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カン ト倫理学研究 - 『遺徳形 而上学原論』を中心に-

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■弘前大学哲学会 ( 論文)

カン ト倫理学研究

‑ 『遺徳形 而上学原論』を中心に‑

王 罪

ここに二つ の物がある、それ は‑ 我 々がその物 を思念す る こと長 くかつ しば しばな る につれて、常にいや増す新たな感嘆 と畏敬の念 とを もって我 々の心 を余す ところな く充足 す る、すなわち私 の上なる星をち りばめた空 と私 の内なる道徳的法則である 。 1

第一章 は じめに

『実践理性批判』の結論部 に さ りげな く書かれ た この章句 に接 した とき、特 に、その道 徳法則‑ の感嘆 と畏敬 の念 を知 らされ た とき、少 なか らず衝撃 を受 けた。カルチ ャー ・ シ ョックとで も言 えよ うか。

道徳 とい う言葉その ものは、 もちろん中国古来の漢語であ り、今 日で も我々は 日常 よく 口にす る。 だが、必ず しもこれ程の重い意味 をこめて使 ってい るとはかぎ らない。 このち がいは どこか らくるのだろ うか。

我 々中国人の西洋文 化に村す る馴染みの薄 さが背景 にはあるのか もしれない。 とい うの も、大学教育 においては、一般的な西洋歴史は学ぶ ものの、特 に専攻で も しなければ、西 洋思想 ( マルクス主義 は別 として) については学ぶ機会 はないか らである。私個 人 に関 し て も、 日本語学科 に属 していた関係で 日本文化につ いては さまざまな分野 にわた りそれな りに修得 したが、西洋倫理 についてはほ とん ど教わ る ことはなかった。 カン トについて も、

名前程度 の知識 しかなかった。

本研究は、 こ うしたハンデ ィキャ ップを負いなが らも、あえて心 に受 けた この衝撃 を奇 貨 として、カ ン ト倫理学 にお ける道徳の概念 を解明 しよ うとす る企てである。

近世 ドイツの理性主義がカン ト思想の背景 にある.近世の ヨー ロッパでは、倫理思想の

特徴は理性 を尊重す ることである。 合理主義 は言 うまで もな く、経験論 と一部の感情 主義

も、ある程度 まで理性 を肯定 して尊 重す る。 これ は近 代の 自然科学が発展 した必然的な結

果であ り、 ヨー ロッパの啓蒙思想運動が中世の宗教神学 を否定 した必然的な結果で もある0

1 7 、1 8 世紀の啓蒙思想運動 は、人類の思想 の一大解放であった。その思想の重点 とはすな

わち理性 に対す る称賛 と高揚である。啓蒙運動の思想家たちは強 力に理性 が人類が宇宙 を

理解 して、 自身の条件 を改善す る重要な力であることと、理性 を備 える人が必ず知識、 自

由、幸福 を人生の三つ の大 きな 目標 と見なす ことを宣揚す る。彼 らは理性が神性 に取 って

代わ ることを鼓吹 して、個性の解放 と思想の 自由を追求す る歴史的な要求 を示 した。 こ う

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い う思想が進 んで きた歴史の流れの中で、合理主義 が直 ちに大陸倫理思想の主流 とな った。

例 えば、 フランス、 ドイツとオランダに、相次いでデカル ト、 ライプニ ッツとス ピノザを 代表 とす る大陸合理論が現れた。合理主義 がイギ リスの経験論者の感性主義 お よび さまざ まな非合理主義 とまった く違 って、人間性が理性 にある との主張 を堅持 して、 しか もここ か ら道徳の起源、 内容 と基準 を論証す る。カ ン トの時代 に合理主義 はすで に思弁哲学の魂 になったO合理主義がカン ト倫理学体系の中で最高峰 に達 した。

1 8 世紀 ドイツ合理主義 の啓蒙思想を背景 にして、カ ン トは ドイツ合理主義 を集大成 した 代表人物である。その批判理性主義 を哲学の基礎 として、純粋倫理学の分野 において も同 じくコペルニクス的革命 を起 こしたQ カン トは倫理学が人間の もつ理性 を出発点 としな け れ ばな らない と主張 し、理性的存在者が 目的その もの としての価値 ( 尊厳) をもつ ことを 肯定 し、道徳的行為の普遍必然性 の法則 を明 らか に示 した。 こ うい う根本的な立場 に立脚 しつつ、丹精 こめて厳密な道徳形 而上学の体系 を構成 した。

第二章 『道徳形而上学原論』に対する解析

善 と称せ られ る ところの ものはた くさんあるc Lか し、 これ らの善があ らゆる場合 にお いて善 とい うわ けではな く、至極 の悪 にもな り得 るOすなわ ち、それ らは単 に条件付 きの 善であって、それ 自体 として善である とは言 えない。それ らは善意志の使用 によって善 と な るのであ る。 「 我 々の住む世 界 においては も とよ り、お よそ この世 界の外 で も、無制限 に善 と見な され得 るものは、善意思 のほか にはまった く考えることがで きない 」2 とカ ン ト は考 えた。唯一の無条件的善 とされ る善意志は、一切の道徳的価値 の必要条件である。そ れ ばか りではな く、カン トは さらに一歩進 んで、善意志はそれ 自体 として善なのである と 指摘 した。すなわ ち、その もた らす結果の善 さや有効性 ゆえに善なのではない。善意志 こ そ、無条件的な内的価値 をもつ ものである。カ ン トによれ ば、普遍的な道徳的価値 は、神 か らで も、人間の 自然本性 と世俗的権威か らで もな く、人間の理性 そのものの善意志 に由 来 しな ければな らないO善意志は快楽、幸福 、功利のために善 となる道徳的善ではな く、

それ 自体 として善である とい う道徳的善である。

カン トによれば、我 々は善意志 を理解す るために義務 の概念 を考察 しなければな らない。

「 義務 の概念 は、或 る種 の主観的な制 限や障害 を蒙 りはす るものの、 しか し常 に最 高善の 概念 を含んでいる 」3 か らである。カン トは、善意 志 によって普遍必然性 をもつ道徳法則 に したが って行為す ることを義務 と呼ぶ。人々の行為 には さま ざまの動機 が含まれているか ら、 同 じ結果 をもた らした行為で も異なる動機 に基づ くのか もしれない。行為の道徳的価 値はその動機 によって評価 され るべ き とカ ン トは考 えるC これは一つ の行為が義務 に従 っ ている ( ausPf li c ht ) か、或いは義務 にかなっている ( Pf li c ht m a j 3 i g)かの議論の出発点 である。一つの行為が義務 に従 っていては じめて、つ ま りただ義務 を動機 とす る ときだけ、

道徳的価値 をもつ。カ ン トは義務の 日常の生活の中での役割 を三つの命題 にまとめる。義 務の命題 のほか、カ ン トはまた義務 の分類 を行ったOその基本的な分類が、 自己に対す る

‑ 2‑

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義務、他人 に対す る義務 、完全義務 と不完全な義務である。 カン トは義務 を、人間の理性 が 日常的な生活のなかで見出 し得 る原理である と考える。 しか し、 これ は義務が経験的概 念であることを意味す るのではない。義務 はア ・プ リオ リな理性的な観念である。ゆえに、

義務 は一切 の道徳的価値の源泉であ り、その根拠 をア ・プ リオ リに純粋理性 の概念 のなか に求めな けれ ばな らない。 この よ うに、義務の概念 は法則の概念 と緊密 に関係す る よ うに なる。

普遍的必然的な道徳法則 を導 出 しよ うとす るのが カン ト倫理学の著 しい特徴である。法 則が意 志を規定す る根拠である。道徳法則 は直接 には人間の行為を規定 し得ない。人間が 法則を表象す る ことによって行為の原理 を制定す る。 この原則が格律 ( Maxi me) と呼 ば れ る。格律 は行為の主観的原理であ り、必ず客観的原理 、すなわ ち実践法則 と区別 しな け れ ばな らない。 善い行為は、行 為の格律が道徳法則 に準拠 しな けれ ばな らない。

道徳法則 も自然法則 と同 じよ うに、その命題が論理的な形式 によって表現 され得 る。 こ の命題 は陳述式ではな く、命法 ( I mpe r at i v)である。 この よ うに命題 のなか に、必然性や 普遍性 を表す ことばが、 「 である ( Se上 n) 」ではな く、 「 すべ き ( Sol l e n) 」である。 さまざ まな命法のなかで、定言 ( kat egor i s c h)命法のみ実践的法則 と称 され得 る。定言命法 と対 立す るのは仮言 ( hypot he t i s c h)命法である。仮言命法 は行為の実践的必然性 を目的 に達 す る手段 と見なす。仮言命法 はすべて条件付 きである。それ に反 して、定言命法はいかな る条件 も持 たない。

定言命法 はア ・プ リオ リな必然的な命題である。それ は、いかなる傾 向性 ( Ne i gung) 、 感性的欲望、利 己心 による条件 も前提 とせず、すべての主観的動 因に権威のある理性的観 忠 ( た とえば、義務) によって行為 と意志 を結 びつ ける。定言命法 はまた総合的命題であ る。行為の意志 を分析的な方法 によって前提 されてい る意志 の中か ら導いて くることはで きないか らであるO要す るに、定言命法 はア ・プ リオ リな総合命題 として、その必然性が なん らかの前提や、経験 または概念 の分析 に基づかないのである。

カン トは さらに形式 、実質、全体 とい う三つの面か ら定言命法 を論述 し、それぞれの公 式 を規定す る。

意志 と実践理性 とは、別々の両者ではない。いわゆる意志を有す る とい うことは、法則 を表象 し、行為す る能 力を有す る ことである。すなわち、原理 にしたがって行 為す る能 力 の ことである。ただ理性的存在者のみがその よ うな能 力を持 ち得 る。法則 を実践 に移 し、

行 為を法則の 中か ら導いて くるため には、理性がな けれ ばな らない。 この よ うに意志がす なわち実践理性であるとい うこと証明 した。

善意志 と自由意志は純粋理性 が実践 を導 く上での必然的な産物である。善意志はすなわ

ち 自律の意志であって、 自由意志である。 また 自律の概念 と自由の概念 とは切 り離せない

関係 にある。 自然必然性 に規定 され る意志は他律的であるの に対 し、 自由な意志は 自律的

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である。意志の固有の性質 とはそれ 自体の 自律性である。 したがって、自由意志 と道徳法 則 に従 っている意志 とはまった く同 じものである。

ここでカン トは一種の循環論 に陥っている。つま り、一方では、我々は 自らの具備す る 実践理性の事実 として道徳法則の下 にあると自覚す るがゆえに、その前提 として我々の 自 由を想定 し ( 「 道徳法則は 自由の認識根拠である 」) 、他方では、我々が実際に自由である、

つ ま り、自然必然性 に左右 されない 自発性の能力を持つがゆえに、定言命法の正当性の根 拠が与 えられる ( 「自由は道徳法則の存在根拠である」) 、 とす るか らである。

この循環論 をほ どくためにカン トは道徳的精進の無限進行 ( u ne ndl i c hePr o gr e s s ) とい う要請論 を展開す る。つま り人間は、不断の道徳的実践 を積む ことによって道徳法則の完 全な実現、 自由の実在化に近づ くべ し、 とい う議論である。 この関連で霊魂の不死や神の 存在が要請 され る。本論文では、このよ うな要請論 に踏み込む まで には至 らなかった。

カン トは批判哲学 に立ちつつア ・プ リオ リな諸概念 を根拠 として、道徳論 を展開 した。

その思 弁的な論証は、時 には晦渋であるが、かつてない謹厳 さと熱心 さで、道徳の真の源 泉が意志の 自律 にあること、道徳性が格律の純粋性 にあること、そ して この よ うな道徳の 実行者たる ところに人間の尊厳があることを論 じた。そ してその最終的結論 は、道徳的精 進の無限進行 とい う要請であった。確かにこのよ うなア ・プ リオ リな道徳理論は高 く誓え ているがゆえに、実行は不可能であるか に見える。 しか し、人間の向上心、主体性 に期待 し、「 汝、なすべ きがゆえに、為 し能 う」 とはげま し、呼びか けてい る理想主義的倫理学 として評価できる と思われ る。

第三章 おわ りに

( ‑)道徳法則に対する尊敬

カン トは道徳法則 に対す る彼の尊敬 ( Ac ht ung) 4 の感情を、星繁 き天空 に対す る彼の感 情 と比較 している。カン トにとって尊敬の感情は独 自な ものである。それ は感官 に与え ら れ る対象 に対す るもので も、また我 々の 自然的傾向の満足 と結びついた もので もない。そ れ は、 「 意志が法則 によって直接 に規定 され るとい うこと、お よび意志が この よ うにして 規定 されている とい う意識 」5 である。尊敬は理性概念がみずか ら作 り出 した感情である。

それは結果であ り、原因ではない。尊敬 の感情 を規定す る原因は、純粋実践理性 にある。

それだか らこの感情は、感性的なものではな くて、実践的 に生ぜ しめ られた ものである。

「 道徳的法則に対す る尊敬は、知性的根拠 によって生 じるよ うな感情である。 この感情は、

我 々がまった くア ・プ リオ リに認識 し得 る と同時 に、またその必然性 を洞察 し得 る唯一の 感情なのである。 」6 ここで注意 を払わなければな らない ことがある。すなわち道徳法則 に 対す る尊敬が道徳性 を発生せ しめる動機ではな くて、 この感情が とりもなお さず道徳性の 主観的感情その ものなのである。道徳法則が我々の意志 に対 して拘束的であるとい うこと を認めるがゆえに我々は尊敬 を感ず るのである。

‑ 4 ‑

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「 意志の 自律 は、一切 の道徳法則 と、 これ らの法則 に相応す る義務 との唯 一の原理 で あ る。 」7

純粋実践理性 の根本法則 は、すなわち 「 君 の意志の格律が、いつで も同時 に普遍的立法 の原理 として妥 当す るよ うに行為せ よ 」8 である。純粋実践理性 においては、実践的規則が 無条件的である

純粋かつ実践的な理性が直接 に法則 を与える。意志は、純粋意志 として 法則の単な る形式だ けによって規定 されてい る。純粋実践理性 は本来立法的である。 した がって、 この法則 はいかなる純粋 直観 にも、いかな る経験的 直観 にももとづ かないア ・プ リオ リな総合的命題である。 これ は道徳法則の形式である。それ と密接 に関係す るのは、

自律の道徳法則 である。 「 意 志の 自律は、意 志の特性 であ り、意 志は この特性 によって 自 分 自身 に対 して法則 とな る。す る と自律の原理 は こ うである、‑ 『意欲が何か を選択す る場合 には、その選択 の格律が 当の意欲その もののなか に、同時 に普遍的法則 として含ま れ ている よ うな仕 方で しか選択 してはな らない。』 」9 この 自律 の原理 が道徳哲学 にお ける 唯一の原理である。 自律 の原理 は定言的命法であって、 この命法が命令す るのはま さにこ の 自律である。道徳法則 の本質 は、意志が経験 にかかわ らな く ( 消極的概念 の 自由)、格 律の単 なる立法形式だけを 自分の従 うべ き法則た らしめ る ( 純粋実践理性が 自己立法す る とい う積極的概念の 自由) とい うことにある。それだか ら道徳法則は無条件的で、道徳的 に純粋 であ り得 る。ゆ えに、 「 道徳法則が表現す るのは、純粋実践理性 の 自律す なわ ち 自 由にはかな らない。 この 自律 こそ、お よそ格律の形式的条件であ り、一切 の格律は この条 件の もとでのみ最 高の実践的法則 と一致 し得 るのである。 」 1 0

以上、 カン トは道徳の真の源泉が意志の 自律 にあること、道徳性が格律の純粋性 にある こと、そ して この よ うな道徳性 の実行者たる ところに人間の尊厳がある ことな どを論 じて きた。

( 二)カン ト倫理学の現代的意義

カン ト倫理学は よく内容 を欠いてい る、厳格 主義 だ と批判 され るが、その形式主義 と理 性主義 は依然 として意味 を持 っている。た しか に定言命法は空虚な形式ではあるが、それ を個々の状況 に即 して理念的 に適用 しよ うと考慮す るな らば、 一つの理想である と言って よいだ ろ う。 この形式 に基づ いては じめて、一歩進 んで形 而下の ものを議論す ることがで きるか らである。

近世以来、 日進月歩 に発展 して きた科学技術 によって、多 くの夢や欲望が叶 え られたが、

欲望は欲望 を再生産 し、歯 止めがな くなっているよ うに見える。 いまや人類 はますます心 の迷宮 に入 り込みつつ ある。真善美の価値がますます経済的で実用的な現実 の需要 に譲 ら れてい く一方である。 生命倫理 、医療倫理、環境倫理な どの応用倫理学が 人々の関心 を集 めてい る。カ ン トの倫理思想がすで に現代の倫理 問題 に適応 していない とい う声 も時 に聞 かれ る。だが、強烈な理想主義 の傾 向を持つカ ン トの道徳哲学は、人間性 を深 く見抜 き、

自由意志 を持つ人間が 「 な にを為すべ きか」か ら 「 なにを望 んで よいか」‑ の問い‑ と人

間を導 くOカ ン トの倫理思想はた しか に現実の問題 を直接的 には解決す ることがで きない

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か もしれない。 しか しそれが人間のあるべ き理想像 を示 してい る点で、迷宮か らの脱出口

‑ の道 しるべ とな るだろ う。

1 カン ト 『 実践理性批判』 ( 波多野精一訳)岩波文庫31 7 ペ ージ 2 カン ト 『 道徳形而 上学原論」 l J( 篠田英雄訳)岩波文庫 2 2 ‑‑ ジ 3 カン ト 『道徳形而 上学原論』 ( 篠田英雄訳)岩波文庫 3 0 ‑‑ジ

4 H J. ベ イ トンは 『 定言 命法』のなかで ドイツ語 「 Ac ht ung 」の訳語 について論 じ、 「 崇敬」

( r e ve r e nc e ) と訳 した。 ここではそれの区別をせず、岩波文庫版の訳本 に したがって 「 尊敬」

とす る。H. ∫ . ペイ トン 『 定言命法 カン ト倫理学研究』杉田聡訳、行路社、1 9 86

7 月。

5 カン ト 『 道徳形而上学原論』 ( 篠 田英雄訳)岩波文庫 4 0 ページ 6 カン ト 『 実践理性批判』 ( 波 多野精一訳)岩波文庫 1 5 5 ページ 7 カン ト 『 実践理性批判』 ( 波多野精一訳)岩波文庫 7 8 ペー ジ 8 カン ト 『実践理性批判』 ( 波多野精一訳)岩波文庫7 2ページ 9 カ ン ト 『道徳形而 上学原論』 ( 篠田英雄訳)岩波文革1 2 9 ペー ジ 1 0 カン ト 『 実践理性批判』 ( 波多野精一訳)岩波文庫 7 8 ペー ジ

(弘前大学大学院人文社会科学研究科)

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参照

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