藤原顕季について
脚
稲 田 繁
夫
源尊信没後の歌填歌論界においては︑野際頼︑彼と同年の藤原顕季︑ ① 一才年長の藤原基俊が鼎立していわゆる元永期の歌合の時期を迎えるの
であるが︑この三人のうち︑源俊頼と藤原基俊については既にその歌論 ② について述べた︒ここでは︑三人の一人である藤原顕季の歌論を寒心と して見ていくことにする︒顕季は俊頼と同じく天喜三年に生まれ︑保安 ③ 四年に没した︒享年六十九才であった︒俊頼はそれより六年長生し︑基
俊は十九年生き長らえたことになる︒父は藤原隆経︑延久三年美濃守で
没した︒顕季は大納言実季の猶子となった︒母は従二位親子︑白河院の
御乳母であったので︑このつながりから白河院の御寵愛を蒙ることが深 ④ かった︒六条修理大夫集︵家集︶によると︑ ﹁ある六位の二ゐ︵親子︶
の御許にうちの殿上をもうしけるが年比に成りにけれどゆるされざりけ
るにろうさうをもとめ給ふと聞きてこの六位ろうさうを奉るとて
雲の上をよそにのみ聞く身にしあれば緑の袖も何にかはせん
よそにのみ思はざらなん雲の上をつみは緑の袖ぞかさねん
と母を経て訴えているが︑六位の官服である﹁ろうさう﹂を脱いで︑五
位の昇殿が実現したのも︑こういう経緯によるものと思われる︒諸国の
国守を歴任して︑寛治八年修理大夫となったのは四十才であった︒諸国
藤原顕季について の国司や︑長い修理大夫の在任により富裕な生活であったらしく︑六条
⑤ ⑥ ⑦ ⑧東洞院の邸の外に八条の家や︑なぎさの院かつらの山里︑樋口などに別 邸があって︑源俊頼など度々訪れて歌会を催していたようである︒ 源俊頼とは特に親しく︑官職の低かった俊頼の為にはいろいろと取り なすこともあったようで︑散木奇歌集第九雑上に俊頼は︑ ﹁神抵伯のあ きたりけるを修理大夫顕季にことのつみで有ける時にのぞみ申よし申さ れなんやと申たりけるに後にいかやうにかなと尋ねければ申きなど申た りければそうせよとおぼしくていひつかはしける よきさまに事はしかしな日にそへてめつるたききの下の憂を﹂ と神祇伯後任の口添を頼んでいる︒俊頼との親しさは没年の頃まで変り がなく︑六条修理大夫集に︑ ﹁さきのもくのかみ俊頼の君の伊勢に下り て後久しくおともせざりしにかくなんいひをこせたりし﹂ とある詞書 の次の﹁残すくなき身のありさまは旅の空よはの煙とも立のぼりなば云 々﹂という俊頼の便りは︑六十台も終りの頃と思われ︑それはとりもな おさず時季の死の直前であったに違いないであろう︒顕季の歌人として の交友が多い中で︑この俊頼と神勤気源二伸とはもっとも交情あつかっ た人で顕季はこの二人を﹁つねにまじかはす人人﹂といい︑つれづれの
⑨度毎に音つれていたようである︒白河院は顕季の母が御乳人の関係から 特に御信任を賜わったが︑宰相には至らなかった︒とれは﹁人の司など ⑩ なさせ給ふことも︑よしありてたやすくもなさせ給はざりけり﹂という 院の御方針のためであったようである︒舘の三郎義光が東国の顕季の知 行を争った時も︑白河院は富裕な彼が僅かの領地のことで人の怨みを買 うよりもと顕季に譲歩させ︑以後恩を感じた義光が箪笥の警衛の役を買
って出たのは︑院の御寵愛の御裁きであったであろう︒
四季のもっとも初期の詠歌で現存するものは︑家集冒頭にある承暦二 年四月二十八日の殿上歌合四番桜左歌 讃岐守顕季朝臣
一
藤原顕季について
⑪
尋ねこぬさきにもちらで山桜みるおりにしも雪と降るらん
⑫で︑顕著二十四才であった︒この歌合は今鏡に﹁ことざまの儀式など︑
えもいはぬことにて︑天徳歌合︑承暦歌合をこそは︑むねとある歌合に
は世の末まで思ひて侍るなれ﹂とあるように︑天徳歌合と並ぶほどの盛 ︑ ⑱ 大な儀式のもとに行なわれた︒この歌合はこの後展開を見せる元永期の
丈学的歌合の一つの始めをなすもので︑大江同房なども必勝を期して梅
⑭宮大神の広前に祈願している程である︒判者大納言書房は六条右府の名
で今日まで知られている程の歌人であり︑没後贈右大臣まで至ったが︑
この歌合では匡房などの必勝の祈願の甲斐もなく彼の属する右方の負け
となった︒源顕房の判を不満とする右方は同月三十日承暦内雪後番歌合
を催し︑白河天皇は﹁この歌はみな右方歌なり︒二十八日の歌合はかり
の歌︑むげに見苦しきに︑ 勝つとさへ定めたる︑ 後の世のそしられ︑
わが代の恥なりとおほせられて︑右のかぎりを合はせて御荒せさせたま
ふ︒左の残り歌も召して御覧ずるに︑ゆゆしき歌のかぎりあれば︑それ
⑮は捨てさせたまひて合はせられずとす﹂と︑御自らの勅判にされておら
れる︒ 顕房の判は左方勝四︑右方勝三︑ 持八の十五番で︑ 勝負はわずかに
一番の差であったが︑勝敗意識はきわめて激しいものがあったようであ
る︒顕季の番は四番桜で︑
左 讃岐守顕季朝臣
尋ね来ぬさきには散らで山桜見る折にしも雪と降るらむ
右勝 右中気通俊朝臣
春のうちは散らぬ桜と見てしがなさてもや風のうしろめたきと
右方の人々は︑﹁さきには散らでとあるは︑花を惜しむ心なし︒︵中略︶
見む折にと思ふらむ心は︑後の歌に詠まむずるにや﹂と︑右歌の方が花
ご
の散るを惜しむ心が表わされていて︑左歌には﹁注などをこそ書かまし
か﹂と人々は皆笑った︒ 判者顕房は﹁持﹂とするつもりであったが︑
白河天皇は勝負の判定を要求されたので︑ ﹁さらば右勝つと定められ﹂
た︒然しこのような判定の経過は洞房に対する非難を高め﹁いとあやし
く︑さきにはいかに定めむと思されけるにかと覚えし﹂と判詞の記録者 ⑯ は書き加えている︒袋草紙に載せられている本歌合の判詞本堂は可なり
異なっているので︑ この歌合の記録は二種類以上あったものと思われ
る︒また袋草紙所収歌合と静嘉堂文庫所蔵本とでは判詞が可なり異同す
るだけでなく︑
静嘉堂交庫本 袋草紙
六番首臼蒲︸ 持 左隣昭
十二番紅葉持 左勝
となっていて︑袋草紙に記載を省略したものの中には︑左歌を勝にした
ものが他にもあったと思われる︒このように歌合の判定が記載本によっ
て異同があることは珍らしく︑この歌合の勝負は前述したような一番だ けの差ではなくて︑左方が賀茂に参り戦勝の小馬競べなどしている最中
に︑この歌合を不満とする右方は白河天皇の勅判のもと後番歌合を催す
という成り行きから考えて︑袋草紙の伝えるような﹁持﹂の中に更に左
勝の番が他にいくつかあったに違いない︒
静嘉堂丈庵本の六番﹁持﹂は判詞では﹁右裂くと定められぬ﹂とあっ
て︑これは袋草紙の﹁左勝﹂と一致し︑十二番は﹁持と定められぬ﹂と
あるものが︑袋草紙では﹁これもかれもおなじやうなれど猶左勝ぬ﹂と
異なった判詞や判定となっていて︑この間の事捨を考究することは興味
あることであるが︑本稿の目的はそこにはないのでこれは別の課題とす
ることにする︒
いずれにしても本歌合においては左方の勝利の申で︑左方の顕季は二
十四才の若さからもあって通俊に負けているが︑顕房の判に問題がある
し
にしてもこれは順当であったであろう︒三十二才の通俊はこの同じ年の
承暦二年に後拾遺集撰進の勅を拝受していることからもうなずけること
である︒ この承暦二年内裡歌合参加を初めとして︑康和から長治にかけて成立
⑱ ⑲した堀河院太郎百首に参加︑永久四年二月四日の実行漢家歌合判者︑同 ⑳ 年六月四日の六条宰相家歌合の判者︑元永元年六月二十九日実行家歌合 ⑳ ⑳ 判者︑元永二年七月十三日の内大臣家歌合判者などを勤めている︒この
@外に年代不明の修理大夫顕出家歌合があるが︑これは顕季が亭主となっ
ているので判者ではなかったと思っわれる︒この間︑元永元年六月十日
には六条東洞院亭において︑柿本大夫人丸供を行ない︑亭主顕季は初献 ⑭ を和歌の宗匠として満座の賛成によって俊頼にさせている︑このように
見てくると︑ 永久から元永にかけての歌壇は俊頼︑ 基俊と並んで顕季
も隠然たる︑いわゆる鼎立する地位にあったということができるであろ
う︒
二
顕季には歌論書は見当らない︒しかし︑永久から元永にかけての歌合
の世界において︑相対立する立場にあった俊頼︑基俊の間に立って︑歌
合判者としての二季の歌論を考えることは意義のあることであろう︒今
は前述の判者となった四歌合によって彼の歌論を見ていくこととする︒
顕季の判詞は概括的で︑俊頼や基俊のような詳細な批評を見ることが
できない︒しかし︑俊頼の主張する﹁めずらしきふし﹂つまり着想の清
新さ︑それを具現する詞の新奇さには同感していたらしく︑六条宰相家
歌合八番月
左︵勝︶ 源俊頼朝臣
藤原顕季について 軒ばよりもりくる月を亡妹児がたまもの裾にやどしてぞみる 右 藤原顕輔朝臣 いかばかり照月なれやまくずはふ杜の下草かずみゆるまで 顕季の判詞によると︑俊頼の左歌﹁たまもの裾にやどしてぞみる﹂とい うことは有り得ない﹁水などにうつれるこそやどれるなどはいはめ﹂と 歌の理りとして事実に合わないとしながらも︑右歌は﹁ふる歌にこそ侍 れ﹂と自分の子の顕輔の歌を古風とみている︒類従本では勝負が記載さ れていないが︑袋草紙には﹁右古くて一三﹂と記されているので︑俊頼 髄脳もすでに成立し︑ ﹁めずらしきふし﹂つまり興趣の清新さを追求す る下情の書風に十分に共感していたことがわかる︒俊頼のこの歌は顕季 のいうように︑玉裳の裾に月が宿るということは事実に遠いようである が︑里下の万葉的な発想に立った歌であり︑それはすでに寛治八年八月 十九日の高潔院七番歌合月七番 右勝 俊 頼 山のはに雲のころもをぬぎすててひとりや月の立ちのぼるらん
⑳以来のものであった︒だから同歌合五番五月雨 左勝 源俊頼朝臣 雲はれぬさ月きぬらしたま衣むつかしきまで雨しめりせり
右 修理大夫上さみだれにとふ人もなき山里は軒のしずくの音のみぞする 左図を﹁ふるめかしからぬことばならずしといい︒ ﹁むつかしき﹂など という表現は﹁むげにただ言葉にて︑げびたるやう﹂に見える俗語の使 い方で︑難点に思われるけれども︑右の歌が﹁めなれたるさま﹂の伝統 的な陳腐な興趣であることを認め︑左歌を勝にしていることからも︑俊 頼の志向する﹁めずらしきふし﹂に共感共鳴していたことがわかるであ ろう︒このことは同歌合十五番のうち︑ 一番︑五番︑十五番の顕季自身 と俊頼との番に特に取りあげられていて︑十五番は﹁いたはることあり
三
藤原顕季について
て︑いそぎまかりいでぬればしと勝負を決定しなかったままで終ってい
るが︑ 一番右歌の修理大夫上たる顕界の歌を ﹁めずらしきことなけれ
ど﹂といってることでも︑また︑前述八番の子顕輔の場合でも︑俊頼と
の番には特にこのことが意識されていたようである︒
基俊も﹁古めく﹂ことを無条件に高く評価したのではなく︑これを難 ⑳ とする場合もあり︑また﹁珍らしげなき﹂考案に難点を見付けてもいる ⑳ が︑悪逆は基俊よりも一段と古い着想をしりぞけている︒元永二年七月
十三日内大臣家歌合の判者となった彼は︑尋失恋七番
左 顕 仲尋ぬれどありか定めずかくろふる人を恋路にまどふ頃かな 右勝 道 経
夢路にてありとだにさは見てしがなうつつにこそは隠れ果つとも
﹁左歌︑恋路︑古めかし︒右歌も同じやうなれど︑よくこそ求め失ひた ⑳ れ︒よりて右勝とす﹂と︑左歌の古めかしさを強く排している︒同歌合
申には﹁末古りたり﹂ ﹁本古りたり﹂などの批評がたびたび出てくると
ころに︑建言から始めて詞花集の撰者顕輔とつづく六条家の和歌革新の
方向が見えるようである︒この歌合は群書類従本では尋失恋五番以下を
欠き︑袋草紙引用の本丈は抄出で十分でないが︑静応需交庫本を底本と し︑神宮文庫本︑類聚歌合巻系統本などによって校訂した日本古典全書
歌合集所収の本圃は︑本歌合を知る上に便利である︒静嘉堂文庫本や神
宮文庫本などに見られる﹁顕季判じていはく﹂から始まる心墨に続き︑ ﹁また判じていはく﹂という追判は︑珍らしいことである︒歌合の伝本
には手控本と清書本との二系統が有り︑承安二年十二月八日の広田社歌
合も清書本である奉納本と手控本が考えられているが︑本歌合において
も静嘉言丈康本の草花七番置歌
女郎花いかに縫へばか藤ばかまひと爵もあらず綻びぬらん 四
の﹁また判じていはく﹂という追﹁加判に︑ ﹁ひと野にもあらずと書くべ
きなり﹂という通り︑類従本では
女郎花いくのぬへばか藤袴ひとのにもあらずほころびにけり と可なり異同があるが︑判詞で取り上げた個所は訂正されているし︑ま
た︑同六番左翼
秋の野の千草の花の咲くなかに見るも露けき女郎花かな とあるのに対し︑追加判で﹁左歌は秋の野といへる果ての丈字をぞにと
いふべしと見給ふる﹂と云っているが︑類従本ではその部分は追加判の 通り訂正が行なわれている︒これから考えると︑類従本は尋失恋四番ま
でで終っているがこの方が清書本の系統と思われる︒このように類従本
の歌は静嘉堂丈庵本の追加判の判詞によって訂正が加えられているに拘
らず︑類従本の判詞は大体において静嘉堂丈庫本の前判詞と同様で︑追
加判の影響を受けていないのは興味あるところである︒たとえば類従本
では︑ 一番尋失恋 左 女房
くれごとにたつねわびつつ行方もしらぬ恋ぢにまどふ頃哉 右かつ まさかね
さりともと尋ねこしちの方もな︽あとかたにみてかへる山哉
左歌︑くれごとにたつねわびつつ︑いとあやし︒右歌︑めずらしか
らねど︑たくみなるここちしたり︒よりてかちとす︒
と右歌を勝としているのに対し︑静嘉堂点数本では前堂詞はほとんど類
従本と変りがないが︑追加判では
また判じていはく︑春歌末ぞ古めかしけれど︑見苦しうはなし︒右
歌は︑山人を恋ひたるとそ見え候コ山のをは︑尋ね得で帰らんはお
びただしくや候ふべき︒されば左の勝たや︒
と勝負が全く逆に成っている︒このように前王と追加判で騰負が逆に成 っているのはこの番だけではなく︑暮月八番も盲判の﹁右勝﹂が追加判
では﹁左の勝なり﹂となっている︒また同十番前判の﹁持﹂が﹁右勝﹂
になっているし︑ 草花八番﹁右勝﹂が追加判では ﹁持とや申すべから
ん﹂とその判定の異動した例は多い︒一つの歌合中︑前判と追加判で同
じ判者の判定がこのように数多く動くということは考えられな・いことで
前判と追加判の立場は可なり異なっていて︑例えば草花三番前面では︑
﹁顕季判じていはく︑ 左歌口惜しきさまなり﹂とあるが︑ 追加判︐では
﹁また判じていはく︑漫歌︑心当いとをかし﹂となっており︑暮貸入番
では﹁左歌︑かすかにと詠める︑力無げになん云々﹂と右勝にしたもの
が追加判では︑ ﹁左歌は異なる難見えず云々﹂と左勝に逆転している︒
これらから考えると︑追加判は当季のものではなくて︑他の誰かが顕季
判に対する批判的な立場から判を加えたものと思われるが︑どの本も判
者は顕季と記され︑草花一番から同番までは特に﹁顕季判じていはく﹂
と判者の名を明らかにし︑追加判は﹁また判じていはく﹂と︑前判の補
充追加としての記述であるので︑度々前︑後判の勝負の判定が異動して
いたとしても同一人のものであると考えなければならないようである︒
前後判に異同があるのは︑袋草紙その他これを裏づける傍証は見当ない ⑳ が前判に対する非難があったためのものであろう︒前野に対して誰が中
心となって難陳をなし︑またその内容がどのようなものであったかは︑ ⑳ 治承二年八月の二二番歌合のように初盤め次に陳状を記し更に再判を書
き足す形式になっていないので︑ 朋らかに知ることが出来ないが︑ こ
のような非難を踏まえて︑非灘た直接答える形式でなく︑ある場合は前
置の判定を動かさず補充追加し︑ある場合は判定を異動させて﹁左右歌の
それに見合う長短を指摘した後盲判であると思われる︒前後判にたとえ
勝負判定.の異動が行なわれた場合でもさ両判の立脚点に共通なものがあ
り︑判詞の書体も一致していることからも︑黙思が顕季のものであるこ
とは否定出来ないようである︒
藤原顕季にういて 司馬の判詞において﹁めずらしきふし﹂を求め︑ ﹁古めかしさ﹂を排 する立場が明らかであるが︑次の特色は﹁ことわり﹂を尊重する立場で ある︒
暮月三番左 盛 家秋はなほ暮れゆく空に照る月のおぼろげならぬ光とそ見る 右勝 忠隆 風吹けば枝やすからぬ木の間よりほのめく秋の夕月夜かな 左歌を﹁暮れゆく空に照る月を︑おぼろげならぬ光と驚かるらむこそ﹂ 不審であり︑追加判で︑腰も夕月夜ではなく︑ ﹁夕月夜ならば︑おぼ ろげなり﹂と言うべきである︒ ﹁おぼろげならずといへば︑十四五日の. ほどの月﹂であるはずだとの批評は︑歌意における事実の論理を追求す る︑いわゆる﹁ことわり﹂の尊重の態度がうかがわれる︒ 尋失恋九番 左 正 時 ねぎごとをいなうの神の否ならで尋ぬる人の行方知らせよ 右勝 昌盛 尋ねくるしるしの杉も名のみして行方も知らぬ恋をするかな 前判では﹁団歌もまたさせること無けれども︑姿歌めきたれば︑右勝に や﹂と︑古今摺身十八の わが庵は三輪の山もと恋しくばとぶらひ来ませ杉立てる門 の歌の心を逆用し︑しるしの杉も恋人に逢えないのでは名ばかかりであ るという趣向の巧みさを高く買い︑これを﹁姿歌めく﹂と勝にしたので あったが︑︐追加判では︑ ﹁右歌は︑たのめざらんしるしの杉の宿は︑か ㊧ ひあらじ︑もしそら﹁ご・.Gをいひて︑外を教へけるか︑むねに妬げなるこ とかな﹂と論理の追求に重点を置き代えて︑ 全︽勝負を逆にし︑ 左歌
﹁いなうそおぼつかなけれど﹂と左を勝にしている︒右翼は引用される
ことの多い三輪の杉の歌︐の歌意の逆用に︑新しい興趣があり︑表現も練
れているが︑顕季は﹁ことわり﹂尊重のあまり︑前判の 勝負の判定を追
五
藤原顕季について
加判で逆転させる処置まで敢えてしているのである︒ ﹁ことわり﹂を尊
重する立場から︑今季の乱僧には﹁おぼつかなし﹂という評語がしばし︑
ば出てくる︒たとえば草花四番右 散位忠隆の歌
うらうへに何招くらん花すす倦一方にこそ秋は行くらめ
に対し︑ ﹁うらうへに招くといへるは︑おぼつかなし︒すすきの人を招
くは︑風に従ふものなれば︑風の吹くらん方をこそ招くといはんと思は ば︑風の吹く方をぞかれがやうに︑定めなしといふべき﹂と︑一方に薄
の穂が傾いて︑風の吹くまにまに秋が去って行くのを惜しんで︑去って
行くものをなぜ反対に招いているのか︑来る方をこそ招いたらよかろう ⑳ にと合点がいかな.いのを﹁おぼつかなし﹂と許している︒本歌合には藤
原基俊は右方歌人として三番を番っているが︑それは
草花六番持
白露の織り出す萩のからにしき鹿の夜着る衣なりけり
暮月十番持
なぐさむるほどこそ無けれ脊の間に分けて入りぬる更科の月
尋失恋五番負
思ひかね清水くみにとたつぬれば野申ふる恥しをりだにせず
のうち︑草花︑暮月の忌詞で﹁おぼつかなし﹂と評し︑尋失恋の判詞で
は﹁いかにも心得がたき歌なめり﹂と評し︑事理を﹁ことわる﹂意識が
強く判詞を貫いている︒この前年元永元年十月二日の内大臣家歌合にお ⑭ いては︑俊頼︑基俊が活澄な両判を行なったのであるが︑この歌合にお ける基俊の歌に対して顕季の判はきびしいようである︒草花に対しては
﹁露の織り出すとはいかが︑露霜を縦緯にこそ詠みたれ︒露︑錦を織り
出づらん︑人にて侍るか︒また出だすなどこそいひ侍れ︒だすこそ幼く
侍れ﹂と︑露が単独で織りいだすというのは趣向としても不完全であり
﹁いだす﹂でなくて﹁だす﹂などの表現は︑散商的で︑稚拙というべき
六
だと︑なかなか激しい非難である︒しかし︑暮月では追加判では︑古今
集の古歌によったのであるから大体において勝にすべきであろうと判定
を訂正し︑尋失恋の歌は︑追加判で﹁心得がたき歌﹂としながらも負を
特に格上げしている︒あるいは推量であるが︑顕季が追加判で可なり多
くの判定の異動を行なったのは基俊などの難陳によるのではあるまいか
とも思われる︒
顕季の判詞においてはまた︑証歌の有無ということが大きな批評の基
準となっていた︒前例の基俊の草花六番の歌に対し︑ ﹁萩の錦とは︑露
の織るといへることやあらん︒さだめて証歌侯ふらん︒﹂と︑﹁萩の錦﹂
という表現は︑たとえ証歌があるとしても実景にそぐわない不十分な表
現であるといっている︒基俊の暮月十番の前出の歌に対しても︑ ﹁更科
の月と詠める︑山無くて詠まんことにや︑それぞおぼつかなき︒証歌無
くては持とやすべき﹂といって︑古今集の
わが心なぐさめかねつ更科や娩捨山に照る月を見て
を踏まえての歌であることはいうまでもないが︑追加判で﹁古き歌の心
を取りて詠﹂んだのを買って勝に直してはいるものの︑更科の月だけで
山が欠けている︒姥捨山に懸けて詠むべぎである︒山を欠いて︑月だけ
で詠むのには証歌がなければならないというのが隠家の批評である︒基
俊の判詞においても︑厳重な程証歌の裏づけを問題にしているが︑顕季
も当座判たる前判でも︑たびたび証歌を引用して批評を述べ︑基俊に劣
らぬほどのこの方面の知識をもつことがうかがわれるが︑追加判におい
ては後日判でもあり︑ 一層証歌と照らし合わせる緻密さである︒この態
度は︑顕季を初め︑顕輔︑顕昭と続く六条家の判者の考証的な特色を示
すもので︑顕昭陳状はその極まった.姿ともいえるであろう︒歌合の批評
に証歌の有無を問題とすることは︑その批評に客観性を持たせることで
重要な要件であったが︑俊頼などと比較すると︑そこに個性的な批評の
新鮮さがなく︑いわゆる学者的歌合批評の程度に止まることとなったの
であろうと思われる︒
孝信の批評においては特に注目すべきことは特に想の可否に評価意識 を強めている点である︒草花十番
左 宮内権少輔宗国