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カフカの出にくい部屋

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Academic year: 2021

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カフカとクリスタル︵オニキ︶一九   八〇年代に関して︑まず表面的な特徴しか思い浮かばないのはなぜだろうか︒そこには︑六〇年や七〇年代などにまとわりつく﹁解放﹂や﹁断絶﹂のような観念より︑研究の対象にもならないほどある種の軽薄さと滑稽さがまとわりついているようだ︒自分たちは現代を生きているのに︑そこにいないような気がする︒吉本隆明の﹃マス・イメージ論﹄や柄谷行人の﹃日本近代文学の起源﹄で論じられる現代思想︑そして高橋源一郎や田中康夫などのような八〇年代初期の作家の小説には︑なにかつかもうとしているのと同時に放そうという奇妙な感覚が貫いている︒そんな感覚における系譜を辿ってみたいと思う︒

カフカの出にくい部屋

日本の八〇年代初期の話題作を分析する際に︑吉本隆明が﹃マス・イメージ論﹄でまず取り上げる作品は︑村上春

樹でも田中康夫でもなく︑カフカの﹃変身﹄である︒ある日︑家族と一緒にアパートに住んでいる独身グレーゴル

は︑朝起きてみると毒虫に変身している︒この変貌に対して主人公は︑生理的な拒絶というより︑あまりにも

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現実的

0 オ ニ キ ユ ウ ジ ││八〇年代の思想感覚││ カフカとクリスタル

(2)

二〇

な困惑を抱く︒目が覚めた瞬間から︑自分が虫になったという本質的な変化より︑巨大な虫という身体がいかに出勤

の妨げになるかということだけが︑主人公の思考を支配している︒

  ︿ああ﹀と彼は考えた︒︿なんという厄介な職業を選んでしまったことだろう︒明けても暮れても旅の生活だな

んて︒セールスの仕事自身︑本社に勤めるよりどれだけ骨が折れるか知れはしない︒その上にぼくには旅の気苦

労があるのだ︒汽車の乗換時間をまちがえないように気をくばったり︑時間はずれにまずい食事をとったり︑た

えず相手が変わり︑けっして長続きせず︑一度も打ちとけた間柄になることのない人々との交際に神経をすりへ

らさねばならない︒もうこんな生活はまっぴらだ︒﹀彼はふと腹に軽い痒みをおぼえた︒︵カフカ  七│八︶

  起き上がっても︑虫になった身体的変身がもたらすのは︑驚愕ではなく︑部屋を出なければならないという不愉快

な気分である︒部屋を出なければならないのに出られない︒虫という身体的な変身という非日常的な枠組みによっ

て︑出勤をしなければならない

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という義務による現実の輪郭が浮き彫りになっている︒グレーゴルが虫に変身した姿

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は︑ふだんの現実に比べれば︑微々たる﹁痒み﹂にすぎないのだ︒状況自体が過激であるがゆえに︑ふつうに応じよ

うとする心理的な反応は︑よけい生々しく映る︒もはや自分の考えや想いだけではなく︑表明する合図︑指示や相づ

ちなどを通して支えられる周りの世界との関連性が断ち切られた状態︑それは虫に変身しなくても︑誰にでも思い描

くことができる︒精神世界が︑自分の身体性から切り離されてもけっして閉ざされることはない︒一致していた身体

と精神が分離しても︑相手の身体性と精神世界は別の形で広がることになる︒﹃マス・イメージ論﹄で指摘されてい

るように︑グレーゴルを取り巻く両親と妹の行動や発言は︑身体としてのグレーゴル︑グレーゴルの心理世界︑それ

らを新しく見極めたうえで︑下されている︒

  カフカの﹃変身﹄で︑いちばん要めは︑妹のグレーテが突然心がわりするところだ︒

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カフカとクリスタル︵オニキ︶二一   それまで︑毒虫に変身した兄グレーゴルを愛しんでいた︒毎日食べ物を部屋に運んでやったし︑動きやすいように家具を片づけたり︑窓から外を眺めるのに椅子をよせてやった︒ほんとは妹のグレーテは虫に変わっちまった兄をみるのが哀しく気味がわるくて耐えがたいおもいなのだ︒兄のグレーゴルの方もできるだけ妹にみせまいと気をつかって︑麻の敷布をソファのうえにかぶせて︑身体をぜんぶもぐり込ませるようかくす︒虫に変身した兄と人間である妹とのあいだには︑一種の哀しい近親愛が呼吸している︒両親が薄気味わるがってグレーゴルの部屋に足を踏みいれないはじめから︑妹は虫の動きに潜む兄の人間の心を読むことができる︒  虫に変身したグレーゴルの意味は︑この世界がどう変成されているかという意味とおなじだ︒人間の心や判断や思考をもつのに︑虫の身体としてしか行為を表出できないひとつの状態が表象されているのだ︒︵吉本  七︶

  身体の不自然さが自分の精神世界に気づくきっかけを与え︑ようやくその世界が広がることもある︒﹁変身﹂では︑

自分における精神と身体をきれいに分離しようとする存在のもろさが描かれている︒そのもろさは︑﹁虫に変わっち

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まった

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﹂という綴りにも︑こうしたもろさへの驚愕が示唆されている︒グレーゴルの状況がもし読者に反応を及ぼす

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のであれば︑それは哀れんだり︑悲しんだりする同情の余裕を与えないほどの生々しさが働きかけているからであ

り︑身体と精神の相互性が︑どれだけ危ういものなのかを感づかせているからである︒この小説では︑体と心におけ

る境界線は定めようとすればするほどあやふやになってしまい︑むしろ精神と身体がかき混ぜられる流れに沿って物

語は展開されている︒そんな流れに逆らおうとするように︑起きてみて体全体が虫に変貌し︵ちまっ︶ても︑主人公

は︑いつもながらに出勤することにとらわれている︒会社員として家族の経済的な支えになっているという義務感

は︑虫の甲羅や足になった身体などより重々しい共同的な現実に根ざしている︒

  彼はまたもとの位置にからだをずらした︒︿この早起きというやつは﹀と彼は考えた︒︿すっかり人をばかにし

てしまう︒人間は睡眠をとる必要がある︒よそのセールスマンを見ていると︑まるで後宮︵ハレム︶の女どもの

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二二

ような自堕落さだ︒たとえばぼくが午前中駆けまわって集めた注文を本社に書き送ろうとして宿に戻ってくる

と︑この連中ときたらまだ悠々と朝ごはんをたべているといった始末だ︒うちの社でそんなことをやってみるが

いい︒たちどころにくびだ︒もっともその方がぼくにはよっぽど都合がいいかもしれないんだ︒両親のことを思

って我慢してはいるが︑そうでなければもうとっくに職をひいているところだ︒社長の前に堂々と進み出て︑僕

の腹のうちを残らずぶちまけてやるわけだ︒あいつ︑きっとたまげて机からころがり落ちたことだろう︒だいた

い︑あの机のかどに尻をのせて︑高いところから見くだしたように社員に物を言うのは奇妙なくせだ︒おまけに

社長は耳が遠いと来ているから︑こちらは社長の鼻先まで寄って行かなければならんのだ︒ところで希望はまだ

全然なくなったわけではない︒いつか両親の借金を社長に返すだけの金がたまったら││それにはまだ六︑七年

はかかるだろうが│そのときはきっとやってみせる︒そのときこそこの思いきった大手術をやるのだ︒ところで

さしあたりは︑まず起きることだ︒ぼくの汽車は五時に出るのだからな︒﹀︵九︶

  グレーゴルの精神世界は︑経済的な責任によってしか輪郭がはっきりしない︒未来の自分は︑現在の経済状況︑つ

まり家族に対する義務にかぎられ︑本人の思考には︑それ以外の領域に関する存在感は見当たらない︒ある意味︑自

分の身体は︑現在の経済状況をいずれ乗り越える希望を満たす器にすぎないからこそ︑グレーゴルは虫になった醜さ

にけっして驚かず︑むしろ平然としている︒ただこの

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体になってしまうと︑出勤できない︑上司に叱られかねない︑

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首にされかねない︵あるいは︑されてもいいという開き直り︶︑生活費がまかなえなくなってしまう︑という連想は

すべて職場に関する思考であり︑変貌の意味合いは︑経済的なレンズを通してしかピントが合わない︒こうした思考

は︑出勤さえすれば︑頭をよぎらずにすむ︒むしろ︑きわめて乏しかったのは︑今まで健康だったグレーゴルの精神

世界だったのではないだろうか︒そうだとすれば︑彼の精神世界がようやく広がるのは︑毒虫に身体が化けてからだ

とも言える︒自分の部屋から出れないグレーゴルは︑皮肉にも虫に変身したからこそ︑ようやく毎日の出勤にまつわ

る様々な感情や態度を思い巡らす余裕

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を持てるようになる︒虫の身体を通してこそ人間の精神世界が広がるという逆

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カフカとクリスタル︵オニキ︶二三 説的な設定には皮肉だけですまない生々しさが作用しているが︑それは︑精神と身体の境界線が薄れ︑両方における存在感が液状化してしまう境遇が︑虫になると言わないまでも︑日常生活においてそれほど異質なものではないからだ︒﹃マス・イメージ論﹄で︑こうした不可識別は︑身体性と精神性の融合化として捉えられている︒  虫という種は身体として制約し︑人間という種は精神を制約する︒すると虫と人間の合いの子が生まれるわけではない︒グレーゴルのなかで精神としてひろがってゆく人間の身体が︑身体としてひろがる虫の精神と出逢っているのだ︒そしてこのばあい虫の精神は虫の身体の振舞いとしてしか表出されない︒でもあくまで虫の精神なのだ︒たんに人間の精神をもった虫というのなら︑その虫の世界は寓喩の世界にしかすぎないだろう︒グレーゴルの虫への変身はとうてい寓喩ではない︒毒虫グレーゴルというまったく新しい種が生誕して︑それぞれの由緒である人間と虫との母斑をつけながら︑新しい心身の世界として実現していることになる︒わたしたちは毒虫グレーゴルの振舞いに痛ましさや︑もどかしさを感じる︒だがこの感じは︑いつかじぶんが体験したことがあったとか︑これからいつかきっと体験するにちがいない如実感をともなっている︒これが世界の変成感なのだ︒毒虫グレーゴルは虫になったいまでも︑ヴァイオリンの巧みな妹を︑来年は音楽学校に行かしてやろうと思ってい

る︒これは人間みたいな心の動きだが︑妹の足もとにすがりつき︑なにかよい食べ物をくれるよう頼みたい願望

は︑もう変成された虫の思

いなのだ︒そして兄の虫の姿をみるのが耐えがたい妹に︑麻の敷布をソファにかぶせ

てじぶんの身体をすっぽりかくし︑妹がかがみこんだとき視えないようにと思いやる︒それは人間と虫が滲透し

たアマルガム

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のものだ︒︵八︶

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  吉本がいう﹁世界の変成感﹂とはなんだろうか︒アマルガムという言葉が示すように︑混ざり具合

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の展開であり︑

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家族における関係性に根ざしている︒﹁夢ではなかった﹂と冒頭で綴られているように︑生々しくうつるのは︑ある

個人が虫になったという幻想的な設定ではなく︑かつてなかった新しい始まりに沿って対応しなければ崩壊してしま

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二四

う家族形態の変容である︒彼が指摘するように︑もっとも目を引くのは︑妹グレーテが︑とめどのない家族関係の変

化にとどめをさそうとする瞬間であり︑息子の形見として虫を記号化しようとする両親の試みすらも否定し︑名もな

いこのばけもの

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を捨てなければならないと彼女が宣言する場面である︒今や収入源もなく︑部屋を貸し出すほかない

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間借人からひんしゅくをかう妹を﹁救おう﹂と思い︑グレーゴルは冒頭の場面以来︑部屋をはじめて出ようとする︒

しかし︑妹を自分の部屋に連れ戻そうとする意図は︑虫の動作ではまったく伝わらない︒たとえ︑それが伝わったと

しても︑この時点で妹は︑グレーゴルの動きが信号であるかもしれないという可能性すら否定しており︑コミュニケ

ーションの設定自体を放棄している︒それは︑虫に変成した彼の精神世界の存在を認めることになるからであり︑彼

女をはじめ︑家族全体の崩壊を招きかねないからだ︒この怪物において﹁兄﹂の意図の所在をはっきりと拒絶してい

るのは︑妹だけであり︑主人公の始末

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は︑彼女を通してしかなされない︒注目すべき点は︑この始末の過程が︑行動

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ではなく︑まず発言によって引き起こされ︑﹁こいつ﹂という不定形名詞に切り替えることによって︑彼女が︑毒虫

からグレーゴルの名前を削ぎ落とす発話行為が︑物語の転機点となっていることである︒

  ﹁おとうさん︑おかあさん﹂妹が話のいとぐちに︑とんとテーブルをたたいて言った︒﹁こんな調子ではもうや

っていけないわ︒おとうさんおかあさんにはわからないかもしれないけれど︑わたしにはちゃんとわかっている

の︒こんなばけものみたいな虫の前で︑お兄さんの名を口にするのはいや︒だから︑こういうより仕方ないけ

ど︑こいつからはなれる算段をしなくちゃいけないことよ︒だって︑わたしたち︑こいつの世話をし︑こいつの

ことを我慢するのに︑人間としてできるかぎりのことはして来たわ︒だから︑今こいつを棄てたって︑これっぽ

っちもわるく言うひとなんかいないはずよ﹂︵七五│七六︶

  この変成物は妹にとって︑もはや人間でも兄でもなく︑﹁こいつ﹂にすぎない︒冒頭で目覚める朝まで経済的な貢

献度によって兄らしい身体性を持って振る舞えたのであれば︑家族全員が働かなければならない事態に陥ってしまう

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カフカとクリスタル︵オニキ︶二五 ほど﹁金食い虫﹂に変わりはてた彼はもはや兄ではない︒それだけでおさまれば︑不具者扱いですむはずだ︒しか

し︑彼はもはや人間でさえもないのに︑人間として振る舞おうとしているところが︑厄介なのだ︒人間でもないのに

人間のように振る舞おうとすること自体が問題であり︑無理な話なのだ︒人間性は︑身体のみでは定義できないかも

しれないが︑精神性だけで把握しようとすると怪物の存在も認めざるをえなくなる︒経済的な貢献をはじめ︑兄とし

ての身体性はとうになくしているのに︑妹を助けようとする行為の意図はもはや伝わらないし︑伝わったとしても︑

妹から拒絶反応しか引き起こさない︒﹁あれにわしらの言うことがわかったらなあ⁝⁝そうすれば︑あれと話し合い

で︑なんとかならんものでもないが﹂︵七七︶という父の嘆きは︑むしろ彼らの言葉を理解しているグレーゴルの視

点と重なるようだ︒コミュニケーションは︑単に理解だけではなく︑理解していることを理解してもらわなければな

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らない

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と成立しない︒こうした言語の記号性は︑共通した身体性を通じてしか成立しない︒妹は︑父親の曖昧な反応

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に対してもっと厳しくはっきり言う︒﹁でも︑あれがグレーゴルだなんて︑どうして思えるの︒もしほんとにグレー

ゴルだったら︑人間があんなけだものといっしょに暮らすことができないことくらい︑とっくにわかってくれている

はずよ︒そして自分から逃げ出したにちがいないわ﹂︒

  もしこのばけもの

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がまだ兄であるとすれば︑妹が受け入れられないのは︑虫の姿そのものではなく︑今まで

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兄だっ

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たという︑もはや過去形でしか成立しない身体性に依存している事態であり︑時間的な矛盾から発生する生々しい奇

妙な精神世界に引き込まれていく恐怖でもある︒﹁もしほんとにグレーゴルだったら

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⁝⁝とっくにわかってくれて

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⁝⁝自分から逃げ出したにちがいない﹂という彼女は︑グレーゴルの内面だけは保障し︑家族一員の記号的形見とし

て虫を守ろうとする構えの危うさを懸念している︒﹁グレーゴルだったら﹂という今まで

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の身体︑そこから変身して

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も﹁わかってくれて﹂いる毒虫の精神的見解︑そして最後に﹁毒虫兄﹂の身体として表出される行為に関する思弁の

展開には︑身体性が変容しても精神世界が乱されないというロジックの限界が示されている︒

  もちろん両親は︑虫がグレーゴルだと思うほどの妄想にはとらわれていない︒﹁あれ﹂が︑グレーゴルでないこと

ぐらい分かり切っている︒ただ︑グレーゴルだった

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という思い出が毒虫の中に詰まっている︒虫を形見として扱う自

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(8)

二六

分たちの振る舞いには︑追悼のような儀式的な役割が一時的にあったかもしれないが︑それが過ぎると現在における

日常生活に戻らなければならない家族としては︑この虫とグレーゴルのつながりを一切棄て切らなければならないの

だと妹は断言する︒﹁ばけものみたいな虫﹂とグレーゴルという名のつながりはきわめて恣意的であり︑今は指でし

か差せない﹁こいつ﹂という指示対象にすぎない︒いなくなった彼とこの虫を切り離すことによって︑形見としての

意義が失われ︑記号の価値すらもないのだと判断しないかぎり︑家族は滅んでしまう︒その考えに直面しないかぎ

り︑たとえ毒虫そのものが死滅しても︑その後︑怪物がグレーゴルだった

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︵あるいは︑グレーゴルが虫になっちまっ

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︶という観念にとらわれかねない︒虫が死んでしまってからでは︑死んだ虫といなくなったグレーゴルが︑共在し

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た過去として葬られる瞬間に混合され︑分離のきかないアマルガムに変成してしまい︑遅すぎるのだ︒身体である

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に︑過去のグレーゴルとのつながりを断ち切らないと︑この虫は︑厄介な形見︑つまりグレーゴルの記号として

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残っ

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てしまう︒テーブルをたたいて︑家族に呼び掛ける妹の発言は︑兄の身体的な変身が形見へと記号化される過程その

ものを食い止める発話行為にほかならない︒

  生きているのに身体としては認めない相手は︑矛盾しているだけに重く現実にのしかかる︒身体性を失いつつ︑記

号でしかない人物の存在を同時に認めるには︑分裂病的な視点が必要となる︒共存している相手が同時に形見である

という事態はありえない︒だから︑以前グレーゴルだった

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虫という見解は誤っているのだと妹は主張する︒虫という

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形をとったものに兄だった

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という過去の思い出をいくら置替えようとしたところで︑現在においては︑厄介な虫にす

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ぎないのだ︒﹁こいつ﹂としか呼べないほど家族の日常を超え︑日常現実を脅かすばけものであり︑グレーゴルは︑

もはや過去に葬られた固有名詞以外のなにものでもない︒時間の軸︵現在の虫/過去の兄︶に沿って︑家族は︑言語

でこの二つを切り離して整理しないと︑過去と現在の見分けのつかない世界から脱け出せず︑グレーゴルだった

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虫と

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心中しかねない︒﹃変身﹄で家族を取り巻く緊迫感は︑毒虫自体ではなく︑グレーゴルだった今の

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虫との共存生活が

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もたらす時間的な食い違いから生じる︒身体的な変身は︑同じ体と同じ共同体の中にも共存できない現在︵この

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ばけ

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もの︶と過去︵あの

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グレーゴル︶の秩序を乱し︑親や妹の現実感を引き裂いてしまう︒グレーゴルの始末は︑こうし

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カフカとクリスタル︵オニキ︶二七 た時間の経過の混乱にも始末をつけることでもある︒ばけものとしての現在︑それともグレーゴルとしての過去のいずれかを選ぶ事態に家族は狭まれ︑妹は家族の生存を優先し︑後者の選択を呼びかける︒  しかし︑グレーゴル本人は︑まだ生きており︑自分のことを形見とも思っていない︒むしろ彼は︑形見から﹁ばけもの﹂に無効化されていく宿命にもがくかのように︑結末のほうで︑間借人の侮蔑から妹を守ろうとする意図を表す行為として彼女に接しようとするが︑今まで兄だったという身体の記憶と︑実際今は虫でしかない身体の認識が同時に噛み合うわけがない︒身体としての振る舞いの意図とその受け止め方の間に生じる隔たりは﹃マス・イメージ論﹄

で分裂病的と見なされる︒

  カフカの﹃変身﹄に変成のイメージの現在性があるとすれば︑この変成が分裂病的であり︑しかもそれ以外で

は︑ほんの微かにずれても駄目だという点にある︒

  変成のイメージの分裂病的な特性︒これはいったい何だろう︒これをカフカの文学の理念に還元するのではな

く︑ここでは現在のイメージの一般性の方に転換させてしまいたいのだ︒徐々に一般化しようとする手つきをつ

かえば︑どこまでいっても人間の心や判断や感情をもちながら︑虫の身体としてしか行動できない状態︒⁝⁝虫

の身体をもって︑それを離れられない人間の心︑判断をもった存在︑どこまでもそういう存在としておかれる状

態を意味している︒この変成の内部では喋ったつもりでも︑音声が奇異にかすれていて︑自由にコミュニケート

することができない︒誰も意図の所在をほんとうには伝達できないのだ︒あるいはじぶんは人間のつもりで振舞

っているのに︑父親も母親も間借人も︑また潜在的には親愛感をもった妹も︑一匹の毒虫が這っている姿としか

みてはくれない︒つまり自在さを制約された状態なのだ︒わたしたちの想像力のなかで︑じぶんが虫になったと

ころを想定し︑もぐもぐと口を動かしているつもりなのに︑いっこうに人語にならないで焦燥にかられていると

ころとか︑格好いい姿で近寄っているつもりなのに︑たくさんの手足をもぞもぞ動かして歩いているだけのじぶ

んをおもい描いて︑虫になった人間の心という変成を実感しようとする︒

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二八   他者のイマジネエションや視線のなかでは一匹の虫として存在しており︑じぶんのイマジネエションのなかで

は思うがままに振舞い︑感ずるがままに感応している人間︒これが変成のイメージを語る第一条件だ︒だがそれ

だけではない︒つぎにこの状態にはもっと微妙な構造がある︒思うがままに振舞い︑感ずるがままに感応してい

るこの人間は︑じっさいは虫の身体表出としてしか行動していないのだ︒ここでもまた人間の心をもった虫とい

う寓喩の世界があるのではないし︑また虫が人間の心をもって振舞っている動物童話の世界があるわけでもな

い︒虫に変身したグレーゴル・ザムザが︑閉じこもっていた部屋をでて︑父親や母親が妹や間借人たちの視線が

とどく世界に入ってゆくと︑そこで分裂病的体感異常の世界が出現する︒︵一六│一七︶

  ﹃変身﹄を原点とし︑吉本が考察していく日本の八〇年代作品における分析で何よりも大事なのは︑こうした分裂

性が︑空間ではなく﹁現在﹂という時間

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の認識におけるズレによって生じていることである︒﹃マス・イメージ論﹄

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では︑カフカの﹃変身﹄は︑日本の八〇年代初期における現在性

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の原型と見なされ︑八〇年代作品は︑カフカの﹁分

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裂病的体感異常﹂が転化された変身

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だとも言える︒﹁カフカの文学の理念に還元するのではなく︑ここでは現在のイ

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メージの一般性の方に転換

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させてしまいたいのだ﹂と指摘し︑筒井康隆の﹃脱走と追跡のサンバ﹄や高橋源一郎の

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﹃さようなら︑ギャングたち﹄などのような作品から﹁カフカよりもっと

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現在的な﹂感覚を見いだすのは︑八〇年代

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東京が二〇世紀初期のプラハより進化したわけでも現代的だからでもなく︑八〇年代初期の作品で描かれる﹁分裂病

的体感異常﹂が︑もはや身体ではなく︑記号的設定からはじまっているからである︒八〇年代初期に注目を浴びた作

品の多くは︑小説の形式やメッセージ性が異なっていても︑日常生活の記号性が生活様式の設定に組み込まれ︑その

中から再び身体性が構築される傾向は共通している︒一九八一年の群像新人文学賞応募作品として注目された﹃さよ

うなら︑ギャングたち﹄で︑名前をつける﹁本人﹂とつけられた﹁名前﹂の喧嘩が描かれるが︑そこには︑記号が差

すものに対して歯向かう記号の身体性が︑綴られている︒

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カフカとクリスタル︵オニキ︶二九 ﹁ぼくの名前はすごくいいやつだよ﹂とそいつは言っていた︒そいつはそいつの﹁すごくいいやつ﹂に殺されてしまった︒それはもう滅茶苦茶に残酷な殺され方だった︒その死躰

0

  がかつて人間だったとは誰にも信じられないくらいだった︒︵高橋一六︑傍点筆者︶

0

  こうした展開は︑﹁かつて人間だったと信じられない﹂と一般化された非人称的な視点は︑﹁虫﹂に変身したグレー

ゴルに対応する家族の範囲を超えている︒さらに︑﹁かつて人間だった﹂と書かれているように︑人間たらしめてい

るのは人間そのものではなく︑記号にすぎないという前提は︑明らかに︑かつて人間だったグレーゴルの状況とは︑

まったく異なる︒差すものと差されるものの関係が記号において暫定的であればあるほど︑浮き彫りになる身体性

は︑記号なき身体ではなく︑カフカの﹁毒虫﹂という身体にも還元できず︑ただ﹁滅茶苦茶に残酷﹂という漠然とし

た副詞と形容詞でしか表しようのないかたまりなのだ︒

  こうした文章は︑記号の自明性を問う脱構築的な記号論でさえ解釈しきれない︒ジョナサン・カラーの﹃ディコン

ストラクション﹄︵一九八二年︶でも指摘されているが︑記号論自体によってなされる批判的視点は︑﹁まとまった﹂

声を発する身体なくしては︑成立しない︒分裂した身体性を受け入れた上での文章は︑どう書けるのだろうか︒また

どう解釈できるのだろうか︒﹃さようなら︑ギャングたち﹄で示唆されるように︑そこには︑記号なしで体を統一さ

せる方法などなく︑﹁体﹂という普遍的な漢字すら当てはまらず︑﹁人間だったとは誰にも信じられないくらい﹂とい

う漠然とした身体の﹁躰﹂という表現でしか括りきれない︒記号の自明性︑それは象徴や想像力の世界を表している

という類いの問題ではなく︑身体の統一性そのものを脅かしているのだ︒日本の八〇年代初期で私たちが注目すべき

点は︑こうした感覚が︑発見されるのではなく︑出発点となっていることだ︒例えば︑﹃マス・イメージ論﹄の﹁変

成論﹂で取り上げられる筒井康隆︑村上春樹や高橋源一郎と︑彼らに影響を与えたと言われている一世代前の現代ア

メリカ文学作家と比べあわせてみると︑前者の特異性は︑よりはっきり見えてくる︒フィリップ・K・ディックやト

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三〇

マス・ピンチョンなどが描くパラノイア的感覚は︑常に実証すべき

0 0

対象となっているだけにまだ疑惑の余地を踏み出

0

していない︒ピンチョンの﹃重力の虹﹄︵一九七四年︶でも︑物語そのものは終わりのほうに向けて破綻しながら︑

主人公とされているタイロン・スロスロップ自身が散らばり︑﹁概念としてすら﹂︵

even as a concept ( 740 )

︶成り立

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たなくなった始末

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が強調されている︒こうした散らばった身体性は︑日本の小説だけではなく︑﹃マス・イメージ論﹄

0

をはじめ︑八〇年代の現代思想においても前提

0

として展開されている︒

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﹃日本近代文学の起源﹄と身体の不在

  一九八〇年に刊行された﹃日本近代文学の起源﹄で︑柄谷行人は︑近代文学の起源を文体の問題として取り上げて

いる︒そこでは︑文体のスタイルそのものの性質ではなく︑漱石︑鷗外や子規のような文学者が︑いかに

0 0

文体にとら

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われたかという視点で︑明治文学の系譜を捉え直している︒内面の確立における歪曲は︑西欧思想に対する距離感よ

り︑前近代の文学が覆い被さってしまう時代錯誤から生じるものであり︑近代と前近代の違いは︑書き方

0 0

の問題とな

0

っている︒﹃日本近代文学の起源﹄では︑近代文学の作家にとって︑前近代が﹁重く﹂あるいは﹁硬く﹂のしかかる

のは︑江戸時代や﹁徳川文学﹂に内在している思想そのものではなく︑文体であり︑その文体こそが身体的な表れで

あることが繰り返し強調されている︒身体的な文体の縛りに関して柄谷は︑二葉亭四迷の創作をこのように分析して

いる︒

  たとえば︑ロシア文学に震撼されていた二葉亭四迷は︑﹃浮雲﹄第一編においてなかば人情本や馬琴の文体に

押し流されざるをえなかった︒彼がすでにどんなに﹁内面的﹂であったとしても︑いわば手

がそれを裏切るの

0

だ︒つまり︑表現さるべき﹁内面﹂や﹁自己﹂がアプリオリになるのではなく︑それは﹁言文一致﹂という一つ

の物質的形式の確立において︑はじめて自明のものとしてあらわれたのである︒︵柄谷  一五九︶

(13)

カフカとクリスタル︵オニキ︶三一   二葉亭四迷の書く﹁手﹂が﹁内面的な﹂意図に逆らってしまうという柄谷の考察と︑﹃マス・イメージ論﹄で﹁一

般化しようとする手つきをつかえば︑どこまでいっても人間の心や判断や感情を持ちながら︑虫の身体としてしか行

動できない﹂分裂病的現在性を重ね合わせてみると︑八〇年代初期における奇妙な感覚の輪郭が少しばかり見えてく

る︒たとえ﹁内面性﹂を持っているとしても︑身体としての文章がそれを許さない︒ここで︑人間=西欧︑虫=非西

欧という単純な図式に置き替えてもあまり意味がない︒大事なのは︑記号︑あるいは思想にしても︑それらを論じる

視点が︑それ以前

0 0 0

の身体性を遡及的に呼び戻して得られるという仕組みで支えられていることだ︒﹃マス・イメージ

0

論﹄の八〇年代初期の小説であっても︑﹃日本近代文学の起源﹄の正岡子規や国木田独歩の文学であっても︑過去の

文学における身体性を切り離す文体の﹁発見﹂が強調されている︒手に﹁裏切﹂られずにすむには︑手を切らなけれ

ばならない︒その代わり︑他のものが手に入るはずだ︒このような取引に近い感覚を持って︑書き手は︑記憶喪失的

な文体を編み出さなければならず︑もっとも著しい例として︑柄谷は国木田独歩の作品を取り上げているが︑﹁徳川

文学﹂の洗練も受けていない独歩の斬新さは︑翻訳をはじめ︑書き言葉でも話し言葉でもない︑どっちつかずの言説

空間を編み出したことから見出される︒

  しかし︑大事なのは︑﹁頭﹂ではなく︑﹁手﹂である⁝⁝﹃武蔵野﹄で彼がくりかえして引用するのは︑ツルゲ

ーネフの風景描写であり︑しかも︑それは二葉亭四迷の翻訳にほかならなかった︒

  風景は新たな書記表現︵エクリチュール︶によってのみ可能だった︒﹃浮雲﹄︵明治二一年︶や﹃舞姫﹄︵明治

二三年︶に比べて目立つのは︑独歩がすでに﹁文﹂との距離をもたないようにみえることである︒彼はすでに新

たな﹁文﹂に慣れている︒この慣れは︑べつの観点から言えば︑彼が﹁表現﹂しうる﹁内面﹂をもったというこ

とを意味する︒彼において︑言葉はもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく︑﹁内面﹂に深く降りてい

る︒というよりも︑そのようなときにはじめて﹁内面﹂が︑直接的で現前的なもの

0 0 0 0 0

として自立するのである︒同

0

時に︑このときから﹁内面﹂の起源が忘却されるのだ︒︵八六︶

(14)

三二   現前的なものとして﹁内面﹂を当然のように思わせるためには︑それまでに至る経由と起源が忘れ去らなければな

らない︒問題とされているのは︑書く行為における無意識的な作用であり︑その様々な要素を明治文学において解明

することが︑﹃日本近代文学の起源﹄の主題となっている︒その中でもっとも強調される要素は︑前近代的な文体の

身体性の逸脱を通して︑明治文学における﹁内面﹂の言説空間が切り開かれていくことである︒

  旧い﹁身体的﹂文を破棄して獲得される独歩の﹁内面﹂は︑﹃マス・イメージ論﹄でも分析されたように︑カフカ

の﹃変身﹄で人間の身体を失って拡張されるグレゴールの精神世界と似通っている傾向がある︒独歩の言う﹁従来の

我文壇とは殆んど没関係の着想・取扱・作風を以て余が製作も初めた事﹂であっても︑﹃変身﹄のグレーゴルにして

も︑両者の精神世界は︑今まで持っていた身体性をないがしろにしなければ広がらないという意味で︑共通してい

る︒文体であれ︑人間という種の身体であれ︑過去の形態における身体性をしりぞける覚悟がなければ︑﹁現前的な

内面﹂はけっして浮上しない︒しかし︑何よりも奇妙なのは︑こうした内面を獲得する手段として求められるのが︑

文章の高度化ではなく︑むしろなんの装飾もない純朴さ

0 0

だということである︒正岡子規の﹁写生﹂感覚に関して︑柄

0

谷は﹁﹁写生﹂は︑形象とリズムとしての身体から解放されたとき︑はじめて可能だ﹂と内面や透明性に導く過程を

指摘するが︑なにかを求めると同時になにか

0 0

から逃げなければならない両義性を考えると︑もう一つ見えてくるもの

0

がある︒それは︑﹁徳川文学﹂などのような前近代から受け継がれる文体の重さや固さが︑伝統の土着性ではなく︑

むしろ﹁洗練﹂の表れとなっていることであり︑その洗練さこそが︑拒まれているということである︒透明性と内面

を求めるという意味で共通しているとはいえ︑独歩や子規が︑ルソーのような思想家とまったく異なるのは︑﹁自然﹂

を脅かす近代の理性に対して危惧感をほとんど抱いていないことである︒彼らが疑っている高度化のベクトルは︑ル

ソーが警戒する近代における合理化の将来ではなく︑﹁伝統﹂の縛りという過去に向けられる︒かつての文体は高浜

虚子が述べるように﹁鋳型﹂であり︑伝統的であるが故に︑韻律や形象などに沿って制度化された身体的

0 0

きめ細かさ

0

から解放される領域として﹁写生﹂が芽生える︒﹃古事記﹄の一律化を論じる吉本隆明の﹁初期歌謡論﹂に沿って︑

柄谷は︑近代︑そして江戸文学などよりはるか昔に研ぎ澄まされた文体の高度化に焦点を合わせ︑その文体から近代

(15)

カフカとクリスタル︵オニキ︶三三 の透明性を妨げる身体性を見出している︒こうした身体性に縛られながらも変形していく明治以後の文体は︑西欧思想に沿って高度化された﹁意識﹂でもなく︑透明性を示す﹁音声的﹂な言文で統一されるわけでもない︒二葉亭四迷の﹃浮雲﹄で前近代の文体に頼ってしまう傾向もあれば︑国木田独歩の﹃武蔵野﹄ではロシア文学の風景描写の文体が垣間見られる︒前近代からのしかかる文体にしても︑西欧思想の翻訳作品を通して編み出される﹁内面﹂にして

も︑日本近代文学は︑身体性がアマルガム化されているという特徴を持っている︒明治から戦後にかけて日本の文学

を辿ってみると︑身体性が︑時には前近代における文体︑時には西欧の思想という水準の揺れに沿って変成され︑構

築されるのであれば︑こうした水準は八〇年代に入ると消滅しかけている︒そして︑編み出されるのは︑口語にもな

らないほどに純朴

0

な言説空間であり︑そのベクトルは︑身体ではなく︑記号的水準によって測られていくことにな

0

る︒

八〇年代初期の日本文学

  私たちは︑こうした純朴さから派生された文体として八〇年代初期の文学を捉え直してみてもいいのでないだろう

か︒例えば︑﹃なんとなく︑クリスタル﹄から﹃さようなら︑ギャングたち﹄や﹃羊をめぐる冒険﹄のどれを取り上

げても︑とても今までの純文学の水準を満たしているとは言えない﹁単純な﹂な文体で書かれている︒それらの書き

方に着眼すると︑もはや七〇年代には︑﹁形象化﹂された純文学の重力からの逸脱が︑江戸文学やそれ以前の国文学

を排除する子規や独歩の近代性と類似していることがわかる︒しかし︑八〇年代において違うのは︑言葉が︑もはや

内面のような透明性に向かって形成されるものではなく︑記号としてうごめいていることだ︒

  ﹃なんとなく︑クリスタル﹄のあとがきに述べられているように︑江藤淳は︑八〇年代初期の東京を﹁記号の集積﹂

と捉えたアプローチを評価している︒

(16)

三四   いまの東京のいったいどこに︑都市空間などというものがあるのだろうか︒そんなものがもはや存在していな

いことを︑完膚なきまでに残酷に描き切ったところが︑田中康夫の﹃なんとなく︑クリスタル﹄の新鮮さではな

かったのか︒田中君は︑東京の都市空間が崩壊し︑単なる記号の集積と化したということを見て取り︑その記号

の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで︑辛くもあの小説を社会化することに成功しているではないか

︵江藤  二二四︶

  都市空間の頽廃とは︑要するに﹁内面﹂の頽廃でもあるのだ︒﹃日本近代文学の起源﹄で︑柄谷は︑明治文学にお

ける﹁内面﹂の形成を追求するが︑もはや︑八〇年代初期の東京には︑そのような﹁内面﹂を反映させるような風景

はないようだ︒そういう意味で︑﹃なんとなく︑クリスタル﹄において江藤淳が指摘した﹁記号の集積化﹂は︑都会

のみならず︑明治以降の近代文学の系譜に沿って﹁発達﹂した内面を︑すっぽり入れ替えた言説空間として捉えても

いいのかもしれない︒そこには﹁内面﹂から得られる﹁自在さ﹂に代わるものはもちろんない︒そして﹁風景﹂のよ

うなありのまま

0 0 0 0

を目指す文体は内面の透明性より︑記号による装飾が重んじられる傾向が芽生えるようだ︒

0

  ﹃なんとなく︑クリスタル﹄の主人公に言わせてもらえば︑﹁風景﹂というものは︑透明な内面ではなく︑﹁かった

るい﹂気分

0

にしかつながらない︒部屋を出よう︑または出まいか︑と彼女が迷う際に︑大学へ行く﹁ふだん﹂の在り

0

方は︑簡単な文体で語られ︑自分が没頭している流行や消費のブランドや造語はすべて省かれている︒もっとも現実

的な描写は︑もっともつまらない言語でつまらなく語られている︒

  いつもなら︑窓の外には渋谷のビル街が見えるというのに︑今日はもや

0

がかかっている︒東邦生命のビルも︑

0

第一勧銀の事務センターのビルも︑薄ぼんやりとしか見えない︒

  ベッドから少しばかり体を乗り出して︑真下の道路を見てみる︒

  道路が濡れている︒

(17)

カフカとクリスタル︵オニキ︶三五   雨が降っている︒

  なにをするのも︑かったるくなってきてしまう︒︵田中  八│一〇︶

  主人公の由利に映る風景の輪郭は濁っており︑ぼやけているからこそ︑なにもする気にならない︒このような脱力

感には︑日本近代文学が目指していた透明性の欺瞞と矛盾が暗示されているようだ︒近代文学における透明性は︑要

するに︑実際なにもせずにすむ観点なくしては︑手に入らない︒言葉が透明な媒体なのであれば︑それは︑同時に言

葉というものが︑なにもしないものだと認めなければならない︒しかし︑主人公︑そして彼女を取り巻く東京人が求

めているのは︑むしろ言葉における物質性であり︑何よりも言葉から求められているのは︑それによって動かされた

0 0 0 0 0

ことである︒このような効果を与えるのは︑目の前に現れる風景などではなく︑ブランドや洋楽をはじめ︑外来語

0

によってほのめかされる記号的な世界である︒冒頭場面で︑主人公の由利を﹁揺り﹂動かすように起こしているの

は︑すべて海外にまつわる記号である︒

  ベッドに寝たまま︑手を伸ばして横のステレオをつけてみる︒目覚めたばかりだから︑ターン・テーブルにレ

コードを載せるのも︑なんとなく億劫な気がしてしまう︒

  それで︑FENにプリセットしたチューナーのボタンを押してみる︒なんと朝から︑ウィリー・ネルソンの

﹁ムーンライト・イン・バーモント﹂が流れている︒

  でも︑肝心のその時刻が読み取れない︒部屋が広すぎて読みとれない︑という訳ではない︒ひとえに︑私の視

力が悪いためだ︒目を細めてみるが︑どうにもならない︒〇・〇六の視力なのだから︑これも仕方がない︒︵六

│八︶

  記号における意識は緻密なのに︑周りの﹁風景﹂は読み取れない彼女は︑常に自分を作動させる記号を求めてい

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三六

る︒主人公は︑FEN番組から流れる曲を確認してから﹁部屋の端に置いてある︑ライティング・デスクの方に︑目

をやってみる﹂と周りをうかがうが︑﹁ライティング・デスク﹂に関する注記欄には︑﹁ライティング・デスクで書い

ているのだと思い込むと︑机で書くよりも上手な文章が書けるような気がしてきます︒﹂︵七︶という皮肉なコメンタ

リーが入っている︒実際﹁机﹂と﹁ライティング・デスク﹂が同じものを差しているのにもかかわらず︑﹁ライティ

ング・デスク﹂と名づけるほうが効果的だと解釈されている︒こうした外来語は︑上手な文章が実現されるかどうか

ということではなく︑そういう﹁気﹂になるかどうかという水準に沿って使われ︑単に当時の大学生を取り巻く商品

や場所を差す固有名詞ではなく︑﹁気分を動かす﹂体系の記号として主人公の意識の一部に納まっているが︑﹁モチベ

ーション﹂を与えているわけではない︒なにかをするような気分は︑実際なにかをする行動にはつながらない︒記号

は︑なにかを成し遂げるという実存的な結果をもたらすことではなく︑やる気になる

0 0 0

という状態を促すだけで完結し

0

ているからこそ︑身体的なのだと言える︒﹁ライティング・デスク﹂というものが実際書く行為をもたらすのであれ

ば︑それはもはや記号ではなく︑机という母語ですましてもよい実存的なものとなる︒﹁気分﹂に留めてくれる言葉

ほど身体的なのだ︒そして︑なんとなく︑という判然としない副詞でしか形容できないからこそ︑こうした言葉は︑

身体化されたかたまりとして︑自分の中に﹁ような気がして﹂という心理世界で停まりつつ︑その世界を揺り動す︒

大事なのは︑それが目的や成果のような将来性も排除された﹁現在﹂における意識に絶え間なく還元されていること

だ︒主人公の由利が部屋をなかなか出ないのは︑﹃変身﹄のグレーゴルと同じように︑実際外へ出ると︑こうした記

号の身体性と入れ替わって︑自分の身体を認めなければならないからだ︒

  しかし︑由利の場合︑ライティング・デスクという文章が書けるような気がする記号もあれば︑部屋を出る気

にさ

0

せる記号も用意されている︒そしてその気にさえなればいいのであるという意味で︑特に部屋を出る必要もなくな

る︒身体的な記号の巧妙性は︑どれだけ停滞感を与えるかによって測られる︒ラジオから流れる洋楽をはじめ︑評価

の水準となるのは︑その気にさせる

0 0 0 0

という潜在力であり︑もはや一九八〇年には消滅していると述べる江藤の﹁都市

0

空間﹂は︑かつて元々都会的活動や開発によって︑位置づけられたかもしれないが︑﹁記号の集積と化した﹂東京に

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カフカとクリスタル︵オニキ︶三七 は︑別の空間が約束され︑そこには︑自らの身体がいなくてもいいという解放感を与える︒例えば︑由利は︑一昔前のフォーク・ソングや生活水準に嫌悪を抱くが︑それは︑言葉を通して自らの身体性を表す感覚が馴染みにくいからだ︒﹁四畳半ソング﹂の注釈で﹁以前流行だった汗のにおいがしてきそうなフォーク・ソング﹂︵一二一︶と記述され

ているように︑自分の﹁汗﹂からにじみ出る表現は拒まれる︒望ましいのは︑身体を表す言葉ではなく︑記号として

の身体なのだ︒彼女は︑米軍向けのFENというラジオ局を聴いているが︑それは︑米軍自体が︑軍事組織として暴

力を﹁身体化﹂させた記号であるのと共に︑そこから発信された曲や記号が﹁朝は︑もうちょっとタイトな音が流れ

ていた方が︑ハップになれる﹂という感覚に応じて︑自分を﹁動かす﹂言語の身体化を示唆しているからである︒

  自らの身体性を意識する唯一の場面においても︑結局︑相手の身体を記号化しないと見えない展開を以てしかすす

まない︒ようやく部屋を出て︑表参道を歩く由利がまず出会う相手は︑﹁クォーター﹂とも呼べないほど様々な国の

祖先を持つ奈緒という知り合いである︒ハナエ・モリ・ビルなどと日本名のものでさえもカタカナで綴られている表

参道は︑一日中部屋で思い耽っていた記号系と異なる次元の舞台を差し︑主人公の由利はそこで︑身体的

0 0

に融合化さ

0

れた日本人に出会い︑ミックスされた場所でミックスの人と話して︑はじめて自らの身体性を自覚することになる︒

  同じモデル・クラブに入っている奈緒は︑今年十七になったばかりだ︒パパの方からロシアの血をクォータ

ー︑ママの方からベルギーの血をクォーターもらった︑﹁日本人﹂奈緒は︑細身のジーンズにクリス・エバート

のマークのついた︑テニス用のタンク・トップを着ていた︒

  モデルの仕事をしている子には︑直美もそうだけれど︑普段着にジーンズをはく子が多い︒私は︑スリムなス

トレート・ジーンズをはきこなすだけの自信がない︒それで︑一本も持っていなかった︑私のスノッブな性格

が︑ジーンズなんてと思わせているところも多分にあった︵六〇︶︒

  服装という共通記号を通して普段ほかの知り合いや友人との差異性を測る由利は︑ジーンズをはく奈緒に対して他

(20)

三八

の水準を通して自分の位置を探り︑﹁スノッブ﹂という階級的性格で埋め合わそうとするが︑それではもの足りない

ので︑彼女は︑受け継がれた身体性の違いを強調し︑﹁金色のうぶ毛がはえた奈緒には︑ちょっと日本人と違った体

臭がにおう﹂ことに気づく︒部屋にいる間︑記号的身体に没頭しているが︑街へ出ると突発的に自らの身体性を自覚

させられるという

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価値転倒が起きる︒奈緒と出会う場面で︑由利は﹁ジーンズをはきこな﹂せない自分を肯定するた

0

めに﹁ハーフ﹂でも﹁クォーター﹂でもない﹁日本人﹂としての身体性から絶対的な価値を見出す︒消費世界を支え

ている記号をすべて剝がしとっても疑いなく残る国民性は︑﹁ちょっと日本人と違った﹂毛の色と体臭の差異性を通

して︑身体に帰属できるかもしれないが︑ここで奇妙な矛盾が発生する︒﹁日本人﹂の身体性が成り立つには︑現在

ではなく今まで

0 0

継続されてきた﹁血筋﹂という過去のベクトルが働きかけ︑現在の消費にまつわる記号感覚が麻痺さ

0

れなければならない︒さらに︑彼女の帰属意識が家系という枠ではなく︑﹁日本人﹂という国民の次元で捉えられる

のもきわめて示唆的である︒なぜならば︑現代の記号感覚が市民的なレベルで共有されているかぎり︑それを無効化

する身体性も︑家系や血縁を超越した国民という広い規模で通用しなければならないからだ︒一時的であっても︑江

藤が言うような現代東京における記号の集積化を遮るには︑﹁クォーター﹂や﹁ハーフ﹂などと国際的な細分化に対

立できる国民的な規模に自分の身体性を拡張しなければならない︒大事なのは︑絶対的に﹁日本人﹂であると自覚す

る瞬間に﹁記号的身体﹂の動きが遮断されてしまうという仕組みである︒日常生活において︑日本人だという自覚は

意識下でなければ︑現在に満ち溢れた消費ができない︒﹁アイデンティティーのない﹂奈緒にモデル仕事が合うのは︑

﹁アイデンティティーを考える必要がない﹂からだという由利の見解は︑実は自分自身にも当てはまる︒彼女は︑た

だ﹁﹁なんとなく気分のいい生活﹂をするために︑自由になるお金を得ようと﹂︵六六│六八︶してモデルになったと

主張するが︑その解放感は︑自分自身﹁日本人﹂としての身体性をほとんど考えずにすむ余裕から来るものであり︑

その心理には︑経済的な構造がある︒﹁日本人﹂だという自覚が︑消費生活における﹁気分﹂の良さを害してしまう

のは︑実際の身体性に直面すると記号としての身体化が停滞してしまうからである︒

  こうした記号的身体は︑﹃さようなら︑ギャングたち﹄で︑さらにもっと極端な形で捉えられている︒無名の男と

(21)

カフカとクリスタル︵オニキ︶三九 女が︑ベッドの上でキスをする際に︑﹁名前なんかなくたって構わないと思っていた﹂男は突然困惑してしまい︑﹁ど うしたの︑あなた?  わたしをきらいになったの?﹂と驚く彼女に︑彼はカタカナの英語で﹁﹃女よ︵マイ・ラブリ

ー︶﹄って言うと︑ぞっとするんだ︒あまり抽象的すぎて︑インポになっちゃいそうだ﹂と答える︒言葉自体が︑自

らの身体的本能を遮断してしまうほどの勢力が秘められていることがわかると︑二人は︑お互いに名前をつける︒

  ﹁こうしよう﹂と男は言った︒

  ﹁君がぼくにふさわしい名前を考えて︑ぼくにつけるんだ︒ぼくは君のために︑君にぴったりの名前をつけて

あげる︒ぼくたち専用の名前だよ︒どうだい?﹂

  ﹁いい︑いい︑とってもいいわ︒あんた︑さいこうよ﹂

  二人はお互いに命名しあった︒

  その名前は恋人たちの間の秘密だったから︑わたしたちにはわからない︒

  男は女の名前を呼んだ︒

  女は男の名前を呼んだ︒

  ﹁ほら︑抽象的でも一般的でもない︒君の躰にぴったりだ﹂と男はパンツを脱ぎながら言った︒

  女は男の名前を口の中でころがして︑うっとりしていた︒

  ﹁さあ!﹂と女は号令をかけた︒

  ﹁気分を出してもう一度よ!﹂︵高橋  二〇︶

  強調されているのは︑名前そのものではなく︑この名前をつけるという行為であり︑その発話のみによってなにか

がなされて

0 0 0

いるという共通認識である︒男と女が交わす﹁号令﹂や﹁命名﹂などのような発話自体が一つの行為だと

0

いう見解は︑J・L・オースティンの考察したパーフォーマティブと多少共通しているかもしれない︒しかし︑﹃さ

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四〇

ようなら︑ギャングたち﹄のような作品からは︑パーフォーマティブ的概念を覆す傾向も読み取れる︒オースティン

におけるパーフォーマティブは︑会話の設定が非現実的であればあるほど有効性を持たないという前提に基づき︑詩

をはじめ︑日常現実からかけ離れた発話は︑﹁常軌を逸した表現﹂︵

outrageous statements

︶と定義されている︒オー

スティンによると︑約束や謝罪にしても︑それがいかに実現されるかという水準に沿って︑発話の﹁幸運性﹂が測ら

れるが︑こうした尺度は︑﹃さようなら︑ギャングたち﹄では覆されていると言ってもいい︒それは︑この小説が非

現実的だからという問題ではなく︑発話の﹁幸運性﹂︑つまり﹁号令﹂や﹁命名﹂のような発言がなにかをなし遂げ

たかどうか判明する必然性が︑﹃さようなら︑ギャングたち﹄の言語的感覚からすっぽり抜けているからだ︒また︑

﹃なんとなく︑クリスタル﹄で﹁上手な文章が書けるような気

になる﹂ライティング・デスクや﹁ハップに﹂してく

0

れる洋楽アーティストの曲でも︑実際そうしてくれるかどうかと判明する意図すらない︒もはや発話の﹁幸運性﹂を

問わない八〇年代初期の日本文学からは︑もっと極端な側面が見えてくる︒発話行為の実効性も確認できないほど見

えない領域で交わされる記号によってなにか果たされているのだとしても︑﹁秘密だったから︑わたしたちにはわか

らない﹂と記述されているように︑発言の実効性など元から実証するすべがないところからすべてが始まっている︒

そして﹁気分を出してもう一度よ!﹂という呼び掛けでさえも場面の幕を閉じる役割しか果たしていない︒動かされ

るような気分を保つには︑できるだけ動かないほうがいい︒ある発話が行為として﹁常軌を逸﹂しているのか︑ある

いは﹁幸運﹂をもたらすのかまったくわからないまま︑ただ︑その言葉に動かされるという前提を持って待機するよ

うな姿勢でしか言語が機能しない︒言葉に対して持つべき反射神経などもともとないのだ︒そんな感覚を通して︑八

〇年代初期の作品は綴られ︑言語の身体性が根本的に問い直されているようだ︒

参考文献

柄谷行人﹃日本近代文学の起源﹄講談社︑一九八八年︒

高橋源一郎﹃さようなら︑ギャングたち﹄講談社︑一九八二年︒

(23)

カフカとクリスタル︵オニキ︶四一 田中康夫﹃なんとなく︑クリスタル﹄新潮社︑一九八五年︒吉本隆明﹃マス・イメージ論﹄福武文庫︑一九八八年︒フランツ・カフカ﹃変身・判決・断食芸人  ほか二編﹄高安国世訳︑講談社︑一九七一年

Austin J. L. How to Do Things with W o rds. Oxfor d :   Oxfor d UP , 1962 .

Pynchon Thomas. Gravity ʼs Rainbow . NY :   V iking, 1973 .

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