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姫路藩寛延一揆の研究

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(1)姫路藩寛延一揆の研究. 教科・領域教育専攻 社会系コース.  M八七二四九A   兼本雄三.

(2) 姫路藩寛延一揆の研究  目次. :・:・  六. 三〇. 三七.  一. 序論.  1 研究の目的  2 研究の方法 第一章 延享・寛延期の藩政改革. 好田主水の登用. 一好田主水の失脚1. 寛延元年の風損と年貢収奪の強化. 小河原監物の再登用と財政政策. 小河原監物の藩政改革. 財政の失敗と藩士の批判. 風損と農民救済. 好田主水の財政政策.  節DCBA. 二. _〇四〇.  第一節 好田主水の財政改革. 1二.   1 松平家の財政事情   2 好田主水の財政政策.  第. 2.

(3) IN 一. 四四. 第三節 新田開発と藩専売一小河原監物と大庄屋・御用商人一  1 新田開発政策                  ・......  2 御用商人と藩専売               ....... 第四節 大庄屋と小前百姓  1 姫路藩の大庄屋制                ......  2 大庄屋と小前百姓の対立             ......  3  ﹁土豪百姓﹂と小前百姓の対立          ....... 第二章 寛延一揆の展開  第一節 寛延元年の請願闘争. 一揆組織と指導層.   1 年貢延納の要求   2 不正役人・御用商人の制裁  第二節 .   1 村における組織経過   2 大庄屋組における組織形成  第三節 一揆の攻撃薄象と要求内容.   1 攻撃対象    A 攻撃対象者の特徴. 一_s_. 剰一勝. 五五五 九五三. 山 七 ノ 、 〇 ノ 山、. 九四. 八七 〇四.

(4)   B 経過から見た特徴   C 攻撃された者の社会的地位  2 攻撃理由   A 横暴・恣意にたいする制裁   B ﹁取込銀﹂の追求   C 役儀を利用した致富  3 要求内容   A 退役と就任辞退   B 大庄屋の削減 第四節  藩・幕府の対応.  1 姫路藩の対応  2 大坂町奉行所の対応 結論.  1 研究の成果  2 研究の意義と課題. ・::・ 九四. ・::・ 九七. :::一〇一. :::一〇五. ・::・一〇七. ・::・一一〇. ・::・一一二. :::=八. ・::・一二四. ・:・:=二二. :::=二四.

(5) 序論. 1 研究の目的.  本研究の目的は、近世中期播州姫路藩領で起った姫路藩寛延一揆の性格を解明することである。.  近世において発生した一揆は、三二〇〇件を越える︵選一︶。二三の結果、時代的特徴が解明され、前期. は代表越訴、中期は惣百姓一揆、後期は世直し一揆、によって特徴づけられる︵註二︶。このうち中期の惣. 百姓一揆は全藩一揆ともいわれ、私領・幕領に大規模な一揆が起った。十八世紀後半のいわゆる﹁宝暦・天. 明期﹂は、近世百姓一揆史上、享保、天保、幕末とならんで発生件数が多く、一件が広域にまたがるのを特. 色とする︵註三︶。十八世紀中葉の寛延期︵一七四八∼五〇︶は﹁宝暦・天明期﹂の前段階にあたり、短期. 間に各地で連続して一揆が発生し、近世百姓一揆の最初のピークをなしている︵註四︶。姫路藩寛延一揆も その一例であるが、藩域を越えて拡がってはいない。.  諸藩一揆は、多数の農民を広域にわたって動員し、強訴と打ちこわし︵註五︶を行ない、領主に請願を試. み、村役人・工女・画商などに制裁を加えた。一揆は年貢増徴政策に対する反対闘争を中心に、商品経済の. 浸透にともなう収奪強化に反対した︵註六︶。従来、この時期の研究で、一揆が組織された藩の政策過程 や、一揆組織の個別・具体的な諸相についての検討は多くない︵註七︶。.  姫路藩寛延一揆は寛延元︵一七四八︶年十二月の市川での請願闘争を前段階にして、翌二年加古郡西条組. 一.

(6) 大庄屋打潰に端を発し、藩域全体に及ぶ打潰をともなう大一揆である。本稿では一揆を胚胎した藩政改革と 一揆展開過程の検討により特色を解明したい。.  姫路藩寛延一揆についての従来の主な研究業績は次の通りである。 ①太田陸郎﹁兵庫県下百姓一揆史話﹂ ︵﹃兵庫史談﹄第七五号、昭和五年︶. ②田村栄太郎﹁土地肥沃の播州姫路領の農民一揆と落書﹂ ︵﹃近世農民運動史論﹄所収、昭和二十三年︶  ︵﹃近世の農民一揆﹄昭和六十年に再録︶ ③橋本政次﹃姫路城史﹄第一=編 第二章 第二節﹁百姓一揆﹂ ︵昭和二十七年︶ ④島田清﹃寛延二年姫路藩百姓一揆と滑甚兵衛﹄ ︵昭和三十年︶ ⑤赤松啓介﹃兵庫県百姓騒擾史一一揆﹄ ︵昭和三十一年︶ ⑥酒井一﹁寛延二年の姫路藩一揆﹂ ︵﹃兵庫県史﹄第四巻︶.  先行研究は、一揆が松平藩政の失敗に由来すると指摘する点で共通している。特に田村氏の論稿は、﹃松. 平家記録﹄を用いて財政政策を論じ、一揆にいたる経緯を述べている。しかし、財政担当者好田主水と小河. 原監物の諸政策の相違、政策と一揆との関係が明確でない。次に、農民の動向については、太田、島田氏の. 論稿は指導者を論じて組織形成過程を考察するが、史料的な制約から一揆形成過程の分析が不十分である。. 酒井底の論稿は、書物の性格から一揆の経過を詳細に述べ、新史料の発見がないかぎり、その叙述を越えら れないと思われる。しかし、考察や分析は少ない。. 2 研究の方法. 二.

(7)  本稿は、藩権力と大庄屋・御用商人、大庄屋・御用商人と小前百姓、藩権力と小前百姓のそれぞれの関係 から、一揆に至る要因と展開の特徴を考察する。.  最初に姫路藩の延享・寛延期の藩政改革を、 ﹃松平家記録﹄を用いて考察する。特に延享期の好田主水、. 延享・寛延期の小河原監物の財政政策を比較し、一揆と財政政策の関連を解明する。次に、藩の財政政策が. 実施される過程で、藩重役と癒着したため農民から攻撃された大庄屋・御用商人について、﹃松平家記録﹄. ﹃姫路藩百姓狼籍一件﹄を用いて、その癒着の具体的内容、小前百姓との対立の原因を検討する。特に大庄. 屋層と小前百姓の対立について、﹃姫路藩百姓狼籍一件﹄により検討する。最後に一揆の組織形態、攻撃理. 由、要求内容については、﹃姫路藩百姓狼籍一件﹄を用いて一揆の性格を考察し、姫路藩・大坂町奉行所に. よる一揆鎮圧の経緯については、 ﹃松平家記録﹄・﹃加古川駅御用日記﹄を用いて検討する。.  この研究にあたって利用する史料は次の通りである。. ①﹃松平家記録﹄ 前橋市立図書館蔵。松平家の藩日記である。史料名は﹃日記﹄とするものもあるが、寛. 延二年の表紙に﹃記録﹄とあるのによった。寛保元年から寛延二年までの藩士の動静、書状、法令などを含. む。﹃姫路市史﹄第十巻︵昭和六十︸年︶と﹃編年百姓噌揆史料集成﹄第三巻︵==書房、一九七九年、. ﹃集成﹄と略称︶に一部所収。姫路市史編集室のフィルム、および兵庫県史編纂室の写真版を利用した。註. 記は﹃記録﹄と略称。公刊部分は当該書の引用部を註記し、未公刊部分は日付けを示した。. ②﹃加古川駅御用日記﹄ 九州大学法学部所蔵。大坂町奉行所与力、八田五郎左衛門が二月四日から四月七. 日までの間に加古川で記した﹃御用覚書﹄である。町奉行所からの命令・指示、領内の見聞の注進を含む。. 三.

(8) 四. ﹃姫路書史﹄第十巻と﹃加古川市史﹄第五巻︵昭和六十二年︶に、主要部分所収。加古川市史編纂室のマイ. クロフィルムを利用した。註記は﹃御用日記﹄と略称。公刊・未公刊の区別は﹃記録﹄に準ずる。. ③﹃播州姫路領百姓狼藷一件諸御璽井御下知留﹄ 九州大学法学部所蔵。大坂町奉行所与力、八田五郎左衛. 門の﹃自分覚﹄である。城代・町奉行などへの諸伺と下知、一揆参加者の取調書を含む。﹃姫路市史﹄第十. 巻と﹃加古川市史﹄第五巻に主要部分所収。岡山大学黒正文庫蔵写本を利用した。取調史料は﹁○○村OO. 調書﹂として引用。他は﹃一件﹄と略称。公刊・未公刊の区別は﹃記録﹄に準ずる。. ④﹃蜂須賀藩聞合書﹄ 国立史料館蔵。阿波藩蜂須賀家の聞合書である。﹃集成﹄第三巻所収。一揆直後に. 蜂須賀家の忍の者が姫路・大坂・江戸などで聞き合わせたものである。﹃加古川駅御用日記﹄に見られない 風聞もある。註記はすべて﹃聞合書﹄と略称。. ⑤﹃播姫太平記﹄﹃播陽誰翻身之上﹄ 一揆物語である。 ﹃播姫太平記﹄の刊本には、川島右次﹃校訂播姫. 太平記﹄ ︵昭和五年︶、吉田俊三﹃新訂十二太平記﹄ ︵昭和二十五年︶がある。﹃播陽血脈身之上﹄は未刊. のため神戸市立図書館蔵写本を用いた。標題は﹃播陽多我身飢﹄であるが﹃重陽誰飢身之上﹄で示した。. ⑥﹃御月見日記﹄ 加古郡野添村の農民が、毎年正月十五日の月の入所を記録して、その年の主要な出来事. と共に記した。享保から明治に及ぶ。播磨町野添土地区画整理事業完工誌編集委員会編、昭和五十九年。. ⑦﹁清瀬家文書﹂ 打潰された犬飼組田野村庄屋弥兵衛関係文書。 ﹃兵庫史学会研究資料第一集 姫路藩寛 延一揆関係史料一清瀬家所蔵文書﹄として刊行。 ﹃姫路市史﹄第十巻に一部所収。.  ﹁山中家文書﹂ 五爵郡小川組小原村の庄屋文書。刊本なし。姫路市史編集室のマイクロフィルム利用。  ﹁奥平家文書﹂ 八反田組奥平与惣左衛門関係の文書。刊本なし。.

(9) 註. 一 青木虹二﹃百姓一揆総合年表﹄ ︵ご=書房、昭和四十六年︶によると、天正十八年から慶応三年  までの間に三一=二件の一揆が起っている。. 二 百姓一揆の発展段階を構想したのは林聖母である。 ﹃近世における階級闘争の諸形態﹄ ︵﹃社会  構成史大系﹄四巻、のち﹃百姓一揆の伝統﹄新評論、昭和三十年に収録︶において、初期一揆←代.  表越訴←全藩一揆←幕末の広範な一揆という発展段階を構想した。青木虹二氏は﹃百姓一揆の年次.  的研究﹄ ︵新生社、昭和四十一年︶において土豪一揆←逃散←代表越訴←総百姓一揆︵全藩一揆︶.  ←幕・藩総百姓一揆、堀江英一氏は﹁明治維新の社会構造﹂︵﹃堀江英一著作集﹄第一巻、昭和五.  十五年︶において、初期一揆11代表越訴←総百姓一揆←世直し一揆とする発展段階を構想した。. 三 林基﹁宝暦・天明期の社会情勢﹂、 ﹃岩波講座 日本歴史︵旧版︶﹄十三巻、﹃続百姓一揆の伝  統﹄に収録︶。. 四 註二、青木、前掲書。. 五 家屋を破壊する行為は、一般に﹁打ちこわし﹂とよばれるが、寛延一揆関係史料ではすべて﹁打.  潰﹂とあるので、本稿では農民などが集団でおこなった家屋破壊を﹁打潰﹂と記す。. 六 伊藤忠士﹂﹁百姓一揆と民衆自治﹂ ︵﹃講座一揆﹄4、東京大学出版、一九八一年︶。. 七 山田忠雄﹁近世における一揆の組織と要求﹂ ︵﹃講座一揆﹄3、東京大学出版、一九八一年︶。.  山田氏は、一揆史料の批判検討が不十分なため、一揆の組織過程に関する研究が立ち遅れているの  を指摘している。. 五.

(10) 第一章 延享・寛延期の藩政改革.  姫路藩寛延一揆において、農民と藩権力が真向から対峙する場面は少ないが、打潰された大庄屋や攻撃の. 対象として名指された御用商入と小前百姓との対立の原因は、藩によって醸成された経済的対立に由来する. ものが多い。この章では、まず経済的対立の原因となった松平家の財政問題とこの打開策を論じ、次に藩権. 力と癒着しこれを背景に農民と対峙した大庄屋・御用商人などの特権階層の動向を追求する。 第一節 好田主水の財政改革. 本節では松平家の財政事情と財政再建のため登用された好田主水の財政政策の特徴を考察する。 松平家の財政事情. に三度の手伝普請・番役を強要された。宝永二年の江戸本町川湊漂手伝、宝永七年の江戸城吹上御殿普請手. への賄賂が効を奏したものであろう︵註一︶ ︵三一︶。三代基知は白河で無封しここで没した。基知は一代. 後騒動に連坐して閉門の後減封になった。晩年には元の禄高に復しているが、この期間が短いのは幕府要路.  松平家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を祖とする。初代直基は順調に加増されたが、二代直矩は越. 1. ゐ ノ、.

(11) 伝、それに享保十年の浅草蔵屋敷火の番がそれである。これらの費用はすべて借金で賄われた。.  江戸本町川凌諜手伝の際は、京都の富商吉田忠兵衛から二年半の間に一四五〇両の利息で五千両を借金し. た。江戸城吹上御殿普請手伝の際には、もはや吉田忠兵衛からの借金は不可能となり、藩士の借知によって. 調達した。忠兵衛からの借金は正徳二年の正月には五万三千六百余両、銀一=二貫余となり、翌年には融資. は完全に途絶した︵註二︶。そのため四代明矩︵この時は義知と称した︶が元文元年将軍名代として上洛し た時には、在方からの御用金で費用を調達する他はなかった。.  ﹃記録﹄の元文元年四月六日の条に、 ﹁上不勝選挙事故御上金無之候而者御用御勤難本成候、露霜借金一. 通浦曲二而者御間二合事無之候、依之別紙之通才覚金申付け候﹂ ︵註三︶とある。これは白川城下の町人に. 同十二︵一六三五︶越前大野五万石. 正保一︵一六四四︶出羽由形︸五万石. 対する﹁才覚金﹂の賦課であるが、町方在方あわせて約一万両の御用金と推定されている。但しその時の約 四分の一は江戸町人からの借金であった︵註四︶。. 寛永三︵一六二六︶越前勝山三万石. 慶安一︵一六四八︶没.    ︵表一︶ 松平氏 歴代就封一覧 直基. 慶安一︵一六四八︶播州姫路一五万石. 七.

(12) 直矩 慶安二︵︸六四九︶越後村上一五万石. 元禄五︵一六九二︶陸奥白河一五万石. 寛文七︵一六六七︶播州姫路一五万石. 元禄八 陸奥白河一五万石. 貞享三︵一六八六︶出羽山形一〇万石. 基知. 享保一四陸奥白河一五万石. 寛保一︵一七四一︶播州姫路一五万石. 明矩. 天和二︵一六八二︶豊後日田七万石. 元禄八︵一六九五︶没. 享保一四︵一七二九︶没. 寛延一︵一七四八︶没.                                    ︵﹃姫路城史﹄により作成.                                   した︶. こうしたなかで、寛保二年の所替となった。当然、在方より厳しい返金の催促が起った︵註五︶。     乍恐以書付奉願上候事  一、前々より度々差上置候御用金之事.  一、御太用之瑚差上候御用金井百石三両高掛金軍事 豊里公儀より京都御代下之儀  一、先年差上置候御質米金之事  一、戌之年一組より六十両宛御頼金之事. 八.

(13)    右塵事差上置申候者共之内、禿候もの数多御座候而、私共方葉身返済被下唇度旨、度々願出候へ共.    御上御難渋奉恐察候糊付指留置申候所、此度御所替二付諸上納物等多御座候二付右聾者共御上納成兼.    迷惑仕候へ共、本途御勘定之儀者御見立御午定之儀故扱人共才覚ヲ押脚御勘定差上申候、此上何分二.    も諸上納仕可申聖域御座候二付、以御慈悲願挙隅被仰付師下姓ハ、難有可奉存候 以上     寛保二年 戌正月.  松平家では﹁御用金﹂ ﹁高掛金﹂ ﹁御質米金﹂ ﹁御頼金﹂等、様々の名目で領民から借金をしていた。こ. の借金について、領民は﹁御上御難渋奉恐察﹂り、これまでは返金催促を猶予していた。所替に当り﹁本途. 御勘定﹂、つまり本年貢は何としても納めるが、前に列記した御用金は返済してほしいと訴えた。しかし、 藩は返済に応じることが出来ず、=揆がおこっている。.  この白河での財政破綻の挙句のはての姫路への乗替であった。この引越には、また莫大な出費を要した。 ﹃記録﹄寛保三年九月十七[口の条に次のように見える。.   先年已來段々勘略同義申付候、彌以勘略不相流組立候様思付、前々より勝手向不如意魔所、去々年得替.   二曲付上下之引越事事買付借金も相中、其上雪年直下御老中方招請二付言端之物入多︵以下略︶.  藩主・藩士の引越し費用と所替に当り世話になった老中達への饗応で、莫大な出費を要した。藩は独力で これを調達出来なかった。 ﹃松平家御用留﹄に次のようにみえる︵註六︶。.   去々年姫路江御所替被 仰付膠付、御家中之者共皇軍武器等引取候故大金入用二軸得共、御不勝手之儀.   候得は御自力に不及掛付、高間伝兵衛江大坂御蔵元被 仰付、段々金子差出し御間二合御大幸此上も無   御座候︵以下略︶. 九.

(14)  藩は、江戸の豪商高間伝兵衛からの借銀でその場を凌ぎ、そのかわりに移封後大坂蔵元に任命している。. 田村栄太郎氏は、この前後に伝兵衛が調達した金額は、元利合せて十三万八千余両︵註七︶という。 ﹃播富. 豪飢身之上﹄にも、 ﹁江戸有トクノ町立高間伝兵衛肩幅既二十二万九千両余ノ借金有﹂ ︵註八︶と記してい. るから、十三万両前後の借金があったことは確かである。.  さらに財政難を助長したのは、荒廃した城および武家屋敷の修理であった。藩の記録に﹁姫路御城井御家. 中居宅大破付註又蔵置故存之外大金御物入歯候﹂ ︵註九︶とみえる。姫路城は前城主榊原氏時代に相当破損. していた。榊原氏は幕府に申請して修理の許可をえていたが果せず、これを繕うのに大金を要した。.  要するに、松平氏の姫路藩政は莫大な借金を抱え、財政難に苦しみながら発足したのである。 好田主水の財政政策. ﹁大坂浜金を一万八千両口入致遣﹂すことにして、大坂の北浜で調達した借金の一部を伝兵衛にまわした。. 衛に年貢米のすべてをまかせる事をしなかったから、伝兵衛は返金を催促した。そこで藩は寛保二年の暮に.  上述のように、姫路入部の際所替の費用を用立てた高間伝兵衛は大坂蔵元に任じられた。しかし藩は伝兵.  好田主水起用の背景には高田伝兵衛の蔵元罷免という事情があった。.   A 好田 主 水 の 登 用. 緯とその財政政策について論じる。.  延享元年、松平家の財政危機を打開するため好田主水が﹁勝手向主役﹂に登用された。好田主水登用の経. 2. 一〇.

(15) 藩は、伝兵衛が翌三年の暮には返金するものと思っていたが、返金しなかった。浜方から返済を迫られ困っ. た藩は、伝兵衛手代共を呼び寄せ相談したところ、手代は藩が北浜盛徳に﹁元延利払﹂つまり利息だけの支. 払をすすめた。このため北浜の銀主は﹁言之外気味悪鋪﹂なり、以後の借金の調達に支障をきたすという事. 態となった︵註一〇︶。藩は大坂の河内屋文左衛門に自主を依頼した。﹃記録﹄寛保三年九月廿日の条に次 のように見える。.   高間傳兵衛手代共御勘定奉行共山相願候爵、今度河内屋文左衛門當地墨罷越金子孤塁被 仰藩候、於大.   坂田中官左衛門御國御評議員〆り此度生嶋茂左衛門摂州有馬江入湯二藍、出懸二立器官左衛門へ金武万   爾之儀申談在之様二仕度候由申候︵以下略︶.  十分に内容が解りかねるが、伝兵衛の手代共が勘定奉行に二万両の借金返済を要請したので、生嶋茂左衛. 門が有馬入湯に出かける途次大坂へ立寄り、勘定方の取締である田中官左衛門と相談のうえ、二万両の借銀. もしくは斡旋を河内屋文左衛門に依頼するというのであろう。藩はこれに応えられなかったため、高間伝兵. 衛は幕府への訴訟も考えたようである。このことは田村氏もすでに指摘している︵註一一︶。﹃記録﹄寛保 三年十二月十九日の条に次のように見える。.  一、去ル十一日於江戸本多和泉銀玉御出 殿様江被仰候、昨日本多中務大輔殿より今日御出被測候様被.   仰出候付御出悪露候処、中務殿和泉守様へ被仰候補之儀者、高間傳兵衛御返金之義彌課宜敷軍談候、筋.   違無之様被成可然候、何とぞ被成方も可有之哉、 公邊随分御首尾も宜敷有之湿雪、軽キもの之義二而.   御名も出候様二相朗話而者、氣之毒二被思召石間右之趣中務大輔殿被仰候由、和泉守様御出 御前江御   咄在之候︵以下略︶. 一一.

(16)  老中本多中務大輔が、同族本多和泉守を通じて松平明野に忠告したことを示す史料である。明矩は幕閣で. の評判がよい。その人物が借銀返済などの問題で﹁軽キもの之儀二而御名も出候様二相成候﹂、というので. は残念である。早く借銀問題を円満に解決するようにと忠告した。しかし、松平氏は高間伝兵衛の蔵元罷免 で決着しようとした。﹃記録﹄延享元年二月廿二日の条に次のように見える。  一、當月五日江戸出御用状之趣共左記.   高間傳兵衛方へ江戸御勘定奉行学人罷越御製元之儀御断申聞之虜、御請医師難澁追而直答密画上と申聞.   画廊共、武万余之御金組分御渡方も無之早耳ヘハ、於此方も其身如何様二相成候とも其所ハ不感隠事候.  江戸在住の勘定奉行二人が高間伝兵衛を訪れ蔵元罷免を申渡した。伝兵衛はこれに対して、﹁御請高儀難. 澁﹂として返事を引き延ばし抵抗するが、是が非でも伝兵衛は罷免しなければならなかったので、藩は二万. 余の借金の当分延納を申渡した。伝兵衛からの返答は次の様なものであった。﹃記録﹄同日の条に、   只今重り御昌盛上候下中難申上襲、大坂手代共方へも申遣其上二而下請可申上旨下歯、謬ハ愛元二而致.   才量御用二相立候金子只今御藏元々離候而者、先々より嚴催促も在之身上難相立場二相成歯、尤家賃等.   質物等追入山塞金子幽いか様二も取捌仕候得物、直かり二探測金子武万八千爾在之候、此分さへ課相立   候ヘハ假令御藏元被召離候蓮も身上不相立場江ハ不参候︵以下略︶. とある。自分が才覚した金子のうち、家賃などを質に入れたものはどのようにでも取捌ができる。ただ﹁直. かり﹂した金子二万八千両だけは支払ってもらいたい。そうすれば、蔵元を罷免されても身上がたちゆく。. これが伝兵衛の言分であった。しかし藩は伝兵衛には借金二万八千両は返済せず、一方的に蔵元制度を廃止. し、伝兵衛を罷免し年貢直売制にしてしまった。直売を失敗した場合、藩がすべての損害を負わねばならぬ. 一二.

(17) 制度であった。この時期、年貢直売制を採用している藩はないという︵註一二︶。また、宮本又郎氏が延享. 四年刊の﹃難波丸綱目﹄によって大坂の蔵元掛屋を整理したものをみても、不明のものは別にして直売の例 はない︵註=二︶。.  伝兵衛罷免によって、江戸の有力な黒質を失った藩は、大坂において新しい銀主を見出す必要に迫られ. た。このような状況の中で登用されたのが好田主水である。主水は藩の重臣であったことは確かであるが役. 職その他は不明である。 ﹁勝手向主役﹂起用の事情について、﹃記録﹄延享元年六月七日の条は次のように 記す。.       好田主水.   去歯並來勝手之義別荘難澁二相聞候、勝手之義者一圓二重之候而ハ取〆り薄型潮候、依之乍太儀先二三.   ケ年之内相雲量間勝手向之図引請可致差圖候、當所儀者大切成員用地向等之御用可有之も難斗、當今之.   通不如意激てハ万一御用之節差支候儀在之出癖義とも不存甚無覧束 思召候、此上ハ嚴敷倹約を相立自.   分身之上ハ勿論万端費無之様ホ役人共演合謄写可有之候、猶又家老共可申談候間、随分取績之手段相立   取〆り候様二乍太儀出精可相勤候.  寛保三年暮以来の大変な財政難を克服するためには、広く財政全体を見通して統一的かつ全体的に取捌く. のでなければ、倹約の効果がないとし、二、三年の間その任に当り役人共と相談して緊縮財政の趣旨を徹底. することを要請し、あわせて家老共と申し合わせ独断専行せぬよう注意したものである。文中に﹁乍太儀﹂ ﹁相槍候﹂とかの丁重な言葉から、藩主の絶大な信任による就任と考えられ、その日、藩主から勘定方へ主 水起用が通達される。﹃記録﹄同日の条に次のように記す。. 一三.

(18)   勝手之義者暮已來差支段々難澁二様雄蕊績之筋も無覧束相聞江候、依之遂盛儀只今迄月番持二王差圖在.   之候而者一蓋参候間敷象り等もいか、二士、此度主水先二三年之内勝手向之義引受可面差圖之旨相慧候   ︵中略︶、存寄之義主水へ申談得差圖可相勤候.  従来の勘定方の﹁月番持﹂すなわち輪番制を改め、好田主水を勘定方の総括責任者に任ずるというのであ る。こうして好田主水を中心とする財政政策が展開されることになった。   B.好田 主 水 の 財 政 政 策.  好田主水の財政の中心は借銀調達にあった。主要な銀主を江戸の伝兵衛から、大坂の銀歯に転換したこと. である。それは、延享二年の江戸・大坂での借金のための取り扱いが著しく違ってきていることからわか. る。延享二年老中︵家老︶・年寄は江戸の勘定方にあてて書状を送っている。 ﹃記録﹄延享二年二月十九日 の条に次のように見える︵註一四︶。.    一、金壷万爾也.   右之金子、當樋受収納二士十二月迄追々運送可申歯間、右之金子、引當二士當時之御薗金工、如何様共.   取捌有之様可罰致候、尤多賀谷内膳江住承指圖下上取扱可鑑定候、右之通二二間、引當之義丈夫二野申.   談、相辮候様可被致候、依之各共連印を以申述候            丑二月  年寄四人老中四人印.  十二月迄順次送る秋の収納米を以て、これを﹁引当﹂に当面一万両の金子を調達せよというのである。同. 時に大坂へは、十三万俵の米を引当とする借金交渉を命じている。 ﹃記録﹄延享二年二月四日の条に次のよ うに見える︵註一五︶。. 一四.

(19)   御得替以來江戸御選金相増、其上去暮過分之風損在園二付贈主江も御不明二相成御本意ならす候、然ハ.   當暮二面而御返濟之頂相立方難及手段二付、去暮迄之御借金願事立方筆談候通二有之幽間可受唇談、尤.   西春より之新出言分ハ當暮全米相違暴慢可申候、右引當貝母者薄絹米等量都合拾三万表為相廻可書下.   間、引墨丈夫ホ被官談調達相肩候様可罰致候、各共連名を以申伸候以上 丑二月︵家老年寄名前略︶.  右の要旨は、①当職に至っては借金返済が手遅れになる。去年暮までの返済方法はかねて相談した通りで. あるから、その通りに銀座と交渉せよ。②当春以来の新しい借金は七半までに必ず返済すること、 ﹁給所面. 面請﹂=二万俵を抵当として送ること、を条件に借用を命じたのである。①のかねての相談内容は不明であ るが、若干は返済したのであろう。.  江戸と大坂を比較すると江戸の借金は一万両であるが、大坂の引当米は=二万俵とあるから大坂銀山から. はおそらく五万両以上を借金したと思われる。これは﹁御得替以来江戸御借金等根﹂、伝兵衛の蔵元罷免の. ため江戸での借金が思わしくなくなり、大坂にその比重を移さざるを得なかったためであろう。伝兵衛の蔵. 元罷免直後とおもわれる、大坂の銀主桑名屋宗兵衛宛の借用証文がのこっている︵註一六︶。      預申銀子之事      合銀弐拾貫目也.   右は松平大和守殿為要用槌尊皇所実正也、則右引当姫路蔵切手五百石相出置候、来ル九月限祥忌致返   済、切手取戻可申候、為後日証文傍如件       延享元子三月    ︵人名五名印判略︶     桑名屋宗兵衛殿    ︵以下略︶. 一五.

(20)  三月に五〇〇石の﹁姫路蔵切手﹂を担保に銀二〇貫目を借り、九月に返済することにしている。こうした 小口の借金を幾組も用意したものであろう。.  次に、領内の町人・百姓からの借金についてみる。特に注目されるのは﹁御買米﹂制度の設置である。  ﹃播陽誰飢身之上﹄は﹁御買米﹂について次のように説明している︵註一七︶。.   御買米ト号シ公儀ノ手形ヲ以テ町人百姓二買セ、急ノ御用ナル間必妻子ニモシラセズシテ御用立スベ.   シ、トテ並手形面々ニフウシテ渡サレ、否ト言レス様ニシテ早速金ヲ納メサセ古曲御里米ヲ以テ御返サ.   イ有ル筈二天ク約束セラレシカ共、其トシ冬イカナイカナ藏米ハ一粒モ出サレズ、アマツサへ翌年丁卯.   ノ冬扇ノ御買米ヲニ十年賦二申付けラレケル、他家ニモ心外ル非道ノタメシバ有マジ、是ハ勘定大役人.   ノ谷貝郷平拐ハ山路孫九郎ナトカ所為ノ様二申ケリ、 ︵以下略︶  ﹁御吊釜﹂というのは百姓町人に強制的に藩の手形で米を買わせる制度である。延享元年好田主水により. 実行された﹁御買米﹂について、田村氏は﹃記録﹄を引いて、 ﹁勘定奉行、町奉行、郡代の三奉行と好田主. 水の合議で、領内の大庄屋・用達などの富豪を招き、藩で買米をして米値段を引き上げるのだから、その買. 米代金を差し出してもらいたい﹂ ︵註一八︶と命じたとしている。この制度は高砂の大庄屋で豪商であった 塩屋甚兵衛の発案であった。 ﹃記録﹄延享二年六月廿八日によると、.   首魚其方心付二而仕方申聞肩鎧御買米等裁量、其節弁書も入披見返濟日切茂相止血得者最早時節も至り   御手支之義乍存有無之不及沙汰. とみえる。発案して弁書をいれ日限も定めておいたのに、甚兵衛は事を決しなかった、というのである。内. 容を正確に掴みえないが、甚兵衛が提案を実施しないので藩が前面に出て実行したものであろう。好田主水. 一六.

(21) によりはじめられた﹁御買米﹂の制度は、上述に引用した﹃播丁字飢身之上﹄の延享三年の小河原監物の施. 政でも踏襲され、富豪のみならず、広く百姓町人にまでひろげられ、二十年賦返済が一方的に通告されるこ とになるのである。.  ﹁御買米﹂を強行したのは、上述のように高聞伝兵衛の蔵元罷免のため、蔵元制の廃止による。.  次に年貢米の売捌きについて。蔵元を廃止した姫路藩は年貢米の売捌きを、高砂の豪商塩屋甚兵衛と姫路. の町人米屋孫九郎にまかせている。 ﹃記録﹄延享元年九月廿五日の条に次のように見える。.  一、當年配府手形之儀、米屋孫九郎・塩屋甚兵衛両人之者とも切手二而相納有之様可聴心得巳﹃三浦清左   衛門方江申遣之.  一 磁石府手形之儀、當年ハ米屋孫九郎・塩屋甚兵衛判形之切手を以御楽納之儀二而、然ル処右両人之判.   形二てハ受間塞独言之趣相聞候、都同相滞候由、先達而手形・配府手形・切手三通共手かた同様二通用.   之事と在之旨、町方在方より之鯛差出し機運処、右之通富戸而者難成義二道之旨御勘定奉行申聞、あの.   かた二おみて内談相碁、右切手三面二而受継筈ホ相成候、然ル処一通各共より申遣候様二致し遺旨、御   勘定奉行申二付右之通三藏奉行江申遣之.  この史料は、米屋孫九郎と塩屋甚兵衛の両人の﹁判形之切手﹂をもって蔵納めに当てることにした旨、蔵. 奉行に申達したものである。このような申達の背景に、 ﹁手形・出府手形・切手三通素手かた同様二通用二. 面﹂という触れを出したのに、両人﹁判形之切手﹂では受け取れない、との三蔵奉行の拒否にあい、 ﹁御蔵. 納﹂が滞ってしまった。そこで困った勘定奉行からの申出により、 ﹁あのかた﹂と三蔵奉行との﹁内談﹂に. より三蔵において受け取ることになった、というのである。 ﹁あのかた﹂は好田主水だとおもわれるが、孫. 一七.

(22) 九郎と甚兵衛の切手では権威がなく、好田主水の挺子いれで通用することになり、在地の豪商が米納入に関. わる方法が確立されたのである。しかし、延享二年六月、塩屋甚兵衛は﹁御買米﹂運用の不始末により罷免 された。.  このほかに、藩士の給所を担保にした借金が行なわれた。.  松平家では白測においては家臣からの借上を実施していたが、所替直後の寛保二年には借上を猶予してい. る。家臣の窮乏の故に借知の負担が一層重いものであったためであろう。﹃記録﹄寛保二年十月二日の条に 次のように見える︵註一九︶。.   歳暮箔置ハ別書可為難儀と思召候二付、物成引方之義定引三組ハ別紙書付之通當暮葡萄御用捨被成下候.   問、彌以倹約を守初年鳳暦を元二立テ末々御奉公相勤候様二可被疑候、右御用捨之上帝向後勝手向二付   願ケ間敷義ハ御條目之土古被相心得候、右之這出申渡之旨三盛出候  已上.  定引き以外は免除して家臣の生活の安定をはかった。以後は倹約につとめご奉公に励むよう申しつけ、こ. うした処置をとったうえは﹁勝手向二刀願﹂を出すものがあっても、願は取上げないと釘をさしている。.  しかし、藩は借金難の深刻化するなかで、藩士の給米を担保にするとの約束で借金を考えるに至った。好. 田主水が﹁御勝手向主役﹂を勤めていた、延享二年二月二日の﹃記録﹄に次の様にみえる。.  一、御勝手年男御不如意之上御得替已後御物入多御借金相増、去年中御損毛過分二有之、二二去暮京大坂.   江戸御借金御不増二罷成、銀主共批判茂在之筆付銀主雪意氣あぢ不宜、御叡覧御障り二も構成候、近年.   ハ御借請之御手段も無之候ヘハ、一統ホ給血御引當二歳御才覧二三遊候外ハ無之候︵以下略︶.  去年暮は借金調達が不成功で三主の批判もあり、銀面は﹁甚気あぢ不宜﹂、借金交渉にも差し支えを生じ. 一八.

(23) た。そのため﹁給所御引當﹂以外に方法がない、というのである。借金を順調に行なうための藩士の﹁給所. 御欝欝﹂とは、給人の給地の年貢を担保にしての借銀であるから、返済の目途がなく田村氏のいう﹁死刑に ちかい宣告﹂ ︵註こ○︶であった。.  こうした事情を背景に、延享三年借知命が期せられた。 ﹃記録﹄二月十五日の条に次のように見える。.  一、御家中物成御借リ上無之候而さへ難儀可有之候へ共、以前より段々 上御差支厘場々有之候へ者、當   暮より少々宛御借リ上可被 仰付候事  一、御家中御借リ上割合之義追而可申遣事.  家中は現在のままでも難儀をしているが、①やむなく当暮より借上を実施する、②借上の割合は追って通. 知する、というのである。この割合が示されたのは、同年六月晦日で﹃記録﹄の同日条に次の様にみえる。.  一、先達買被仰出候通、当暮御勝手御差繰別掲御難澁二付、御家中之面々物成之内、別帳割合之通當物成.   より三ケ年之内御昼被総懸、何茂不勝手細鱗難儀候と被思召候重富、外二罷來方無漏、乍御心外御借受.   被侮付候、此上ハ彌倹約を富盛素本二塵取績御奉公相勤候様と御頼被思召候.  別帳は﹁高二千石 三割五分﹂にはじまり切米取りにいたるまでの割合が書き記されている。向う三か年 の借上である。.  以上、好田主水の財政政策を要約すると、①江戸・大坂における借銀の調達、とりわけ大坂におけるそれ. が主要なものであった、②﹁御買米﹂の制度により領内の豪農・豪商から照金調達した、③蔵元を廃して直. 売制にしたので、領内の豪商に建米を請負わせた、④藩士の﹁給所﹂を担保にした借金や、藩士の知行借上 を命じた、となる。. 一九.

(24)   C 風損と農民救済  好田主水の農民救済策についてみる。.  松平氏入部以後、天候不順により作柄が大きな影響をうけた。﹃播陽誰葉身之上﹄には﹁入部ノ後ワツカ. 六年ノ間、四度マデノ大風ニアヒテ年毎二諸島不作ヲシテ苦シム﹂ ︵註二一︶とあり、災害が相次いでい. 二〇. る。四度の台風は﹃御月見日記﹄で裏付けられる︵註二二︶。寛保三年の条に﹁二百珊日二当言風吹﹂、延. 享元年の条に﹁二百珊日二当り大風楠丘﹂、延享三年の条に﹁八月廿四日二大風吹白亜﹂、寛延元年の条に ﹁九月三日夜明より四日の四つ過迄皇継外大風﹂とある。とりわけ被害の大きかった年は延享元年と寛延元. 年で、いずれも幕府や大坂町奉行所に被害状況を報告している。ここでは、好田主水の農民政策を考えるた. め、主水の就任した延享元年の風損と農民救済についてみる。延享元年八月に被害について、﹃記録﹄の延 享元年十月廿六日に次のように書上げている。.  潮入潰新田拾六町七反武拾八歩.      播州姫路當八月十日大風雨二付損毛破損所々覧.  高五萬武千五百四拾四石亀斗四升武合三夕 、新田ずり頁五ケ所 、釜座濱藏炭屋潰稲屋六拾九軒. 、漏塩水入穴損百拾壼軒. 、往還道切レ四ケ所 、橋落損拾六ケ所. 、塩釜漏塩水捨り百六拾五日分. 、流屋敷三拾六ケ所. 、塩濱堤切井田地堤切武百七拾三ケ所. 一 一 一. 、薪流捨り百五拾面. 一. 、塩濱損六拾壼ケ所. 、指樋損拾本. 一 一 一. 、潰家五拾三軒   前半潰共. 一 一 一 一 一 一 一.

(25)   一、塩濱堤井海手石垣損八拾ケ所       一、高札場函数ケ所   一、流死三人男     右之通御座候、依之御届申上候 以上          九月廿三日  御名.  稲作については知行一五万石のうち三分の一蓋の五万石余が管毛である。沿岸部では﹁潮入潰新田﹂が十. 六町七反余り、浜風により塩が吹き込んだのであろう。また塩田の被害も大きかった。 ﹁塩濱堤切﹂ ﹁塩濱. 壷井海手石垣損﹂など塩田の防護施設の被害、 ﹁塩濱損﹂など塩田そのものの被害、さらに﹁釜座・濱藏・. 炭屋潰﹂ ﹁塩釜漏﹂ ﹁島流捨り﹂などの施設・資材の損害など、塩浜の損失もかなり多い。そのほか﹁潰. 家﹂ ﹁往還道切レ﹂ ﹁当落損﹂など集落の被害がしるされている。 ﹁新田ずり﹂ ﹁塩浜切﹂ ﹁流屋敷﹂など. はこの時の損害が大雨によることを示す。また、 ﹃記録﹄の八月十九日の条に、高砂は﹁上り磁石崇高大. 破﹂、室津の港は被害がなかったが茶屋が壊れ、慧智津は番所石垣等の破損が報じられている。.  そのため同年暮には、年貢上納が日延べされている。﹃記録﹄の延享元年十二月五日置条に﹁在中當御勘. 定之義、日延願來七日切申付候処、昨四日迄不残相落候郡代方より申越之﹂とある。恒例では年貢収納の期. 限は十一月晦日であるが、損毛が著しいため十二月七日まで日延べされた。また、﹃御月見日記﹄延享元年 の条に野添村のこととして、次のように見える︵註二三︶。.   綿甲上作共ニニ百三十日二当り大風二而早稲上毛中稲中黒晩稲皆無成、それ故吾春法御願申、晩稲高三.   百三石二身被下米百五拾八石巻斗五升六合、晶出無へ拾四俵六升落下置、惣喜悦無限、其上大悪米御取   被遊被下、 ︵中略︶、悦申候. 二一.

(26)  早稲は被害がなく、中稲も半分は被害を免れたが、晩稲は全滅した。そこで検見を申出たところ、①晩稲. 三〇三石のうち一五八石を減免され、②また穂が出なかった田地の百姓には合せて⋮四俵を下され、③さら に大悪米をも年貢米として引き取り、百姓が﹁喜悦無限﹂という措置を講じている。.   D 財政の失敗と藩士の批判 一好田主水の失脚一.  延享元年六月﹁勝手向主役﹂に登用された好田主水は、延享三年七月在職二年にして罷免された。その経 緯についてみる。.  好田主水を﹁勝手向主役﹂とする財政政策は、必ずしも順調に展開したわけではない。すでに主水就任直. 後、勘定奉行からの口上書が出されている。﹃記録﹄の延享元年七月晦日の条に次のように見える。  一、先達而御勘定奉行共御勝手之義二付口上書を以薄墨趣申聞候、左二記之    口上覚.   此度好田主水殿御勝手向御主役御斎被成二付、私共儀□□御前御手元墨取〆工商忌避 御意御悩申上候.   得者、何とぞ書付之手段出野合申哉と乍為一□程之勘弁評議仕取得共、段々御物入り之跡過分二候、御.   借金罷成、中々以ていか様とも仕分聯手段難及愚慮當藍絵候、第一御暮之御積井御燈金之取扱仕分ケ等.   汗管不感導者、御暮不立此分二而ハ猶又難澁之葺合鉛被成奉存候︵中略︶、少し二て茂其儀合見江平申.   當惑仕出御意之趣畏罷有候上ハ、上下行違可直管と恐入奉存候、然上ハ御役儀之御歎をも申上度所存御.   座候へ共、只今彼此と申上候段も却而如何奉存候付、暫猶豫仕罷有極、右素通御役前之取捌不相立候而.   者、勤之本意を失ひ候仕合迷惑仕置、當時之御勝手向不揮義甲存候間、此段被御立墨画被下候 已上      七月   辻早太 松江三郎兵衛 林理右衛門. 二二.

(27)  勘定奉行は主水の役職就任の翌月財政事情の見通しが立たないのは、 ﹁勝手向主役﹂の主水と勘定奉行が ﹁上下行違﹂のためとも考えられるとし、それでは﹁勤之本意﹂を失うから辞任したい。しかし財政事情を. 考えて辞任願を保留しているが、この事情はよく含んでいてほしいというのである。勘定奉行は主水の政策 に最初から反対であった。.  延享三年春、反対派は江戸に出府して藩主に訴えた。﹃記録﹄同年月五日の条に次のようにみえる。  一、多賀谷大炊宅二寄合在之候、番頭平頚同人宅へ相招左図趣大炊申聞之、左記之.   六番罷申重畳趣御敵聞承知申候、早川茂左衛門義此度出府申候、尤いつれも一曲二御為之事候得者罷帰.   候上二而申達候、穏二有之様御取扱御申聞置可有之候      御目付.   右者、此度六番士一統申下墨趣、其外御勝手向御難澁世上唱之趣共、言上として出府之義老中へ申上候.   二付、勝手次第出府候継走と、多賀谷大炊方より吉田源五兵衛方へ、以手紙申遣之.  姫路藩では番方は六番からなるので、 ﹁六番士申聞龍車﹂とは番方全体の意志と考えられる。番頭全員が. 老中︵家老︶多賀谷大炊宅に集められ、彼らの訴えを承知し、それを藩主に取次ぎ、番頭に対して穏やかな. 取扱をするよう藩主に進言したことを伝えると共に、同職早川茂左衛門が此度出府して訴えの趣を申上げる. と伝えている。目付吉田源五兵衛が、 ﹁御勝手向御難澁世上唱之趣﹂を藩主に訴えることを、家老に願出た. のでそれをも許した。家老多賀谷大炊は番頭を集めて寄合し、目付吉田源五兵衛が好田主水の財政政策の非. を藩主に訴えることを許している。家老・番頭が一緒になって好田主水の罷免を画策している。しかし藩主. の好田主水に対する信頼は厚く、同年六月には主立った者一一人が処分されている。. 一=二.

(28) ︵表二︶ 延享三年 処分された家臣一覧. 二番組頭. 暇、奉公一切構. 暇、奉公一切構. 処分. 三田村十郎太夫 勘定方. 暇、奉公一切構. 役職. 林理右衛門. 物頭、のち勘定方. 人名. 辻早太. 備考. 役料百石、延享元年. 役職は延享元年. 暇、奉公一切構. 暇、奉公一切構. 役職は延享三年. 鰭六郎左衛門. 上三方御蔵奉行. 暇、奉公一切構. 暇、奉公一切構. 加藤兵太夫. 御巡見のため仮代官. 浅見与三左衛門. 多賀谷次五太夫. 二四.

(29) 流. 番組. 目付. 禄召放蟄. 召放遠慮. 格 閉門. 閉門. 役. 触 六. 蟹江勘解由. 楽弥門兵衛. 兵衛. 総. 御. 居. 年 延 占 早 三. 春. 出府. 、. 上. 舌. q. 動シ、依之御家中不和候﹂との理由であった。これは番頭・勘定方が一緒になり、家老多賀谷大炊を動かし. 言上之瑚敷年御内役をも相勤候得者別段之志申上候共、一統之場二而者遠慮茂可有之所、別而邪義を以入を. 統言上之砺より処置不宜﹂④林理右衛門は﹁先年御役御免已後所置不宜、剰組番を茂不相勤、就中當春一統. 太、鮭六郎左衛門、浅見与三左衛門、加藤兵太夫、多賀谷次五太夫、吉田清太夫野口総兵衛は﹁当春六番一. 意、衆人にらみ受、平日勤不宜、上を蔑にし、上下之実義を不弁﹂、③設楽弥門兵衛、林利右衛門、辻早. 中不致一和政事之妨二相成候﹂、②三田村十郎太夫は﹁當春相番一統言上之瑚より御家中不致一和畢寛我.  処罰理由は、次のようなものでった。①蟹江勘解由は﹁當春出府言上之趣御承知、然ル虜御帰城以後御家.  六月十二日の﹃記録﹄によってまとめると表この通りである。.     ︵﹃松平家記録﹄により作成。役職、備考は﹃記録﹄の他の箇所による。︶. 口. 吉 田清太 夫. 設. 野. 二五.

(30) 好田主水の追放を図り、そのため大量に処分された大事件であった︵註二四︶。.  好田主水が﹁勝手向主役﹂を罷免されたのはこの事件の翌月延享三年七月であるが、その原因は、大坂銀. 主に対する背信行為による大坂における借銀の行詰りである。延享二年当時、大坂勘定方は生嶋茂右衛門で. あった。茂右衛門は大坂における﹁金子才覚﹂の責任者であった。同年二月に藩重役は連名で大坂留守居並. びに勘定方に借銀を命じた。これは、既にのべたように、 ﹁給所米借請﹂のため合計=二万俵の米を﹁引. 當﹂にした借銀工作であった。こうして、=二万俵の米を担保にして大坂での借銀が調達された。同年暮江. 戸の高間伝兵衛が、姫路藩に融通してあるのは幕府公用銀と為替銀であることを理由に厳しく返済を求めた. 二六. ︵註二五︶。そのため勘定方首脳は、大坂への廻米=二万俵のうち二万余俵を抜き取り、高間に渡した。大. 坂への廻米は二万俵の不足となった。彼は同役田中官左衛門に次の書状を送った。﹃記録﹄の延享三年正月 朔日の条に次のように見える。.   當晶晶坂御湿無筆銀主江御約諾と重質萬表余不足二付、前極月上旬より以之外銀主氣味悪敷罷工仕方無.   御座、御言大坂表御手違罷成儀以御大切至極之場至宝以恐入奉存候、江戸表越年御入用可也二藍御問合.   可申哉と此上之御田奉存候、大坂表倉主之内御心セ米国宝候已後、一向相愚輩廃者共之論著威光を以元.   利申延候得共、右銀主之内意味合御座候もの共江対し、私一己相良候而ハ乍愕不成御為候様奉存二型、                   ママ . 御代々御高恩亡脚之躰御座感得共不如是悲退身整経、尤士官相立候所存曽画論御座候、 且又御用料測候 而差置候、同役中へ増歯可座下候、近年何角御心添添御礼難申尽御座候、以上.    田中官左衛門様             閏十二月二十七日 生嶋茂右衛門.

(31)  生嶋茂右衛門は、大坂廻米二万俵の流用という藩の背信行為により、庫主と藩のいたばさみにあい、脱藩. せざるをえなくなった事情をのべたものである。大坂廻米不足の事態が明らかになった十二月上旬より、銀. 主の態度は﹁気味悪敷﹂なっていった。こうした藩主に対して、彼はなお元利の支払いの繰延べを納得させ. たがその後の借銀の衝に当ることは藩のためにならないとして、やむなく﹁退身﹂するというのである。翌. 延享三年の倹約令でもこれにふれている。﹃記録﹄の延享三年二月十五日の条に次のようにのべている。.   薔臓大坂表手違之儀、為絶言語義世上踊帯差當り暮方茂不相見、家中之者共可致扶助様茂無之躰、誠に   心外成事候.  昨年末の手違いで世の悪評は言語を絶し、財政の目途も立たず、家臣を養う方法もなくなったと嘆いてい. る。このため厳しく倹約が求められた。 ﹃記録﹄延享三年二月十五日の条に次のようにある。.   此度主法立替十ケ年之内ハ、代々之古法 公辺穂掛リ候義血各別、内証之義を相改メ厳敷勘略意用候よ.   り外無他事二而、先年差出シ候直筆之趣を守、右之外二も勘略論可成筋存知寄有之候ハ、無遠慮可罷申   聞候.  今回の倹約令は、 ﹁代々之古法﹂と﹁公辺心掛リ﹂のことは仕方がないが、その他のことは厳しく倹約. し、向こう十年財政再建に専念することを命じたものである。この倹約令を実行するためには、好田主水を. そのままにしておくことは出来なかった。同年六月置好田主水派が処分されると、その翌月主水は堀中主鈴 から次のように申し渡された。﹃記録﹄延享三年七月廿七日の条に次のように見える。.  一、於堀中主鈴宅月番年寄井大御目付一人出席好田主水召出、左之通主導申渡左記之      好田主水. 二七.

(32)   去暮大坂手違之段無念思召候、此段可申聞之旨被 仰出面.  藩主は﹁大坂手違之段無念思召﹂と主鈴から好田主水に伝えさせ、暗に引責辞任を示唆したのである。主. ﹃福島県史﹄第八巻、四二八頁。 ﹃福島県史﹄第八巻、四三一∼三二頁。 ﹃福島県史﹄第三巻、四三七頁。 ﹃福島県史﹄第八巻、四三六∼三九頁。. ﹁寛保元年酉之十二月より松平大和守様言替二付万覚書﹂、 ﹃姫路市史﹄第÷巻、一九四頁。. 田村、前掲書、一五一頁。. 宮本又郎﹃近世日本の市場経済﹄、有斐閣、昭和六十三年、. 田村、前掲書、一四八頁。. 田村、前掲書、一四七頁。. ﹁御用留﹂、﹃姫路市史﹄第十巻、一九四頁。. ﹃姫路市史﹄第十巻 一九四頁。. 同書、巻之一、数度之用金之事。. 田村栄太郎﹃近世の農民一揆﹄上、雄山閣、昭和六十年刊. 四三ニー〇九八七六五四三ニー. 八八∼九九頁。. 一四六頁。. ﹃福島県史﹄第八巻、七二九頁。. 水は藩主の信任が余程厚かったのであろう、 ﹁御勝手向主役﹂の辞任後も年寄役として勤めている。.             註. 二八.

(33) 一五 田村、前掲書、. 一五〇頁。同氏は﹁当暮景無相違﹂と読んでいるが、 ﹁当暮全無相違﹂の間違. 田村、前掲書、一五二頁。. 違いない﹂ ︵同書 一一八一頁︶と述べているが、原因は不明としている。. 橋本政次氏はこの事件について、 ﹃姫路城史﹄において﹁同家にとっても稀有のことであったに. 註ニニ、前掲書、一〇頁。. ﹃御月見日記﹄、一〇∼一一頁。. 註八に同じ。. 田村、前掲書、一五〇頁。. ﹃姫路城史﹄、一一五七頁。. 田村、前掲書、一四九頁。. 註八に同じ。. ﹁鴻池家文書﹂、﹃姫路市史﹄第十巻、一九九頁。.  いと思われる。. 二五. 四三ニー〇九八七六. 二九.

(34) 第二節 小河原監物の藩政改革.  好田主水の財政再建失敗のあと、藩主明矩は延享元年一度引退させた小河原監物を再び登用した。監物は. 家中の支持を背景に改革遂行を図った。財政・行政機構の整理による経費削減を断行すると共に積極的には. 領民全体への用金賦課ならびに新田開発と増税、御用商人による藩専売、などによる増収を企てた。本節で. は①小河原監物登用の経緯、②行財政改革と御用金政策、③災害に対する救済と監物の在方支配の三点につ いて考察する。. 監物の再登用と財政政策.   小河原監物殿御事御同苗齊宮殿縁組之義、安祥幽静 思召二不被為叶置付螢藺被 仰付候様承知仕候、.  一、町奉行郡代寺社奉行御勘定奉行一統書付差出託種、左二記之. ず役方の嘆願が出されている。﹃記録﹄の九月三日の条に次のように見える。. とあり隠居を申し渡された。しかし彼は田村氏も指摘するように役方・番方の支持を得ていた︵直島︶。ま. 年六月、同姓斉宮の婚姻問題で藩主の母安祥院の反対にあい、﹃記録﹄同年六月三日の条に、 ﹁当職御免﹂. には、民政担当の老中︵家老︶として町奉行、郡代、勘定奉行などを統括する立場にあった。しかし延享元.  監物は結城以来の松平家譜代の重臣であり︵面一︶、禄高も最も多い二三〇〇石である。姫路入部の初め. 1. 三〇.

(35)   其上監物殿職分御免被飴石、 ︵中略︶、乍痴愚代々御権家之義御年倍と頬冠御勤柄孫譲段幕御家中二而.   粗相唱申候爵者、御退役被成候爵甚残念奉存候、 ︵中略︶御政事者重義二御座候、依之陰雲私共主意二.   奉存候者擁護様之内御一人御出府被成、安祥画廊御前何分二茂紅血被仰上帰心被成候様に仕度御事後れ   候而者災害茂可有御座哉と奉存候、 ︵以下略︶.  この文書の趣旨は当役御免の理由は斉宮の縁組について藩主の母の反対による引退と聞いている。しかし. 小河原家は﹁代々御権家﹂という家柄であり、年令からいっても申し分なく、さらには勤柄も家中に評判が. よいので、退役は甚だ残念である。重臣が出府し安祥設置の怒りを解き復役が叶うよう努力してほしい、と. いうのである。藩士の信頼が厚かったようである。番方の場合も同じである。﹃記録﹄延享二年閏二月朔日 の条に次のように見える。.   物頭共選聞喜平、小河原監物父子縁組意義不千慮止事儀有之二付縁絶被 仰付帯、父子共御役御免被成.   候、監物年比二ても在之御役之毒悪忌事幕無之様何茂奉存残念奉存候、 ︵中略︶父子共御役被仰付候様.   致度同役共何茂存候趣、池田与八郎稲葉主殿へ申聞之.  物頭達は奉行同様、家柄・年令・勤務振りに非のない点を述べて、復役の叶うように願っている。.  延享三年七月廿臼、藩主は漢方・番方の願いを容れ、まず老中︵家老︶に復帰させた。ついで、 ﹁御勝手. 向主役﹂に任命している。七月廿八日の﹃記録﹄に﹁御居間江被召出御勝手萬事引請可致黒豆発御頼被早. 早﹂とみえる。番方に関係した者の処罰と監物の登用は裏表の関係にあったのであろう。つまり、番方の不. 平分子の処罰だけでは問題は解決しない。そこで番方に入気のある監物を再び登用したのであろう。.  家老に就任した監物は、就任後勘定奉行に対して次のように指示を出している。﹃記録﹄延享三年八月廿. 三一.

(36) 六日の条に次のように見える。.   惣還御勝手向取受療儀不及申候得共〆リ大切二候、御積帳元二相立様ケ条混雑無之候、當座之作品門渡.   リ間二合候爵斗を専二いたし候得者必混雑可申候、ケ様之義眼不如意之うヘ病垂懸鼻義のミニ貧着可有.   之候得共、其節二至リ評議二渡リ候うヘニ而作略在他処二いたし度候、諸事御不如意之うヘハ彌落丁申.   合被入念混雑無之段第一之事二候、金銀等量やり之儀者別霜相〆リ書付を以通達申合候嬉嬉然候、大坂.   二おみて此度各之内被罷出候うへ矢倉連中出銀宝之儀申合仕、用帳互二取かわし女直肝要学事二二、ケ.   様之儀ハ先下書を以此方へ被申談候様二存候、随分諸事委鋪御倹約相立候様群雨候、各正義不及申事な   から心付候義打割申談候、 ︵中略︶ 已上 八月廿七日 小河原監物.  指示の要旨は、①﹁当座戯作略二渡リ、間之合候﹂ような無計画な支出は放漫財政に陥るから、 ﹁御積. 帳﹂を作り、それに基いて予算を執行すること、②勘定方同役の者がよく申し合せ、 ﹁評議二渡リ候うヘニ. 而、作略言之様臨いた﹂すこと、③勘定方は﹁書付を以通達申合候﹂こと。上記の各部分からみると、互い. 三二. に書付けをとりかわして相互監視を求めている。そのことは、 ﹁用如露面取かわし下段、肝要之事二君﹂、. とあるように文書により事務を処理すること、④執行前に﹁下書を以此方へ被申談言様二﹂とあるように、. 監物が裁決権を強化し統一的財政運営の確立を企てている。こうして小河原財政が貫徹するような勘定方の 体制確立を図った。.  経費節減のための一手段として、行政機構の整理がおこなわれた︵貝回︶。八月七日の﹃記録﹄に、道橋. 奉行伊藤孫左衛門と山方奉行明石孫四郎が﹁此度別段盛期倹約二付﹂との理由で解任され、同日、郡代両人. に﹁山方兼帯﹂、御作事奉行両人に﹁道橋方兼帯﹂の命令がみえる。また人員削減が図られた。﹃記録﹄八.

(37) 月十七日の条には郡代より、 ﹁此度書付二而郡代役所人減し候書付差出候﹂とある。  こうした行政機構整理と財政運営の強化と並行して、藩主は財政の監察を考えていた。同年二月十五日の. ﹃記録﹄に﹁御収納差引井借金御前二而年々御湿被成座間、左様可被相心得候﹂とある。しかし、同年九月 に発病したため、事実上小河原監物が藩政の全権を掌握するようになった。.  監物が起用された延享三年から寛延一揆の起った寛延二年までの郡代は、辻源太左衛門、多賀谷次郎右衛. 門、吉田八郎太夫の三入である。辻源太左衛門は姫路入部当初から寛延二年の一揆まで在職した。多賀谷次. 郎右衛門は延享四年町奉行に移った。次郎右衛門のあとに吉田八郎太夫が郡代になった。.  源太左衛門と八郎太夫が寛延二年に罷免された後、郡代には次郎右衛門が復帰していることを考えると、. 小河原監物のもとで厳しい年貢徴収政策を打出し政策を遂行しようとしたのは、辻源太左衛門と吉田八郎太. 夫の両名である。吉田八郎太夫は﹃記録﹄の延享四年の任命書に﹁以前御勘定方相勤候、訳も存知之儀収納. 面識義御勘定江無腹蔵王春候様﹂とあり、勘定方をも勤めた財政に明るい官僚として登用された。 ﹃播陽誰. 飢身之上﹄は、悪政の元凶を椰楡して次のように言っている︵註四︶。      開帳.    和州用金山無法寺卯十月ヨリ辰二月迄町在困窮結縁ノタメ開帳.   一、本尊阿房仏  小河原上人御作 一、脇立銀嶺ナミダ如来  取立大師御作.   一、当代増免ノ不動尊 西条テレン大師御作 一、百姓ヲホヤス地蔵 欲道辻法師御作 三十六人大庄    屋達マイナイノ糸ニテ織り玉フマンダラ.  和州とは大和守、小河原上人は小河原監物、西条テレン大師は沼田平九郎、欲道辻法師は辻源太左衛門、. 三三.

(38) ﹁三十六入大庄屋﹂は二六人の誤りである。彼らが領民の敵として名指しされている。用金の取り立てば、. 小河原監物の立案、辻源太左衛門の実施、というのが一揆記録の見方である。.  辻源太左衛門は在中に隠然たる勢力を扶養したらしく、大坂町奉行所与力八田五郎左衛門の加古川におけ る﹃御用日記﹄で、在中での顔役との癒着を指摘されている︵註五︶。     寺家町組之内土山村.     里右衛門 同停藤五郎 同村庄屋 権兵衛 同感藤蔵.    馬簾右衛門儀、先達山姫管領村々騒動之節、 ︵中略︶先郡代辻源太左衛門より発頭人等之儀聞合申付.    候二付、在々相廻候得共、 ︵中略︶、中々聞合等之儀は不相成程之身分二御座候由、然ル処、先年辻.    源太左衛門妾を里右衛門埣藤五郎女房二遣シ、心安出入為致候者故、 ︵中略︶、且又、里右衛門義常.    々博変頭取等仕候者二選、右権兵衛同伜藤蔵、此者共も里右衛門内縁を以源太左衛門蒲江為致立入、.    ︵中略︶源太左衛門儀博変二二を先達三差留置候二付、 ︵中略︶、依之頭取仲ケ間より金子弐拾両源.    太左衛門方江差遣道由、右之通二而里右衛門藤蔵幽間直々にても相悪ミ罷有候、 ︵以下略︶.  これによると 辻源太左衛門は﹁先年辻源太左衛門妾を里右衛門停藤五郎女房二瀬シ、心安出入為致候﹂. 三四. とあるように土山村里右衛門と親しかったが、彼は﹁常々博変頭取等仕卜者﹂とあるように博変の元締でも. あった。また﹁頭取仲ケ間より金子弐拾両源太左衛門山江差遣候﹂とあるように、彼らから収賄していた。. 庄屋権兵衛父子も里右衛門の内縁で源太左衛門と親しく交際していた。このことから、源太左衛門の大庄屋 ・庄屋との癒着は目にあまるものがあったようである。.  監物はこうして権力を掌握すると、領内一円に多額の御用金を課した。主水のように一部富裕な領民から.

(39) の徴収ではなく、富裕な領民はいうまでもなく広く町方在方に分担させたのがその特徴である。延享四年か ら寛延元年にかけて、朝鮮入来朝にかかわる御用金賦課がそれである。  延享四年四月、通信使の通行する沿道の諸大名にその接待が命じられた。  領民への用金賦課について﹃播陽誰飢雪質上﹄には次のように記す︵註六︶。.   寛延元戊辰年ノ春朝鮮入来二付、同国室津ハ姫路ヨリノ御馳走場ナレハ、入用翻身オク入ルニ依テ、城.   下ノ町人二一万両、二十六組ノ百姓一二万両、用金フウ印ヲ以テ申シ付ラレ、別シテ灘四組ニハ有トク.   ナル画工シトテ、一万両ノ内五千両ハ在方二十二組、五千両ハ里方ヘカケラレ、高砂組へ千両、寺家町.   組ヘハ八百五十両、的形組へ七百五十両、宇佐崎組工六百五十両、郡代吉田八良大夫、辻源太左衛門ヨ   リ急度申シ付ラレ、大庄屋ヲ以其取立シキリニセメ立ル.  これによると、こめとき、町方に一万両在方に一万両、合せて二万両の御用金が課せられた。しかし藩士 にも課せられているから二万両をはるかに上回ることは確かである。この費用の賦課方式を見よう。.  まず藩士については、申出による上納銀が課せられた。﹃記録﹄延享四年七月十六日の条に次のように見 える。.    弁書.   今度朝鮮人來盛付御馳走御用向被 仰付、大概取調茂有之大分之御入用追々二相闇候、御大切之御用向.   御時節柄之義 上二二御心遣被 思召候、此上各共電申合随分可相盛候得共、爲御安心下より申合物成.   之内上納如何様二も御大用無御下御勤被遊候様奉蜜蜂、寸志可申機軸共申合候、 ︵以下略︶.  これは老中から主たる役人への申達である。 ﹁朝鮮人来朝付御馳走御用向﹂の費用が莫大であることを説. 三五.

(40) 三六. き、藩主を安心させるための﹁下より申合物成之内上納﹂を説いた。その結果、﹃記録﹄の同年十月三日の. 条に﹁此度朝鮮人御用被遊御勤候丁付、無御滞御勤墨継候様二何茂志申上候段達御盛候所御満足思召候﹂と. あり、上納は聞き届けられた。最高の二三〇〇石の知行取は銀三貫目、最低の金三両二人扶持の者は銀二一 匁というように俸禄に応じて上納額が定められた。.  次に領民の場合を見よう。二万両のうち在方の一万両は心違四組が五千両、高砂組千両、寺家量見八五〇. 両、的形組七五〇両、宇佐崎組六五〇両、他の二二組は五千両である。二二組のうち四組の賦課高は次の通 りである︵註七︶。.   西条組   九九〇〇石余 三〇〇両   前之庄組  七七〇〇石余 銀二〇貫目.   八反田組  七七〇〇石余 一七〇両   山崎組   六七〇〇石余 二五〇両.  前之庄組の銀二〇貫目は一両11六〇匁で換算すると三三〇両余になるから、この四組の合計は一〇五〇両 余となり、二二組の五分の一弱であるから、全体で五千両余になる。.  この多額の賦課については領民の間に疑惑があった。次の史料は、領民の感情を伝える︵註八︶。.   用金之義家老小川原監物其此役人井大庄屋馴合割符仕、上納ハ三分程ならて八無策由、首姓共銀着、此   度騒動に及しよしの風聞も有之.  用金は藩役人と大庄屋の馴合いできめられ、集められた金額の三割ぐらいしか上納されず、残りは墨入の. 賄賂に消えてしまうという風聞があり、これが寛延二年の一揆の一因となったという。.  八反田組の一七〇両の割当は、一両11銀六〇匁で計算すると一〇貫二〇〇匁となる。これだけが、延享四. 年十二月と寛延元年二月の二回にわけて納められている︵愈愈︶。厳しく完納が求められたのであろう。.

参照

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の民俗﹂ ﹃常陸太照市史﹄所収

兵庫県姫路市教育委員会 教育行政改善プラン

明治三十六年五月十四日明治三十七年四月十四日

    昭和十七年三月      文甲三   山下貞二     昭和十七年三月      文甲二   井上泰祐     昭和十七年九月      文甲三   井上宏     昭和十七年九月      文乙

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