23
企業の社会的責任
梅 田 武 敏
〈目次〉 に社会的責任を負わせることを狙いに展開された
〔1〕序 もので,社会的貴任論は会社法全面改正の基本理
〔II〕社会的責任をめぐる論争 念であるといえる。この意味で,このたびの根本
〔一〕松田論文について 改正に何を盛り込むか,企業の社会的責任として
〔二〕竹内論文について 如何なるものを展開するかが端的に商法学及び商
〔三〕森論文について 法学者の質とレベルを反映することになるが,全
〔皿〕企業の社会的責任 く残念なことに最近の改正論議は,法制審議会は 〔一〕体系と概念をめぐる問題
もとより学界に於いても「改正作業は企業に社会〔二〕商法・株式会社法の法理と企業の
社会的責任 的責任を果させるためのもの」という位置付が忘
〔W〕むすびにかえて れられ,企業実務追随になり下がり・あいもかわ らず過去の再生産をなさんとしている。事実,一 ぜられなくなり,改正作業の論点は別な所に移っ 今日・会社法の「根本的」改正論, 「大」改正 てしまっている。商法と商法学の後進性がいわれ 論・が花ざかりで株式会社に関する多くの問題が たり,商法には哲学が存在しないと批判される 議論されているが・その出発点は企業の社会的責 (註1)のも無理からぬことである。
任問題であった・即ち,昭和四九年三月の商法改 企業の社会的責任という場合の「社会的責任」
正に関連し,衆・参両議院は企業の社会的責任を の法的表現として具体的に何を考えるかは必ずし
全うすることが出来るように,更に法改正をすべ も簡単ではないが,だからといってこれを棚上げ ひし・と附帯決議を行なった。法制審議会商法部会 にしたまま改正作業を行なうことは,担い手の主
が・これを受けて会社法の改正作業に着手したこ 観はともあれ,大企業への奉仕の改正を招いてし とが今日の改正論議を招いたのである。 まうことにつながる。特に,社会的責任を論ずる
附帯決議は・企業の社会的責任の問題のみなら ときに限り,「社会」と「責任」を切り離し,そ ず,その他の問題点をも指摘しているので,企業 れそれの概念が多義的で法的になじまないものだ の社会的責任論だけが会社法改正をめぐる議論を とするが如き主張がなされたことは,商法学のい 引き起した原因だとはいえないとする考え方もあ かんともしがたい保守的性格を示すものである。
ろう。しかし,附帯決議の中心は企業の社会的責 本稿が「忘れられてしまった」企業の社会的責任 任論であったし,そもそも企業の社会的責任をも をあえて「今」再度問題としようとするのは,初 含くめてこのさい会社法の根本的な見直しをする 心にかえって,企業の社会的責任の法的確立なく べきである・と衆・参両議院をして決意せしめた して法改正は無意味であることを確認し,進行中 のは,昭和四八年から四九年にかけての所謂オイ の改正作業が向いている方向を修正せんとするた ルショックを媒介とした企業批判であったことを めである。
みれば,現在進行中の会社法大改正作業は,企業 註1.北野弘久「商法改正と税法」法律時報46巻9号
24 茨城大学政経学会雑誌第43号
44頁・同「商法改正の動向と税法」法律時報48巻 ③取締役が公共の利益を名として株主の利益を 11号126頁 害する経営を行なう虞れがある(註1)
④公共優先という思想は,ときの権力によって
〔皿〕社会的責任をめぐる論争 利用される危険性を内在せしめる(註2)
⑤一般規定が何らかの機能を果すであろうと期
〔一〕松田論文について 待する人々に幻想をふりまくだけの訓示規定にす
ω これまでに行なわれた企業の社会的責任論 ぎない(註3)
についての論争は,企業に社会的責任を負わせる ⑥社会的・公共的利益のために企業を規制する 馬
ノついては一般的規定を設けて行なう方法と,現 のは経済法であり,商法は公共性とは無縁である 行会社法の個々の制度を改善することによる方法 (註4)
と,いずれによるべきかとする昭和五〇年六月一 ⑦企業の社会的責任論は民法第一条によって十 二日に発表された法務省民事局の意見照会に答え 分にカバーされるので会社法上あらためて問題と
る形態で行なわれた。勿論,二者択一ではなく双 する必要はない(註5)
方を,とする考え方も主張されたが,議論の大勢 一の七点にあるとした・そして・
は二つの方法のうちどちらを選択するぺきかとし ①〜⑤の点にっ》・ては・現在の我が国はナチス て主張された,といえる。香むしろ,いずれの 時代とは全く異ゼるので一般規定を設てけも濫用 形態を採るべきかとする意見照会に議論そのもの の虞れはないし・一九三七年ドゲツ株式法第七〇 が領導されてしまっていたといった方が正確であ 条一項が一九六五年の改正において削除されると ろう。以下は,このような形態で展開されて来た, きには,同様な内容を有する条文を代わりに置き 企業の社会的責任に関する商法上の規定は一,と 社会的責任を明確にすべきだとする主張もあった
して行なわれた論争を詳細に検討しながら,企業 のだから・一般的規定を設けることイコールナチ の社会的責任として何が考えられて来たかを明ら ス流の理論とはいえないとした(註6)。又・「企 かにする。 業の社会的責任なる概念は多義的なので広範な意
味が盛り込まれる危険がある,とか,一般的規定
(2)企業の社会的責任に関して,法務省民事局 はスローガンであり無意味,とすることについて 参事官室からの意見照会に答えるかたちで論争の は,そうした考え方は観念的であるとし・わが民
口火を切ったのは松田論文であった。これは衆・ 法第一条の歴史的展開を例にとり,一般条項的規 参両議院の附帯決議が出されてから法務省の意見 定といえども濫用もされず且つ無力でもなく,有 照会が行なわれるまでの間に発表された論文や座 効に機能していると反論した(註6)。
}
k会での発言を捉えて次のように述ぺた。 ⑥の点には,大平洋戦争中,多くの商法学者が 一般規定を設けることに反対する論者の根拠 公益は私益に優先するとの標語の下に,商法は統 は,一般規定は「取締役は自己の責任において企 制経済法と融合し合一すると主張してときの権力 業及び従業員の福祉並びに国民及び国家の利益 に奉仕したが,最近の「会社の社会的責任論を目 の要求するところに従い会社を運営することを要 して,あたかも大平洋戦争中における商法と統制 す」と定める一九三七年のドイツ株式法第七〇条 経済法との融合説と同一視,かかる観点よりして 一項と同類の規定であり, 『歴史はくり返えす』」と一般規定の採用に反対
①公益優先,指導者原理というナチス流の理論 するのは理解し難い,とする(註7)。即ち,社会 に根ざしたもの(註1) の発展は,会社に対し公害の抑制,消費者の保護
②違反した場合の効果についての規定がない 従業員の福祉等株式会社に内在する社会性,公共
(註1) 性を考慮すべしとせまっている。企業の社会的責
梅 田:企業の社会的責任 25 任とは,かかる内容であり,それはナチス流の理 についてのみ設けられるぺきであり」それは「株 論とは関係がない。にも拘わらず,あいも変らず 式会社は社会的責任を負う」という形式で規定さ 商法が私益追求のための法であることを根拠に社 れるぺきだ(註10)とする。
会的責任についての一般規定に反対することは,
戦前の学問レベルを一歩も越えていない,とする (3}松田論文の内容は右に見たように,大株式 主張である。 会社は社会的責任を負わねばならないとする部分
⑦については・「商法学者としては,いわゆる と,それは一般的規定によって行なわれるべきで
『民商二法統一論』を採らない限り商法が民法と あるとする部分から成り立っているが,論述の殆 異なる体系を有し・ことに会社法は民法より離れ んどは前者に関するもので,それが何故に一般的 て纒った一体を形成していることに思いを致せ 規定によらねばならぬかの後者の点は説示されて ば・会社についての社会性・公共性の考察は,民 はいない。一般規定はナチス流の理論であるとす 法第一条とはおのずから異なることが明らかであ る主張に反論していることは明白なるも,一般的 ろう」とされる(註8)。 規定によらねばならぬことを裏づける根拠をそこ
松田論文は・一般規定に反対の論者が根拠とし に読みとることは出来ない。こうした結果を生み ている七つの点の各々に以上の如き批判を加えた 出した原因は二つある。第一の原因は,批判の対 後に次のように述べる。 象としたものが前述の七つの点ではあったが,主 一般規定を設けることがフアシズムの危険と直 要にはそのうちの①②③⑥の点を問題としたこと ちに結びつくものではなく,それは企業に於ける である。即ち,これら①②③⑥の点を主張した論
「公共の福祉」の強調がナチスとナチスによって 者は,一般的規定を否定することにおいて企業の 弾圧されたRathenauとの双方によって同じよう 社会的責任を商法上の問題とすることまでをも否 に主張されたことをみただけでも理解されうる・ 定していたからである。これが松田論文をして社 又・アメリカ法上・企業の社会的責任論は諸説紛々 会的責任を肯定すべきであることを強調すること であるが,それは社会的責任が漠然たる概念であ にその大半を消費せしめたことにつながる。第二 ることを示すものの,実は・そのこと自体・会社 の原因は,一般規定を否定する論者が,一九三七 が現代社会の諸問題に対応して生き延びるための 年のドイツ株式法第七〇条一項がナチスによって 道を模索している姿を示すものである。それ故に 設けられたことと,それはただの一度も機能しな
「今や巨大の株式会社が単に一時的の株主の私有 かった点を自己の主張の最も有力な根拠としてい 物でなく・将来の株主・従業員・会社債権者に対 たことである(註11)。
して利害を有し・さらに広く公衆にも重大な影響 松田論文の内容が論争的であったという性質 を及ぼす以上・株式会社は本来私的のものであっ 上,批判を加えた対象に規定されてこうした問題 たとしても・おのずから公的色彩を帯びざるを得 点が生じたものと思われる。特に企業の社会的責 ないのである。そのため株式会社は単に経済法に 任が一般的規定として法律上実現されなければな よるばかりでなく会社法自体によっても,律せら らない理由が不明である点は致命的な欠陥であっ れることを必要とするのである」・こうした思想 たといえる。論者の意図からすれば,一般的規定 は・商法四八条以下の罰則や五八条に見ることが が存在さえすれば裁判官の良識が妥当な範囲内で 出来る,と(註9)。 企業に社会的責任を課してくれると考えたのであ
所で,かように問題とされるべき企業とは大規 ろうが,これはあまりにも裁判官の質を信じすぎ 模・大資本の株式会社であるから,「会社の社会 るもので,一方では全く機能しない虞れと,他方 的責任についての一般規定は『株式会社』すなわ では機能させられすぎて権力的に運用される虞れ ち小規模・小資本の株式会社を排除した株式会社 とを憂慮せねばなるまい。
26 茨城大学政経学会雑誌 第43号
〔二〕竹内論文について いはずである。」「何が社会に対して許されない行 ω企業の社会的責任につき商法上に一般的規 為かを明らかにせず,また,その違反に対してい 定をもうけるべきだとする松田論文に対し詳細な かなる不利益・制裁を加えるのかを明らかにしな 反論を行なったのは竹内論文である。否,内容的 いまま」一般規定を語れば「それは裁判官の判断 に見ると,松田論文により批判されたものの側に に一切をゆだねる白地委任規定である。そのよう 立ってその批判の総ての点につき反論を加えてい な規定が簡単に機能するはずはないが・万一機能
ることからすれば,より正確には,昭和四八年七 したとすれば,それは法的安定性を害する恐れが 月三日と四九年二月二二日に行なわれた衆・参両 極めて大きい」(註12)。「このように考えて来る 議院での附帯決議と,昭和五〇年六月一二日の法 と『企業の社会的責任』を『社会に対する企業の 務省民事局の意見照会が出されるまでの間に発表 法的責任』と解した場合,その『責任』とはそも
された企業の社会的責任についての言説を代表し そも何を意味するのか,法律的には極めて不明確 て松田論文に反論を加えたものであるというべき というほかはない」(註13)。
であろう。竹内論文は、企業の社会的責任の一般 次に,社会的責任はだれが負うのかについては 規定に反対する理由を三点あげる。 二つの問題点がある,とする。①は企業という場
第一は「株式会社の社会的責任」概念が全く不 合に何を考えるかである。松田論文は・企業とは 明確,という理由である。企業の社会的責任とは 株式会社のことであり,株式会社とは大資本の企
「社会に対する企業の法的責任」だが,この場合 業に限定するというが,大企業が株式会社形態を の「社会」とか「責任」概念が不明確だし,社会 必ず採るとは限らない。同じ大企業が株式会社形 的責任を負うのは誰れなのかもはっきりしない, 態を採ると採らないとで結果が異なるのは不合理 というのである。例えば,消費者の利益と株主の である。②は責任の主体が企業か経営者かの問題 利益が対立するように「社会」は異質な対立する である。松田論文が,取締役の行動とは別個に企 利益関係を有するものから成り立っているので, 業自体が自己責任を負うべき,と述べたのに対し
「そのような複雑な利害関係を有する者から成り て,「取締役の行動を通じない会社の責任というこ 立っている社会全体に対して責任を負うというこ とは」理解出来ないといい・「誰に対する責任か・
とになると,責任の内容を極めて抽象的なものと 何をする責任あるいは何をしない責任なのか,誰 して捉えるか,それとも社会のどの部分に対して に負わされる責任か」はっきりしないという(註 どの時点でどのような行為をすることが社会的責 14)。
任を果すゆえんなのか,その判断を経営者に一任
ぜざるを得ないということになるであろう」(註12) (2)第二の反対理由は,一般規定には実効性が これは問題ではないか。「責任」についていえば, ない、とする点である。もっとも,竹内論文では 社会に対する責任という場合の「責任」は民事責 一般的規定が何故に実効性を有しないのかについ 任でもなければ刑事責任でもない。とすると「或 ては必ずしも明白ではないが,「社会的責任」概 る作為・不作為に対して何らかの法律的な不利益 念が曖昧であることに求められているように思わ または制裁が加えられることを前提として,その れる。即ち,意味内容が多義的であり不明確であ ような作為・不作為の義務を『責任』」と考えて るような用語(=社会的責任一引用者)を用いて いることになる。「しかしながら,企業の或る作 一般的な規定を設けたとしても,それは法律的に 為・不作為に対して,何らかの法律的な不利益ま は機能しない。ナチスドイツの下ですら一九三七 たは制裁を加えるというのなら,いかなる要件を 年株式法第七〇条一項は機能しなかったのである 充したときに,いかなる不利益・制裁を加えるの から現在のわが国で役立つはずがないという(註 か,それを法律で予め明らかにしなければならな 15)。
鐸
、 梅 田:企業の社会的責任 27
(3)第三の理由としてあげるのは,一般的規定 的規定を設けるぺきであるとする反批判(森論文)
は単に無益であるだけでなく,かえって経営者の があるのでそれを先ず見ておこう(註18)。
裁量権を不当に拡大するために使われる虞れであ
〔三〕森論文についてる。社会は対立する利益に関係する集団,異質な
利益に関係する人々から成り立っているので,企 (1)森論文は,企業の社会的責任という場合の 業が相当の利益を上げた場合にそれをどの様に利 社会的責任とは「公共性」なる概念によって企業 用しても,結局だれかの利益のためになる。例え の経済的自由権を制約することである,とする。
ば,利益を従業員の給与にまわすか,商品の値下 即ち,市民法の原理は,市場経済の原理,市場機 にまわすか,いずれを行なったとしても社会的責 構,市場秩序が機能さえしていれば私益の調整が 任を果したことになる。従って,どの利益集団の 遂行されると同時に,公益も維i持増大されるとい ために行為をするかは経営者の判断に委ねられる う構造を信頼することによって成り立っている。
ことになる。会社の利益を商品値下のために用い しかし,こうした構造の展開自体が実は自らの構 ず従業員のために用いることは,一方で社会的責 造そのものを崩壊させて来た過程でもあり,市場 任を果しつつ(従業員の利益のため)他面で社会 原理に立脚することは結果として公共性を踏みに 的利益に反する行為(消費者の利益に反する行為) じる道に通ずるものであった。それ故,公共性確 をしていることになるので,どの行為を選ぶかは 保のために,憲法第一二条,一三条,二九条が形 経営者に委ねることにならざるをえない,という 成され経済的自由権の制限が行なわれた。この憲 のである。 セ 法秩序は会社法にも貫徹している。かくして「公 これは企業行動に関する総てのことが経営者の 共性」とは競争秩序維持であり,「競争秩序」が 手にまかされることだが「企業の社会的責任を主 回復されることにより,市民法原理が信頼してい 張している人々が求めているのは,経営者の裁量 た構造,市場経済=私益の調整=公益の維持・増 権の拡大ではあるまい。そうだとすれば,一般規 大が復活する,とする理解である(註19)。
定」を設けることはそれを主張する人々の意図に 森論文はこのような前提的考察をした後に,次 反しまいか,というのである(註16)。 のように述ぺる。企業の社会的責任の一般条項
(一般的規定)に反対する説の論拠は,
(4)竹内論文は・このように松田論文を念頭に ①「一般規定は内容が曖昧で権力によって濫用 置きつつ,一般規定に反対する理由を自ら三つの され易い」
点に集約したが,実はこの三つの理由は,理論的 ②「一般規定は公共の利益の判断について取締 に整理すると一つのことにまとめられる。つまり 役に広範な裁量権を与え,公益の名のもとに株主 第一の理由が総てであり,第二,第三の理由は第 の利益を害するおそれがある」
一の理由を根拠にそこから引き出されたいささか ③「一般規定は法的に意味のない宣言規定にす 次元の低い議論にすぎない(註17)。換言すれば, ぎない」
竹内論文は自ら三つの理由をあげて一般規定に反 ④「社会的責任は手段概念にすぎないから,こ 対しているものの,その根拠は企業の社会的責任 の概念自体に独自の意義・目的をもたすべきでは
という場合の「企業」「社会」「責任」のそれぞ ない」
れが多義的で意味内容が不明確であるから反対だ ⑤「民法一条があるから商法上一般規定は不要
(竹内論文のいう第一の理由)とすることにつき である」 一 ている。そこで理論的前提とされるこれらの概念 の五点である。しかし ,
の多義性をめぐる問題が検討されねばならない
が,その前に,こうした竹内論文に対して,一般 {2)①については,一九三七年のドイツ株式法
28 茨城大学政経学会雑誌第43号
第七〇条に込められた経営絶対主義確立のイデオ 号6〜7頁(対談)。
ロギーは批判されるぺきだが,だからといって社 6・松田二郎「会社の社会的責任について」商事法務 会的責任の一般的規定そのものをも否定する短絡 713号23頁。
的思考は許されない。むしろ,ドイツ株式法第七 7・松田前掲論文゜24頁・
8.松田前掲論文・25頁。ただしこの主張の意味内容○条がそうであったならば,逆にそうはならぬよ
は必ずしも明確ではない。う法解釈すぺきで,歴史認識と法解釈は逆接続的
9,松田前掲論文・27,28頁。
ネ関係に置かれるぺきである。ましてや「社会的 10.松田前掲論文・31頁。
モ任を競争秩序によって確保する」ことを内容と 11.この当時のドイツの理論状況については・新山雄
する企業の社会的責任の一般規定は,ナチス流の 三「株式会社法と企業の社会的責任論」法律時報46 イデオロギー・公権力の介入とは無縁である(註 巻9号36頁以下。
20)° 12.竹内昭夫「企業の社会的責任に関する商法の一般
②については,企業の社会的責任の内容に関す 規定の是非」商事法務722号36頁。
る判断を取締役にまかせることは取締役支配を絶 13.竹内前掲論文・37頁。
対化するが,これは公共の利益=競争秩序と解す 1生竹内前掲論文・38頁・
る考え方には妥当しない(註21)。 15.竹内前掲論文・40頁。
③については,「取締役,企業の各々が責任主 16・竹内前掲論文・42,43,44頁・
体となる」ので問題はない(主張せんとする意味 17・何故に竹内論文が次元の低いものといえるのかに が明らかではないように思われる一引用者),と ついては後に明らかにする・
18.正確にいえば,竹内論文(昭和51年1月5・]5日いう(註21)。 合併号)よりも,森淳二朗「企業の社会的責任条項 ④については,社会的責任=競争秩序なので, と公共性の法認」企業法研究247輯(昭和50年12月
アれは「手段的側面と目的的側面とを併せもって 1日)の方が早く発表されているので,時期的なご
いる」から無内容な概念ではない(註21)。 とだけからすれば森論文が竹内論文に反批判を加え
⑤については・民法第一条にいう公共の福祉と たとはいえないが,内容的には竹内論文への反批判 会社法の「公共性」とは異なるものである(註21)・ と考えるに恰好なので,行論の如くに表現しておい
一,と反論する・ た。
この森論文は検討されるぺき諸々の問題点を抱 19.森前掲論文・19頁。
えるが,とりあえず,「社会的責任」と「公共性」 20.森前掲論文・20頁。
が何故に等置されうるのかの理論及びその「公共 21.森前掲論文・21頁・
性」の内容を競争秩序の維持として理解し得るの
は何故か,の理論が欠落している点は指摘してお 〔皿〕 企業の社会的責任 かねばならない。
1・鈴木竹雄…「歴史はくり返えす」ジュリスト578号 (1)さて,既に見て来たところから明らかなよ
蕩輩一郎「蝶の社会的責任」ジユリ_8号知蝶の社会的責任に関する商法の一般規定 に反対するものは,一般規定に反対することにお114頁。 いて,企業の社会的責任までをも否定するが如き3.竹内昭夫「会社法の根本的改正の問題点」ジュリ
スト593号16頁(麟会発言)。 主張曝開しているようにみえる・事実その通り
4鈴木前掲論文.10頁。尚,より詳しくは,同「商 社会的責任を否定する見解も存する・だが,一般 法の企業法的考察の意義」73頁。 規定には反対でも企業に社会的責任を負わせるこ 5.大隅健一郎「私の会社法改正意見」商事法務713 と自体には反対しているわけでなく,それは個別
,
梅 田:企業の社会的責任 29 具体的な規定において実現せられるべきだ,とす 規定を設けるぺきであるとする松田論文の検討に
る論者の方が多数である。従って,わが国に於い 入る。これは,企業の社会的責任を「公害の抑制・
ては企業の社会的責任を肯定するのが支配的見解 消費者の保護」「債権者や従業員利益」の考慮と であるといえるが,奇妙なことに,その内実は殆 し,それは株式会社法に内在する社会性・公共性 んど論じられないままで,いわば「カラ責任」が が表面にあらわれたものと解する。西原商法学の 語られて来た。そこでこの原因をさぐるために 「公共性は商法の内在的法理である」(註3)とす
も,いわれるところの社会的責任につきより詳し る主張に類似した発想だが,果して社会性・公共 い考察を加えねばならないが,その前に,社会的 性は株式会社法(商法といっても同じであるが)
責任を否定する見解を先ず整理・検討しておこう。 に内在しているのであろうか。社会性・公共性 企業の社会的責任を商法上の問題とすることに (=企業の社会的責任)の具体的内容として考え 反対するものの論理は,私益・公益俊別の論理で られているのは,公害の抑制,消費者の保護,債 ある。即ち,社会・公共のために企業を規制する 権者や従業員利益の考慮であるので,これに即し のは経済法で,商法は企業をめぐる私益の調整を て考えてみよう。
目的とし,それぞれは法の対象たる企業の範囲も 商法(会社法を含くめて)は,所有権の絶対,
法的処理の技術も異なる。「株式会社法は会社を 契約の自由(形式的・抽象的な自由)の二大原則 めぐる株主・理事者・債権者の間の利益の調整を を基礎とした法秩序を前提に,企業(資本)が利 目的として形成された法体系である。したがって 潤を追求することを担保する法である。だから,
そのような株式会社法」に社会的・公共的利益の保 100円というインプットからどうしたら最も効率 護を課そうとも無理なことであるという(註1)。 よく最も多くのアウトプット(100+α)を生み出 つまり,経済法は公共的問題(企業の社会的責任 すことが出来るかを法秩序として担保するもので 等),商法は私益の調整問題を対象とするので, ある。従って,当然に外部不経済(公害等)の問 社会的責任は商法の体系上問題としえない,とす 題等は,このインプット→アウトプットの関係か る理解である。 ら排除されることはいうまでもなく,消費者の保 だが・商法の対象は私益の調整だといってみた 護,債権者や従業員利益の配慮の問題もこれらと ところで,その「私益の調整」の内容が不明確な 変るところはない。A, B, C………Nとある企 ままでは・論者の主張する商法の体系が客観的に 業のうち,仮りにA企業がインプット→アウトプ 論証されたとはいいがたい(註2)。ここでいわ ットの関係の中に外部不経済の問題或は消費者 れている「商法の体系」とは,社会的責任は商法 保護(製品の値下げ)を入れたとしよう。その企 上問題としえない,とする論者の頭の中にある体 業の製品はコストアップのため値上がりするか,
系であり,現実に存在するのはこれとは異なる体 利潤率の低下で企業間競争に敗北してゆく。故 系である可能性もあるし,歴史は人の考え方・法 に,あくまでも純粋に経済的効率性だけが問題と 的規制のあり方も変えるので,自らが考える体系 されねばならないし,事実,理論経済学はこのこ を固定しこれを前提に発想する主観的論理はとう とに全力を傾注して来たといえる(註4)。とすれ てい認められない。問題は,経済法と商法の体系 ば,商法・株式会社法にこうした社会性・公共性 的差異を認めつつ,尚且つ,社会的責任をどの様 が内在するとはとうていいえない。
一
に取扱うのかなのであって,自らが考えるところ 勿論,社会性・公共性の内容が論者の主張とは の体系の違いだけでは社会的責任を商法上の問題 異なる別なものに変化すれば事態は変るが,そう としえない理由とすることは妥当ではない。 でない限り右の論理は不変である。しかし,社会
性。公共性が内在する,というかような主張と,
(2)社会的責任を肯定するもののうち,一般的 株式会社は本来私的なものであっても公的色彩を
30 茨城大学政経学会雑誌 第43号
帯びざるをえない(註5)或は,株式会社は単に ものであった。しかし,企業,社会,責任の概念 所有者たる株式の利益にかかわるのみならず,多 が不明確なのは松田論文に於けるそれらが不明確
くの異なる利益集団ともかかわるので,社会性・ だとする意味ではなく,総じて「企業の社会的責 公共性を考慮せねばならない(註6)と説くことと 任」といわれる場合のそれらが多義的であり内容 は区別されねばならない。いずれの場合でも社会 を確定しえないとするのであるから,自らが主張 性。公共性の内容としては,公害の抑制や消資者 する個別規定の改善を通じて果さんとする社会的 の保護等が考えられておりその間に差異はない 責任もまた不明確であるといわねばならない。企 が,一方はそれが商法・株式会社法に「内在」し 業に負わすぺき社会的責任が明らかでないのに何 ている,とするのに対し,他方は,内在してはい を目的として,どの様に個別規定を改善するので ないが社会性・公共性を商法・株式会社法に盛り あろうか。竹内論文は,このように基本的な点で 込むべき,とする趣旨だからである。「企業の社 重大な問題を抱えるが今はこのことを問うまい。
会的責任」概念が要請するのはまさに後者のこと 本稿の目的よりすれば,より批判されるべきは,
であり,且つ現行の商法・株式会社法秩序がこの 企業の社会的責任概念が不明確だとするその論理
「要請」の原因を形成せしめたのであるから,「社 自体である。
会的責任」は商法・株式会社法上に規定されるべ 先ず「社会」に関する論理はこうである。一・
きとするのは,けだし当然である。 社会は異質な利害関係を有する集団から成り立っ 従って,問題は純粋に経済効率だけで考えられ ているので,社会に対し責任を負う(社会的責任)
ているインプット→アウトプットの関係を担保す ことは,これら各集団に共通する全体的利益のた る商法・株式会社法の法構造の内に「社会的責任」 めに責任を負うことであるから,その内容は人類 を法理として組み込めるか,換言すれば,商法・ 一般の利益の如き極度に抽象化された無内容なも 株式会社法は社会的責任を法理として取り込める のとなり意味がなくなる。従って,より具体的な 法構造にあるか,である。経済的秩序が法規範の 内容を考えざるをえないが,とするとそれはいず 形態と機能を規定すると考える視点からすれば, れかの集団の利益のためのものとなり,社会の利 外郊不経済の内部経済化の法的実現が可能か否 益ではなくなり特定集団の利益になる,と(註7)。
か,立場をかえていえば,資本制経済社会の根幹 だが,資本制社会は対立する階級,矛盾し合う異 をなす,剰余価値創出の過程(生産過程)及び剰 質な利害関係を有する階層・集団から成り立つて 余価値の現実への転化過程(流通過程)を担保す いることは自明の理であって,この構造をもって る法構造が,公害抑制問題等を論理的に含みうる 「社会」概念が不明確だとすることは許されない。
可能性を有するか否か,の問題である。このこと 現実の社会は,まさにそうしたものでしかないの の検討ぬきにして社会的責任を論じても意味がな に,これをもって社会概念の不明さを述べること く,ましてや一般規定か個別規定かの問題は二の は「社会」を語りながら社会を視野の外に置き構 次である。だが残念なことに,松田論文に一般規 成集団・単位のみを問題としているにすぎないか 定のさけびを聞くことは出来てもこの点について らである。法的な観点で「社会」をいう場合,そ の分析は見られなかった。 れは対立し合う利益集団の中の支配的な利益を意
味する。公害問題を例にとれば,多少公害が発生
(3}次に竹内論文の検討に移ろう。既に述ぺた しても利潤が多い方がよいとする集団と,利潤が ように,それは企業の社会的責任という場合の 減少しても公害が発生しない方がよいとする集団
「企業」「社会」「責任」のそれぞれが内容的に不 が対立している場合に,後者の考え方が支配的で 明確なので一般規定には反対であり,個別具体的 あればその考え方が社会の内実を形成することに 規定の改善によってそれは果されるぺきだとする なる。消費者問題でいえば,管理された独占価格
梅 田:企業の社会的責任 31 は許されないとする考え方が独占価格により不当 「社会的責任」についての社会的法感情・法意識 な利益を得ようとする行為を押え込んで支配的な の成熟度が一一般規定の是非についてあらわれると 考え方になれば,それが社会の内実をなす。これ いつてよい。
を反独占集団の利益であり「社会」とは無縁なも 無論そうはいっても,一般条項(社会的責任の のとする竹内論文は,「社会」概念そのものを故 一般規定)は両刃の剣であることに変りはなく濫 意に否定せんとする意図に出でたものという他は 用の危険性は否定しえないが,逆にそうであるか ない。 らこそ,企業活動を根本に於いて否定するが如き
我々が「社会」というのは,こうした支配的考 内容をも含みうる規定が「他人くたばれ我繁盛」
え方として顕現する利益のことであり,それが結 を至上とする利己的な企業活動を担保する制定法 果に於いて特定集団の利益に一致することであっ 秩序の中に位置を占めることが出来るのである。
ても特段に問題があるわけではない。社会は異質 尚,責任の内容については後述する。
な利害関係を有するものから成り立っているが故 最後に,社会的責任はだれが負うのか不明であ に,社会全体や各集団に共通する利益などありえ るとする論理について。一,これは企業の社会 ない,とした分析には鋭いものがあったが,この 的責任という場合の「企業」が不明である,責任 ことをもって「社会」概念を否定してしまったこ の主体は企業か経営者か不明である,とする二つ とは批判されねばなるまい。社会的責任の問題に の問題に関することである。前者の問題は「責任」
関連させていえば,社会的責任概念を否定するた の内容と相関関係にあり独立の問題ではない。例 めに「社会」が分析の対象とされたような感じを えば,「責任」の内容が紛飾決算を中心とした企 ぬぐいさることは出来ない。 業会計だけであるなら,企業=大企業といってよ
次に,「責任」に関する論理は,「社会的責任」 いが(中小企業には紛飾決算はありえない)公害 の「責任」は,ある作為・不作為義務なので,こ の抑制等をも含むものであれば・企業=企業一般 の義務内容及び義務違反のときに加えられるべき となる。従って・この問題は責任の内容の問題に 不利益・制裁が明示されねばならないが,これが 解消される。後者の問題については,単純に,企 不明だ,とするものである(註7)。たしかにいわ 業及び経営者が責任の主体と考えるぺきであろ
れる通りであるが,この論理は,松田論文が企業 う・
の社会的責任については一般規定のみで足りこれ 竹内論文は「従来は取締役の行動を通じて会社 を受けた個別規定は全く不必要だと理解している の責任を認めたが,今や理論上においても,会社 ことを仮定にしたものである。だが,松田論文は が『企業自体』として自己責任を負うぺき」と述 一般規定の必要性は説くものの個別規定の要否に べた松田論文を捉えて「取締役の行動を通じない は言及していない。一般規定と個別規定が結合し 会社の自己責任ということはいかなる意味か」理 て「責任」の内実が明らかにされる場合も考えら 解出来ないとし「誰に対する責任か,何をする責 れるから,一方的な仮定に立って無内容だと切り 任あるいは何をしない責任なのか,誰に負わされ 捨てるのは疑問である。又,竹内論文が指摘する る責任か」不明だとする(註8)。誰に対する責任
ように,松田論文が考える社会的責任規定が白地 か,の点については,社会に対する責任と答える 委任規定であったとしても,そのことが裁判官の 他はなく,これは社会とは何の問題へと発展する 判断に一切をゆだねることを意味するものではな が,これについては既に述べた。又,何をする責 い。法律の具体的な適用は裁判官によって行なわ 任,何をしない責任か,については責任の内容な れるものの,そのことは裁判官が恣意的に全くの ので後ほど検討する。そこで,ここで考察される 個人的主観でのみ法解釈をすることではなく,解 べきは責任の主体であるが,右に述べたように,
釈は社会的背景と無縁ではありえない。従って, 企業と経営者の両者を考えればよいことで特段に
32 茨城大学政経学会雑誌第43号
問題があるとほ思われない。であるのに「企業が ち込み権力的な規制の道を開く可能性をもつとと 企業自体として責任を負うぺき」とする松田論文 もに,他面では公共性概念のもつイデオロギー性 の主張を,取締役を通じない企業の責任など考え を見失なわせてしまうことになり,これに対する
られないとして誤解をするのは故意の誤解としか 警戒を怠らせてしまうものといわねばなるまい。
いいようがない。というのは「企業自体」が責任 それにしても,社会的責任=競争秩序とする森 を負うぺきとする主張が「企業自体の思想」につ 論文は,自由競争秩序の展開が自由競争体制を崩 き言及した文脈に於いて述ぺられているところか 壊せしめて来たことを認め且つこの事態を前提に らも明らかなごとく,それは一方で取締役の責任 しているので,論理としては,自由競争秩序一そ を問いつつも,或は取締役の責任が否定される場 の崩壊一競争秩序の再建一その崩壊一再建,が主 合でも,他方で取締役の責任とは区別された企業 張されていることになる。そうだとすれば,いわ 個有の責任を認めることが理論的に確立された, れていることは,単に競争秩序とその崩壊の循環 という意味だからである。例えば,新潟・熊本両 論でしかない。百歩譲って,かかる循環は自明の 水俣病事件,四日市ぜんそく事件の判決に見られ ことで疑問を抱くぺきではないと仮定しても・論
るような企業責任の理論的確立である(註9)。故 者のいうところの競争秩序が,既に崩壊せしめら に,もし問題があるらなば,それは企業に個有の れている競争秩序を再建乃至復活せしめうるもの 責任を問う理論的深化の浅さ,その更なる展開の か否か,の点は最低限明らかにされるべきであろ 少なさではあっても,責任主体の不明確さでは うが,このことも不明のままである。
けっしてない(註10)。
@ 〔二〕 商法・株式会社法の法理と
企業の社会的責任(4)森論文は,以上のような竹内論文を無批判
に受けとめ,竹内論文が松田論文に加えた批判を ω 商法・株式会社法は剰余価値追求行為を法 まぬがれるぺく,社会的責任とは競争秩序のこと 的秩序として担保することを本質とし,わけても だとして理論展開を行なう。しかし,そこには論 その最も合理的な形態である株式会社の組織と行 者自らが後に「整理の必要がある」(註11)と述ぺ 動を担保することを中心的任務とするが,その たように諸々の問題がある。何故社会的責任を競 現象形態・法的構成の仕方は必ずしも一つではな 争秩序と解することが出来るのか,或は社会的責 い。法人論が英・米とドイツ・日本で異なる展開 任を競争秩序とすることが妥当なのかの検討がな をみせるのはその証左である。従って,商法・株 い点は既に触れたが,より詳しくいえばこれには 式会社法では社会的遊休資本の集中・集積による もう一つの論理が介在している。即ち,社会的責 資本所有の集中及び,これをこえる資本支配の集 任=公共性=競争秩序がそこで採られているシェ 中を担保する法構造が,労働力の商品化を基礎と 一マなので,社会的責任と公共惚公共性と競争 する商品交換秩序を通して保証されていれば,そ 秩序の等置関係が論証されていないということで の法的構成がどうであるかは重要な問題ではない ある。又,社会的責任といわれるもののなかで最 (註13)。ただ,そうはいっても・インプットとア
も重要な位置を占めているのは所謂公害の問題だ ウトプットが最も効率よく結合するよう機能する 1
が,競争秩序が回復されるとこれが解決されうる のが資本の運動なので,経済的効率性の要請が法 のであろうか。競争秩序は社会的責任よりもかな 形態に反映するが,これについては民法上の不法 り狭い概念で,公害問題等を含みうるものではな 行為制度や経済法上の制度等が一定の制約を課し いから,両者を等置することは困難ではあるまい ていることはいうまでもない。故に,商法・株式 か。特に,社会的責任と公共性を同義語に解する 会社法の本質は不変であるが,具体的な顕現形態 ことは(註12)社会的責任の中に異質なものをも は他の法秩序をも含くめた全体的な法のあり方に
梅 田:企業の社会的責任 33 規定されることとなり,固定的ではない。 しかし,ある制度を設けることを考えるにしても,
所で,企業の社会的責任だが,これは商法・株 それには設けるための目的と方法が先行的に明ら 式会社法の現象形態に関する問題である。公害問 かにされねば,もうけるべき制度そのものを想定 題を例にとると,民法や公害対策基本法等多くの することが出来ない。即ち,自由市場メカニズム 法秩序の下に存在し解釈されている商法・株式会 を補完することが必要である,という認識一具体 社法が,なおかつ自らの中に公害抑制のための独 的には,自由市場メカニズムを補完することによ
自の規定をどう盛り込むか,の問題が企業の社会 り一定のことを実現すぺしとか,一定の状況を解 的責任の問題なのである。企業は諸々の法規制を 消すぺし,として観念される一があって,そこに
受けながら活動しているが,この企業活動がそう 一定の規範的当為が先行的に存在するからこそ, .ゲした法秩序下にも拘わらず社会的責任を問われる この当為を実現するための制度が検討されうるの
ような結果を招来している為に,しかも企業の営 である。河本論文ではこの規範的当為は「企業の 利活動がかかる事態を引き起している為に,企業 社会的責任」概念で示されている。企業の社会的 の本質を担保する商法・株式会社法上に社会的責 責任はこの意味で手段概念でもあるとともに目的 任規定を設けようとする理解である。わが国では 概念でもあるのに,これを否定することは単に無 企業の社会的責任を肯定するのが支配的な見解な 目的な制度を恣意的に設ける結果になりはしない ので,この理解は共通の認識といってよい。だの であろうか。又,自由市場メカニズムを補完する に,社会的責任論が言葉的にのみ扱われ建設的な 制度を設ければ公害の抑制等が実現されるのかも 理論が形成されず,企業に社会的責任を課すため 疑問だし,そもそも自由市場メカニズムの補完と の具体的理論が構築されて来なかったのは不思議 いう場合の自由市場メカニズムの具体的なものを なことである。何故であろうか。社会的責任が追 如何にイメージしているのかさえも明らかではな 及されている現実の中にある論理を見ようとして い(そもそも自由市場というものがありえるのか いないからである。松田論文,竹内論文,森論文 否かの点をも含くめて)。
に限らず,これまでに企業の社会的責任につき 問題点はこれだけではない。社会的責任を実現 もっとも詳しい論述をなし具体的な制度的規定を するための具体的制度として主張されているもの 提起したといわれる河本論文もその例外ではな の中心は,クラス・アクション,参加制度,ディ い。 スクロージャーであるから,そこでは企業と企業
例えば,河本論文は富永理論(註14)を下敷にし の社会的責任を問うものとの間の力関係におい 企業の社会的責任は手段概念であり独自の目的と て総てが処理される方法が採られていることにな 意義をもたせるべきでないとした後に,市場機構 る。以前から「coaseの命題」(註16)といわれて
(自由市場メカニズム)のみでは大企業が有する公 来た方法と同一のものである。だが,クラス・ア 的側面(内容は必ずしも明らかではないが,大企 クション,ディスフロージャー制度が確立しても 業が経済外的なことで社会と関係する側面である これを武器に企業にせまるにはもうひとつの制
とされている一地域社会とのかかわりなど一)を 度,例えば差止請求とか,無過失責任制度がなけ コントロールすることが出来ないので,企業の公 れば満足な結果はえられない。逆にいえば,差止 的側面での行動を規制する制度が必要であるとす 請求(公害行為の差止請求に限らない)とか無過 る。換言すれば,自由市場メカニズムを企業の公 失責任制度(より正確にはGefahrdungshaftung 的側面にまで及ばせるための補完的制度が必要で というべきだが)が確立されれば,クラス・アク あるとし,この制度としてどのようなものを設け ションやディスクロージャーはそれほど必要なも るかをたえず考えることの必要を認識せしめる手 のではない。参加制度については,労働者が取締 段概念が企業の社会的責任であるという(註15)。 役会等に参加し企業活動についての責任を何故負
34 茨城大学政経学会雑誌第43号
担せねばならないのか理解しがたいし,学識経験 とする疑問が発せられて来た。しかし,この疑問 者が参加するといっても,企業の社会的責任が問 が成立するには,株主の利益も消費者の利益も公 われることになった今日の事態を形成せしめて来 害の被害者の利益も,とにかく企業と関係する総 たのが,所謂学識経験者であってみればそれらの てのものは等質に置かれていることを前提にせね 人々に何を期待出来ようか。 ばならない(註18)。等質と考えるからこそ,いず かくして,一般規定を肯定するものは,責任内 れも兄たり難く弟たり難しで優先されるぺき利益 容を実現する手段と方法の具体化を欠き,個別規 を知ることが出来ないのである。だが,企業の社 定の改善を主張するものは,自由競争秩序が現 会的責任を問題とすることは,株主の利益よりも
実されることにより企業の社会的責任は果され 消費者の利益,投資家の利益よりも公害を出さな ●
驕i註17)などと理解不可能なことを述べるにとど いようにさせることの優先なのであって,総ての まる。就中,社会的責任を肯定する説の中にあっ 利益を等質に置くことを否定することから出発し ても多数を占める後者の主張は,法的次元では商 ていることなのである。これは剰余価値追求至上 法・株式会社法=私的利益の調整法という自らの 主義の否定と人間尊重主義であり,企業の社会的 法体系論を固定化し,この私的利益の調整を媒介 責任とは抽象的にいえばこのことである。
として社会的責任が果されるというのだが,私的 我が商法学の思想的・学問的状況を踏えれば,
利益の調整を媒介として社会的責任(あえて公共 現行法の全体的な法秩序一それは剰余価値追求至 の利益といってもよいが)が実現されたことはか 上主義の否定と人間尊重主義を含む秩序であるが つて一度もないし,現在問われている企業の社会 一に加えて更に,剰余価値追求至上主義の否定と 的責任は私的利益の調整を媒介として実現される 人間尊重主義を商法・株式会社法の指導原理とし たぐいのものではない。まさに現実を見ていない て確立すべきだとすることこそ社会的責任論の主 のである。特定の他人に直接的な具体的な被害を 要な目的なのである。従って,それは一般規定の 与えない限り権利行使は自由であるとする私的所 形態をもってあらわされることになる。この意味 有を基礎・起点とした法秩序の矛盾と自然的・人 で,企業の社会的責任に関する商法・株式会社法 工的な環境をも含くめて環境はだれのものでもな 上の一般規定は,商法・株式会社法の技術性を説 いが故に,逆に経済的力量のあるものは環境を自 きそこには世界観とかイデオロギーの対立は殆ん 己のものとして排他的に利用しうる結果を予定す どないとし,結果的にしろ大企業体制に奉仕して
る現行法制度が企業の社会的責任問題を提起した 来た商法学の支配的動向に対し,商法・株式会社 ことを思えば,法学者の怠慢はもう許されない。 法が優れてイデオロギッシュな法体系として存在 するものであることを示すとともに,新しい価値
(2)そこで,社会的責任は如何なる形態で実現 体系をもってその修正をせまらんとするものなの されるべきかを明らかにせねばならないが,その である。
ためには「責任」の内容として何を考えるかが先 無論,一般規定だけで企業の社会的責任を十分 ず確定される必要がある。企業の負う社会的責任 に追及することが出来るわけではなく,これを受 の相手方としてこれまでいわれて来たのは,株主, けた個別規定の改善及び新設が要請されるのはい 従業員,投資家,債権者,消費者.地域住民,等 うまでもない。しかし,個別規定が設けられてい 々極めて種々のものであった。だから,例えば, るから一般規定は不要だと考えるぺきでなく,個 株主の利益と従業員の利益,投資家の利益と消費 別規定を十分に位置づけ機能させるためにも指導 者の利益,というように各々がそれぞれ対立する 原理の確立は不可欠である。個別規定の改善・新 こととなり,一体何が社会的責任であるのか,社 設としては,取締役の責任に無過失責任としての 会的責任の基準と限界はどこかはっきりしない, 公害責任を盛り込むことが考えられる。自然人が
梅 田:企業の社会的責任 35 無過失責任を負うことについては民法上の規定と 人だけである。だが,経営者が会社の利益を最大限 の関係で問題が生ずる可能性もあるが,単なる自 にするかわりに,インフレ防止のために製品の引き 然人として責任を負うのではなく取締役の地位に 上げを押えること・環境改善のために貢献すること・
於いてその地位の責任を負うわけであるから,か 法的な要請をこえて汚染の減少に費用を出すこと等 ならずしも民法上の規定と矛盾するわけではな を行なったものと仮定しよう・社会的責任に答える い。企業自体については,判例理論として確立さ このような経営者の行為は,株主にまわるべき金を
勝手に使用したり(製品を上げないこと)・従業員れつつある企業そのものの行為の認定と無過失責
の賃金を勝手に用いたり(製品が上がれば利潤も多任の規定及び,差止請求を明確にすることも望ま くなり従業員への分配も多くなるのにそれをしなか
れる(企業の自己責任の法理)。労働者や消費者 った),顧客の金を勝手に使用したり(環境改善や
との関係では,労働者による自主管理制度につい 汚染の減少に費用を出すことは製品の値上がりをき ての一定の法認・約款内容に関する制限,株式の たす場合があるから)することになるが,これはも 相互持合の規制・が当面考えられる(これらだけで う経営者が株主,顧客,従業員,の代理人であると 社会的責任が十分に果されるとは思われないが, はいえない状況であり,彼は自分だけの社会的責任 具体的な規定についての詳細な検討は本稿の目的 を遂行しているものでしかない。かかる事態は認め ではないのでここではこれ以上立ち入らない)。 られない。
サンクションとの関係に言及すれば,差止請求を Friedmanはここのように主張して「企業の社会 認めること自体,或は制限に反する約款を無効と 的責任」に関する分析の甘さ,これがもつ危険注に すること自体がサンクションであって,この他に ついての認識の欠如を指摘し,「社会的責任」なる 特別にペナルティをもうけることは特に必要だと 概念は不必要であるだけでなく有害であるという。
は思われない。 尚・このF「iedmanの主張の邦訳として,土屋守章 1.鈴木前掲論文・10頁。 49年秋季特別号)322頁以下がある。
2.所謂伝統的な商法学が抱えるこうした方法論上の 9・熊本水俣病事件判決を例にとれば・法人の機関や 問題点を,企業の社会的責任との関連に於いて鋭く 使用人等の自然人の行為とは区別された企業活動を 分析したものに,森淳二朗「伝統的商法学における 考え,これを企業自体の行為と見て独自の責任を課
『社会的責任論』」法律時報48巻11号96頁以下があ す理論である(熊本地判昭和48年3月20日,判例時 る。 報696号82頁参)。勿論,法人が機関や使用人の行為 3.西原寛一「日本商法論第一巻」86頁以下。 を介さずに企業活動をなしうるか否かは大いに問題
4.そうはいっても,労働力商品の異常すぎるほどの だが・法的には,一定の企業活動については企業自 一
不等価交換や長時間労働については一定の制限があ 体の行為と考えるべきではないか,とする理論であ り,又,不当な方法によって商品を不当に値上げす る。従って・かかる理論に対して法人が自然人の行 ること等についても一定の制約があることはいうま 為を媒介せずに行動することは考えられない,と反 でもない。 論することは,社会的事実と法的構成の論理とを混 5.松田前掲論文・28頁。 同するもので,反論にはなっていない。問題は・法 α 新山前掲論文・37頁。 人個有の行動を認める理論の妥当性の検討であり,
7.竹内前掲論文・36頁。 これを頭から否定することではない。
8.竹内前掲論文・38頁。かかる竹内論文の発想は, 尚,「企業自体の思想」を認めない限り企業に個有 M∫ 0πFノ∫θ4〃2σ ,80 f認RθS♪0πε弼1f砂oノ の責任を問うことは出来ない,というわけではない。
βκs∫ 8ss 13 fo J c76αsθ1 s P/oメ㍑s, Nθω}70一 それは企業自体の思想の代表的論者, Rathenauが
酌丁砺8sεθ♪13,1970.で述べられている次の Vom AKtienwesen,1918, S.30,31,40,41.で小株 ような主張に酷似している。即ち,法人は擬制的人 主の利益を公益の名の下に切り捨てたのと異なり,
であり,従って,責任をとることが出来るのは自然 企業そのものの行為を認めんとする今日の理論は,