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雑誌名 農村の変貌とその社会教育的課題: 石川県森本町八

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農村の変貌とその社会教育的課題: 石川県森本町八 田を中心として (その一)

著者 金沢大学社会教育研究室

雑誌名 農村の変貌とその社会教育的課題: 石川県森本町八

田を中心として (その一) ページ 1‑99+32p.

発行年 1961‑10‑15

URL http://hdl.handle.net/2297/46625

(2)
(3)

農村の変貌とその社会教育的課題

石川県森本町八田を中心として

(その

昭和三十六年十月

(4)

と畑“へぶ`召星襲�- .,..- :• -�. 、

河北潟における漁某 河北潟への通路

埋立地における耕転機

集村 と し ての八 田

(5)

八田の位置

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第 二

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第二節

みがなされているか、

農村としての性格と当面する諸問題

諸問題に対応する慈識

中 野

第節 rJ 汀牙 ま し

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森本町八田について

き 活をきりひらいていくためにどんな能力が必要とされているのか、 すなわち、これまでにあきらかにされてきた、八田の人々の生活条件、 こうしてわれわれが今後とりかかろうとしている次の研究段階では、社会教育的課題そのものを対象とする。

その鮒決のための方途が蔚ぎ出される科学的よりどころが確立されると考える。

八田の地理と歴史永

ならびに生活認識の実態から、これからの生その必要性を充すためにどのような教育的いとなということを客観的に調査し分析したい。そうすることによって、

社会

教育の課題をより明確

おわりに、本晶往の実施にあたっては、森本町当島の御似訟をはじめ、八川の人々の全而的協力をうけることができたことを、財政面におけるアジア財団の援助とともに感湖する次第であるC

第一次調査は昭和三五年八月八日より二二日まで一四名の調森只(教官五名、

守 良 治

守 良 治

学生九名)によって行ったニニ―戸の全数聴取調荘であり、第二次調在は昭和三六年二月二五日より三月一日まで一―――名の淵任員(教官五名、学生八名)によって行った悶業経営主•主婦•青年それぞれ三分の一の抽出による一九六名の聴取調在である。なお本報告げの執筆担当は次の通りである3

- 6 -

(13)

第三章

(口)マス・コミ

総括と今後の課題

り 政治意識 第四節政治意識とマス・コミ

新 谷 賢 太 郎

守 良 治

幸村

第三節

農村青年の場合

永 守 良 治

第二節

主婦の場合

第一節

農業経営主の場合

中 野

-7-

(14)
(15)

腹村にもおしよせて、そこに新しい意識の動きが感じられる。 寛文の頃、八田の米の実収一00七•一石に対し、年貢ならびに付加税その他の負担金を米に換算して差引くと、

貢や諸がかりとして賦課されている上に、五年に一回の割で凶作が見舞ってくるという村における農民の生活がいか

にみじめなものであり、農業と漁業が兼業できる恵まれた地域であるかのように見えて、その生きる道のいかに厳し

八田の村史が漁業権の確保と、水利問題から発生する争斗史をもってかざられているのも、こうしなければ生きて

いけなかったところからきているといわれるのはもっともである。明治11―年河北潟中に加賀藩の士族達が笠囲漁業

を営もうとしたのにたいし、魚類減少の立場から反対した八田の漁業者惣代の言葉に、「本村ノ如ク人口多クシテ耕

地少ク、数百人ノ漁業者ハコノ溺二因テ往古ヨリ漁業ヲナシ、生活ヲ営ミ来リシ者ナレバ、彼ノ簑囲漁業ヲ陸続営ム

トキハ本村漁業者ノロ糊ヲ失スルコト唯目前ニアルナリ」とは決して誇張の言ではないであろう。この事件は明治六

年に端を発し、三三年まで実に二七年にわたる大係争事件となったのであるが、

り、裁判沙汰にもなっている。又明治三0年から三二年にわたる三ケ用水についての争いも、郡県に対する訴願運動

であり、最後に大審院まで訴えて、 それは県に対する訴願述動でもあ

ついに敗訴になった大係争事件であった。その間多少暴力沙汰にもなりかねまじ

き殺気だった険悪な状態にもあった。

これらの事件はいずれもやむにやまれぬ生活に密接した問題に起因している。

しかしこれらはいずれも普通の漁業権争い、水利争いに終始し、イデオロギー的な色彩は全く見られない。

これに対し、大正七年の河北潟埋立反対事件においては、やや趣を異にし、大正のデモクラシー運動の余波が多少

すなわち、大正七年、金沢の早川純三郎、飾屋与右ヱ門

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野気の上野寛一等一五名が、発起して河北潟埋立五力 かったかがうかがわれる。 残高僅かに一八0石、当時の人ロ一四九五人に対し、一人1年米一斗二升の割合となるという。実収の米の八割が年

-9-

(16)
(17)

功し、 労のみ多くして、酬いられるところが全くない状態におちいることもあった。

自分の部落内に水田の耕作をしたいという村民の悲願は、ここに一転して、従来反対しつづけてきた河北勧埋立を

作地三二町、小作地八六•九町余という状態、すなわち総耕地に対する小作地の割合が七三•六%であったものが、嬰地改革後自作地―ニ―町余、小作地が四町余、小作地の総耕地に対する割合が一―-•五形に過ぎなくなった。漁業においても、農地改革にも匹敵する

改革が昭和二四年四月に行われ、

場を白紙とすることになった。この客観状努の変化は、従来頑強に河北糾の埋立に反対してきた村民を一転して、非常なエネルギーをもって、埋立遂行にふみ切らせたのである。解放された村民たちはここに百年来の懸案であった埋

立事

業を新しい革新的エネルギーをもって推進し、ここに給費用六、六七0万円、埋立地三0町歩余の股地造成に成二戸平均一・―町歩を所有するに革った。しかも彼等は所有地の増加に成功したのみならずその質的向上にも成功した。すなわち土地改良の事業である。これより先八田では昭和二六年より二九年まで土地改良事業として区画整理をはじめ、その完了後引続き交換分合を行い、全耕地の三割をなし了えた。しかし八山の土地は低湿地閤で、もともと埋立地であるから梅雨期には潟の水位が商くなり特に豪雨の時には全面冠水して、三l五割の減収は普通で、時には収穫皆無に近い悲迎に咬くことも度々であった。そこで八旧、大場の両地区で、潟の低土を浚渫して、酸化鉄を含んだ腐葉の混合した肥沃な殖壊土を以て客土し、その土性並びに排水の改良、尼料の逃辿防止を図り、らに冠水被害による減収を防ぐことに成功したのである。時に昭和三三年七月の事であった。

かくて八田の村の区画整理土質改良とともに嬰業機械化も可能となり、従来の田馬に代って、耕転機は軽快な爆音

戦後新しく近代化の嵐が村に入ってきた。 自分等の手で実行しなければならなくなった。

今までの封建的漁業閥度が打破され、

れを裏付ける農地改革によって、

その亜

さ 従来の漁 昭和二0年―一月二三日現在の自

- 11 -

(18)

姉人学級等を通じて新しい村造りの力も作られなければならない 公民館活動におい を立てて悶耕の近代化を告げ、米価の安定と共に新悶村の黎明を告げるかの如くであった。しかし第三次産業革命ともいうべき産業界の飛躍的発述はいわゆる所得倍増などのかけ声とあいまって、悶村の大転換を求め、ここに削りffJ

苦難多き道を歩き、漸くこれを元服して前途に光明を見出したとき、ここに再び、である。これをいかに切り抜けるかということは、であるが、 ひとり八田だけの課題ではなく日本の全農村の直面している問題八田はこれに対しいかに対決しようとしていくのだろうか。 より大きな転換期に匝面したの

かって埋立事業を遂行し、区両整理、客土市文を完成したエネルギーはなお力強く残っていると思われるが、しかし今日の時点において八田の直面している課題はそれ程明瞭に規定できるものでない。それは個人的に解決し得る問題よりむしろ集団的共同的に問屈を解決せねばならぬものが多い。そしてこの課屈解決のためには村民の理解と協力がもっと必要であり今後の社会教育の煎点もこの観点の上に立てられねばならないであろう。八田の社会教育の歴史の上において、もっとも古いものは仏教関係の講であろうと思われるが、これは現在の当面する課題の解決の上に貢献するところは少いであろう。昭和二二年に成立

した

PTA活動は新しい教育理念を理解し、良い教育環境をつくる上に役立っていると思われるが、社会教育が主体性をもって行われるセンターとして、昭和二八年八月公民館が完成したことは八田の社会教育史の上で一時期を画す

るも

ので

伝統的団体としてクラプがある。その起原は旧く背の遊び宿に発するもので、現在においても娯楽中心の同一年令者 みとなり、もり上る力としての社会教育が公民餡の発足によって、解梢するようなことがあってはならない。八田の しかしそれがいわゆる公教育として上からの一方的社会教育のし、生活改善の迎動もすすめられなければならない。 て、青年学級、青産研、成人講座、股事研究会、 あろう。 に立つ農村の苦悩が大きくクローズアップされてきた。

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(19)

の集団であるが、その団結は同く友情は濃かである。そしてそれは互に相戒めて仲間から犯罪人など出さないという効果はあるようであるが、その結合意識は前近代的な傾向が強く、新しい村造りの原動力となるためには、クラブ活動の近代的脱皮も必要とされるであろう。(八田村の歴史参照)

- 13 -

(20)

とはいうまでもない。 八戦前の上地所有閃係v があるからである3 しても、 ならない、 るためには、われわれは先ず、八田の罠村としての性格を把握し、 八田が当而する社会教育上の問頌が何であり、

変化しつつある現実相を客観的にとらえなければ

と考えた。教育があくまでも社会現象であるかぎり、

教育上の語問凶をただ教育という領域に限って検芯 そこ

から生み出された結論は、

て考察を加えようとした)

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土地所有と経営面積の実態

であったように、

次調査結果の分析

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それ がどのような社会的姑盤につながっているか、

しばしば坦実の間頌の解決にはさほど脊与できない空虚なもの

になるおそれ

第一次調介では、このような立場から、今後の調行をすすめていくのに必要な個々の農家についての埜本資料の作成を必図すると詞時に、日八川における土地所行と経営面積の実態、口兼文の進行状況、国生活、文化の特質につい

すでに前節でも述べられたように、戦前における八田の土地所有をめぐる地主・小作関係は、いちじるしく前近代的であり、全耕地をわずかにこ二名の地土が所打し、河北糾の漁文権も一0名ほどの人々の独占となっていた。そうした所有関係が地主と小作との封建的な人間閃係をきびしく成立させていたこ(「八田の歴史L二O-l二0三ページ参照) 1第 第二節農村としての性格と当面する諸間題

をあぎらかにす

日本農村全体がそう

昭和110年―一月現在における自作地と小作地の面積は、前者が三二町歩、後者が八六•九町歩となっており、仝

- 14 -

(21)

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嬰地の約七二•六冤が小作地であった。これは石川県の小作地の全四地に対して占める割合が平均四0形であったの

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年にはじまるがこの改故を柏極的に受入れる屈盤があったので 悶地改革における土地買収および必渡しは只休的には昭和 、oし いちじるしく多い数字であり、股地がいかに少数の地主に集中していたかをぷすものである)

われわれの調野は、戦前については、被涸奔者の記佗にもとづいて行われたので、

表によって、戦前の土地所有ならびに経営形態の特質はつかみうるであろう。

これでもわかるように、戦前では、白作がわずか三二戸で、全

休の一八グクにすぎず、 正確ではないが、それでも次の

他は何れも経常耕地に小作地をふくむか

二戸あたりの平均は約0•八町歩にすぎなかった

したがっ

て、

そう した耕地の狭さは、オ田・花川・大場への出耕作によっ

て補われていたのであり、閃業収人の低さは、憔文叫によってカ

八農地改革と戦後の土地所有v

戦前の土地所有の形態が右のようであっただけに、戦後の叫屈地

改革の意義はここ八田においてはとりわけ大きかったといってよ バーされていた。(「八田の肝史L二00ページ参照) ず、 しかも、戦前の八田の耕地は、

附和一五年で――iO附歩に翡た

(四六形)、仝くの小作であったQ(一一言ハ形)

- 15

(22)

2 此地改革.後 の経営形態

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3 此地改革前後の 経営炉校別J四家戸数(彩)

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の悶家であ は、経営面砧

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っ るように、改 を見てもわか 上のグラフ 犬渋(ディストリビ'[ーション)である‘),7,1 いわれないことがあるJそれは、

経営面柏別による皿岳啄戸数の配分

しかしながら、改収前後を比較しても、 悶地改革は戦後のこの村の改革発辰の出発点をぷ味したとi_いえようC

姑本的には変化したとは 改革の対象となった殷地の而粕は、合叶五八•八町歩であり、昭和二八年ヒJjては、自作四地―――一•五町歩、小 作地四•五町歩となり、小作地はわずか三•五形を占めるのみとなった第二表が、股地改革後の経営面柏別の形態

であるが、これによってあぎらかなように、四地改革の結果、白作

悶が全休の約九ニグクを占

め、

小'11作、小作などは、ごく特殊な存在 となるほどに八川の経営形態は大きな変化をとげたのであった

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- 16 -

(23)

たる。) 川されるにいたった。(これは、それまでの八川の耕地而柏の約一七%にあ

4 漁獲訂の変遷

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る背後には、 ―町歩から一町五反歩の悶家である。あとは、変化らしき変化とはいわれない。こ

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とは此地改革の鈷果、四地が細分化され、

地の生廂性を翡め、経管規校を拡大するという諜題は、悶地改革では果されず、

その

後の改輩にもちこされたわけで

昭和二九年から具体化した河北釦の狸立市業は、四地改故以後に銭

された経営規校の拡大という諜屈に勇敢にとり紅んだ事業てあったJ

第一節でも述べられたように、この事業に、

河北釦の漁獲翡の減少、

八田の四氏をふみきらせ という事態があった。

この平業は、昭和三四年八月に完成し、約三0町歩の耕地がつくり

一方、土地改良事業が昭和二六年―一月から辿展し、区両整理なら

びに交換分合が、仝耕地の一:10%にわたって行われ、

が昭和三二年一0月から忍年五月にかけて行われた。

さら

に客土事業

このよ

うにして戦後の八川では、股業発展のための改革が次々とエ

ネルギッシュに遂行されていった。農地改革以後、自主的におしすすめられたそれらの改革のエネルギーは裔く評価されるべきであろう。 八狸立と客土事業>

「八田の歴史 による

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ある。 る。

ぎゃくに減少が日立つのは、

一戸あたりの経営面秋が若干少くなったことを示す。したがって、殷

- 17 -

(24)

る。したがって、雌立事文の完成によっても、この村の耕地の所布状況は大きく変化した、―町歩以上の四家になりえた、の屈家数はいぜんとして変わりない、ということである、)これは、これらの此泳は、埋立事業には加わらなかった、という事を示すものであろうし、経営規校の拡大というjj刷にはもはや反応をホさない屈を形成していることを物語るものであろうへ) 農家が戸数にして―二戸、 5

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6 股地改庫後と現在の 経管規松別J塁家戸数(形)

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D棗翌改革後

ところで、そうした変革を経た視在の此地紆営形態は第五表のようになっている)殷地改革直後の経党別戸数と比校すると左のグラフのようになるし

これによると、五反l一町歩までの血屈家が減少したのに対し、―町五反l▲一町歩の此家が増加していることがわかとはいえず、五反l―町のという程度である)さらに注目してよいのは、五反ル木満

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而岱が少いはど兼業率

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(全国および石川県の数値は 1960年農林菜センサスによる)

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が注LIされ ちじるしく多い数字である‘)とくに

らびに石川県の兼業率と比校してい 五冤となっている が六五•五%、第二柾兼業が二四

405笈,

しなければならない重要な動向であろう このようにして、嬰地改革以後の八田の農業経営は、きわめて意慾的に遂行された語改革にもかかわらず、耕地の

狭さ、という閲辿から、決して鮒放されたとはいえない。そうした未解決の問頌をはらみながら、現実には嬰業経営

にかかわりのあるさまざまな変化が進行しているし兼文化の巡行という事態は、そのような訟味では、もっとも注目

兼業此家の分布は第ヒ表のようになっている

3これによると、兼業悶家は全

これは、全瓜な

- 19 -

(26)

でもっとも多く、

つぎに憔文(ニパ・八彩)人夫•Il屁(一三•一冤)とつづく) ている。これによると、柘常的負労働者が全体の四一冤 これをさらに職柾についてみると、次の表のようになっ 全体の六O船を占め、銭りの四0形が日例兼文である

経‘臀規校が」の専兼業の割合つぎに、姐文の内容についてみると、やとわれ艇文が

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(27)

か。第一三表がその実態である。 では、家族の成員のうちで誰が兼業に従事しているだろう 兼業が進行している事実を示している。 くを占め、つぎに石JIl製作所が多い。女子では縫製工場・漁網会社、金沢の店員が多い。年代別にみた場合、二五オ木満の負労働者の数がそれ以上の年代にくらべて圧倒的に多く、男子では二•三倍、女子ではニ・七倍となっており、とくに若い屈で これによると、男子では金沢の工場がもっとも多く半数近 のようになっている。 ところで、恒常的只労働者の勤務先は、どのようなところであろうか。四0オ木澁について調べたところによると第一―一表

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ぁ 主

次• 三 つ の

lJ

116 5 70

1 70

72

:ti· 328

- 22 -

(29)

これによると、世閤主の場合は、自営兼業が多く(六ニグク)それ以外は、貨労働者の方が多くなっている3とくに次三男の場合は、賃労働者が七0形近くを占め、あとつぎの場合でも、六三グクを占めているJ

-jj、農外労働市場が近くにあり、比校的エン。フロイメントにめぐまれているIxJ係上、これまで考察してきたように兼業化が専業曲底家をわずか一0%を残すほどに進行しているのである)とくに一町歩以上の股家に、第二柾兼業

殷家がぎわめて多いことは、今後この悩の殷家が、どのようなガ向に仰斜をしていくかということが、

左右する鍵になるものと者えられるだけに往LJすべきことである) か、

それとも第二種兼業股家を経て、

離殷する方向をたどるのか、

を左右する条件がどのようなも

のであるかが分析の諜題とならなければならないだろう)

そこでわれわれは、

兼文殷家の実態について、

として扱うことに無理がある、

ら、

その底家は、

現在は兼業農家であっても、

人々の生活を規定する大きな条件である

ということが間姐になるだろうし、そうした動き

さらに分析を加えなければならない‘)

先ず考えなければならないことは、

詞じく兼業此家といっても、

たとえば、此業経醤だけでは、生活が維特できな

いために付う兼菜と、家阪労働力があまって、

次三男などを此業労働に吸収する必要がない兼又農家とは、

同.集団ということである3後者の場合、次三男が独立して新しい家庭を村外に設けたとしたやがては専業四家に復帰するという可能性もあるのである)

だから、悶文の支柱労働力(IJt需主とかあ

とつぎ)の兼叉従事率をここで改めて調べてみる必要が出てくる)

表が経営規校別にみた、

情州主の兼業従祁状況であるし

これによると、五反木覇股家では、

世附主は全部が兼業に従事していることがわかるし、

第一四

五反l―町歩の曲屈家でも たとえば、耕地を拡大して専文此家に近づくの すでに指摘されたように、八田は、殷地経営面紐の狭さということが

八田の動向を

- 23 -

(30)

14 批需主の北菜従屯状況 (経岱面払別)

\、経'i鱈i払(反) I

--- ---_I

O - 4.99 5 - 9.99 . 10 -14.99

·- -- ----�-- I

彩' -- -- 0/ - - -

' -0/0 / 96

やとわれ兼業 11 (52.4) 18 (36.0) 14 (28. 7) 1 ( 4.5)

10 (49.6) 26 (52.0) . 35 (46.7)

I

I

21 (100)

i

44 (88.0) 1 49 (64.4)

I - I

15 -

r1

ヽヽヽ,,"

6 (27.4) 7 (31. 9) ては、枇恐主の屈われ兼文の事例はわずか二戸であり、兼業従事率も%となっ

このような祝心に立つと、われわれは、八山の並文此家はほほ次の店つの類

製にわけることができるのではなしか、ヽーノA ( ヽjB ( 支柱労働力が不安定な職業(日屁、人夫等臨時屈の工場労働)に従事する兼

支柱労働力が殷呼本に専従し、

と考える)

ヽーノc ( ヽ、jD ( では、このように分類された兼菜股家には、どのような間辿が内在するので その他の家放収具が雌文している兼文此家

あろうか)具体的な実例について検"を加えてみたい)‘ーAの兼業嬰家は、ほとんどが一町木満の血底家である)ここでの股業は、飯米( の自給程度を経営日枕とし、主として老人・主婦の労働力にたよるか、世化主

が片手まに叫恥業経営を行うかのどちらかである。

(例一)、二反歩経悩、四人家族(Ill闊主、妻子、ども二人)机粧主三五オ国戎勁務 支柱労働力が狐業に従事している兼文叫恥家 業此家 支柱労働力が定職に従事する兼業農家

ている

C 数は減るが自営業は四ヒグク(漁業が八五%)と増加する―町五反歩以上におい 八八形が兼業に従事している3また―町以上の牒家になるとやとわれ兼業の

- 24

(31)

(例

妻四三才 罰術主

四九

才此業(-五0日)人夫(-五011) と長男とが大工をしており、かた手まに股業経営を行っているものであるJ

こうした此家は、もはや股家と呼ぶに値しないような零細土地耕作者であって、将来は離此していく姿勢をとるこ

とがほぼあきらかである()収入は比較的安定したものが多いから、家計のほとんどを股菜所得のみに依存している一

町歩前後の股家よりは、生活水準においては裔いものも少くない。ヽーノ

Bのような兼業農家は一町歩前後の曲底家に多い)

(五反l―町にあつては一〇ヽ(

て全体の九七%である。)例をもって示すと次のようなケースである。

八•五反歩経営、七人家族(世帯主、妻、子ども四人)

牒業(二00日)

(例一)

の侃ill雷主は此文には全く従巾せず、妻がもっぱら責任をもって此文経堂を行っている。

長 女 一五才

妻 妻

1J 八才 次男二―オ石川製作所勁務・鋳物工

長 男

ニ八オ大工(二五011) 三

(例二)、三•五反歩経党、六人家族(世帯主、妻、長男、次男、三男、長女)枇蜀主五八オ大エ(三OOrl)

五三才 此業(従事11数八0日)

―町i-•五町にあっては二二で、あわせ 例^一では、罰糾主

- 25 -

(32)

(例二)このような悶家は、四文収人だけでは、

生活紐持が困難である)子どもが支柱労例力として成長する以前では捐糾

家 主が、子どもが成長したならば、あとつぎが、現状では殷文

どうしても農業以外の職に従

F

することによって農業収兼る

入の低さを袖わなければならないのである)

とはいえ、い合て割

―町歩前後の叫応地を経営するためには、

定職兼業にもふしるみきれない、

というジレンマがある。

経営規枕の拡大をFす

従対はかるにしても、資金が不足してしる、というのが事実にに業家であろうr)この府の四家が、第七表では、すべて第二柾漁股が業兼業嬰家にふくまれているのである。主兼柏全世の

‘ー

Cも第一杯兼業農家に多い。

とくに一町歩以Kの悶家

( 5

では33-34が第一秤兼業である。

1

次 男

長 男

-0オ 二―オ

妻 五三才

枇帯主五七才

小学校在学中 人夫(-五0日)

” ”

子ども四人、何れも未成年―町歩経党、四人家族(世帯主、妻、長男、次男)悶業(-八0日)

(一五0日)(―二0日)

‘゜

10

50 40 JO

\監唱盆、名佐fT-前東祭農双口鴫吼硝去卓笈従

p;i

,

点i&血団切匝

0れば�\牧

20 10

lt?-N9l

- 26 -

(33)

(例二)

三男、四男

(例一)の場合、

股業につぎこむ家族労働力が一夫的であり、(例二)は、

が何れも人成年であるが、

夫婦の年は若い。(例二)は一―一人の子どもが一人前の労例力として成長しているが、

そのう (例一)

次 男

何れも小学校在学中 一五オ石川製作所

一九才金八•田中縫製エ坦勤務 漁業(-五On)

長 男

ニニオ牒業(二00日)

四六才 llt帯主此業(二00日) ―町歩経堂七人家族(世帯主、妻、子ども斤人) 妻 廿1サ仔主Jー↓十,' る。これによると、

ような嬰家である()

子ども四人

―町i-•五町の罠家で漁業に依存しているものが比較的多いことがわか

る。例をあげると次の

一・ニ町歩経営

三三才

殷業(-五0日)

漁業(100日)股業(100日)何れも未成年

五三才

漁業(100日)股業(-五0日) 二九才 六人家族(ilt帯主、妻、子ども四人) 前頁のグラフは、経営規校別の兼文嬰家の中で、

一夫糾と長男である,(例一)は、子ども

ilt111冑主が挽業に従市しているわりあいを戸数で示したものてあ

- 27 -

(34)
(35)

農家に復帰することになる︒それにしても︑この例は経営規模一・六町という場合には︑家族労働力三人で経営が可

能である︑ということを示している︒今後︑家族労働力と適正経営規独との関係を考えていくさいの一つの手がかり

を提供することになるにちがいない︒

これまで考察を加えてきたことからもわかるよ

うに︑八川では兼業がさまざまな条件に支えられ

て進行してきている︒しかし︑それに伴って生じ

ているもろもろの変化は︑いわば連続的なもので

あって︑急激な変動ではない︒たとえば︑兼業化

の進行過稚で土地所有の変化は目立っていない︒

これなどは︑八川にかぎったことではなくⅡ本腰

村全休についてもあてはまることであろうが︑問

題は︑なぜ︑むらの韮木構造をゆさぶることなく

兼業が進行しているのか︑ということである︒

このような問題を解明するには︑とうぜん兼業

従事者の職場における置金︑および雇川関係等の

実態があきらかにされるべきであったのに︑われ

われの調査では果されなかった﹂

機 所 持 状 況

67●一

J30

囮司上nU可l︲Ⅱ110

r︲し一︻H2

引 岨

| § 3 1

19.5

2 2 . 6 2 2 2 4 5

' , │ $ 3 1

1 1 20.3

一 一 2 9 −

(36)

方が、専業および第一秤兼業股家にくらべて所持 テレビについてみると、先ず第二秤兼業此家の の所特状況は下の表のとおりである。 調査にまたねばならないが、テレビと電気洗祉機 ろうか。この点についての究附は、むしろ今後の 八田の生活・文化の水準はどのようなものであ

り 生 活 と 文 化

かにしたい う応識的に対応しているか、ということをあきら 台として、客観的事実の進行に、

八川の人々がど

17 ビ 次調査では、この節であきらかにされたことを土 及 どう構想しているのかという間閣である第゜ び

しているのか、また、八田全体の今後のあり方を 電 ぞれの股家が、今後の経営をどう発展させようと気 ているか、

という間題であろう。たとえば、それ洗 対して、八田の人々が、どのような意識で対応し濯 さらに重要なことは、そうした連続的な変化に彩2

8

所持率2721

_

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6 2

3

0

1 8

9

所有戸教

1 1 1

44

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1

9

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2 2 3 1

8 4

2 総戸数

2 5 83

183-22•• % f

- 8

所持率_ -4 30 41 00

37032ー

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7

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111

,

0 4 1 0 5 8

3 -5

総戸数一

2 2

4

一.

1 6

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I

• 所持率

0 7 14 32 16 30 -18ゞテし一_―

999

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2 2 04

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所有戸数

1

1 2

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|'|、、I-|'1 2 8 2 1 3 6

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2 83

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J1‘ 杉-J醤経

経,;冴此地面砧

4.99

5

9.99 10 14.99

23 15.6

15 32.3

股 家

非 殷 家 23.5

3糸 ,ii- 22

備考 ・1•I .l 専 及

びIは専業股

と第柾兼業股

家 l[は第二種兼業悶家

- 30 -

(37)

も嬰村としてはめずらしいことであろうが、そうした生活条件の中から生れ出 八田の人々の生活を規定する大ぎな条件の一つに、ここが仝戸数

18

低しのは、 経営悶地面積別でみた場合、五反末澁の関家は第二種兼業が圧倒的に多い(2022)が、テレビおよび電気洗濯機の

所持率では、何れも平均を上まわっており、一町五反歩以Kの此家についで第二位を占めている。所持率がもっとも

五反歩l一町歩の専業および第一柿兼業此家であり、これには、四業収入および他の現金収入の低さがか

なお、その他の屯気困具の所持率は下のようになっている。

何れも率は高いとはいわれない。とくに八mのばあい、炊市の燃料はほとん

ど購入しなければならないのだから、電気釜などはもっと多いことが予想され

たがテレビのニニククにくらべて少いC

ところで、

1100を超える大規校の村落共同体であることをあげなければならないeその

ことが八田の人々の意識の連帯性をつよめてきたと息われるし、

拡大等をチェックしてぎた、

た農民の智恵であろう。 また婚姻圏の

とも考えられる3共M浴場が設けられていること

屯気堺只の所持状況 かわっ

ているにちがいない。 のそれよりも低いことが目立つ。(一三•五形対二三Oク)

率が闘い、

ということがあきらかに指摘しうる(三七•八形対一六•八形)。

五反歩以Lのばあいに三ニ・三形と、比校的闘率を示しているほかは、きわめて低しL

E"

電 扇

気 風

名釜機

電気掃除機 携帯ラジオ 電 密

--9 7 4 3 2 2 1

1 1

(%) (17) (10) (2) (8) (8)

このような領飼は、電気洗濯機についてもあてはまるが、五反歩l―町歩の悶家では屯気洗濯機の所持率がテレビ 専業および第一柿兼業股家では一附

- 31 -

(38)

活動の取実的土合ないし下部

m

位としての るが、青年団をはじめとするフォーマルな として娯楽的意味をもたせているわけであ それは、枇の人間関係をたしかめつつ、主 顧間をきめ、しばしば集りをもっている。

-m

位とし、メンバーの店しあいによって 在、中学を卒業したニー

:こ学年をまとめて この

(インフォーマルな) 考えて解釈されるべきであろうし

とであるJ

集団は、現 て命脈を保っていることも牡惰に値するこ 在クラブ

、としう名のもとにいぜんとし かつての「芥者糾」が変質をとげて、坦 いくたびも確忍されてきた、という背景を あるが共闘性の似理が

過去の生活の中で

管耕地面積の狭さに規定されているわけで が比絞的多いというド実は、もちろん経 農川機械の所有についてみても共詞所打

19 股用機械の秤類別所有殷家数

個人所有

I

I 共同所イ]

- --. - - -- - ー・

動I発!モ動人iブJ I I'力i)J i 紛慟扉発モ動i精!動人1JJ 力: .)Jカ

機動 I 脱撒 院耕地面積 戸耕動動 脱米籾撒

転 卜穀粉'

耕機I }レ機機I i転型 卜穀 招粉

数機'-"',機ル機機機l機

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1

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I

,�1�,--- 11 1, 11 3 反末満; 12 1 5! 5 3, 31 5i 3 3反-4.99反I10, 3: 7 61 7

I I

6 3 7 5反 -6.99反!18 3: j 6_ 9 12 8: 11 2\ 7反-9.99反;34'1s 11 2sl 22! 35! I I 45 581 711 1町 町4.99反83_ 76-1 . 39: 27 69 , 1 6'211 211 24' l町 5反- I 21! 27 I 4! 31 24

I , I l lDJ9.99反 : 2 I

1 4 4i 3! 2 町以上! 4/ 3 / oi o 4 42 92: 103i 130• "t I 1 88 131! 1 861 72 15) 156

I i I

(仙考)

ー-- -

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I

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考)

3 8

2 6 15 13

3 25 70

25 4 8 6 ー2

5 17

桔米機,動力籾摺 機の個人所有はな

し‘•

共同所有については利用股家 数を示す

- 32

(39)

事を次の段階にすすめなければならない。 ただこのグルー。フが、男子のみにかぎって成り立っているということ、生産活勁や文化の創造に対しては、

でのところ砧極的役割を呆しているとは考えられなしこと、

とく に勤労青年の間で疑われはじめている、

戦後の八田村の発展は、

戦前の姿を知るものにとっては、

た。

かし、し

積の狭さをどう克服するか、急速に進行しつつある兼文化の動向を将来のこの村の発展とからみあわせて、どう把握

するか、という問坦はさして遠くない将来において切実な間姐になってくるはずであるQしかも、これまでの八lllの改革事業は、 それにもかかわらず今後解決していかなければならない課題は数多くもちこされているQとくに耕地而

一行政村としての八田でなしえたものである。それに対して今後の改依•発展は、森本町八田という新しい条件の中で行われなければならない3ここにも今までとは迩った条件がある)さらに股文基木法の成立を中心とする曲区業政策に、

われわれは、 あらわれつつあるのではないだろうか。 役割も果している‘)

さらに、兼業化の巡行に伴って、 いままそうした集いの応味が

ということなど、これまで機能してきたあり方に検吋を迫る条件が立ち

まさに驚異的ともいうべきエネルギーに支え

れて

八田としてどのように対応していくべきか、という間題からもまぬがれることはできない。そうした問姐状況にある八川の社会教育的課題を方法の発見、確立のために、さらに調査•分析の仕

- 33 -

(40)

e

ここでは、

第二草で明らかにされたような性格のグむら“の生活の中で、血区民が当面している渚間凶とそれに対応

する怠識の実休を究明したい。

調木几は社会教ぷリの対象が具体的には、農文経営工•主如•青年、とわけられるので、間辿のスコー。フごとの調介を

さけて、それぞれの対象にどのような独・11の間凶があるか、そしてそれらの間凶に対して、どのような訟識が対応し

ているか、をあきらかにしようとしたのであった。なお、一九六OIf秋の衆ぷ員選挙を中心とした政治に対しての意

識、ならびにマス・コミの彩膀を把握しておくことは、

これ

からの諮間辿を分析するさいに重要な質料ないし手がか

りとなると考えられたので、

ここでの調往のねらいは、次の

三つの間屈点をあきらかにすることにあった。

耕払機の購入がどのような条件でなされ、

あきらかにすることによって‘

叫屈業経営における機械化の果す役割と怠義をさぐりあてたい、

と杓えたし

農業経営の発展ならびに此村としての八川の将米のあり方に閃して、経営上は、どのような閻凶に辿辿し、そ

れらにどう対応しようとしているか。とくに兼菜此家の経営主はそうした間辿をどうきりぬけようとしているだろう r,J

第一節

-1--

の場合 ーー第二次謁査結果の分析ーー

あわせてそれらも分析の対象とした)

農業経堂主

そのことが此業経腐に対していかなる役割を呆したか)

そのことを

諸問姐に対応する應識

- 34

(41)

ばならないであろうC第二表が購人理由を叫いた解答であるが

作がはなはだしく困難になったということである

のように購人時期が一昨年に集中した理由のもっとも大きなこと

われ、そのために、

これまでの方法(人手とか鳥を使う)

したがってこの場合、もっぱら経営的見地から、主体的に股業

の機械化を怠図したJというケースは、僅かであった、

名は、客土の結果、 といわね

このうちでも回「耕作の仕事を楽にしたいから。」と答えた二四

それまでの耕作方法が成り立たなくなったという事帖と閲係したものであることが想像される。 では、耕

松 機 は、この年に客土事文が完成し、幻底土である柏壌上でIllがおお 附"川

は、

所有者のうちでは六四冤(2740)を占める(第一表参照)。

ヒ寸 四年)に一―ヒ名(四三•五飴)が購入していることである。これ期 先ず、購入の時期に閲して注目されることは、一昨年(昭和

(イ)耕転機の購入をめぐる意識

•―- --—- --―, --

(イ)

(口)

(ハ)

- .

〇◎0◎

年 年

〇◎0◎

',

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00 43 2 40人(質った人)

・ーー

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5 .33

-

4

一・・・ロ2

27 0 11 0 0 13 22 0 0

; 10 : sa : 14 I 62 J O……一回目の購入, ◎……二回目の購入を示す。

11 18

を間迎としたいと考えた

22

@

そして、蚊後に、国の股業政策に対してはどのような閃心が払われ、 たいと考えた。

かつ、

35.5

--

62

いかなる要求が出されつつあるか か。この問題を追求することによって曲り角に来たといわれる股村のはらむ矛屈とその解決の方途を考える資料とし

—-

35 -

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