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藤川に嫁ぎ、生きる女のひとたち

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藤川に嫁ぎ、生きる女のひとたち

井手 沙織 はじめに

1 女という存在

1.1 『菊と刀』の価値観 1.2 須恵村の女たち 2 結婚した女性たち

2.1 女性が選ぶ「結婚」という道 2.2 「家の女」になる嫁

2.3

家庭の外で働く―伝統と現代の狭間

2.4 茶業の中にある「嫁」という女性の仕事 2.5 「本当の藤川人」を目指して

3 「嫁」と地域社会の関係 3.1

言葉と嫁っこ

3.2 婦人会と嫁

3.3 対岸、徳山との婚姻

3.4 変化してきた「姑・嫁関係」

4

考察 おわりに

はじめに

「結婚」とは結婚する当事者だけでなく、周囲の人々の人生をも左右する大きな分岐点である、

と私は考える。結婚についての話題は日々にメディアに取り上げられ、周囲のあちこちにも見ら れる。これは世の中に人々が「結婚」というものに多大な関心を寄せている現われではないだろ うか。

結婚式での形態が和装から洋装へ、神社から教会へと変化している。結婚相手も身近な人たち だけでなく遠方の人、更には異国の人たちへと広がるようになった。結婚後の住居が2人の地元 近くでなく、全く別の土地になったり、姑や舅と別居したりするようになった。結婚後も簡単に 離婚する夫婦が増えているようだ。これらの変化は年配の人たちと、若年の人たちの間で結婚に ついての考え方や意味づけが異なっていることを示しているのではないだろうか。

そうした背景と理念から今回私は、藤川に住む人の話を通して結婚観の変遷を身近に感じ、深 く知りたいと思いこのフィールドワークに赴いた。そしてこのフィールドワークを通して見えて きた社会的・文化的現象を、それを私なりの言葉でここに記しておこうと思う。

(2)

1 女という存在

1.1 『菊と刀』の価値観

ルース・ベネディクトは戦時中の日本について調査を行い、『菊と刀』著書を記した。彼女は この著作の中で日本人の行動の価値観には「義理」「恩」「恥」といったものがあると提唱してい る(ベネディクト 1946:133,155)。

それでは今回はその著書の中に描かれている「結婚」に着目してみよう。

著者が日本人の結婚をどう見ていたか、ということは「妻は夫に頭を下げさせる」という一言 が象徴的にあらわしている。

女性は結婚して「嫁」になり、子どもをもうける。その子ども男の子であると、その息子が結 婚して新しい「嫁」を連れてくると、その女性は「嫁」の立場から「姑」の立場になり、自身が

「嫁」であったころとはうって変わり、強い態度で家庭内の一切をとりはかるようになる。その 際、子どもたちの結婚に当たっても妻が大きな発言権をもち、結婚を取り仕切っていたのが「嫁」

である母親だという。嫁は外来者として各家庭の中に入ってくるにもかかわらず、その段階で家 庭内において一定の権利を得る、ということだ。

「嫁」というものはまず、姑の流儀を学び、次に万事をその流儀に従って行うことを学ばなけ ればならない。「嫁」たちは若嫁である間は本心を隠し、姑に従う存在なのだ。

ベネディクトは以上のような見解を述べている。だが彼女は実際に日本社会に入り、このよう な調査結果を得たわけでない。この著書で主張されていることが実際に日本社会においても見ら れるものであるか否かは、後に検討しよう。

1.2

須恵村の女たち

これはアメリカのシカゴ大学の社会人類学者のジョン・エンブリーが昭和

10(1935)年ごろに

熊本県の須恵村を訪れて行ったフィールドワーク調査について記したものだ。

著者が見た須恵村においては、結婚や離婚について、予想もつかないほどに著しい自立性をみ せていたという。その離婚・再婚の多くが非常に狭い地理的範囲で頻繁に起きていたそうだ。些 細なことで離婚を決意した女性も数多くいるという(エンブリー 1939:308)

著者が調査した須恵村においては本当の恋愛結婚は稀なことであった。そしてこの須恵村では 女性たちは鷹揚に暮らしている様がうかがえた。

ここで記されている「離婚」の頻度とそれに対する態度については私が今回調査した藤川とも 比較できるのではないだろうか。

2 結婚した女性たち

2.1 女性が選ぶ「結婚」という道

「結婚」というものは女性の人生の中でどのような位置づけがあるのだろうか。「結婚」は女 性が生きるうえで、どのような存在ものなのであろうか。

私は今回の藤川のフィールドワークの中で、私はたくさんの女性たちと出会った。彼女たちは

「今」という時を「藤川」という土地で生きる女性たちだ。そんな彼女たちの人生観の形成にお いて切っても切り離せなかったもの、それは「結婚」なのではないかだろうか。私がインタビュ

(3)

ーした女性たちは全て既婚者であり、実際に「結婚」という道をえらんでいた。

そこでここでは、私が藤川で出会った「結婚」体験者の女性たちがその道を選択した経緯、そ の背景にあるもの、彼女たちが経験した結婚生活の話を挙げながら、なぜ彼女かちが「結婚」と いう道を選択したのか、ということを見ていこうと思う。

Aさん(77歳)という女性は昭和29(1954)年に

24

歳で藤川の外である上長尾という土地から嫁 いできた。外といっても他市他県に及ぶようなものではなく、近隣の地区からの嫁入りであった。

Aさん世代の女性は結婚する人が断然多く、実際に彼女のクラスメイトのほとんどが結婚した。

Aさんが暮らす社会では、女性は嫁にとってもらうことが第一でありそしてその後、彼女たちの 多くは百姓になった。Aさんたちが結婚を決めた時代には「結婚しない」、ということに世間に 対する「恥ずかしさ」があった。また彼女たちの親も同様に、世間に対する「恥ずかしさ」から 自分の娘たちは全員結婚させようとしていた。「嫁に行かない」ということは世間からの否定的 な視線を受けることになっていた。

「親や祖母が『女の子だからやりなさい』というのはゆくゆく嫁として仕事ができるように、

という親の思いやりがある。若いうちはわからないものだけど」とAさんは語る。結婚しないこ とへの批判的見解があった当時は、女性の親・保護者たちは「結婚すること」を前提とした教育 を行なっていたようである。

では

1950

年代当時、一般的に女性に求められていたものは何なのだろうか。

Aさんは「女性に生まれたからには女性であるべきことがある。細かいことに気づいたりする 奥ゆかしさ、女性らしさはあったほうがいい。せっかく女の子に生まれたのだから」とも言う。

結婚のための女性の教育は、変わることなく今でもAさんの中に強く残っているらしい。Aさん の中にある「女性」というものへの意識は「結婚」を前提としたものであり、やはり女性たちが 結婚という道から離れられなかった現実が見えてくる。

では彼女たちはいくつにして、その結婚の道を選んでいたのだろうか。

1950

年ごろの結婚年齢は

20

歳では早く、

24

歳では遅いとされた。結婚適齢期は

21

歳から

23

歳ほどで、すごく短いものであったようだ。これには女性の厄年が関係している。女性は

18

歳が厄年であるために、早めに結婚する人は

18

19

歳のときは足いれ1¹を行なっていた。

結婚の有無だけでなく、結婚する時期においても世間からの視線を気にしなければならなかっ た。

結婚相手に関しては親の言いなりの結婚、というわけではなく当時も自分が選んだ人と恋愛結 婚できていた。それでも、「良家の娘さんは親の言いつけもあった」とされている。全てが自分 の選んだ人と結婚できたわけではなかった。藤川について言及するならば、Aさんの世代の女性 たちは自身が選んだ男性と結婚できていたようである。

また、「離婚」についても「結婚しない」ことと同様に、世間に対する恥ずかしさがあったとさ れている。当時も離婚する人がいなかったわけではない。それでも現代よりはずっと少なく、簡 単に踏み切るものではなかったようだ。

1950 年代の女性たちが「結婚」を決断する際の背景には「そうせざるを得ない状況」が見え かくれする。自分の人生でありながらも、その中で考慮すべきことは自分の意思だけでなく世間 体をも意識して、行動しなければならなかったようである。

1婚姻を成立させた後も嫁が一時実家に帰り、一定期間をおいた後に正式に婚姻成立させる制度

(4)

そして離婚には世間からの否定的な視線があり、「世間に顔向けできない」ほど、恥ずかしい ことであった。「離婚したら、藤川にはいられない。藤川を出ようと思った」との証言がある。

「結婚」には本人の意向と同時に、いやそれ以上に外からの大きな圧力があったようだ。この

「外」とは当時の日本社会のあり方である。

2.2 「家の女」になる嫁

この藤川において結婚して「嫁」という肩書きがついた女性たちには、何よりも先に乗り越え なければならない課題があった。それは「家風になれる」ということである。

「結婚する」ということは「家風になれることが第一」とされていた。新しく来た嫁にとって姑 さんは絶対的な存在であり、服従すべき相手であった。最初は「家になれるために」、と思い黙 って従うことが続く。「家庭になれる」ということは夫の家の習慣やしきたりに従う、というこ とを意味する。

「自分を殺して我慢。ただ従順に、素直に、仕事をする」と証言していた。

嫁に入るとまず、その家に尽くすことが求められた。その家の「家風」に染まることこそが、

嫁の証であり嫁の義務とされていたようだ。

話を聞いた全ての人が嫁に来たらまずやることとして、「家風になれること」を主張する。そ の家に染まることこそが「嫁」の証だという。ということは、家になれることが出来なかった嫁 はその家の嫁としてみなされない。言い換えるならば、家になれることができないものは嫁とし てみなされない。

「休みたい」と思っても休めないことが現実であった。

例えば現在ならば多くの女性が、子どもを産んだら少なくとも1週間は産休をとる。しかし藤 川では、多くの女性が出産直前まで家の中の仕事をして出産後1週間後にはもう働いていた。実 際、産後の1週間の休みでも申し訳なく感じていた女性がいる。

この「家風になれる」という慣習は外から嫁いできた嫁にだけ見られるものではない。藤川内の 結婚、極端に言えば隣同士の家での結婚でも見られた。全ての家庭で「家風になれる」ことから 始まっていた。当時の日本の農村社会では、嫁いでくるときには嫁の出身地域でなく、「家」か ら「家」へ、ということが重要視されていたのだろう。

嫁に入ったら嫌だと思うことがあっても、戻ることは許されない。嫁に入ったら、その家に尽 くさなければならなかった。だから離婚に踏み込めなかった女性たちが多かったと考えられる。

では、この「家風」とはどういうものなのであろうか。それは各家庭の「らしさ」を示すもの ではないだろうか。最も単純なものとしてはその家庭での料理の味付けや、各家庭内にある決ま りごとや、日課などがあげられるだろう。今回の調査では毎日食事のために炊く米の量を舅に聞 いていた、という家庭があった。これはこの藤川という土地柄、米があまり作られていなかった ために米が貴重な品であったからだと考えられる。そのような貴重品は嫁の一存で使うことはで きなかった。

「炊く量なんて、作る人が一番わかるのにね」と昔の本音を述べながらも、この規則は破るこ との出来ないことであった。しかし、これは全ての家庭で見られたことではなく、ある家庭の独 自のものである。これもその家庭の「らしさ」を形成する「家風」であろう。

(5)

2.3 家庭の外で働く―伝統と現代の狭間

さて、これまでの記述で女性たちが行うべきこととして「結婚」というものが挙げられる。そ して結婚後は家庭内で「嫁」としての仕事が待ち受けていたようだ。だが、「嫁」の仕事以外に 職を持った女性たちはいないのだろうか。

1950 年代当時は外に仕事を持つ女性は決していなかったわけではない。しかし、少数派で、

外で働く女性は珍しかった。たとえ大都市でも、「外で働く」際は現代のように種々の職種とい うわけではなく、女性が働く場合も「看護婦」や「教師」といったものが多かったそうだ。大都 市でさえも働く女性が少ない時代に、藤川に外で働く女性が多かったとは考えにくい。

クラスの中の一割程度が進学し、高等学校にまですすんだ。また、女性たちの一部は師範学校 や看護学校にすすんだ。そうした選択をした人々は、その後の就職が確実であり、安定している からであった。それ以外の学校に進学することは周囲から反対されていた。

私が今回インタビューを行った中で家庭の外で働いていた女性は

1

人だけであった。それ以外 の方は皆、家庭の中で働いて来た方であった。やはり「女はうち」「男はそと」といった意識が そうさせていたのだろう。

ここで、その

1

人を紹介しよう。先にも登場したAさんは外で働く女性が少なかった中で、「教 師」という職をもち外に出て行かれた人だ。一見、前述したことと矛盾しているようではあるが、

当時は終戦直後で男性教師が徴兵されていたために、女性の教師が少なくなかったという。Aさ んは藤川の小学校でも教鞭をとって、今回お会いした老人会の方々の中にも教え子の方がいた。

そしていまだに「先生」と呼ばれて慕われていた。

Aさんはお姑さんからも「朝は起きなくていいよ」と言われていた。朝食の準備、掃除、洗濯 というものは女性の仕事だったそうだが、先生という仕事をしていたために比較的免除されてい た。しかし、「嫁の立場がある」との認識もあって、その言葉とおりに従うことは出来なかった。

同時に外にいたこと、家事などと完璧に出来なかったことなどへの多少の罪悪感も見える。

Aさんは家庭の外に仕事を持つことと、家庭内に仕事を持つことの両方に明確な線引きをして いた。「外にいたからわからない」と何度も主張して、自分の事仕事と、家庭の主婦の仕事がか なり異なっているものだとの認識を持っている。家庭内に留まり、家庭内の仕事をした女性を本 物の「女の人」であるとか、「本当の藤川の人」といった表現をしていた。同時に「家の仕事を した人」即ち「主婦らしい主婦」、という表現をして、まるで自分は「主婦」という存在でなか ったかのような言い方をする。

「私のうちでは」「うちの家庭では」「うちの中では」という表現を多用し、ご自分の家庭が 当時の多数派とは異なったものであったことを強調する。それはAさんが当時「一般的」とされ た女性の生き方とは違う生き方を選んだからだ。そしてそれがやはり少数であったために、周り からの圧力も強く、Aさん自身に「普通と違う」という意識を芽生えさせたのではないだろうか。

また、Aさんのそれらの言葉はやはり、彼女自身の教養の高さを示すものではないか。Aさんは 一度も「自分の場合がこうであるから、みんなこうである」といった一辺倒な言い方をしなかっ た。「私の場合は」といった風に自分と他者とを分けて考えていた。

Aさんからは現代における「そと」、いわゆる「社会」に出てゆく女性の先駆的姿が見ること ができる。Aさん本人も「そと」で働いていたことにとてもこだわっていて、そこには女性であ っても手に職を持っていて確固たる地位があったことへの「誇り」があるように見えた。

(6)

2.4 茶業の中にある「嫁」という女性の仕事

藤川の集落の周りには広大な茶畑が広がっている。藤川の暮らしの中では常に茶の存在が隣に ある。そんな中ではやはり、女性の仕事と茶業を切り離すことはできないであろうし、茶農家に 嫁いできた嫁も同様に茶業と切り離すことは出来ないであろうと私にはみえた。以下では茶業の 中における嫁である女性たちの実態を示すこととしよう。

茶農家に嫁いだ女性の多くは、朝は4時ごろから起きて洗濯、料理などの家事を行う。それら の仕事をこなしたあとに夫と一緒に畑に出て農作業を行ったあとに、また昼食や夕食の準備の仕 事がある。広い茶園を持つ家では畑に出る暇もないくらいに家での仕事がある。日常生活の中で の嫁がこなすべき仕事は実に多い。

また家庭によっては副業として林業に従事することがあった。この作業は夫が行うために、茶 業における女性の負担は増加することとなる。時には嫁が一人で消毒等の農作業をすることもあ るという。茶業における女性の果たす役割は大きく、嫁の労力がなければ茶行は成り立たない。

茶農家の嫁たちは誰もが、「お摘みさんの世話」の話をする。茶業が最も忙しい時期に多くの 茶農家では茶摘みさんを雇う。茶摘みさんはその家に泊り込み、茶摘みの作業を行う。茶摘みさ んを雇うと茶業の中では効率が上がるが、家事においては、その効率は下がる。彼女たちの世話 を行うのは嫁の仕事であり、嫁は増えた茶摘みさんの分の食事の用意を行わなければならない。

一日に四度の食事の用意を茶摘みさんを雇っている繁忙期の間中続ける。多いところでは一度に 十数人分の食事を作らなければならない家庭もある。

別のインフォーマントのBさん

(71

)

の場合をみてみよう。

Bさんは同じ藤川出身の夫の処へ嫁ぎ、

50

年間夫と二人三脚で茶業に従事してきた。「人より 働いているつもりでも外には認めてもらえない」「女の人が半分以上の仕事をやっているんだ。

でも、そうはいわせてもらえない」「縁の下の力持ち」と言う。

Bさんは家の仕事もして、お茶の仕事もして「夫より働いている」という実感を持ちながらも それが周囲に認められることはない。夫の仕事ぶりだけが評価され、嫁は認められない。女性が 半分以上ともいえる仕事をこなしても、そうはいわせてもらえない実態が見える。

「茶の仕事はね、父さん一人では出来ない。協力しないと農業は出来ない。夫婦二人でやって きた」という言葉から女性自身も茶の作業において、自分の力が不可欠であることを理解してい る。

反面、

B

さんの場合も周囲の評価は夫の方だけにいく。茶でどれだけ素晴らしい賞を貰っても、

それは夫が受けた賞であり、

B

さんの賞ではあり得ないのである。評価されるのはやはり、夫だ けなのだ。

それでも一日の中での

B

さんの仕事の量は夫と同じか、あるいはそれ以上に多い。量をこな す「嫁」である

B

さんの仕事よりも、

B

さんの夫の方の仕事が評価されるのならば、ここでは仕 事の「質」を考えなければならないのかもしれない。

そとでは夫が評価される、日本の農村では男尊女卑かに近い風習が根強く残っている印象を受 ける。

(7)

2.5 「本当の藤川人」を目指して

私が今回インタビューをした方々の中で最も興味深い発言をされたインフォーマントがいる。

それは、「本当の藤川人」という表現である。これは前にも何度も登場したAさんが用いた言葉 だ。

Aさんは何度も何度も「本当の藤川人」という言葉を使っていた。では「本当の藤川人」と「本 当でない藤川人」の違い、その「本当」の基となるものは何なのか。そしてAさんがいう「本当の 藤川人」とはとどういう存在であり、Aさんにそう発言させた存在は何なのであろうか。

Aさんは

1954(昭和 29)年に藤川の近隣の地区からこの地に嫁いで来た。それから以後 54

年間 を藤川で生活されている。結婚するまで在所で過ごした時間の倍以上、人生の

3

分の

2

以上の時 間をこの藤川の地で刻みながらも、Aさんはいまだに「本当の藤川人ではない」と自称する。ま た、結婚のために外から藤川に来たAさんは藤川内にある同窓会に入っていなかった。それはA さんが「本当の藤川人」ではなく外から来た人であったからだ。現在は老人会に入っているが、

会に入ったときにようやく「藤川の人になった」という実感が沸いたのだと言う。

Aさんは藤川で生まれ育った人を「本当の藤川人」と呼んでいたから「本当の藤川人」をみる 上で「藤川で生まれ、ずっと藤川にとどまっていること」と「何らかの理由

(

今回の場合は結婚

)

で藤川内に入ってきたこと」、つまり「在所が藤川でないこと」という点は欠くことは出来ない。

本当の藤川人になるためには藤川で過ごした時間の長さなど関係ない。ただそこで時間を過ごす だけでは「本当の藤川人」になることは出来ない。

またAさんは、自分と同じように藤川のそとから嫁いで来た友人の

1

人Cさん

(77

)

を「私よ りは本当の藤川の人よ。藤川のことなんでも知っているから」と持ち上げる。同時期に外から嫁 いできてほぼ同じ時間を藤川で過ごしてきた、という点で同じ条件であるはずである。

それなのになぜAさんは

C

さんの方だけを「本物」というのか。彼女たちの違いは、仕事を どこにもっていたかということにある。Aさんは家庭の外に働きにでて、Cさんの場合は家庭に とどまり家事や農業に従事した。「そうあるべき」とされた主婦像そのままに、常に地域社会と 携わり生活してきたことが、Aさんにこのような意識を持たせたのではないだろうか。実際には

C

さんも「本当の藤川人ではない」という意識があるようではあるが、Aさんにいわせれば自分 よりもはるかに「本物」に近い存在のようだ。

しかし、彼女たちにも、まったく「藤川人」としての自覚がないわけではない。「老人会」に 入ったことで藤川人としての自覚が出たという。「ちょっとずつ、ちょっとずつここの人になっ たのよ」

「藤川には生粋の藤川人がたくさんいるから」

これは対岸徳山との比較したときに出てきた言葉である。住民の大半が農業に携わる藤川とい う土地では、外から働きにきたり外に働きにいく人々が少なかった。その中で藤川は地区内の結 束が高まったのだという。藤川で生まれ育った人たちからも「生粋」という表現が出るように、

やはり他から入って来た嫁と自身との間には「本物」としても認識の差があるようだ。

3 「嫁」と地域社会の関係 3.1 言葉と「嫁っこ」

新しく嫁いできた嫁は「家風になれること」に次いで「言葉」での苦労があった。

(8)

藤川には「ギラ」と呼ばれる方言がある。それは「はっきり言い切る。短く区切る」話し方だ。

この「ギラ」に「藤川人の気性がでている」と明言する人もいる。

この言葉に慣れていない人、例えば新しく嫁いでくる嫁などは、まずこの言葉使いに気苦労し ていた。結婚式の披露宴で夫の親戚にあったときに「彼らの会話が出来なかった」と言う方もい る。日々の生活のために、言葉に慣れることが要求されていた。

藤川のみの特徴、というわけではないのだが、この川根の方言は語尾を上げる、というものが ある。これは他からみると顕著に現れるもので、一歩川根の外に出ると周囲から「川根でしょ?」

と言われると言う。このことに対して「恥ずかしさ」があったために、女性は川根を出るとほと んど話さなくなった。それに対して男性はそれほど隠したりはしなかった。

藤川外からとついで来た女性は「嫁っこ」と呼ばれ、藤川出身の嫁と区別される。藤川出身の 嫁は「○○○さん」と親しみを込めて名前で呼ばれる。一方、藤川の外から来た嫁は「○○○さ んとこの嫁っこ」としてその家に所属する存在として呼ばれる。「嫁」を認識するのにも、その

「家」の存在が離れないようだ。

ある男性はこれを藤川の「封建制」と表現した。彼は生まれも育ちも藤川、という方である。

彼は数十年という時間を藤川で過ごした人を見ても「俺らとは違う。藤川の人ではない」という。

その理由を尋ねても「何でだろうね」と笑って言い、はっきりとした理由を述べることはしなか った。

「外から来た嫁を差別してるつもりはないんだけど」

故意に区別しようとする意識はないもの、そこには藤川出身者同士ならでは理解できる、連帯 意識のようなものが見える。それが他者、つまり藤川出身でない人を拒む、保守的な姿勢に繋が っているのではないだろうか。

3.2 婦人会と嫁

婦人会は戦後の日本社会の中で「家」に押し込められていた女性たちが「そと」に進出し、自 立する過程の中でうまれてきた団体だ。全国的に見て婦人会は青年団よりも活動率が高い。しか し、その半数が不眠状態であったり、不活発であったりするのが実態だ。昭和

60(1985)

年から

平成

11(1990)年にはその解体のピークを迎えていて、今も減少し続けてしる(長谷川

1997:197,198)

そのような中で、藤川にはまだ「婦人会」という地域団体が残っている。残っている、とは言 ってもやはり、その存続は「辛うじて」というように感じられた。

婦人会は既婚女性で構成されていて、嫁いでくるとすぐに会に所属した。そして自分の息子の 嫁が嫁いでくると自動的のその婦人会の席は新しい嫁に移るものとなり、姑となった嫁の居場所 は「老人会」へと移行する。

今回の調査対象者は

70

歳代の女性が多かったが、彼女たちが

20

歳代で嫁いできた当初では、

婦人会は大きな団体でみんなが所属するものであった。しかし、最近では「抜けたい。入りたく ない」という女性も多く、藤川でも婦人会の会員は減少し続けている。嫁がいない、入りたくな い、といった理由で

16

軒家があるところで

6

軒しか会員がいない、という集合もあった。

藤川の婦人会には会員がもつ「会服」がある。これには着物と洋服の

2

種類があり、子どもの 授業参観や会旅行などで着られていた。

また、この婦人会の行事は藤川の社会の中で公的なものであった。普段は「休めない」嫁も「婦

(9)

人会だから」というと姑に気兼ねなく家を離れ、休むことが出来たそうだ。「そと」に出る正統 な理由となっていた。「婦人会」というものが当時大きな存在であった証であろう。そして同時 に、このような公的な理由がなければ家を離れることが出来ないほどに「家」に縛られていた嫁 の姿も見ることができるであろう。

嫁がそとに出ることを正当化してしまうからであろうか、男性と女性との間ではこの婦人会の 評価に大きな温度差が存在した。私が話を伺った男性のインフォーマントは婦人会を「なんの活 動もしてない。インチキくさい」と言っていた。だが女性にとって婦人会は欠くことのできない 団体であり、ちゃんと存在意義のある、という認識があった。

女性たちにとって「婦人会」と普段の息詰まるような生活のガス抜き的な役割を果たすもので あったと考えられる。

3.3 藤川の対岸、徳山との婚姻

藤川ではこの地区内での結婚が多かった。1950年代には藤川内の夫婦の

3

分の1程度が藤川 出身同士の結婚であった。「そと」からの嫁かどうかは結婚後の交流や付き合いに大きな影響を与 えていた。これは前述した「嫁っこ」とも関連する。

近場での結婚には近くから来るだけの「得」があるのだという。深いつながりを持って接して きた「家」同士ならばそこに「いい嫁」のブランドが形成される。このブランド力が強かったた めに、藤川内での結婚が多かったのだという。

藤川にある封鎖的な傾向は対岸の徳山には見られないもののようだ。

徳山とは大井川をはさんで藤川とちょうど対面する地区である。この徳山は藤川よりも若干規 模が大きい地区で、人口も徳山の方が上回っている。また徳山には大井川鉄道の駅もあるため人 の出入りも藤川よりも多い。これは徳山という地区の「開放性」に繋がっているようだ。「徳山 の方が都会だから若い人はあっちにいく」。と言う人がいるように、徳山には徳山出身ではない 人の出入りが多く、藤川ではあまり見られない新家がある。それらがあるために、藤川のように 地区内で固まる、といったような「連帯感」や「保守性」があまり見られないものだと考えられ る。

そして、現在ではもう見られなくなってきているが、藤川と徳山には昔、対立関係があったそ うだ。この対立は私が想像する以上に大きなもので、婚姻関係や人付き合いにも繋がってくるも のであった。徳山との関係が良好でなかった

50

年ほど前は、藤川から徳山へ嫁ぐ人はほとんど おらず、同様に徳山から藤川へ嫁いでくる女性もごく僅かなものであった。

確かに私が話を聞いた女性たちの中にも水川や上長尾といったような同じ川岸地区の人はい ても、対岸の徳山出身の女性はいなかった。

だが、なぜこのような対立意識が生まれたのか、ということまでは今回の調査では明らかには できなかった。「子ども頃からなんとなく争っていた」という風に何となくこのような意識が出 来てきていたようだ。対立するのは子どもだけでなく、親世代の人たちも同じであったというか ら、両親や地域住民の人たちからこの「対立関係」を刷り込まれていたのであろう。

「徳山と対立するためになら一丸となっていた」ということから徳山と争うために藤川地区が 一体となり動いていたと考えるならば、この対立が藤川の「保守性」に拍車をかけた、というこ とも出来るかしれない。藤川と徳山の対立であるから、そこには藤川以外の人間はいらない。そ の意識が延長されて、流入者である嫁に対して排他的な態度を取らせていたのかもしれない。

(10)

3.4 変化してきた「姑・嫁関係」

「今の人は幸せよ」今回私が調査を行う中でよく耳にした言葉である。私が対象としたインフ ォーマントが昔は「若嫁」であり今は「姑」と立場が変わった人であるから、やはり自身が嫁で あった時と今の嫁の姿を見ての比較はどうしても避けられないものであった。

「昔はね、みんな苦労していた。だから自分も頑張れた」証言するように「家」の中で奮闘す る彼女たちを支え、動かしていたものそれは「苦労しているのは自分だけではない」という意識 のようだ。そして同時に「姑さんとそうやって苦労してきたから、お嫁さんに優しくできる」と も言う。

彼女たちが嫁いできた当初、姑と絶対的存在であった。だが自分が姑となった今は、そうでは ないと言う。

「昔のように色々口やかましく言うと、嫁としてもうっとうしいと思うかもしれない」自分が 昔、姑から教わってやっていたことがあり、それを「新しい嫁に伝えていこうかなぁとは思う のだけれど」。と嫁の態度を伺う姿勢が見られる。

「今の人は嫌だったら離れられるし、逃げられるでしょ」。今の人は、と言う言葉から

1950

年代当時自分が嫁だったときは「家」から離れることも逃げることも出来なかったことを前提と してのものであろう。明らかに彼女たちの意識の中には現代の嫁たちの方が自分たちよりも恵ま れている、というような意識があるようだ。

それでも、相反するように「いつの時代も苦労しない人はいない」とも言う。「昔の人たちは 精神的より肉体的に疲れるけど、今の人は肉体的より精神的に疲れる」らしい。

4 考察

私が今回の調査行い、『菊と刀』で受けた印象と重なるような感情を持った。それはやはり、

この「藤川」という土地がまだかつて日本に見られたような山間部特有の風潮が色濃く残された 場所であるからだろうと思う。

だからといって『須恵村』に見られたような特徴は見当たらない。特に「離婚」についての考 えは顕著に異なる点である。『須恵村』の著者が調査を行ったのは十数年も前のことなので今ま たこの地で調査をするとまた違った結果が得られる可能性は充分にある。

地域が違えば、そこに生きる人々は異なる思考をもつだろう。だが、地域が違っても、時代が 違っても共通して見られるものもあるのではないだろうか。私はここで、先行研究で得た知識と、

実際に藤川という山村で得た事実との類似点、相違点を基に私自身の考えを示そうと思う。

彼女たちの証言の中から私は「姑さんが一番なのだ」という印象をうけた。女性が他人である 夫の家に嫁ぐ以上、彼女たちには姑に従い我慢する、という道しか残されていなかったようだ。

藤川はルース・ベネディクトが述べた日本社会の風潮が色濃く残っている地域なのかもしれない。

また、ジョン・エンブリーが調査した須恵村とは大きな違いが見られる。藤川においては「離 婚」にたいして明らかに否定的な見解を持っている人が多かった。1回離婚しただけでも、藤川 の地を離れようと決意した女性がいるくらいだから、離婚の見解の格差はとても大きい。ジョ ン・エンブリーが調査した時期は

1935

年代、私が調査対象とした女性たちの話も昭和

25(1950)

年ごろのものであるために、時間的にはほぼ同時期といってもいい。それにもかかわらずここま で大きな差が存在しているのはやはりこの「藤川」という地域でも恥の意識が働き、彼女たちの

「離婚」への道を妨げたのだろう。

(11)

調査の対象とした女性たちを見る限り、その生き甲斐場所が明確でないように見えた。別の土 地から嫁いできた女性は「ほんとうの藤川人」になるために藤川で懸命に努力する。それでも「本 当の藤川人」になるためには多大な時間が必要だ。なかなか藤川人になることはできない。かと いって、故郷が「本当の自分の居場所」となっているわけでもないようだ。「姑に呼び戻された」

話を聞く限りでは、やはり結婚した「嫁」は嫁ぎ先の人間なのだ。それでも、その土地の人々に

「本物ではない」といわれたら、「嫁」の存在場所はどこにあるのだろうか。故郷か、嫁ぎ先 か・・・・・・。

その答えは私にはわからなかった。だが、藤川の女性たちはその存在場所を「藤川」という土 地にもとめ、そしてその場所に自力で自分の場所を築いた人たちなのだ、と思った。

そしてそこが自分のいるべき場所なのだと感じたときに「本当の藤川人」という表現を用いて いたのだろう。

また調査を続けるにしたがって、彼女たちは自分たちが嫁いできた時代と、現代との間には違 いがあることを意識していたことが見える。確かに藤川は半世紀ほど前の日本の風習が強く残る 地域であった。だがその風習も今、少しずつ変わっていっているようであった。彼女たちが繰り 返し繰り返し「今の人は」と言っていたこと、話の中でよく「昔は、今は」と比較していたこと からその現象がうかがえる。

おわりに

今回の調査を通して、藤川に住む多くの女性たちから貴重な話を聞くことができた。彼女たち は「女性」として「嫁」として、そして「姑」という存在として各々の人生を歩んできた人たち だ。私は彼女たちから「女性」として生きることの素晴らしさ感じることができた。そして私自 身がこの先選ぶかもしれない、「結婚」という道について深く再考するきっかけともなった。

未来のことは分からないけれど、もしもその時がきたならば彼女たちのように「嫁」として力 強く生きてみようと思う。

藤川の女性たちからは同じ「女」という性を持つ先輩として多くのことを学ばせてもらった。

長い時間を割き、協力して貰い言葉では表せないほどに感謝している。私は無力で何も出来ない けれど、「女性」という性に誇りを持つことにしよう。これが、お世話になった方々への恩返し になることを祈って最後の言葉とする。

参考文献

ルース・S・ベネディクト(長谷川松治訳

) 1946『菊と刀 日本文化の型』社会思想社

長谷川昭彦

1997『近代化の中の村落―農村社会の生活構造と集団組織』日本経済評論社

ジョン・F・エンブリー

ロバート・J・スミス エラ・

L・ウィスウェル(河村望、斎藤尚文訳)

1939『スエ村の女たち 暮しの民俗誌』お茶の水書房

参照

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