原記録について
水野伝一
1/IV’ 66
歴史がいわゆる有史以前と以後とで、はっきりその社会的価値を異にする如く、科学実験はその 記録の有無によって、社会における位置を全く異にする。実験の業績の社会的価値の高低と、記録 の有無による価値の高低とは、別の問題なのである。エジソンは電球を発明した。その業績は、記 録の如何にかかわらず、独り歩きしている。そういうはっきりした業績が残らないままに、埋もれ た研究は、古来どれだけ沢山あったことだろうか。そういう業績としては埋もれた研究といえども、
その記録が残されていれば、だれかがこれを利用できるのである。すくなくともその可能性は残る のである。社会の中に同化して、人間社会の科学を学ぶには、社会への寄与を些小なりとも心がけ るべきは当然である。その場合、目標さえしっかりしていれば、記録はどうでもいいというわけに はいかない。その研究の業績が埋もれる可能性がいつもあるからである。したがって、科学を趣味 や道楽でやるのでない限り、最小限の要求として、記録を完きものに保つべきであるということが できよう。
記録は経時的なありのままの記録と、これを若干抽象化した報告形式の記録とが考えられる1 。 わたくしは、いまこの前者をProtocol2 とよび、後者をreportとよぶこととする。
protocolは科学実験には必須のものである。reportがかりに書かれなくとも、protocolは必らず
あらねばならぬ。科学(ここには技術をも含める)は常に、社会活動の中に位置するものであるから である。どんなに小さな発見でも、科学史の中の一つの礎石として、後世に残すべき性格をもつ。
科学史の中に残すべき記録の、必須の条件は、その記録のままに行なって、再び同じ実験を行ない 得る再現性にある。したがって、再現性をはかり得ぬ記録は、記録としての意味をなさない。
しかし完全な再現性ということは、不可能なことである。時間という次元はつねに流れて戻らぬ ものであるからである。空間的な再現性は、得られる。しかし時間には、かけがえがないのである。
科学実験と言わないでも、森羅万象の運行は、時間という不可逆的な次元一本に、刻みつけられて 行くものなのである。そういう意味では、一番大切に考えて欲しいのは、時間についてである。
そういう時間という抽象概念を、実験にもち来す場合、二つの概念につき当るだろう。一つは二 つとはない具体的時刻であり、もう一つは、こういう時刻をつないでつくるこま切れの時間という 概念である。したがって、1966年4月1日午前11時10分から12時10分ということは、あくまで も無二の時刻である。これを1時間という表現にもち来すと、抽象概念の時間となる。ところで、
このような二つの表現のうちprotocolには、どちらが、必要となるだろうか。当然ながら、時刻の
1歴史学の二大方向は、一方は客観的所与としての歴史、他方はその中から何等かの法則や論理を発見しようと試みる歴 史であるという。科学実験という時間という次元に伴う事物の変化は当然こういう二つの性格をおびることとなる。
2英語の原義は予定表であるが、ここには原義にとらわれず原記録をprotocolとよぶことにする。
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方である。その実験の中で、かりに10分の停電があって加熱できなかったとしよう。1時間加熱と いう表現は、明らかにまちがいというべきではあるまいか。
空間的再現性は、時間よりも得やすいといっても、実際は、なかなか得難いものである。全く同 じ条件をととのえて実験を行なっていながら、前とちがった結果を得るということは、われわれの よく経験するところである。そういう条件の中に、未知の要素がいくつか入っているから、これは 当然と言っていいかもしれない。そうなると、未知の要素を除く他の条件は、できるだけ同じもの をととのえるべき必要がある。使った薬品の会社名ロット番号を記載すべきはもとより使ったピペッ ト、メスシリンダーの別その大きさなども必らず記載すべきである。したがって、文献に記載のま まで、たとえば1ℓあたりの培地組成をprotocolに記載して、実際は100 cc分を、小さなスケール でつくっておくというようなやり方は、厳に戒むべきである。
同様な意味で、「加熱し」「撹拌し」というような抽象的表現は、許されない。「沸騰水浴上(ある
いは中)で」とか100 ccエルレンマイヤー中に20 ccの溶液をおき「何型マグネティックスターラー
によって撹拌し」というような、具体性が、どうしても必要である。
このような記載の諸例は、実地の点検が、もっとも大切であり、これ以上のことは、ここにはと りあげないこととする。
こうした問題とは別に、わたくしは、自分の好みもあって、あまり一般的ではないが、二三の要 求をここに提出したい。その一つは、どんな小さな実験にも、目的を書いてから、具体的な問題に 入って欲しいということである。再現性を目標とするということとは、すこし離れているが、自分 がどういう実験をするつもりで始めたのか、はっきりとした自覚と位置づけとが、常に意識されて 欲しいからである。第2は、各実験部分ごとに、その実験に対する考察反省があって欲しいという ことである。大は実験結果そのものに対する縦横な観察討論から、小は実験がコルベンをおとして みな失敗に終ったという場合の反省に至るまでなのである。第3は、これらの考察反省を一つのス テップとして、つぎは何を考えるかということ、「つぎの実験への計画」を書いて欲しいというこ とである。これは一つの実験から、つぎの実験への仲介役割を果すであろう。記録者の思考過程を、
つないで示す大切な鍵となることと思われる。
このような注文は、一般のprotocolの記載には、とくに要求されているところではない。しかし 敢えて、わたくしが諸君にこれを希望する理由は二三あるのである。冷厳な客観事実の記載のみで も、もちろんその記録者の個性は現れてくる。しかしそういう個性は、考察や、つぎの実験の計画 でもっと如実に現れるものなのである。これを記載しておかぬということは、もったいないことで ある。そう考えるのが第一。もう一つは、そういう考え方の訓練の結果、つねに自分の実験一つ一 つを大切にし、無駄な実験をしなくなるだろうということが期待されるからである。第3には、こ まかい実験部分を組み合わせて、論文をつくる際、きわめて容易に、これが組み合せ得るという便 利も考えられる。各部分が、他部分と接着し得る、論理的な接着面を、おのずからもっているから である。ことに、実験の進行中から、論文としてのストーリーを頭に置いて、こうした部分の論理 をとり運ぶならば、ますます容易になるといえよう。論文に使えるデータは、これとこれというよ うに、始めからマークできるわけである。
総じて、protocolの記載には、丹念忠実であって欲しい。大長篇小説を書く際のデイテールとも 考えられる各部分が、あとから見ても、丹誠こめて書かれたものであることは、巨匠の風格をおの ずから示すものではあるまいか。
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ジョリォ・キュリー伝のグラビアに、ピエール、マリ・キュリー夫妻のprotocolが写されて出て いる。風袋の重さまで書いて秤量値が書かれているところには、頭の下る思いがする。しかしもっ と感激的なのは、その紙は、眼に見えぬラジウムに汚染され、ラジオオートグラムにとると、はっ きり汚染されたピエールの指紋が見えるという事実である。protocolが美しく書かれるか否かは、
問題ではない。むしろ実験室にちらかった薬品で、汚されていた方が、現場の香をつけて来ている 点、好ましい位である。
わたくしは、諸君が1年に余るprotocolの厚い奴を、抱えて歩いているのを見たり、わたくしに パラパラ開いて見せてくれたりするとき、わけもなく感動するのである。実験からほとんど離れた 人間の、単なる郷愁とのみは断じきれない。科学の面白さは、もとより実験そのものにあ る。しか
しprotocolの中に秘められた面白さは、わたくしには無限に思えるのである。
〔 実験目的 〕
〔 日 付 〕
〔 実験準備、方法 〕
〔 実験結果 〕
〔 考察、討論、反省 〕
〔 つぎの実験計画 〕
時刻を忘れずに
なお、protocolとならぶreportについては、さまざまな形式があり、いまここには考察する必要 はないと思う。とにかくprotocolを、一定の志向性をもって、取捨選択してつなぎ合わせるわけで ある。与えられた実験結果では、言い得ぬことは言ってはならないが、言い得ることは、ことごと く言わねばならぬ。そしてそれを、一切の虚飾をはらった簡潔な表現で示すべきであろう。世界第 一級の雑誌の投稿規定には、いずれもある程度までのreportの書き方の、一般的ガイダンスが与え られている。そういうものからも学び得るものがあるだろう。
前述のように、われわれは国際性のある仕事をすることを、念願とする。したがって、原著は原 則として、英語で書くこととしたい。われわれが使う英語の限界は知れたものである。したがって、
投稿前に外人に英語を見てもらうことは、必らず実行した方がいい。しかしそれだからと言って、
英語の勉強をおこたってはいけない。暇さえあれば、英語の勉強をするというぐらいの気がまえが 欲しいものである。
追記: Protocolについては、”1974年「自然科学入門」― 新入室員のために ―”にもうすこし詳し く記載してある。参照されたい。(2/XII’ 76)
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