帰去来の辞について
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(2) . Vo l .22 No.I. ion (Sec ion IA) ido Uni i lo f Hokka t t ver Journa s y of Educat. Sept . ,1971. 帰去 来の 辞につ い て 石. 田. 公. 道. 北海道教育大学札幌分校国語国交学研究室. ’ i’ K6d6 18日工DA; A Study on ” KikyoraI-no-i. 1歳の秋の 40 5 ) 陶淵明が 「帰去来の辞」 を書いて彰沢の令を辞めたのは義眼元年乙巳 ( , 陶淵明4 いわれ 0 のは 3 歳前後と 彼が最初に仕進した ことである, (実際にはその翌年位に書かれたものか) , ) ている. 彼の作品の中に 「この時, 立年になんなんとす」(飲酒20首その19 , 「間居すること三十 てその事を想像すること 歳」 (辛丑の歳七月, 赴仮して江陵に還 り, 夜塗口を行く) 等の語によ っ が できる. それ以来彼は幾度か仕え, 幾度か辞めた. 或は女官として, 或は武官として. しかしそ のいずれもが失敗であ ったこ とは, 彼が残した多くの作品がそれを証明する.. しかし彼は性こりもなく仕官をし, 仕官をするや否や直ちにその仕事に失望して, 仕官したこと を後悔し, 田園生活に帰りたいとこい願う有様で, その態度や処世の方針は全く 私どもの理解に苦 しむところである. 試みに彼が 「帰去来の辞」 を作 った以前の作であるこ とを確認できるものを列 挙 して み る と次 の も の が あ る.. 1 5歳頃 : 始めて鎮軍参軍 となりて曲阿を経しときに作る. . 3 2 6 3 歳 : 庚子の歳5月中, 都より還るに, 風に規林に阻まる, 2首 . 3 7歳 : 辛丑の歳7月, 赴仮して江陵に還り, 夜塗口を行く. . 3 4 9歳 : 奨卯の歳始春, 田舎に懐古す. 2首 . 3. : 奨卯の歳12月 中作る, 従弟敬遠に与う,. 5 1歳 : 乙巳の歳3月, 建威参軍となり, 都に使して銭渓を経. . 4. 1歳に至るまで 以上のうち (3) を除いては皆仕進をしている間に作 られており, 30歳前後から4 :とが繰返され, 彰沢の令を最後として彼は完全に田園に帰ったのである. 仕進の 数回の仕進と退潮. 相手が誰であ ったか, 影沢の令を除いて陶淵明は語るこ とがないけれ ども, 最近の研究ではいずれ も地方軍閥の領袖であ ったことが考証せられ ている. 天分豊かな詩人の 身で仕官の道を軍人に求め. るということは今日の私どもからみて到低考えられないことではあるが, 当時としては例のないこ とではないの でそれは問わぬ, このような軍閥にしか仕官の方途がなかったというのが実情であろ う・. ところで彼が郷里 で作 った, (4)の作品を除く総ての作品の中にはいずれも仕官は 本来の志では. なか ったことが述 べ られている. たとえ ば (1) の始めて鎮軍参軍と作りて, 曲阿を経しときに作 る, と題せられた作品は 「真想は初より襟にあり, 誰か謂う形 迩に拘せらると, 叩か且つ化の遷る. に懲りて, 終には班生の瞳に反らん」 という言葉で結ばれてい る. つまり彼は一 般の常識とは異な - 6 ー.
(3) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和46年9月. り, 積極的な意図を以て社会的な活動に従事したのではなかったことがわかる. 隆安3年から義鞭 元年に至る僅か6年間位のうちに数回の仕進と退耕を繰返しているのは, 彼が自ら言うが如く, 単 なる生活の手段を得るための理由だけであろうか, 筆者の大きな疑問とするところである.. 義無元年(405 )3月, 彼は建威将軍として江州に鎮 した劉敬宣の使者として建康に赴く が, その 折, 「園田, 日に夢想す, 安んぞ久しく離析するを得んや, 終懐は鰹舟にあり. 諒なる哉, 霜柏に. 宜し」 (乙巳歳3月, 為建威参軍, 使都, 経銭渓) と詠 じてその職を辞して田園に帰 ったと思われ るが, 驚いたことにはその年の9月には 影沢の令と して赴任する. ところがそれも僅かに3ヵ月 足 らずで辞任してしまう. そして再び世間には出ないことを宣言する気持を以て書かれたのが 「帰去 来の辞」 である.. これ までの彼は出仕する毎に, 田園生活に帰りたいという意味の作品を残しているが, この度は 「辞」 とい う形式の文章によっている点に特 ・色があり, これまでの 「五言詩」 の形式とは異ってい る. これはこれまで数回繰り返した彼自身のとりとめのない出処進退にく ぎりをつける意味と, 彼 の断乎とした決意を示 した感情のたかまりを示したものと思われる. 元来この文章は, 単に 「帰去来」 と称していたことは陶淵明自身が, その前につけた序文の末尾. に 「篇になずけて 『帰去来号』 という」 と述べているので知ることが できる. 詣統の 「陶淵明伝」 にも 「賦帰去来」 とあり, 沈約の 『宋書』 隠逸伝にも 「賦帰去来」 に作る. 『晋書』 隠逸伝, 『南史』 隠逸伝また同 じ. 唐の李大白は 「淵明帰去来」 といい, 白居易は 「口吟. 帰去来」 という. 「帰去来の辞」 と称するようになったのは宋代になってからであろうか. 『文選』 には, 「辞」 として, 「漢武帝秋風辞」 1首, 「陶淵明帰去来」 1首, の2作品が収録せら れているが, 「辞」の中に 「帰去来」 が収められた結果, 後世になって 「帰去来号辞」 とよばれるよ うに な っ た も の と 思 わ れ る.. ところで陶淵明はどうして 「帰去来号」 を以て題としたのであろうか. 陶淵明の作品の題名は必 ずしも統一した方針がみられないが, 「停雲」「時雲」「栄木」「帰鳥」 のような四言詩の場合, 『詩 経』 の例 にならって冒頭の語を以て題名としてい るので, この詩の主題とするところの意図にもか. なうので 「帰去来号」 を以て題名としたのであろう. 「帰去来今」 というのは今日 「カエリナ ソイ ザ」 と訓 じているが, この語の意義は 「帰」 にのみあ って, 去来は軽くそえただけの意 義を持つと. いうのが先輩諸賢の解釈である. この作品は陶淵明がこれまでの生活, つまり生活のためとはいえ心にもなく軍閥な どの走狗とし て官途についていたことを反省し, 田園自然の生活に帰って行こうという決意の程を, この地方独. ・うとしたものであるが 「帰去来」 というのは, 仏教の用語として古 自の唱詞形 式によって表現しょ くから存在 し, 唐代には念仏讃歌として 「帰去来調」 と称するものが存在していたので, 遠く 六朝. 時代にまでさか のぼり陶淵明の 「帰去来の辞」 もこれと関係があるのではないかと説くの は吉岡 義 ) 豊 氏 で あ る1 .. 陶淵明の生まれた 柴桑から遥か彼方に瞳山の連峰が 饗えてい たが, その地は当時から幾多の仏寺 が建てられており, 仏教研究の道場として栄えていた, 当時その東林寺には, 当代屈指の高僧 とし て有名な慧遠がおり, 彼を中心として白蓮社 という社交の集団が結成せられ, 仏教教義の講習 や,. 当時流行の清談が行なわれていた.. その指導者 の1人であった劉程之とい う人物 は, 陶淵明をその社交の集団へ 引き 入 れ よ う と し て, 幾度か勧誘を試みたらしい. 「劉柴桑に和す」 「劉柴桑に酬ゆ」 と題する2つの作品 は, この劉 程之の勧 誘に対する辞退の意味をこめた詩であるといわれている. また 「形・影・神」 と題する作 品は, 慧遠が 「仏影銘」 という作品に刺戟せられて自己の立場を 述べたものである と い わ れ て い 一 7 ー.
(4) . Vol .22 No ,I ) る2 .. lof Hokka i Journa ido Uni i t i ver s t on (Sec on I A) y of Educat. Sept . ,1971. .. このことは陶 淵明が 田園に帰耕してから数年後のことであるが, 彼が40歳以前に作ったと思われ. る数篇の作品の中からは, 彼の仏教思想に対する積極的な意向を汲みとることが できないので 「帰 去来分」 という題名が, 仏教思想の影響の下になされたものであるかを裏付けすること が で き な. し、.. 漢代になってから新しく興 った文学の形式に 「賦. 」 というのがあるが, これ は南方楚の地方にお. こった文学の系統を引くものであるといわれる.・劉安の 「招隠士」 には 「王孫今帰来, 山中号不可 以久留」 とあり, 王祭の 「登楼賦」 には 「情巻春而懐帰分」 とあり, 直接的にはこのような作品 の 影響の下にあるとみるのが常識的 であろう.. 「帰去来の辞」 は冒頭に長い序文を伴 っ ているが, この文章は陶淵明の前半生の生活・環境・思 想を知る上で極めて重要な資料であり, それを分析することによ って当時における彼の心情に接近 し て み よ う.. 「余が家貧しく して, 耕植して以自ら給するに足らず. 幼稚, 室に盈つるも, 餅に儲粟なく, 生 生の資とす るところ, いまだその術をみず」 陶淵明の家がどのような家柄であったかについてい ろい ろな研究 がなされているが, この文章か. ら推察する限り小さな地主階級であり, 気楽に文学に打ち込むだけの生活の余裕がなかったことが 知られる. しかし彼の家柄 が由緒ある名家の末であることは, 彼の文章の中に幾度か述懐せられて. いるので地位を選ばなければ官途に就けぬということはなかったに違いない. しかし彼には天才的 詩人の多く がそうであるように事務的能力に関しては全く その才がなかったと思われる.. 勿論大地主であれば生活に困ることはないので, 王義之や謝霊運のように芸術の世界に遊ぶこと もできるが, 仕官をして社会的な地位を獲得しなければ彼の能力を後世に伝える方途がなかったと. いうのが実情であった. おまけに彼は子沢山であった. 「責子」 と題する作品には 「五男児ありと 雌も, すべて紙筆を好まず」 と述べ, その子の名前は, 懐・僕・粉・侠・修とい ったことが知られ ) る3 . その外にも女児 がい たのかも知れない. 「和郭主簿」 と題せられた作品には 「弱子はわが側に. 戯れ, 語を学んで未だ音を成さず」 とあり, この子はまだ完全な幼児であることを示している. な お中国の慣例としては男子を かりを人数として教える場合があるからである.. 「親故, 多く余に長吏たらんこ とを勧む. 脱然として懐うことあるも, これを求むるに途なし。 」 東晋王朝 は陶 淵明が生まれ る50年位前に北方から亡命 して建康に国都を置いて南方中国を支配し. た王朝であり, 政府の要路は王族である司馬氏とこれに協力した, 王導・謝安等の一族でかためら れていた, 陶淵明は陶侃 の末流につなが ってはいたが, 南方土着の士族であり, 而も反東晋的なイ ンテリ とあ っては役人になろうとしてもその方途 は閉されていたのである. 彼が30歳近くになるま で就職しなかったというのも, 彼の本性が仕官を嫌ったとい うことの外に, その手づるを持たなか. ったというのが真実 であろう. 当時は九品中正という官吏登用の方法が制度としては存在していた が, 実際に は多く 縁故によることが多かったであろう.. 「たまたま四方の事ありて, 諸侯は恵愛を以て徳となす. 家叔, わが貧苦なるをもっ て, 遂に小 さき邑に用いられぬ。」 四方の事とい うのは, 数年間打ち続いた孫恩等の動乱や, 桓玄の纂奪による政変等を指している のであろう. 陶淵明が19歳の頃に泥水の戦があったが, それにつれて軍閥の拾頭, 東晋王室におけ. る貴族・権力者同志の内紛によって 地方の軍閥・豪族は自分達の陣営に多くの実力者や文化人を招. 略しようとしたのである. そのような包容力が指導者としても評価を高めることにもなり, 人気の バ ロメターにもなるのである. ここに家叔というのは 「晋故征西大将軍長史孟府君伝」 にいうとこ - 8 ー.
(5) . 第 22 巻. 第 1号. 北海道教育大学紀要( 学 紀要 第一部A). 昭和4 6年9月. ろの陶蓑という人物が それであろうという. 彼の仕官に対す る熱意のなさ 無気力さはい ずれの場 , 合にも同様 であるが, この度も例外 ではない. 彼の官僚としての無適格性は言わず して明らかであ る.. 「時に風波いまだ静 かならず, 心は遠き役 を偉かる 彰沢は家を去ること百里 公田の利は以て . , 酒を為るに足る. 故にすなわちこれを求む。」 彼は任地として彰沢を選んだ理由として, 比較的近距離 であることと 酒が飲めるとい うことを , 挙げている, 彰沢は江西省湖口県の東部に位置し, 柴桑からは20里位の地点であろうか 『宋書』の . 隠逸伝の記すところによれば, 彰沢に赴い た陶淵明は, 全部の公田に稼を種えしめ 「自分はい つ , も酒に酔っ ていることができれば満足である」 と言った 妻子が 税を種えてほしいと願 たので仕 . っ 方なく, 2頃50畝には穂を種え, 50畝には梗を種えしめたと書かれている 陶淵明の在任中の業績 . は或はこれが 唯一のものであったかも知れない . しかしながらこの記事も実は極めて暖味である. 彼の仕官したのは既に9月であり その11月 に , はもう辞任してしまったわけであるから季節的にみてその事 の可能性は極めて乏 しい 抱負もなけ . れば熱意もない, 之が彼の仕官に対する態度 である. 「少日に及んで, 春然として帰らんかなの情あり, 何となればすなわち, 質性自然に して 矯層 , の得るところにあらざればな り。」. 果せるかな, しばらくするとしきりに帰 りたいという思いに駆られるようになる その理由は自 . 分の性質が気億勝手で, 持って生まれた性分はなかなか匡め直せるものではないからである , 正 しく そ の 通 り で あ っ た こ と は, こ れ ま で の 彼 の 進 退 が は っ き り証 明 してい る 一 般的 に 言 て っ .. 詩人や文人が役人生活に適当でないことは, 古今東西軌を 一にしてい る 李白に しても杜甫 にして . も, 官界においては無能な人物であり, 陶淵明だけが例外ではなく これこそむしろ率 直な表現 で , ある. 芸術的な能 力と役人としてうまく やって行く能力とは相 容れないものがあり 詩歌が芸術と , しての地位を獲得し, それ自体が王侯にも比すべき価値ある仕事として一般から評価されるように なってくると, 芸術意識に目ざめた人間の場合には蓋し当然の成り行きであったろう . まして彼の場合のよ うに軍閥の幕僚として軍事に関与したり, 地方政庁の繁雑な事務にたずさ わ ることはその最も苦手とするところであったに違いない. ただその事は仕官の当初からわかりき っ ていた筈であるのに, 敢て彰沢の令と して赴任したところに私は単に気まぐれとを かり考え られな い も の を 感 ず る が, こ の 点 に つ い て は 更 に 述 べ る と こ ろ が あ る で あ ろ う .. 「飢えと凍えとは切なりと難も, 己に違えばこもごも病む かつて人事に従いしも 皆口復のた . , めにみずから役す. ここに於て帳然と して糠慨し, 深く平生の志に悦ず なお望む 一稔にして . , , まさに椎を飲めて宵に逝くべ しと。」. ここには陶 淵明が仕進と退耕を度々 繰返すに至 る気持が簡 単に述べられ ている 生活を維持して . 行くための方便としての仕進. 性格に合わない役人生活 それを辞めれば早速生活に困るとい う矛 . 盾. それらの繰返しが数回続けられるが, それは平生の志に塊 じるという心情は蓋 し実感 で 詩人 , としての豊かな天分に恵まれた人物の偽らざる感懐 であろう . 当時はまだ芸術家としての社会的地位が確立していなか ったために 彼等は名目だ けにせよ何等 , かの地位が必要であったというよりも, 当時におけ る知名の芸術家はおおむね高位高官であ た っ . 書道の大家王義之や, 詩人として令名高かった謝霊運は共に東 晋王朝の元勲として名高い王導・謝. 安の一門であり, 王義之は右 軍将軍, 謝霊運は名将謝 玄の孫に当り康楽公を継いでい るが 武将と , しての業蹟は何等伝うべきものは存在 していない. 地位がなければその正当な能力を評価される機会がなく, 地位を求める術は閉鎖されており 地 , 一 9 ー.
(6) . vo l .・ .22 No. ion I A) i f Educat ido Uni l。f Hokka i t t on (Sec Journa ver s yo. sepr . ,1971. 位を獲得するための手段としての役人生活は最もその性分に合わないとあっては, 陶淵明にとって は全く不運な時代にめぐり合わせたとい うべきであろう. 従 って当初から長く 在任する気はなかっ. たと述 べているが, 案外にも早くその時機 はやってくる. みま 「尋いで程氏の妹, 武昌において喪かりぬ. 情は駿奔にあり, みずから免 じて職を去る, 仲秋よ り冬に至るまで, 官にあること八十余日. 事に因り心に順い. 篇に命ずけて帰去来今という. 乙巳 の歳十一月。」 元来の題名 が, 「帰去来号」 であ ったことがわかる. 程氏の妹というのは, 彼の異母妹で, 既に 武昌の程氏に嫁ぎ, 若く して亡くなったのである. 陶淵明はその死を悼み 「程氏の妹を祭るの女」 というのを残している. これに は 「維晋 義無3年甲辰5月」 という署名 があるので, その死より2 年後の命日に当って草せられたものであることが知られる, そしてその長い文章の中に次のような 1節がある. 「慈敷早世 し, 時になお濡嬰, 我は年二六, 爾は僅かに九齢, 愛に識るなきより, 署を撫して相 成る」 「これによれば陶淵明が12歳の時に彼女 は9歳であった. この 文章の中で陶淵明はこの妹を恰も 同母妹のような書き方をしているが, 実は異母妹であったという. しかしながらこの祭女は悲痛な 愛情に溢れ ており, 彼の肉親に対する愛情が人並み外れたものであ ったことを想像することができ る.. ところがこの祭 女から推察すると, 彼の妹は5月 に亡く なっていることになり, それは陶 淵明が 彰沢の令 として赴任するに先 だっ3ヵ月 も以前の 頃である. 陶淵明は彰沢の令を辞任する直接の理 由としてこの妹の死をあ げているが, 真実の理由は別にかくされているとみなけれ ばならない.. 『宋書』 の隠逸伝や, 講統の 「陶淵明伝」 にはその理由として次のような話柄を伝えている. 陶 淵明は影沢の令となっても形式張ったことが嫌いで, うまく 上司の機嫌を伺うということはしなか 者が束帯をつけて応待してくれるように頼 った. ところが郡から督郵がやって来た. そこで下役の んだ. 陶淵明はその煩わしさに痛嘆して 「われ 豊によく 五斗米のために, 腰を折 って郷里の小児に 向わんや」 と言って即日印綬を解いて職を去り 「帰去来」 を賦したというのである. 陶淵明が殺してか ら, これらの撰者である, 梁の粛統や, 沈約の時代までには既に100年位の歳 一県 月が流れているので, そのエ ビソートはかなり誇 張せられていて実際 には真偽は不明である.‐ べ き事柄 として心得ておく の長官 ともなれば, 当然, 郡の督郵がやって来る位のこ とは当然の常識 当時に であ り, そのよ うな仕事を煩雑と感ずるこ と自体が極めて 非常識といわなければならない, たと思わ おける県令の仕事 というのは, このよ うな渉外活 動や儀礼的な行事がその重な仕事であっ れるので, これらの話柄 は多分後世になっ て作られたものである. 05年)というの は, かつては 彼と 陶淵明が影沢の令を辞 して田園に帰った年, つまり義際元年(4 同僚でもあった劉格, 後に宋の武帝となる人物が, 東晋の王朝の実権を掌握した年に当っている. その前年5月, 陶淵明がかつ て仕進した桓玄が失却の末, 劉毅の追撃をうけて自殺 し, 瀞陽に幽閉 せられ ていた安帝は, 更に江陵に連れて行かれ, 義閣元年の3月 に再 び建康に帰還する, 劉格は, 侍中.車騎 将軍・都督中外諸軍事徐青二州刺史に任命せられたけれ ども, 彼は固辞して は 受けない. 安帝が江陵から帰還できたの は勿論劉格のお かげである. 東晋王朝の文武百官 , 安帝 は 自ら朝廷に出仕し みずか らその邸に行幸 して敢て受諾を懇請すべく要請する. これを 受けた劉格 て辞退する. このようなこ とを数回繰返した末, 「都 督揚徐寛予青翼幽井八州諸軍事・鎮軍将軍・ ー となり, 賞州刺 史を兼領することになった. かく して東晋の軍事上の権力はすべて劉格 徐州刺 史. の手に掌握され る.. - 10 -.
(7) . 第 22 巻. 第1号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和46年9月. 陶淵明と劉格とはかつて劉牢之の参軍として席を同 じく したこともある間柄であり, 陶淵明はそ. の人柄に対しし恐 らく は極度の嫌悪と侮蔑の感情を抱いていたのではなかろう か. 陶淵明とは全く . 一介の野卑な武頗漢上りの武将が陰険な策謀を用いて社会の 異質の, 学問もなければ教養もない, 第一線にのし上って行くその時代の環境の中で, 陶淵明が心の中に画いていた理想の世界がつぎか. らつぎへ破壊されて行く, その中に処してうまく生き抜いて行くこ とのできない人間の姿, そのよ うな人間が敢えてなし得る社会への抵抗の型であり, それをさりげなく 妹の死を理由にして田園へ 帰って行こうとするところに彼の特色を認めなければならない. それ は劉格1個人に対するという. よりもその時代全体に対する抗議であるということは後で説くであろう,. 「帰去来の辞」 は全体が4つの部分に分かれており, それは韻を替えて議するように作られてい る.. 帰去来号 田園府蕪胡不筋 既目以心鴬形役. 田園将に蕪れんとす, 胡ぞ帰らざる 既に自ら心を以て形の役となす. 笑・ 園帳而濁悲. 築ぞ同帳として独り悲しまんや. 悟己往之不諌 知来者之可追 膏迷途其未遠 覚今是而昨非 舟遥遥以軽贈 風瓢瓢而吹衣 問征夫以前路 恨展光之責徴. 己往の諌められざるを悟り. 帰りなんいざ. 来者の追うべきを知る 実に途に迷うこと其れ未だ遠からず 今の是にして昨の非なりしを覚る あが. 舟は遥遥と して以て軽く贈り 風は瓢瓢として衣を吹く 征夫に問うに前路を以てし 農光の嘉徴なるを恨む. 陶淵明は過去40年間の生涯を振返って, その生き方を反省することから始める. 恐らくそれは2 9 と退耕とを繰返した 10年間余の自己の反省が中心をなしているであろう. 最初の 歳以降からの仕進. 仕官をするまでの30年に近い勉学と修養は少くとも青年らしい抱負を持っていたわけである, とこ. ろが現実の生活は, 貧窮の連続, 社会環境の変化とそれに対応して行く能力の欠如, 心ならずもし なければならなかった仕官と退耕との繰返し, 事志と違ったことを しなければならないことへの反 ) 省. 『荘子』 には行年60にして59年の非を覚ったという話がある4 . 過去を反省した今日より以後を 充実した生活で生きて行けばまだ充分間に合う. 『孟子』 告子篇に, 「孔子陳に在りて日く, 蓋ぞ帰来乎」 とあり, 『戦国策』には 「長挟, 帰来乎」 と用いられている. とにかく彼は 「冠を投 じて1 日癌に旋り, 好爵のために繋がれざらん, 真を衡茅. の下に養い, 庶わく ば善を以て自ら名づけられ んことを」 (辛丑の歳, 7月, 赴暇して江陵に還り, 夜塗口を行く) と詠 じたように, 今度こそ理想の生活をしてみせるぞと, 故郷の方へ快適な舟旅を. 続けて行く. この段の主意は, 「今の是にして, 昨の非なりしを覚る」 にある. 覚った現在では一 刻も早く, 故郷における自由の生活に帰るべきである. 乃膳衡宇. 乃ち衡宇をみ - 11 -.
(8) . Vo l .22 No .1. 載欣載奔 憧僕歓迎 稚子候門 三運就荒 松菊槍存 摘幼入室 有酒盈鱒 引姦腸以目酌 厩庭桐以恰顔 筒南国以寄倣 審客膝之易安 園日渉以成趣 門離設而常開 策扶老以流憩 時矯首而逼槻 雲無心以出軸 鳥倦飛而知還 景勝畷以幣入 撫孤松而盤桓. lof Hokl do Un i i Journa i i ion IA) t t ‘ t a ver s on (Sec y of Educa. Sept . ,1971. 載ち欣ぴ載ち奔る 憧僕. 歓び迎え. 稚子. 門に候つ. 三運. 荒に就けども. 松菊. なお存す. 幼を携えて室に入れば ・ 酒ありて縛に盈てり 壷腸を引いて以て自ら酌む 庭柄を勝て以て顔を恰ばす 南蛮に偽って以て鰍を寄せ 膝を容るるの安ん じ易きを審かにす 園は日に渉りて以て趣をなし 門は設けたりと雄も常に関せり 扶老を策つきて以て流憩し 時に首を矯げて退かに観る 雲は無心にして以て軸を出で 鳥は飛ぶに倦みて還るを知る 景 は畷厨と して以て将に入らん とし 孤松を撫して盤桓す. ここには故郷に帰る喜びと, 故郷での安らいだ楽しい生活が描写される, 『宋書』 の隠逸伝には, 彼が彰沢に赴任した折に公田に隷を種えようとしたが, 「妻子, 固く 税. を種えんこ とを請う」 とある. 諸統の 「陶淵明伝」 には 「家累を以て自ら随えず, 一力を送 り, そ の子に給す. 書に日く, 汝が旦夕の費, 自ら給するこ と難しとなす, 今この力を遣わし, 汝が薪水 の労を助けしむ, 此もまた人の子 なれば, 善く 之を遇すべ し」 と述べているので, 彰沢に赴任した 折に, 陶 淵 明の家族 は両方に分散していたこ とになる. 中国のような大家族制を中心とする居住生 活の場合, いささかの地位を持った人物であれば, 下男もいれば, 召使いもいるはずだ. 生活能力 のない陶淵 明として は仲々にその生活を維持することは困難であったろう.. さあ, 旦那様がお帰りだ. お父さんが帰っ てくるのだ. 大歓迎の中に我家の人となれば, 庭園は 荒れ はてて はいるが, 大好きな松 と菊は昔ながらにちゃんと残っている. 自然の風物を描写の中に とり入れるというこ とは 『詩経』 の昔から存在してはいた. しかしなが らこのような効果的な生彩 ある表現 は陶淵明に至って完成したのであり, 蘇帆や欧陽 修が絶讃するのもこのような表現の技術 ) に あ る5 .. 作者の心の中に描いていた 「真」 なるものの具体的な表現がここにはある. しばらく別れていた 子供達の手を引いて大好物の酒 が, 樽の中に満 ちている. あらゆるものから解放された喜びをこれ から充分に味あうことができるのだ. 早速, 徳利 と盃とを引きよせて, 手酌で一杯やりなが ら, 庭前の枝を眺めながらにっこりする. (自分の居なかった間もこれらの樹木 は昔のままに待っていてくれたのだ) 南の窓に偽りそうて,. 庭の木々の枝ぶりを眺めて楽しむ作者の心境, まことに小さ な自分の世界ではあるが, これこそ他 人からも犯 されない安心して過すことのできる自由の世界がここにはある, 園中を毎日歩き廻るこ とが自分の日課となり, 門 はあるがいつも閉 したままである. 藤で作 った. - 12 -.
(9) . 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第→部A). 6年9月 昭和4. 杖を策 づいて休みながら, 首をもちあ げてぼんやりとはるか彼方を眺める. 雲は人の世とに関係なく自由に山の峰をはなれて動いているし, 鳥は自由に飛 び廻り, それに飽 くと自由にねぐらへ帰って行く, やがてもう夕暮だ. 次第に暗くなって行き日も西山に傾こうとす る. こ の 自 然 の 中 に, 自 由 を 楽 しみ な が ら, 夕 日 を 浴 び て ぽ つ ん と立 っ て い る1 本 の 松 を, い とほ. しむような思いで撫でながら停ずむ詩人の姿. 前に 「三浬就荒, 松菊猶存」 といい, 後には 「景勝端以将入, 撫孤松而盤 桓」 とあるが,・荒廃し た園中に立つ孤松の姿は, 仁義礼教が全く地に墜ち, 人間が形式と虚飾の中に清節を保とうとする 陶淵明自身の姿でなけれ ばならない.. 端去来号 請息交以経済 世輿我而相違 復駕言号鷺求 粉親戚之情話 柴琴書以消憂 農人告余以春及 舟有事於西時 或命中車 或樽孤舟 既窃寵以尋鰹 亦崎堰而経邸 木欣欣以向柴 泉渦絹而始流 善寓物之得時 感吾生之行休. 帰りなんいざ て以て瀞を絶たん 交わり 請う 交わりを息め たが. 世と我と相い違う 復た駕して言に烏をか求めん 親戚の情話を悦び 琴書を楽しみて憂を消さん 農人余に告ぐるに春の及べ るを以てす 将に西噂に事あらんとす 或は中車を命 じ 或は孤舟に樟さす 或は窃宛として以て鰹を尋ね 亦た崎幅として郡を経たり 木は欣欣として以て栄に向い 泉は絹絹として始めて流る 万物の時を得たろを善み し 吾が生の行くゆく休するを感ず. それではこれからどのようにして生きて行く のか, まず第一に社会から隠遁す る 身にとっ ては世 間の地位のある人と交際する必要 はないのである から, これから一切社交場裡に活躍することはや めに しよう. 世間の者も自分を忘れるであろうし, 自分も世の中のことは忘れることにしよう, このように繰返 し繰返し, 世間 との断絶を宣言するのは, 或る意味ではこのような未練に対して. 自分自身に言いきかせる言葉でもあろう. そして世の中との交渉を絶った身にとっては, 親戚の情 話を楽しむことと, 琴と書を楽しんで憂いを消すことが唯一の楽しみとなる. そして一介の農民と. して耕作に従事 して生計を維持して行かなければならない. ,それにしても, 春夏秋冬は交替して極まることなく, 天地自然は 悠久である. ところが人生には. 限界があり, 終局がある. そしてその終局は やがて自分自 身にも訪れてくる. この当時, イ ンテリ の教養としては老荘が貴ばれ, 『楚辞』を詞習することが必須の課程であった といわれる, しかし陶淵明が幼い折に培われた教養は儒教的なものがその基底にあったことは 「遊 ) 好 は 六 経 に あ り」 等 の 語 が その 詩 の 中 に 時 折 り 出 てく る こ と に よ っ て 知 る こ と が でき る6 .. 志を得て天下有為の材となり, 修身斉家, 治国平天下の理想に燃えていたことも確かであろう. しかしながら彼の置かれていた環境や, 社会的な条 件は全く 彼にと って不利であった. それに対し て彼自身の詩人と しての天分はあまりにも抜群であり, 世渡りに必要な社交すらも容易に 受け入れ 一1 3-.
(10) . vo l .22 No .・. do Univer Journa lof H0kka i i i i t s t on (Sec on I A) y of Educat. Sept . ,1971. ることを許さなかった, 幼い頃に受けた儒教的な素養は時に彼を官界に誘導することもあったが, そのような才能は全く彼には欠如 していたというよりも, そのような社交の習慣に不屈の反機心を 抱 い て い た も の と 思 わ れ る.. そうであればそれに代る別の生き方, 而もその生き方は 何等かの意義をもち, 哲学的な根拠にも 支えられ, 自分自身が自信を以て頗 れるもの, そしてそれは生涯を貫き通すこと の で き る 生 活 信. 条, その確乎たる信念を貫き通すにはどのように したらよいか.. 己突乎 寓形宇内復幾時 局不委心任去留 胡鴬乎進達欲何之 富貴非吾願 帝郷不可期 懐良辰以孤生 或植杖而転寿. やんぬるかな 形を宇内に寓する復た幾時ぞ 易ぞ心を委ねて去留に任ぜざる なんすれぞ違逗として何くに之かんと欲する 富貴はわが願し に非ず 帝郷は期すべからず 良辰を懐うて以て孤り生き 或は杖を植てて続粁す. 登東皐以僻1 粛. 東皐に登りて以て僻に嘘き. 臨清流而賦詩 柳案化以蹄壷 薬夫天命復笑疑. 清流に臨みて詩を賦す 叩か化に乗 じて以て尽く るに帰せん 夫の天命を楽しみて復た異ぞ疑わん. 田園に引退して一介の農民とな ってしまえば再びこの世に活躍する機会は失われてしまう. この まま朽ち果ててよいであろうか. これでは自分がこの世に生をうけた意義はない ではないか.. しかしながら富貴の境涯になるのは本来わが願いでもないし, また帝郷, つまり仙人の世界は望 んでも不可能である, 訓の盤康の 「琴賦」 には 「性命を委ねて, 去留に任す」 とあり, 『荘子』の天 地篇には 「彼の白雲に乗り, 帝郷に至らん」 とある。 そこでそのような現実ばなれ した考えはすてて, 天気のよい日にはせいぜい独りで散歩したり, ) 時には昔の隠者にならっ て耕作 でもしよう7 . また東の丘に登って静かに口ずさんだり, 清流の傍 に行 って新 しい詩を賦したりしよう. 密康の 「琴譜」 には 「清流に臨みて新詩を賦す」 とある.. まあまあ, 化, つまり陰陽の作用による自然的法則 (人間の能力では不可抗力な自然現象) に従 って静かに死を迎え ることに しよう. 古人も天命に従へと教えたが, 自分ももうじたばたせず焦 る ことなく, その教えを疑うことなく 安心 して生きて行くことに しよう. 『孔子家語』 という書には 「孔子日く, 陰陽に化し, 象形にして発する, これを生という. 化窮まり, 数尽くる, 之を死とい う」 とある,. 短 かく は か な い 人 生 を どの よ う に 生 き て行 っ た らよ い の か. それ は 今 ま で 心 を 労 して い た こ と を. いさぎよく 思いきり, 現実を肯定 し, 富貴を願わず, 帝郷を期することなく, 天命に安んじ心の自 由を獲得して静かに生涯を終ることが, 自分としての最良の生き方なのだ. 「帰 去 来 の 辞」 は こ の よ う に結 ん で い る. 『帰去来の辞』 が陶淵明の作品の中でも, 最も代表的な作品の一つで, 前半生の生き方を反省し て優柔不断な過去の生活に別れを告 げ, 新 しい生き方を貫こうとする宣言の文章であるという点で. - 14 -.
(11) . 第 22 巻 第 1 号. 一口 ) 第一部A 大学紀要( 北海道教育 子 旭. 昭和4 6年9月. 諸家の見解は一致 している,. しかしその製作の意図や, 序文と本辞との間には若干の矛盾するところがあり吾人を了承させる .ためとし, 退耕の理由を 「真」 までに至らない. 陶淵明は数回にわたる仕官の理由をすべて貧困の べて事 を慕うの故とする. 陶淵明は引 退の直接の理由を, 妹の死によるものとするが, これらはす たのであろ て何であ っ 実に合致しない. 貧困に託して何回も仕官をする陶淵明の心情の本心は果し うか・. 「辞」 という表現 形式は, 詩と散文の中間的な文学形式といわれ ているが, この作品が 「辞」 と いう表現方法に よっていることも注意すべきであろう, 陶淵明自身はこれを単に 「帰去来号」 とだ け称するが, このような形の作品は外に例がないので, これ以前の作品が五言詩によっ て表現せら れている点と思い合わせて何等かの意図があったものと考えなければならない. 陶淵明より以前に, このような形式で自分の心境を表現した人物に, 先秦時 代陶淵明と同 じ楚の 屈原 がある, 彼は陶淵明よりも更に 600年位も前の時代に, 揚子江の上流, 当時楚と称した国の家 が 老の家柄に生まれたというが, 懐王に仕えて種々画策 するところがあったが, その真面目な人柄 同僚の側近等に嫉まれ, 遂に失却し, その次に立っ た頃裏王の時に, 放浪の末国家の前途をはかな ) んで, 泊 羅 の 淵 に 身 を投 じて 自殺 した と い わ れ る8 .. 屈原の国を思い, 君を思うて容れられ ざる悶々の心情が 『楚辞』 の中に凝集し, 憂愁の中にもあ ふるるばかりの情熱をたたえた独特の文章となっているが, 陶淵明の場合も立場こそ違え不遇の社 会に処して生きて行かなければならない人間の苦悩かこめられているといわれる.. 陶淵明も屈原と同 じく楚の人であり, 古く から楚の国に伝えられてきたという, 大招, 招魂等の 諸篇が霊魂の帰結を叙したものであり, 招魂文学の系譜は漢代にもうけつがれ, 三国六朝に及 んだ ) と思われ, 漢代の賦にもその用 例は少くない9 . 「帰」を主題とする作品は漢代の楚辞系統の中にかなりみられることから考え合わせて 「帰去来の. 辞」 もこの楚国に伝えられていた文学形式に 大きな影響をうけているものと考えてよいであろう. 陶淵明の作品はおおむね平静で枯淡の趣があると評せ られるが, その中にあって 「帰去来の辞」 は流動的で躍如たる趣きに富む. これは作者の心境の上で躍動するものがあった か ら だ と も 思 わ れ, また 「辞」 という文学形式が口で唱える作品であるという特殊性によることもあろう. また楚 系文学が伝統的に持つ惨勃たる精神の湧出という面も考えられると思われるが, 楚辞系統の諸作品. にみられるような神秘性やロマ ン性は影を潜め, 不平もなく不満もなく, 人生を肯定 した安 心立命 の境地に処 して行こうとするものの, 人生の構図が絵画的な美しさをみせて流動的に 描 か れ て い る, 陶淵明の環 境をみる時に世に容れられない人間の処世の境地がさりげない調子で淡々と語られ て い る と こ ろ に 独 自性 が あ る.. 陶淵明の人間形成の基礎となったものは 勿論儒学の教養であったことは残されている彼の作品や 0にして聞ゆる 行動から容易に想像することができる. 「先師遺訓あり, 余れ豊ここに 墜さんや, 4 なきは, 斯れ畏るるに足らず」(栄木) といい, 「与子倣等疏」 というのは子供達に対する訓 誠の文 章であるが, その考え方は人 生に対して忠実であるべきを説き, 切に勤勉努力すべきことを強調し o ) て い るl .. それにもまして彼の行動自体がそれを示 している. つまり彼の 生涯の行動自体が人生に対 して誠 実であり, 放漫なところがない. 当時の社会的な環境から考えて, 彼がかりに老荘思想を基底に持 つ人間であっ たならば, その行動は更に異常でなければな らない. 一見高踏的であるかのように見. える彼の行動はあくまでも儒学的な倫理観の枠の中にあり, 常識に支えられており, 老荘的人生観 はその方法に過 ぎない. - 15 一. . ● . ・ . ・ ′ . . . ● . 、 、 . ・ ● . . ● . ● . ・ ● ● , . ・ ● r . ノ .. . ●. ● ●. ’.
(12) . Vo l .I ,22 No. lof Hokka i do Uni Journa i i ion IA) t s ver on (Sect y of Educat. ・. Sept , ,1971. 当時一般の風潮と しては老荘思想が風廃L ,ており, 貴族の教養と しては老荘の書に通じ玄理を談 ずるということが必須の事とせられていた. 老荘の研究が行なわれ 王弼が 『老子』 に注釈を施 し , たり, 郭象が 『荘子』 に注す るのもこの時代である . 当時は清談, つまり巧妙な会話 のやりとり, 言語による表現技術の妙に腕をふるうことが重んぜ られたが, 老荘の書はそのバイ ブルと して貴ばれた 『世説新語』 に は 一日老子の書を読まない . , と舌がこわばっ てしま うよ, と嘆 じた人物 の話がある 『世説新語』 は 醜晋時代の人物を中 ひと . , した清談に関す る逸話集であるが, 陶淵明に関す る話柄が全く残されていないということは 彼が , このような社交界と全く無縁であったということの外に, 彼が このような虚飾にみちた会話の応酬. に全く価値を認 めてはいなかったからだと思われる, それは彼が心の中に深く抱き持っている「真」 という理念 から大きくかけはなれた言語技術 であったからであろう , とにかく 彼は彼なりに世の中に対する抱負はあったと思われるが, 彼の生きた時代は社会的な身 分や環境が彼にと って不利であったとい うことの外に, 精神的, 思想的な面 でも彼の志と全く異っ た環境にあ ったということができる. 身を立て, 道を行ない, 名を後世にあげようと 考えたところ でその方途は全く鎖されており, かりに求めて得られ る地位は自分の意志に反する低い地位か 凡 , そ不適格な軍閥の幕僚といったものであった. そ して何よりも重要なことは, 陶淵明が天性の詩人であり, 抜群の詩才を備えていたけれども, 実務の才に至 っては無に等しかったということである. 従っ て意識の上では何事かをしようという. 気持があ っても-旦その地位についてみ ると, その志とは反対に実行力の皆無な自分 自身の姿を発 見 し, 当初の抱負は忽ちにして萎縮 してしまうということがあ ったかも知れない 李白のような倫 , 理感の欠如 した人間は, たとえ無能 であっても我侭勝手に振舞って図太く 人生を生き抜いて行った. かも知れないが, 彼のような人柄の人物にとっては性格的に不可能であったものと思われ る . 陶淵明の前の時代に生きた人物に, 竹林の七賢と称せられる‐一群 の人物がいるが, 玩籍・密康・ 山涛・王戎・向秀・劉伶・玩成等がその人達の名としてあげられている. 彼等は当時の代表的なイ ンテリであったが, 自由な言論が 抑圧された時代に, 形式化した礼教主義への反撒精神から 猛烈 ,. な礼教反対の実践者として活動した こと が伝えられている.. たとえば彼等は当時の常識を無視して裸のまま来客に接 したり, 親の喪に在って飲 酒 泥 酔 した り, 厭と一緒に車座になって酒 を飲んだり, 凡そ当時の常識と して許されていないことを敢行して ー ) 人 の 耳 目 を 驚 ろ か せ た り す る こ と が 多 か っ た1 .. 彼等の行動はやや伝説化されて今日に伝えられており, その真相を詳かにする こ と は で き な い が, 当時に於ては不平不満のはけ口をそのような方途によ ってしか表明できなかった ということも ある. 彼等の心の中には, 彼等が幼い頃にうけた基礎的な教養と して儒学的なものの考え方が厳然. と して心の中を支配 しており, 真実 の儒学の精神が時の権力者や策謀家達の手により利用せられ ,. その真精神が曲解 せられて, 権力獲得の手段と して悪用せられ るようになっ てくると, 真面目な人 2 間はまともに真実を語らないようになるのだと魯迅は説 明する1 ) .. しかし更にその事と共に彼等の心の中には, 後世に名を残して不朽であ りたいという中国の伝統 的な精神が支配していたと思う. 彼等は陶淵明と異って社会的な地位や経済的な条件にも恵まれた 者が多かったが, 政界の中枢部に参画していなかったり, 陰謀家の野心を知りながらそれを阻止す ることのできないいらだたしさから, 何等かの方法で憤懲を爆 発させたものである. 桓温 が天下に野望を抱きながら恨 を残して段する折に 「既に美名を後世に残すことが で き な い し, ま た 臭 名 を す ら残 す こ と が で き な い の か」 と 言 っ て 帳 恨 した と い う1 9 ) こ のよ う に 中国 に お け .. るイ ンテリの悲願 であり夢である身後の名を残すことは 陶淵明と難も例外 ではない 「固窮の節に .. 一 16 -.
(13) . 第 22,巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和4 6年9月. 頼らずんば, 百世当に誰か伝うべし」(飲酒20首その2)と詠ずるのはその確かな証拠である. 彼の場合は竹林の七賢のような名門の貴族 ではなかった. しかし彼も 「命子」 という作品の中で は自分の家が名門の末 であることを述べて 子供達に自信をつけさせようとしているのは 当時におけ. る家柄や家系の重要性を想うことができる。 ところが東晋の王朝が北方から移動して来て南方に確乎たる地盤を築いてしまい, それらの権門. で要職を独占してしまうと陶淵明クラスの家柄 では世に出ることが不可能になり, それに彼が能吏 としての手腕や才能があればまだ しも, この点に関する限り彼の能力は絶望的であった. 文学的な 才能にすぐれ, 社会的な適応性に欠けている人間は今日でも多くみるところである. こ のま ま 空 しく 朽 ち 果 て ると い う こ と は 陶 淵 明 に と っ て や り き れ な い こ と で あ っ た. しか し人間. はいつかは死ななければならない, 一般に中国の知識人は生死の問題について語ることが少ないが 陶淵明は極めて深い関心を有していたと思われる. 彼は自ら 「五柳先生伝」「目祭女」「挽歌」 等の. 諸作品を残していることは彼が死後に対 して深い関心を持ち, 現在の生き方に対して 「これ でよい. のか」 という疑惑の心情を抱いていたからに外ならない. 「己酉歳, 九月九日」 と題する詩には次 のような1節がある. 寓化相尋輝. 寓化. 相い尋輝す. 人生貴不労. 人生. 豊に労せざらんや. 従古皆有没. 古へより皆没するあり. 念之中心焦 之を念えは中心焦る 自然は春夏秋冬を永遠に繰返すけれども, 人間はやがて死んでしまえば再び帰ってくることはな い. 無位無官の陶淵明の心境と してはまことにやりきれないものがあったに違いない. それではどのような生き方を してその名を後世に伝えたらよいのか. その方法の一つと して隠逸. の思想がある. 隠逸の思想は, 世の中に活躍して高位高官に昇り, 功業を樹立することを否定する 理念の上に成立する. 大臣宰相の地位や彼等の樹立す る功業を塵芥のように軽視して, 自らをより. 価値ある存在として後世に位置づけようとする考え方である.. 『史記』 の老荘申韓列伝をみると, 孔子が周に行っ て礼を老子に問うた話がのせられてい るが, 老子は積極的に世の中に出て活動 しようとする孔子の態度を注意 して, 才能をかく しいわゆる名声. などをあげないことを理想としているし, 『荘子』 には名声のために心身を労して努力する孔子の 行動を愚かなことだと軽蔑する挿 話がいくつも出てく る. 老子や荘子のような先輩の思想家の言行 は, 彼等後世の隠遁者たちにと っては有力なバイ ブルとなる. 陶淵明は彰沢の令を辞める以前に於て数回仕進と退耕の経験を持つが, その間に於て作 られた数. 少ない作品にはいずれも, 仕官をするのは本来の志ではないから, いずれ田園に帰り自然の生活を 楽しみたいと述べ ている. 試みにその部分を摘出してみよう. (1) 初めて鎮軍参軍となりて曲阿を経しときに作る. 目倦川塗異 目は川塗の異なるに倦み 心念山淫居. 心は山沢の居を念う. 望雲漸高鳥. 雲を望みては高鳥に漸 じ. 臨水塊済魚. 水に臨みては瀞魚に悦ず. 員想初在襟. 真想は初より襟にあり. 誰謂形 逃拘. 誰か謂う 形遂に拘せらると. 卿且悪化遷. 叩か且つ化に懸りて遷らん -1 7-. . ● . ・ . . . . ● . ’ ● ・ ● ●. ノ 1 ● . , . ・ . . ・ . . ・. ’ . ・ . . ● . . . ● . . ● . ● . ● . . r .. ● ● .. ● ・. ● ・ ●.
(14) . l Vo .22 No .1. ion I A) ion (Sec i i do Uni t l。f Hokka t ver t s ー。urna y of Educa. sept . ,1971. (2) 庚子の歳五月 中, 都より還るに風に規林に阻まる. 人間良可僻. 静かに念ぅ園林の好きことを 人間 まことに辞すべ し. 営年誼有幾. 当年. 縦心復何疑. 心を縦にして復た何をか疑わん. 欝念園林好. なんぞ幾ばく もあらんや. (3) 辛丑の歳七月, 赴暇 して江陵に還り, 夜塗口を行く 冠を投 じて旧居に旋り 投冠旋奮盛 好爵のために繋がれ ざらん 不鴬好爵繁 養員衡茅下. 真を養う衡茅の下. 庶以善自名. 庶く ば善を以て自ら名 づけられん. (4) 乙巳の歳三月, 建威参軍となり, 都に使 し, 銭渓を経 一形 似 有制. 一形. 制 せ らる る こ とあ る に 似 た り. 素襟不可易. 素襟. 易うべ からず. 園田日 夢想. 園田. 日に 夢想す. 安得久離析. 安んぞ久しく難析するを得んや. 終懐在室舟. 終懐は鰹 舟に在り. 諒哉宜霜柏. 諒なるかな霜柏に 宜し. 以上は陶淵明が彰沢の令として仕進する以前の作品から抄出したものであるが, 彼は仕進をする 毎に1首か2首の作品を残し, その作品の中には必ず仕官がその本心でないことを確実に述べ, 早. く仕官などはやめて田園に帰りたいというこ とを例外な しに述懐している. (1) の作品から (2) の作品まで7カ月, (2) の作品から (3) の作品まで1年2カ月, (3) の作品から (4) の作品まで 3年6カ月, (4) の作品から, 彰沢の令として仕官するまでは僅か に6 ヵ月に過ぎない. (3) の作品が作られてから (4) の作品 が作られるまでの間の作品として 「奨卯の歳始春, 田舎に懐古 す」 「奨卯の歳十二月 中の作, 従弟敬遠に与う」 という作品 があるの でこの前後の2年間位が郷里に居たことが確認されるけれ ども, この僅か5年か6年の間に少くと も4回仕進 し, 4回辞任 していることになる, 言いかえれば彼は田園に帰りたいと述 懐して辞任す るや否や次 の就職運動をして仕官していることになる. これは明らかに異常であり, 平静で枯淡な 詩を作る, 常識の枠を外さない倫理観を備えている陶淵明の行動とは思われない. 彼が仕進の理 由として常にあげるのはその生活苦のためであるとする, 彼が貧困であ ったことは. 確かでこれは疑う余地はない, 彼の貧困に苦しめられた描写は, 作品中随所に述べ られて何人も否 定することはできぬ. しかし私は思う, 貧困は単なる表面上の理由に過ぎぬと. 彼が仕進 した本当 の理由は, 仕官をして功名を立て, 富貴の身となり, 功成り, 名遂げるという一般士人の理想とす る境遇を, 弊履の如く 捨てて, あっさり田園に帰るという, 先人の言葉を実践することにあったの で斗まな い力・ .. ・の常識では 彼は田園に帰るとすぐその舌の根も乾 かぬうちに別の軍閥に仕進をしているが, 今日 た し 実際にもその 立てる気持は全くなか 卿ま仕官をして功名を 到低考えられないことである. っ ,. 仕進 し ような仕事は全く無能であったから, とにかく有力な軍閥に仕進するが, 政府の役人として, たわけで 作ることが彼の場合には必要であ て, そのような地位をあっさり放郷するという実績を っ 一 18 「.
(15) . ● . ・ ● ●. 第 22 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年9月. あ る.. 獲得した地位を, 惜 しげもなく投げ捨てて田園に帰る. これは社 会に出て活躍して功名富貴を夢 みている数多くの当時の知名人より高い立場に立つ唯一の方法であったのである. 彼は劉牢之の鎮 軍参軍を辞して 桓玄に仕進するが, 恐らくそれは1ヵ年足 らずの間に行なわれ, 劉敬宣の建威参軍. として建康に使 してから, 僅か半年位の間に彰沢の令となっていることになる. 卿ま功名富貴を蔑視するためには実際に仕官を して それを弊履の如く 捨てる必要 があったわけで ある. 彼が彰沢の令として仕進 したのは生活のためではなく, それをあっさり捨てることを実践す る た め で あ っ た の で あ る. 皮が 「俗にかなうの韻がない」 と自覚 していたにかかわらず, 敢て数回 の仕進と退耕を繰返すに至る真実の理由は, 社交と清 談と権謀と術策に明け暮れている貴族階級の. 生活態度を軽蔑し, それより更に高い立場に立ち, その名を後世に伝えることを期したのではなか ろ う か.. 「帰去来の辞」 の中で彼は 「請う, 交りを絶たん」 と言いながらも, 田園に帰ってから以後の生 活をみると, 必ず しもこの宣言は守られていない. このように彼の言うところと, 彼の実行すると ころをみると必ず しも一致していない 点があるのは, 彼の仕進が単なる生活苦のためでないことを. 想像させるものである, 陶淵明は決して気まぐれな人間ではなく, 計算をしながら世の中を渡った人である. 彼が冷静で あったからこそ, 仕官する毎に, 仕官を軽視するような詩を残 し, 「五柳先生伝」「目祭女」「挽歌」. 等の作品を残 し, その名が不滅ならんことを期したのである. しかしそのことだけでは彼の名を不朽ならしめることはできない. 彼は彼が持っている非凡の文. 才によって彼の心情を伝える勝れた詩境を歌いあげたのである. これ が 「帰去来の辞」 である. 「帰去来の辞」 は4段にわ かれているが, 第1段には, 仕官を辞めて故郷に帰る喜びが詠ぜられ る. 第2段には田園における彼の理想的な生活構図が描かれる. 雲は無心に して軸を出で 雲無心以出軸 鳥は飛ぶに倦みて還るを知る 鳥倦飛而知還 景勝照以滞入. 景は聯繋として以て将に入らんとし. 撫孤松而盤桓. 孤松を撫して盤桓す. これは陶淵明によ って発明せられた新しい境地である. 無心に軸を出て行く雲, 飛ぶに飽いてね ぐらへ帰って行く鳥, 淡い夕日をうけてぽつんと立っている松, それを撫でいたわるように して件 む詩人の姿. 情景と作者の心境が運然として一体となる. これまで単なる知識人の遊戯としてしか 扱われなかった文芸を以て後世に不朽でありたいと願う作者の悲槍な自信がここにある. 第3段は, 彼が描く理想の境地を維 持するための方法としての生活手段が描かれる. それは自然 の中に一介の農民として生きて行く欣 びである, しかし人はいつかは死ななければならない. 第4 段に至っては死生のことは天命にまかせ静かにその日その日を大切に生きて行こう という彼の人生 観を以て結ばれる.. このようにみてくると 「帰去来の辞」 に描かれたものは 彼が長い間の精神的紡錘の末に獲得した 理想の世界であり人生観である. 従って序文の記すところと合致するかは問うところではない. 彼. は事実を告 げようとしているのではなく, 人生の真実を語ろうと しているのである. 「帰去来の辞」 以後に詠ぜられる作品は, おおむねここに描かれた彼の理想とする詩境の展開とみ て よ い で あ ろ う.. 中国における五言の詩は, 醜の詩人転籍において, 知識人がもっ とも正直にその真情を吐露すべ 4 ) き文学形式を獲得したといわれている1 . それ以後の文学は 院籍が示した方向を更に押 しすすめ, - 19 一. ● ‘ ● r . ● ● . ・ ● ● ● . . . . ・ ● . ・ ● . ● , . ・ . . ● . r ● . ● ′ ′ . ・. ●. ・. ●. ●.
(16) . Vo l ,l ,22 No. ion I A) i i l of Hokka ido Univer t t journa on (Sec s y of Bducat. Sept . ,1971. より高い芸術的な境地を開拓するに至る. この時代には陶淵明とほ ぼ時代を同 じく して, 書家に王 義之, 画家に顧憧之, 彫刻家に戴達等が出てそれぞれの分野に於 て芸術家としての地歩を確実に し た時代であり, 文芸もそれに携わる人物の地位の高下によらず, 作品それ自体 の価値によ ってその. 意義を主張するようになっ たのである.. 私は陶淵明が東晋王朝の臣であるという自覚や, それに殉ずる気持を持っていたとは到低考える こと が できない. 東晋の政権下に在って彼の置かれた環 境は, 彼のこれまでに得た地位によってほ ぼ想 像がつく. 王義之や謝霊運のように生まれながらに して名門の貴族であれ ばともかく, 縁故の ない無能な詩人の活躍する舞台はまだ用意せられてはいなかった.. ましてその東晋の王朝を名目だけにして, 野心の一端を覗かせながら政局の中枢にのし上 ってく る無気味な人物は, かつては同僚でもあった無教養で無頼漢あがりの軍人劉格である. 陶淵明とし てはせめて自分達を支配する指導者は, 彼と同 じ社会的基盤に立った教養と人望を備えた人物であ っ て欲 しか っ た.. 陶淵明は劉格の袷頭によって完全に自分遠の時代が去 ったことを自覚したに違いない. 陶淵明が 未練なく田園に帰って行く心境の中にはこのような心理も働いていたに違いない. 朱女公は 「楚声 5 ) に托すと雌も, 尤怨の趣がない1 」 と評しているが, 屈原の心境は, 自分の熱烈な忠誠心が懐王に 容れられない悲憤の心情が含まれている のに対 して, 陶淵明の場合は現在の社会に対して未練がな いわけであるから, --度決心すれば気持と してはすがすがしいわけである. しかしなが ら陶淵明と誰も, 自分が社会からとり残された人間であるという気持がないわけでは. ない. 「如何ぞ蓬 瞳の土, 空 しく時運の傾くを視るや」 (九日間居) と述懐するのは時代からとり残 された人間の心境を吐露したものとみることができよう. しかしながらどのような世の中であっても, 何等かの形でその名を後世に伝えることが必要であ った し, このような時代であるからこそ, 彼のような人間の生き方を後世に示す 必 要 が あ っ た の だ.. それは汚れきった権力機構からあっさり離脱 し, それらを無価値な ものとして見むきもしない, より高い境地に身を置き, 自然と共に悠々自適の生活を楽しみ, 「真」 なるものを求めることによ. っ てそれは可能であると考えたのである. この時代には, いわゆる文学者として後世 に名を残した人でも, まだ本格的に文学を生命とした 人は少なかった, その地位を地って詩歌に生命をかけた人は稀であ った. 陶淵明は自ら自叙伝とも. 言うべき 「五柳先生の伝」 と称する文章の中に 「常に文章を著わ して自ら娯 しみ, 頗る己れが志を 示す」 と書いている. 陶淵明にとってその作る所の文章はその生命であり, 数回にわたりその地位 を弊履の如く捨てて獲得した貴重な代償なのである.. <註> 1 ) 2) 3) 4 ) 5 ) 6 ) 7) ) 8 9 ). 55 吉岡義豊:帰去来の辞について, 中国文学報第 計略 , 19 . 張芝:陶淵明伝論, 19 55 . 与子鱗等疏. 陶淵明集巻7. 荘子, 則陽篇 「荘子謂恵子, 孔子に年六十而化, 始時所是, 卒而非之, 未不知, 今之所謂 , 是之非, 五十九 非也」 李公燥:箕注胸淵集, 巻531 . 陶淵明集, 巻3, 飲酒2 0巻その16 . 論語, 徴子篇 「子路従而後, 遇丈人次杖荷篠, 子路問日, 子見夫子乎, 丈人日, 四体不動, 五穀不分, 執為 夫子, 植其杖而芸」 史記, 屈原買生列伝, 劉安世, 招隠士 「王孫遊行不帰」 , 王祭, 登楼眠 「昔尼父 , 張衡, 思玄隙 「離居之労心今, 情↑餅員而思帰」 - 20 一.
(17) . 梯 22 巻 第 1 号 10) 1 1 ) ) 12 1 3) 14 ) 15). 北海道教育大学紀要(第一部A). 之在陳今, 有帰歎之歎音」 陶淵明集, 巻7. 与子鱗等疏. 世説新語, 巻7. 住誕篇. 魯迅:醜晋の気風および文章と薬, および酒の関係, 192 7 . 晋書, 巻9 8 . 桓温伝. 吉川幸次郎:院籍の詠懐詩について, 1955 , 朱費:楚辞註後語÷則.. - 21 -. 昭和4 6年9月.
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