iii
まえがき
以前,筆者が某大学で人間工学の非常勤講師をしていた頃,学生から「人 間工学は生理学と思っていたが,非常に面白い学問ですね」と言われたこと があった.このような認識が一般的かもしれない.しかし,人間工学はモノ 作りに係わる応用の学問領域である.1950 年頃から 1980 年頃までの人間工 学の主要なテーマは生理系であり,1980 年代後半からコンピュータが家庭 機器などの様々な製品に入り込んでくると主要なテーマは認知系に移り,21 世紀に入ってからはサービス系の研究が増加し始めている.筆者は米国人間 工学会の会員でもあるので,米国の研究を見ているとそのような動きをはっ きりと認識することができる. また,企業に在籍していた当時,デザインと人間工学を担当していたが, 工場や研究所などの様々な担当者から人間工学の問い合わせがあるなど,そ こではいろいろな経験をさせていただいた.その頃の最大の検討ポイント は,人間工学のデータをデザインや技術設計にどう応用するかであった.ま た,どのようにしてデータを取ったらよいのかという質問も多数あった.民 間企業では大がかりな実験設備を使ってデータを取る時間はなく,そもそも エンジニアやデザイナーもそのようなノウハウを持っていない.そこで,筆 者は主観評価であっても設計やデザインに十分使える方法を考案した.筆者 が大学に移った後も企業からの問い合わせの多くは同様に,手軽かつデータ の信頼性のある方法について問うものであった.このような状況から,本書 で紹介しているユーザビリティタスク分析や許容範囲測定法などが生まれ た. 一方,デザインの方はもともと造形中心であったが,1980 年頃になると 社会との関係を考えるようになり,また経営とも絡むようになって,ブラン ド戦略などで守備範囲を広げてきた.しかし,20 世紀をマクロ的に見ると, 技術ありきでモノ作りがされ,それでモノが十分売れた時代であったと言え るだろう.そのような状況も 21 世紀に入ると様変わりした.人々の生活がまえがき iv 豊かになったことにより,企業戦略を含めたトータルなモノ作りが必要とな り,デザインの重要性が本当の意味で認識されてきているのである.アップ ルの製品はまさしくそのベクトルを推進して成功を収めている.翻って我が 国で自社のデザイン戦略を語ることができる経営者は何人いるのであろう か? デザインは,製品の機能や生活スタイルの提案だけでなく,企業その ものを提案する役割を担うようになってきており,単に色や形を纏めるだけ の時代はとっくに過ぎ去っているという認識を持つ必要がある. 企業における製品開発では,製品企画者,デザイナーや人間工学専門家 (ユーザビリティ専門家)などが,顧客調査を行い,要求事項を抽出し,コ ンセプトを作っている.このコンセプトに対して,必要とする技術を決め, 可視化を行い,試作品(ペーパープロトタイプでも良い)で評価を行うとい うのが一番自然な製品開発のプロセスであろう.あるいは,企画者がこうい うモノを作りたいという強烈な願望があれば,調査などをする必要も無く, それをコンセプトにすればよい.しかし,そのような強烈な願望というのも 様々なモノを観察して生まれた結果であり,ある意味では前述の顧客調査と 本質は同じであろう. このような製品開発を行うとき,2 つの方法がある.1 つは,優秀な人材 を揃えて行う方法である.優秀というのは,物事の本質が分かり,センスが 良い人材をいう.物事の本質が分かるというのは,多くの知識・経験を持 ち,それらが上手くネットワークされている状態をいう.もう 1 つは,フ レームワークを決めて普通の人材で行う方法である.分かりやすい例で言う と,作文を書くとき,前者は“思ったまま書け”という方法であり,後者は 書き方が決められている“フレームワーク(例えば,木下是雄「理科系の作 文技術」(中公新書))に従って書け”という方法である.あるいは,前者の 算数のつるかめ算に対して,後者の数学の方程式ということもできる.世界 的に有名なデザイン会社は,前者のスタイルを取っているところが多いよう だが,この方法を我々普通の人材では使いこなすのは困難である.方法が厳 密に決まっておらず,その不足部分を人材の質でサポートするので,アウト プットは 0 点から 100 点とバラツキが多くなる.一方,後者のフレームワー クの方はやり方が厳密に決まっているので,アウトプットのバラツキや後戻 りの検討が少なく,常に 70 点以上が確保できる方法である.どちらが良
v まえがき い・悪いということではなく,状況に応じて使い分ければよいだろう.ここ で一番注意しなければならないのは,両者の相違を認識しないことである. 後者の方法ではフレームワークを学ばなければいけないので,ストレスを感 じるかもしれない.しかし,フレームワークは汎用性があるので,マスター すれば様々な状況で威力を発揮する. 本書で扱う“デザイン人間工学”は,人間工学とデザインが融合した世界 であり,そのフレームワークに従って行えば,誰もが 70 点以上のアウト プットを期待できる後者の方法である.家を建てるとき,基礎の土台を作る のが人間工学で,それに載せる家の部分がデザインと言えるだろう.この両 者が上手くかみ合うことにより,住む人に優しい家ができるのである.デザ イン人間工学においても,人間工学が論理部分を受け持ち,デザインが発 想・感性部分を受け持つと言ってよいだろう. 本書は,筆者が過去に発表した論文をベースにしている.独立行政法人製 品評価技術基盤機構の「生活安全ジャーナル」第 5 号〜第 8 号(安全設計入 門,その 1〜その 4)を 6 章の安全デザインに使わせていただいた.また, 一 般 社 団 法 人 日 本 デ ザ イ ン 保 護 協 会 の「DESIGNPROTECT」No. 74 と No. 75(デザインに役立つ人間工学再入門,第 1 回,第 2 回)を 3.1〜3.8 節,No. 76(同,第 3 回)を 4.1〜4.4 節,No. 77(同,第 4 回)を 5.1〜5.5, 5.8〜5.10,5.13 節,No. 90(GUI の評価)を 5.6,5.7,5.11 節,No. 87(サー ビスデザインの方法)を 8 章のサービスデザインに使わせていただいた.文 章の流れや新しい知見を付け加えたため,加筆修正させてもらった.また, 4.5 節の 70 デザイン項目の説明文は,山岡俊樹 編著「ヒット商品を生む観 察工学」,pp. 13-21,共立出版,2008 から流用させていただいた.このよう な許諾に関し,関係各位に感謝申し上げる. 最後に,本書の出版に際して,快く賛同をいただき,支援を惜しまなかっ た共立出版の日比野さんに厚く御礼を述べたい. 2014 年 2 月末日 山岡 俊樹