熊本大学教養部紀要人文・社会科学編第19号:50-66(1984
以下この小論でその考えをできるだけ正確に把握しようと意図し
ている「ソクラテス」とは、プラトンの初期対話篇に描かれたソクラテスである。先ず断わっておくことは、「そこで対話人物ソクラテスの口を通して語られる考え方は、史的ソクラテスの考えをどの 程度忠実に反映しているのか」という所謂「史的ソクラテス」の問 題には、その不毛性の故に一切立ち入らない。というのは、プラト ンの描くソクラテスとは独立に史的ソクラテスなるものの一一一一口行を同 定し得ないのは明らかであり、更にプラトンのソクラテスとは、そ
もそも一時代前に何人かの学者がプラトン、クセノポン、アリストパネスらの資料を基にして謂わば歴史学の範囲で史的ソクラテスを
同定しようとした、正にそのような作業が、ソクラテスによって始められた哲学とは本質的には何の関係もないことを示しているからである。敢えて言えば、プラトンは、現実に生きたソクラテスがな
した一一一一口行のうち、哲学にとって意味のある言行はすべて目らのソク(1)一フテス像に描き込んでいるのである。 更にもう一点。ソクラテスの思考を正確に理解することに照準を
合せるこの論文での作業は、当然「なぜプラトンはソクラテスをそのような思考の持ち主として描いたのか」との問いを引き起こすことになろう。これについては、ともかく作者プラトンが一人称で語●●●らず、自らを完全に作品の背後に隠して、対話劇の形でソクラテス
を様々な人物と対話させているその事実を重視して、現段階ではそ
の問いをそれとしては問わないでおく。、解釈の前提 ソクラテスのアレテー観念について
むしろこの論文の価値は、初期対話篇を読むとき、今述べた史的ソクラテスとの異同、作者プラトンの自らのソクラテス像への関与の度合いといった問題より、はるかに本質的な問題が、「プラトン
の描くソクラテスとは何か」という問いの中に潜んでいることを明 確にした点だと考える。というのは、もし作者プラトンが初期対話
●●●
篇を通じて一人の哲学者ソクーフテスを再創造していたとするならば (解釈の第一前提)、われわれは、例えば『クリトン』でのソクラテ スと『プロタゴラス』て快楽説を語るソクラテスとがどこで同じソ
クラテスと一一一一口えるのかを説明しなければならない。問題は、プラト●●●
ンが一人の哲学者を記していると一一一口うとき、その一人をどこで押え
るかである。要するにわれわれは、プラトンのソクラテス像を明蜥にしたいのである。この作業のために規準となる作品をここで指定しておきたい。それは『ソクラテスの弁明』〈以後『弁明』と略す)と『クリトン』(特
に念すIおのの部分)てある。即ち、作品の成立事情からいって特に『弁明』全体に、次いで『クリトン』に描かれるソクラテスをプ ラトンにとってのソクラテスの原像とし、このソクラテス像を基準 にして他の初期対話篇でのソクラテスの言葉を解釈していくのであ
る。解釈の第二前提であるこの作業仮説は、現に信頼に値する解釈者たちの採るところであ硬・
そして第一一一の前提として、これら一一つの作品と他の初期対話篇との関係を次のように規定しておこう。「プラトンは、『弁明』『クリト ン』において自分のソクラテスの原像を公示した後、そこでソクラ テスが語る『吟味反駁活動こそ自己の天命であり、それはアテナイ 篠崎
栄
ソクラテスのアレテー観念について
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TI人間が己れの行為において目指している恒常的な目的とは、幸福王ウダイモーーァ)の達成、即ち人生での成功である。T2よき人とは自分自身の仕事、即ち家政およびポリスのことを
よく為す人のことである。つまり、よき人とは道徳的な狭い意
味でなく、「完全に有能な人」という意味である。Tsしかるに人生における成功とは、善(ぬ。。eを達成し、所有す
ることを意味する。T4T1とT3からいって、すべての人は等しく善を欲求し、善 さてプラトンのソクラテス像を理解するに、今日に至るまで長い間、多くの学者の読み方を規定してきた初期対話篇群の読み方がある。その一つの典型として、今A・E・テイラーの〃ソクラテスの哲学〃の解釈をいくつかの命題の形で整理してみよ-玉。
思われる。H2その中にあって『弁明』『クリトン』でのソクラテスはプラト
ンにとっての原ソクラテスである。HS他の初期対話篇は基本的に、この原ソクラテスが自己の仕事●●●●●●●
とした吟味反駁活動の再創造である。
これらは、いずれも議論を要することなく了解を得られる前提と (3)人に対して行われた最大の善である』との主張を理解-しようとして、彼
のその活動をソクラテスを若返らせる演出法で臨場感のある対話劇方式で著していった。これが、初期ないしソクラテス的対話篇と呼(4)ばれる一群の作品てある」し」。以上の解釈の前提をまとめれば、HIプラトンは初期対話篇を通じて一人の哲学者ソクラテスを描いている。二、A・E・テイラーの解釈
プラトンの初期対話篇に描かれるソクラテスを統一的に捉えようとする従来の英米の学者の理解の大筋は、いま整理したこのテイラ(6)Iの線に基本的に沿ったものと一一一一口える。以下の論述で筆者が提出する新たな論点とは、正にこのような解
●●●●●
釈はソクーフテス理解としては架空の物語にすぎない、ということて
。、Ⅱある。なぜならば、T1からTⅡまでの一続きの主張をプーフトンカ (一一)
以外の.ものを欲求することはない。だから、多くの人がするように現実には善でないものを選ぶとすれば、その原因はそれを間違って善であると思い込んだことに他ならない。Tsさて、人々が通常善と呼んで所有したがるものには、物質的なもの、身体上の利点、精神的卓越性など様々な種類のものが
●●●あるが、いずれの,ものについて‘も、その使い方を知らなければ、それは現実に善いものとはならない。Te従って、それら通念上のよいものが現実に善となるために第
一に必要なことは、それを使用する人が善い人であることであ
う(一》oT7しかるに人間とは事実「身体を使う魂」てあるのだから、本物の善を享受し、人生で本当の成功をなす第一の条件とは、そ の人の魂が善い、健康な状態にあることである。
TSそして魂の善い、健康な状態とは、まさに知恵(ソピア)・知(プロネーシス)てある。Tg従って、善・幸福を享受しよう‐とする人すべてにとって第一の務めは、「魂を気遣うこと」「魂ができるだけ善いものとなるよう配慮すること」となる。TⅢそのためには先ず、「自分自身を知る」こと、つまり知恵の必要性と現在の無知の恐ろしさとを認識することが必要である。TⅡ以上のことからI)てソクラテスは、「すべての徳は一つのもの‐-知恵あるいは道徳的洞察lである」と教えたのである。篠崎 栄
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対話人物ソクラテス自身の主張として著していたというのであれ ば、そのような主張をソクラテスは自分の考えとして一度も語って
いないし、またこのような考えがソクラテスの考えてあるというようにプラトンは書いていないからである。その意味でこのような解釈は架空の物語である。この解釈の架空性に、わが国のプラトン読 (7) みの先達は最近気づき始められている。この小雪銅は、主に『弁明』 『クリトン』から原ソクラテスの主張を論理的に一まとまりの生き
方として体系立てることによって、先達の鋭い嗅覚を正当化することとなろう。この作業は同時に、更に大事でかつ大胆な論点として次のことを立証することになろう。それは、今整理したテイラーの〃ソクラテ
スの哲学〃のうち、特にT6・T7・T8からみてとれる、知を善きものの使用・享受の手段とする謂わば目的論的立場、知こそ成功の鍵となる手段だという正にこの立場こそ、原ソクラテスが最終的
には自己の立場とは折り合わないとして退けていた、ということて(8)ある。著者プラトンは原ソクーフテスを謂わば反目的論者として再創 造している、というのが筆者の読みである。このT6~T8での立 場とは、正に『エウチュプロン』『エウチュデーモス』『プロタゴラス』 『カルミデス』『メノン』といった対話篇では、明瞭にソクラテスの 吟味対象となる対話相手の立場なのであって、ソクラテスの立場で
(9)はない。むしろソクーフーナスは、この立場と相容れない立場をはっきりと『弁明觜クリトこて打ち出している。 先のテイラーの解釈は、プラトンがソクラテスの吟味反駁活動を 描くのに採択した対話劇という形式を充分にふまえていないのでは ないか。そこでは対話人物ソクラテスの言葉は常に吟味される相手
に向けて発せられているのだが、T1からT、までの整理は、反駁する人とされる人の立場を一緒くたにして、|つの主知主義的目的論者としてのソクラテスを仮構したのてはないだろうか。では、以上のテイラーの解釈に対して原ソクラテスは実の所どこ
に立っていたのか。先ず、ソクラテスが倫理学の始めとして何を問題にしたかを確認しておきたい。●●●aソクラテスにとって唯一つの大きな問題は、「善き人(ホ・アガトス)として生きるとはどういうことか」てあった。『クリトン』
卜。あすで「最も尊重すべきことは、生きることではなくて、善くエウ・ゼーン
生きることである」とのソクーフーナスの、というより倫理学そのも のの根本原則が語られる所以である。ソクラテスにとって「善く 生きる」とは「善き人として生きる」に等しかったのである。 Ⅲ他方で彼には、「善き人とは何か」その全貌を掴んでいないと の自覚があった。それは同時に「他の人を確実な仕方で善き人へ
とする、そのような知をもっていない」との自覚につながる。これは、『弁明』での「青年を堕落させる」との告発に対する彼の 弁明から明らかであ麺。そこから「私はかつて誰の教師にもなっ(、)たことがない」との一一一一口明が出てくる。ソクラテスにとって一一一一口葉の真の意味で教師とは、もしいるとすれば、他の人を善き人にする 専門家である筈だったからである。 cこういう仕方で無知の自覚をもつ人は、「私こそ知者であり、 その知によって人を善き人にする教師である」と「徳(アレテー) の教師」を公言する人の言葉が真実か否かを吟味したくなるだろ
う。そこで当然のこと、ソクラテスのソフィストに対する吟味が展開される。以上が、ソクラテスにとって愛知の活動(ピロソピァ)が生じてき
た基本的な問題場面であった。さて、この吟味活動において明らかになったことは、この徳の教師を自認する人々あるいは〆ノンのように伝統的アレテー観を奉持
して疑わない人々が〃善き人〃と考える人は、まさしく先のティラ ’一一、基本的な問題と論争点
-
-
 ̄
~〆
ノクラテスのアレテー観念について
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Iの解釈T1・T2・T3にある現実的な成功を達成した有能な人間、即ち善きもの(タ・アガタ)の獲得・享受を存分にやってのける●●●●●●●●●●●●●●●人に他ならなかったことである。ソクーフテスはまさしくそのような●●●●●●●●●●●●●●●●●●●〃善き人〃の観念に異議を唱えているのである。そこでこれから論述していくソクラテスの立場をめぐる問題点を、今あらかじめ簡単に説明し、以下の展望に役立てたい。iソクラテスが標的にしていたのは、今述べた成功l獲得人間を
〃善き人“とみるソフィストの人生観および類縁の伝統的アレテ
ー観てあった。では何故テイラーのような読み方がでてくるのか。それは、対話の場面では、ソクラテスは常に相手の信念(思い込み)の土俵でその〃善き人〃の観念を容認し、それに乗った恰好で問答をすすめるからである。伽そして、ソクラテス自身の知の観念を照らすものとして、「技術知との類比」という呼び名でしばしばソクラテスに帰されている論法も、先ずは吟味の途上で、むしろ相手の信念体系内部で要請されるものと理解すべきであろう。それは対話相手に向って「君のアレテー観念から言えば、善き人になるには善きもの(タ・アガタ)を確実に獲得・使用する、あエルゴンたかも間違わずに見事な成果を産み出す職人の技術知に類似した、なんらかの知か当然必要になるのではないか」との文脈で言及されるものだからである。従って、ある場面の「技術知との類 比」をソクラテス自身の主張とみるには、その対話場面の慎重な
検討が不可欠である。川これまでの解釈の主流によれば、ソクラテスは、人生を善く生きるためにその必要十分条件として「善と悪の知」を語ったとなる(T、)。だが、このような知にしたがって生きることが善く生きることてあるというのは、ソクラテス自身の主張であろうか。彼は、「『技術知との類比』論法で考えていけば〃善き生〃を成果
われわれは、以上のような問題点をめぐって従来の解釈に対する異議申し立てを以下で行なっていきたい。即ち、通常ソクラテスを として産み出してくれるような知が必要になるだろう」と論じるだけで、かかる知が可能であるとはどこにおいても主張・証明していない。実際『カルミデス』『エウチュデーモス』『メノン』て示
唆される、様々な善きもの(諸技術、精神的卓越性、身体的善、外的善)を確実に有益な仕方で使用させる、そのような管理・支配の知が果して可能であるかは問題であり、予め一一一一口えば、筆者にはソクラテスがこの方向で〃善き人〃のアレテーを考えていたとは思えない。なぜかと言えば、この方向では人間のアレテーの発揮のためには、先ず伝統的な考えと同じく、今挙げた通念上の様々な善きものを当人が所有していることが必要不可欠になる。それらを本人の益に使うことがアレテーなのだから。しかし、特に原ソクラテスはそのような考えを主張していないし、何よりもプラトンは逆にかかる善きもの(特に外的善)に恵まれなかった人(ソクラテス)が如何に真のアレテーを具え得たかを示していろ。Ⅳ更にこの考えては、知が重視されるのは結局善きものを人間が有益に用いるためてあり、知がアレテーであるとされる根拠は、あくまでそれが様々な善きもの(タ・アガタ)の享受に有効な手段となるからに他ならない。その意味て「善き生」の説明の中ては〃タ・アガタ〃への言及が必須のこととなる。しかし、「徳(アレテー)は知なり」という命題をこの文脈で捉えて、しかもこれをソクラテスの立場であるとすることは、多くの解釈者が謡うところであるにせよ、今一度問い直す余地のある解釈であ鼬。
あるいは、そのような考えを社会全体の善きものの管理ということで、個人から社会全体に安易に拡張するならば、全体主義的体制に道を開く社会工学的な発想がソクラテスに由来する、ということになりかねない。四
篠崎 栄 62
ソクラテスは『弁明』において、自分に評判として立てられた「ソポス(知恵者Eという呼称の由来を解き明かす過程で、自己における知と無知のあり方を語っていく。彼はそこで、〃善き人〃を「カロス・カイ・アガトス(善美の者Eと呼び、そのような人のもつアレテーを「人間としての徳(アントローピネ1.アレテー)」と呼んて、「自分は他の人にかかる徳を備わらせるⅡカロス。カィ・アガトスにするⅡ人を教育する、ということはできない。そのようなことができる人がいるとすれば、その人は〃超人的知恵〃(gの])をもっている人てある。自分はそれでもって他の人を善き人に教育
するそのような知については無知である」と公言す鼬・即ちここで
●●●●
ソクーフテスがそれについての無知を公一一一一口するそれは、「善美のこと
〈M)(カロン・カイ・アガトン)」と表現されている。従って確認す.へき●●ことは、それを知らない以上、ソクーフテスもまた端的には「カロス・カイ・アガトス」とは言われえないということである。そのことは「ソポス」という言葉の用い方にも明瞭に表われている。というのは、ソクラテスが「知恵ある」と一一一一口われるときは、ソポ-テロス(旧〉「より知恵がある」と比較級で語られていること、逆に自己の無知ソボスを表明する文脈では「自分が知恵ある者とは身に覚えのないことだ」
〈巴悪)と原級用法で使い分けがなされていることである。その中て
巴呈1℃は、自分のことを原級で「知恵ある」と述べるが、それは相手の一一一一口い方に合せて、しかも「その点では(冨昌の己」との制限句
を付けてのことである。即ちソクラテスは、自分のことを端的な仕主知主義者として提示する命題「徳は知なり」がどのような文脈か
ら生じたのかを問い直したい。果してその命題を導いた「技術知との類比」という論法は、本来のソクラテスの思考においては如何なる文脈で生じたものなのであろうか。四、『弁明』での〃人間並みの知恵〃 方で「ソポス(知恵ある者)」とかその知恵ゆえに「善き人」とは呼 んでいないのであ魂・ ては何故自分には「ソポス」という名称が帰されたのか、と続け
てソクラテスは問う。そして彼は、「ソクラテスより知恵のある者なし」との神託を反駁しようとして、他の人々を訪ね問うた末に、
この「善美のことへの無知の自覚」の有無の差で、どうやらその神託が真であることを確認するに至る。この限りで、自分に与えられた「知恵者」という呼称を容認し、そのような知恵を「人間並みの知恵(アントローピネー・ソピア)」と呼ぶのである(邑呂》田口『)。ソクラテスはこのように知への自分
のかかわりを、この「無知の自覚」と「人間並みの知恵」という表裏一体の二つの表現で語っている。ではこの〃人間並みの知恵〃とは、どのような意味でソクラテス●●●●●を「最も知恵ある人」その限りで「善き人」にしていたのか。〃人間並みの〃というのは無論「人間にふさわしい」「人間に許された限りの」という意味で、「神の」と鋭い対照をなす言い方である。実際ソクラテスは、鴎四で「実の所、神こそが知恵あるもの(ソポス)てあるのだろう」と神についてのみ厳密な意味で原級の「ソポス」を語っている。そして続く個所で、「ソクラテスより知恵ある者なし」との神託の意味を次のように解釈して、その真を確認する。つ
●●●●●●●●●
まり、人々のうちではソクラテスのように(ず自己の【の弓【昌田)自分は
知恵(ソピア)にかんしては真実のところ何の価値もないのだ、と認識した人が、最も知恵ある(ソポータトス)のだと〈圏二。ここで最
上級で語られ、神の知恵と鋭く対照されて認められるその知恵が〃人間並みの知恵〃なのである。では、この〃人間並みの知恵〃はいかなる行為原則を積極的に含意するのか。実は『弁明』のクライマックスに当るソクラテスが自
己の吟味活動を神命として語る浸す1巻Oは、この行為原則を、ソク●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●一フテスのように無知を自覚した人間には普遍的に妥当するものとし五
ソクラテスのアレテー観念について
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て、体系的に語っている個所である。その意味でここのソクラテス は、|回的・歴史的な制約を脱して、善き人の生き方を可能な限り 明断に語るロゴスそのものへと純化されている。ここには倫理学の
始め(アルケー)がある。さてソクラテスは、これきての青年たちとの対話吟味活動を弁明 し、かつこれからも放棄する気のないことを、「持場の死守」こそ
人間にとっては大原則であるからと説明する。sI「もしひとが最善であると考えて自分自身をどこかに配置す
るか、あるいは長官によって配置されるなら、わたしに思われるところでは、そこに留まって危険を冒さなければならないの である。死もその他のことも恥(アイスクロニより先には決し て勘定に入れることをしないで」(湯so この原則S1を支える考えは、「持場の放棄」はたとえそれが死 の恐れゆえにであっても、恥ずべきことであり、入たるもの何より 「恥を避けて生きねばならない」との考えてある。ここでは、兵士 にとっての敵前逃亡がその恥の典型として考えられていよう。この 「恥の回避」をソクラテスは、死よりも恥を恐れたアキレウスの話 しをその前で引いて強調しているが、それによって彼は、自己の行 為のあり方がギリシア人の伝統の最も善い部分に沿うものであるこ とを示すのであ駈・ このように〃人間並みの知恵〃は、最も尊重すべきこととして、 「恥を避ける」との原則を護持する。そしてその恥とは「生命を失 うこと」てはなく、形式的に言えば「持場の放棄」に他ならない。
●●●
さて今引用したS1に続いてソクーフテスは、自分に与えられた侍
●●●●●●●●●●●●●場を「わたし自身と他の人たちを吟味する仕方で知を愛し求めつつ 生きること」(農①)と規定しているが、その持場を説明する彼の弁明 には〃人間並みの知恵〃が含む積極的な行為原則が語られている。 てはソクラテスが考えるところ、一個の人間にとって最も避ける べき恥とは何か。即ち「持場の放棄」という行動を産み出すような
(一ハ)魂の恥ずべ、きあり方とは何か。彼の「無知の自覚」と「本当の所、 神こそが知恵あるのだ」〈屡巴との一一一一口葉、更には人々の「知らないの に知っていると思う無知」(暗す)への激しい非難を考え合せるなら ば、魂のあり方の点で一個の人間が第一に避けるべき恥とは、「人 間の分際を忘れて神と等しくなる」というヒュブリス(思いあがり)
てあろう。とすれば、〃人間並みの知恵〃が含む第二の教訓として次のように言うことができる。s2「知恵(ソピァ)に関して人間の分際を守ることⅡ神にしか許されていない善美のことの知を自分は持っていないと自覚すること」。これは、「知らないのに知っていると思い込む、最も恥ずべき無知」(患す)に陥らないことを意味する。そしてこの教訓を「死」に適 用すれば、「死を恐れてはならない」との教訓になる。何故なら「死 を恐れる」とは、「死はあるいは最大の善であるか誰も知らないの に、最大の悪であるとよく知っているかのように恐れること」(遷四’す) だからであ孤・ この恥ずべき無知(Ⅱヒュブリス)に陥ることから「自分より善き者 の命令に不服従である」との誤まりがでてくる。何故ならば、その
●●不服従の理由は「この場合は命令に従わないほうがよいのだ」との 思い込みか、死を恐れてのことかであろう。前者は、善美のことを 自分より弁えた者に比べて自分のほうが知っているのだと思い込む ことであり、後者もまた「恥ずべき無知」に他ならない。 とすれば、自分より善き者への不服従は、人間としての守るべき
●●●●●●●●●●●●●●分際を越えるヒュブリスに他ならないが故に「不正をなす(アディ ケイン)」という性格を帯びることになろう。であればこそ、ソク
ラテスは次のように断定する。ss「不正をなすこと、即ち神であれ人であれ、より善き者に不 服従であることは、悪であり恥ずべきことであることを私は知
っているのだ」(昭三。篠崎 栄
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つまり、何故ここで「不正をなすこと」が「より善き者への不服 従」として説明されるかと言えば、それらは結局、「無知の自覚」
という〃人間並みの知恵〃を守らすにその分際を越えること(ヒュブリス)に他ならないからである。即ちこの〃人間並みの知恵〃を守るとは、人間の定めとしてある善美のことへの無知を知っているとの思い込みで決して埋めること●●●をしない、ということである。そして正しさ(ディカイオン)とは、その無知を無知として認めて、人間は神と等しくないとするところに成立する。そこで「恥ずべきことを避ける」との根本原則から言って、この
S3で「恥ずべきこと」とされた「不正な行為」は避けねばならな
い。それ故、次の原則が主張される。デイカイア・プラッテインs4「事を行う場ムロにはいつも、正しいことを行うか不正なこエルゴンを行一つか、即ち善き人の業を行うのか悪しき人の業を行うのかということのみを考察する」〈冨已。ここで「善き人(アガトス・アネール)」とは、「善美のことを知る」という理念的目標に照らして「善き人」と評価されているので●●●●●●●●●●●●●●なく、正しい行いを為す、より基本的には不正を避けるという点で評価される「善き人」のことである。以後この論述で「善き人」を善き人たらしめている徳(アレテー)をこの観点から呼ぶときには、
(⑲)
「ディカイオン・アレーナー」と呼んでおきたい。以上、S1からS4は〃人間並みの知恵〃がもたらす教訓の第一段階と言える。それは、「最も恥ずべき無知に陥らないこと」としてまとめられよう。では、ソクラテスのように善美のことの知恵を持たないことを自
覚した人はどうしたらよいのか。しかも人間は神と違って善美のこ
とについては知恵者たりえないのであれば。一つ考えられる途は、知恵を放棄して、「これが私にはよい生き方だ」とのドクサのまま に生きることであろう。この途をソクラテスは承認しない。彼は、知恵を持たないが故にその知恵へ人間に可能な限り近づくこと、即ち知を愛し求めるべきこと(ピロソペーテオン)を唱導する.(農&.●●●
ご&)&)。知者たりえない人間は愛知者となるべきなのである。
これが〃人間並みの知恵〃の教訓の第二段階である。それは、神と●●●合一されざる人間の定めを認めながら、完壁な知恵を有する神に可
・・・・・・。。(卯)能な限り似ることである。先述したように、ソクラテスにとってはこのピロソピアという活●●●●●●動は、「他の人々をも吟味する仕方で」遂行されるべきものであり、ここに彼独自の持場があった。同朋をヒュブリスから救い、〃人間並みの知恵〃への復帰を促すその吟味活動は、彼の友愛(ピリア)の業でもあったが、同時に彼はその活動をはっきりと神からの命と理
(別)
解していた。ところで、他の人々の吟味が同時に自己の吟味になるこの「自他の吟味」としてのピロソピァの形はかのソクラテスに特有のものではあっても、そこで実践される愛知の活動それ自体はソクラテスのように無知を自覚した人には誰にても当てはまることである。それをソクラテスは『弁明』の中て繰返し(患の》窒口謡O)「魂を気遣う
こと」として次のように説く。「魂(自己自身)ができるだけ善きものとなるように気遣いなさい」と。更に霊。では「魂ができるだけ善きものとなる」を「魂ができるだけ知あるもの(プローーモータトス)となる」と言い換えている。とすれば、邑忌で「徳(アレテー)を気遣うように」と一一一一口われる「アレテー」とは、この「できるだけ知あるものとなる」との観点からの魂の善さてある。従ってこの愛知の活動が目指す魂の気遣いと●●●●●●●●●●●●は、要するにできるだけ知あるものにすることで魂を善くすること、この意味でのアレテーの気遣いである。
●●●●●●とすれば、ここで考えられているアレテーを、先に不正を避けるとの観点で名付けておいた「ディカイオン・アレテー」から一応区
 ̄~
七
、■=
ソクラテスのアレテー観念について
59
これまでの検討からわれわれはソクラテスの主張の中には、「魂が善くなるとは、それが一層知あるものとなること」というプロニモス・アレテーの考えがあることが確認できた。とすればこの意味
●●●
て「徳(アレテー)は知(プロネーシス)なり」とのテーゼは、理念的
●●●●●●●●●●●●な目標を示すものとしては、正にソクーフテスのものと一一一一口える。だが問題は、ここで意味される「魂ができるだけ知あるもの(プローーモータトス)となる」ことが、|「てのテイラーに代表される〃ソクラテスの哲学〃において語られる知、即ち様々な善きものを適切に使 別することができよう。以後の論述で、この意味でのアレテーを「プロニモス・アレテー」と仮に呼んでおこう。●注意すべきは、ソクーフテスが魂を気遣うように勧めるとき、「て
●●●●●●●●●きるだけ善きものであるように」「できるだけ知あるもの》てあるように」と最上級用法で語っていることである。即ちこのプロニモス・
アレテーの意味では、人間は端的な仕方で「善き人である」ことは
てきす、それは理念的な目標として留まっていることを暗示する言い方であ髄一・
即ちソクラテスの語り方は、「善き人」を「不正を避けるⅡ正しさを守る」との観点から語るときには「アガトス」という原級を、「知あるものとなる」との観点で語るときには「ベルティストス(できるだけ善い上という最上級(つまりは比較級)を用いている。
言ってみればソクラテスはへ「正しさを守る」という点では自らを「善き人」として評価しながら、同時に「善美なることとは何か」
についての知・理解の点では不完全にしか「善き人である」とは言えないとしていると思われる。即ちソクラテスにあっては、「何がく銅}不正か」の知と「善美のこと」への無知は両立・同居している。『弁明』を貫く知と不知との緊張はここにある。
五、『クリトン』の検討
用することによって人生での成功Tエウダイモニァの達成)へと導いてくれる、そのような知を持つことを意味しているのか、ということである。今、予見的に言えば、「アレテーはプロネーシスである」というソクラテスのテーゼと通常テイラーのようなまとめてソクラテスの命題として語られる目的論的主張である「徳は知なり(ご】1口①厨(別)
丙ご○言]の。、の)」とは別のことてあろう。というのも『弁明』『クリトン』て魂の善さと結び付けて語られる
「知あること」は、様々な善きものを使いこなすという現実的な利益を離れたところで語られていると思われるからだ。それというのは、『クリトン』ては様々な善きもの(生命の保証、友人の評判を厄
めないこと、敵を利さないこと、扶養義務を果せること)を理由にクリトンが強く脱獄を勧めるのに対して、ソクラテスはそのような善きものとは別種の「魂の善さ」を基準にその勧めを拒否するが、そのとき彼が重んじるのは、知ある人(ホ・プロニモス)の下す判断なのである。では、『弁明』て「魂ができるだけ善くなるように気遣え」と言
われるその魂はどうしたら善くなるのか。それは、魂とは何か、から当然答えられるべきことである。『クリトン』てソクラテスは魂
卜・ディカイオンを指して、「われわれには正しい行いによってより善くなる(益される)ものがある」ことをクリトンとともに確認する(合貝ミの)。即
ちここでは、「魂が善くなる」ことを再び「正しい行い」から説明している。先の区別で言えば、ディカイオン・アレテーからの説明てある。そして「何が正しい行いか」を見極めるために、われわれは「知ある人」の判断に従うべきことが同意される。とすれば、ここで知とは正しさを洞察するためにこそ必要とされ、様々な善きものを確保・使用するという目的論的枠組の中ての手段とは考えられていない。従って『弁明』『クリトン』での「知ある(プローーモス)」
を、多く三口①一の丙ロ○コ一のQmの多の戸口○三のq囚①と重ねるのは、文脈の ̄、
八
篠崎 栄
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(お)異なりを無視する解釈と一一一一口えよう。
一言て一一一一口えば、ソクラテスにとって「徳ある人として生きる」即
エウ・ゼーンち「善く生きる」とは『クリトン』』⑪すに主張されているように
ディカイオース・ゼーン「正し/、生きる」ことに他ならなかった。
●●●●●●●●このように「正しく生きる」として規定される「善く生きる」は、
テイラーが典拠にする『エウチュデーモス』弓函①の「すべての人はよく生きることを望んている」と言われる場合の「よく生きる」て
はない。何故ならここの「よく生きる」は「幸福であること」と殆ど同義であるが、「正しい行いをする」ことは必ずしもすべての人の望みではないからである。では、ある行いが「正しい行い(ディカイア・プラークシス)」てあるとの判断をわれわれはどこから得るのか。これに答えるのが、
「判断(ドクサピについての最善のロゴスを確認する『クリトン』
会巳l浅口巴の問答である。この問答は、多数者の下す評判とその力への配慮から、状況によっては多数者の判断に従うのが正しい行
いだとするクリトンの考えを論駁する部分である。その問答をかいつまんでまとめよう。先ず、われわれがそれに従
って行為するそのような判断としては、どんな判断でもよいというわけではない。即ちある種の問題については、「尊重すべき判断」
がそれとしてわれわれの思い込みとは独立に決まっている。ではどんな判断を尊重すべきなのか。有用な判断(クレーステー・ドクサ)をである。ではどのような判断が有用なのか。それは、知ある者(ホ・プロニモろの下した判断である。このように問答は、様々な領域での行為において行為がそれに従って為されるべきそのような
●●●●●
判断を、どんな人が下した判断かによって見分けるべきてあるとの
結論を得る。次にそのような「知ある者」は、問題の領域での専門家であるのだから、多数者に対してはごく僅か(象徴的に「|人」とソクラテ スは言う)にすぎない。それ故、われわれは多数者の判断を尊重し てはならず、それぞれの領域における一人の専門家の判断を尊重せ
ねばならない。ては何故その一人の判断に服従せねばならないのか。それに対して『クリトン』ては、もし従わないならば、その人は自分のなんら
かの部分に害悪(カコニを蒙るからだ、とする。そしてこのことを説明するための論法として、ソクラテスはディカイオンが問われる領域と技術知によって為すべき行いが教示される専門の領域とを類 比的に論じる。そこで例となる典型的な技術知は体育術である。類
比は次のように考えられている。「体を鍛える行いを知るには体育専門家の判断に従えばよい。その判断に従わないで非専門家の判断に従うならば、その人は体育術が関係するところの身体に害悪を豪ろ」。それと同様に「正しい行いを知るには正・不正をよく心得た人
の判断に従えばよい。その判断に従わないで多数者の判断に従うならば、その人は正・不正が関係する当のもの(魂)に害悪を蒙ろ」と。これは、人を善美の人へと教育できるのは、もしいたとしても極く少数であることを、馬の調教師という専門家との類比で論じた『弁明』邑四1,での問答部分と同趣の発想であり、これらの個所が他の初期対話篇での所謂「技術知との類比」という論法の基本的形態をなしているのである。注意すべきことは、『弁明鵠クリトン』
いずれの個所でも、この論法は問答相手ないし聴き手の思い込みをただすための便法として採用されている点てある。即ち『弁明』て
は聴き手の間にある「ソクラテスは徳の教師である」との思い込みをただすために、めったな人でなければ徳の教師にはなりえないことを示唆し、『クリトン』ては、多数者の判断をも状況によっては 尊重せざるを得ないとのクリトンの考えに対して、それを論駁する
文脈でこの論法は使われるのである。「技術知との類比」はこのように先ずは相手あっての論駁のための便法なのてある。 ここて見逃してならないことは、両個所は、人を善美の人へと教
一、
九
ソクラテスのアレテー観念について
57
育てきる人や正・不正の専門家がいることを前提としているわけではなく、むしろどちらかと言えば否定的、少くともそのような知者
の存在を主張することは控えている点でああ。
以上のことは、他の初期対話篇での「技術知との類比」という論法が、アーウィンなどの解釈するように積極的な道徳知の特徴を示
唆するためというよりは、基本的には逆に、「善く生きる」こと力 、。■|種の技術知によって可能になるとする、生全体に対する技術-合
理主義的な立場への反駁のために採用されているのではないかと予
想させるに充分である。さて『クリトン』ては先の類比に続いて、身体の場合と魂の場合 とで比較が行われ、正しい行いによって善くなるはずだった当のも
の(魂)が悪を蒙り損われた状態と、身体が害された状態とでは、いずれが生きるに値しないかを比べる。そして何よりも前者の状態こ
そが生きるに値しないことが了解される。即ちこの文脈では、生が生きるに値する(ビオートス)か否かは、直後に承認される大原則司善く生きること』は『正しく生きること』と同じである」と軌
を一にして、正しい行いをするか否かとの視点から専ら考えられているのである。とすればソクラテスには、「善く生きること」を善きものの獲得・享受そしてそのための手段としての一種の技術知から説明してい く考えはないてあろう。彼は「善く生きる」における「善く」を、 「正しい行いによって魂がより善くなる」との説明を介して「魂の
善さ」からのみ考えている。このようにして彼は、人々の思い込みの中にある「善きもの(タ・アガタ)」と「善く生きる」ないし「善き人(ホ・アガトろ」との結び付きに換えて、「正しい行いをする人」として「善き人」を語るのである。かくして、「正しさを守って生きる」Ⅱ「魂をより善くして生きる」Ⅱ「善く生きる」との等式が
成立する。第一の等式では、「魂がある」とする立場で、事実としての「正しい行い」が「魂の善さ」という一種の善(アガトン)とし 常識人クリトンと共に考え、彼を説得するに以上のような仕方で「善き生」を規定したソクラテスは、その問答の結果、次の幻、印
Ilの重要な区別を明確にしたのである。のアレテーについては伝統的に「善きものどもを獲得し、享受す
ぐる能力」という「善きもの」とそれを使いうる「能力」とから規定する考えがある。クリトンが脱獄を勧めるときに、その説得のために彼が切り札として投げかけた言葉は、「君はまさに善き人にして勇気ある男が選ぶところの途を選ばねばならぬ。少くとも全生涯を通じて徳(アレテー)を気遣うよう主張してきたからには」(一己)てあった。ここで
クリトンが「善き人」「勇気ある男」「徳」といった言葉に込めた考えは、この伝統的なアレテー観念に直結したものである。③このアレテー観念に対してソクラテスがはっきりと主張してい
るのは、「不正を行うことこそ恥ずべきことと考えて、正しさを守ること」とのアレテー観てある。このアレテー観念を、われわれは『弁明』囚等lどCの「ソクラ
テスのように無知を自覚したすべての人」に当てはまる行為原則を整理するなかて確認してきた。そして『クリトン』という作品は、 この凸の意味でのアレテーを具えた「善き人」が、親友による切な
る脱獄の勧めという一つの状況に直面したとき、如何に思考し、行動したかを描いた作品なのである。その思考と行動に先のプローーモ
ス・アレテーとディカイオン・アレテーは統一されている。この作 て説明されている。それを承けて第二の等式は、タ・アガタの所有てはないにしても、自分が大切にするものを善いものとしてもつとの共通性から、通俗的な「善き生」の観念をもつ人にも説得力のある主張となっている。六、二つのアレテー観念
〆室、
○-戸
篠崎 栄
56
品では、お①まて、先にクリトンの言葉として引用した以外に「アレ
●●●●●●テー」という一一一口葉は語られない。それは、この作品がアレテーにつ
●●●●●●●いて問答するソクーフテスをでなく、その語りと振舞いがアレテーに●●●●●●●
他ならなかった一人の人間を描いているからではないか。 そしてこの新たなアレテー観念は、『弁明』浸すでソクラテスの 生き方を理解せず、伽の伝統的アレテー観念に照らして「ソクラテ
スよ、君は恥ずかしくはないのか。そのために今や君が死んでしまう恐れのあるそんなことを仕事にしたことを」とソクラテスを非難する、そのような人々への応答として述べられたのである。その人々からみれば、様々な善きものの基底をなす自分の生命を社会的勢力関係の中て守れないというのは、伽の意味でのアレテーの欠如、
恥ずべきことに他ならないのである。とすれば、われわれはソクラテスによって提示されるこの新たなaのアレテー観念が、⑳と並ぶもう一つのアレテー観念としてては
11なく、むしろそれに取って代わるべき真実のアレテー観として主張されていると考えるべきだろう。そこでこのことを確認するために、われわれは原ソクラテスの思考がそこで強く示唆されている『メノン』篇の一節(コウー畠の)を検討しておきたい。
「アレテーとは何か」と問われて、青年メノンはためらわずに「アレテーとは見事なものT善きもの)を欲求して、それを獲得する能力のあること」と答える。この答えは、「欲求されるものはすべて善に他ならない」との論点を承けて、「アレテーとは善きものを獲得する能力」とまとめ上げられる。このホメロス以来の伝統的アレテー観⑳が「真実を語るものかどうか」(易&)を検討する過程
1で、或る決定的な問答が展開される。ここてソクーフテスは、先ずメノンの考えている善きものが、健康・富・金銀・地位・権力といった通念上の善に他ならないことを確認する。次に、「アレテーとはそれらの善を獲得すること」と言うだけでよいのか、それともそこ に「『正しく、敬虐に』という一句(ト・ディカイオース。カイ。ホ このaのアレテー観によれば、通念上の善きものを獲得する力の
1ない人も、正しさを守ることによって可能な限り「善き人」たりえ ることになる。とすれば、善きものの獲得・享受の能力を知として 語る「徳は知なり」をソクラテス自身のテーゼとみるのは殆ど的は
ずれとなるのではないか。ではどうして、テイラーの整理T7・T8のように、このテーゼ
シオースピを付け加える必要があるのてはないかと問い、メノンの了解を得る。即ち「善きもの」を獲得したとしても、もしそれが不正な仕方で(アディコース)得られた場合ならば、それは悪徳(カ キァー)と呼ぶべきであることが承認される。この承認は直ちに「も
●●●●●
し獲得することが正しくない場合には、その善きものを獲得しない
●●●●●●●ことが徳である」という主張を産み出すの》てある。この問答が何故重要かと言えば、ここで登場人物ソクラテスは、 メノンの提出する伽として理解された伝統的アレテー観念に乗った とみせて鮮かに「善きものどもの獲得能力」というアレテー観念を 根底から否定しているからである。ソクラテスがこの問答で示そう としたことは、伝統的アレテーをアレテーたらしめていたのは、獲 得志向青年メノンが理解していたように「獲得の能力」てはなく、
●●●●●●「正しい仕方で(ディヵィオース)獲得したか」てあるという点であ る。その意味で「正しさを守って事を行ったか控えたか」というこ とこそアレテーの有無の分れ目で、「善きものどもの獲得能力」て
はなくて「正しさの守りⅡ不正の回避」こそアレテーをアレテーたらしめる本質である。このように『メノン』においてソクラテス は、伽の伝統的アレテー観念に取って代わるべき、あるいは伝統的 アレテーを何故アレテーとみなすかというその理解を修正するもの
(幻)として、㈹の正しさ中心のアレーナー観念を示唆するのである。
七、「徳は知なり」の二つの文脈
一 一
一
 ̄ ̄
ソクラテスのアレテー観念について
55
が従来ソクラテスに帰せられてきたのか。それは、『弁明』『クリト ン』て強調される「魂の善さはそれができるだけ知あるもの(プロ ニモータトろになることだ」との主張ゆえであろう。先ず、その 〃プロニモス〃という形容詞が知・理解という意味の〃プロネーシ ス〃を連想させる。そしてプロネーシスを「善きものどもの獲得・ 使用のための一種の能力」と解し、それをいくつかの対話篇で示唆 される「善と悪との知(エピステーメー、プロネーシス)」に重ね 合せて解釈するところに、テイラーの物語が出来てきたと思われる。 しかし、それらの初期対話篇で到達される「それぞれの徳とは結 局、善と悪との知に他ならない」との周知の帰結が、『弁明悟クリ トン』ての「善く生きるためにはできるだけ知あるものとなれ」と の主張と重なるとは筆者には思われない。何故ならそれらは、全く 別の文脈において出てきた考えだからである。というのも『ラケス』 『カルミデス』『プロタゴラス』などで到達される「徳とは善と悪と
の知に他ならない」との考えは、いずれも通念上の善をどのように獲得・使用することが本当にわたしにとって有益なことになるのかという具合いに、タ・アガタを中心にその獲得・使用が有益さ即ち 幸福に結び付くようにという目的論的問題の立て方の中から出てく
(配)ろ考えてあった。ここては対話相手の考えに△□せて、知識はそのよ
●●●●●うな有益さ・幸福を確実に産出する手段として考察されており、その意味でその考察は「知は力なり」とする近代の知識観を先取りしている。
『エウチュデーモス』圏つ四l鵠』①、『メノン』君の1毛□ては、そ
の知識は〃ソピァ〃〃プロネーシス〃と呼ばれるが故に、それは正にティラーの物語の中(T8oT9)て、『弁明』での魂の善さとして のプロネーシスと混同されるに至る。しかし、これら二つの対話篇 で知が問題となるのは、先ず物質的、精神的な善きものがあるとし て、それらに何が加われば幸福になれるかという、明らかに幸福を
目標とする目的論的発想の中においててある。更に言えば、この発 ●●●●●●●●●●●●想ては、善き‐ものを享受することが正しいことなのであって、そこでは「正しさ」とはその享受の成功から測られる概念にすぎない。つまりこの発想には、厳しい状況では善きものの享受を断念あるいは放棄すべきことを教えるような、先立つ正しさの観念はないのだ。即ち、これらの対話篇で「徳は知なり」との命題が示唆される文脈とは、「善く生きる」ことについての通俗的考え方、即ち「善き生とは幸福な生に他ならず、幸福とは善きものどもに恵まれ、それを享受できることてある」といった、ソフィストが支持した実生活上の成功を目標とする、そのような人生観の文脈なのてある。そこにはソクラテスが強調した善美のことへの無知の自覚はなく、欲求の対象をそのまま善と認めて省みない生き方がある。そしてアレテーのある人とは、そのような成功のために事を誤りなく行える人であるが、それが可能になるためには、どう行えば間違いがないかというそのノウ・ハウを心得ていなければならない。ここになんらかの知識の登場の必然性がある。ところで、事を誤たず行わせるそのような知識の典型は専門技術知〈テクネー)てある。そこから、「善く生きる」ために必要な知をテクネーを準拠にしてその諸特徴を考えていく、所謂「技術知との類比」という発想法が生れる。ただしそれはあくまで、目的論の発想で生きている対話相手(ソフィストあるいは彼らに教育された者)に向かって、ソクラテスが「君のアレテー観念(先の伽)ていくなら
ば、その成功のためにはどうしても、専門領域での技術知と同じような働きをしてくれるなんらかの知が、人生全体を導くものとして必要になりはしないか」と問いかけ、相手の立場が論理的に生全体に対する技術I合理主義に行きつかざるを得ないことを示すために用いられるのてある。先述したようにソクラテス自身は一度も、このような知が可能てあることを主張もましてや証明もしたことはない。それはすべて「君のアレテー観念で善き能を考えるならば」と (四)
いう仮定の話なのであう(》。_
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篠崎 栄
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それに対して、『弁明』て「魂ができるだけ知あるものとなるよ
うに気遣え」としてプロニモス。アレテーが奨励されるとき、ソク●●
ラテスは「魂が善くなる」を「できるだけ知あるものとなる」とし
●て説明しているのである。その考えによれば、知ることは直接に魂の善さなのである。確かに、より知あるものとなり、唯一「悪」の名に値する「魂が無知(アプローン)になること」から遠ざかれば、それだけ善きもの(タ・アガタ)を有益な仕方で使いこなすことが可能になろう。だがこれは結果であって、通念上の善をうまく使えることに魂の善さがあるわけてはない。魂の善さは、通念上の善から独立している。そしてソクラテスが魂の善さとして「できるだけ知あるものとなること」を強調するのは、正しさを含めた善美のことがわれわれの思い込み(ドクサ)とは独立に決まっているとの客観主義の立場に立つからである。善美のことは、各人のドクサいわんや欲求による選択の対象てはなく、知・理解の対象なのである。
結局、『弁明』でのアレテー観念は、四で一応区別して述べた
「不正を避ける」との視点(ディカイオン・アレテー)と正しさの一層の理解も含めた「善美のことの知にできるだけ近づく」という視点(プローーモス・アレテー)とから統一的に理解すべきものである。この両側面の統一にこそ充全な〃人間並みの知恵〃の発揮がある。そしてこれまでの論述が明らかにした点とは、このディカイオン・アレテーと一体となったプローーモス。アレテーとは、伽の伝統的ア
レテー観の枠組で示唆される擬似技術知としての徳とは別であるとの点である。以上をまとめれば、aの「正しさを守ること」とのソクラテスの
Iアレテーにおいては、不正を避けるという行動が常に「正しさ」のプロネーシス知的理解に裏打ちされている。この意味でプロニモス・アレープーはaの「正しさ」中心のアレテー観を支えているのであり、『弁明』
Iにおいてこのプロニモス・アレテーは、正しさを含めた善美のことの完全な理解にできるだけ近づくピロソピアとして語られていた。これまで筆者は、『弁明鵠クリトン』での「善き人」の観念がデ
ィカイオン・アレテーとプロニモス・アレテーの二つの視点から統一的に考えられていることをテクストから立証し、このような「善き人」を善き人たらしめているアレテーとは、⑳の意味ての伝統的
1アレテーではなく、凸の正義中心のアレテー》てあることを論じてき
くた。そして、「若く美しくなった」ソクーフテスの吟味対話活動を描く他の初期対話篇で言及される目的論の土俵での主知主義的命題「徳は知なり」は、ソクラテスの主張ではなく、mのアレテー観に
I立つ対話相手の発想枠の中て、その論理的帰結として擬似技術知の必要性を指摘するものであった。ては、このような対話篇を記したプラトンの立場はどうであったか。今、これからの研究のために予測的に言えば、『ゴルギァス』1
『国家』という中期のプラトンの仕事の意義は、旧のアレテー観を 夕・アガタ中心の伽のアレテー観に基づく幸福主義から切り離され
たところにではなく、むしろそのような幸福主義の枠組の中て位置付けることによって、常識人に対して正義を擁護することにあった
{釦)と筆者には思われる。『ゴルギァス』はそのための試論と一一一一口ってよ
い。ソピアそのものとしての神にあっては、「善とは何か」の完壁な理
●●
解・直視ゆえに謂わゆろ道徳的義務は生じない。それに対してその ような直視の許されない人間にあっては、それに近づく途上で「正 しさ」を核とする生き方をする必要がある。そこでピロソポスにあ
卜・ディカイオンっては、道徳的義務が生じるのである。『弁明』てはこの義務を「よ
り善き者への服従」として語っていた。そしてソクラテスにあってそのような義務はあくまで、「善美のことの知への途」として要請され、実践されたのである。八、前途瞥見
-~
一 一 一
 ̄
~〆
ソクラテスのアレテー観念について
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例えばポロスとの対話(特にミsl含丘)て共有された前提は、 「人は善きものどもの獲得によって幸福王ウダイモーン)になる」 てあり、そこで両者は「アルケラオスが財産。権力などの善きもの を、不正なやり方で獲得した」事実を認める。しかし、ポロスはそ れ故アルケラオスが並ぶ者がない程幸福であると評価するのに対 し、ソクラテスは「彼が不正な仕方でそれら善きものを手に入れた (別) のならば、彼は最も惨めな人間である」と評価する。 では何故同じ事実を認めながら正反対の評価に分れるのか。それ はソクラテスが「正義は最大の善きものであり、最大の善きものを 自ら逸した者は他の善きものを獲得したとしても惨めである」と考 えているからである。ここでソクラテスがこの考えを基に議論をす るのは、「善きものの獲得こそ幸福ということである」との成功を 幸福の基準と考える伝統的な獲得人間の土俵をポロスと共有した上 で、正義の価値を説得しようとするからである。そのために彼は
「正義こそ獲得されるべき諸々の善きものの中にあって最大の善である」と主張する。そしてこの点がポロスと分れるところなのであ
る。このような『ゴルギアス』篇での論法は、ソクラテスの正義中心 の生き方をなんとか常識的・獲得人間の生き方の枠の中て再度理解 し、「正しく生きること」こそすぐれた意味での「善く生きること」 との印のアレテー観を常識人に対して説得するために採用された論 法と思われる。これは『クリトン』での「少数派」(乞呂)を少しで も拡張しようとする、プラトンの世間への教化の試みでもあった。 そしてその集大成が『国家』篇での正義の擁護であったと考えられ るが、その説得・教化の途において導入せざるを得なかった目的論 的発想が、この小論でみた原ソクラテスの倫理にどのような変容を 付加することになったか、これは追跡されねばならない問題として (犯)
残されている。(’九八三・九・一一八) (1)この問題については、井上忠「プラトンのソクラテス像」(同著『哲学の現場』勁草書房一九八○年)六~九頁に事の本質を見据えた叙述がある。特に「歴史上の事実は、その過去性のゆえに、のっぴきならぬ完結不動の形をとっている筈だ、と速断するのは、なんの根拠もない仮定にすぎない」(九頁)。(2)以後、この『弁明』と『クリトン』でのソクラテスを特に「原ソクラテス」と呼ぶことがある。この呼称およびこれらの二つの作品の指定については松永雄二氏に倣っている。松永雄二「〈よい〉(善)というそのことへの接近」(九州大学哲学研究室編『行為の構造』勁草書房一九八三年)二八頁参照。また加藤信朗「知と不知への関はり」(『理想』六○|号理想社一九八三年六月〉の註(4)は、以上述べてきた筆者の解釈の前提を代弁してくれている。なお、特に『弁明』をプラトンのソクラテス像の規準(8口&の8口の)とすることを論じたものとして、○・ぐ]囚の8の》《目弓の勺四国1口・〆・命の自国〔$》冒目ゴの二一]・の。□ごommon『98&○・三口の8m】zの二目。『【巴。g・』’一を参照。(3)『弁明』岳の.$の》芒四》弓のl諸口など。(4)なお、初期対話篇群の中て、対話人物ソクラテスが老年て登場する『メノン』そして裁判の前の『エウチュプロン』という二つの作品は、初期対話篇群を総体として読み解くときには、極めて重要な役割を負荷されることになると予想される。(5)以下は、シ・向・月旦]・『》勺一日P岳①三目囚己宮の雪・『六・P・&・ロ]の【&・巳、①》←岳『のぐ一の史一のQ」畠「》弓・画③-房からの引用および一部分まとめてある。原著のイタリック体は傍点て示した。(6)最近の例では、ゴスリングとテイラー(C・C。W・)は、『プロタゴラス』の快楽説、これは筆者の解釈から言えば決してソクラテス自身コミットしていた理説とは言えないものだし、プラトンはこれをピロソピアの陰画として「常識人の立場に立つなら一番必要なものは快・苦の計量術でしょう」と書いているのに、彼らはその快楽説をソクラテスのものとする可能性を認めてしまう。]・○・国・の◎の言、陣○・○・・三・月昌一・『》目言⑦『$【の。p祠]の囚の日の.。×【・a】c豊ロ・雪(四面・】酉)また同じ読みは、曰閂『ミヨ一国go》の三○『四一円ロの。ご》oxmCa$ゴ》C・ご函(』.⑬)(7)松永雄二氏の前掲論文二九頁。ここて氏は、テイラーか典拠にした註