• 検索結果がありません。

悪と一神論的形而上学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "悪と一神論的形而上学"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Ⅰ.悪の定義  古来「悪の定義」は一様ではない。古代インドのバラモン教の経典『バガヴァッド=ギー ター』では、「多数の現存、具体的で、個体的で、肉体的な現存それ自体」が、すなわち「個 体的で物質的な現存」が「悪」である。これを肯えば、「個体的で具体的な現存の削除」は「悪 に非ず」1。而して「悪の原理」を「質料」に見る哲学あり、「悪」を「空間」とみなす哲 学あり、はたまた「世界、物質、物体、これらすべては悪の原理の仕事」と主張する学 派あり2。「悪」に関する語源的解釈もある。ラテン語では「悪」は《malum》であるが、 この語は所謂「悪」という意味の他に、ギリシャ語の《κακότης(不幸、災難)》《πονηρία(悪 い状態)》の意味や、「心配、暴力、病気」の意味を併せ持つ3。 然るに個人が経験する「苦 痛の瞬間的現象」は謂わば「悪の原初的段階」である。苦痛の経験者はつぎに、苦痛を直 接的あるいは間接的に引き起こす他者の「心」あるいは「意志」に「悪」を認めることに なるからである4。が、このとき「悪」は分析上、「現実のもう一つ別の段階」に移る。「意 志による動機の段階」である。したがって「悪について語る」とは、第一に「肉体的な苦 痛」を「喚起すること」、第二に「道徳的過失」を「喚起すること」である。神学者トマス・ アクィナスの「悪」の二分法も同分析に則っている。トマスによれば、第一の「悪」は《事 物の十全性のために必要な何らかの部分の欠落(subtractio)に由来するもの》すなわち「盲 目」や「肢体の欠如」といった《肉体的な苦痛を伴うもの》である。第二の「悪」は、《自

由意志で行う事柄における(in rebus voluntariis)当然あるべき行動の欠落に存する》悪、

すなわち《過失(culpa)》の性格をもつものである5。自覚的キリスト者であるライプニッ ツも《苦痛(souffrance)》を《肉体的悪(mal physique)》と呼び、《罪(péché)》を《道 徳的悪(mal moral)》と呼ぶが、それに加えて被造物の《不完全性》をも《悪》とみなし、 それを《形而上学的悪(mal métaphysique)》と命名する6 Ⅱ.ライプニッツと悪の問題  《形而上学的悪》は被造物の「制限性」「有限性」に、換言すればその「不完全性」に存 キーワード:ライプニッツの三種の悪、 存在即善、プラトンと悪の非存在、 プロティノスと悪の非存在、アウグスティヌスの悪と無、無からの創造

悪と一神論的形而上学

 

道 躰 滋 穂 子

(2)

する。その起源は創造時に神が被造物の「本性」に関して抱いた観念─《観念的本性(nature idéale)》にある。すなわちその起源は「神の知性」のうちにある7。神は己れとは異なる本 性をもつものの創造を欲し、それに「不完全性、制限性、有限性」を与えた。「不完全性」 なくば、被造物は神と異なるものとならぬからである8。この「不完全性」ゆえに被造物は《本 質的に制限され》、《本源的不完全性(imperfection originale)》を有するのであるから、《す べてを知るという訳にもいかぬし、間違うこともあれば他の過失(faute)を犯すこともある》9 つまり「形而上学的悪」は「悪」というよりは「完全性のより少ない段階」であるか10、ま たは「それによって人間が悪を犯し悪を蒙るということが説明され得る存在論的欠陥」、 敷衍すれば世界における「悪の存在」の説明を可能にする「存在論的欠陥」である11  《肉体的悪》すなわち《苦痛》は人間以外の動物にも等しく作用する。が、それを「悪」 と意識するのは《最強にして最大の能力を有した一被造物》12、すなわち「人間」のみである。 それゆえこの悪は《必然的なもの》ではない13。しかし人間の「自意識が苦しみを倍増さ せる悪」14であることから、ライプニッツはトマス・アクィナスと同様にこの悪を人間へ の或る種の《罰(poena)》と見なし15、神は《肉体的悪》を《罪科(coulpe)への当然 の刑罰(peine)として欲する》こともあれば、また《或る目的にふさわしい方法として、 たとえば一層大きな悪を防ぐために、あるいは一層大きな善を得るために欲する》ことも あると説く16。《刑罰は改悛にも役立つし、見せしめともなる》からである。すなわち《肉 体的悪のひとつの源泉》は《道徳的悪》17 である。  したがってライプニッツにおいては《道徳的悪》は「隣人に対する背反」という通常の 意味はない。端的に「神への背反」すなわち「罪」を意味する18。しかしライプニッツ曰 く、この「悪」は人間の《肉体的悪のひとつの源泉である》がゆえに「大きな悪」ではあ るが、それ自体としては《さして大きな悪に非ず》19と。神が《絶対的に最善であるもの》 を《選択する》なら、《永遠的諸真理の至高の必然性》によって、そこには当然《罪科の 悪が含まれる》からである、と20。換言すれば《神の知性》の内にあるこの「真理」には《無 限の可能的世界(mondes possibles)》が、つまり《一切の可能性を含む測り知れぬ領 域》があるがゆえに、その 《可能的世界》の一つには《悪が含まれる》必要がある、と21 さもなくば、神の完全なる「知性」に、その「永遠的真理」に、「悪の知識」が欠如する ことになろう。したがって《すべてが考慮され、すべてが織り込まれ、それを選んだ創 造者によって最善とみなされた世界》22 すなわちわれわれの《この世界》でさえ、つまり 《最善の世界》でさえも、《悪を包含せねばならぬ》。《悪を許容すべく神を決定づけたのは これである》23。それゆえ《世界に生じる最小の悪であっても欠如していたら、それはも はやこの世界ではなくなる》24 のである。神は世界創造にあたって《その完全性》を《最 も実効的で且つ己れの偉大さと知性と善意に最もふさわしい仕方で明示し伝えるつもりで あった》が、しかし《まさにこのことのゆえに》《被造物の全行為》を《純粋に可能性の

状態(lʼétat de pure possibilité)で考察せざるを得なくなった》のである25。謂わば神

(3)

置いたのである。が、それを現実化したのは他ならぬ人間の《悪しき意志》26すなわち《無 秩序(désordre)》を選ぶ《自由意志(franc arbitre)》である。しかしキリスト教教義に よれば人間に《自由意志》を与えたのは神自身である27。而もたとえ人間の「意志」が悪 を欲するとしても、《神の似姿たる理性》が《悪しき魂に多くの悪を生み出す立派な手段 を与える》のでなくば、悪は現実化しない。しかし「理性」も神の賜物である。然らば《神 が道徳的罪を許容する》と考えざるを得まい、が実際にはそれは《必要条件(sine qua non)》としてのみ、すなわち《悪を最善と結びつける仮定的必然性》28としてのみである。 つまり《悪を最大の善に役立たせる神の叡知》に対する《称賛を増大させる》29ためにの みであり、謂わば「暫定的に」である。然るに神の叡知に対する称賛の増大に寄与するな ら、「悪」は或る意味で「善」である。  一方、神の《意志》は《或る事柄をそれが内包する善に応じて行なおうとする傾向》30 を有するが、この意志は《それぞれの善を、善である限りにおいて、別個に考察するとき、 先行的(antécédente)と呼ばれる》。すなわち神が《善である限りのすべての善を目指す》 ときの意志が《先行的意志》である。しかしこの意志は《それを妨げる一層強力な何らか の理由が有る》場合には《結果を生じさせない》31。《人間を聖化し、救済し、罪を排除し、 永劫の罰を妨げよう》という神の意志の《真摯な傾向》[= 先行的意志 ] が《結果が生まない》 所以である。他方、神の《意志の本性》には《帰結的意志(volonté conséquente)》と 呼ばれる《段階》がある。この意志には《欲することを、それが可能であるとき、為し損 なうことはないという規則が当てはまる》。然るに《神との関係》においては、最終的に は何ものも《「最善律」に反し得ぬ》32 からには、この意志は《完全な誤りない成功》を 生む。かくして神は万事を最終的にかつ決定的に最善に導く。これはまた神が《[ 人間の ] 祈り、善き行為、悪しき行為、その他のすべてを予見した》うえで《一切を前以て一遍に 調整した》33 結果でもある。つまり神は《これらの小さな世界の欠陥》をすべて《驚くべ き仕方で神の大きな世界の最も偉大な装飾に転じる》がゆえに《われわれの小さな世界の 一見すると奇形に見えるもの》も《大きな世界においては諸々の美に再統合される》ので 《無限に完全な宇宙的原理の一性(unité)に背馳するものを有さぬ》ということになる34 それゆえ《神が罪を許容するときそれは知恵であり徳である》35  結局、キリスト者としてライプニッツは二元論を認め得なかった。それゆえ神は「悪を 許容する」が、最終的にはすべての「悪」は「最善」に寄与すると考えたのである。 Ⅲ.悪と形而上学  被造物はみな等しく「形而上学的悪」や「肉体的悪」を蒙る。しかしそれを「悪」と意 識するのは人間のみである。「道徳的悪」も、これを「神への背反」と規定しようと「隣 人に対する背反」と規定しようと、同様である。すべて人間のみが意識する「悪」である。 それゆえ「悪」とは人間の「精神」がそれを「咎め」、「現在の現実を正当と認めず、投棄

(4)

したい」と願うものの謂である。換言すれば、「悪を体験する」ことは「所与の必然性と 不可避性の拒否」である36。 つまりこの「悪しき所与」は「在るべからざるもの」と見な される類のものである。それゆえ「悪」は「存在する ・ べきで ・ ない ・ もの(le ne-pas-devant-être)」と規定し得る。「現在の現実」を「正当と認めず投棄したい」と願う者は、 「より善き実在への信頼」の告白者であり、「苦しみ」を「無秩序な乱れ(désordre)」と 考える者は、「一層上位の秩序が現存せねばならぬ」と「仮定」する者の謂いである。而 して「一層善き非所与を目指して不幸な所与を超越せん」という「この要求」は、帰する ところ「もうひとつ別の領域、理想的で規範的な領域」すなわち「超越的な領域」を「想 定する」。それゆえ「悪の観念」は「そのこと自体のために形而上学と宗教へ通じる」37  しかし、存在論的二元論や多元論あるいは多神論を奉じる形而上学であれば、悪の起源 の説明は容易である。例えば、グノーシス主義者やマニ教徒そして 12 世紀のカタリ派は こう推論したからである、「唯一の神が現存するに非ず。善と悪という、共に永遠で、非 被造の、二つの原理が現存する」38と。しかし存在者の根源的原理を「単一の完全な善な る自体的存在」に求める一元論的哲学あるいは一神教論的形而上学においては、「悪」の 起源の合理的説明は困難である。それゆえ、神を「単一の完全な善なる自体的存在」と見 なす一神論的形而上学を奉じるライプニッツは、《悪の現存(lʼexistence du mal)》39 認め、「悪」を実体化したが、しかし神は最終的には「悪」をも「最善」に導くと説くの である。しかし存在者の根源を「善なる完全な自体的存在」に求める一神論的形而上学を 厳密に奉じるなら、「悪」は「非存在」である。この説の唱道者は、非キリスト者にして 一元論哲学者プロティノスである。後述のように、万物がそこから発し、そこに帰還する 「永遠の根源的原理」を「一なるもの」と見なし、それを「完全なもの」「善自体」である と説くからである。しかし周知のように、この説はプラトン哲学に則っている。 Ⅳ . プラトンと悪の問題  プラトンによれば「善のイデア」すなわち「善それ自体」が万物の根源である。これは また「永遠不滅の真の存在」であるがゆえに「神的なもの」とも呼ばれる。この観念は ユダヤ・キリスト教の神概念に抵触するものではない。ユダヤ・キリスト教においては、

神は「有ヤりて有るもの」である。すなわちこれのみが「自らで存するもの(ens per se)」ー ヴ ェ

であり、不生不滅の「永遠の存在」つまり「不変の実在」であり40、神以外の万物の創造

者だからである。しかし「善(のイデア)」とユダヤ・キリスト教の神には決定的な相違 がある。前者は《存在(者)を超えている(epekeina tes ousias)》41 からである。つまり「存

在そのもの」ではなく、「形相(eidos)」すなわち「本質」「定義」に過ぎない。したがって、

太陽が生命ある実在者に「存在」(存在者のうちの生命)を与えるのと同様に、「善(のイ デア)」は可知的な実在者たちに「存在」(存在者のうちなる真の実在)を与えるというプ ラトンの主張は、論理的には不可能である。「イデア」によって生じるのは「イデア」で

(5)

しかない。したがって「善(のイデア)」には「実在」を与えることは不可能である。 一 方トマス・アクィナスによれば、キリスト教の神は「存在そのもの(esse)」である。そ れゆえ「存在」を与えて「存在者(ens)」を生じさせ得る。しかしそれは汎神論的な「存 在の分有」ではない。神以外の者は神の存在を分け持つのではなく、神とは異なるものと しての存在を受け取るのである。アウグスティヌスによれば「創造」とはこの謂である42  然るに、汎神論が優勢な古代ギリシャにあって、プラトンは一種の「創造」説の創案者 である。可感界の事物はすべて「デミウルゴス(= 製作者)」の製作であると主張するか らである。厳密に言えば、デミウルゴスが「善(のイデア)」から発出された「イデア」〔す なわち《形相》〕を、その受容者たる《場コーラ》─《滅亡を受け入れることなく》、《凡そ生成 する限りの全てのものに座を提供する》もの、すなわち《あらゆる生成の養い親》43―に 投影し形成したのである。したがって可感的事物は謂わば既存の「三種のもの」(「イデア」 「デミウルゴス」「場コーラ」)によって生じさせられたことになる。然るに「善(のイデア)」は《実在》 を超えながらも事物の《実在》の原因であるなら、事物は「善であればあるほど」《実在的》 である。つまり事物の「存在」はその事物が「善」である度合いに正確に比例する。反対 に、事物は「より少なく善であればあるほど」、「より少なく存在する」44。つまり事物は「悪 であればあるほど」「 非実在 」 である。謂わば「悪」は事物が「悪である度合い」に比例 して事物を「存在せぬ」ようにする。それゆえ「悪」とは絶対的に「非実在」のものであ り、事物を《滅ぼしたり堕落させたりするもの》との定義が成り立つ45。然らば事物を《滅 ぼしたり堕落させたりするもの》とは何か。「生成消滅」である。而して「生成消滅」は 「場コーラ」によって持ち込まれる。「場コーラ」は《凡そ生成する限りの全てのものに座を提供する》 からである。ならば「場コーラ」は「悪の原理」でもある。つまり創られた世界には「イデアか らくる善き面と〈場コーラ〉が持ち込む負の面(=生成消滅)」があることになる46。しかし既 述のように、「場コーラ」は《滅亡を受け入れることなき》もの、謂わば《永遠に存在している》 ものである。それが世界に「生成消滅」を持ち込むのであれば、「場コーラ」はあるいは「混カ オ ス沌」 のようなものである47。しかし一方ではプラトンは「場コーラ」を《感覚》に頼ることなく《捉 えられるもの》とし、一種の「非存在」と見なしている48 Ⅴ.プロティノスと悪の問題  プラトンから多大の影響を受けたプロティノスは、永遠の《一なる者(to hen)》を想 定した。それはプラトンの「善なるもの」と同一視されるが、「複合」とは無縁であるが ゆえに「完全なもの」である。《一なる者》はその完全性のゆえに自己に似たものを「発出」 する。最初に発出されるのは《知性(nous)》である。それは純粋思惟であるがゆえに、「認 識する主観であり、同時に認識される客観でもある」49。換言すれば、《知性》は「およそ 知識なるものに固有の主観と客観の二元性の影響を受けている」がゆえに「一なる者に劣 る」が、「可知的なすべてのものについての自立的な知識」でもあり、また「およそ可知

(6)

的なすべてのものについての永遠に存立する認識」である。それゆえ《知性》は「一切の イデアの場所」50である。すなわちプラトンの想定する「イデア界」である。可感界の万 物の「イデア」すなわち「形相(eidos)」はここに存する。しかしアリストテレスの洞察 によれば、「形相」のみでは可感界の「もの」は現実存在たりえない。「形相」とは現代的 表現を用いれば「もの」の「本質情報」だからである。それゆえ「形相を受け取るものが 必要」となる51。「形相を受け取る」なら、そのものは「形相を受ける以前は形相を欠い ている」はずである。そのようなものをプロティノスは《質料(hyle)》とみる。しかし《一 なる者》の最初の発出である《知性》が既に「一なる者に劣る」のであれば、「形相」を 完全に欠如した「質料」は最も劣ったものである。それゆえ「質料」は「一なる者」(「善 なるもの」)から最も隔たった位置にある。ところで「一なる者」(「善なるもの」)から「知性」 が発出されて万有の「形相」が得られるなら、「形相」は「善」である。すなわち万有の「本質」 は「善」である。反対に「形相の欠如」は「善の欠如」であり、謂わば「悪」である。然 るに既述のように「形相を完全に欠如したもの」とは「質料」である。ゆえに「質料」は 「悪」あるいは「悪の原理」である52  一見、合理的な理論である。しかし一元論を固持するなら、「一なる者」から発出せぬ ものを容認するわけにはいかぬ。それゆえ「質料」も「一なる者」から発出したものと見 なさざるを得ない。然るに「一なる者」から発出したものはすべて「形相」を有する。そ れゆえ「質料」も「一なる者」から発出したのものであればそれを「形相の完全欠如体」 とするのは矛盾である。而も『エネアデス』には《質料》を最も低次元の《形相》と見な している箇所もある53。ならば「質料」を「善の欠如」と断じることは矛盾である。「質 料」を「善の欠如」と見なすには、「質料」を「一なる者」の「発出」によるものに非ず して、プラトンの「場コーラ」の如き「既存のもの」と考える他はない。しかしそれは二元論に 堕す。それを回避するためであろう。プロティノスは《質料》を《非有(to me on)》と 呼ぶが、それはまた《何かであり4 4 4 4 4欠如と同じもの》54であると言う。然らば「質料」は完 全な「無」ではない。「形相」を有するからには「悪」の原理とはなり得ない。そこから プロティノス特有の詩的表現が出現する。《悪があるとすればそれは非有のなかにあるの であって、謂わば非有の形相のようなものである》55。「プロティノスにおいては質料は非有 であるか否かは曖昧であり、したがって悪もまた無であるかどうかも曖昧なままである」56 といわれる所以である。つまりプロティノスは「あくまでも形相を存在の根原とする立場 を貫徹し、形相なきものは非存在であり形相は善であるから、したがって悪は非存在であ る」57 と主張しているに過ぎない。 Ⅵ.アウグスティヌスと悪の問題  (1) 存在と善  「悪は実在せぬのみならず、実在することは不可能4 4 4である。なぜなら悪と実在はアプリ オリに矛盾するものであり、互いに排除し合うものだからである」58。既述のように、同

(7)

説はプラトンに端を発するが、キリスト教はこれを無条件に導入する。「悪の非在」説は「唯 一の自体的存在にして絶対的に善なる創造者」というキリスト教の神概念に、極めて好都 合だったからである。存在(者)が善性の結果である限り、存在(者)はいかなる「悪」も含 み得ぬゆえ、「悪」はいかなる実在も有さぬ。アウグスティヌスのマニ教反駁理論となっ たのはこれである。若きアウグスティヌスを虜にしたマニ教によれば、世界は善の原因で ある絶対的な「善なる霊」と、悪の原因である絶対的な「悪なる霊」との戦いである。世 界の全存在(者)はそれに由来する二重の原因と結果をもつ59。しかし決定的にキリスト教 に帰依したアウグスティヌスは、「グノーシス派の理論家やマニ教の理論家」の反論─「創 造主にして無限に善なる全能の唯一の神が現存するなら、世界の悪の現存をいかに解すべ きか」─への答弁を迫られる60。解答はプロティノスの『エネアデス』にあった。「悪の非 存在」というプラトン的弁神論の展開があったからである。しかしプロティノスの形而上 学はキリスト教形而上学とは異質である。一方は汎神論であり、他方は創造神論である。 アウグスティヌスの理論がプロティノスのそれと異なるものとなるのは当然である。  (2) 絶対的存在と事物存在  キリスト教においては神は「有ヤりて有るもの」すなわち不生不滅の「永遠の存在」であー ヴ ェ

る。唯一の「自存的存在」、「自らで存するもの(ens per se)」、これのみが厳密な意味で

「有る」と言い得るものである61。謂わば神は「論理的に且つ年代記的に」「第一の実在と 不易の実在を所有する存在(者)」62である。しかし「不易の実在」は「発出」によって「他 者」となることはない。一方、可感界の事物はどれも「自存的存在」ではない。生成し消 滅する「可変的存在」である。つまり後のトマス・アクイナスの説のように、可感的世界 には「己れが己れ自身の存在の作出因(causa efficiens)である」というものはない。そ のようなものが存在するとすれば《そのものはそのもの自身よりも先に存在することなる》 という不条理に陥るからである。それゆえ可感的存在(者)は己れとは別の作出因を必要と するが、《作出因の系列》の究極に《最初の第一作出因》(すなわち「自存的存在」)が存 在せねばならぬ63。さもなくばこの世界にはいかなる存在もなくなる。したがって可感的 存在(者)は己れの存在を「自存的存在」すなわち神から受け取るしかない。アウグスティ ヌスが神に向けて《それらのものは御身により存在しているのです》64 と語る所以である。  (3) 無からの創造  神は「他の一切に存在を与える」65。しかしプロティノスの主張のように「発出」によっ てではない。神は他の一切を「創造する」のである。可感的事物が神からの「発出」であれば、 可感的事物は神と同じ本質を有することになるからである。しかし「被造物は神によって しか現存せぬが、被造物は神の一部ではない。もし被造物が神の一部であったら、被造物 は神と同一であることになり、被造物は被造物でなくなるであろう」66。すなわち「創造」 は「神的実体のそとへの流出ではない。創造は神的実体からの発出ではない。創造は生成

(8)

ではない。被造物は神的実体から生まれたのではない」67。また「創造」は「プラトンの デミウルゴスのように他の何かを用いて(言い換えれば、既存のものから)造り上げるこ とではない」68。神が「第一の実在と不易の実在を所有する存在(者)」であれば、最初に「有 るもの」は「神のみ」であり、他の何ものも存在せぬからである。つまり神は「先在的質料」 を介さず、万物を全くの「無から(de nihilo)」創造したのである。アウグスティヌス曰く、 《神よ、御身は存在し給い、御身以外は無であった。この無から、御身は天と地の一対を、 すなわち一方は御身に近いもの、他方は無に近いものを創造し給うた》69と。より正確に 言えば、神は「無」から先ず《形なき質料(informis materies)》(=「形なく空しい地」〔「創 世記」Ⅰ・2〕)を造り、そこから天地の一切を造ったのである70  (4) 神の善性と悪の非存在  一方、キリスト教においては神は「定義によって」「最高善」である71。しかしアウグス ティヌスはプロティノスのプラトン哲学に由来する「存在即善」の主張を基に72、《最高善

(summum bonum)》を《それより上位には何も存在せぬ(quo superius non est)こと》73

と規定し、それゆえ《それは神である》と主張する。したがって事物は《存在する限り善 きものである。それゆえ存在の全ては善である》74。また《全ての自然本性(natura)は それが本性である限りにおいて善である》75。 つまり《神は善であるがゆえに被造物を善 として創造した》76のである。否、むしろ「善とすることしかできなかった」77のである。 然らば《悪はどこからくるのか》。プロティノスの想定のように《神が善を造るために用 いたもの》すなわち《質料》が《悪いものだったのか》78。断じて否である。既述のように、 プロティノスは「形相」を「存在」すなわち「善」と規定し、「質料」を「形相の欠如態」 とみる。それゆえ「質料」は「非存在」でありながら「悪の原理」である。一方アウグスティ ヌスにとって「質料」は神の被造物である。その限りで「形相」を有する。「非存在」でない。 それゆえ「質料の本性」も「善」である。当然ながら「質料」は「悪の原理」たりえない。 しかし「存在即善」の原則に戻れば、《悪なるものは、突き詰めれば、完全な無になって しまうような善の欠如(privation boni)に他ならぬ》79 のであり、《悪といわれているも のは善の欠如以外の何ものでもない》80。 つまり「善の完全な欠如」は「無」と等価であ る。それゆえ《悪は実体に非ず》との結論が得られる。《なぜなら悪が実体であったなら、 それは善きものであることになるからである》81。しかし「無」から創造されながら、万 物は「存在するかぎり善きものである」。ならば、神は「無」から、言い換えれば「善の 完全な欠如」からさえも、「善き本性をもつもの」を創造し得る。「全能」のゆえである。《全

能である神は、無からでも、すなわち全くの非存在(id quod omnino non est)からでも、

諸々の善なるものを造り得る》82 のである。

 然るに「悪の極み」が端的には「無」を意味するのであれば83「無」は「創造され得ぬ」

ことは明らかであるがゆえに、神は「悪」の創造者ではないが、「悪」は「善を離れては 知覚すらされ得ぬ」という逆説的真理が成立する。「無」は知覚の対象になり得ぬからで

(9)

ある。また「悪」を「存在の全き欠如」と規定するなら「存在せぬもの」に「欠如」はな い。すなわち「悪」があるためには「喪失」があらねばならぬ。「剥奪されたもの」があ らねばならぬ。しかるに「剥奪されたもの」といえども「もの」であるかぎり「善」であ る。このものが「悪」であるのは単に失われた限りでしかない。それゆえ「悪」について 語る者は「善の現前」を暗々裏に前提していることになる。アウグスティヌス曰く、《人 間の本性(natura)は損なわれたものであるがゆえに悪であるが、それにもかかわらず 本性であるからには悪ではない。なぜならどんな本性も本性であるかぎり悪ではなく、完 全に善であるのだから。というのも善もなしには悪は存在たり得ぬからである》84 と。  (5) 悪の由来  しかし人間のうちに「根源的な不十分さがある」こと、而して「この不十分さそのもの によって引き起こされ得る無秩序がある」こと、端的に言えば「悪がある」85ことを、誰 よりも強く感じていたのもアウグスティヌスである。然らば「作品の不完全さ」と「作り 手の完全さ」を「いかに両立させるべきか」そして「いかにしてそれを治療すべきか」。 解決のためには「存在(者)」についての子細な考察が不可欠となり、問題は「本質的に形 而上学に属さざるを得なくなる」86  既述のように、神は《真に永遠、真に不滅である》。また《最高善》であり《不変的善》 である。然るに他の事物は神に依らねば存在し得ない。「善」も同様である。《他のすべて の善は神に依る4 4(ab illo)のでなくば存在せぬ》87 。しかし既述のように、これは被造物 と神の同一性を意味するものではない。《神によって無から造られたものと神から生まれ たものとが同じであるとすれば無と神が等しいことになる》。キリスト教においては《こ れは冒瀆的な不遜である》。当然、被造物の「本質」も神のそれとは異なる。《神のみが不 変であるなら神が造ったすべてのものは可変的である》88。被造物は「無」から造られた がゆえに「存在」と「非存在」を分有しているからである。「被造物のうちに或る種の原 初的欠如」がある所以である。換言すれば、被造物の「本性」も《それを造ったのは神で あるがゆえに存在する》のであるが《無から造られたがゆえに不変的ではない》89。謂わ ば《滅ぶべき本性》である。しかし被造物のうちのこの「欠陥」は次に「完全性を取得す る必要を生み出す」。そしてその結果「また変化する必要を生み出す」。被造物の「可変性」 および「可滅性」の「形而上学的起源」とはこれである。  しかし「創造」が「無から引き出す」ことであり、「無」に由来するものは「腐敗し易い」 なら、確かに「悪は不可避であった」のではないか。而してもし「無からの創造」が必然 的に「悪を抱懐する」ならば、神は何ものをも創造せぬほうがよかったのではないか。ア ウグスティヌスはこの疑問とは無縁である。「悪」は「非存在」であり、したがって所謂 「悪」は《善の欠如(privatio boni)》に過ぎず90、事物は「存在する限り善」であるとの 固い確信のゆえである。より詳細に言えば、全ての事物は、すなわち「実体」は、《限度 (= 量:modus)、形象(species)、秩序(ordo) 》を有するが91、個々の事物における「存

(10)

在から非存在への関係」(言い換えれば「善から悪への関係」)は、この三属性の「完全性」 と相関関係にある。すなわちこれら三属性の「完全性が大きい」なら、それらを所有する 事物は「大きな善」であり、それらの「完全性が小さい」なら「小さな善」でしかない。 それらの「完全性が無」であっても、この事物は「悪」ではない。「善を欠如」している に過ぎぬからである。  しかしアウグスティヌスの「悪」の問題をより明快にするには、「自然(本性)的悪」と「道 徳的悪」とに区別して論じるほうがよい92。問題は二つに分岐する。「神はなぜ腐敗しや すい自然(本性)を創造すべきなのか」という問題、および「なぜ虚弱な意志を創造すべき なのか」という問題である。  (6) 自然(本性)的悪  《悪》とは《限度(= 量)、形象、または自然本性的な秩序》の《腐敗(corruptio)》93 のことであるが、《腐敗していなければ善である》。正確に言えば《腐敗した自然 ・本性も 自然・本性であるかぎりは善である》。しかしながら人間は《最も優れた被造物》すなわち 《理性的な霊(rationabilis spiritus)》として創造された。それゆえ神の特別の配慮があ る。すなわち神は人間が《神のもとに固く服従しているなら、また神の不滅の美に固着し ているなら、腐敗することのないようにした》94 のである。しかし《理性的な霊》に劣る 他のものも《最高善である神に依らねば存在せぬ》限り、その《限度(= 量)、形象、秩 序に応じて善である》。言い換えれば、各事物の「完全性」が如何に僅かであろうと、事 物は己れが所有する「善」によってしか「存在」しないのであり、その所有する「善」を 神に負うているのである。確かに、諸事物は生じ、腐敗し、消滅する。しかし継起する存 在(者)の各々は、存在する限り「善」である。つまり宇宙あるいは自然の中で継起するの はつねに「善」である。而して《より虚弱なものがより強いものに服する》ように、そし て「地上的事物」がそれらより優れた「天上的事物」に譲歩するというやり方で全事物を 配置したのも神である。それゆえ《死滅するもの、あるいは以前の在り方を止めるもの》も、 宇宙の秩序や均衡を破壊することはない。むしろ逆である。巧みに構成された論文は、そ れを構成している音節と響きのそれぞれがそれに代わるものを生み出すために消えていく が、それにも拘らず端正で美しい。宇宙もまた、詩の展開そのものが美を生じさせるやり 方で、持続していくのである95。それゆえ「自然(本性)的悪」なるものはない。  (7) 道徳的悪  「道徳的悪」(端的には「罪」)を引き起こす原因は人間の「意志」である。悪しき行動 が可能であるのは「自由」である限りにおいてだからである。既述のように、人間の諸活 動が「あるべきものでない」なら、それは《神のもとに固く服従する》ことを《拒んだ》 結果に他ならぬからである。それゆえ問題は「完全なる神」がなぜ人間に「自由意志(liberum arbitrium)」を与えたのか、すなわち「悪をなし得る意志」を賦与したのか、そして「意

(11)

志」は「善」の仲間に加えられ得るか否かに還元される。  第一の問題に関しては、まず「意志」の欠如者は人間とは呼べぬことを想起すべきである。 したがって人間にとって「意志」を欠くことは、肢体を欠くことと同様に、不完全であり 重大なる損失である。然るに肢体が犯罪的行動や破廉恥な行動をするからと言って、肢体 を「悪」と断じ、神はそれらを人間に与えるべきではなかったなどと不平を言う者はいま い。本来的には「善」である肢体を悪用する人間の仕業だからである。「意志」について も同様である。それ自体として解されるなら意志は善である。意志の由来は神だからであ る。それゆえわれわれが非難すべきは、それを悪用する者であって、われわれにそれを与 える者ではなかろう96  とはいえ、「自由意志」は「徳」のような「絶対的善」ではない。「徳」は悪用されると まさにそのことによってその本性を完全に喪失するが、「自由意志」の結果はそれを使用 する人間のやり方次第で悪でも善でもあり得る97。それゆえ「自由意志」は謂わば《中間 的善(media bona)》である。然るに「自由意志」のこの使用は「自由意志」の意のまま である。丁度すべての学知の源たる理性が己れ自身を知っているように、「自由意志」は 他のものすべての支配者であり、またそれらを意のままにする己れ自身の主人でもある。 《我々は自由意志(libera voluntas)によって他のものを用いるとしても、やはりこの自 由意志自身によって、自由意志自身をも用いることができるということに驚いてはならぬ。 したがって意志は何らかの仕方で他のものを用いるが、また自己自身をも用いるのである。 これは理性が他のものを知り、且つ自己自身をも知っているのと同様である》98。つまり「善 の悪用」は、「自由意志」(それ自体としては「善」である)に依るのである。したがって「悪 を為すことが可能な意志の賦与」は非常に危険なことではあったが、それでもなお「自由」 は人間が手にする「最大の善」すなわち至福の必要条件なのである。  しかし「意志」が「中間的善」であるのは何ゆえか。既述のように「自由意志」のこの 悪用の可能性は、必然的に、この善用が齎す「善と幸福」の条件であった。「自由意志」は「真 理そのものであるところの不動の普遍的善」に結びつきそれを享受するとき、人間の至高 善であるところの「至福の生」を所有するからである。しかるにこの至福は「真理」を個 人的に所有しているに過ぎぬがゆえに、「真理」と同一ではない。全人間が幸福にして賢 者となるのは、万人に「同一の真理」、「同一の知恵」への固着によってである。しかし人 間は他者の慎重さや正義によって、慎重であり得たり、正しくあり得たりせぬのと同様に、 別の人間の至福によって幸福ではあり得ない99。 人間にとって個人的で自由な、それ自 体では「中間的善」である「意志」が必要な理由である。すなわち「意志」が「中間的善」 といわれる所以は、「至高善」に向かうことも「至福」の中でそれを所有することも「自由」 であると同時に、それに背を向けて「自己享受」および「下等なものの享受」─これが「道 徳的悪」と「罪」を成立させる原因である─も「自由」だからである100  しかし反論は可能である。人間は「嫌悪の動き」によって「至高善」に背を向けるので はないか。神はすべての原因であるなら、人間の「嫌悪の動き」の原因でもあるはずである。

(12)

この動きが罪であるなら、神が罪自体の原因ではないか。而してこの動きが神に由来する のでないとすれば、何に由来するのか、と。この反論に対するアウグスティヌスの答えは、 「人間はそれについて何も知らぬ」である。尤も、真の責任者の所在を知らぬという訳で

ない。人間には《無であるとは何にかを知り得ぬから(Sciri enim non potest quod nihil

est)》である101。とはいえ、この返答には「形而上学的意味」の裏付けがある。既述のよ うに「存在即善」であれば、神は「無からの存在(者)の創造」によって謂わば「善の現出」 を意図したとしか考えられない。それゆえ人間の「自由意志」の「嫌悪の動き」の起源に 神のような「能動的原因」を思い描くことは矛盾となろう。《それゆえ誰も悪しき意志の 作用因(efficiens causa)を尋ねてはならぬ。悪しき意志は有効(effectio)ではなく衰微 (defectio)であるので、悪しき意志の原因は能動的(efficiens)ではなく消極的(deficiens) だからである。すなわち最高に存在する者から、より少なく存在する者への頽落、それが 悪しき意志の所有の始まりである。然るに斯なる頽落の原因を見出さんとするは、(…) その原因が(…)消極的なのであるから、闇を見、沈黙を聞こうと欲するに等しい(…)》102  確かに、神は「自由意志」を創造し、「至高善」に結びつくこともそれに背を向けるこ とも可能なものとした。しかし斯く創造された「意志」の神からの離反は可能で4 4 4あったが、 そうすべきだった4 4 4 4 4 4わけではない103。「頽落」は落下する石の自然本性的な宿命的落下では ない。自分勝手にやっていきたいという「意志」の「自由な落下」だったのである104。したがっ て「原初の失墜」の動きは、「無」以外の、言い換えれば「非存在」以外の起源をもたぬ。 然るに「無」を探求することは、静寂の、あるいは暗闇の、「能動的原因」を探求するに 等しい。静寂は音の不在に過ぎず、暗闇は光の不在に過ぎぬからである。同様に「罪」も また人間の意志における「神の愛の不在」に過ぎない。「無」から創造され、それゆえ可 変的な人間の意志は、「罪」という最初の無秩序を導入するためには、創造主から離れて 被造物へと崩れ落ちるだけでよかったからである105  最後に付加せねばならない。神は自身にはいかなる責任もないこの無秩序を修復するた めに、救助に来る。神は堕ちた人間を失墜から立ち上がらせるために手を差し伸べる。而 して罪によって破壊された原初の秩序を恩寵によって再創造する106。しかしこれに関し ては稿を改めることとする。 註

1. Cf. Claude Tresmontant,Introduction à la théologie chrétienne, Seuil, 1974, p.679 & 『西 洋思想大辞典 1』平凡社、1999 年、p.39。

2. Cf. Tresmontant, op.cit., p.682.

3. Cf. Grande Dictionnaire de la PHILOSOPHIE, Larousse, 2003, p.636;フランスの一思想 家が「悪」とは何よりも先ず「人が経験する苦痛である」と主張する所以である―Cf. Miklos VETÖ, Eléments dʼune doctrine chrétienne du mal, 1981, p.7.

(13)

5. Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I, q. 48, art.5, B.A.C., t.1, p.353:『神学大全 4』(以 下『大全』と略記)、創文社、1973 年、 p.105。

6. Cf. G.W.Leibniz, Die Theodizee I, Leibniz, Philosophische Schriften 2.1, Izsel Verlag, 1989, p.240;『ライプニッツ著作集 6』(以下『著作集』と略記)、工作舎、1999、p.138。

7. Cf. Leibniz, op.cit., p. 240;『著作集 6』p.137-138.

8. Cf. 増永洋三『ライプニッツ』(人類の知的遺産)、講談社、1981年、p. 80。 9. Leibniz, op.cit., p.240;『著作集 6』p.138。

10. Cf. 増永洋三、前掲書、p. 81。

11. Cf. Hélène Bouchilloux, Quʼest-ce que le mal, Vrin, 2010、p. 10. 12. Leibniz, op.cit., p.248;『著作集 6』 p.142。

13. Leibniz, op.cit,, p.240-242;『著作集 6』p.138-139。 14. Cf. Bouchilloux, op.cit., p. 10.

15. Cf. Aquinas, Summa Theologiae, I, q. 48, art.5, op.cit., t.1, p.353;『大全 4』p.105。 16. Leibniz, op.cit., p.244;『著作集 6』p.140。

17.. Leibniz, op.cit.,p.248;『著作集 6』p.142。 18. Cf. Miklos VETÖ, op.cit.,p.8.

19. Leibniz, op.cit.,p.248;『著作集 6』p.142。 20. Leibniz, op.cit., p.246;『著作集 6』p.141-142。 21. Leibniz, op.cit., p.240-242;『著作集 6』p.138-139。 22. Leibniz, op.cit., p.220;『著作集 6』p.128。 23. Leibniz, op.cit., p.242;『著作集 6』p.139。 24. Leibniz, op.cit., p.220;『著作集 6』p.128。 25. Leibniz, op.cit., p.320;『著作集 6』p.178。 26. Leibniz, op.cit., p.248;『著作集 6』p.142。 27. Cf. Leibniz, op.cit., p.206, 368-376 et p.458;『著作集 6』 p.120, 205-210 et p.252-253。 28. Leibniz, op.cit., p.246;『著作集 6』p.141-142。 29. Leibniz, op.cit., p.460;『著作集 6』p.253-254。 30. Leibniz, op.cit., p.242;『著作集 6』p.141。 31. 神の「先行的意志」を「妨げるより強力な何らかの理由」とは、例えば「人間の自由意志」である。 神が与えた《自由意志》により人間は《無秩序》あるいは「罪」を選ぶが、その「自由選択」は 神といえども覆すことができぬからである;Cf. Leibniz, op.cit., p.206, 374-378 et p.458;『著 作集 6』p.120, 208-210 & p.252-253。 32. Leibniz, op.cit., p.246;『著作集 6』p.141。 33. Leibniz, op.cit., p.220;『著作集 6』p.127。 34. Leibniz, op.cit.,, p.458-460;『著作集 6』p.253-254。 35. Leibniz, op.cit., p.248;『著作集 6』p.142。 36. Cf. M. VETÖ, op.cit., p.5. 37. Cf. M. VETÖ, op.cit., p.5-6. 38. C. Tresmontant, op.cit., p.679. 39. Cf. Leibniz, op.cit., p.206;『著作集 6』p.120。 40. Cf. 出隆『プロティノスとアウグスティヌスの哲学講義』新地書房、1987 年、p.262。

41. Platon, Politeia,VI, 509B , Loeb Classical Library, 276, p.106;『プラトン全集 11』(以下『全 集』と略記)岩波書店、1987 年、p.483。 42. 《聖なる使徒伝来の普カ ト リ ッ ク遍的ローマ教会は以下のことを信じ公言する、唯一の真なる生きておられ る神が存在する、と。その方は、天地の創造主、全能にして、永遠、広大無限、完全には理解不 能であり、叡智において意志において完全性において無限なる者であり、本性的に唯一なる、完 全に単一にして不動の霊的実体であるがゆえに、実在的にも、本質においても世界とは異なる 者、自体的に自身によって至福なる者であり、その方の外に存在するもの、考えられ得るものの

(14)

すべてを超えて、表現不可能なほどに崇高である。》([ 第一 ] ヴァティカン公会議、「カトリック 信仰に関する教義憲章」第 1 章、ES, 1782, Études théologiques sur les constitutions du con-cile du Vatican dʼaprès les actes du concon-cile, Paris, 1895, t.I, p. 11.) & Cf. Tresmontant, Les idées maîtresse de la métaphysique chrétienne, Seuil, 1962, p.27.

43. Platon, Timaios, 52A~B & 49A, 51A ; LOEB, 234, p.122 & p.112, p.118;『全集 12』1987 年、 p.84, p.75, p.81。

44. Cf. Notions de philosophie, III(Le mal), Gallimard, 1995, p.189. 45. Platon, Politeia, X, 608E , op.cit., p.470;『全集 11』p.727。

46. Cf. 金子晴勇編『アウグスティヌスを学ぶ人のために』世界思想社、1993 年、p.165-166。 47. Cf. LOEB, op.cit., 234, p.7.

48. Cf. Platon, Timaios, 52A~B; 49A, 51A ; LOEB, 234, p.122, p.112, p.118;『全集 12』p.84、 p.75、p.81。

49. Gilon, God and Philosophy, Yale Univ. Press, 1969, p.46;ジルソン『神と哲学』ヴェリタス 書院、昭和 41 年、p.67。

50. É. Gilon, God …, p.46;『神と哲学』p.68。

51. 山田晶『アウグスティヌスの根本問題』創文社、昭和 52 年、 p.267。

52. Cf. Plotinos, ENNEADES, 8:Plotin, ENNÉADES, I, Les Belles Lettres, 1987, p.119;『プロティ ノス全集 I』(以下『全集』と略記)、中央公論社、昭和 61 年、p.322。

53. Cf. Plotinos, ENNEADES, V, 8, 7:Plotin, op.cit., V, p.143;『全集 III』pp.539-540。

54. Cf. Plotinos, ENNEADES, II, 4, 16:Plotin, op.cit., II, p.70;『全集 II』pp.45-46;傍点引用者。 55. Plotinos, ENNEADES, I, 8, 3:Plotin, op.cit., I, p.117;『全集 I』p.316。

56. 山田晶、前掲書、 p.26-p.271。 57. 山田晶、前掲書、 p.268。

58. Notions de philosophie, III, op.cit., p.189. 59. Cf. Notions de philosophie, III, op.cit., p.190. 60. Cf. Tresmontant, Introduction…, op.cit., p.679. 61. Cf. 出隆、前掲書、p.262。

62. Notions de philosophie, III, op.cit., p.190.

63. Aquinas, Summa Theo., I, q. 2, a. 3, op.cit., t.1, p.18;『大全 I』昭和 62 年、p.45。

64. Augustinus, Confessiones, VII,11,Œuvres de saint Augustin( 以 下 Œuvres と 略 記 ), t.13, IEA,1998, p.618 ;『アウグスティヌス著作集 5/1』(以下『著作集』と略記)、教文館、1993 年、 p.354。

65. Cf. 山田晶、前掲書、p.262。

66. Gilson, Introduction à lʼétude de saint Augustin, Vrin, 1969, p.185. 67.. Tresmontent, Les idées..., p.32-33.

68. Tresmontent, Les idées …, p.25-29. カッコ内は引用者の付記。

69.. Augustinus,Confessiones, Ⅻ , 7・7,Œuvres,t.14,1996,p.352-354;『著作集 5/ Ⅱ』 p.278。 70. Cf. Augustinus, Confessiones, Ⅻ , 7-8, op.cit., p.354-356;『著作集 5/ Ⅱ』 p.280。 71. Gilson, Introduction …, op.cit., p. 185.

72. 《アウグスティヌスの善の観念は、存在と真理と善の概念の間に現存する関係のゆえに根本 的にプラトン主義に刻印されている。》(Encyclopédie, Saint Augustin, La Méditerranée et LʼEurope IVe – XXIe Siècle, Cerf, 2005, p.159.)

73. Augustinus, De natura boni, I, 1;Œuvres, DDB, t.1, p.440;『著作集 7』 1979 年、 p.177 & cf. Gilson, Introduction …, op.cit., p.186.

74. Augustinus, Confessiones, VII,12, Œuvres, t.13, 1998, p.620;『著作集 5/ Ⅰ』 p.358。 75. Augustinus, De natura boni, I, 1, op.cit., p.440 ;『著作集 7』p.177。

76. Augustinus, Confessiones, VII, 5, op.cit., p.590 ;『著作集 5/ Ⅰ』p.327。 77. Notions de philosophie, III, op.cit., p.204.

(15)

78. Augustinus, Confessiones, VII, 5, Œuvres, t.13, p.592 ;『著作集 5/ Ⅰ』p.329。

79. Augustinus, Confessiones, III, 7, 12, op.cit., p.384 ; 『著作集 5/1』p.140 & Cf. Confessiones, VII,12, op.cit.,p.620;『著作集 5/ Ⅰ』p.358。

80. Augustinus, Enchiridion, Ⅲ , 11, Œuvres, DDB, 1947, t.9, p.118;『著作集 4』p.206。 81. Augustinus, Confessiones, VII,12, op.cit.,, p.620;『著作集 5/ Ⅰ』p.358。

82. Augustinus, De natura boni, I, 1, op.cit., p.440;『著作集 7』p.177。 83. Cf. Notions de philosophie, III, op.cit., p.189.

84. Augustinus, Contra Juliani responsionem op.imperf., III, 206, Œuvres complètes de saint Augustin, Vivès, t.32,1873, p.261 & Cf. Gilson, Introduction …, op.cit., p.187.

85. Cf. Augustinus, Confessiones, Ⅶ , 3, 4-5, Œuvres, t.13, p.584;『著作集 5/1』p.320~321。 86. Gilson, Introduction …, p.185.

87. Augustinus, De natura boni, X , op.cit., p.448:『著作集 7』p.184。 88. Augustinus, De natura boni, I, 1, op.cit., p.440;『著作集 7』p.177。

89. Augustinus, De natura boni, X, op.cit., p.448;『著作集 7』p.184 & Cf. Gilson, Introduction…, p.185-186.

90. Cf. 註 84 & 85。

91. Augustinus, De natura boni, III, op.cit., p.442;『著作集 7』p. 179。

92. Gilson, Introduction…,p. 187-188;なおラテン語の〈natura〉およびフランス語の〈nature〉は「本 性」「自然」「もの」「存在」等の意味あり(Cf.『著作集 7』p.291、註 26)。

93. Augustinus, De natura boni, IV, op.cit., p.444;『著作集 7』p.180。 94. Augustinus, De natura boni, VII , Œuvres, t.1, p.446;『著作集 7』p.182。

95. Cf. Augustinus, De natura boni, VIII, op.cit.,, p. 446-448;『著作集 7』p.182~183 & De civitate Dei, XII, 4-5,Œuvres, t.35, DDB, 1959, p.158-162;『著作集 13』教文館、1981 年、p.100~103; アウグスティヌスはしばしば細部の不完全さの全体の調和への貢献を語っている(De civitat-eDei, XI, 22, Œuvres, t.35, p.96-100;『著作集 13』p.63~65;De musica, VI, 11, 30;『著作 集 3』1989 年、p.525~526 & cf. Gilson, Introduction …, p.188);これは前掲のライプニッツ の考えの源泉でもある。

96. Cf. Augustinus, De libero arbitrio, II, 18, 48, Œuvres, t.6, 1976, p.364-366;『著作集 3』p.131 & De libero arbitrio, III, 9, 26, op.cit.,p.432-433;『著作集 3』p.172 & De libero arbitrio, III, 11, 32-33, op.cit., p.444-448;『著作集 3』p.179~180。

97. Cf. Augustinus, De libero arbitrio, II, 19, 50, op.cit., p370;『著作集 3』p.133~134 & Re-tractationes, I, 9, 6, Œuvres, DDB, t.12, 1950, p.324;『著作集 3』p.233~234。

98. Augustinus, De libero arbitrio, II, 19, 51, op.cit., p.372;『著作集 3』p.134。

99. Cf. Augustinus, De libero arbitrio, II, 19, 52, op.cit., p.372-374;『著作集 3』p. 135。 100.Cf. Augustinus,De libero arbitrio,II,19,52-53,op.cit., p.372-374;『著作集 3』p.135-136。 101. Augustinus, De libero arbitrio, II, 19, 54, op.cit., p.376;『著作集 3』p.136。

102. Augustinus, De civitate Dei, XII, 7, op.cit., p.170;『著作集 13』1981 年、p.108。 103. É. Gilson, Introduction …,, p.190.

104. Cf. Augustinus, De libero arbitrio, III, 1, 2, op.cit., p.382-384;『著作集 3』p.141 & De diversis quaestionibus LXXXIII, qu. I-IV, DDB, t.10, 1952, p.52-56.

105. Cf. Augustinus, De civitate Dei, XII, 8, op.cit., p.172-174;『著作集 13』p.109-110。 106. Cf. Augustinus, De libero arbitrio, II, 20, 54, op.cit., p.378;『著作集 3』p.137。

参照

関連したドキュメント

2.1で指摘した通り、過去形の導入に当たって は「過去の出来事」における「過去」の概念は

る、関与していることに伴う、または関与することとなる重大なリスクがある、と合理的に 判断される者を特定したリストを指します 51 。Entity

 回報に述べた実験成績より,カタラーゼの不 能働化過程は少なくともその一部は可三等であ

規則は一見明確な「形」を持っているようにみえるが, 「形」を支える認識論的基盤は偶 然的である。なぜなら,ここで比較されている二つの規則, “add 2 throughout” ( 1000, 1002,

Maurer )は,ゴルダンと私が以前 に証明した不変式論の有限性定理を,普通の不変式論

Maurer )は,ゴルダンと私が以前 に証明した不変式論の有限性定理を,普通の不変式論

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

妊婦又は妊娠している可能性のある女性には投与しない こと。動物実験(ウサギ)で催奇形性及び胚・胎児死亡 が報告されている 1) 。また、動物実験(ウサギ