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幸福の形而上学

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Academic year: 2021

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IO

幸幅の形而上学

Metaphysicg of Happiness

Sada皿ob服 Matsuba】[「a  Greek Eudemonism had two types: the ascetic one and the hedonic one.  The former developed from Heraclitus to S’toa through the Cynic Sqhool and believes it the happiest state of mind to elevate on’eself to Logos, the worthiest principle in the universe where people can enjoy themselves free and s atisfiedL But, on the other hand, they could not help feeling the vacuum of its connotation.  The latter developed from Democritus to Epicourus through the Cyrenian School, and tried to find happiness rich in its connotation with their mind’s eye open to rich and varied worthy thing and through enjoying the quiet taste in pieasures. But their efforts resulted in monotonous 1{edoism. It was Aristotle who, in synthesizirig and harmonizing. the two types, tried hard to search after such true happiness as is most worthy and ri:h in connotation.  The aim of this work is to find out the metaphysical principles of “Mo− deration”, helpfu]ly quoting trom the “Explanation of Aristotle” by Nicolai Hartmann. 齢     1・牽幅の形而上学と倫理的要講  FaustのMo血ologenを思い浮べよう。  「世界をその奥の奥で統べ治めているものは何か, そこで働いている一切のカー切の種子となるべきもの       (1) は何か,それが知り温い。」  Schopenhauerは斯かる欲求を形而上学的衝動と名 付けた。       ’ 今その「世界」と言う言葉を「四幅」に置き代える なら,邸ち「幸礪をその最内奥で統べ治めている核心 は何であるか」それを究明せんとするのが,我々の課 題である。  「入が意識に目覚めた最初の時から,その終りに至 るまで,最も熱心に追及して止まないものは実にただ 幸礪の感情である。人は勝手に幸福論を非難するがよ い,然し幸稲こそは実に万人共通の生活目標なのであ (3) る。」とHilthyは云う。  疑いなく確かな事は,過去のすべての時代に於て常 に幸福が倫理の中心問題であった事であるQギリシャ の古典的倫理学がそうであったし,Stoaの嚴粛主義 の如.きも’幸福を読いたのであり,キリスト教に於ても AugustinusやPascalは人聞はどこまでも幸輻を求        こ めると言う事実を根本として彼等の宗教論や倫理学を 出立したのである○「幸礪論を抹殺した倫理は一見如 何に論理的であるにしても,その内実は虚無主義に外    (の ならない。」  「人聞が生れて來たのは,幸福を享けるためではな く,義務を果たすためである。」と言うKantにして も道徳の純埣性を確立するために幸編を行爲の目的と してはならない事を説くのであって,かえって我々が        (4) 半幅に値する如くGIUckseligkeitwUrdig行爲せよと 常に教えているQ人は「分析論」のみを以ってKant を評すべきではない。「弁証論」に於ては幸幅の形而        (5) 上学に途を開いているのであるOK:antの否定せんと するのは幸幅を直ちに意志の規定根拠たらしめんとす る上編説であって,決して幸編そのものではない。幸 福を実現する事はそれが道徳法の普遍的形式に合致す る限り,義務の内容を構威するのである。普遍的形式 的な道徳法は自己を実現せんとする時は,必然的に特 殊な三幅と結び付くのである。「束の聞の生きる日に        が

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幸たらんとする努力を禁止する如き倫理的原理は考え られない」Winderbandとすれば,道徳的要求と心 情の要求とを共に満足させる様なより高き幸福の形而 上学酌原理を求める事こそ貫の倫理的要講でなけ’れば ならない。     2.EitdaimOniaの語義とその展開  一       e  幸爾とはEudaimoniaの語が示す如く,「恥きDa− imOnionと共に住いそれにふさわしき生活をす’る事」 を意味している。然るに1)aimonionは“δα【ω”「分 つ」に由試しオリンポスの“Fj;o’s”から区別され天上 から下って各人に分たれたる蓮命紳守護紳を意昧す る。  Daimonionはギリシャ哲学内部に於ては,超端的 払出聯的性格から漸次内面的理性的性格へと変化した       (6) 事がHeinzeによって論じられている。既にHesiodos に於て,それは人聞と群々との中間に在ってZeusの 命を奉じ人間を見守りつつその正・不正を判断し1富 と繁莱を與える紳とされていたQDaimOnionは人を 離れた超越瀞ではなく,入間の内に宿り,それに命ず る虚心柚であった。  然.るに憶説は入間を支配しはするが,岡時に蓮命を 開拓するのは佐敷闇である。

 Symposionに於てplatonは「Erosは大なるDa−

imoniOnである」と言い,入間からのものを榊へ, 淋からのものを人間へと,淋と人との聞の媒介者,そ れによって万物全体がそれ自身に統一される骸心と考 えられている。  更にそれは中近に於てはキリスト鳥総観に席をゆづ り,近世に於ては人聞性の限りなく増大する力として 或は社会構成の根元的な力とすら考えられるに到る。 それに鷹じて多彩な幸心論が展開されるのである。  西田哲学に到れば,それは「多と一との矛盾的自己 同一として,自分自身を限定する歴史的世界の形成 (7) 力」にまで高められているっ  斯かるDaimonionと共に住う「よき生」が幸福で あるならば,それは入間生活から離脱した所に存しな いと同時に,軍に日常性に埋渡された生活にも存しな いであろ5。それほ俗謡が自己の実存,自己の入間性 を掘り下げ,そこに見出される或る客観的,本1生的な ものに脚号しつつ;入生諸贋値を味嘱し創造ずる所に 在りと言えないであろうか。 3.ギリシャ幸鵡論の:=類型  我々は藏では「=L =マキヤ倫理学」。Nikomachische Ethik.”を焦点として7主と.してギリシャ,口・・一マ時 代に覗野を劃する事としよう。  幸福問題を倫理的に意図的に取り上げた最初の哲人  はHerakleitosとDe町ocritosとである。  大江宙が秩序と調和と法則によって成立する如く, 節度と調和のシンメ1・リーなしには人の世も亦建設さ れ得ない。「Eutimia」なる語は小宇宙としての各人の  中に在りながら,同時に大宇宙の法則でもある一つの Metrionに從う「喜悦」の生活であった。そこには 既に二日を樂しませるhedOneに対して,心を題しま  せるXara’が考えられていた。  その点では両者の帰結は同一であるに不拘,幸編状 態Gluckszustandに対する視点の相違が見落されは  ならない。  Herak]eitosは言う,「.入生の最高目標ぽ, Logos  との一r致による或る喜悦であって,この目標は結局た だ普遍的法則に直面する人にのみ達成され得るのであ  (g)  る」と。  LogOSを認識し得ないものは愚人にして,幸輪に値 しない。感覚的生活から離れてLogOSの眞諦を徹愉 しうる賢者にのみこの喜:悦の境は開かれるのである。 人生蔑視のこの「エフェソスの暗き人」は,反対と対 立の中に魚区する人生そのものを包越した「最高のロ ゴス」を一途に憧憬し,宇宙の最高贋値,を追及せん とする「高さ」の次元に幸幅を位置付けんとした。  これに対してDemokritosは言う,「人間の道徳的 El的は幸編帥ち正しく撰択された快感から生じる李均 した氣分にある」と叉「最高善は心情の持続的な安定 せる明朗さの中にある幸福であるD入間にとって最:も 善き事は,出痴るだけ多く:喜び,出來るだけ少く悲し     (g) む事である。」  斯かる言葉から伺える如く,「泣ける哲学者」に対 して,この「アブデラの笑える哲人」は微笑を以て入 生を達観.しそこに出れる入生議贋値の静かな味覚に幸 幅境を見出さんとした。  彼の言葉は粗野な利己主義的幸幅主義と混同されて はならないが,そこには高貴な快樂主義がただよって いる事が注目されねばならない。  『Herak!eitosが二幅を高さHbheの次元に求めた に対して,Demokritosは入生諸贋値の豊満さFtille .の中に求めたと言い得ないであろうか』  庇の「高さ」か「豊:かさ」かの各れに重点を置くか によって相対する二つの幸幅類型が成立するQ  両者の相互滲透の中に種々な幸福論が多彩に展開さ れるのである。  倫理学史によれば,この二つの契機はSokratesの 偉大な個性の中では融合されていた。

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12 滋 大 論 集

第  2 集

1 9 5 3.  所がその亜流キニソク涯と.キュレネー涯に於ては再 びその両極が彊調され,やがてStoa派EPikuros派 として組成されるのであるQ  Sokratesに於ては,反省的知性に媒介された実践 が徳の根元であり,その徳は同時に自足的幸稲に外な らなかった。  所がキニツク派のAntisthenesによれば,徳のみ が唯一の善であり,それ以外に幸福にとって必要なも のほ何もない。享樂を目的とする事は害悪であるQ徳 の本質は自由にして,最早や徳と並んで如何なる善も 存する余地はない。徳の高峯を極めんとする反面は極 端な禁欲となる。「自然に從う」とは藪では情念と一 切の自然的欲求を捨てる事に外ならなかった。  Stoaに至れば徳はLogosへ高められる。廓ち入聞 の幸島を形成するものはLogOSに於ける生活のみ。 所がそこで窮極的に意図されたものは,内心の自由で あり,日常性から超越し純埣に直観された魂の崇高さ に外ならなかった。  彼等は『崇高な:克己の徳の完成を以って試論と考え たのである』。  然し斯かるStoaの幸福観はその反面,入生の豊か さに心を閉ざし,それを素通りするものである。それ は現実に信ずる忘恩と言わねばならない。賢者の自足 はその実,生活の貧困化に外ならない。情緒や垢面に 無関心な心には入生の意味ほ理解されないであろう。  ただ外的財からの丙心の独立き以って幸編の本質と した事は正しいD蓋しキニック派の禁欲もStoaの自 足も,共に幸幅の高きへの誇張に外ならない。Hera・ kleitosからキニックを経てStoaへのこの流れは,. 唯一最高の贋値のみの実現を以って幸編と考えたので ある。         ×         ×  所がそれに対して,Epikurosの園に行げば入はそ こに刻み込まれた次の句を読むであろうD「客入よ, 止と処では心持よき滞在が出來るであろう。此処での至        (10) 上善は快樂である」と。  、  「面影の味覚」それが此の派の幸福の内実なのであ るQキュレネー一振の祀Aristipposによれば.「快樂は 唯一の善であり,最強の快が入生の目的であり」「最 強の快は肉体的現在的な快樂に外ならないQ」賢者と は「乏しい不都合な状態からさえも快樂を獲來り.享 樂に支配されるのではなく享樂を喜ぶ」生活を可能に する識見の所有者であるQ此の「識見」を喜びの根源 として決定的に表面におし出したのはTheodorosで あるQHegesiaSにとっては,「全生涯を苦痛なくす ごす事が最:高の快」とされる。Annikerisは再び積 極的,個別的な快樂の原理へ復帰した。友情感謝,愛 国,名誉への努力等は,それらが儀牲を要求ずるに不 拘彼はそこに同情的快樂を見出している。Epikuros に到ると,最早や最彊烈な快が目的ではなく,抑制. 智慧友情の如き純精榊的快樂が表面へ進出して來る。  斯くの如く,既の派の入々は何を快樂と考えるかに は相違がある。從ってそれに鷹じてそれぞれHegesi弓s の徒,Annikerisの徒, Theodorosの徒と言う特称       (11) で呼ばれるのが常であるD  然し幸幅に於ける原本的快樂が何であるかは異なる にしろ,豊かな積極的華墨が幸編の内実である事は彼 等に共通である。即ちあらゆる入生の豊かさに意識的 に参與し,一切の重なるものに対して感受的たらんと する態度,手近かな幸町を樂しみつつ種々多檬な人生 諸贋値を観賞すると言う,『豊かなる情操』が,かの Demokritosに発し,キユレネ派を経て, Epikuros に傳わる此の派の幸幅理想なのであるD

 斯くてStoaとEpikurosは,それぞれApatheia

Ataraxia と言う哲学的実存の生活態度は極めて類似 しているにも不拘,Stoaは禁欲と克巳を通してかの Logosと呼ばれる最高の贋値のみを志向し, Epikurog は多くの贋値に対して心術を開き,豊かなる快適を味 覚すると言う,二=二つの異質的幸輻類型を見出すのであ る。  然し藏に言う「高さ」「豊かさ」は,実は翫に明ら かな如く,高き贋値,豊かなる贋値の味:覚に露ならな い。勘案とは何等かの意味に於いて贋値関南,贋値味 覚に的ならないのである。  幸爾の問題が実は点画の問題に還:元されるとすれば 幸編の形而上学は,贋値形而上学との相関の上に吟味 考察されねばならない。  所が倫理学に於ては歩出に関して,当爲の問題の外 に,一般に入生に於て便値あるものは何かと言う一一一ma 幸い問題領域が存する。  恵贈の置界が「幸編の神秘」を取り囲んでいる。そ してそれは全体として幸幅の内実でもある。我々にと って重要な事は幸福主義を軍に弁護叉は反駁する事で はなくして,その正当なる核心を,それに於ける便値 思想を摘出し,その形而上学的性格を解明する事であ る。 4.Aristotelesの圭薩講  その檬な観点からAristotelesの幸編論を取上げよ う。彼は幸幅を「我々の達成すべき最高善にして究極       (IL7) 的自足的なもの」として,最高懐値の実現として考え ている。

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 然し彼は「帥自的に善なる何等か別なものが存在し それが多くの善をして善ならしめるその原因である」 とするかのplaton涯の超越論には反対して,「すべ ての善から独立した軍一なる善そのもの,それがもし ありとして.も,入間により行い得る善でもなければ獲         (13) 得しうる善でもない」と言い,最高善としての幸輻を ある孤立的超越的存在と考える事に極力反対してい るDそして我々の行止の目的としての善には「從属関 係」があり, 「最高善」としての幸幅はその目的連関 の究極に予想されるものである。印最高善は,その低 きより高きに從って諸善諸二値の段階的,累層的,依 存関係の上に位置付けられている,

例淑「それなくして關的系列1漁鴨証す

る事となり,一切の高値追及が無意味となる」と言わ れる時,その究極目的としての幸輻は,低次の諸善諸 便値に担われ基礎付けられて始めて具現されるものな る事を意味しているQ  たとえば貧しくしては「豪壮」である事は出詮ないQ デロスの祭に.艦を献じ,アテナイの使節團を邊るに 「ふさわしき大規模なる個入戸清費」としてのこの徳 は,それを担持する財貨に基付かざるを得ないのであ る。  『高き徳は豊かな質料の上に築かれなければならな いのである』  更にまた彼は言う。「幸幅な生活と言うものぽ快的 でなくてはならないのであって,快樂を幸幅の中に編 み込むのは至当である。」  「善き入でさえあるならば,枷をはめられていても, 諸々の悲蓮に陥っても幸幅だと主張する入は,その好         むと好まざるに不拘,無意味な事を言っているに過ぎ  (15) ない」とQ  これらの言葉から伺われる如く,AristoteleSの二 幅は外物や快樂や蓮命の排除儀牲に於てのみ追及され 得る或る超越的なものではなくして,外的善,身体的 善,精面的善と称されるすべての善がその内実として 包擾され,各々その所を與えられている。滋では決し て内包の豊かさが忘れられてはいないのである。  それはかのAntisthenesの如く唯一の徳のみが偏頗 な向上を毬げる塞虚な幸福論ではなく,叉Aristippos の如く,豊かさの故に高さを第二次的なものと考える 快樂至上主義でもない。我々はAristotelesに於て, かのギリシャ幸区論の二類型, 「高さ」と「豊かさ」 とがそこに綜合調和されているのを見出すのである。 5.節制の弁証法とその幸幅論的意義 然らばその綜合調和は如何なる内的講造をなしてい るか,その秩序及び関連の三二は何であるか。その考 察が我々の中心課題なのである。  『節制』σ卿ρ6σ面ηの徳を取り上げよう。これは, Aristoletesの挙.げている諸徳の中特に快樂に関する 徳とされている。我々はこの徳の内的構成を分析する 事によって,幸幅の形而上学的原理たる,高さ豊かさ の綜合の様態を解明せんとするものである。  勿論Aristoteles自身は節制を鯵1て,それが直ちに 幸編の形而上学的核心点であると言明している箇所は ない○然し彼は一般に倫理的徳は快樂と苦痛とにかか わり,幸島と二二とは不可離の関係にある事を次の様 に述べているQ  「快樂程我々の本性に深く根を下しているものは外 にはないのであって,快樂はその及ぶ所が我々の全生 涯にわたり,それは徳に対しまた幸高なる生活に対し       (16) て強力に影響を及ぼすものである」と。印ち快樂に関 する節制の徳は総じて彼の全倫理学の焦点を形成して いる。わけても幸福との内的関・連が最も重氏ざれてい るのはこの徳なのである。  「あらゆる快樂を享受し,如何なる快樂をも愼まな        ロ い人は放縦だと言う事になり,反対にあらゆる快樂を        避けるならば,一まるで田舎老の檬に言はば無感覚な入        (17> だと言う事になる。」  その中庸を発見し七,それを選ぶ心的習性が「節制 の徳」なのである。而してその中庸とは快気に関する 「過超」と「不足」と言う二つの「悪徳の中聞」であ ると言われている。  然しながら斯く=二つの相対する反山鼠的悪徳を両極 とする中間に徳が形成されると言う,一見奇異なこの 論理は如何に解さるべきであろうか。  我々はNicholai Hartmannの温感論を援用しつ       (18) つ此の問題を究明する事としよう。  尤も我々は以下aristotelesを読明するのでもHa・ rtmannを紹介するものでもない。  先ず贋贋論的に言って,「放縦」と言う電話値に対 (図,1)  Artstote]e− s   M’    節劇  Stel 牌なる魏ノ〆    1一…一…一冒’アー一…1    1       ’      0    9      ,    ニ      ほ    コ           }  /    1    コ       ノ      ロ    1 /    ;    コ     ノ      コ

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滋大 論 集

第  2 集

1 9 5 3 立するものは「克已」であるし, 「無感覚」に対立す る慣値としては「豊かなる情操〕が考えられる。  今仮りに「高潔なる克己」と「豊かなる情操」と言 う積極的な贋値をそれぞれA,B,としよう。 そして それに対立する活躍値たる「放縦」と「無感覚」を 一A,一一B,とし,それ等四点を六本の点線で結び付け た図形を画いてみようG(図.1)  便値論的に二律背反の関係にある反便値一A,一B, に対立するものは,それぞれA,Bと言う二つの積 極的贋値である筈だが,実際はAristotelesでは「節 制」と言う唯一つの徳しかあげられていない。然りと すれぼ一つの徳の中には,二つの反便値一A,一B, にそれぞれ対鷹する二つの贋値が含まれている事とな る。崩ち一つの徳の背後にはA,B.と言う二つの積         コ    極急便値対立が『綜含』されていると考えられざるを 得ないのである。  斯く考える時Aristotelesの徳は軍なる中道ではな く,寧ろ『贋値綜合』である。中庸の徳は実は二つの 質料的に反対な便値要素を内的有機的に綜合したもの なのである。  此の関係を図表で表わせば,一A,一Bを基点とし

てABの中点Mを頂点として画かれた拗物線で示

す事が出駆る。  節制の座Mは弔板な中立道徳ではなく,贋値綜合 として遙かに深い意味を早している。  常に反対の事が同時に要求されるのが入生の姿であ るQ二つの要求の一つだけ満足させても足りないQ同 一行脚に於ける慣値綜合のみが眞に徳の名に値する。 この事はAristotelesの掌れの徳目をとっても容易に 証明される。  「西畑」とは軍なる勇敢でもなく,叉冷静な用心だ けでもない。臆病者の用心も,無鉄砲者の勇敢も便値 はない。両者の綜合のみが「勇足」の名に値する。同 年に情熱なき人の節制も,自制心なき入の情熱も徳と は言えない。  『節制は豊かな感情生活をしている入の自制なので あるQ』 それ故,中庸は同時に対立する積極的弾弓の 「高次の綜合」でなければならないQ  Aristoteles自身をして言わしむれば, r徳とはその 本性とか究極本質を表わす定義とかに印しては中庸で あるに反し,最善性とかよさに即してはかえって頂極          (1の atiBerstes Endeである。」Harしmannの表現を借れ ば,「徳は存在規定からは中間であるが,下値の上から は頂点であるoontologish ein Mittlere3, axiologish       (RO) ist ein Hohepunkt.」  今存在論の次元を水平に,価値論の次元を垂直の方 向に仮定しよう。そうすれば綜合便値としての節制M は最早やAB線上の中点でもなく,贋値論的にはそ れを更に垂直の方向に超越した一点M’と考えられ る。尤もHartmannはその点にはさ・れていない。  蓋し綜合便値M’はその質料となるA.Bよりも一 利高次の贋値性格を獲得する.と言うのが贋値の弁証法 だからである。      ’  次に図形に於ける「対角線」の方向に眼を韓じよう。 そこでは対立関係は鋒先を鈍らされて質料的にはかえ って緊密に関連をもつ贋値関係が示.されている。

 先ず対角線A−Bを取り上げよう。そこでは節制

に対して,無感覚一Bから高潔なる克己Aに通じ

る一蓮の言はば同質の翠煙性格が示される。而してこ の裏罫性格こ.そ,かのキニツク派に於て最も大胆に表 明され,Stoaに到って純化された生活理想であり, 我々がギリシャに於ける幸稲の一つの類型と考えたも のに外ならないQHerakleitos.以來のApatheiaの中 には禁欲を通し.て最高贋値に接触せんとするかの幸福 が宿されているのであるQ  又他の対角線B−Aをみよう。これはキユレネ派の 三編の典型であり,情緒の世界にも積極的中値のある 事を洞察したのは彼等であったOEpikurosによって 洗錬されたAtaraxiaの中には放縦に対する実存的反 省が宿されている。我々はDe皿okritos以來の第二の 車幅類型が滋に現われているのをみるQ  然りとすればAristotelesの「節制」の中にはかの         二つの幸編類型が『止揚』されていると言えないだろ うか。今や高さ豊かさは実は二つの幸幅類型ではなく それらは翼の幸幅の原理を構成する:二つのMo皿ent に外ならないのである。  入は「節制」と言5言葉にほ禁欲的ひびきが強すぎ ると言うかも知れないD然し節制を直ちにRigorism と考えるのは近代人の偏見である○実はかえって「徳、 に即しての阻害されざる活動こそ自らの中に快樂を含 んでいる。」「快樂はその活動に購い,またあらゆる活       く.:1) 動を究極的に完全ならしめるのも怯:樂である。」  斯く「節剖」を通してはじめて『快樂の建設的意昧』 があらわれるのである。節制の積極的意義は,情緒生 活そのものの調和的発展とその保証とである。この保 証も調和も情緒そのものからは生じない。一切の感情 生活に形態を賦嚇しFormgebung続一的視点からそ れを統括するものは実に節制の徳なのであるQ 6.牽鵡の全体的構造とその三唱調和 次に節制の徳を以ってAristotelesの幸福論の中腎 と考える我々の立場から,彼の『幸編の全体構造』を

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 見直してみよう。そこには如何なる秩序と調和が構想  されているであろうか。   中庸を得た節制の徳に自岡』る活動によってあらゆる  快禦.よ各々その意義と胃壁が再軽愚される。昧覚,触 .覚の如き部分的難題さへもそれらが放縦に流れ易き事  が反省されるなら,かへってそれらを質料として全体       ソプロシユネ  的永続的な高…欠の悦樂が組成される。「節制」はそ         プロネシス  ソゼイン      (22)  の語義上からは「思慮を保全するもの」である。そこ  には「幸福の智慧」が宿されている。        の   此の智慧は亦一切諸徳の中庸を認識せしめる,「知」  Sophiaに通ずる。 Sophiaこそは「人間の内にある       (34)  最高の部分」「彼の内にある瀞的なもの」と称される  理性の叡智に外ならないQ   知的徳は一切の徳を総括する。純梓知に軽しての活  .動こそ究極的至輻としてのTheoriaに外ならない。  図表に於けるM’点は正にこの「観想生活」に境を接       こル  するものと考えられる。Teoriaは語i麹勺}こは「観」  であり,実質的意義に鞭ても事物のありのままの姿,  殊にその美しい幸福の調和に我を忘れて見入ると言う  寂艀たる含蓄を失おない。   此のTheoriaの頂極に立って,一切の三値界の高  さと豊かさを節制の原理に帥憲して綜合する所に,最  も美しく快適にして安定持続する自足的三幅が味享さ  れるのである。羽車であれ,有用であれ,又はその他  の精神的諸活動であれ,一切の有贋値的なるものはこ  の体系の中に調和的に包囁されるのである。   rそこでは高き聖断は豊かなる諸贋値に支えられ担  われtragen,また野里値の豊満はより高き早早に基礎  付けられ意義付け.beg撒nd即られている。 Theoriaの  境から下観された時,全力値領域はその高低位層,相互  依存の節度ある調和的全体構鎧を露呈するであろう。』          ×.       ×   次に我々はかの幸幅状態の均斉調和の内的動性に眼  を韓じよ5。   華甲の外的均斉は実は微妙な動揺をその内に胎んで  いる。 「準準の領域ではそれぞれの事を軍に観照する  事よりもむしろ行う事が究極目的である。それ一徳に  関しても軍に知るだけでは充分ではない」それに錦し.  て活動する事が必要である。然るに我々は「入聞であ  る以上我々の本性は純梓観想の目的のために自足的で  はなく,外的諸條件を必要とする」のである。然かの  みならず「行爲的領域に属する事柄の眞否の到断はや  はり諸々の実際とか我々の生活とかに基かなくてはな  らない。何故ならこれらの内に薦否に関する決定的な        (L)ひ)  ものが存しているからである。」斯く言うAristoteles  は決して実在環境から抽出されたatQmとしての個人 の幸福を考えているのではなく, 「多数の人々と生を 共にしている」紳ならぬ入間の行爲に尽した幸編が問 題なのである。  その檬な鏡位に於ける具体的行爲は如何になさるべ きか。節制の徳を行爲の準則とするとしても,個々の 現実一位に処して如何に幸福に値する如く行爲すべき かは然かく軍純自明とは言えないであろ5。  より高き贋判への目的活動とは言っても,必ずしも 歌勢がそれを明確に告げるわけではない。あらゆる場 合に贋値綜合が可能とも考えられない。同時に同じ高 さの贋値が豊かに並列し,而かもその一つを選ぶ事が        へ他の贋値を犠牲にせざるを得ない如き局面は人生到る 所にあのと言わねばならない。  「思慮の保全」としての節制の智慧も,充全とは言 えないだろうQ入間にとっては藏に『知的三幅論の限 界』がある。       ノ  然しそこに於てこそEu・Daimoniaの即実の意義が 現れるのではなかろうかG  斯る境に於てSokratesはDaimonionの声に聞き Goetheも 「demonishなるものは矛盾に於てのみ現 れる」事をエッケルマンに語っている。Daimonionは 西田哲学に於ては甑に指摘した如く「歴史的世界に於 ける最大なる形威作用」にまで高揚され,Hartmann に於ては,一種の「倫理的予覚」ethishe Divination        . . . .(26) と解され,内実の定かならざる「生きた平野感覚」と して読明されている。  Daimonion に導かれつつ,だが一切を自己の責任 に於て決意し行質しなければならない所に入生の危機 性.と嚴男性がある。不安と動揺と胃瞼は冤れ得ない。 よきDaimonionに從5行爲とは,軍に他律的な偶然 の好蓮に身をまかす事ではなく,かえってぞこには高 い「決意性の自由」の体験が宿されている(幸幅は與 えられるものではなく,下から築かるべきものなので, ある。  現実の贋値葛藤WertkonHiktの巾}こ於て,その一 つを選び他を野田にせざるを得ない時,入は藏に罪な        きを得ないのである。入聞的『苦悩』がそこに始まる。  蓋し苦悩は幸幅の反対概念ではなかろうかQ『幸福 論に於ける苦脳の形而上学的意嚢』それはギリシャに 於ては未だ認められてはいなかった。そこでは苦悩は 箪に「災厄」と考えられ,Stoaに於ても苦閻は軍に一 つの一語に過ぎない。何故なら, 「過ぎ去った苦悩は 最早や存在しないし,現在の苦悩はとらえ難いし,未 來の苦悩は未だ存在しない」からだQEpikurosに於 ても生の災厄をさける爲には,かえって死ζそ望まし きものであった。

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.滋大論集

第  2 集

1 9 5 3  勿論悩みに堪え得ないもの,叉あまりにも大きな悩 みは反便値であるが,自己活動では対抗出來なくなっ た時i悩みが始まる。それはr蓮命の積極的重荷に対す る積極的にして肯定的な態度』である。中世に到って 始めて,苦悩には入を向上せしめる力のある事が認め        コ       られた。 「入生のこの非合理性が宗教的幸幅に出発点    (t17) を與えた。」 Euckenはその檬に述べている。ニッサ のグレゴリオの言葉として「苦悩そのものの中に善は        ●顯現する」と傳えられ,ヅェートーヴェソも「苦悩を 通して歓喜へ」DUrch Leiden nach Freude!と彼の ノートに書き残しているQSimmelは「日記抄」の申 で,「多くの人々は苦悩に依って初めて入生の嚴粛で ある事を知るQこの個入.的な印象を除いては入生はそ       (?8) の嚴粛を彼等に示す事が出來ない」と語っている。  苦悩は道徳力の試錬としてその力を解放し覚醒す るQ苦悩に於て入生が向上すると同時に幸編能力.もま た高まるのだ。道徳的試錬を経た入には,小さな恐れ や心配はないQ斯かる入は最早や隠蟹を求めないかも 知れないQ然しそれを求めない所にかえって與えられ るのが『幸幅の肺脳』なのである。早耳は苦悩によつ        てかえってその『深さ』と奥行を増すものであるQそ れは人をして明敏なる贋章章を拡張さす所の一・つの積 極的贋値でもある。  Goetheはタッソーの中で次の檬に述べている。「事 歴は世にあるものだ,然し我々はそれを知らない,知 ってはいてもそれを奪ぶ事を知らない」「人生の辛労        (:)f}) に教えられなければ入生の宝の値打は解らない」と。 幸幅を愈ぶ心術は入生の葛藤iを経た入.にのみ開かれる のではなかろうか。r深い準々』は必ずしも悩みを排 さない。恐らく悩みの要素なしには成立しないであろ う。 節制 道徳的価値 精神的価値 生命的価値 感覚的価値 悩 高 豊 f  斯く考える時,幸幅の様態は最:早や,高さ豊かさの みではなく「深さ」をもった三角錐として構想され, 今や第三の陵線として「苦悩」の一線が引かれねぼな らない○(図.皿)  アソドレー,モロアによれば, 「最も美しい恋愛で も,もし人がそれを短かい瞬間に分析するとすれば, 常に忠実さによって救われている無数の些細な軋礫か ら出來ている様に,それと同じく幸福も亦,もし入が それを最後の要素にまで分析するならば,闘争と苦痛 とからそれは成立っているのである。然しそれは常に        (30) 希望によって救われるのである。」 と。         り  の     『幸福の動的調和』とはその様に構成されているの かも知れない。然し苦悩をも回道の要素の中に取入れ たかだか希望によってのみ保全されるにすぎないもの .とすれば,それは最:早や幸幅の名に値しないと言われ るかも知れない。   「よろこび」“Die Freude”と名付けられるGo− ethe の小町は実に徹底的にこの考えをあらわしてい るっ郎ち彼は美しい一匹の水蜻蛉の色に驚嘆するQ近 付いてみようと思う。追かけて捕えてみる。だが手に してみるとそれは情けない暗青色でしがなかった。そ こで彼は言う。「お前にとってもその通りだ,自分の 喜びを分析するものよ」と。過度の分析に.よって美的 享受は打ち壌わされ,謂わば幻影が消え失せるのであ る。それのみではなく全く屓実の対象の形象も消失し        (:31) てしまうのである。Simmelは“Kant und Goethe ” をその様な言葉で結んでいるQ  事実幸編を実在物か何かの様に追及し分析する入の 手からは常にそれは逃れ当る。かえって贋値の障界に 眼を輻じ,それを追及しそれを味冠しそれを現実に蝶 介するものにこそ幸幅は與えられるのである。 7. 鍾繭蔓と道そ恵の相関・陛  幸編は実は贋値邉及の中にありとすれば,その意昧 に於て,幸幅と道徳とは密接に関連するものである。 Boethiusは 「警め実体と幅祉の実体とは一つにして 同一である」 と言い, Hilthy も「倫理的世界秩序        (32) sittliche Weltordnungに対する確信と信仰」を興野 の第一條件とし,自己の仕事を通して地上に於ける倫 理的世界秩序の実現を幸福の最大要素としている。眞 正な倫理的贋値への一一切の努力はそれ自身幸幅を俘う ものであるQ  然し挾義の道徳的贋値のみが唯一つの便値領域では ないのであって,ただ道徳的三値は入生に極めて密接 にして最も豊かな内容を声望に提供すると言うにすぎ ない。実は自然的所與の中にも多くの便値が藏されて

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いる事が忘れられてはならない。幸編の関與するのは 実はそれらすべての全贋値領域なのである。  それ故道徳意識の未分化な時代にあっては「善」を  「三編」の形で表象したに過ぎないoHartmanの表 現を借りれば,「古代にあっては歴覧は贋値領域の普      ノ遍的形式としての倫理的Kategorieの役割を果した」 のであるQ  然らば「藩命の概念」は「善の概念」の中に,從っ て幸福は道徳の中に全く解消し盤され,それ自身如何 なる特性もなきものなのであろうか。   「最善なる者は最幸幅なる老なり」とのStoaの命        題は,「幸編資格ある者こそ,道徳的善者め本質であ る」との意味に於てなら我々にも異論はない。然し幸 稲なる人必ずしも善人とは云えないであろう。最善者 と至編者との完全なる一致如何は,最:早や倫理掌の論 題ではなくして,Kantに於けるが如ぐそれは『宗教 の課題』なのである。  ただ我々の言い得る事は,この要請の中に「幸福」       の がそれ自身独立の一つの『固有贋値』である事の承認 が見出されると言う事である。  然らば幸幅固有の始値i生格とは如何なるものであろ うか。上來の考察からすれば,それは本來的贋値追及 の『随伴的感情贋値』BegleitendegefUhlswert.と言 う事が出來よう。而かもそれは非常に普遍的性格をも つている。  その上, Aristotelesも言う様,こ.遥々は何等かの 意来に棄て快樂警急に関係する事も否定出來ない。蓋 し一・般に娩樂とは便値}朱覚であるとすれば,童心の世 界が多元多様である如く悦樂の世界も亦質的に多元多 様と言わねばならない。  幸幅の概念の中にはそれ等すべての1党樂の全領域を ’包む一つの全体的関係が潜んでおり,高低多元の贋値 昧覚をして互に調和せしめる一層高.次の統一原理のあ る事を確信せざるを得ない。咄來るだけ多様な贋値 塩酸wertgeniessenの高次の統一調和の原理,』そ れを以て我々は幸幅の形而上学的原理と考えるのであ る。「幸編論」と名付けられるものは,実はその統一 調和を獲得し保持していく手段,方法,心的態度を取 り扱うものなのである○  既に我々はAristoteresに於ける「節1囹」の徳を以 てその様な綜合調和の原理と考えたのである。新値論         的弁証法の立’場からみて,綜合償値としての幸福便値 は,その素材となる個々の便値よりも一陣高くまた新 しい独自な性格をもつものである。然し悦樂の要素は その綜合の中に依然質料として保持されている。その 意凍に於て幸福は便値味覚としての陀樂に依存する。 それなしには幸幅は室虚な概念となるQ然し幸楓まそ れによって一方的に制約されるものではない。かえっ て二幅の形相Formの中に質料Materieとしてその 所を得せしめられるのであるQ  眞の意味であ『幸編な人』とは,Aristotelesも言う 如く,「知慮」ある人にして,「如何なる蓮命をも見 事にたえしのび,與えられたものを基礎として常に美       (33) しく行力しうる」如き入なのである。EPちその與えら れた質料が如何に僅少であっても,爾且つそこから幸 輻を作り出し得る入こそ,員に幸幅の名に値する人な のであるOSinnmelの表現に從えば,「明日新しい幸 幅を作り出す事の出來る人のみが明日も亦今日と同じ          (r,1) 亭亭を持つ事の出判る」人なのである。  AristoteleSによれば,その檬な「幸幅な入は如何な る場合にも決して悲惨な境遇には落ち得ない入であ り」「ブリアモスの如き蓮命に隔った場合には少くと も至福な入Vollkommene GIUckseligeとぱ言い得な (4」) い」だけの事である。  眞に幸幅な人ほ決して「韓変的」ではない。たとえ 不幸を受けても短時日の間に再び幸福を作り出し得る 入である。  何となれば彼ほ常に「節制」の徳に罪して活動する 事の出塁る入だからである。

  , (p.cs)

 その意味では「幸幅は入格である」とさへ言える。 幸幅の境地は世の常の好蓮に甘やかされた氣樂さでは ない筈だ。Simmelも言5如く, 「幸編とは高い精琳 力が低い精肺力によって煩される事のない境地であり

嫌とは低い精畔編い瀞力によって煩され媒

のない.境地である。」Sokratesの「足るを知る心」の 中には内的自足と自由に対する高貴なギリシャ的衿持 が宿されていた。  我々はかの『節制の弁証法』の中にその様な幸編の 形而上学的原理が暗示されているのを見るのである。 言主 (1) Goethe. Faust. 385     ,,Dass ich erkenne, was die welt     Im lnnersten zusammenhalt.“ (2) Karl Hilthy: Gluck. erstel Teil S. 179 (3) 三木清:人生論ノー・1・,創元社版,S・17 (4) たとえばKant:Di6 Religion innerhalb der   Grenzen der blotsen Vernunft.

  von K. Vorlander S. 50 ,

(5 ) Kant: Kritik der praktishen VernunfL ph. .   B.S. 143 [224] (6) Max Heinze: Der Eudaimonismus jn der   griechischen philosophie. S. 658    彼によればDaimonは凡そ次の如く分類さ   れる。

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滋大 論 集

第 ・2 集 1 g 5 3     1)神ではあるが,特に入間の逮命に関係を       もつ。     2)神と入との中問的存在として,入間を保       護又は処罰する0     3) 入間の精神,特にその理性的部分、     4)特定の.入格を離れた運命,宿命を意味す       る0    1).2).4).3).の順に史的に展開する。第3)は    platonの用法であη,特に我々の注目に値する。     倫これについては次の二書にも興味ある叙述    がある。     J. Burnet: The Ethics of Aristoteles.       Bk. 1. lntroductory Note S. 1,       5,     M. Wundt: Geschichte der griechische       Ethik. 1. S. 389 ff. (7) 西田幾太.郎全集X.126頁 「ポイェシスとプ    ラクシス」 (8) Diels:Vorsokratiker Fragment. 12. A. 21 (9) Die)s: Demokrit. Frag. 189     H. Gomperz:Die Lebensanschavung der    Griechischen Philosophen. S. 66N83 (10) Seneca: Epistolae Morales. von otto    He皿se. 21. (11) Diog La6rt. 2, 86    F. Uberweg: Grundriss der Geschichte der    Philo:ophie.による。 (12) Aristoteles:Ethica Nicomacheaの Text    はBibliothek版von Eugen Rolfesを.用い    た。訳丈は高田三郎教授に従う所が多かった。    S. 4. 1094a (13) Lbid. S.8 1097 a (14) Lbid. S.2 le93 a (15) Lbid. S, 157 1153 b (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) Lbid. S.209 1172 a Lbid. S. 25 1104 a N. }lartmann: Ethik. 2 Aufl. S. 399  K. 48 Aristotelesche Tugenden. Aristoteles: E N. S. 32 1107 a N. Haltmann:E. S 401 Aristoteles:E. N. S. 217 1175 b Lbid. S. 121 1140 b Lbid. S. 224 1178 a N. Hartmann:E. S. 500 K. 60 Schichit一    ungsverhtiltnis und Fundi・erungsverhartnis.     fi, M. Scheler:Formalismus. S. 84 H6h    ere und niedrige Werteによれば,価値の高    低秩序.は大略次の様に考えら.れている。     1) 人格的  2) 粘神的  3) 生命的     4) 感覚的 (25) Aristoteles: N. E. S. 227 1179 a (26) N.Hartma皿:E. S.391 (27) R. Eucken : Einfuhrung in eine philosophie    des Geistesleben. :K、5 参照 (28) G. Simmel:Fragmente und Aufsa’tze. S.    14 ︶︶

00

29U

︵︵

(31) (32) (33) (34) (35) (36) (37)  Goethe:Tasso. 1915  Andrre Maurois : Sentiments et Contumes.    岩波新書版,河盛好蔵訳 205頁  G. Simmel: Kant und Goethe. S. 70  K. Hilthy: Gluck. S. 197  Aristoteles: N. F. S. 18 ilOl a  G. Simmel: Tagebuch. S. 34  Aristoteles: N. E. S. 18 1101 a  B. Bauch: Glttckseligkeit und Pers6nlich− keit. SL 69 ,,H6chstes GIUck der Erdenkinder Sei nur die Pers6nlichkeit.“ 一Goethe−  G. Simmel:Tagebuch. S. 34 ず ダ 夢

参照

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