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「教材研究」とは何か 一教材構造論一
教育学研究室 高 久 清 吉
1.「何か」の問いの必要
教育の実際にたずさわる人々の間で「教材研究」が問題とされる場合,その吟味は,
「教材研究をいかにするか」,「教材研究をどうするか」の問いを中心として進められるの が普通のようである。しかし,この「いかにするか」の問いは,教材研究とは「何をする ことなのか」の問いと結びついていなければならない。教材研究とは「何か」の問いに対 e e
する答えが前提となり,ささえとなってはじめて,教材研究を「いかに」するかの問いに の o ●
対する筋道の立った答えが出てくる。
教材研究に限らず,教育上のどのような問題についても,「いかに」と「何か」の二つ の問いの結びつきは欠かせない。 「いかに」の問いとその答えが首尾一貫したまとまり
(体系)と徹底さをもつべきだとするなら,この問いは,いつでも,「何か」の問いに対 (注1)
する答えによって方向づけられていなければならないからである。 ただ,ここで,とく に教材研究について,二つの問いが結び合うことの必要を強調するのは次のような理由に
よる。
第一は,r教材研究」の意味が案外にはっきりしていないということである。「教材研 究」の用語は古い。長い間にわたって使われていることばであるだけに,教材研究に関す
る一応の共通理解はできあがっているかのように思われる。しかし,改まって,「教材研 究とは何をすることなのか」の問いに正しく答えるとなると,あるいは,常識の域を出な い人たちが少なくないのではないだろうか。もし,そうだとしたら,「教材研究をいかに 進めるか」の問いに対する答えと実践もまた,あいまいのままにとどまることとなるだろ
う。
第二は,今日の教授研究の動向からみて,教材研究とは何かを改めて問い直さざるをえ
ない必要に当面しているということである。大きく世界的にみて,この十数年来の教授研
究の動きは,「いかに」(方法)から「何を」(内容)への重点移動として特色づけられ
る。二十世紀萌半の新教育運動の特色は,これを教授研究の面からみれば,「いかに」を
中心的問いとした改革翻であって,「何を」という内容に向けられた問いは背景へと押 しやられていた。ところが,二十世紀後半にはいると,「いかに」に代って「何を」の問 いがしだいに前景へと押し出されてきている。近ごろ,教授内容の「現代化」,「構造化」,
「精選」などが教授研究の主要な問題としてクローズアップされている底には,このよう な研究動向が横たわっているわけである。
内容の現代化∴構造化,精選などの問題はいずれも,授業のための教材研究とじかに結 びついてくる問題であるし,また,そのような問題として受けとめられなければならない であろう。とすれば,今Hにおける教材研究のあり方は,このような教授研究の新しい動 きを念頭において,改めて再検討の必要に迫られていることになる。
III.教材研究の三つの観点
教材研究の意味をもっとも広くとれば,それは授業のための事前準備いっさいを含むこ とになるだろう。しかし,これではあまりにも広義となりすぎ,教材研究が何をすること なのか,かえってぼやけてくる。そこで,その意味をしぼっていけば,事前準備のうち,
授業の教授学的吟味と方法論的吟味があげられる。教授学的吟味とは授業内容に関する吟 味であり,方法論的吟味とは教授および学習の実際の方法に関する吟味である。方法の吟 味は内容の吟味と切り離せないから,一般的にいえば,本来の教材研究とは,方法論的吟 昧をも含め,授業についての教授学的吟味であるということになる。
ところで,教材研究の意味を上のようにいいかえても,この研究が何をすることなのか はまだはっきりしない。このことをはっきりさせるには,教材吟味の観点を分類するのが 効果的である。まず,この分類の根拠を明らかにするため,文化財と呼ばれるものの性格 を問題としたい。教材とは教育的意図によってとくに選び出された文化財であるのだか ら,教材吟味の観点を導き出すうえで,その手がかりを文化財がもっている性格に求める ことにはじゅうぶんの意味がある。
文化財は次のような三つの性格をもっている。
1.客観的,対象的性格 文化財はいっか,だれかによって創造されたものである。
それにもかかわらず,これをつくり出した人間の手を離れ,それ自体として対象的に存在 するところに,文化財と称されるものの特性がある。対象的に存在するのは,客観的に妥 当する真理性をもっているからである。
2.主観的,人間的性格 すでにできあがったものとしてみれば,文化財は人間から
離れ,人間を越えた客観的性格をもっている。しかし,それが生まれ,作られる生成当初
の源にさかのぼってみれば,文化財はすべて人間との生き生きとした結びつきをもってい
高久 「教材研究」とは何か
3る。人間のおどろき,恐れ,疑い,あこがれ,苦しみ,願望,必要,創造の喜びなどから 文化財は生み出されたのである。つまり,文化財はすべて人間のさし迫った問いに対する 答えとして,人問のあこがれや必要の充足として,人聞の悩みや苦しみの克服としてつく りあげられたものにほかならない。だから,文化財の生成の源へとさかのぼればさかのぼ るほど,そこには,文化財と人間との問の切り離せない生きたつながりがある。
・3、 教育的,人間形成的性格 人間を越えて客観的に妥当する価値や真理性をもちな がら,しかもなお,人間と結びつく深いつながりをもっという,上のような二つの性格の ゆえに,文化財は,これに接する人間に対し,強く形成的に働きかける教育的性格をもっ
ている◎
上のような文化財の三つの性格に対応し,選択された文化財としての教材を吟味するた めの三つの観点が導き出される。
(1) 客観的吟味の観点
この観点による教材研究は,教師が教材内容そのものに深く通じるための吟味である。
簡単にいえば,子どもにわからせるための教材研究ではなく,何よりもまず,教師自身が 教材の本質をほんとうにとらえるための吟味である。したがって,ここでは,学習者であ る子どもの能力や理解のレベルを念頭において,教材に宿されている教育的本質内容を問 題にするのではなく,あくまでも教師自身の能力や理解のせいいっぱいのレベルで,文化 財としての教材の客観的本質内容を明らかにしょうとするのである。このような客観的吟 味の前提があってはじめて,子どものレベルを念頭においた教材の教育的吟味が生きてく
る。
この点は,教材研究のあり方を正しく理解するうえでの重要なポイントとして,とくに
銘記される必要がある。たしかに,教材研究の中心問題は,子どもと教材とをどのように
して教育的に結びつけるかということにある。したがって,このような教育的吟味にあた
っては,いつでも,子どもが念頭におかれていなければならない。ところが,いつも子ど
もを念頭におくという,この点に,教材研究をいいかげんのものにしてしまう危険な落と
し穴がある。教材の教育的吟味が教材研究の中心ではあるが,この吟味が生きるために
は,その欠かすことのできない前提として,教材内容の客観的価値や真理性を確認するた
めの客観的吟味が必要である。この客観的吟味にあたってまでも,たえず子どもを念頭に
おくというのは誤りである。ここでは,教材の客観的事実内容に対する子どもの関係では
なく,教師の関係だけが問題となるのである。子どもは未熟なのだから,まだよくわから
ないのだから,教材の客観的内容に対する教師の取り組みもまた,そんなに立ち入ったも
めでなくともよいのだ,という考え方ほど誤った,そして危険なものはない。教材に対す
る教師の関係と子どもの関係とは別である。教材内容に対する教師の関係は,その教師に 最高の精神的能力や理解のレベルで考えられるべきものであって,ここでは,子どもの精 神的活動の能力が問題とされる必要はない。
教材の客観的吟味の着眼として,次の二点があげられる。
第一は,理解の「広さ」や「詳しさ」よりも,理解の「明りょうさ」を得ることが中心 e e e e e
のねらいになるということである。「明りょうな」理解または「はっきりした」理解とは,
教材内容のうち,何が基礎的,本質的な要素であり,何が派生的,付随的な要素であるか を区別すると同時に,両者の間の関係の筋道を構造的なものとしてとらえることである。
構造的関係とは,基礎的,本質的内容を中核または根幹とし,その周辺または枝葉として 派生的,付随的内容が位置づけられるという関係である。教材内容の諸要素の間のこの区 別と関係のとらえ方がはつぎりしないと,内容の吟味がどんなに「広く」「詳しく」行な われても,そこから「明りょう」な理解が得られない。明りょうな理解をひき起こさない 客観的吟味は,後の教育的吟味のささえとなることができない。
第二に,教材の本質内容との全人的な結びつきが,客観的吟味の究極のねらいとしてあ げられる。本質内容との全人的な結びつきとは,この内容についての明りょうな理解を通 し,さらに,感動とか興奮といった,心のゆり動かされるような深い理解にまで突き進む ことである。教材内容と教師との関係の深まりの度合いが,この内容と子どもとの関係の 深まりの度合いを決定していく。したがって,授業とは,教師の体験を子どもが追体験し ていくプロセスだといえる。授業のめざすところが知的興奮の伴うような深いわかり方を ひき起こすにあるとするなら,そこには,まず教師の知的興奮がなければならない。興奮 は興奮によって呼び起こされる。本質内容と心を傾けて結びつくという教師の体験を追う 形で,内容についての感動や共鳴や興奮の体験を伴った,子どもの深いわかり方が生まれ
てくる。
(2) 主観的人間的吟味の観点
この観点による教材研究は,教材と子どもとの間の生き生きとした接触点を探求するた めの吟味である。この場合,主として子どもの側に目を向けるか,教材の側に目を向ける かによって次の二つの三昧方向が取りあげられる。
第一,子どもの側に目を向けた場合,その教材に対する子どもの興味,関心,問題意 識,さらに発達段階やこれまでの学習状況からみたレディネスなどが吟味の対象となる。
ところで,このような対象は,教材研究に含まれる当然の吟味内容と考えられているよ
うであるが,この吟味は,本来,どのようにして進められるはずのものであるのか。教材
を不動のものとして決めてかかり,これに合わせていくという形で,もっぱら子どもの側
高久 「教材研究」とは何か
5にだけ目を向けてその興味や問題意識やレディネスなどを問題にするというのでは,ほん とうの教材研究にならないだろう。この吟味の中心は,教材を再構成し,それによって教 材と子どもとの生きた結びつきを作り出すという点に求められなければならない。
そこで,第二の,教材の側に目を向けた吟味の重要さが大きく浮かびあがってくる。こ の場合,前にふれた文化財のもつ主観的,人間的性格に注目する必要が出てくる。すなわ ち,文化財は,これをつくり出した人間の手を離れて客観的,対象的に存在するが,しか し,その生成の源にさかのぼれば,人間のおどろき,疑い,あこがれ,必要などとじかに 結びついている。したがって,文化財と人間との生き生きとした結びつきを再現するため には,文化財の生成の過程をさかのぼり,その生成の根源へとたち返るのがよい。こうす ることによって,文化財は再び人聞のなまなましい課題や興味や必要の対象となる。現在 の西ドイツにおける代表的な教育心理学者,ロート(H。Roth)は,上のような根源場面 における文化財(教材)と人闘(子ども)との生きた結合を「原本的出会い」(die originale Begegnung)と呼び,これを教授の中心原理としてあげている。教授は教材と子どもとの
「効果的な出会い」の実現をめざすものであるが,この出会いは「原本的出会い」である ときに,もっとも効果的になるというのである。
U一トによれば,教授において万事を左右するのは,教材内容と子どもとの出会いをひ き起こすことであるが,このためのかぎは,内容の生成過程へとさかのぼることにある。
e e
すなわち,「教授方法の眼目は,死んだ事態を,かつてこの事態を生み出した生き生きと した行動へと再変することにある。対象をその発見や案出の過程へ,作晶をその創造作用 そのものへ,計画をその源となった思案へ,契約をその当初の決心へ,解決をはじめの問 題へ,現象をその本質へと再変することである。」 このように,認識されたものを認識の 作用そのものへ,創造されたものを創造作用そのものへと解消することによって発生の根 源場面へと引きもどし,この認識されたもの創造されたものを,再び生き生きとその発生 場面から追認識,追創造させていこうとするところに学校教授の本質がある。
個々すべての教材について,U一トのいう「根源場面への復帰」の原理がそのままあて はまるとは限らない。けれども,できあがったものとしての内容をできあがる過程へとも どし,さらにその出発点へとたち返ることによって,教材と子どもとの生き生きとした接 触点を求めようとする観点が,教材研究のもっとも基本的な観点の一つにあげられること
は明らかである。
(5) 教育的吟味の観点
これが教材研究の中心観点となる。したがって,この観点は前の二つの観点,つまり,
「客観的吟味」の観点や「主観的(人間的)吟味」の観点と同列に並ぶものではなく,こ
の二つの観点をそのささえとし,しかもこれらを包含するものとして成り立つ統合的観点 である。このような三つの観点の問の関係は,前にあげた文化財の三つの性格の間の関 係,すなわち,「客観的(対象的)性格」と「主観的(人間的)性格」の統合として,「教 育的(人間形成的)性格」が導き出される関係と同様である。
それでは,この教育的吟味の観点による教材研究は何をその中心の問題とするのか。そ れは「教材の構造的編成」ということである。したがって,「教材研究とは何か」の問い
働 ㊥ 6 ◎ ㊥ ㊧ ◎ e
に対しては,「教材を構造的に編成すること」であると答えられる。しかし,これだけで はまだほんとうの答えにならない。ただ,問いをいいかえただけにすぎない。いったい,
教材の構造的編成とは何をすることなのか。
皿. 「教材の構造」とは何か
(1) 「構造」の意味
「教材の構造的編成」とは何をすることなのかの問いに答えるためのかぎは,「教材の e e
構造」ということの意味を明らかにするにある。そこで,まず一般的に,「構造」の意味 から考えていきたい。
近ごろは,教育界ばかりでなく,さまざまの学問分野の人たちの聞で,「構造」という ことばが,研究の方法または内容上の非常に重要な概念として用いられるようになってい る。「構造」のことばによっていい表わされている意味には,それぞれの分野によって特 殊なニュアンスの違いが伴っているようであるが,だいたい共通している点は,「いろい ろの要素から編みあげられた関係網」,「諸要素が一つの完全な全体へと組織された構成 体」,「さまざまの部分の複合から成り立つ一つの全体的な連関」として,「構造」とい
うことの意味を理解しようとしていることである。
このような意味づけを参照しながら,わたくしは,「構造」の意味を次のように理解し たい。すなわち,構造とは個々の要素から組み立てられた統一的な組織体である。したが って,「構造」と呼ばれる組織体があるところでは,これを構成する基本要因として,次 の三つのものが作用している。
第一に,構造を統一的に組み立てるためのよりどころとなる原理がなければならない。
これを「構成原理」と呼ぶことにする。
第二に,構i造へと組み立てられるさまざまの要素がなければならない。これを「構成要 素」と呼ぶことにする。
第三に,さまざまな構成諸要素の間の相互関係がなければならない。ただし,厳密にい
えば,さまざまな要素が同一の層において,ただ平板に関係し合うというだけでは,これ
高久:「教材研究」とは何か
7を構造と呼ぶことはできない。構造の名に値する組織体は,上層と下層,根幹と枝葉,ま たは中核と周辺との間の集中と広がりといった,いわば層的,立体的な相互関連をもって e e e e e
諸要素が結び合っているものだけに限られる。このような関連のしかたを構造の「構成様 式」と呼ぶことにする。
構成原理,構成要素,構城様式という構造の三つの基本要因をからみ合わせると,さら に構造について,次のような理解が導き出される。一構造を作りあげる特色が,構成諸 要素の間の層的,立体的な関係のしかたにあるとするなら,どの構城要素もすべて同じ重 みをもっというのではなく,ある要素は中核または根幹に位置する重みをもち,ある要素 は周辺または枝葉に位置する重みをもっことになる。この重みの違いによって,諸要素は 本質的要素と付随的要素,または基礎的要素と派生的要素とに分けられる。ところで,こ のような分類は何を根拠として行なわれるのか。それは構成原理に照らして分けられる。
構成原理からみて,より中心的な重みをもつのが本質的(基礎的)要素であり,補助的な 重みをもつのが付随的(派生的)要素である。わたくしは,前に,構造とは個々の要素か ら組み立てられた統一的な組織体である,と定義した。個々の諸要素がその帰せられる重.
みによって上のように分けられるとするなら,この定義は次のようにいいかえられる。構 造とは,本質的(基礎的)要素と付随的(派生的)要素から組み立てられた統一的な組織 体である。
(2) 「教材」 の意味
これまで,一般的に,「構造」ということの意味を明らかにしてきた。これを教材と結 びつけ,「教材の構造」とは何かを問題にしょうとするのが当面のねらいなのであるが,
その前に,もう一つ,「教材」の意味を明らかにしておかなければならない。前に,教材 とは教育的意図によって選び出された文化財である,というごく一般的な定義をした。こ の教材の意味を当面のねらいとの関連を念頭において,とくに,その構成や機能の面から 明らかにしていくことにする。
小学校第三学年,理科の「電話あそび」という単元の授業を参観したことがある。ボー ル紙,パラフィン紙,ぬい糸などから作ったおもちゃの電話で,糸をぴんと張ったり,ゆ るめたり,途中をつまんだりして聞こえぐあいを確かめながら,「もし,もし」,「はい,
はい」と遊んでいくなかで,けっきょく,「音は物を伝わる」ということを学びとらせよ
うとするねらいの授業である。この「電話あそび」の教材において,おもちゃの電話作
り,電話遊び,そして,音は物を伝わるといった学習の活動や内容がすべて同等の重みを
もっているのではない。これらの間には,教育的にみて,重みの違いがある。ほんとうの
中心となる重みをもった内容は,「音は物を伝わる」という一般的な原則であり,この中
心内容を生き生きと効果的に学びとらせるための補助または手段の役割を果たすものとし て,電話を作る,それで遊ぶという活動内容が取りあげられている。
このように,教育上の重みの違いによって,中心内容と補助内容との二つの要素に分か れ,しかも,この二つの要素が結び合っているところに「教材」と呼ばれるものが成立す る。ところで,今,「教育上の重み」といったが,いったい,この「重み」とは何を意味 し,重みの違いは何によって分かれるのか。「電話あそび」の教材で,「音は物を伝わる」
という内容に対し,中心内容としての重みをもたせたのは,この内容が「一般的内容」だ e e e e e
からであり,電話を作る,遊ぶの活動内容に対し,補助内容としての重みしか認めなかっ たのは,この内容が「特殊的内容」だからである。一般的内容とは基礎的な概念,命題,
e e e e e
関係,構造,原理,法則などにあたり,このような内容を習得することによって,関連す る広い分野の内容が明らかにされていくのであるから,一般的内容の習得が教育の本来の ねらいとなる。したがって,教材の中心要素は一般的内容である。これに対し,一般的内 容の理解や習得を容易にし,効果的にするための具体的な内容や活動が特殊的内容であ る。特殊的内容そのものの習得は本来のねらいとならない。しかし,一般的内容が一般的 内容として教えこまれるのではなく,身近な具象性をもった特殊的内容に即して学びとら れるとき,一般的内容の習得がもっとも効果的であるとするなら,特殊的内容もまた教材 の欠かせない要素となる。
以上のことをまとめていいかえると次のようになる。
第一,教材内容がもっているほんとうの教育作用は,個々多様の特殊的な内容や事がら を理解したり,習得したりすることの積み重ねから出てくるのではない。特殊的な内容に 共通し,もしくはこれらを貫き,ささえている原理や原則,構造や関係などといった一般 的内容が習得されることによってはじめて,真の教育作用が生まれるのである。
第二,しかし,同時に,はっきりと承知されなければならないのは,一般的なものは,
いつでも,特殊的なものに即し,または特殊的なものの中で得られるし,また得られなけ ればならないということである。一般的なものについての理解や習得は,具体性をもった 特殊的な事がらや問題へと直接的に取り組むことによって,もっとも容易に効果的に進め られるからである。一般的なものがいきなり一一般的なものとして教えられたり,学ばれた りするところでは,明りょう,確実な理解が生まれにくい。
上のような理由から,教材の構成要素の間には,教育上の「重みの違い」があるといっ
たのである。しかし,重みの違いにもかかわらず,ある活動または内容が「教材」と呼ば
れるのは,中心要素としての一般的内容,補助要素としての特殊的内容の二面を同時にそ
なえているとぎだけに限られる。
高久:r教材研究」とは何か
9そこで,この観点から,「教材」とは何かについて端的にいい表わすとしたら,それは r特殊的なものでありながら,同時に一般的なものである」ということになる。もちろん この逆にいいかえてもよい。このことばの意味を説明すると次のようになる。
第一に,特殊的なものとは,たとえば,「電話あそび」教材の電話作り,電話遊びのよ うに,具体性,直観性,身近さをもっているものということである。それゆえ,特殊的な ものは子どもの興味や注意をひきつけ,かれらに対して,大きな経験可能性,学習可能 性,理解可能性を保証する性質のものである。
第二に,特殊的なものが同時に一般的なものであるというのは,厳密には特殊的なもの の中で,あるいは特殊的なものに即して一般的なものが容易に見通され,獲得されるとい うことを意味する。以上の二点を合わせて総括すれば,教材とは,子どもに身近で平易で 単純なものでありながら,しかも,関連する広い分野を解明するためのかぎとなる一般的 e e
なものをそれ自体の内に豊かに含んでいる内容である。
(5) 「教材」の構造性
前に,構造とは本質的(基礎的)要素と付随的(派生的)要素から組み立てられた統一 的な組織体である,と定義した。また,教材については,中心要素としての一般的内容と 補助要素としての特殊的内容とが一つに結びついているところに,教材と呼ばれるものの 特質がある,と述べてきた。ところで,教材の二要素と構造の二要素とは同じ性質のもの として重なり合う。とすると,教材が中心要素と補助要素とのからみ合いだということ は,教材はこの二要素から成り立つ構造体だというのと同じことになる。教材とは構造体 である。逆にいえば,構造体であるから教材なのである。ある内容や活動が教材となるの は,これらが中心と補助の二つの要素から成り立つ構造体としてとらえられるときだけに 限られる。
「電話あそび」教材を吟味の手がかりとして例示してきたことそのものが示しているよ うに,これまで,教材の構成や機能を考えるにあたって,子どもと直接に結びつく教材,
つまり,授業の第一線で直接の対象となる,教科内容のもっとも具体的な現象としての教 材を念頭においてきた。教材の中心要素である一般的内容と合わせて,補助要素である具 体的な特殊的内容の欠かせないことを強調してきたのは,子どもと教材との直接の結びつ きをとくに心にかけていたからである。子どもの学習は一般的内容の習得を本来のねらい とする。しかし,この習得の実際は身近でわかり易く,興味や関心をひきつける具体的な 特殊的内容への取り組みを中心として進められることになる。
このように,授業の実際場面の中で直接に問題とされる教材は,一般的内容と特殊的内
容から成り立つ構造体としてとらえられるのであるが,「教材の構造」ということの意味
は,ここからさらに,二つの方向をとって広げられる。
第一は,一般的内容のほうに向かってさかのぼるという方向である。「電話あそび」教 材でいえば,「音は物を伝わる」という一般的内容が,第三学年の理科,さらに小学校理 科の教科内容としてあげられる一般的内容の全体の中で,どのような位置を占めているか の吟味である。各教科の一般的内容はばらばらにあげられるのではない。この一般的内容 の間でもまた,本質と付随,基礎と派生の二要素から織り成される構造関係が欠かせな い。小学校や中学校の学校段階ごとに,そこからまた,それぞれの学年ごとに,各教科の 一般的内容の全体構造がはっきりとおさえられ,この全体構造にもとづいて,ここから各 単元やそれぞれの授業時間においてめざされる一般的内容が導き出されなければならない はずである。したがって「教材の構造」の意味を広くとれば,各教材の中心要素である一 般的内容相互の間の構造関係があげられる。
第二は,特殊的内容のほうに向かっておりてくるという方向である。「電話あそび」教 材でいえば,おもちゃの電話を作る,それで遊ぶといった特殊的内容について,どのよう な活動や内容や資料などを取りあげ,それらをどのように配列したらよいかを吟味するこ とである。それぞれの単元や授業時間ごとに,一般的内容の効果的な習得をおし進めるた めの補助要素として,さまざまの具体的特殊的内容が取りあげられる。これらの特殊的内 容の問でもまた,一般的内容の習得という点から,本質と付随,基礎と派生の二要素を踏 まえた構造関係が必要となる。この構造をあえて名づけるとすれば,「指導過程の構造」
または「方法の構造」ということになるだろう。これが「教材の構造」を特殊的内容の方 向に狭くしぼった場合の一方の極としてあげられる。
以上のように,一口に「教材の構造」といっても,このことばの意味は広狭さまざまに 受けとられる。この意味は,一方,一般的内容相互聞の構造,他方,特殊的内容相互間の 構造という二極の間で考えられる。ところで,授業準備のための教材研究が,その吟味の 中心として取りあげる教材は,一般的内容と特殊的内容とが結び合うところで成立する教 材である。したがって,ここでいう教材の構造とは,一一般的内容を中心要素とし,特殊的 内容を補助要素として組み立てられる構造である。ただし,この意味での構造は,一般的 内容の構造,特殊的内容の構造と切り離された別のものではなく,これらの構造をその前 提とし,または発展として予想することにおいて考えられる構造だとみるべきである。
IV.教材の構造的編成(構造化)
(1) 「構造化」の基本的構え
教材研究の中心問題は「教材の構造的編成」である。教材の構造的編成とは何をするこ
高久:「教材研究」とは何か H
となのか。この問いに答えるためには,何よりもさきに,教材の構造とは何かの問いに答 えなければならない。そこで,これまで,教材の構造ということの意味を問題にしてきた わけである。
教材の構造的編成とは,現在,よく使われていることばでいえば,教材の「構造化」と いうことになる。だれにも口にされるほど非常に一一般化しているからこそ,この「構造 化」という用語について,はじめに,とくに次のことをはっきりさせておく必要がある。
教材の構造化とは,厳密にいえば,まず教材があって,次にこれを構造化するというよ e e e e
うに考えられてはならない。教材は「構造性」という性格をもっている。教材とはもとも と,構造的なものである。構造をそなえているからこそ教材といえるのである。この構造 とは一般的内容と特殊的内容との問の関係である。ある内容または活動が「教材」と呼ば れるのは,中心要素としての一般的内容と,補助要素としての特殊的内容との聞の構造関 係がはっきりしているときだけに限られる。したがって,教材の構造化または構造的編成 とは,ある内容または活動を一般的なものと特殊的なものとの関係構造の中にはっきりと すえ直すことによって,この内容または構造を「教材」として,改めて再構成することで
ある。
このように,教材の本質論にもとづいて構造化の意味を理解すると,ここからすぐに,
次のことが明らかになる。それは,構造化が教材研究を進めるさいのある特定の一つの方 式だと考えられてはならないということである。特定の一つの方式であるのなら,この方 式をとらないで教材研究を進めることもできるはずであるし,この構造化の方式によらな い場合には,教材研究はことさら構造を問題にしなくともよいということになるだろう。
ところが,これまで取りあげてきたような教材の構成や機能についての理解によれば,教 材の構造吟味をぬきにして教材研究は考えられないのである。教材研究の中心のしごと は,教材にそなわっている諸要素間の構造関係を再確認または再構成することである。構 造化が教材研究を進めるさいのたんなる一方式ではなく,教材研究のあるところ,いつで も,どこでも,その核心にすえられるものだと考えると,この構造化を問題とする基本的 な構えを改めて確認する必要が出てくる。というのは,構造化論は教材研究上の方式を問 題にしているのではなく,教材論の本質に根をおろしているものだという意識をはっきり させることである。この点がはっきりしないと,構造化は操作上の浅い次元でただ図式的 に問題とされるだけにとどまり,流行の一方式として,やがては消えていく危険さえもあ
る。
(2)構造化の着眼
教材の構造的編成,つまり,構造化は次のような二つの基本的手順によって進められ
る。
第一は,それぞれの教材について,何が中心要素としての一般的内容であり,何が補助 要素としての特殊的内容であるかをはっきりと確認すること。
第二は,特殊的内容に即して,または特殊的内容の中で,一般的内容を発見的に習得さ せるにはどうするかを眼目として,特殊的内容と一般的内容との問の関係様式をはっきり させること。
第二の手順については項を改めて取りあげるつもりなので,ここでは,第一の問題につ いて考えたい。
これまで,教材研究の中心のしごとは教材の構造的編成,つまり,構造化にあるといっ てきたが,この構造化は教材の「エキス」が何であるかを明らかにしなければ一歩も進ま ない。したがって,教材研究のかなめは教材のエキスにあたるものをはっきりさせること e e e
にある。教材のエキスとは,その教材の諸要素のうち,とくに教育上の高い価値:をもった 中心要素である。この中心要素がその教材の「純内容」にあたる。それぞれの教材が教材 としての純内容をもっている。純内容をもたなければ教材とはいえない。この純内容をは っきりさせることが教材研究のかなめである。
e e e
純内容を純内容とするもの,つまり,純内容がもっている「教育上の高い価値」とは何 か。それは,この内容が一において多を「開く」力をもっている,また,一において多を
e e
「開く」カをひき起こすことができると考えられているからである。一において多を「開 く」内容とは,一つの限られた内容でありながら,関連する多くの広い分野の内容を明ら かにするうえでのかぎとなる性質の基礎的内容,そして同時に,この内容が学ばれる中で e e
さらに多くの広い分野の学習に必要な態度や方法を身につけさせることができると期待さ れる性質の内容である。
たとえば,小学校における平面図形の面積を求める教材をとってみると,正方形(長方 形)の面積の求め方は,この教材の純内容だといえる。というのは,この場合,正方形
(長方形)の学習は,内容面からみても,また,学習者の身につけられる態度や方法の面 からみても,とくに「開く」働きをもっていると考えられるからである。内容面からみれ ば,正方形(長方形)の面積の求め方は,たんに一つの特定図形の面積の求め方であると いうにとどまらず,その他さまざまな平面図形の面積の求め方の基礎となる性質の内容で ある。また学習の態度や方法の面からみれば,これから後の広い範囲にわたる図形および その面積についての学習に必要な基礎的態度や方法は,正方形(長方形)について学んで いく中で,もっとも効果的に身につけさせることができると考えられる。
要約していえば,「開く」働きをもった内容,または「開く」力をひき起こす内容とは
高久:「教材研究」とは何か
13基礎的な原理,原則,法則,概念,命題,関係,構造といった一般的なものである。した がって,教育上の高い価値をもった純内容とは,その教材に宿されている一般的内容だと いうことになる。このような理由により,これまで,教材の中心要素として一般的内容を あげてきたのである。
以上のような基本的考え方にもとづき,実際の教材研究は教材の一まとまりごとに,次 のような中心的問いから始められなければならない。
rこの教材の純内容,つまり,中心要素となっている一般的内容は何か。」
「どのような一般的内容がこの教材を手がかりとし,あるいは,この教材の中で習得さ れるはずであるのか。」 「
ところで,実際の教材研究を方向づける中心的問いとしては,上のほかに次のような問 いがあげられる。
「この教材の一般的内容(純内容)を子ども自身が創造的,発見的に習得するよう助け るため,どのような特殊的内容があげられているか,また,あげられなければならない
か。」
この問いが教材研究の中心的問いとみなされるのは,次の理由による。
すぐ前で述べたように,教材のもつ教育的価値は,その内容が「開く」働きをもち,ま た,子どもの「開く」力を伸ばすかどうかによって定まってくる。この開く働きをする内 容が一般的内容である。したがって,一般的内容は教材の純内容として,教育上の中心価 値をもっている。しかし,ここで注意の必要があるのは,一般的内容が一般的内容として ただ教えこまれるだけでは,そこから「開く」働きは出てこないということである。この
「開く」働きは,一般的内容が,子どもにとって身近でわかりやすい具体的,具象的な特 殊的内容に即し,特殊的内容の中で,子ども自身により,創造的,発見的に学びとられた
ときにはじめて現われる。この学びとるプロセスをぬきにして,一般的内容の「開く」働 きを考えることはできない。それゆえ,教材としての教育上の中心価値は一般的内容に帰 せられるとしても,特殊的内容もまた,教材の構成要素として欠かせない。さきに教材の 補助要素として特殊的内容をあげ,また,この特殊的内容の確認や選択を教材研究の中心 的問いの一つにあげたのは右の理由による。
教材としての特殊的内容の役割は,要するに,一般的内容を「範例的に」学びとらせよ e e e e
うとすることにある。したがって特殊的内容は「範例的内容」としての性格と機能をもっ ている。範例的内容とは「例」としての具体性をもった単純,簡潔なものでありながら,
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しかも,もっとも適切な形で一般的内容を宿し,または一般的内容への橋渡しとなるよう な含蓄に富んだ内容であるQ
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教材としての特殊的内容の妥当性の吟味や選択は,このような範例的内容としての性格 や機能を念頭において進められなければならない。前の「電話あそび」教材の場合,授業 者は,ボール紙,パラフィン紙,ぬい糸などでおもちゃの電話を作る作業が小学校三年忌 にとって非常にむずかしく,かつ,たいへんな時間を要すると語っていた。そうだとした ら,電話作り,そして電話遊びという,この具体的な活動内容は,「音は物を伝わる」と いう一般的内容を範例的に学びとらせるための特殊的内容としては必ずしも適切でないと いうことになる。なぜなら,含蓄に富むとはいえても,単純,簡潔なものとはいえないか
らである。
(5)構造化の様式
それぞれの教材について,何が一般的内容(純内容)であり,何が特殊的内容(範例的 内容)であるかが確かめられたなら,次のしごとは,この二つの内容の闘をどのように関 係づけるかという問題である。今日,一般には,この関係は構造図として示される:場合が 多いようであるが,このさい,各内容を実際に関係づけながら配列していく基本的道筋は いったい,何を根拠として決定されるのであろうか。現行の「構造化」論には,この根拠 についての理論が欠けているように思われる。
これまで再三触れてきたように,一般的内容と特殊的内容との間の関係づけは,子ども 自身が特殊的内容を手がかりとして一般的内容を創造的,発見的に学びとることを促し,
効果的にするということを眼目として考えられる。問題は,こうした学習の進行を保証す るために,どのような特殊的内容を選び,これをどのように配列したら,一般的内容の習 得がより容易に,より確実となるかにある。この選択と配列の根拠は,一般的内容と特殊 eeeeeeee 的内容との関係が具体化される様式の性質に求められるべきである。一口に,一般的なも
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のと特殊的なものとの関係といっても,この関係の様式はけっして一様ではない。一様で ないとすれば,この様式の性質の違いに応じて,特殊的内容の選択や配列の道筋が決めら れなければならない。
たとえば,アルキメデスの原理という一般的内容と,この原理の事例または現象とみな されるさまざまの特殊的内容との聞の関係様式(以下,A様式と呼ぶ。)は,内陸性気候 という一般的内容と,甲府盆地の気候という特殊的内容との閥の関係様式(以下,B様式 と呼ぶ。) と同じではない。日本の明治時代前半の思潮という一般的内容と,教育勅語の かん発という特殊的内容との間の関係様式(以下,C様式と呼ぶ。) となると,これは上 のA,B二つの関係様式ともまた違った性質のものである。
まず,それぞれの関係様式を作りあげる一般的内容および特殊的内容の性質の違いに注
意したい。A様式の場合の一般的内容は原理,原則,命題といった純粋に抽象的,概念的な
高久:「教材研究」とは何か
15ものである。特殊的内容は一般的内容の「事例」であり,その限りにおいて,個物そのも のとしての固有の価値は認められない。B様式の場合の一般的内容はr類型」と呼ばれる ものである。これは一般的なものであるにもかかわらず,A様式の場合と違い,なんらか の具象性,直観性をもっている。特殊的内容は一般的なものの現象ではあるが,たんなる 事例とは違い,一般的なものによってくみ尽くされることのない個物としての価値と独自 性をもち続ける。C様式の場合の一般的内容は,特殊的内容においてありありと描き出さ れ,象徴的に濃縮して表わされる。だから,一般的なものはそのまま具体的,特殊的なも のであり,特殊的なものは一般的内容の代表的なものである。
それぞれの関係様式において,上のような関係要素の性質の違いに応じ,特殊的内容か ら一般的内容へと進む道筋もまた違ってくる。
A様式の場合,一般的内容を特殊的内容そのものの中で直接的に読みとることはできな い。特殊的内容をどんなに詳しく観察したとしても,そこからすぐに原理,法則といった 一般的内容は出てこない。ここでは,思考の働きによる次元の飛躍が必要である。つまり 特殊的なもののもつ特殊性が思考による抽象化を通して度外視され,概念の次元へと移る ことによってはじめて一般的なものがとらえられる。一般的なものは特殊的なものの「中 e
で」ではなく,特殊的なものを「手がかりとして」得られるのである。
● e ⑫ の ⑧ ㊦ ● e
これに対し,B様式の場合,一般的内容は特殊的内容そのものの「中で」見通される。
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「類型」と呼ばれる一般的内容には,ある種の直観性がつきまとっている。したがって,
この一般的なものをとらえるために必要とされる思考は,直観的なものを抽象化(概念 化)するための思考ではなく,直観的なものの奥底へとはいりこむこと,すなわち,特殊 的なものの中から一般的なものを「透かして見る」ために必要とされる思考である。
C様式の場合,前の二様式においてよりも,一般的内容と特殊的内容の闘ははるかに接 近している。いや,両者は重なり合っている。特殊的内容は一般的内容の「代表的なもの」
である。だから,特殊的内容をはっきりとらえることが,そのまま一般的内容をとらえる ことになる。
これまで,一一股的内容と特殊的内容との問の結びつきが具体化される三つの関係様式を 取りあげてきた。Aは「事例的関係」,Bは「類型的関係」,Cは「代表的関係」と名づ けることができる。もちろん,これらは例としてあげられただけのものであって,一般的 内容と特殊的内容との関係の様式がこの三つに尽きるという意味ではない。このほかにも また,さまざまの関係様式があげられるし,あげられなければならない。しかし,だから といって,この関係様式が多様きわまるとはいえない。多様ではあるが,この多様なもの (油2)
をいくつかの基本様式にまとめることは可能なはずである。この問題は,教材研究上の非
常に重要な課題として,今後さらに本格的に追求されなければならない。なぜなら,教材 を構造的に編成するため,どのような内容を選択し,これをどう配列するかの基本的道筋 は,一般的内容と特殊的内容との間の関係様式を根拠として決定されなければならないか らである。
V.教材研究と教材精選
今日,教材研究のあり方を闇題とするにあたっては,「教材の精選」という問題を素通 りするわけにはいかない。
日本では,こんどの小,中学校教育課程改善の眼目の一つとして,「基本的事項の精選」
があげられる。この問題は,日本だけに限らず,現在,世界の多くの国々の間で,教授改 革上のさし迫った課題として掲げられている。アメリカでは,伝統的な教授内容に思いき ったメスを入れ,新しい内容構成や教科書づくりが広い規模と範囲にわたって進行中であ る。ソ連では,かなり以前から,科学や技術の基本と教授内容の基本とを結びつけようと する精力的な試みが続けられている。西ドイツでは,この十数年来,「今やドイツの学校 は,教材の充満によって精神生活そのものを窒息させてしまう危険の中にある」との共通 の問題意識のもとに,「教材の群れをきびしくふるいにかけ」,「基本的なものへの徹底」
をめざす努力が重ねられている。
ところで,教材の精選は,教材編成のどの段階で行なわれるのか。第一に考えられるの は,基準的内容の選択や配列を問題とする「学習指導要領」作成の段階である。ここでは 主として,教材の中心要素である一般的内容が吟味の対象となるのであるから,教材精選 の成否はこの段階で大きく左右される。しかし,この段階で内容の編成にたずさわる人た ちの多くは,教材充満の責任を教科書編集になすりつけている。たしかに,教科書で教え e e e e
るというよりも教科書を教えるという一般の現状からすれば,教科書の内容がふくれあが
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ることは,そのまま教材の充満を意味することになる。したがって,実際問題としては,
教科書作成の段階における精選の努力もまた大いに重視されなければならない。
次に第三の段階として,授業者自身による教材精選の作業があげられる。教材の精選は けっして授業者以前の段階にだけ限られる性質のしごとではない。日常の実践の末端にま で根をおろし,授業者自身によってもまた削減のためのおのがふるわれることによっては e e
じめて,教材精選の実をあげることができる。授業者自身による精選といえば,これは授 業準備段階としての教材研究を通して進められることになる。このような理由により,前 に,今日の教材研究は,教材精選の問題を素通りできないといったのである。
それでは,授業のための教材研究にあたって,授業者自身の手による教材の精選は,ど
高久:「教育研究」とは何か
17のような観点からどのようにして行なわれるべきであるのか。
ここで,まず,現在の西ドイツにおいて,教材の精選や削減が問題とされるとき,必ず といってよいほど引き合いに出される,「すきまへの勇気」ということばを吟味の手がか
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りとして取りあげることにする。昔,ペスタロッチは授業内容の配列や実際授業の進め方 の鉄則として,「すきまなさ」という原理を掲げた。このことばを念頭においてのことで
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