藤原通俊について
稲
田 繁 夫
源俊頼︑藤原基俊︑逆送季の鼎立したいわゆる元永期の歌壇︑および
俊頼の金葉集撰進は和歌史︑歌論史上の一時期を画するものである︒俊
頼の革新的な﹁めづらしき節﹂を追求しようとする新傾向の歌風と金葉
集の盛名は︑ややもすると後拾遺集を実質以下に低く見︑その撰者通俊
を全く新傾向に背を向けた︑単なる保守的態度の歌人のように評価し去
ろうとするむきがあるが︑決してそうではなく︑頭脳明晰︑学殖も豊か
な通俊は著しく新傾向をしめし︑その撰になる後拾遺集もまた三代集と
は異なる色彩を呈している︒応徳三年︵一〇八六︶後拾遺集奏覧の年の ① 三月十九日七条亭において催した若狭守通宗朝臣女子達歌合の彼の判詞
には︑しばしば﹁めづらしきふし﹂とか﹁めづらしげなし﹂という評語
が出て来て︑歌合の判定の場合﹁めづらしきふし﹂の有無ということ
が︑重要な基準となっていたことがわかるのである︒
この年代における現存歌合︑たとえばこの年より八年前の承暦二年 ② ︵一〇七八︶四月廿八日の内裏歌合における判者源顕現の替詞には︑
﹁めづらしきふし﹂についての評語は一つも見られないし︑七年後の寛・ ③ 治七年︵一〇九三︶五月五日の郁芳門院根合における判者源顕房判も同 ④ 様である︒ところが︑翌寛治八年八月十五日の高三十七首歌合の源経信
藤原通俊について の判詞に至って始めて﹁めづらし﹂という評語が見えてくるのであっ て︑この高陽院七首歌合は経信︑俊頼の系譜における新風樹立の先駆的 歌合であるが︑通俊はそれより八年前の︑前述した若狭守通宗朝臣女子 達歌合判詞における勝負の判定基準が︑ ﹁めづらしきふし﹂にあること は注目に値するものであろう︒ ここでは通俊の歌壇における出自︑およびその歌論にふれ︑俊頼の新 風とどのように交渉するかを見ていくこととする︒
二
通俊の伝記についてはこの稿では触れないこととする︒ ⑤ ⑥ 後拾遺集は正しくは後拾遺和歌抄といわれ︑袋草紙に云う通り通俊卿
一人撰之もので︑序に﹁仰承はれる吾等﹂とあるのは︑複数の撰者をさ
しているのではない︒承暦二年撰進の勅命がありたが︑この時通俊は三
十二才であり︑袋草紙の承保之比率之とか︑八雲御抄の承保比始之とい
うことになると︑その年令は三十才という若輩であったことになる︒隆
源︑佐国が撰集作業の扶持者となって参画した︒公務多端のため八年後
の応徳三年︵一〇八六︶九月十六日奏覧に供したが︑白河天皇は同年十
一月二十六日譲位のため直ちに披露もなく︑翌寛治元年二月始めて上皇
が御覧になり︑同年八月且録と序とを奏上し︑同年九月十五日世間に披
露するため奏覧本を下し賜わった︒こうして後拾遺集は・袋草紙のいうよ
うに二十巻の末代規模集として成立したが︑当時三十二才の若輩の通俊
に比べて︑六十三才の源空手︑三十八才の大江島津など此道之英才先達
一
藤原通俊について
があったにもかかわらず︑通俊に撰進の下命があったのは世間も意外な純 ⑦ ことであったらしい︒袋草紙に彼時有種々誹誘とあるが︑古来風体抄に
も︑﹁其御宴大納言経信卿いますこし先達なるをおきて︑中納言通俊卿参
議め時︑勅撰を承るといへること︑すこしおぼつかなきことなり﹂と云 ⑧ い︑八雲御抄も﹁白河院︑後拾遺撰ぜられし折︑経信卿をおきながら︑
通俊これをうけたまはる︑これ末代の不審なり︒しかれどもこの事ゆゑ
ある事なり︒かの集は天気よりおこらず︑通俊これを申しおこなへり﹂
とあるのは︑袋草紙の或人云︑私撰之後連御気色云4︒を受け︑後拾遺・
撰進の下命は白河天皇の御意志ではなく︑通俊が私撰を奏上して御機嫌
を取り結んだ結果であろうと︑語りつがれて来たのであるρ
誹誘の重なるものとして伝えられるものは︑まず︑序が別様であると
いうことで非難され︑次に頼綱は無指事多入之と多く歌が採られている
ことについてである︒しかし袋草紙で清輔は頼綱の歌は僅が四首に過ぎ
ないとしてこの四首を挙げ︑予熱之不審︒件入歌四首也︒皆以染肝胆︒
是尊耳卑目之誤歎︒といずれも傑作であるといっている︒また︑本妻の
清書は遺漏卿にさせようとしたのであるが︑伊房卿の歌はだy一首しか
入髪されなかウたので︑腹立早書之ということになり︑若狭阿閣豊隆源 ⑨ が書写するという事件もあった︒しかし︑現存写本には通俊自筆本系統
本のほかに︑一京大蔵の伊南自筆本系統本があり︑これは建長二年舌房自
筆本によって書写したという奥書があるので︑奏覧本清書の際ではない
にしても︑寛治元年九月十五日披露のため奏覧本を下し賜わって後︑伊
房が書写したものと思われる︒ところが︑この書写に際し伊房は勝手に
自歌二首を書き加えるという余談が加わっている︒兼万は通俊卿亭に参 二 ・り︑ ﹁去再見しに色も変らず咲ぎにけり花こぞものぽ﹂思はぎりげれ︵金
葉集画集︶の入漁を.申請したのに対し︑通俊は﹁こそ﹂と云字不快去
々と許さなかったので︑兼方は座を立ち︑ ﹁油屋やんごとなき人と思ひ
奉るに︑物覚え給はぬ人にこそ︑四条大納言第一秀歌に︐春釆てぞ人も
とひける山ざとは花︸.︺そやどのあるじなりけれ︵拾遺集︶と・云ふ歌は不 ︐⑩ 知給や﹂と憤然として退出し︑ ﹁小当集﹂と異名をづけた とい・われ
峯っこれは住吉神主津守国基の歌が多く︐採られていて︑園基が小鰺を運 ⑪ び撰者の心にかなったからであるとする挿話と呼応するρ ⑫ 源経信は当代において︑四条大納言に不盤面也といわ託た歌壇の第一
人者であび︑順徳院時代に至るまで︑ ﹁た繋経信一人︑天下の判者にて 5 ⑬ ならびなし﹂といわれた程であるから︑通俊への撰集下命には不服であ
ったに違いなく︑ ﹁難後拾遺抄﹂を書いて論難を加えた︒難後拾遺につ ︐..︑
いては清輔.当時一般︑に源経信作と信じられていたが︑俊頼め.子僧俊恵が
・語ったところによると︑妹の死後遺物の中に俊頼の筆蹟の呈示拾遺の草
案があり︑俊頼の作ではなかろうかというのであるが︑清輔は春信の口 ⑭ 授を俊頼が筆記したものであろうと推定している︒また久松潜一博士は
同書の批評内容を吟味することによって経信作であることを推定されて
⑮ ⑯いるし︑また拙稿においても経信作であることに言及した︒笠窪拾遺弓
袋草紙によると︑通俊見之云々︒先帝件集内々岩見合彼卿之処︑神妙之
立破︒後日有此難︑更不誤云4︒鶴里流布之後患直之由見目録序とある
ので︑可なり早く通俊の目に止まり︑後拾遺問答が行なわれたものと思
われる︒さらに後拾遺集の非難に対抗して︑.後拾遺集中の三百六十首を
抜いて﹁続新撰﹂を撰んだといわれるが︑清輔に云わせると馬撰集無私
事であり︑難且機は不実事であるから︑このような玄之又玄を撰ぶこと
があろうかということになる︒いずれにしても通俊の後拾遺撰集は前例
のないほどの非難に逢ったわけで︑歌壇の老大家経信に下命のなかった
ことが︑このような反響を呼んだのであろう︒
ぞ現存歌合で通俊の関係しているものは︑承暦二年四月二十八日の清涼
殿歌合に右方歌人として参加し︑応徳三年後拾遺集奏覧の年の三月十九
日︑若狭守通宗朝臣女子達歌合の際は判者として︑寛治七年五月五日の
訣辞院皇女撃茎門院根合には左方作者として︑また︑寛治八年八月十九
日の高騰院七首歌合には右方歌入として参加している︒勅撰集撰者とし
ては歌合星暦の少ないのは︑その没年が経界の八十二才︑但書の七十一
才︑顕季の六十九才︑俊頼の七十五才︑基俊の八十七才などに比べ︑五
十三オという短命であったことと︑歌合が活況を呈した康和期以前に没
したためと思われる︒
三
⑱ ︑承暦二年四月廿八日の清凍殿歌合は今鏡に﹁ことざまの儀式など︑え
もいはぬことにて︑天徳歌合︑承暦をこそは︑むねとある歌合には世の
末まで思ひて侍るなれ﹂とあるように天徳歌合と並ぶほどの盛大な儀式 ⑲ のもとに行なわれた︒この歌合の判者皇后宮大夫源顕房は後に右大臣兼
右大将に栄進し︑いわゆる六条右府の名で知られている歌人であるが︑
この歌合の判は動揺し︑歌合記録者は冒頭︐一番子日の判定から︑ ﹁右の
歌は︑いみじうをかしくよき歌なり︒左の歌は︑ただ詠みたる・に歌なれ
藤原通俊につい.て
・ど︑勝つと定められしこそ心得ざりしか﹂と記述している程で︑この歌 合の判は白河天皇の御意にかなわなかったため︑負側の右方は同月の ⑳ 晦︑後番歌合を勅判で催すという騒ぎを起こしたものであるが︑歌合儀 式の盛大さもさることながら︑.判者顕房が非難される程︑参加歌人の真 剣な文学的な意識の盛り上がりによる論難討議に主力が注がれている点 に意義がある︒つまりこの歌合は康和期以降の新傾向をはらむ契機とな った歌合として︑歌合史上注目されるものである︒ 通俊は時に三十二才9四番桜に腰差と︑十三番雪に善政と︑合わせて 二番︑勝一野口の成績である︒この歌合では左右方人の討論内容に新傾 向はまだ見られないが︑前述したように文学的意識の高まりによる衆議 判的性格が見られ︑そめ中でも通俊は度々発言している︒剛 一︑四番桜左 ・〜 讃岐守顕季朝臣 尋ね来ぬさきには散らで山桜見る折にしも雪と降るらむ 右 勝 ︐ ㌧・ . Ψ 右中弁通俊朝臣 春のうちは散らぬ桜と見てしがなさてもや風のうしろめたきとb 袋草紙所収歌合と静嘉堂文庫所蔵本とでは判詞が可なり異同するだけで なく︑判にも異同があるが︑本番も判詞は異同していても主旨は変ら ず︑また判は同じである︒右方の人々は﹁さきには散らでどあるは︑花 を惜しむ心なし︒ ︵中略︶見む折にと思ふらむ心は︑後の歌に詠まむず るにや﹂と︑右歌が花の散るを惜しむ心が表わされていて︑左.歌には
﹁注などをこそ書かま︑しか﹂と人々は皆笑ったゆ判者顕房は持どするつ
もりであったが︑白河天皇は勝負め判定を要求されたので︑︑︑﹁さらば右
勝つと定あこられた︒然しハ判者の自主性めなさに︑︑≒いとあやしく︾
三
藤原通俊について
さきにはいかに定めむと思されけるにかと覚えし﹂と︑歌合記録者は感
想を書き加えている︒十三番雪
左勝 実有朝臣
降る雪の日数積れば信楽の槙の青葉も見えずなりゆく
右 通俊朝臣
雪降れ球見えし常磐の山もなしみなしろたへの梢のみして
右方人が ﹁左歌は一夜の雪でも青葉の隠れることはあることはあるか
ら︑強いて日数が積らずとも良いであろうし︑また文学足らずのため槙
の葉というべきを︑青葉というのは適切ではない﹂といっているのは論
理的である︒しかし︑左歌は平兼盛の歌
見わたせば松の葉白き吉野山いくよ積れる雪にかあるらむ
という本歌め取り上げ方が形式的でなく︑具象的な景趣を巧みに詠みあ ⑳. げているの従対し︑通俊の右歌は藤原範永の
五月雨は見えし小笹の原もなし安積の沼の心地のみして
が余りにも形式的に取り入れられ︑この点が左方に非難されたため︑判
者も﹁右劣りたり﹂と負にしている︒
この承暦内裏歌合は前述したように顕房判は動揺し非難を買ったが︑
静嘉堂文庫所蔵御子養家手鑑中の殿上日記には︑撰者左受信︑右置型と
あるし︑袋草紙下巻にも経信卿記を引用しながら︑左方撰者とあるの
で︑当代の歌壇の二代瓦経信︑匡房が参与しているが︑詠歌の内容にし
ても︑左右の難陳にしても活気がありながら新しいものが見られない︒
通俊においても同様である︒ ・
ところが︑通俊が応徳三年九月十六日後拾遺集を奏覧した同じ年の三 四 月十九日七条亭で判者どなった若狭守通宗朝臣女子達歌合に至ると︑
﹁めづらしげなけれど﹂ ﹁めづらしきふしなけれど﹂ ﹁めづらしからね
ど﹂などの評語が︑十番のうち四個所も使われ︑また﹁いひふるしたる
こと﹂が二個所もあって︑古い歌境をしりぞけ新しい歌境を模索︑してい
る通俊の一つ一の転機が見られるのは︑注目に価する出来ごとと云わなけ
ればならない②この歌合よりも後に成立したと思われる盲信の難後拾遺
には︑八十四五首の歌を取りあげながら︑ ﹁めづらし﹂に関する語は三
個所に過ぎないのを考えると︑興味ある事柄である︒一番春駒
左勝 阿下妻
春かすみ奪のの薄つのぐめばふゆうちなつむ駒ぞあれけを
右 ︵欠名︶
あるる馬は皆葦毛かげにぞみえつれど沢に移れるかげも有りげり
左の歌は近年の歌に前例があるから﹁めづらしげなけれど﹂右の歌が
﹁たはぶれ歌のやう﹂であるから勝にされたものであり︑二番桜
左持 ﹁欠名﹂
さくら咲くはるの山べは雪消えぬこしのしらねのここちこそすれ
右 ︵欠名︶
山さくらちらぬかぎりはしら雲のはれせぬ峯とみえわたるかな
左右とも﹁めづらしきふし﹂はないが︑匪﹁越の白根﹂ ﹁晴れせぬ峯﹂な
どの言い廻しが﹁言ひなれ歌めく﹂ので︑持としている︒通・俊は﹁めづ
らし﹂い構案に志向しながらも︑本番の弾歌にはそれに相当するものが
ないので︑伝統的な歌境の上に立つ﹁いひなれ﹂た表現の取り入れ方に
両者の優劣をつけず︑持としたのである︒四番水鶏
左 蔵人大夫
とふ人もなき山里の槙の戸をよはにたたくはくみななりけり
右勝 中務命婦
月のさす槙の板戸としりながら誰あけよとてたたく水鶏ぞ
右歌﹁月のさす槙の板戸などいふこと︑めづらしからねど︑いひなれて
おかしくなむ︒﹂と通俊は﹁めづらしき﹂構案の歌を志向しながらも︑
左右ともそれに適わないので︑せめて右歌の﹁いひなれておかし﹂く感
ずる右歌を勝としたのであって︑たとえ右歌がこのような伝統的な﹁い
ひなれ﹂た歌であっても︑左歌が﹁めづらしき節﹂を求めたことば続き
の上から新鮮な響きを.出す歌であったら︑判定は異なっていたであろう
と思われる︒五番︑萩
左 備前助
秋はぎを咲く野辺ごとに尋ねつつ露もおとさでみるよしもがな
右勝 凝聚梨
すがる鳴くあだの大野をきてみればいまぞ萩原にしき織りける
左歌に対しては︑ ﹁上の文字つかひいひにくくて︑露もおとさずなどい
へる心︑今も昔も言ひふるしたる事﹂であるから︑ ﹁めづらしげなし﹂
と言い切り﹁言ひ古す﹂ということが強く批判され︑ ﹁めづらしげな
し﹂と一殿も与えぬ口吻が感じられる︒右の歌も﹁古き歌の心地せられ
て︑珍らしげなけれ﹂ど︑ ﹁あだの大野﹂などの表現は﹁おかしう思ひ
寄﹂つた新奇な興趣があり︑この点から勝にしている︒この歌は玉葉和
歌集秋上︑読人しらず
真葛原なびく秋風吹くごとにあだのおほ野に萩の花散る
藤原通俊について と通ずるものがあり︑﹁錦織りける﹂などの発想ば古いが︑左歌に比べ てどこか清新なものを見出.しでいると思われる︒ 本歌合において通俊は﹁珍らしきふし﹂ある歌を庶幾していても︑実 際提出せられた十番の歌は︑ ﹁言ひふるし﹂た︑ ﹁珍らしからぬ﹂もの で︑新しい興趣の歌という観点から勝を与える程のものはなかった︒結 局﹁言ひなれ﹂た︑伝統的な﹁歌めく﹂ものものに判が落ちついたが︑ 現存歌合のこの時期のものとしては最も早く﹁珍らしさ﹂を判詞中に取 りあげたものとして︑その先駆者的意義を認めてよいと云えよう︒ 経済が判詞で﹁めづらし﹂を取りあげた現存歌合で最初のものは︑寛 治八年八月十九日の高陽院殿七番和歌合である︒これは院政初期の盛大 な行事様式をもらた︑天徳四年の内裏歌合に劣らぬもので︑文学的な評 論的な歌合の発生展開の上からも画期的な意義があり︑また判者は﹁天 下判者﹂ ︵八雲御抄︶といわれた経信で︑これに対する筑前の陳状と経 回の返答を伴ない︑歌合史上最初の陳状様式のものとして注目すべきも のである︒この歌合を中心とした経信歌論については既に前述註⑯の拙 稿で触れたところである︒ 五題七番︑三十五番のうち︑経信は﹁めづらしからねど﹂の評語を使
ったのは四つの番で︑ ﹁めづらしきやうに詠まれ﹂たというのは桜二番
の筑前の歌だけで︑それも結局は持にしている︒
左持 筑前
くれなみのうす花ざくら匂はずばみな白雲と見てや過ぎまし
右 中納言転遷
しら雲と見ゆるにしるししみ吉野の吉野の山の花ざかりかも
匠
藤原通俊について
この歌合の席に欠席した筑前が︑この判に納得せず反駁した陳状に答え
た豊艶は≒くれなみの桜といふ事はおぼろげの入はえ知らじと侍りけ
る︑いといはれたる事に侍り﹂といって︑筑前の歌の知的な構案︑趣向
について同感し︑これは当代の凡入にはその良さは了解出来ないであろ
う︑いかにももっともなことだと思われると述べている︒その良さとい
うのは︑ ﹁遠くて雲と見つれども︑近く過ぐればあさくれなみの花なり
けりと侍るはいとをかしく思ひよられて澄めり﹂と︑︑今までの歌に見ら
れない・清新な情景に魅力を感じ︑これを﹁めづらし﹂と評価している︒
ただし左歌を経回は全面的に支持したのではなく︑ ﹁おなじくは︑雲の
あなたに山などといふ遠き心の侍らましかば﹂と︑何となく山などがあ
ったちと一段の情景構成を希望している︒経信の好意的な意味の批評
が︑この席に不在であった筑前には十分納得出来なかったらしく︑彼女
の陳状提出となったのである︒ この歌合の記録者は歌合各番記録後︑
﹁桜の二番の歌︑持にはせらる︒なほ左歌めづらしきにやあらん︒殿
︵師実︶より筑前の君につかはす﹂と︑主催者前関白師範が筑前に同情
し
勘白雲に立ちまさ︑らねどぐれなみのうす花ざくら心にそしむ
の・歌を贈って慰めたことを記しているから︑この歌に対してはむしろ即
実などの方が︑−﹁めづらしさ﹂を強く感じていたようである︒
匡房の.霊歌は花信の孫俊恵が﹁これこそはよき歌の本とはおぼえ侍
れ︑させる秀句もなくかざれる詞もなけれど︑姿うるはしく継げにいひ ⑳ くだして㍉たけ高く遠白きなり﹂と絶讃し︑いわゆる遠白竜の代表的な ⑳ 歌であるが︑経済自身後世﹁大納言経信殊にたけもあり﹂と賞讃されな 六 がら︑たy﹁めづらしげなけれど別の逆なければ﹂と︑持にして︑この 歌の﹁たけ高く遠白き﹂美を押し出すまでに至らなかったのである︒ 本歌合において通俊は各題とも第一番を中納言君と番い︑勝一︑負
一、
搶dの判を経信に受けている︒
この歌合における経信は﹁めづらしからねど﹂の評語は使っている
が︑ ﹁めづらレ﹂よりも﹁をかし﹂の方が遙かに多い︒ ﹁をかし﹂は
﹁すさまじ﹂に対立し︑おもしろみ.や興味を感ずるという情意概念で︑
和歌においては素材の把え方︑構案に対する魅力であるから︑ ﹁めづら
し﹂と本質的に異なるものではない︒同歌合雪一番一 左持
・中納言君
磐代の結べる松にふる雪は春も解けずやあらんとすらん
右 − 通俊卿
おしなべそ山の白雪積れどもしるきは越の高嶺なりけり
を︑ ﹁左の歌︑いとをかしうよまれて侍めり︒右の歌︑うるはしくよま
れたれば︑持にも侍らん﹂と︑万葉集納豆有馬皇子の史的悲劇を象徴す
るむすびの松に降る雪に対し︑ ﹁春も解けずやあらんどすらん﹂と続け
た趣向の面白さを﹁をかし﹂・と評しているところがらも知られる︒この
左歌は俊頼髄脳には︑永承四年内裏歌合の資仲の歌を引いて﹁歌合には
よまでありぬべし︑とそ承りし﹂と云っでいるところがら︑経信は左歌
の新奇な構案に﹁をかし﹂と感じながら︑このような不吉な事件を素材
とした歌は︑歌合の歌として望ましくないと俊頼にも教示したものと思
われる︒そうでありならば︑むしろ積極的に端歌を勝たすべきであろ
う︒前述したように血忌自身は ﹁殊にたけもあり﹂と賞讃されている
が︑この歌合においては﹁たけあり﹂ ﹁遠白し﹂などの評を使っていな
いので︑右歌が﹁たけ高し﹂や﹁遠白﹂き美とどう交渉するのか︑ここ
では明瞭ではないが︑ ﹁右歌うるはしくよまれたれば持にも侍らん﹂と
﹁うるはし﹂と評しているから︑経信としては可なり満足した歌であっ
たと思われる︒御裳河歌合三番左の西行の歌
おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかかる白雲
を俊成は﹁うるはしくたけ高く見ゆる︒事もなくうるはし︒勝とや申す
べからん﹂と絶讃していて︑詠歌一体でも為家は﹁近代よき歌と申しあ
ひたる歌ども﹂の筆頭においていることからすると︑通俊の歌はこれと
通ずるものであるから︑これを﹁うるはし﹂と評したのである︒ ﹁うる
はし﹂とは本歌合最初の桜一番左︑中納言君の歌の評語と二個所だけで
あるが︑十分にことわり正しく言い了え︑歌心が言いつくされ︑端正に
して悠揚せまらぬ歌姿をさしている︒そして﹁たけ高し﹂がすらりとし
て格調高い風格の歌姿であるのと交渉する︒このような歌を詠んだ通俊
は︑経信︑俊頼の革新的歌風樹立期の一方の旗頭というべきで︑前述桜
二番の匡房の名歌を経信は﹁めづらしげなけれど︑別の難なければ︑持
とや申すべからん﹂と軽く見過しておるのからすると︑この歌合におけ
る重信は﹁たけ高き﹂美や︑ ﹁遠白き﹂美は十分に強く押し出すまでに ⑳ 至っていないと云わなければならないであろう︒八雲御題に匡正が通俊
の右歌を﹁越のたかねむげに平懐なり﹂と難じているが︑平懐とは人を
あなどる場合に使う語で︑前述匡房の歌と通ずるもののあるこの歌をこ
うまで云うのは︑何か後拾遺撰進の問題に対する不満が感量の胸の中に
ししこりになっていたからではなかろうか︒このことは同歌合祝一番・
藤原通俊について 左 持 中納言君 君が代はようつ代までとさしてけり三笠の山の神の心に 右 通俊卿 君が代は天の児屋根の命より祝ひそ初めし久しかれとは を︑歌合の習慣として両方祝歌の場合︑尊い神をかけた場合は負けない ことになっていることから︑ ﹁勝負申し難し﹂と持になったが︑匡房は
﹁あまのこやねおそろし﹂と難じたことからも︑感情的なものがあった
ように思われる︒それは八雲御呼の挿話にあるように︑通俊が匡房に面
と向かって﹁貴殿は詩賦に長じ給.へり︒何ぞしらぬ道に入りて︑歌を好
み給ふ﹂ど云ったのに対し︑匡房は﹁今よりこそは魚道とどめ侍らめ﹂
と︑その場は屈したが︑この時のしこりがこの歌合において匡房の難陳
となって現われたのであろう︒
いずれにしても嬉野拾遺抄および高陽院︐七番歌合における判者として
の発信は︑俊頼の新風樹立の詠歌を未だ十分認めるに至らず︑難後拾遺 ⑳ 抄においても︑久松潜一博士の言われるように厳正な批評態度というよ
り︑感情に流れた点があるとともに︑非難した点が︑多くは修辞的な病
にとらわれている場合が多く︑新しい歌論家としての特質は余り見られ
ないようである︒後拾遺問答は難後拾遺と土ハ通する歌は一首であるか
ら︑正しく経信︑通俊の問の問答であるかを決定することはできない
が︑この一首の歌の急信の問の内容を難読拾遺抄と比較することによっ ⑱ て︑やはり尊信のものであろうと推定されたが︑袋草紙遺篇所収の最後
の歌の問答を見ても︑
けさはしもおもはむ人はとひてましつまなきねやのうへはいかにとの
七
藤原通俊について
﹃つま﹂という語の使い方に経信は拘泥し︑ ﹁女歌にてはつまとはよみ
てむや﹂と︑伊勢物語第十一段の歌
武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
を通俊が参考として答えると︑ ﹁若し書き違へたるにや﹂と反駁した経
信の長々しい意見はうなずけない︒だから︑清輔は﹁男をもつまといふ
にこそ﹂と︑通俊の意見を支持しているのである︒
以上をみてくると︑歌論史︑和歌史の上で俊頼の新風樹立は輝かし
く︑これに経信を先行させて︑経信俊頼における系譜の盛名のかげに︑
通俊の名は引き立てられないようであるが︑承暦二年後拾遺集下命か
ら︑応徳三年の奏覧︑寛治八年の高陽院七番歌合に至る十七年間の時期
においては︑歌論的にはむしろ経信よりもも通俊の方がより革新的であ
ワたとも言えると思う︒たΣ局陽院七番歌合の年における通俊が四十八
才であったのに︑経信は七十九才の老大家として歌壇を押さえ︑また
俊頼によって開花した新風の先駆者として︑後世名を高めているといえ
る︒もちろん歌人としての詠作は経信が遙かに多く︑またすぐれた歌が
伝えられているが︑今はこの点には触れないことにした︒
︵四一︑七︑二六︶
① 註
③ ②
④ 群書類従第八輯五七頁全五二頁全一二二〇頁
峯岸義秋氏著歌論歌合集五二頁
⑥
⑤⑧ ⑦
⑨
⑩
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⑬
⑮ ⑭
⑯
⑰⑱
⑳ ⑲
⑳
⑳⑳
⑳ ⑳
⑳ ⑳
⑳
八
三代集間馬︒①の第十輯六一五頁
日本歌学大系第二巻六一頁
全第二巻三六九頁
全第三巨財〇頁
⑥の同頁
⑥の六八頁
井蛙抄︒続類従第十六篇下九一四頁
⑥の九四頁
⑧の九一頁
⑥の六八頁
沼本文学評論史古代中世篇二三七頁以下
長崎大学学芸学部人文科学︐紀要第一一号源経信の歌論
⑥の六三頁
国史大系巻一七︒七四四頁
④の一五二頁−一五八頁︑三一一三五頁
⑯の第一五号批稿﹁藤原顕季について﹂に︑この点にづ.いて触れた︒
④の一七〇頁頭注
⑯の拙稿歌学大系長明無名抄︒第三巻三=二頁
全巻三頁後鳥羽天皇御口伝
全巻九一頁
⑮の二四二頁 全
全二四五貢