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社会科の改善と社会科?育の本質
著者 堀田 兼成
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 3
号 1
ページ 129‑136
発行年 1953‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5129
赦会科の改善と社会科教育の本質
堀 田 東 成
1 社会科に対する批判
最近、児童・生徒の主体性を塵んする、民主的教育に対する夜勤的傾向に刺戟され、終戦後新 しい脚光を浴びて生れてきた社会科の教育も、いろいろの事情から完全に実施されることができ す、その教育成果が未だ十分上がっていないところから、社会科に対して種々の批判が加えられ つつある。たとえば、社会科は内容が漠然として把えようがないとか、道徳的指導が欠けていると か、地理や歴史の知識に乏しいとかいうのがその主なものである。創設以来未だ日な患浸く、発 育の途上にある社会柚に対して、いろいろの人から批判の出ることはむしろ当然であり、また社 会科の健全なる発達のためにも菩ぶべき現象である。
ところで、これらの批判に関し、その模本的態度を大別すれば、次の二つになると思われる。
即ち第一は、社会科を肯定する立場のものであり、第二は、社会科を否定しようとする立場のそ れである。
前者は、社会科の狙いや方法はほぼ納得できるが、しかし現在の状態のままでは、末だ地につ いていないので、それを指導し推進していく上に多くの難点がある。
たとえば、研究の資料や施設が貧弱であり、父兄や社会一一般人の認識不足のために協力が乏し い。また学習指導要領が難解であり、研究の組織も整っていないために、教師が熱心に努刀し、
多くの時間をかけるにもかかわらず、割合にその効果が上がらないというのである。
後菅は、社会科を改造し、従来のように、修身・歴史・地理などに分解してそれぞれを独立さ すべきであるという主張である。この主張は、社会科の性格について余り知識と理解をもってい ない人々の批判のように考えられる。しかし、それらの批判のよって来る理由は考えられないで
もない。
たとえば、戦後の社会的混乱のために、社会の道義が著しく顧廃し、この傾向が強く青少年に 影響して、かれらの犯罪は漸次減少するどころか、却ってその質は悪化し、その量も増加の一途 をたどりつつある有様である。また公衆遺徳も依然として改まらず、躾は低下して一向好転のき ざしさえ見えないような悲しむべき現状である。このような社会の歴史的現実に鑑みて、ひとり 教育界のみならず世間一般にも、遺徳教育の必要が強調され、修身科の復活が問題とされるよう になって来たのである。
また講和条約によるわが国の独立を契機として、これまでの教育組織を改変し、社会利の学習 だけでは、従来行われてきた歴史や地理の授葉に比較して、当然習得すべき知識が得られないか ら、社会科の中から歴史や地理を分離して独立させ、年代史や地誌の力を養い、愛国の精神をも 昂揚しようというのである。
これらは何れも、これまでの社会科教育では、一般青少年の国民教育として満足することはで きないというのであって、社会科を学習しても、歴史や地理の知識を十分習得することができな いという現状に対する非雅の声に外ならない。そして中には自由な恩考力を養い、無条件に既成 のものに捉われない、冷静な批判力を培って、独善的でなく、しかも児童・生徒の自主性を確立 しようとする使命をもつ社会科教育は、思想的に見て危険な傾向を晴々裡に青少年に植えつける
恐れがあるとして、これを厄介視ないし危険視するむきも少くはないようである。
このような現状を直視する時、われわれはわが国の社会科は、重大なる危機に直面していると いわなければならない。この時に当り社会科放胃は、十分自己を反省しその検討を試み、この現 実の批判に対して、如何に善牲すべきかということを慎重に考慮しなければならない。
ところで、上に述べた批判の中でも第一のものは、根本的には既に社会科を承認して怠り、そ の批判は、教師が末だ馴れていないところから来る実際指導上の問題であって、もし正しい意味 での社会科の要領が十分納得され、指導の技術に多くの工夫が凝らされたならば、それは比較的 解決し易いものであろう。
ところが、社会科は日下発育の途上にあるから、学習指導要領が簡明に過ぎて理解が田嬢であ ったり、適当な教科書や参考書に乏しく、学級の人員が多きに過ぎ、小学校・中学校・高等学校 の連綿が不十分であるなどというレ、ろいろの欠品を含み、指導上閑雅な点のあることもまた否定 することはできない.従ってわれわれは、これらに対する批判を率直に認め、諸瞳の欠点を連かに 改善し、是正しなければならないことは勿論である。しかし、それは社会科の性格に動揺をもた らすようなものではない。然るに弟二の批判に至っては、社会科の根本的性格に関する重大な 問題ごあるから、この間題に対しては、周到の呪憩のTに梶本的解決が講ぜられなければならな い。それにはまず、社会科の本質を反省し、これを十分吟味してその基本精神を正しく理解し・
明確に把握しなければならない。従って、ここに社会利教育の本質の究明が問題になって来るの であるが、それに先だって、一応社会科の発生について考察することとする。
2 社会科発生の由来
およそ、そのものの発生とそのものの本質とは、区別して考えなければならないものではある が、そのものが如何なる必要性に基いて起り、如何なる過程を経て発達して来たかということ
と、そのものの本質とは、常に深い関係をもっているものである。そしてこのことは、社会科に ついてもまた同様にいい得ることである。
終戦後の日本は、これまでの封建的、即ち人間性が軽んぜられ、不当な弓鍋りが通用した社会と は著しくその趣を異にする民主的、即ちすべての人々に人間としての権利を保証する、責に自由 な社会を築きあげることを目的とした。従って教習の目的もこの基本線にそって、民主的社会の 建設に貢献し、その進展向上に寄与する民主的人間を育てることに変った。
然るに現代の日本人は、近代社会に怠ける個人の自覚に乏しく、民主的社会の根底をなす自他 の人格尊重の観念に欠けている。また折糾乍られた民主的法律や制度も、これを運用する国民の 見方・考え方・把え方・生活の仕方などが時代に遅れているために、家庭やその周囲に封建的残 淳が横たわり、いろいろの矛盾や不合埋が散在している。この現実をば教育の理想に近づけるた めには、われわれは民主的な時代的感覚を顔く働かすように努めねばならない。
これを道徳について考えて見るに、既に教育の根本目橡が変ったのであるから、道徳に対する 考え方やその指導の方法もまた、おのずから改変されて民主的なものにならなければならない。
即ち遺徳薮青は、従来の修身強青のように、児童・生徒の関心に無頓着に徳目主義をとり、若干 の徳目を説教し注入することによって、児童・生徒を機械的に一定の型にはめ込むような、一方 的な他律道徳は避けなければならない。そして自己の置かれてある現其の社会を深く理解し正し く認識することによって、その社会に対する自分の正しい自主的態度を、内から生み出す民主的 なものとしなければならない。
また知識においても、これまでのように、学習の主体である児童・生徒の心理を顧みることな
く、教利害を唯一の依り所とした、教師中心の一方的な詰め込み主義の態度は、根本的に批判さ れ改善されなければならない。個人の独立性を無視して、徒らに受動的立場におくことは、児 葺・生徒を自主的自律的な人間に育てあげることを妨げ、個性の伸長をはばむものである。しか も、かようにして機械的に外から注入された知識の実際生活上の効果が、甚だ疑わしいものであ ることは、もはや議論の余増のないところである。知識は敢て実用主義者の言を待つ恵でもな
く、実際生活に頁に役立つものでなければならない。
これを地理や歴史に関する知識について考えてみるに、児童・生徒は、歴史や地理の学問的体系 的知識については、未だ興味や要求を余りもってはいない0従って折角教えられても、それが身に つき生活に役立つ域にはなかなか達しかねる。それ故、歴史や地理について導指されなければな らないことは、大人によって既に組織された体系的知識ではなくして、児童・生徒が直面し、深いl 関心をもっている生活上のかれらの問題を、歴史的にまた地理的に考えたり把えたりするその態 度である。このような態度の指導を受けることによって、かれらは自分の住む社会を深く認識し て、おのすから自主的自律的統一のある人格を形成していくのである。戦後の日本の理想の変革 に基き、教育上、上に述べたようないろいろな点が考慮された結果、従来の分化された修身科・
歴史科・地理科を廃棄して新しく社会科が誕生するようになったのである。従って新しく生れ た社会科は、これら三教科の単なる寄せ集めではない。それは全く新しい特有の学習組織であっ て、寄せ集めであることはできないのである。従って寄せ鍋学習とか悪調整などと許せらるべき ものではない。社会科は虎に分化されたものの統合ではなく、むしろ分化する以前のその根源 に立ち退り、そこからじかに出発しているものである。社会科の性格を考察する場合、この点は 明確に認識してあかねばならない。
3 社会科の本質
2において述べたように、社会科は分化された修身。地理・歴史の単なる統合ではなく、それ 自身一つのまとまった学習組粒であって、一つの玖科として、特殊の分野を占めている。即ちそ れは、社会生活に怠ける具体的な、統合されたものをもっているのである。その統合されたも
のというのは、児童・生徒が深い関心をもち、社会もまたそれを問題とするところの、社会生活 上の具体的な現実の問題なのである。そしてこれが即ち社会科の学習内容をなすものである。
しかしここにいわゆる問題というのは、児茸・生徒が問題として意識するすべてをいうのでは なく、それらの中でかれらの要求と社会の要求とが一致したものであじ、その間題は更に次の間 題を喚び起し、次から次へと発展性に富んだ、社会生活上の現実の問題である。そしてこの間越
と取り組んで、自主的にその間題を解決していこうと努力することが、いわゆる社会科の問題解 決学習なのである、この問題解決は、児章・生徒にとって抽紫的な意味のものではなく、あくま でもかれらの実際生活に基き、かれらに密着した具体的性質のものである。そしてこの間題は、
児童・生徒が深い関心をもつものであると同時に、それはかれらの能力の限児内にあるものでな ければならない。もしそうでなかったならば、かれらは積極的にその問題を自分の切実なものと して取り組み、是非解決しようという熱意をもつことはできない。そしてこの間題は、生きた柔 軟性のある統合されたものであるから、それを自主的創知加こ解決していくためには、常に生き
生きとした弾力性のある見方・考え方・把え方をすることが大切である。即ちその方法は力動的 であって、固定したものであってはならない。これが社会科の指導がむつかしいと言われる一つ の困難な点である。このような問題解決の唱程を通して始めて、自分の生活の中から領極的に問題 を見出し、社会共同の問題解決のために、自分の最善をつくして協力していこうとする態度や、
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不断にかれらの生活を向上させていく能刀をも身につけることができる。
ところで、ここに解決するとレ、うのは、直ちに完全に解決してしまうという意味ではなく、場 合によっては速かに解決されることもあろうが、また時間を要することもあろう。或は最後の解 決に達する場合もあろうが、またそうでないこともあり得る。ここでは、必すLも速かな最後的 解決のみを問題にしているのではない。宴はただ、理論的科学的に問題を解決し処理していこう
とすることにあるのである。
しかし、この間題を解決するには、客観的に正確な方法によってなされなければならない。
従って、問題解決に必要なるあらゆる知識や技能が使用されなければならない。ここに基礎学習 が問題になって来るのであるが、私は基礎知識というようなものはないと考える。しかし新しい 問題を解決するに役立つ既習の知識を基礎知識というならば、それはその限りにおいて可能であ
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ろう。そしてこの意味の基礎知識を養うためには、すべての学習の際に必す要点を整理して、児 童・生徒にそれを明確に把握せしめることが肝要である。兎に角これらの基礎になる知識や技能 を駆使することによって、児童・生徒がかれらの直画する具体的な間題に悩み、矛盾を含んだ現 在の状態を乗り趨えようと努力することこそ、やがてかれらの将来の田錐を克服し、社会の進展 に貢献する貴い経験や力を身につけることになるのである。
そして社会科は、児童・生徒をば、或一つの方向に導こうとするのではなく、かれらの置かれ てある社会関係を深く理解し、そこにおける自分の位置をはっきりと自覚することによって、み ずから正しい方向を選びとる力をかれらに獲得させようとするものである。この意味において社 会科は、他の如何なる圧力にも屈することなく、自由に批判することのできる自主性を確立する ことを巨拍勺とするものであるということができる。即ち社会科は、責の自己を樹立することを目 ざすものである。ところで、このような自己を樹立するためには、どうしても確かな知識によら なければならない。社会柚まかような知識を獲得する方法を自分でもっている。それは即ち問題 解決法である。その問題解決というのは、しばしば述べたように、矛盾を含んだ現在の状態を乗
り趨え、不合理た合理化することに外ならない。このような問題解決の方法を通じて、始めて正 しい知識や理解が得られるのである。
しからば真の知識とは如何なるものであろうか。それはそれを獲得すれば、直ちにものの考え 方や見方や行動の仕方に反映する筈のものである。それは王陽明の知行合一のように、実践と離 れることのできないものである。実践の裏付けのない知識は抽象的にして具体性を欠いている。
社会科のいわゆる知識というのは、質の高い応用の利く、だんだん発展して伸びて行き、次々に 新しい知識を生み出す活きた力をもったものである。
民主的な新しい人間は、みすから考えて決断し、十分責任をもって行動する自主独立の主体で なければならない。この独立した個性の主体は、問題解決によって得られる確かな知性の働によ って始めて養うことのできるものであって、こむ自律性自主性を確立し、自分の社会における立 場と使命を十分自覚して、蹟極的に社会の進歩と改善を図ろうとする人間を育成することが、即 ち社会科の本質なのである。
4 社会科と新しい道徳教育
3において述べたように、社会生活と児童・生徒との関係を十分認識し、かれらのその社会にお ける位置と使命とを明確に自覚させることによって、かれらのとるべき好ましい生活態度をみず から発見させることが即ち社会科の任務である。社会科は民主的社会の正しい人間男係の在り方 を考えさせ、新しい民主的道徳的の実践を身につけさせることを根本の狙いとしている。即ちそれ
は、人間観・社会観を確立させることによって、新しい道徳観を確立させることに外ならない。そ してこのことが、道徳教育に関し、他の教科と異なる社会科のみのもつ特殊な使命なのである。
ところで、この社会における児章・生徒の自主性、主体性を育てるには、どうしても努際の社 会生活から離れることはできない。もし離れたならばその自主性は単なる独善に陥ってしまう。
独善は社会生活においては許されることはできない。それ故この独善に陥らないでしかもしっか りした自主性を養うためには、絶えすかれらが直面している、具体的な問題を解決していく実践 によらなければならない。社会科が、その学習の方法として問題解決法をとる理由はここにある のである。
元来社会科は、極力この独善を排除するとともに、あくまで自己の主体性を確立することを日 榎とし、それに役立つところの人間男様即ち社会た認識し、それを十分に把握することを狙いと するものである。そしてこの社会の理解と認識によって、始めて自己が明かになりその主体性も 確立するのである。
このようにして、社会の把握と自己の主体性の確立とが、内面的に密接に結びついているとこ ろに、われわれは社会科と道徳教育との問に、密接不可分の深い開拓のあることを見ることがで
きる。自分の直面する問題と取り組んでその解決の困難を克服し、自己の自主性を確立して統一 ある生活態度を向上させることは、遺徳上長も重要なことであるが、それは知性を離れては考え ることのできないものである。ただ知性を媒介とすることによってのみ道徳的態度は、より優れ たものへとだんだん発展し向上していくものである。新しい遺徳は、この点に深い配慮をめぐら している。即ち新しい道徳の考え方は、遺徳性の根底に知性の欠くべからざることを認め、両者 の間の不可分的緊密な関係において道徳の成立を見てレ、るのである。このように考えると、社会科 の在り方と新しい置徳教育のそれとは、全く一致しているものであるといわなければならない、即 ち社会科の許憤そのものがそのまま遺徳教育の狙いなのである。しかしかくいうからといって、
道徳教育は社会科だ:ナで完全に行うことができるというのではない。常に言われているように、道 徳教育は学校のすべての教科において、またあらゆる機会を通じて行われなければならないとい うことについては、少しも変りはないのである。この道徳教育が、全教科によりあらゆる機会に 行われなければならないということは、新しい遺徳教育の性格から来る必然的結果である。もし 社会科が道徳教育を自分だけで行うことができると自負するならば、それは新しい道徳教育を歪 めるものであるとともに、社会科の教育そのものをも誤るものといわなければならない。ただ ここで強調することは、遺徳教育において、社会科はその中核的位寮を占めているということであ る。即ち社会科の教育は、やはり遺徳教育の一部に過ぎないのではあるが、それは単なる一方面 にとどまるものではなくして、中核的根本的部面を占めるものであって、もしそれが欠けたなら ば、道徳教育はただ伝統的習慣や自然的心情の保持にとどまり、正しい理論的根拠を失ってしま
うということである。
新しい遺徳教育をこのように考えてくると、近頃遺徳の所廃を憂えその振興を図るた捌こ、遺徳 に関する特定の厳科を詑けることの必要を提唱する人々の意見には、賛成することはできない。も し過去の修身科のような特定の畝科を設け、そこで専ら道徳教育を行う場合には、おのずから活き た人間を形式化し、実践力のない窮屈なものにしてしまう。そしてそこに生れる道徳は、各個人の 知性に裏付けられることが乏しく、外からの強制に基くことが多いから、いきおい虚偽がまじり、
表裏があるようになることは免れ難い。それ故、人間生活の生休において意義をもつべき道徳が、
硯笑生活から浮き上がって力のないものになってしまう。このことはやがて封建的な立場の道徳を・
復活させることにならないとも限らない。これは、貴近漸く封建的穀から脱け出して、児童・生徒の 行に表裏が少く、明朗率直になりかけた新しい道徳教育の成果を破壊しようとするものである。従 って、新しい道徳の立場から、修身科のような特定の厳科を設けることは認むべきではないと患う
次に文部省は社会科の改善方筆において、「民主的社会における道徳生活のあり方の理解や、
道徳的判断力を育てることは重安であり、これに対しては、社会科が特に寄与しなければならな い」と述べているが、これは一教科としての社会和における道徳教育の使命を明確に指摘してい るものである。
また「社会公共のために鼠すべき個人の立場や役割を自覚し、国を愛する心情を養い、他国民 を敬愛する態度」を育てることの必要を述べ、これらが、「地理・歴史・政治・経済・社会などの
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分野の学習をとおしての科学的理解と広い視野のもとに、おのずから育成されるようにすること が特に肝要である」と説いている点は、徳目に対する新しい見方によるものと考えられる。
なお中学校においては、生徒が青年前期の心理的特性を表わしてくる時期であり、また養務教 育の最終段階にあるという事情から、「道徳生活について深く考える機会を与える単元を設ける
ことが適当であろう」と述べている点は、まことに適切であると考えられる。
5 社会科と歴史・地理の教育
国民の教育上、歴史や地理の教育は大いに尊重されなければならないことはいうまでもない。
しかし、このことは必然的に歴史・地理放首は、社会科から分離し独立して宥うのでなければ、
不可能であるということを意味するものであろうか。否むしろ、われわれは、歴史や地理を社会 科から分離することによって、却っていろいろな誤解を招き、歴史・地理教育そのものの真の狙
いが中心から外れる恐れのあることに尚意しなければな.らない。
社会科の教育は、元来児童・生徒を既定の方向に導いていこうというのではなく、むしろその 主体性に基いて、自由に己の方向を選ぶ力を養おうとするものである。
勿論、歴史は史観によって編まれたものではあるが、一定の史観だけを強いることは、教育の正 しい態度ということはできない。自分で自由に史観を選ぶ力を養うのが歴史教育本来の重要な使 命である。
しかし義務教育を受ける児童・生徒の発達の段階では、或史観によって組織された歴史を学習 させるのではなく、かれらが直画する具体的な生活の問題から出発する学習によって、いわゆる歴 史的なるものに触れさせることが歴史教育なのである。元来児童・生徒が歴史の力をもっている というのは、歴史学の知識を具えているということではなくして、ものを歴史的に見たり考えた り把えたりすることができるという意味でなければならない。歴史教育は、どこまでも教育であ って学問ではなく、人間形成を目的とするものである。
さて歴史は、社会科から分化して教育すべきであるという主張について考えてみるに、この忠 恕は、講和条約の締結によるわが国の教立を契機として、第二次大戦後の、国際情勢の緊張に基
く世界的危機に直面するに当り、左右の両陣営に寓する人々から、時を同じくして提唱されるよ うになった。しかしその理由は、各々異っている。即ち国家主義の復活を意図する保守的伝統主 義の人々は「系統的な日本の地理や歴史を教え込むのでなければ、真に祖国を愛する立派な日本 人を育成することはできない」という見地から、分離した雁史・地理教育を強調するのである。
これは一般に広く行われている考え方であって、確かに否定することのできない面をもっては いるが、他面大いに検討を要するものをも含んでいる。即ちこの恩想は、従来の自国至上の歴 史・地理教育の内容や方法に対して、少しも反省や批判を加えることなく、徒らに過去への郷愁 に捉われ、過去の伝統を全面的に肯定するものである。そして人間の人格を形成するためには、
知識は如何なる性質のものでなければならないかということについては、余り恩鹿がめぐらされ ていない。ただ戴戒の歴史や地理を教えさえすれば、愛国心に満ちた立派な国民を養成すること ができるというこの考え方は、余りに単純にして時代的感覚にうとく、甘きに過ぎるものといわ なければならない。児童・生徒がさほど要求や関心をもたない紅もかかわらす、教師が一方的に 体系的な憎史的知識や地理的知識を授けてみたところで、余り効果のあるものではない。即ちそ れが、かれらの身についた力となり、祖国を愛し、頁にその安生と幸福のために積極的に貢献し ようとする、愛国の心情を養うことに役立つとも考えられない。かりにこのことが可能であると しても、そこに養われる愛国心は、排他的にして偏狭なものに過ぎないであろう。このことは、
過去の事実が十分証明しているところである。われわれは、再び同じ過誤をおかしてはならな い。責の愛国心は、ヒューマニティーの立場に立った国際性をもったものでなくてはならない。
正しい意味の歴史薮首は、政策の単なる道具となるようなものであってはならない。むしてそれ は、政策に対.して正しい方向を示唆するものでなくてはならない。
上に述べたように保守派の人々は、歴史教育をば、従来の伝統を保持するために利用しようと するに反し、唯物史観に基く社会主義の立場をとる進歩派の人々は、自分たちの抱く既定の方 向によって、社会を改造しようとしてレlる。即ちわれわれの視覚が、いわゆる六公四民というよ
うな重い年貢を取り立てられて、如何に長い間抑圧されたか、またその不合理にめざめた少数の 心ある人たちが、如何に苦しい抵抗を統けて来たかという、庶民苦闘のあとを、歴史教育を通じ て、児童・生徒に教え込まうとするのである。
元来社会科は、自主的立場から現実の社会生活を正しく渓く理解し、不断に社会を改善し向上 させることのできる人間を育成することをもって、その本質とするのであるから、この点におい ては、いわゆる進歩派の人々と、全く一致するのではあるが、その改善の根本的態度において は、両者は著しく趣を異にするものである。即ち進歩派の人々は、既に定った方向へ意識的に児 童・生徒を導いていくことを狙いとするのであるが、社会利はそのような方向を他に強いること を極力いましめるのである。党にも述べたように、社会科は児童・生徒をして、みずから自由に 正しい方向を発見し琶びとるその力を、かれらに獲得させようとするものであって、この教育上 の態度は、社会科の長も根本的な性格に基くものである。従ってわれわれは、両者の態度の問に 天地の差のあることを十分自覚し・教育の中立性を確保しなければならない。即ち教育の客観 的立場は、常に真実を求め、不合理のものを合理化し、矛盾を克服して前進する自主的な児童・
生徒を育成することを狙いとするものであって、一つの方向に奉仕する偏狭な人間を育てること であってはならない。
文部省は社会科の改善方簡において、「歴史教育にあいて狭い国家主義に陥ることなく、科学 的世界史的立場を堅持する」ことを述べているが・これは当然のことといわなければならない。
G 結 論
なるほど現在のわが国の社会状態は、ひとり倫理・道徳のみならず、経済・政治・社会などの 画にあいても、決して健全であるということはできない。しかし、これは今日までのいろいろな 精神的ならびに物質的事情の相互関連の結果に基くものであって、このような望ましくない歴 史的現実の責任を社会科だけに帰すべきであろうか。
勿論社会科は、教科の性質上大いにその責に任じなければならないのではあるが、従来社会科 の教育が宜しきを得なかったがために、現状を招くに至ったのであるとのみ考えることは、いさ さか速断に過ぎるものといわなければならない。わが国の社会科は、和和22年9月に発足してか
ら今日に至るまで、未だ六年余りしか経っていない。義務教育九ヶ年を通じて社会科を学習した ものは、まだ一人もいない筈である。しかも社会科は、全般的にはなお完全に行われていないと いうことは、教育者みずから等しく認めているところである。教育の効果は、さほど簡単に上がる ものではなく、長い年月を蚕する。特に社会科教育の狙いは、社会的存在としでか人間の考え方
・感じ方・行動の仕方をぼ、かれらの社会生活そのものを通じて、根本から改造しようというの であるから、それは外からのっけ刃のように、簡単に成果をおさめることは困雉である。それ故 われわれは、余りあせらす、しっかりと足を大地につけて、社会科みずからの道を着実に進むべ きである。それにもかかわらず教育の効果を急ぎ、漠然とした世評に煩わされて現に社会科の改 変が企てられつつあるようなふしがないでもない。勿論社会科の含む欠陥は率直に認めて、ためら うことなく、連かに改めなければならないのではあるが、徒らに世の批判に捉われ、あわてて社 会科の改善を図ろうとして、事志と異り、却って社会科の棍本宿仲から逸脱し、改悪の結果をも たらすような愚をおかしてはならない。筍もそれが社会科の改善である限り、それは社会科の本 質に基いてなされな周tぼならない。もしそうでなかったならば、それは改善ではなくして、む しろ改悪といわなくてはならない。文部省も規に、社会紬は従来とても基本的な狙いは正しいと いうことを認めている以上、この点はどこまでも堅持しなければならない。現在の社会科改善 を、われわれ社会科教育に関係するものの直画する具体的な問題とし、この問題と勇敢に取り組 み、これを理論的科学的に解決して、正しい社会科を明確に把握し、その健全なる発達と徹底に 寄与することこそ、社会科教師の生きた問題解決学習というべきであろう。