奈良教育大学学術リポジトリNEAR
奈良時代の筝の復原について
著者 林 謙三
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 10
号 1
ページ 1‑22
発行年 1961‑03‑15
その他のタイトル Preface to Restoration of So of the Nara Period
URL http://hdl.handle.net/10105/4786
奈良時代の撃の復原について
林 謙
1 序 言
贈弾筆者
天宝年中事玉皇 昏将新曲教寧王 銀貯金嘱皆零落 一曲伊州涙万行
温 匪均
今日わが国において民族楽酷の一つとして民間にひろく愛用されている撃は、唐時代に流行し ていた13絃の撃が奈良時代に庸楽の輸入にともなって伝わったものの子孫である。
楽器分類学では革は絃楽器のチター(zither)に所属し、さらに柱(ことじ)のない琴(きん)
の一群や固定桟柱(fret)をもつ臥墾篠・玄琴の一群に対して、可動的な柱を用いる他の一群に 所属している。近世式の構造は上方に轡曲した長方形の箱形の体(槽)の主要部をほとんど桐材
を用い、絃を乗せる龍角や柱などには必要上、堅い材を用いている。槽の裏側には上下に2つの 孔をうがら、表に13絃を張る。槽は一材を用いるのを本式とするが、資材の関係から磯を別材を
もって作って継いだものも多い。いわゆる箱作りである。表面は木目を美しく見せるように木ど りするのが常である。また裏板の内側に密接して両磯の間に桟板をつけて補強することも知られ ている。
このような今制の撃と奈良時代から平安朝初期の事との問に見られる千年のうちに生じた差は 外形上よりもむしろ構造上に存していたことが今日では明かになっている。さる1951年の夏から 秋にかけての正倉院の楽器調査のときに南台や仮宝庫におきめた楽器残欠を整理して奈良時代を 中心とする撃の残欠とみとめられるもの教組をえらび出した。それらは何れも名目どおりの残欠 で、完形の一小部分にすぎないながらも後世の制と構造や材質とも大いに相違するところを明示 する貴重な品々である。殊に興味のあるのは主要部分を具えた第3号残欠であり、それは後に修 補されて奈良時代の撃をしのばせる唯一の遣物一木画等となっている。ところが古制の楽器構造 には内部に不審の点があり、これを解くことがここ数年来の私の懸案となっている。そのあるも のは解けたつもりであるが、依然暗中模索の城を脱しないものもある。ともかく当時の事はその 構造において他に比類をもたない独自性をもっていた。この独自の構造が中国においてどのよう にして起り、わが国と共にどのようにして廃れて行ったかは音楽史的にも楽器学的にも、もっと
も注目すべき問題であると思う。
本稿は上記の正倉院の撃残欠第3号をはじめ事残欠とみとめられるもののすべてを資料として、
傍ら平安朝以来今日に至る事とも比較検討して、奈良時代や、その原流をなす唐時代の13絃事に ついて、特にその構造を実証的に考察してどのように復原せらるべきかをたずね、併せて唐式事 がどのように興廃の運命をたどったものであるかを音楽史的に推論しようと試みたものである。
筆の各部の名称一本稿ではおよそ教訓抄(巻8)に由来する楽家録(巻8)の記載にしたがっ
たが(1図参照)、実際は古制の楽群のもつ独白性から龍額も龍額板とするような補正を加
2
奈良時代の挙の復隊について(林)
えたものもある(龍尾坂も同様)。槽は元来その楽器の体の中空であるところが容器の槽に類 することから転用した名称であり、したがって筆においては麦板と磯の併称であるべきである。
ところが古制の撃では表板と磯ははっきり別材であるから、この2つを別々に説明する場合が 多いこと、それから後世の事の槽内に存しない補強の板については龍骨板の名を、糸返しに類
1 回 挙 の 各 部 の 名 称
するものに梁骨の名を与えたことを一言ことわっておく。
ちなみに奈良一平安初期の資料によって知られる等(や琵)の部分名はわずかに表・裏・臨 岳(=龍角)・足(上屋・下足)にすぎない。
2 正倉院の撃残欠の概要
正倉院にある奈良時代一中には平安朝のごく初期のものも混入しているかも知らない−の遺品 である事の残欠とみとめられるものは、1938年3月に一応整理された。それらが撃の部分をなす ものであるとの判断にはほとんど誤りがないのは、事の外形に古今にあまり差のなかったことが 幸しているのである。13の絃孔のある頭尾の板とか、特殊の形状の龍舌とか撃に固有のものの他 に、後世に存しないところの寵骨板のようなものでも、他の残材との関係から筆の部分であるこ
とがたやすく判断されたわけである。そのとき各残欠について第1号から第4号までの整理ナン バーがつけられた。ところが1951年の調査のときの再吟味によって同一ナンバーの下に包括され ているものでも実は全く他のナンバーの筆の部分品であることが判明したものもあるので、それ
(1)
らの不適当なものは除外移籍しなければならなくなった。今日呼ぶところの残欠ナンバーはおよ そ1951年の訂正によるものである。〔もっとも新ナンバーの下でも若干の移動があり、将来にも ありうるかも知れないことをつけ加えておく。〕
こうして新らしく整理したところでは、軍残欠は第1号から第4号までの4組の他に、所属不 明の表坂片・妻板・龍尾板・梁骨・柱・絃があるだけであるが、これを根拠にすると正倉院には 少くとも5張以上の撃残欠が存することになる。その部分品は次の12種である。
龍額板・寵尾坂・龍舌・龍唇・表板・磯・裏板・寵角・龍骨板・梁骨・柱・絃
(2)
その概要は当時の調査報告に掲げてあるが、一部の所属換えや訂正すべきものもあり、ここに 改めて理解しやすいように各部を類楽し、これに挿図を加えて述べることにする。
1寵類板一後世の革は葦額板も龍尾坂も表板とつらなって同一材を用うるが、奈良時代では 全く別材を用いたので1枚の反りのある板状をなしている。献物帳には桐木筆の記載はあるけれ
ど遺物を通じては龍尾坂と共にやや堅い質の木をえらんで用いたように思われる。それはこの部
分が舷の振動の共鳴以外に、絃のつよい支持の役割りを担うことと、もう1つば楽器の構造上そ
の両端部を頑丈にする必要があっ7こからであろう。
奈良時代の筍の復原について(林)
3遺物は第1号と第3号の2点で、共に沢栗のくり出しで大きさも反りもほとんど同じであるが、
第3号の万がわずかに厚手である。また共に一端に寵角を乗せるための切り込みと、それに続い て13絃孔がある。第1号の周縁には黒檀地に菱形花文の木画を施し、玉戸には金箔押しの上に線
2 図 1音巨額板一表と夢(第3号拳)
2 晋巨尾板(同上)
3 崇の晋巨底板
や広い代り、長さは露にも足りないことは後世の制とも相似ている。
青・赤・朱士をもって花喰 鳥を描き、その上に塙竃を 張り、周縁に緑牙をめぐら している。さらに何重にも 木画をもって界線をつくっ ているが、今はほとんど別
(3)
落している。
また第3号は周縁に黒檀 地に六葉複弁花文を木画し、
玉戸は木画の界線内を金箔 押しの上に彩画し璃謂張り にしたものと思われるが、
これも今はほとんど則落し て周縁の木南だけをわずか
(4)
残すのみである(2図1)。
龍頚部は龍尾部より幅がや 遺物2例とも裏側に龍骨板
(a型)痕を残している。
2 籠尾板一龍額板より幅はやや短い代り竪ははるかに長いのが式で、一端に寵角を乗せるた めの切り込みと、それに続く13絃孔をもつことも籠額板と同様である。
遺物は第1号・第2号・第3号の3点で第1・3号は沢栗、第2号は木質不明ながら朴に似て 堅い材を用いている。何れもくり出Lで、幅より長さがわずかに短く、一見平瓦状に似ている。
第2号の反りは他より大きく、他は相似たものである。厚さも第1・3号は同ナンバーの館額板 に近い。第1号はかなり欠損して今は2片となっている。表には木画の界線をつくり、周縁には 紫檀張りで花弁文をつくっている。柏形には白牙線をめぐらし、そのうちに紫檀地に蔓草花文の 木画があり、相形の外には金箔を押し、花枝・花喰鳥を彩画した上に埼唱を張てついる。しかし
(5)
これらの木画などはかなり剥落している。第2号は材料の都合でか2枚の材を連続して用いてい るが現状は全く分離している。これも木画の界線をつくり、線外は紫檀張りに花文の木画があり、
柏形には白牙の界線をつくり、花欄材を張って花井・鳥朕文を木画し、相形の外は金箔押しの上
(6)
に花鳥を彩画して塙君で蔽うてあるが、木画の多くは剥落している。第3号の表面は磨損したよ うにいたみ、別落した界線の外区には木南の花文痕が残り、区内の柏形内には花樹・飛島・蚊・
宝形望(2基)などの木画境があり、さらに相形の外には金箔押し塙碍張りの痕がみとめられる
(7)
(2図2)。三者とも尾端の木口は素地であり、また表面の装飾痕の中断の形迩のあることから、
この木口に続く後付(あとづけ)の存在が考えられる。裏側の附着痕は第2号の内縁に近く一部 わずかに認められる他明かでない。
3 籠舌一能額の端の四部の装飾である苦舌は第4号の1点を残すのみである。これは沢栗製
の櫛形で、中央部に稜角のある台をつくり、その上に紫檀張りして花弁・烏喋の木南を施してあ
4
奈良時代の挙の復原について(林)
る。その葉脈には、墨を入れて花を芳蘇染めにするなど実に美しい工作である。台の裏側には左
(8)
右2ケの鮮やかな龍骨板a型への附着痕がある(3図4)。
4 籠唇一龍額部の木口 の内側、すなわち龍額板と 2つの磯と裏板で包む内側 に張りめぐらしたうすい板 であるところの龍唇は木口 面の厚さを整えることと内 側の装飾を兼ねたものであ ろう。遺物は第1号と第3 号の2点で何れも残片であ
る。第1号は沢栗の板を寵 額板の裏側に接する側を弧 状に曲げるために24条の切
 ̄、、∵二二!・∴
二二∴・・;這:二13
1鶏骨板a型 2 同b萱リ 5 寵角 6 寵 麻(以上第3号事)3寵骨板C型(所属不明)
4 寵舌(第4号挙)
り目を入れ、反対側には黄
(9)
土の地に塙唱を張りつけている。この板と龍顎板の木口面の木画痕はよく符合している。第3号 は桐材で2片に破れているが、この2片と龍額板との木口の木画痕もよく符合するし、また張り
(10)
合せの痕連も相応している(3図6)。
5 衷板一当時の表板は轡曲にくり出しの板を用いないで、うすくけずった平らな板を龍額板 と龍尾坂の間、換言すると2つの龍角の下にかけて張りつけたのである。またその木質も通例で は明かに後世のように桐に限っていない一献物帳に相木挙の記があり、桐表板の残材もあるが−
のも注目すべきである。その裏側には、ある間隔をもって龍骨板その他への接着痕を残すものが 多い。
﹁つーつ幸望∵つ
l l 1
− U
.
・
−
−
1nU−−1
4 図 表板残欠2枚一表裏(第3号・挙)
遺物には第3号の破片5片と 所属不明の2片である。第3号 は木質不明ながら−槻材かとも 見られる一うち3枚はきわめて 美しい流水渦紋の木目を現わし ていることは、当時でも撃の表 板が後世同様木目を賞美したこ とを物語っている。このうち2
(11)
枚(a−4図左、b)は龍額板 に接し、その一端に龍角をうけ るための浅い切り込みと一線に 紫檀張りに木画花文痕をもち、
(12)
他の2枚(Cd)は右の2枚に 連結し、龍尾坂に接する残り1
(13)
枚(e−4図右)にも緑に木画
花文痕をもっている。これらの
板の裏には寵骨板(や磯)への
奈良時代の琴の復原について(林)
5附若痕があり、その位置は第3号磯の龍骨板の附着痕とよく相応している(図版一C)。所属不 朋の2片は桐材で一端に条痕があって龍額板または龍尾坂に近接していた部分であることを示し
(14)
ており、その1枚の裏には龍骨板への附着痕がある。
表板がわずかしか残らず、しかも破片となって存するのは平らなうすい坂を曲げて張りつけた ため、一度槽が分解すると旧形の保存に堪えないもろさを露出するためであろう。
6 磯一磯は他部と全く別材で作るのが古制である。この点は後の箱作りの磯に似ている。遺 物は第3号の1点で過半部しか存しない。材は沢某で紫檀張りに花井・雲・鳥喋・宝形望(3基)
・山などを木画した痕がある。現状は2片に折れているが、寵街板に接する一端は完全に近い。
磯は頭部だけたてに広く一恐らく尾部も同様一躍角と接する部以下がにわかにたて幅を減じてい
(15)
る。その内側には散骨板の附着痕8条と、裏板との接着痕が鱒やに残っている(5図、図版−C)。
違例でもそうであるが反りを保った鋸こも磯は堅い材質が適している。
7 妻板一材質は後世同様、桐を用い、上下に2つの音穴をうがつ。内側には何れも寵骨板痕 を残している。
遣物には第2号(裏第2号)と第3号(裏第3号)と所属不明の裏第1号の残材3つがある。
第2号は粗い桐で3片に破れている。その一端に音穴の弧形(頭部)が現われ、他の端は欠けて 晋穴にまで達していない。両線を0.5−0.6センチの幅に漆で塗ってあり、内側すなわち腹lニ函こ面
(16)
する側には寵骨板痕8条がある(6図左)。第3号は桐で後世短く切って両端に孔をうがって何 かに用いたらしい形迩のある板切れである。今2片に破れている。一方の緑に磯への附着痕があ
り、内側に寵骨板痕4条があるので、その位置関係から第3号撃の裏板であろうと推定された
(17)
(図版−BC)。また所属不明の裏板第1号は桐で近年の発見を加えて8片となった。これも粗 い板目で一万の音穴(尾部)の弧線を旧形の6分通り残している。縁には0.4−0.5の漆ぬりの痕
(18)
があり、内側には龍骨板痕9条がある(6図右)。
8 旨巨角一撃の表面において緊張した絃を乗せるべき1対の寵角は絃のめり込みをできるだけ 防ぐためのに特に堅質の材が要求されている。この点は古今同一である。
遺物には2隻1隻がある。第1号は紫檀製1隻で、その1枚は蔓草花井文を木画してあったが
〔19〕
今はほとんど別落し、その両端のついだ木は欠損している。上部に絃痕がある。他の1枚は同村 の一小片にすぎない。第3号も1隻で花欄で作り共にその1両には花井・鳥煤の木南痕があり、
(20)
上面には花文の木画境を残している(3図5)。第4号は1隻で遺品中もっとも大形である。紫 檀で作り、蔓草・花井・鳥媒花文を木画し、葉陳に墨を入れ白牙の稜をとっている。上緑に絃痕
(21)
がある。寵角の1竪あるものは、寵街板に接するものが寵尾坂に接するものに比べてやや大きく 且つ轡曲度がつよいのももとよりである。また1隻しかないものもこれと1具をなすとみとめら れる他の残欠との比較によって頭尾何れに接していたものであるかを考える途が残されている。
9 龍骨板一一枚坂をくった槽と裏板を主要部分とする後世の撃と異なり、龍額板・寵尾坂・
表板・磯・裏板の主要部分をみな別材で作り、それらを寄せ集めて構成したような古代の撃では、
おのずから各部の接合に欠陥が生じ破損しやすい恐れがある。そこで主として補強のために内部 に、その使用位置によって多少形の異なる幾枚もの寵骨坂をとり入れる必要があった。その形に a b cの3型がある。もっともその1種は補強の目的より外廓構成の必要物である点、あるいは 木口板と名ずける方が妥当かも知れないが、今しばらく龍骨板の名の下に包括しておきたい。そ の何れもの板の端面には接着痕をもっている。
a型は籠額の端の四部を飾る前古の支持板を兼ねているので1種の木口板である。〔俗筆では
奈良時代の筍の復隊について( 林)
7瀾板(せきいた)と呼ぶ。〕この板の中央上部には1孔をうがっている。b型は槽内の中間部に おいて全く槽の補強の目的に用いられたもので、板の中央を低半円形にくりぬいている。その下 枠の内縁に何かを塗った連がある。C型はb型に似て、わずかに異なる点は上縁の左右の肩が少
し切りとられていることである。下種の内縁にはb型同様の塗り迩がある。
a型の遺物には第3号・第4号に各1枚がある。第3号は沢栗で上縁の一部が欠損している。
(22)
板の外面には左右に寵舌との接着痕が2つある(3図1)。第4号は択栗の完全な形をもち、や
∵こく
や大型で、これに接着してあった美しい龍舌1枚を現に残している。b型は第3号所属かと思わ
(封)
れる1枚で沢栗で作り、今3片に破れている(3図2)。C型には所属不明と第4号附属らしい
(25)
ものの各1枚がある。前者は禍材で、一万の側の左右面にかすかなくぼみがあり(3図3)、後者
(26)
は沢栗材のやや大型である。
10 梁骨一弓形の木片1枚で龍尾坂の裏につけて絃のもどりを防ぐためのもの−俗事の糸返し
(27)
一かと思われる。遺物は朴材の破片で、始め第3号の寵街板の裏側の弧線に一致するところから 本草の部分品ではないかと推定したが、鶴亀板にはこのような木片の附着する余地のないところ から、何れかの挙の龍尾坂の所属と考えるに至った。
11柱一挙の絃を2つの龍角の間において支えて絃音を高下し調律するた馴こ用うる可動的柱 の形は古今の問にあまり大きな差はない。遺物には甲乙2種ある。甲は2個あり、共に側面を金
箔押しの上に縁紅墨をもって花喰鳥を描いて塙
7 図 等柱 石柿 左塙耽黄楊木張
唱を張っている。その木口には緑牙を張り、股 は黄楊木張りで、aには「十二」、bには「十
(2S)
三」の墨書がある(7図左)。これによって
「為」「巾」絃用の柱であることを知る。aは 股の一端に欠損がある。また乙は1個で柿材、
首に銀をぬり、その他は蘇芳染めの上に金泥を もって雲形を描いている。頚部に2ヶ所に絃を うける切り込みがついてある。これは始めから
(29)
2鑑を乗せるつもりで切り込んだものとは思われない。(7図右)。
12 紘一絃楽器の舷は発音体であり、ある意味で絃楽器としての最重要部とも云いえよう。古 代の撃絃がどのようなものであったかを示す唯一の資料もまた正倉院に残されている。それは献 物帳記載の平脱憫箱に盛った挙絃の残欠で「筆絃」の墨書のある木箋を附してある。何れも蚕糸 4たばを合せてよってあり、絃の2ヶ所に金箔を巻いた痕が見られる。絃には右よりと左よりの 2様があるが、よりはすべてゆるんでいる。この他に近年高梨塵芥中からとり出されたものにも 金箔巻きの絃があり、これも多分等絃かと思われる。これらの絃の太さは楽事や俗筆で現用のも
っとも細いものよりもさらに細目である。
× × ×
以上が正倉院にある4〜5張ほどの事残欠の概要である。このうち保存しやすい材質の龍額板
・龍尾坂・龍舌・龍角・龍骨板・柱などは比較的よく全形を残しているが、一尤も木画などの装 飾は剥落多し−その他の部分は破損して完形を見られない現状である。次表は近年の調査に基く 第1−4号と所属不明の挙残欠の部分品名麦である。〔廿印は所属推定〕
第 1 号て寵魔板(沢栗)t龍尾坂(同)・能管(同)・龍角(紫檀)
第 2 号用巨尾坂(木質不明)・裏板うつ第2号・桐)
8
8 図 昔巨額板の実測箇所
〔龍底板も準ずる〕
挙
長! 幅
奈良時代の挙の復原について(林)
第 3 号
龍額板(沢栗)・龍尾板(同)・龍唇(桐)
・表板(槻γ)磯(沢栗)・裏板(第3号
・桐)・龍角(花欄)・龍骨板a型(沢 栗)・同b型懲(同)
第4可警霊
所属不明
(紫檀張)・龍角(紫檀)・龍骨坂
(沢栗)・同C型(同)
表板(桐)・裏板(第1号・桐)・龍骨 板C型(桐)・梁骨(朴?)・柱(黄楊 木張)・同(柿)・絃
実測表の符号について−△=不完、A=頭、B=尾、
サ=所属推定、+=推定原形。なお龍骨板・龍尾坂の 実測表の数字は8図を参照のこと。
寡 板 実 測 表
籠骨 板 痕
縁と り
0.55へ一:0.4−
0.85; 0.5
. 1−−1  ̄
[0.6〜・[0.5−
− 0.75! 0.6
1 正倉院御物図踵(十六・1951)の第27フ
幅 j間 隔
0.6_l12.7_
1
0.9i 17.3
0.5一・一 [17′、′
0.8i 20
3 片
第2号等附属P
16霊l第。;芸澗
32−38フ 40図に収めた挙残欠のうちには新整理ナンノく−と柁 達するもののあるのは、この故である。
2 芝祓泰・長屋(林)謙三・滴遼一・岸辺成雄、昭和25−26年度、正倉院楽器調査概報(書陵部紀要2,
1952)ク 36〜40参照。
3 御物図録、32図右上から2フ 33図上。〔以下繁雑ながら研究者の便宜を考えて同図録掲載の軍残欠の 写真を指示した。〕
4 同、34図右上から2。
5 回、32図着下端。
6 同、34図右下端7 35図下。
7 同、36図右上から3ク37図右。
8 同、34図右上から1フ35図上。
9 同、32図右上から1。現状は籠唇の下に黄楊木製の薄板をそえてあり、その葬に「五月十七日大雨」
の墨書が讃まれる。この板は元来からの附属晶であったかどうか疑わしく、保存用に古材を応用したも のかも知れない。
10 回、32囲左申。
11同、32図左上。
12 同、40図右中の左2枚。
13 同、40図着中の右端。
奈良時代の挙の復原について(林)
表
測
契
欠
残
等
9
龍額板l 龍尾板 a251:2芸::
:2;:;〜9た22・8−21・6
1
厚0.6 悍0.6−0.7
A
(
板 骨
龍 角
長27.7 幅2.3−2.4 厚0.95
9
8
長 幅 厚
i
B
裏板*(第2号)
5〇
. 3 5 82 〜 1 5 0
長幅厚 i 寵唇
表板5片 裏板(第3号)
‖梁骨△長20.6
!表板2片
[豪板(第1号)
柱年2,乙1 絃
第 4 号
/一
14 同、40図右中の左より3−4。
15 同、36図左。
16 同、38采右上から2。
17 同、27図左上。
18 同、38回右端。この残欠の組み合せは少しあやまっている。本文第6図右が正しい。
19 同、32図上右から3。
20 回、36図右上から1・4。
21同、34図右上から3。
22 同、32図右上から5。
23 同、34図右上から5。
24 同、32図右上から4。
25 回、36回右上から2。
26 同、34図右上から4。
10
27 同、図左40上端。
28 同、32図左下端。33図下。
29 同、34図左。
奈良時代の挙の復原について(林)
3 奈良時代の挙の構造
前項で述べた正倉院の撃はことごとく残欠ながら撃の主要部分を一応網羅していると云ってよ いものである。後世の事を参考にしても、これ以夕恒こ加えるべきところは尾端の板一俗筆の後付
(あとづけ)一に龍手・龍址くらいのものであろう。したがって後世のものとは全くちがった組 立てをしていても、以上の残欠を基にして当時の挙の外形を愚いうかべることは可能である。事 にも第3号撃は比較的によく各部分が残っているために、内部の特殊構成のある点をのぞく他、
かなり精確な長さや各部の割合までわかるのである。
そこでこれらの残存部がどのように組み合せられるか、そしてどのように欠損部が補われて完 全な原形に近いものに復原することができるかを、以下第3号挙残欠を中心に考察して行きたい と思う。これを1製革:(1)頭部、(2)尾部、(3)側面、(4)上面、(5)裏面と廿日翠 に大別して述べることにする。
I 外 部
(1)頭部一遺物のうち比較的まとまっている頚部の構造はほとんど疑いを残さないほど明か になっている。それは頭部を構成する寵額板・磯・裏板と龍舌・龍唇・龍骨板(a型)の接合の 仕方が1つ1つ遣物によって明示されているからである。龍筍板の左右の切り端は頚部の全幅に
までのびておらず、磯の上方内側につながるように作られている。それは周縁の木画の痕迩が中 途で切れていることによっもわかるし、第3号の磯との連絡によって一属確実に証明されるので
ある(9図上)。この特殊な組立て方は龍尾坂と磯の間にも存しているわけで、構造上の何らか の利点から考案されたものであろう。
龍額板は2例とも、その裏側に龍唇や龍骨板の附着の位置を明示した痕迩がある。一万頚部の 惑板はわずかに薯穴の弧線の1部を示す通例があるだけにとどまるが、龍唇や龍骨板の位置にっ てはい別に疑うべきところはない。
寵額板だけでなく裏板それ白身も磯の下縁にとり付けられずに内側に左右から挟まれて固定さ れることは龍額板と同様である。また頚の内部におかれている1枚の龍骨板は、東端の櫛形の木 口に深くはめて装飾とする龍舌の支持板でもあることから一第4号等の龍骨板(a型)との接合 関係から明白一当然a型でなければならないことを知る。事実第3号挙の残材は龍額板の痕迩に 令致している。龍舌はかなり深目におかれていることは龍額板2枚の裏面の龍骨板の残痕や龍 唇2種の幅の大ききによって明かであるリ龍舌は龍骨板の表側に貼りつけて頚端から4−5セン チの奥に固定され、外部からのぞき込まれる。木口から龍舌までの内飾こは龍唇を貼りめぐら す。寵骨板がその外面には龍舌を貼りつけながら、その内面には上部に異様な形のくりぬきを残 すのは何の目的をもつものであろうかについては、これは内部の問踵であるので肝の項で論じた
いり
さて龍額板は上部において表板との重なるあたりに1つの龍角を乗せるが、それは尾部の龍角
よりもやや大きいづ と云うのは頭部は尾部に比べて轟きは短い代り幅はやや広いからである。ま
た龍額板の屈曲率は龍尾板のそれよりやや大きいのを定式としている。これも後世と同様。
奈良時代の答の復原について(林)
11(2)尾部一上に寵尾坂を、下に表板を左右に挟む2枚の磯がのびていることは頭部と同様と 考えてよい。そして龍尾坂と表板の重なるあたりに1つの龍角を乗せることも頚部と同様である。
しかし尾部には菰部の龍舌のような装飾を欠く代り、尾端をふせぐ板一俗筆の後付(あとづけ)
(1)
−が必要である。この板のつけ方については南倉の24絃の芸の龍尾坂(2図3)の端に絃痕のあ るところから龍尾坂そのものをもって事の尾端となるのであろうと考え、これと裏板や両磯が組 み合ってなす櫛形の隙間を単なる1枚の木口板をもってふさげばよいとして、後に復原工作をし
(2)
たのであった。ところが挙の轟尾板3枚の木画その他の装飾残痕を慎重に検討した末、龍尾坂が 尾部の最後端ではなく、さらにある厚さの板がつけられるべきであると考え改めるようになった。
〔その厚さは裏板第1号の尾端の内側の痕迩によって1.2−1.5センチほどと推定される。〕上記 の忘の龍尾坂には、つa)方形の額線を刻して尾端に線外の余地を残しているのに反し、撃の龍尾坂 3枚では額装の尾端部が不完全、乃至額装を補うとしても装外の余地がほとんどなかったり、そ れがありえないこと、(b)木画の装飾痕で明かに中途で終っているもののあること、(C)尾端の木口 の仮面が木画の痕迩もない素木であって、これら装飾の多い挙としてはこのままで尾端となるの は不似合いである点などから、この龍尾坂につづく板の存在を推定したわけである。この板の上 緑は後の撃のように或は面とりになっていたかも知れない。第2号等の尾端がわずか面とりとな っていることは、これにつづく板の同様面とりを十分想像させる。後世の撃では尾部の1部を緊 張した13紋から保護するために純一俗に錦切(にしきざれ)と云うーをもって蔽いをするが、古 はどうであったろ.うか。何らの痕迩もないので明かにすることができない。
(3)側面一挙の側面を形成するところの磯の唯一の遺物である第3号の残欠は推定全長のヲ4
9 図 撃 の 組 立
上は頭 部 下は中間部
ほども存しており、その屈曲線を延長すること によって全体のカーブを求めることがたやすい0
それによると後世の等の磯のカーブに似て、薗 部寄りに屈曲率が高くなっている。磯と他部と の接合のありさまは東尾においては龍額板と龍 尾坂の左右縁に、また裏板ともその左右の縁に 接する代りに、表板だけは磯の上様に蔽いかぶ
さるように接合するものである(9図)。
そこで頭尾において磯の高さは龍額板や龍尾坂 が龍角を支えるあたりまでが高く、その他は高 さをわずかながら減じて表板の左右の端に蔽わ れるわけである。また内側は10枚ほどの寵骨板 を隔てて2つの磯が相対している。したがって 当時の等の側面は下方は磯の下辺が形をつくり一後世の挙では俗筆のとめづけを除き槽の側面の 下にさらに裏板が貼られて磯を形成する一上方は寵額板・衰板・龍尾坂の3つが形をつくるわけ である。なお頭尾における磯の幅は相似たものと見てよい。
(4)上面一恵尾部をのぞく上面をつくる表板は後世の筆のように凸形板状にくりぬいたもの
でなく、元来は平らなうすい1枚の板として作られたものを用いたことは残欠を通じて知られる0
当時の等の構造としてはうす板でなければ表板として加工できない状態にあったのである。1枚
の長方形の板を上下に反らし同時に左右に反らして、なお大形絃楽器の麦板として音響効果もよ
ろしく、強度も高いものを求めるとき、材質とか板の厚さとかに、かなりの制約を受けたはずで
12
奈良時代の挙の復原について(林)
あろう。残欠に見られる表板はうすいものは3ミリ、厚くても5ミリをこえない。今日わずかな がら反りをもっているのは古、平らなうす板を強いてまげて貼りつけた癖がなお残っているので ある。さてこの表板は頚尾においては龍額板と龍尾坂のはるかに向い合う一端のうすくけずった 上に重ねられ、その上に龍角各1枚を乗せる。また板の左右の端は2つの磯の上縁に乗るように 貼りつけられる。裏板とは数枚の龍骨板をへだてて相対する(9図下)。このよな状燈にユ枚の 平らなうす板を貼るには当時といえども相当の技術を要したことであり、接着剤も強力なものが 用いられたわけである。寵東尾の龍角の形と大きさは、それぞれ乗る龍額板・龍尾坂の形に相応
している。
(5)裏面一当時の撃は磯が裏板を挟むから等の裏面の幅は裏板の幅が決定するのではなく、
その両側に磯の板の厚さを加算して決定するわけである。したがって裏板の残欠の左右何れかの 端に沿うて狭い幅の漆ぬりの痕迩が3つの遺物のどれにも見出されるのは、磯の厚さを加えての 裏面の縁とり(その幅1.5センチ内外)の装飾であったことを知るのである。裏板の東尾にうが った2個の音穴の位置や形については、不完全ながら2つの遣物がほのめかしている。1つは頭 部の、1つば尾部の音穴と判じたのは板の幅が頭部が尾部より広いと云うことと、音穴に近い龍 骨板痕の位置によって判じられる。頚部の万は第2号所属と思われるものにわずか弧線の一部を 示すだけである(6図左)。その弧線の位置と大ききから次の尾部の音穴と共に、平安以後のもの を連想してもよさそうに思われる。また尾部のもの(裏板第1号)は前者より保存がよいが、惜 しいことに瑞を欠いているために後世のようなものであったかどうかを確めようがない(6図右)。
まず重ね鏡餅形のものらしいと感じられるだけである。それから菰部の裏の龍手と尾部の裏の龍 址は共に遺物を欠くが、裏板第1号には両側沿いに長さ30センチほどの龍虹が附してあったこと を示し、龍手と共にその形はこれも平安朝以後のものと大同と考えてよさそうに思われる。
丑 内 部
当時の等の構造的特異性は夕津βにも多く見出されることは上述の通りであるが、内部において 一層いちじるしいものがある。これは当時の槽は1材をもって作らないことから内部に複雑な補 強的工作の必要があったからであろう。この内部的構造については後世の撃に全く類似点を見出 さないことと、古の残材が不幸にも少いと云うことが原因して、今日まで当時の撃の内部には龍
10 図 音邑骨板a塾の孔 2種(内側)
骨板の介在が漠然とみとめられた程度にとどまる。龍骨板の数は一 定しておらず、多少の差があるが、a型を加えて10−11枚くらいが 用いられたと推定される。このうちC型の位置については後述のよ うに仮説が立てられるものの、なお疑点を残している。
以上のことが筆の内部的構造の根幹として1951年の調査によって みとめられたわけであるが、当時の撃の内部はこの程度にとどまら ず、さらに附加物があったと思われる。その有力な手がかりはa型 の上部にくりぬいた謎の孔である。遺物には2例もある(10図)。
何の用もなしに孔をうがつわけはないから、この孔には孔を埋める
何かが附着していたと考えるのである。それを追求していくうちに
龍骨板以外の第2の補強的工作物としての心位の存在に思いあたっ
た。当時の革としては、これくらいの内部的構造をもつことが製作
と実用上の経験から要求されていたのではないかと云うのが私の到
達した結論である。以下この説の概略を述べてみよう。
奈良時代の挙の復隊について(林)
131 龍骨板(a型)は前面に龍舌を貼っているから、この板の上方にあけられた孔は前後に貫 通する用途のない単なる底のある浅い孔としてしか役立たない。その奇異な孔の形が龍額坂の絃 孔のならぶ線の間近にあるところから始めは漠然と何か絃を結びつける特殊な装置がここに起点 をおいていたものかと想像したが、後には槽内を貫く心柱があり、その一端の附着孔ではないか と考え改めた。そして図上に心柱の行方を追うて、その一端が龍骨板の上方にあることの合理性 に気付いたのである。心柱が必要とすれば、それは草体の窒Ⅰの方向において強く張った絃の張 力に対抗して事体の堅聞きを維持すべき必要から作られたものとすべきであろう。もう1つ心柱 そのものが槍形リュート(Spiesslau略例:三味線)の棒の役目をなすものではないかとの.臆 測も浮ぶか、これは実情に添うかどうであろうか。なお以上の心柱の存在説の理由をあげると−
a)龍骨板(a型)の上部に孔のあるのは、ここに一端、をおく心柱が恵棒一もしくは直棒に近 いもの−としても龍骨板b型の内縁との接触をできるだけ避けるためである。
b)龍骨板の奇異な形状の孔に応ずる心柱の上方∧形は、龍額板の表において13絃中、少なく とも6・7・8の3絃の緒の留めに便利のよいようにけずったものと考えられる。
しかし龍骨板の孔の下方の尖超は心柱に何の目的を与えるか明快に説明したいが多分柄穴と見 立てたい。そして心柱そのものの断面は頚部においては円の上面に∧形に切りそいだものであり、
やがて半円形となって尾部に達するものと仮想する。また心柱の尾部における固定位置としては 下記龍骨板C型の上方−これは尾端の板(後付)の内側では欄内に通過させる絃のきまたげをな すことを考えに入れて…が適当であろうとの推定におちついた。
以上のような心柱存在説を捏出したが、龍骨板C型についてはまだ1つの問題が残されている。
C型の左右の肩に表板ほどの厚さの切り込みのあるのは何かの部分品の附着場所であることは 明かである。このような切り込みの龍骨板を数枚用うるときには、この切り込みにはまる細長い 板をもって各龍骨板を連結し強化することはできようが、第3号等の表板や磯の内側に残された 痕迩に上ると、このようなものの存在は認められないことからC型は表板の大部分とは相触れな い場所に用いたらしいことを知り、したがってせいぜい1枚内外用いたらしいことを想像するこ
とができる。その位置については2つの解釈が可能である。
(1)は龍尾坂の内報よりわずかに頚部よりにあるとする解釈。第4号附属かと思われるC型 の上様の半ばに、およそ7−8ミリ間隔にたてにきずがある。これはその上緑に貼った表板の木 頭施工時の錐の痕一間隔はやや狭いが−と見立てられるかも知れない。周縁に木画のある表板は 商機と上下の寵角に接するところしかなく、そのうち両磯と恵部の龍角に接するところは残材を 根拠としてC型が不要であることから、尾部の龍角の下近くに龍尾板の内端にすれすれにおいた のが問題のC型かと考えるわけである。そうするとこの肩の切り込みは寵尾坂の一部に接着する 補強用の小木片の付けどころであったかも知れない。
(2)は龍尾坂そのものに、その内鞘と絃孔線との狭い問に附着するとの解釈。現に第2号寵 尾坂だけであるが、寵骨板らしいものの、ごく小さな木片が附着している。この解釈をとるとき は、上記の木画錐疲らしいものは単なる鋸か何かによるきずのようなものと見てよい。きずつき のC型が推定通り第4号所属であるならば、同号のa型との高さのほとんど一致することから、
C型は龍尾坂の直接下にある方が似合わしいと云う判断も成り立つであろう。そして尾部は頭部
より長く、且つ13絃を尾端に廻わすところであって格別に強固な構造であるべき必要上、両肩の
切り込みに対し板に直角に細長い木片を磯に添えて龍尾坂を支持補強する役目をしたのが問題の
揖骨板であると考えるのである。もっとも糸返しと解する梁骨の尾端が商機にまで延びるときは
14
奈良時代の撃の復隊について(林)
添木の妨げとなることから、梁骨そのものの形体と用途についても検討しなおす要があるであろ う。
以上2説の選択について参考になるのは、裏板第1号内側の尾端から龍骨板までの距離を示す 接着痕である(6図右)。尾端にある1.2センチ幅の後付板痕を除いて、育巨骨坂までの距離と挽 存の龍尾板3枚の長さ(表のC)とを比較してみると、第1号は龍骨板にまでとどかないのに、
第2〜3号は十分とどいている。等制には大小の差があるから、これをもって2説のどちらがも っともらしいかを託する資料とはならないが、(1)説ではその位置が龍底板に近すぎて、これ
なしにでも足ると云う点から最近では私は(2)説をとっている。
なお龍骨板(b c)の内くりの下方の縁にある塗布剤が何であり、何用であるかについては明 かにするに至っていないことを附言しておく。始めここにも補強のため、すべての寵骨板(b c)
を連絡するうすい板が貼ってあったのではないかと考えたこともあるが、遺物を再検討して剥ぎ あとでもないことを確かめ前説をとりやめにしたのである。
正倉院の事残欠はすべてと云ってよいほどかつては美しい装いをもっていたが、残材を組み合 せて感じたところでは、龍舌のように奥深くはめ込むものは前もって仕上げたものを龍骨板(a 型)に接着する他はないが、大部分はまとめ上げた上での施工であることは他の木工品の場合と
同様であると思われた。
1 御物図録、36図右下端。37図左。
2 同、32図右下端(第1号)フ34瑠右下端(第2号)フ36図右下端ク3柁慧右(第3号)参照。
4 本 画 筆 の 復 原
奈良時代の少なくとも5張を下らない撃のわずかの残欠を総合組合せ、その不足を補うときは 前項で述べたような外部や内部構造をもつものであろうと考えられるのであるが、全長とか磯の・
反りまでを割り出して具体的に復原できるものは、ただ第3号挙1つあるだけである。
第3号軍は比較的よく各主要部分を保有するだけでなく、槽・磯の反りや全長を導き出す手が かりをもった鋸こ、ほとんど疑いを残すことなく、その外形的復原ができたわけである。この事 の頚部は龍額板・龍唇・龍骨板(a型)・磯・龍角と衰板残片がそろっているので、それぞれの 接着痕の位置において相連結することができる。龍額板の木口面の木画痕は龍唇の残材の木口面
とも合うし、前者の裏側にある接着痕とも一致する。また龍骨板も龍額板の裏の痕迩の位置にお いて正しく龍唇とも接触するし、磯の内側の痕述とも符合する。龍骨板と磯は前者の右側の緑に 後者の内上面とが接触していたことを示している。この部の裏板はないが、磯の内側にあったこ
とは磯の痕残によって明かである。これによって頭部の構造はほとんど明かになった。
こうして構成された頚部との境に龍角が乗るが、胴部の上に張る表板は龍角の下あたりで、龍 額板に貼りつけられるのであり、その接着痕が明かに残っている。表板の破片2板(ab)が龍 額板に接する具合とか、一万の磯に上から附着する具合も破片が明白に示している。表板の他の 破片2枚(C b)がさらに連結して表板の推定全長の半ば位にまでのぴている。その裏側にある 龍骨板附着痕は整然とほぼ一定の間隔−17センチ内外一にならび、磯の内側にある同様の附着痕
とも相応している(図版一C)。
ところでこの事の磯のカーブと全長はどのようなものであるかを決定しなければ全形を忠実に
奈良時代の撃の復隊について(林)
15再現することはできない。磯の残材は2片に折れているが、これをつぐと138センチ(4.554尺)
もあり、かりに6尺の全長としてもおよそ%の長さをもつこととなる。したがって、そのもつカ ーブをわずか延長するだけで全体のカーブをえがくことができる。次に正しい全長の求め方であ る。表板の残る破片1枚廟は寵尾坂に接することがたしかめられる。その裏側にある龍骨板附着 痕−2条のうち1条は消えかかっている−は磯の折れ端の内側にある龍骨板附着痕と同じ幅をも
つことカとら、ここに共通の龍骨板をつけていたことを推測した。この考えどおりとすると龍骨仮 の末端まではおよそ190センチ(約6尺3寸)となり、尾端に後付の板幅αをさらにつけたもの が全長となり、撃の大きさとしてはまことに手頃のものとなる。ところでこの事の龍骨板痕はお よそ17センチ間隔であるから、かりにこの推定がやや誤っているとしたら全長を17センチほどの ばすか縮めるか何れかであるが、何れをとっても等:としての幅と長さとの均衡上から見て適切と は考えられないので、上述のように磯と表板片との連絡点を確認し、これをもって全長を求める 正しい根拠とした次第である。ここまで見当がつくと、表板(e)と龍尾坂の接触位置を定める
だけで一これは龍角の厚さをもとにして、この2つの重ね位置がわかる一能額板の端から龍尾板 の端までの長さが決定する。
残された遺村中、裏板の切り端は内側の籠骨板附着痕4条と磯のそれとの比較吟味の結果、寵 骨板(b型)第3−6番にわたり残存の磯と接合することを判定した。〔もっとも龍骨坂つテ(b型)
1枚の位置については確認するに至らなかった。〕以上の残材の組合せによる頚部から尾部まで
(1)
の連絡を表解すると次のようになる(図版一B参照)。
〔龍廣・龍骨板a〕
龍骨板*(b)
龍郊板−−〔克角〕一衆 板(a.b)一表 板(C.d)・‥表 板(e)一〔尭角〕一語底板
1 1 1 1
園 l 豪 板
こうして第3号筆はなお多くの欠くるところがあるが、その旧形を具体的に再現する見込みが あったので、1952年その復原工作が企画された。復原と云っても残材を新材をもって補綴して旧 形の大要を示す程度にとどめ、もちろん内部構造まで古の姿そのままにもどそうとしたのではな い。当時の復原条件が次のようであったからである。
1明治時代の復原には往々にして功を急いだために後からさらに残材が発見されながら、それを加える ことができなかったり、戎はまちがった復原をして後から改めることができなかったものもあるので慎 重を期したこと。
2 かりに旧材を国章しようとしても千年の久しいうちに生じた乙ゝずみもあって、旧形どおりに復するこ とが不可醒な部分、例えば表板のようなものがあるので固膏はむしろ避ける方が無難であったこと。
3 復原には正確を期していても新しい資料の出現とか新見解によって多少改めなければならない点が生 じた場合の解体を容易にしておくこと。
したがって復原事は残材をつかってできるだけ忠実に外形を旧に復することが主であり、補綴 の新村は組み立ての台になり、また欠けたところを埋める程度にとどめた。また外部の装飾面の 復原は一切放棄しているし、内部構造も右の条件から原形そのものに摸す必要もなかったし、原 形に復することは施工上も不可能であったので、旧制そのままにはしたがわなかったのである。
例えば槽の組み立てにあたり、2片に折れた磯を補強するために厚板にこの破片をはめこんで支
16
奈良時代の挙の復原について(林)
持するとか、槽の心張りとも云うべき龍骨板も古式ではうすくて弱く実用にはならないので頑丈 なものにかえるとかのことも、施工上やむをえない措置としてとらないわけには行かなかったの である。
以上のように、もっぱら外形の復原、それも必要以上の余分なものを一切加えない方針による 復原を目標に、その年の秋およそ20日あまりで施工を完成した。復原による全長は190.85(6尺
3寸)、頭部幅26.8、回高8.4、尾部幅25.6、同高8.1、磯の反り最高3.9センチある(図版一A)。
ちなみに尾端は龍尾坂だけに終っていることは前述のごとくである。その他、龍舌や龍手、範址
(2)
などは補っていない。こうして奈良時代式の唯一の復原草である木画筆が生れたわけである。
× × ×
第3号挙の由来については近年、正倉院の松島噸正氏が一説を提出している。正倉院文書の雑 物出入帳に弘仁十四年四月十四日柄物として新羅琴二面、襲琶一面と併せて次のような筆の記事 がある。
撃一面 槻衷桐裏以木絵為堺】===_{!
以蘇芳作足闇岳等盛白に−コ
右四面、去二月十九日所出、今相替地人知件。
この事は弘仁当時の新製品か、または奈良時代製の旧物か文面では明かでないが、今の3号草
(3)
に当るものではないだろうかと云うのが新説である。案ずるに、この時代に代納した新羅琴2面 は今北倉にあることでもあり、上文の事の残欠が正倉院に存していてもよいわけである。第3号 撃の美しい流水紋をもつ表板の破片(a〜e)は木質不明ながら或は槻材であるかも知れない。
裏は正しく桐材である。臨岳すなわち龍角は遣物は花欄と云われているが、古の蘇芳と云うのも 科学的には正しいものかどうかわからず、共に赤味をおびた木質であり、実は同一物を指してい るのであれば、いよいよ上記の古文書中の撃は第3号軍に合致してくる。それから仮りに第3号 事がこの文書の撃に該当し且つ弘仁当時の新製品であるとすると、奈良時代を去る40年にはなお 前代式の構成法による撃が依然作られていたことを知るわけである。年代的に云ってこれは別に 問塩とはならない。
1 ここに見られる復原以前の姿は1951年秋、紙で作った挙形の台上に線材を旧位置と思われるところに 並べてとった写真であるが、復際工作申、表板5片のうち1片(d)一等兵の左申ほどに孤立するもの−
(及び裏板)の正しい位置が判明したので復原後の写真との問に相違のあるのを1言弁明しておく。図 校−Cの写真も同様である。
2 この工作担当者は木工家坂本光次軋 槽内には次の墨書がある。「肇 一張 昭和廿七年十月、朱鷺 残材、而修補之。」
3 桧畠順正、献物浪所載の御物と現存品について(書陵部紀要7フ1956))106〜107。
5 余 説一唐 等 記 聞
奈良時代の撃を唐時代の13紋等の反映とみて、わが撃残欠や唐(及び五代)の詩句あるいは唐 代の画などの表現を通じて知ることのできるありし音の筆の姿態をしのんでみたい。正倉院の造 物のすべては、かつて美しい装飾をこらしていたことは明かである。殊に龍額板や龍尾坂にはそ
の周縁に木南などを施し、玉戸・金戸には金箔押しの上に彩画して璃曙を貼るのが常式であり、
奈良時代の答の榎原について(林) 17
柏形の区画内にも思い思いの木画意匠をこらした形迩がみとめられる。頭部の木口も同様で、龍 舌・寵唇の装いも遺物を通じて手にとるようにわかる。もちろん磯も龍角も表板の周縁も、それ から柱までも手を加えることを忘れていない。裏側の緑も黒く塗っている。したがって恐らくは 龍手・龍址・義甲にも何らかの装飾を加えたであろうことが想像きれるのである。
一方唐・五代人の詩句は短いことばのうちに、これらの事実を裏づけたり、補ったりするとこ ろがある。唐人の好んで詠じた撃とは少数の例外をのぞき13絃撃であることは、絃数に関しては
(1)
常に13と云っていることからもうかがわれる。もっとも13絃挙にしてもその形体面では先駆者の
(2)
南朝系の12絃事を模範とするところが多くあったことは推知できる。さて詩人が賭事と云い、釦
(3) (4)
撃・銀撃と詠じているのは単に美称ではなく、装いこらした挙を指しているのであり、鏑挙のよ うなものは木蘭などの美装の撃をふくめているのかも知れない。ここに細事とは木画の代りに螺
(5)
釦を主として装飾した撃と思われるが、細蝉挙の称は螺鈍の蝉形を単にどかこに恢めた等とは解
11図 左音巨庭の柏形(第2号)
右銀銀子の輝(奈良時代)
したくない。このような特殊な呼び方は蝉が 重要な部分にあることを自ずから語っている。
とすれば事の体で蝉形に相応するところは龍 崖の柏形しかないこと(11図参照)、しかも
(6)この部は3枚の残欠では木画袋であったこと から、別にここを螺錮装とするものがあるは ずで、これがすなわち錮障撃ではなかったか と判断するのである。相形とはわが国におけ る俗称であろう。また叙事は叙鐘の装いをも つか、銀箔か銀泥などで描画した挙であろう
(7\
か。遺物の柱ものこっているが、詩には玉柱
(8) (9)
・碧柱・金東柱のように質や色や意匠にもと ずく特性を現わしたものがある。ところが柱 の形は雁の翼を張った姿を思わせるし、殊に 絃を支えて並ぶ形が空ゆく雁の群に似ている
(10)
ところから、雁のたとえもある。また奏者の
(11)
指にはめる義軍については銀甲の称が見える。絃には金箔をつけた遺物があるが、詩には五色趣
(12) (1勘(1′星) (15)
絃とか朱絃・紅絃・翠絃の名が見える。もっともこれは必ずしも13絃草の特有のものではないか
(16)
も知れない。このうち五色の絃について考えられることは、撃の基本調絃が5声であること、後 世の多種の調舷もおよそ5つの音群にまとめていこるとから、営・商・角・徴・羽の5芦に応ず
(ユ7)
る5色の絃一厘絃とあるから或は5色の細絃を巻きつけた絃−を時に用いられたものかと云うこ とである。
最後に当時の画に現われたものには、敦腹壁南中、殊に浄土変相図などに美装の筆の好例を見 出す。これらは正倉院撃や唐詩の詠ずるものによく相応している。
1琴参、秦軍歌送外甥青正帰京詩、「五色檻絃十三柱。」劃商錫、夜間商人船中挙詩、「新声促柱十三 粧。」李遠、贈挙放任卿詩、「一行哀障十三芦。」呉融、李周弾軍歌、「就中十三鮭最妙。」
2 唐彦謙、無題詩、「錦拳銃甲響璃鮭。」
3 李婿、撃詩、「錮軍旗六律。」虞徐、寄席囁得眺美人拍替歌、「出陳の看細等随。」張泌、涜渓抄、「釦
18
奈良時代の挙の復匠について(林)
撃羅幕玉掻頭。」挙泡、酒泉子、「間理錮(一作録)等愁幾許。」
4 銀襲撃として宋何承天が文帝から賜ったものはおそらく清楽用の12絃挙であろう(陳暢楽書146)。13 髭挙にも同様な装飾が用いられたものか。劉頭錫、傷秦妹行、「挿花女児弾銀等。」壬涯、秋夜曲、
「銀等夜久般勤弄。」季泡、酒泉子、「間理銀(一作錮)挙愁幾許。」毛県震、南歌子、「決院晩堂人 静、理鉄筆。」問、河満子、「小窓絃断鋲等。」
5 温庭箔、頑女怨、「銅鐸挙、金隼扇。」また同人、贈弾筆者詩、「錮踵金階皆零落。」この句は零落 した等肢にたとえたものである。
611図に示す醒形は東大寺大仏殿出土の銀子の部分品。天平鞄宝(1937)、図蟹82及び解説47参照。ま た柏形の点線は龍尾端の後付面への延長線を元す。粕形の外形は第1号挙も大同で、第3号撃(2図2)
はやや特異である。
7 日陪易、撃詩、「柱触玉玲囁。」壬涯、官詞、「玉柱背非旧処安。」
8 張棺、挙詩、「夜風生碧柱。春水咽紅絃。」
9 李端、聴挙詩、「鴨等金粟柱。」金粟は金粒をちりばめたような装飾を指すのであろう。〔温庭甥、
帰国竃に「銀筐交勝金栗。」の句がある。〕
10 割璃錫、傷秦橡行、「攻現宝柱秋障行。」張柏、聴革帯、「十指繊々玉筍紅、雁行軽温翠絃申。」李遠、
贈肇妓伍卿詩、「一行哀障十三声。」温庭鋳、贈弾筆者詩、「銅鐸金陣営零落。」
11杜甫、陪鄭広文遊同将軍山林詩、「銀甲弾挙用。」白暦易、等詩、「甲鳴銀均礫。」卒商隠、無題詩、
「十二学弾挙、銀甲不曽卸。」唐彦謙、蕪題詩、「錦等銀甲響璃舷。」銀甲は銀製の甲とも云われるが 銀集のものでもよい。
12 年参、秦軍歌、「五色窺絃十三柱」
13 白居易、夜宴惜別詩、「挙怨未絃従此断。」三遷、夜坐看梯軍詩、「朱絃一一声不同。」慮輪、宴席 賦得眺莞人種軍歌、「深過失絃低翠眉。」
14 日置易、夜挙詩、「紫袖紅絃明月申。」張砧、替詩、「春水咽紅紋。」
15 張砧、願事詩、「雁行搾遥翠絃申。」
16 林謙三、等の詞絃の原則と発展(音楽研究‡,T943)ク96〜99。
17 正倉院には献物慣記載の琴用白・班の怪弦、平文琴附属の堰絃一何れも残久一がある(楽器調査慨報44
−45)。中国では今日でも琴の大舷は起絃であるが、軍にこれを用うる例を聞かない。
6 13紘撃の興廃をめぐる問題
(1)
事の起源は中国の周末に滞ることができ、始め西方に所在する秦の楽器として知られていた。
(2)
そこからこの楽器に西域起源説が生れている。その是非はともかくも、竹管を体としたらしい5 舷の漢代の撃は秦等の系統のものらしいと考えられる。ところが後漢代には古釆の墓の形状のも
(3)
のが存していたと記されている。近来所出の考古学的資料によると、戦国時代の楚の墓はすべて
(′l)
一木くりぬきの槽をもっていることから、宏の感化を受けた撃とはまずこの崇同様の一本槽をも
(5)
つものではないかと推定される。その体が上円下平であると称せられている晋の挙はおのずから
(6 ) (7)