■弘前大学哲学会 公開講演
ソクラテスと現代
‑
「 恐ろしいことと恐ろしくないことについての知」としての勇気をめぐって‑
三 嶋 輝 夫
木 目の論題は 『ソクラテスと現代 』 とい う些か大袈裟な ものになってお りますが、ここ では勇気の概念に的を絞って考えてみることとしたい と思います。
一般にソクラテス とい うと
直ぐ 「 魂の世話
」 (psychestherapeは)とい う考えが頭に浮かび ます。それ と同時に魂を良い状態にもた らす もの としての徳の探求が連想 されます。周知 のごとく、当時の代表的な徳目としては、 正義
(dikaiosyne)、節度
(S6phrosyne)、勇気
(andreia)、 智恵
(sophia)の
L)LJ元徳があ ります。宗教的徳 目としての敬度
(hosiotes)もまた重要な徳 目の
・ つです。 これに対 して今
H最 も論 じられることの多い徳 目は
ll 二 義であるように思われま す。 この‑一 年閲の国際政治をめ ぐる論争においても、] L f. 義は依然 として最 も熱い、あるい は最 も人を熱 くす る主題の ようです。 しか し他の
古典的徳 目もまた決 して現代的意義を 矢ってはいないのではないで しょうか。いまだにバブルの 二 [ 欄 せ いに苦 しむ我がポ リスの 有様を見るにつけ、「 度を過 ごすなかれ !
」(medenagan)とのデルフォイの神殿の杜に刻ま れた格 言の l ト 三しさと節度の大切さを実感 しますOそれは物事の先 と底を見通す洞察 として の智恵の重要件にもつながることで しょう。では勇気についてはどうで しょうか。昨年来、
二つの事件をきっかけとして、いつにもま して勇気が話題にのぼる、あるいは称えられる ことが多かったよ うに思われます。二つの事件 とは、昨年
(2001年)
1月
26日の
JRl l l 手繰 新人久保駅構 内に於ける救出死事件 と
9)」11日のニュー ヨークにおけるテ ロ事件ですo
前者においては、ホームか ら転落 した人を助けようとして線路に降 りて棟死 した二人の 里性の勇気が称え られま したo後考においては、現場‑の救出に向かって命を落 とした消 防上たちの勇気が称賛 されま した。いずれの場合において も、人命救助 とい う高遇な 目的 達成のために死の恐ろ しさをもの ともせず行動することが 勇気であると見なされ、賞賛さ れていると考えてよいで しょう。 ところが意外なことにはソクラテスによれば、勇気 とは 決 して 「 恐ろ しいことに立ち 向 か う」 ことにあるのではな く、逆に 「 恐ろ しいことを避け る」 ことにあるようなのです。 これはいったい逆説なのか当た り前のことなのか、この点 についてプラ トンの作品のl f l で も勇気について主題的に論 じている作品を I f ) 心に考えてみ ることに しま しょう。
( 1) 『ラケス
』における二キアスの定義
初期対話篭の一つ とされ る 『ラケス 』 篇においては、先ず リュシマコスとメレシアスと
い う二人の父親か ら年頃になった 自分たちの息子を最 も優れた者にするためには何を学ば
せた らよいか とい う問が捉 出 され、その 問 に対 して魂 を優れた ものにす る要因 としての徳 の必要性が
確認 され ますUそ こでl . F ' . J 題はその肝心の徳を許が若 井達に教 えることができる のか とい うことにな り、次にその教
授 資格の 有 無の 基準 が問われ ます。その〕 胡 L ' : L として 立 て られ るのは 「 徳 とは何か」 を知 っているか ど うか、つ ま りそれについて 言葉で説u ) J でき るか ど うか とい うこ となのですが、 一 挙に徳の全体を扱 うのは難 しい とい うこ とで、取 り あえず ) . i 宵が学ぶ にふ さわ しい科 目 として勧め られた 「 市装武 闘 術」 と関係が深い ・ T
lJ j ( 吊こ ついて、それが何であるかが問われ る ことにな ります。
尖際の議論の 展 冊 としては、先ず 作 品の題 名に もな っている将埴 ラケスが ソクラテスの 問に答 え、彼が行 き詰まった ところで も う 一 人の将軍であるニキア スが登場 します。 ラケ スとソクラテ スのや り取 りの部分 も非常に興味深い内容を含んでいるのですが、 ここでは ニキアスの答 えに絞 って検 討す ることに したい と思 います。
ニキア スによれ ば 勇気 とは 「 恐ろ しいことと平気なことについての知識
」 (het(‑)ndel'n6n kaitham le6nepisteme)である とされ ます。 ここで 「 恐 ろ しい こ と」 と訳 したギ リシャ詔 は
"tadeina"で、定冠
詞 中性toの複数 主格形に形
容詞dcinonの小 作 複数 主格形 を加えた もの ですが、 「 恐れ るべ きこと」 とい う風 に規範的ニ ュア ンスを もたせ て訳す ことも吋能です。
とい うの も後で見るよ うに、本人か らすれば 「 恐ろ しい こと」が本来は 「 恐れ るべ きこと」
ではな く、実は本人に とつては 「 平気な こと」 こそ 「 恐れ るべ き こと」である とい うこと もあ り得るか らです。
『ラケス』の
Ill では、ニキア ス よ りも先に答 えるこ とに失敗 した ラケスは、ニキア ス も 失敗 させ よ うと、 このニキア スの定義 を攻め 立てます。問題は先の
tadcinaの内容です。
ラケスは先ず個別技術 に関 して、それぞれの管棺1 h 1 f i 域 にお ける 「 恐 ろ しい こと」 を知 ‑ 〕 ているのは、 「勇気 のある人」ではな く、それぞれ の領域 に関す るr 馴当家ではないか と尋 ね ます。例 えば、病気につ いて 「 恐 ろ しい こと」を知 /) ているのは医昔であ り、農作物 に 関 して知 っているのは良 人 とい うことにな ります。つ ま り現代の分か りやすい例で言 えば、
申なる円炎か胃癌か区別できるのは医 音であ り、稲 の状態 を見てイモチ病か ど うか判断で きるのは農夫 もしくは農業の上 狛' [ ] 家のはずだ と言 うわ けです。 と同時にラケスは、逆に こ れ らの専l ‖ ] 家が、それぞれの領域 にお ける 「 恐 ろ しい こと」 を知 ‑ )ている とい うだ けで ・ J i / j t t があるこ とになるのか とニキア スを 問 い詰めます。 これ に対 してニキア スは、例 えば医 昔が知 っているのは 「 健康的な もの」 と 「 病的な もの」 を見分けるだ けの ことに過ぎず、
そ もそ もある人物 に とって病気が治る j jが よいのか、それ ともそのまま死んで しまった
jJ‑が よいのか についての知識は持 ち合わせていない ことを指摘 します。 このニキアスの 回 答 は、彼 の考える 「 恐 ろ しい ことについての知識」が専門技術知 とは次元を異にす る もので あることを示 してい ます。結局、ラケスはニキア スを攻めあ ぐね、 憎 まれ I t を 叩 いた とで、ソ クラテ スに吟味のバ トンを譲 ります。
バ トンを引き継 いだ ソクラテ スは 先ず、 「 恐 ろ しい こと」の
意味す る ものの明確化に取
りかか ります。 ソクラテ スによれば、 「 恐 ろ しい こ と
」とは、 「 恐れ をひきお こす もの」で
あ り、また 「 恐れ
」(deos)とは 「これか ら′ I : . じる悪についての予 I t J
J」(prosdokiameHontoskak()u)に他な らない とされ ます。以 仁か らソクラテスは、「 恐ろ しい こと」 とは 「これか ら/ 上じ る悪」のことである と結論 し、ニキアスもこれに同意 します。 この 同 意を艇 予として ソク ラテスは
旧1芸的な議論の末にニキアスによって 与え られた 勇気の定義が
不十分であること を 上 張す るのですが( 1 ) この論駁 の妥当件 と意図について論 じることはそれだ けで独立 した 論 考を要す る作業なのでここでは割愛することに します。む しろ我々に とって重要なのは、
『ラケス』においては この定義がニキア スによって主張 され、ソクラテスによって 「 反駁」
されていることです。 ところが意外なことには、 この 作品 に続いて書かれた とされ る 『プ ロタゴラス』においては、 ・ 見 した ところ全 く I r r lじと思われ る定義が、今度はソクラテス その人によって捉唱 されているのです。果た して これはどうい うことなのか、先ずは問題 の箇所を見てみることとしましょう。
(2)
『プロタゴラス』における勇気の定義
『ラケス 』 同様、初期対話節の ・ つ とされ る 『プ ロタゴラス』 とい う作
品は極 めて華や かな演山が施 された 手の込んだ 作品 で、それだ けに解釈 一 例えば 「 快の計量術」をど う 位閏づけるか ‑ も容易ではあ りませんが、 ここでは勇気七 の定義だ けに注 目したい と思い ます。
既に見た よ うに 『ラケス』においては、「 徳 とは何か」 とい う問に直接ぶつかることは 避 けて、取 りあえずの万策 として 「勇気 とは何か」が問われたわけですが、それ とは異な り、逆にこの作品においては 「 徳の教師」を
l'13 忍す るソフィス トのプ ロタゴラスの徳理解 を検討する とい う形 を とりなが ら、最初か ら徳の総体がI r l i j 題 とされ、む しろ諸徳
和互の関 係 ‑ その 同 ・ 性 と差異伸 一 を問 う 中 で 「勇気 とは何か」 も問題 とされているとみてよ いで しょう。
人間 こそ万物の尺度である と主張する 「 人 聞ノ j物尺度論」で有名なプ ロタゴラスによれ ば、正義、節度、智恵、敬度などの徳は
互いに似通っているのに対 して
、勇気だ けは違 う
とされ ます。つま り 「 並はずれて不敬度、不i r : ̲ 、放将、無知な人情」 であ りなが ら、ただ勇 気だ けは とくに衆にぬきんでている とい うよ うな人々がいる」 (
359b3‑5藤 沢令 夫訳 岩 波文庫による) と上張 され ます。そ こで ソクラテスはこの勇気こ の特異性についての 目抜の 吟 味に片 手す るわけですが、 ここにおいて もソクラテスは 「 恐れ」を 「 悪いことの予期」
(prosdokiatiskakou)(2)
と言い換えた うえで、本来、好きこのんで悪いことを選ぶ人間は 一 人 もいないはず ‑ いわゆる 「ソクラテスの逆説」 ‑ であるに もかかわ らず、実際に は臆病な者 と勇気ある音が反対の ものに向か う ( もしくは反対の ものを避ける) とい う事 実か ら、臆病は 「 恐ろ しいこと ( ‑悪いこと) と恐ろ しくないことについての無知」であ り、その反対の 勇気は 「 恐 ろ しい ことと恐 ろ しくない ことについての知
」 (het6ndein6n kaimedein6nsophia)に他な らない と結諭 します。
ここで興味深いのは、既に指摘 しま したよ うに 『ラケス』においてはニキアスによって
提案 され、 ソクラテスによって反駁 されたかに見える勇気の定義が今度は、ソクラテス自
身のL l か ら 語 られ、二 L f. しいもの と見な されているよ うに見えることです。果た してこの勇
気の定義は肯定 されているので しょうか、それ とも否定 されているので しょうか。普通、
この定義をソクラテス臼身、 もしくは著者プラ トン自身の見解 と見なす解釈の有力な証拠 として挙げ られるのは
、『国家』第P L T 巻における戦土階級の徳 としての勇気の定義ですQそ こにおいては、勇気は 「 恐ろ しい もの とは何であ り、 どのよ うな ものであるかについて、
法律により教育を通 じて形成 された考えの保持」(
429C7‑8藤沢令夫訳 岩波文庫による) とされています。厳密に言えば、ここで 「 考え」 と訳されている単語は私見や信念を意味 す る
"doxa"であ り、既に見た 『ラケス 』 や 『プ ロタゴラス 』 における勇気の定義に現れる
「 知識」あるいは 「 知」を意味す る
"episteme"や
"sophは"と比べると認識論的地位の低い述 語なのですが、 ここではその相違は無視 してさしつかえないで しょう0
この 『国家 』 の箇所は確かに 一 つの有力な手がか りとなるよ うに思われますが、 ここで 私がその筒所以 日こ有力な証拠 として提出 したいのは 『ソクラテスの弁明』の
一節です.
最後に我々はプラ トンによる 「ソクラテスもの」のアルファに してオ メガ とも言うべきこ の作品に口を
rT.
]けることとしま しょう.
(3)
『ソクラテスの弁明』における 「 恐ろ しいこと」
『ソクラテスの弁明』においては、『ラケス』や 『プ ロタゴラス』においてな されている ような仕方で勇気について論 じられてはいません。それはむ しろ裁判の場におけるソクラ テスの言行を通 して示 されているのだ と言 った方が よいか も知れません。その中で も重要 だ と思われるのは、 ソクラテスが死 と不正のどちらを恐れるべきなのかを論 じている箇所 です。
そこで ソクラテスは
、自分が哲学的使命を遂行することによって命の危険を招いている ことを榔旅する人間に対 して反論 し、人は戦場において上官の命令に従 う以上の忠誠心を もって神の命令に従 うべきことを主張 します。
「‑ ・アテナイ人諸君、 もしか りに私 を指揮す るために諸君が選んだ指揮官たちが私 を配置 したその時には ‑ それはポティダイアにおいて もアンピボ リスにおいて もデー リ オ ンにおいてもそ うだ ったのですが ‑ かれ らが配置 した場所に私が他の人同様踏み とど まって、討ち死にする危険をF E ] ' しておきなが ら、他方、神が、哲学 しなが ら、すなわち自 分 白身 と他の人々を ともに吟味 しなが ら/ +こ きるよ うに命 じられた ‑ そのよ うに私は考え、
受けとめているのですが ‑ その時には、死や
何か他のことを恐れて持ち場を放棄すると した ら、私は恐ろ しいこと
(deina)を しでか したことになるで しょう。いかにも、それは 恐ろ しい= i
(deinon)で しょうし、その時 こそ私を裁きの場に引っ張 り出すのが兵に正 義にかなったことで しょう 。
」 (28d10‑29a2拙訳 講談社学術文庫による。)
以 Lの
引用の巾で 「 恐ろ しいこと」 とい う表現が二度繰 り返 されていることに注
目しま
しょう。 ソクラテスか らすれば、恐ろ しいのは命を矢 うことではな く、神の命令に背いて
哲学する とい う使命を放棄すること ‑ それは最大の不正をおかす ことに他な らない ‑
なのですQそ して、この箇所に続 く言葉の中で説明されるよ うに、必ず しも悪いことと汰
まったわけではない死を最大の災い と思いこんで、 神‑の不服従を筆頭に、 悪いことがはっ
き りしている不正以上に死 を恐れ ることは、まさに 「 無知の無知」の極みに他な らないの です。別の言い方をすれば、 ここで ソクラテスは、人々が現に恐れているものが必ず しも 兵に恐れ るべきものである とは限 らないことを強調 しているのだ とも言えるで しょう。
なるほどここでは勇気 とい う単語は山てきませんが、事実 上ソクラテスは 「 恐 ろ しいこ とと恐ろ しくないことについての知識」を持つ ことの決定的重要性を主張する とともに、
まさにその知識、見極めに基づいて 「 恐ろ しい こと」を避けるべきことを説いている と見 て よいで しょう。そ してここに我々は、「 恐ろ しいことと恐ろ しくないことについての知識」
をソクラテスもしくはプラ トン
L'J 身による勇気の定義 と見なすべき最 も有力な証拠 を見出 し得 るよ うに思われ ます。 しか し、プラ トンにあっては実は言 封まここでは終わ らず、 さら に掘 り下げた ところで議論が展開 されているよ うに思われ ます。 この点について、勇気の 現代的意義の問題 と関連 させなが ら考えてみ ることに しま しょう。
( 4) その現代的意義
以上、我 々は ソクラテスのr j i 気観について見てきたわけですが、最後にもう‑一 度冒頭で 触れた二つの事件に照 らしてその現代的意義 について考えてみ ることに しましょう
O先ず新大久保駅でホームか ら転落 した人を救目 しようとして線路に降 りた二人の方につ いては、 ・ 般的な言い方をすれば、命の危険 も省みず、死の恐怖を克服 して人命救助に努 めた ことになるで しょうが、 ソクラテス的に 言えば、死の恐ろ しさ以上に、その時その場 で助けよ うとしない ことによって後で味わ うであろ う良心のI l 可責を恐れた とも言えるか も 知れません。その限 りにおいてはソクラテス と同様の意味において死 よ りも不正 ‑ この 場合は 目 の前で命の危険に晒 されている人間をいわば見殺 しにす る とい うこと ‑ を恐れ た と言えるのではないで しょうか。
他 方 、ニュー ヨークでのテ ロ事件に際 しての消防士の救助活動について 言えば、前の例 の 一 般 市民の純粋な 自己犠牲 とは異な り、消防士としての職務遂行の結果 としての悲劇す なわち殉職 ‑ この点においては先に見た 『国家』における戦上の徳 としての勇気に近い のではないか と思 うのですが ‑ とい う性格があるため単純に同 ・ 視することはできませ んが、 しか しこの場合 も職務が要求す ること以 卜のことを果たそ うとした と見ることはで きるで しょうOそ してそれは何故か と言えば、やは り前のケース同様、 自分が消防 卜とし ての責務 ‑ その場合、本人の意識か らすれば、消防
l二 として とい うことと一一 個の人間 と して とい う区別はもはやあま り意味をなさないか もしれ ませんが ‑ を果たさない とい う 不 I Eを死以 日こ恐れたか らだ とも言えるで しょう。
ただ ここで一・ つの疑問が浮かびます。それは仮に以 Lの 二 つの悲劇的事件で命を失 った
人々が勇気がある として 一 勿論、それを否定す る人はあま りいないで しょうが ‑ 、そ
れではその時同 じ場所にいた他 の人聞達はどうなるのか とい う疑問です。消防 上の場合は
職務遂行 とい う相違があるため他の人 との比較は難 しいので、取 りあえず新大久保駅の場
合に絞 って考えてみることに して、果た して線路に降 りなかった大多数の人は 「 臆病」つ
ま り 『プ ロタゴラス』の規定で 言えば 「 恐ろ しい ことと恐ろ しくないことについての無知」
ゆえにホームに留まったので しょうか。おそ らくは人が線路に落ちよ うが落ちまいが全 く /
^吊こもしなければ何 も考えもしない人も結構いたのではないか と思 うのですが、他 ノ J ‑ 、瞬 時の山来車 とはいえ、 ど うすべきかかな りその場で も悩み、また事件の後で も悩み続 けた 人 もいる と思 うのですO果た して このよ うな人は、死を 不: E l 三 よ りも恐れた ことになるので
しょうか。必ず しもそ うではないで しょう。
ここで我々はソクラテ スがいずれの対話篇において も 「 恐れ」を 「 悪い ことの予 期 」( こ こでは時制の 限 定の有無は折弧に入れ ます) と言い換え、 「 恐 ろ しい こと」を 「 悪いこと」
と 同 一 視 していた ことを思いL Hす必要があ ります。 もし 「 恐 ろ しい こと」が 「 悪い こと」
である とす るな らば、
、l '
I黙、その時その場で 目の前の人を助 けること、あるいは助 けない ことによる単 ・ 行為のプラス ・マイナ スだ けではな く、その後その行為の帰結 として生 じ る複数のプラス ・マイナ スについて も考慮す る必要があ ります。その時に助 け られ る見込 みが極めて少ない と判断すれば、 結果 として付加 され ることが T , 想 され る「 悪い こと」一 例 えば、l
'1分 も死ぬ ことによって 「 1分の家族、友人、勤務 先な どにも精神的 ・物質的な 損告
を与えること ‑ を回避す るためにいわば 「 見殺 しにす る」 ことを選択 した として も、決 して不 l t 三 を犯 した とは 言えないで しょう。
『ソクラテスの弁F ] ) ] 』か らもr
l)1らかな よ うに、他な らぬ ソクラテスF
'1身 もいわば 「 最小 悪選択 の原 押」 に基づいて行動 してい るのですOそ して この よ うに考 える とき、我 々は
『ラケス』篇 と 『プ ロタゴラス』篇 を通底す る問題の奥の深 さを改めて美感す るのではな いで しょうか。 前昔においてはニキアス論駁 を通 して、 勇気 とは詰まる ところ 「 あ らゆる 善い ことと悪いことについての知識」に他な らない とい う結論が導かれ ます。 これ に対 し て後音においては 「 快の計員術」 とい うものが提唱 され、選択の対象が快楽 と快楽であれ ば よ り大きな快楽を選択 し、快楽 と
苦痛であれば 快楽を 、苦 痛 とt r ・ F i 痛であれば よ り小 さな 苦痛を選択すべきことが説かれ ます。 これは要す るに善悪の計最に還 元され るのであ り、
その計員を正 しく行 うためには、 まさに薫 と悪を見極める知識が必要 となるのです。
ここで もう 一 度話をニュー ヨー クに於けるテ ロ事件に戻 して、 この事件をテ ロを実行 し た側、 もしくはその行為を支持す る側か ら眺めてみれば、これ またイスラムの大義 に殉 じ る とい う立派な 目的 のために死 の恐怖 を克服 した称 賛に値す る行為 とい うこ とになるで しょう。そ して この場合において も、「 死の恐怖」は実は最 も恐 ろ しい こと ( ‑悪いこと) ではな く、む しろ宗教的信念を最優 先 しない ことの方が恐ろ しい こと ( ‑悪いこと)なの だ とい うふ うに 言い換 えることができます。 しか し、 ここで 一 つの疑問が浮かんできます。
それは
勇気 とい うものが帯 も今 も称賛に仲す る美徳 と見な されている事実が ・ 方にあ りな が ら、他 方においては 同 じ行為 一 例 えば旅客機 を乗 っ取 って ビルに突 っ込む とい う行 為 ‑ が 見る側の立場 によって、「 勇気」 とも 「 無謀」 とも、あるいは 「 卑劣」 とも言わ れ得 る とい う事実がある とい うことです。 こうしてみ る と 「 勇気」 とい うのは所詮、l 叶 ・ 集 団 の
一日でだ け 通用 す るいわば 「 閉 ざされた美徳」に過 ぎないので しょうか。それ とも
「 敵なが ら天晴れ」とい った敵味方を超 えた評価 とい うものが、 やは り存在 し得 るので しょ
うか。存在 しうる とすれば、その条件は何なので しょうか。そ して仮に 「 恐ろ しい ことと
恐 ろ しくない こ とにつ いての知識」 としての 勇/ 気が善悪 につ いての知識 に還元 され る とす れば 、 この日 l l , ] 題は結局は、 <そ もそ も普遍的な善悪の基準 はあ るのか > とい う容 易に解 決 す る こ ともできないが、 さ りとて忘れ るこ ともできない離間 に行 き着か ざるを得ない よ う です。 あるいはプ ラ トンは こ うした事情 をすべ て 見通 していたか らこそ 、絶対的な根拠、
基
準 としての 「 善のイデア」 を諸徳 の根 底 に要請せ ざるを得 なか ったのだ とも言えるか も 知れ ません。 しか し、 これ についてはまた別 の機会 に論 じる こ ととして、ひ とまず稿 を閉
じる こととしたい と思 います。
註
( 1 )この最終部の論駁については、参考文献
rF . の拙訳解題 ( 1 3 0 f T I A 以 卜)を参1 1 1 1 されたいQ ( 2) ここでは 『ラケス』における 「 これか ら/ I : . じる」 とい う H ! 飾 り の限定が無いことに注意。『ラ
ケス』においてはまさにこの限定がニキア ス反駁の足がか りとなる。
参考文献
プラ トン 『プロタゴラス』藤沢令 人訳 岩波文庫
『
l I こ 1 家 」 1(卜・卜) 藤沢令人, 沢 岩波文庫
『ラケス』 三嶋輝夫訳 講談社学術文庫
『ソクラテスの弁H J J・クリトン』 = ̲ 嶋輝夫/L l l
Llf享英訳 講談社学術文庫 I . 嶋輝夫 『 規範 と意味 ‑ ソクラテスと現代』 束海人学l H . 版会
なお 『ラケス 』 笛の解釈 としては、今なお加 藤信
飢『初期プラ トン哲学』( 東京大
学川版会)が先 ず参照されるべきであろう。
あとが き
本 稿は昨年度 の大会 に於 ける発表原稿 に加筆 した ものであるO 発表後 の討論においては 元特攻隊員のO Bの 万を始 め として、多 くの方か ら貫 重な質問や コ メン トを多数 」 別 、 た。会
員 各位 並び に弘 前入学の スタ ッフの皆様 に 対 し、篤 く御 礼
申し上 げる0
( 青 山学院大学教授)
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