宛書簡に﹁該﹃游仙窟﹄如已空母、則書見當已無用、請便中帯來爲荷﹂ と言うのを見れば、魯迅は沈歩獣から借りた日本刻本二冊を抄寓したのだろう。また善本が手に入ればそのまま影印 すればよいと何度も章黒影に書いているから、かれの抄本は日本で最も普及した元三刊本の系統のものに量ったと考 えられる。この抄本は失われたらしく﹃魯迅手蹟目録﹄も著録しない。なお章廷謙︵川島︶校本﹃游仙窟﹄出版の過 程で魯温はひとから慶安刊本を借りて抄寓し、校訂のために章廷謙に贈っている。照影一葉が﹃文學遺産﹂︵充八一・三︶ に見える。章校本﹃游仙窟﹄は一九二八年北新書意から前掲の魯迅の序と周作人の﹁蛍石抄﹂と題する、幸田露伴 の﹃蝸牛庵夜課﹄による解説を附して出版された。同書はまた最近﹁魯迅作子践的著作選輯﹂︵亮八五︶の一冊として上 海書店から影印版が出された。この書の出版の経緯については章川島﹁記黒印﹃游仙窟﹂﹂︵﹁皇民文學﹄一九毛・八︶に詳
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しい。またそれに至れた魯迅の書簡にはすでにあげたものの他、次のものがある。墨譜〇七完、毛〇七〇七、二七〇七二八、毛=〇七、 二八〇三〇六、一天〇三層、二八〇三三、二八O五四、二八δ三、一一八一〇天、二九〇δ六、一冗〇三三、二九〇六二五。いずれも身重謙宛てである。 楊守敬﹃日本訪書志﹄巻八云、游仙窟一巻 此書中土著録家皆未墾及。首題寧州嚢樂縣尉立文成作。日本人皆以爲張驚、 印著朝野顛擁護。按唐書跡鷲︹傳︺附註薦傳、鴛字文成、登進士第、授岐王府参軍、調長安尉、遷鴻連繋。澄聖中、副 官早川以鷲及司馬錦爲御史。性藤下、億蕩真槍、牢爲正人所遇。又云、鷹属文下筆写成、浮心少理致。此書算積石山有紳 仙窟、水圏注積石山有孫引窟。文成奉使河南、於仙窟黒煙十娘、與之酬侶夜合。男女姓氏井同工眞記、而情事梢疏、以麟 麗之群窟狼褻帯状、眞所謂償蕩無検。文成浮鑑者、較之謂張君瑞身元微之所尊名、尤爲可信。其身不知誰作、其於地 理古注、皆以陣鐘道讃之、則導引人心。注中引首法言之読、斜塔及見切韻原本。又引平削鷺鳥詩、孫康阿品、揚子雲 秦王賦此當有誤。要証所未聞者。立引何鮎擬班艶話詩、亦葱氏詩紀所論載。他面稻夫蒙日蔭三、姓名皆奇、未詳爲何 人。此書日本別選刻本、分爲五巻。其注中有引稗雅一條、則後人所屡入、原本未有也。略文章生英房践。 森立華﹃経籍訪古志﹄巻五云、遊仙窟一巻 蕉抄本、昌冥鑑藏 巻首題遊仙窟山州裏樂繋馬張手成作。是認下樋注冷、鰭 骨内道在去京三百里西北也。毎墨守八行、行十五字、注隻行、末有文保三年文章生市営祓。この後に三三書院奮藏官本、尾 張眞輻寺藏文和二年抄本をあげる。右二種の書目は、章廷謙宛二六〇七〇九書簡で、これらがなくては﹃游仙窟﹄序言は書けないと言ったもの。 ヘ ヘ へ ﹁深州陸渾入﹂、鉛印本﹃大略﹄、初版から七版まで﹃笹書﹄に円い正しく﹁陸澤人﹂に作るが、訂正版では﹁渾﹂宇 へ に作る。これは、訂正版で誤ったというよりも、それに先立って一九二七年の﹁游仙窟序﹂が早引のように﹁渾﹂ 字に作るから、魯迅の意識ではそれに從って誤りを訂したということになる。新版全集注、また丁錫根﹁”中國小説 史略”受理拾零﹂︵復旦大學魯迅研究室編﹃紀念魯迅誕生一百周年論文集﹂・復増大學出版肚・死八一︶が指摘するが、
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七版以前の奮に復すべきである。訂正版まで莫休符からの引用交がなく、﹁則尚三年少時所爲﹂を﹁蓋郎鷲少時所 爲﹂に作ることはすでに述べた。﹁十十五艘﹂、鉛印本﹃大略﹂、初版から十一版、さらに三八年置全集、三十年集版 へ に至るまですべて﹁十娘五娘﹂に作る。五七年版全集に至ってはじめて訂された。だが、﹁小説的攣遷﹂でも﹁十娘 ヘ へ 五娘﹂とあるから魯迅はそう記憶していたのであろう。﹃游仙窟﹄原文に即せばむろん﹁十娘五媛﹂でなければなら ない。 6所引﹃游仙窟﹄ 七二+八 章川島﹁記重恩“游仙窟”﹂﹁人民文學﹄一九五七.八云、魯迅先生借給我聖運一部﹃游仙窟抄﹂、大抵就是講書本的翻刻 本、其中文字腕誰頗多、在本文中野騒盗難和文的旬法和字法。及至難手書黙、方知不全那慶容易。後略。 章廷謙の推測の通り、出題の抄本は元濠本︵の翻刻︶に嫁っている。そして﹃史略﹄の引用もその抄本に嫁ってい ヘ ヘ ヘ へ る。引用部分のうち﹁清音眺明﹂は慶安本同じく作るが、醍醐寺本及び劇道寺本は﹁清音叫眺﹂に作る。南抄本とも 音標記は﹁ケウテウ﹂だから、﹁叫眺﹂に作るべきである。慶安本ではそれが轄倒してなおかつ﹁叫﹂字が抄本﹁吋﹂ ヘ へ に近いので立刀に見誤り、﹁眺明﹂となったのであろう。﹁因謝日﹂は初版より三十前集版までが﹁因詠日﹂に作り、 五七年版全集で﹁謝﹂に改められた。しかしテキストとしては﹁謝﹂に改めた方がよいとしても、それならば全部に 手を入れるべきで、ここは元緑本にそう作るのだからよけいな改訂であろう。慶安本は﹁詠﹂に作るが、爾抄本は ヘ ヘ ヘ へ ﹁謝﹂に作る。﹁野選若胡越﹂これは章廷丁のいう﹁和文的句法﹂で前の句が﹁得意似鴛鴛﹂だから當然﹁乖情若色越﹂ へ とならなければならない。慶安本はむろん早福寺本さえ誤り、醍醐寺本のみ正しく作っている。章校本は﹁切髪﹂に 作る他は諸本によって﹁謝﹂﹁乖情﹂に訂してある。 ︵待績︶ ︶ 48 ︵