徳島藩伊賀者の基礎的研究
井
上
直
哉
はじめに 近年、江戸時代の﹁忍び﹂に注目が集まっている。忍びというと戦国 時代のイメージであるが、関連する史料が少ないこともあって、その実 態の把握は容易ではない。一方、江戸時代になると史料も比較的多く残 されていることから、その実態をより詳細に紐解くことができそうであ る。 ここでいう忍びとは、伊賀・甲賀の者を筆頭に、探索業務などを主な 職務として、大名家に召し抱えられた者のことを指す。そうした存在は ﹁伊賀者﹂ ﹁甲賀者﹂ ﹁忍之者﹂などと呼ばれ 、広く全国の諸藩に存在し ていたことが知られる ︵1︶ 。しかしこのような近世の忍びについての具体的 な研究事例は少ない ︵2︶ 。いまだ多くの藩の忍びについて、その詳細は明ら かでないのである。 本稿では、その一事例として徳島藩の伊賀者について取り上げる。徳 島藩は阿波・淡路の二カ国を、江戸時代を通して蜂須賀家が治めた藩で ある。徳島市内には現在も伊賀町という地名が残っており、伊賀者が城 下町の一角である伊賀町に集住していたことが知られている ︵3︶ 。 本稿では藩の記録や 、伊賀者たちによって提出された文書などから 、 徳島藩の伊賀者の出自や職務などについて明らかにし、また他藩の同時 代の忍びとの比較も試みる。 徳島藩に召し抱えられた伊賀者は、天保五年︵一八三四︶に藩へ提出 し 、文久元年 ︵一八六一︶に加筆した ﹁成立書并系図共﹂ ︵徳島大学図 書館蔵︶ ︵以後 ﹁成立書﹂とする︶で 、自分たちの役職を ﹁伊賀役﹂と 記している。本稿では、伊賀者が勤めた役職﹁伊賀役﹂についても検討 する。 一 徳島藩伊賀者の出自と召し抱えの経緯 1 出自 まず伊賀出身で伊賀役を勤めたと明記している家を﹁成立書﹂に求め たところ 、大島二家 、 森脇 、坂田二家 、箕浦 、 平井 、梅岡二家 、小沢 、 梅原の計十一家を見出すことができた。表 1 にこの十一家についてまと める。 この十一家から分家を除いた八家について 、その来歴を見てみると 、 六家が同じ内容を共有している。例として、森脇伊之助の﹁成立書﹂の 冒頭を掲げる。 ︹史料 1 ︺ 成立 森脇弥太郎儀伊賀国住居仕相応之人数所持分立罷在候処、織田信長 公諸国退治之節、伊賀一国不相従度々人数被指向候得共、勝利無之 ニ付、重而以多勢被攻候刻、一族共離散仕、夫弥太郎儀者堀尾帯刀江小高ニ而被召抱候、 初代 森脇新五右衛門保明 大嶋半十郎先祖田中九左衛門二男ニ而弥太郎養子与罷成、弥太郎死 後相続仕、彼方ニ相勤罷在候処、帯刀子息山城守ニ至、跡目之入割 ニ付従 公儀御取消故、寛永十年之比浪人仕、新五右衛門儀早速生駒壱岐守 殿江被召抱相勤罷在候内、彼御家中混乱之砌立退、又々浪人仕罷在 候処、寛永十七辰年春於江 戸、 御家江被 召出四人御扶持 方御支配拾四石被下置、同 年大坂御供仕候処、讃州 生駒浪人被召抱候儀 御聞 合被遊候様、井伊掃部頭様 被仰進候御趣ニ而、世上 鎮候、親類共方江立寄可 罷在候、御宛行者大坂於御 蔵屋敷御渡可被遣旨被 仰 渡、播州龍野親類共方ニ罷 在候処、其節讃州浪人御吟 味稠敷住居難仕御暇奉願候 所 、 然 者 御 国 江 可 罷 越 旨、被 仰付罷下、塩川内 蔵上り屋敷ニ御指置被遊 候、其後屋方拝領仕候様被 仰付候得共、存念茂御座候 ニ付、御断申上候処、従 上御普請を茂可被 仰付候間、其上ニ而可奉願品茂御座候得共、過 而可申上旨被 仰渡、富田・山路ニ而只今之屋方被下置、家宅御普 請被 仰付、引移申候 もとは伊賀国の住人であったが、天正九年︵一五八一︶の天正伊賀の 乱の際、国外へと避難した。その後、当時浜松城主だった堀尾帯刀︵吉 晴︶に召し抱えられたという。堀尾吉晴が浜松城主だったのは天正十八 年︵一五九〇︶から慶長四年︵一五九九︶までであるため、その間に召 し抱えられたことになる。 天正伊賀の乱を機に、伊賀国外へと避難した者は少なくない。森脇家 も同様に避難したのだろうが、堀尾吉晴に召し抱えられるまでの間に約 十数年の期間が空いており、この間の足取りは明らかでない。その後森 脇家をはじめ、まとまった人数が堀尾家に仕えていることから、伊賀周 辺の親類に身を寄せていた 、伊賀に戻って暮らしていた 、などのよう に、他の伊賀者と連絡を取りやすい状況下にいたことが推測される。 2 堀尾家の中の伊賀者 堀尾家に召し抱えられた伊賀者の人数について、寛永年間に作られた とされる ﹁雲陰両国之大守堀尾帯刀先生吉晴公給帳﹂ ︵ 島根県立図書館 蔵︶ ︵4︶ から、 ﹁伊賀鉄炮﹂として四十名が仕えていたことが分かる。 一、三千石 揖斐伊豆 伊賀鉄炮四拾人 ちなみに﹃島根縣史﹄では伊賀者のことを﹁伊賀鉄炮早人﹂としてい るが、これは誤読で﹁早人﹂ではなく﹁四十人﹂が正しい。 この堀尾家の伊賀鉄炮四十人の中には、後に岡山藩に仕える伊賀者た ちもいた 。岡山藩士が明治になってから提出した ﹁ 奉公書﹂ ︵岡山大学 図書館池田家文庫蔵︶のうち、児島鎮吉のものを掲げる。 表 1 伊賀役を勤めた伊賀者家筋(「成立書」より作成) 家名 初代 召抱え 召抱え時の禄高・家格 召抱えまでの履歴 1 森脇 新五右衛門 寛永 17 年 4 人 14 石 (不詳) 松江藩堀尾家、 高松藩生駒家を経る 2 坂田 与四右衛門 3 箕浦 松右衛門 4 大島 関右衛門 徒士格 5 平井 善大夫 6 梅岡 久之丞 4 人 12 石 7 小沢 左次右衛門 慶安 3 年 5 人 16 石 徒士格 伊賀国で代々浪人 8 梅原 増次 明和 4 年 3 人 8 石 徒士格 本家断絶のため再興 4-2 大島 九左衛門 享保 7 年 3 人 8 石 徒士格 大島家初代の弟の家系 3-2 坂田 弥平 享保 8 年 3 人 8 石 徒士格 坂田家初代の弟の家系 6-2 梅岡 間右衛門 梅岡家4代目の弟家
︹史料 2 ︺ 浅野瀬兵衛支配忍 切米弐十石九斗 早川加右衛門 元禄九子六十歳 扶持五人 一、曽祖父像者様子不奉存候 一、祖父小嶋与右衛門、生国伊州上野郡小嶋村、慶長五年子関ヶ原 御陣堀尾帯刀殿従遠州浜松出陣之列、伊賀之者ニ罷出切米拾三石五 斗三人扶持給、則関ヶ原御陣供仕候之由、其後同山城守殿代罷有 候、 一、元和元年卯大坂御陣之節、山城守殿供仕、側近被召仕候由、殊 大坂勢佐竹殿手江討出候時、山城守殿横合ニ御掛先達而鉄炮せり合 之節時に至て鉄炮被申付三拾五人被召連候、伊賀之者共一手ニ成打 立申候 、旁以大坂勢敗軍仕候 、帰陣之節諸事相勤殊鉄炮被申付候 処、首尾能相勤申候与懇意共御座候由来伝申候 史料 2 によれば、堀尾家の伊賀者は、十三石五斗三人扶持で召し出さ れ、慶長五年︵一六〇〇︶の関ヶ原の戦いに参加したとされる。このと き堀尾吉晴に従ったことになっているが、吉晴は関ヶ原の戦いには出て いない 。従ったとすれば 、そのときの当主の堀尾忠氏である 。その後 、 堀尾家は出雲 ・隠岐の二ヶ国へ転封となり 、 伊賀者たちも付き従った 。 元和元年 ︵一六一五︶の大坂夏の陣には 、山城守 ︵堀尾忠晴︶に供し 、 鉄砲隊として参加した。 大坂の陣については、後世の記述になるが﹃徳川実紀﹄に堀尾忠晴の こととして﹁上杉を援んと鴨野口へ軍をすゝむれども景勝勢虎口をゆづ らねば堀尾は上杉が備の南より押出し鉄砲を放し、伊賀雑賀の銃卒八十 人三間ばかり前へをしいだし、膝台にて打立しむ﹂とあり、堀尾氏のも と伊賀者が雑賀衆と共に鉄砲隊として大坂の陣に参加したことは、よく 知られていたようである。 居住した場所については ﹁堀尾期松江城下町絵図﹂ ︵島根大学附属図 書館蔵︶に、城の南西の端に伊賀者たちの居宅が書き込まれ、集住して いたことが知られている ︵5︶ 。 堀尾家は忠晴が嗣子を残さずに寛永十年 ︵一六三三︶に死去したた め、改易となった。伊賀者らは牢人となり、高松藩生駒家や岡山藩池田 家などへ仕えていくことになる。 3 生駒家の中の伊賀者 史料 1 および表 1 から、後に徳島藩に仕える伊賀者たちは、堀尾家が 改易となった後、高松藩の生駒高俊に仕えたことが読み取れる。生駒家 の分限帳である﹁寛永十六卯年壱岐守家中分限帳﹂ ︵6︶ を見ると、 奉行代官算用横目 ︵中略︶ 右之内算用横目 伊賀組十八人預り ︵中略︶ 伊賀組十八人 壱人ニ付 切米拾三石五斗 徒士以上格 扶持三人宛 とあり、生駒家には伊賀者十八名がいた。禄高は堀尾家のときと変わら ない十三石五斗三人扶持だった。一律の条件で召し抱えられていること から、生駒家の伊賀者十八名は、全員が堀尾家から同時期に流れてきた 者と思われる。 折角再就職先を見つけた伊賀者たちであったが、寛永十七年︵一六四 〇︶ 、今度は生駒家が御家騒動によって改易となる 。伊賀者たちは再び 牢人となった。
4 蜂須賀家による召し抱え 史料 1 および表 1 によると伊賀者たちは、牢人となった寛永十七年の うちに、徳島藩蜂須賀家により召し抱えられた。高松藩と徳島藩は隣り 合う藩であるが、伊賀者たちは江戸で召し抱えられた。新たな仕官先を 探すべく、江戸へ出ていたのだと思われる。蜂須賀家に召し抱えられた ときの禄高は四人扶持十四石だった。この召し抱えに関して、坂田曽兵 衛の﹁成立書﹂には、 寛永十七辰年於江戸御徒士被召出、四人御扶持方御支配十四石被下 置旨被仰出候所、不足ニ奉存、達而御断申立候得共、向後京升ニ御 直可被下置旨被仰出 とあり、当初禄高不足に付き、蜂須賀家に仕官するのを断ったのだとい う。堀尾家、生駒家に仕えていたときの俸禄が十三石五斗三人扶持だっ たので、実際のところ禄高はさほど変わらなかったと思われる。むしろ 数字だけを見ると、五斗一人扶持増えている。それにもかかわらず、伊 賀者は禄高不足を訴えた。結局、俸禄を特別に京枡取にて支給するとい う約束で、仕えることになったとされている。 伊賀者たちは江戸で召し抱えられた後、大坂まで藩主の蜂須賀忠英に 付き従って行った。すると大坂で、彦根藩主の井伊直孝より、世間が鎮 まるまでの間は親類に身を寄せさせておくのが良いといった助言があっ たという 。なお井伊直孝は 、蜂須賀忠英にとって叔母の嫁ぎ先にあた る 。その後 、旧生駒家家臣の取調べが厳しいので退去を願い出たとこ ろ 、そうであれば徳島へ来るようにと言われ 、塩川内蔵上り屋敷を経 て、富田・山路︵現在の伊賀町周辺︶に集住した。 二 伊賀者の概要 1 家数 続いて、伊賀者の家数について、分限帳をもとに検討したい。まず今 回検討に用いた分限帳を掲げる ︵7︶ 。 ①﹁寛永之比慶安度 阿淡御両国無足以下分限帳﹂ ②﹁貞享之頃元禄度 阿淡御両国無足以下分限帳﹂ ③﹁無足以下分限御帳﹂ ︵元文五年六月十五日︶ ④﹁元文之頃延享度 阿淡御両国無足以下分限帳﹂ ⑤﹁宝暦四戌年 徳島藩役人帳﹂ ⑥﹁御両国無足以下分限帳﹂ ︵寛政年度︶ ⑦﹁阿州徳島藩御家中録﹂ ⑧﹁徳嶋分無足以下分限帳﹂ ︵文政十一年六月︶ ⑨﹁安政四年十二月 徳島藩 無足以下分限帳﹂ ⑩﹁安政六未年十二月調 洲本諸士分限帳﹂ ①②④は、幕末の弘化三年に編纂されたものである。また年次が不明 な⑦は、文政七∼八年に比定されている ︵8︶ 。この十点の分限帳から伊賀者 と考えられる者について抜粋し表 2 に示す 。伊賀者の家筋でなくとも 、 役職が ﹁伊賀役﹂であれば表 2 に 加えた 。 なお 、伊賀者を見出すにあ たっては、京枡取であることと、表 1 に掲げた家の﹁成立書﹂をもとに 判断した。 表 1 からは、寛永十七年に蜂須賀家に召し抱えられた時点で六家しか 見出せなかったが、①寛永∼慶安の分限帳からは、伊賀者が十三名いた ことが分かる。したがって、この十三名が初期の伊賀者である可能性が 高い。全員が高松藩生駒家から流れてきたとすると、生駒家には十八名 の伊賀者がいたので、過半数が蜂須賀家へ移ったことになる。 ②貞享∼元禄になると御徒士の伊賀者が現れる。彼らは父と同時期に
表 2 分限帳から抜粋した伊賀役 No. 禄高 役・格 姓名 ①寛永∼慶安(1624 ∼ 1651) 1 14 石 京枡 伊賀 森脇新五右衛門 2 14 石 京枡 伊賀 村上彦之進 3 14 石 京枡 伊賀 服部善兵衛 4 14 石 京枡 伊賀 森路与四右衛門 5 14 石 京枡 伊賀 平井吉太夫 6 14 石 京枡 伊賀 荒木松右衛門 7 14 石 京枡 伊賀 日根只右衛門 8 14 石 京枡 伊賀 梅原弥五左衛門 9 14 石 京枡 伊賀 山中才右衛門 10 14 石 京枡 伊賀 今岡亀右衛門 11 14 石 京枡 伊賀 田中実右衛門 12 14 石 京枡 伊賀 梅岡久之丞 13 14 石 京枡 伊賀 服部弥三右衛門 ②貞享∼元禄(1684 ∼ 1703) 1 5 人 16 石 京枡 伊賀 梅原曽一兵衛 2 5 人 16 石 京枡 伊賀 平井亀之丞 3 5 人 16 石 京枡 伊賀 福田利三兵衛 4 5 人 16 石 京枡 伊賀 坂田曽兵衛 5 5 人 16 石 京枡 伊賀 梅原平右衛門 6 5 人 16 石 京枡 伊賀 今岡新四郎 7 5 人 16 石 京枡 伊賀 田中三太兵衛 8 5 人 16 石 京枡 伊賀 小津竹右衛門 9 5 人 16 石 京枡 伊賀 梅岡夫兵衛 10 5 人 16 石 京枡 伊賀 森脇弥五兵衛 11 5 人 16 石 京枡 伊賀 箕浦丹右衛門 12 5 人 16 石 京枡 伊賀 村上太一右衛門 13 3 人 8 石 御徒士 森脇新五右衛門 14 3 人 8 石 御徒士 坂田与四右衛門 15 3 人 8 石 御徒士 梅岡小三兵衛 16 3 人 8 石 御徒士 箕浦間兵衛 ③元文 5 年(1740) 1 5 人 16 石 京枡 日帳 森脇新五郎 2 5 人 16 石 京枡 日帳 村上太一兵衛 3 5 人 16 石 京枡 日帳 梅岡六郎右衛門 4 5 人 16 石 京枡 伊賀 平井富次郎 5 5 人 16 石 京枡 伊賀 箕浦丹左衛門 6 5 人 16 石 京枡 伊賀 坂田与四右衛門 7 5 人 16 石 京枡 伊賀 大嶋関右衛門 8 5 人 16 石 京枡 伊賀 小澤長作 9 3 人 8 石 歩行 大嶋九左衛門 10 6 人 16 石 京枡 洲本日帳 福田吉郎 11 6 人 18 石 京枡 洲本伊賀 梅原勝治 ④元文∼延享(1736 ∼ 1747) 1 5 人 16 石 京枡 日帳 森脇新五郎 2 5 人 16 石 京枡 日帳 村上太一兵衛 3 5 人 16 石 京枡 日帳 梅岡六郎右衛門 4 5 人 16 石 京枡 日帳 大島関右衛門 5 5 人 16 石 京枡 日帳 坂田与四右衛門 6 5 人 16 石 京枡 伊賀 平井冨次郎 7 5 人 16 石 京枡 伊賀 箕浦丹左衛門 8 5 人 16 石 京枡 伊賀 小津長作 ⑤宝暦4年(1754) 1 5 人 16 石 − 日帳格 梅岡六郎右衛門 2 6 人 19 石 − 伊賀 森脇曽右衛門 3 5 人 16 石 − 徒士 大島関右衛門 ⑥寛政年間(1789 ∼ 1800) 1 6 人 19 石 京枡 日帳 森脇弥八 2 6 人 18 石 京枡 日帳 大嶋勘兵衛 3 5 人 16 石 京枡 日帳 坂田甚太兵衛 4 6 人 19 石 京枡 日帳 梅岡勇次 No. 禄高 役・格 姓名 5 5 人 16 石 京枡 伊賀 小澤辰之助 6 3 人 8 石 歩行 梅岡官太 7 3 人 8 石 歩行 梅岡小右衛門 8 7 人 21 石 京枡 洲本日帳 福田吉郎 9 7 人 21 石 京枡 洲本日帳 梅原益左衛門 ⑦文政 7, 8 年(1824 ∼ 1825) (識町北より三丁目 右側) 1 3 人 8 石 − 伊賀 梅岡直吉 (伊賀町 北より右側) 2 3 人 8 石 − 伊賀役 箕浦辰吉 3 6 人 19 石 − 中小姓格伊賀役 森脇曽一郎 4 3 人 8 石 − 伊賀役 坂田吉蔵 5 6 人 11 石 − 中小姓格伊賀役 赤堀郷次郎 6 3 人 8 石 − 伊賀役 大島半十郎 7 5 人 16 石 − 中小姓格伊賀役 坂田曽兵衛 8 3 人 8 石 − 伊賀役 小沢武次郎 (伊賀町二丁目 左側) 9 3 人 8 石 − 伊賀役 平井宅蔵 10 3 人 8 石 − 伊賀役 小野佐吉兵衛 (古馬場筋心丁 北より左側) 11 3 人 7 石 − 小奉行格鷹匠/ 伊賀役 芝原滝太 (裏掃除町向原 田関之丞前) 12 3 人 8 石 − 歩行/ 伊賀 梅岡高助 13 3 人 7 石 − 小奉行格 大島市助 (須本) 14 3 人 7 石 − 伊賀役 梅原茂右衛門 ⑧文政 11 年(1828) 1 6 人 19 石 京枡 中小姓 森脇栄之助 2 5 人 16 石 京枡 日帳 坂田曽兵衛 3 5 人 16 石 京枡 伊賀 小沢武次郎 4 3 人 8 石 御徒士 箕浦辰吉 5 3 人 8 石 御徒士 平井丹大夫 6 3 人 8 石 御徒士 大嶋半十郎 7 3 人 8 石 御徒士 坂田吉蔵 8 3 人 8 石 御徒士 梅岡直吉 9 3 人 8 石 御徒士 梅岡高助 10 3 人 8 石 御徒士 福田利三兵衛 ⑨安政 4 年(1857) 1 6 人 19 石 京枡 中小姓 森脇伊之助 2 5 人 16 石 伊賀 小澤金助 3 3 人 8 石 御徒士 平井宅蔵 ⑩安政 6 年(1859) 1 4 人 8 石 洲本伊賀 梅原市三郎 2 5 人 8 石 洲本伊賀 角村庄太郎 3 3 人 7 石 洲本伊賀 大村勝次郎 ※京枡取について明記している分限帳については、その記述を反 映させた。書き分けていない分限帳については、該当する箇所に ハイフンを記入した。
召し出された、伊賀者家の子息である。 ③元文五年の分限帳を見ると、他家に遅れて慶安三年に召し抱えられ た小沢家も、他の伊賀者と同様に﹁京枡取﹂であることが分かる。この 頃までは 、新規召し抱えでも 、他の伊賀者と同条件だったと考えられ る。 時代が下ると﹁京枡取﹂でない伊賀者が増える。これは、家督相続前 に父と同時期に召し出されていた者か、もしくは、不届きがあって一度 無役となった後に再び召し出された家筋の者だと考えられる。例として 箕浦家は安永九年 ︵一七八〇︶五代の忠右衛門のとき 、伊賀役を放た れ、禄高は五人扶持十六石から、徒士格の基本の禄高である三人扶持八 石へと減じられた ︵9︶ 。寛政元年︵一七八九︶に養子の弥五郎が家を継いで 伊賀役に命じられているが 、 分限帳を見る限り禄高は変わっておらず 、 ﹁京枡取﹂の特権も失ったようである。 ①∼⑩の分限帳を通して見る中で、異質とも言えるのが⑦である。居 住地ごとに姓名を記載し、家格と役職を併記している。なお徒士格で伊 賀役の者は家格の記載が省略されている。ここで﹁伊賀役﹂は役職名で あって、 ﹁伊賀者︵=伊賀出身者︶ ﹂とは限らないことに注意しておきた い。⑦を翻刻した宮本武史は﹁阿州徳島藩御家中録﹂の阿州という文言 から、他藩によって作成されたものと推測しており ︶10 ︵ 、他の分限帳と成り 立ちが異なることが考えられる。 伊賀者の家数は 、 分限帳によって差があるものの 、文政の頃までは 、 概ね十家ほどあったことが分かる。幕末近くに提出された﹁成立書﹂か らも十一家見出せるので、徳島藩の伊賀者は、江戸時代を通して十家程 度いたものと考えられる。 2 家格と禄高 徳島藩では家格と基本の禄高が決まっており、戸川祐樹によれば﹁無 足﹂と呼ばれる下級家臣団の家格と禄高は下記の通りである ︶11 ︵ 。 大小姓︵御小姓・無足小姓︶ 五人扶持十石 中小姓・無足諸奉行 四人扶持八石 日帳格 四人扶持七石 徒士格 三人扶持八石 小奉行格 三人扶持七石 この家格の禄高は、あくまで基本の禄高であり、加増があればこれより 多い禄高になる 。無足は ﹁士﹂に区分され 、家督相続が許される身分 だった。伊賀者はこの中の﹁徒士格﹂として召し抱えられた。 寛永十四年に最初に召し抱えられたときの家禄は四人扶持十四石で あった 。その後の寛永∼慶安の分限帳では伊賀者全員が ﹁ 米十四石﹂ ︶12 ︵ 、 貞享から延享にかけては﹁五人扶持十六石﹂である。しかし宝暦以降に なると、加増により五人扶持十六石ではない者が現れはじめ、宝暦四年 ︵一七五四︶の森脇家は ﹁六人扶持十九石﹂であった 。 また 、慶安三年 ︵一六五〇︶に新規で伊賀役として召し抱えられた小沢家は徒士格だが ﹁五人扶持十六石﹂であった 。しかし 、享保年間以降に新規で召し抱え となった伊賀役は、どの家も徒士格で﹁三人扶持八石﹂だった。 このことから、徳島藩の家格と基本の禄高については、まだ江戸初期 においては定まっておらず 、伊賀者の新規召し抱えの事例を見る限り 、 享保の頃までには前掲の通りに定まっていったものと考えられる。
3 昇格 伊賀者は ﹁徒士格﹂の家筋であったが 、家格が上がることもあった 。 ﹁宝暦 諸御役人被仰付来格式之帳﹂ ︶13 ︵ には、 一、伊賀定役 御歩行格之者ニ候得共、日帳格立身被仰付候而も、其儘相勤居申も 有之候、但御歩行格之分ハ御歩行支配付 とあり、宝暦︵一七五一∼一七六三︶の時点で、家によっては日帳格に なった者もいたことが書かれる。実際に﹁成立書﹂を見ると、例えば森 脇弥五兵衛は天和二年︵一六八二︶に日帳格、大島関右衛門家は寛保二 年︵一七四二︶に日帳格になっている。 また徳島藩では 、明和三年 ︵一七六六︶に十代藩主の蜂須賀重喜に よって職制改革が行われ 、これまでの役職と家格の対応が再検討され た。主な狙いは優秀な人材の登用であり、家臣一律に適用されたもので はなかった。伊賀者では少なくとも三名に適用され、森脇曽右衛門保旧 が日帳格から無足小姓となり 、嫡男の森脇曽右衛門保武と坂田直之助 が、日帳格から中小姓格になったことが﹁成立書﹂から読み取れる。 こうした昇格について、明治に入ってから著されたと思われる﹁将卒 役令﹂ ︶14 ︵ によれば、伊賀者はどれほどの手柄があっても出世しないという 約束で召し抱えられ、それは伊賀者が忍びの達人で無際限に手柄を得る ことができたからで 、その引き替えとして ﹁京枡取﹂になったという 。 また伊賀者にもかかわらず昇格した者は、本役とは別の役職で勤功を積 み立身したのだという。 立身について、確かに﹁成立書﹂からは﹁京枡取﹂の伊賀者で、伊賀 役を勤める間に昇格した者はいないように見える。興味深い記述ではあ るが 、﹁成立書﹂に必ずしも役職が明記されているわけではないので 、 ここでは紹介に留めておきたい 。なお ﹁京枡取﹂でない伊賀者や 、﹁ 京 枡取﹂であっても明和三年の職制改革に際して、伊賀役を勤めながら昇 格したケースは確認することができる。また﹁京枡取﹂であるかどうか に関わらず、昇格した後に伊賀役を勤めたケースも確認することができ る。 4 居住地 伊賀者は、現在の徳島市伊賀町に相当する地域に住んでいた。伊賀町 は、徳島城から見て南西の山際に位置する。 享保十二年︵一七二七︶のものとされる﹁御城下絵図﹂ ︶15 ︵ からは、現在 の伊賀町に、伊賀者の家々が軒を連ねていることが確認できる。絵図の 伊賀町周辺について図 1 に 示す 。また 、文政七∼八年 ︵一八二四∼二 五︶の分限帳⑦﹁阿州徳島藩御家中録﹂からは、伊賀者の多くが伊賀町 に住んでいたことが確認できる︵表 2 ︶。 伊賀町について 、文化九年 ︵一八一二︶の ﹁嶋々丁名改目録﹂ ︵国文 学研究資料館蔵︶に ﹁一 、伊賀士丁 瑞巌寺門前観音寺境﹂とあ り 、﹁伊賀士丁﹂としてその名称を載せている 。享保の絵図には見出せ ないことから、文化九年の町名改変により、当地に集住した伊賀者に由 来して成立した地名だと考えられる ︶16 ︵ 。 三 伊賀者の職務 1 伊賀者の職務 伊賀者たちはどのような職務に従事したのだろうか。まずは伊賀者に 関する藩の史料を掲げる。 ︹史料 3 ︺
一、伊賀者八人之者共唯今御歩行一統之御番被仰付置候得共、此 後外御用ニ付御引除ケ格別ニ御番被仰付候、尤、右八人之者共四番 ニ〆、日々弐人宛壱人は御城え相詰、同壱人は御仕置頭人月番宅え 可罷出候 右之通可申渡旨、御歩行支配え以差書申渡之 ︵也︶ 、尤、御目付えも申聞 之 ︶17 ︵也︶ ︵ 伊賀者八名は 、これまで徒士と同じ仕事を勤めていたが 、元文三年 ︵一七三八︶八月二十二日以降は、八人を四組に分けて、一日二人ずつ、 一人は城へ、もう一人は月番の御仕置頭人︵仕置家老︶宅へ出仕するこ ととなった。そのため、徒士としての仕事は、これまでより少なくする ことになったという。なお徒士の職務は多岐に渡ると思われるが、一例 として徳島城や江戸の藩邸の警備や雑務 、藩主の参勤交代の供などが あったと考えられる ︶18 ︵ 。 伊賀者もまた 、藩主や藩主の子息が遠方へ移動する際の護衛を行っ た。藩の文書には﹁伊賀者之儀ハ御道中不寝御番相勤候﹂ ︶19 ︵ とあり、参勤 交代の際には不寝番もしていた。 ほかに珍しい職務だと、罰を受けて山籠りを命じられた者に付く仕事 もあった。監視をしていたと考えられる。 ︹史料 4 ︺ 口茂兵衛父子御改易之子細 、︵中略︶茂兵衛儀仕物ニ被仰付候 、 茂兵衛弟口弥五左衛門儀ハ海部山籠被仰付候所、其節之伊賀者今 岡新五郎・坂田与四右衛門ニ被仰付、仕物ニ仕候 ︶20 ︵ また一方で 、﹁伊賀﹂の名から連想されるような 、探索の業務もあっ た。 寛延元年︵一七四八︶から翌年にかけて播磨国姫路藩で大規模な農民 一揆 ︵姫路藩寛延一揆︶が発生した 。徳島藩では現地の姫路での調査 と、京・大坂での聞き込みをしており、姫路には伊賀者が赴き、調査を 図 1 享保 12 年頃の伊賀町周辺(「御城下絵図」より作成) ※ただし作図にあたり一部の屋敷名を省略した。また文字の向きは改めた。 中ほどの色付きの箇所は水路を意味している。 分限帳の伊賀役から同じ姓を見出だせるのは、小野、平井、小沢、坂田、梅原、森脇、村上、箕浦、梅岡、大嶋で、彼らの居宅は、ほぼ 一列に並んでいる。
行った。 伊賀者の報告は ﹁播州姫路騒動聞合書﹂ ︵ 国文学研究資料館蔵︶にま とめられており、報告した内容の控えとして﹁伊賀者聞合書﹂ ︵同所蔵︶ も残されている。一揆の顛末や破壊された庄屋の名前、近隣地域が姫路 から人を入れないようにしていることなどが報告されている。 ﹁播州姫路領百姓騒動ニ付 、御固出張用意之扣﹂ ︵同所蔵︶によれば 、 二月十二日に指図があり、伊賀者が最初に報告したのは二月二十六日な ので 、迅速な調査が行われた 。なお須本郡奉行が同席する場で役目を 承っていることから、姫路により近い洲本在住の伊賀者が命じられたと 考えられる。 2 伊賀役について ﹁成立書﹂を見ると、伊賀者たちは﹁伊賀役﹂という役職に多く就いて いる。この伊賀役について、明確に説明している史料は無いが、前節で 取り上げた伊賀者独自の職務が、 ﹁伊賀役﹂に相当すると考えられる。 それでは伊賀者は常時﹁伊賀役﹂を勤めていたのかというと、そうで はない 。﹁ 成立書﹂を見ると 、伊賀者たちは本役を ﹁伊賀役﹂としなが ら、その一方で頻繁に他役へ出ていたことが分かる。一例として、小沢 金助の﹁成立書﹂の七代小澤金助には次のようにある。ただし嘉永二年 ︵一八四九︶の事例で、峻陵院とは十二代藩主蜂須賀斉昌のことを指す。 ︹史料 5 ︺ 同九月十日、 峻陵院様 御帰国御供立帰江戸罷越、尤伊賀役相放御徒士御先供被 仰付、同 十月廿六日御供仕罷帰、安政二卯年八月廿二日 峻陵院様但州城崎為 御湯治被為 入候ニ付、伊賀役相放御徒士御先供被仰付御供乗船罷 越 伊賀役について 、 高田豊輝は ﹃ 阿波近世用語辞典﹄ ︵二〇〇一年︶で ﹁伊賀士や郷宅の徒士に臨時に命じた忍びの職務﹂としているが 、伊賀 者に限れば、臨時に勤めたというよりも、臨時に別の役へ入ることが多 くあったという理解がより正確のように思われる。 ところで、蜂須賀家に召し抱えられた当初から﹁伊賀役﹂という役職 が存在していたのかは判然としない。例えば﹁大嶋三太兵衛﹂の成立書 には﹁寛永十七辰年月日不相知、於江戸御家江可被召出旨被仰付、四人 御扶持方御支配拾四石被下置御徒士格ニ被召出﹂とあるだけで﹁御徒士 格﹂とは書かれるが 、伊賀役とは書かれていない 。﹁成立書﹂に見える 伊賀役としては、享保十一年︵一七二六︶に、御徒士だった坂田弥兵衛 が﹁伊賀役加被仰付﹂と書かれるのが最も古い。基本の禄高の成立と同 様、伊賀役などの職制もまた、享保の頃までに成立したのだと考えられ る。 3 伊賀役の人数 伊賀者の家数の検討に用いた分限帳を使って、伊賀役に就いた人数の 変遷も検討したい 。表 2 か ら 、 年次と伊賀役の人数だけを抜き出すと 、 左記の通りになる。 ①一六二四年∼一六五一年 十三名 ②一六八四年∼一七〇三年 十二名 ③一七四〇年 六名 ④一七三六年∼一七四七年 三名 ⑤一七五四年 一名 ⑥一七八九年∼一八〇〇年 一名
⑦一八二四年∼一八二五年 十三名 ⑧一八二八年 一名︵洲本含まず︶ ⑨一八五七年 一名 ⑩一八五九年 三名︵洲本のみ、徳島含まず︶ ①∼⑩まで通してみると、当初十三名いた伊賀役はだんだんと数を減 らし、⑤の宝暦四年︵一七五四︶には一名まで減っている。その十六年 後にあたる明和七年︵一七七〇︶には、伊賀役が一人もいないという事 態が発生した。 ︹史料 6 ︺ 一 、 伊賀者御当職御用致他出 、其余病人等有之無人ニ相成候ニ付 、 明和七年御目付へ懸合候義有之候、右趣意之義ハ新古ニ不相限、何 時も当然之義と奉存候得共、享保年中之例ニても無御座候事故、尚 又此度相窺置、已来之処相心得申度奉存候、則、明和之例左に相記 申候 明和七年七月九日伊賀之面々より御用ニ付段々致他出、又ハ病気 ニ罷在、両人御法事御用ニ罷出候及絶番候趣以書付申出候間、跡 書等致儀候処、指当旧格も相見不申ニ付、御目付折下刑馬・箕 浦久左衛門え及内談候処、伊賀之面々御当職御用ニて致他出候義 絶番とハ相立不申候 、左候得ハ両人とも興源寺え相詰可然存候 、 若御当職手元指支候ハハ、共節支配へ御手配有之候上、伊賀加り 被仰付相済義と申談候 、依之 、右之入割梅岡官太呼懸申聞候て 、 両人共御寺へ詰さセ申候 ︶21 ︵ 伊賀役が仕事により不在にしていたり、また病気で休んでいたりする 中、通常の勤務をできる伊賀役が一人もいなかった。元伊賀役の者もい なかったので 、御目付に対し 、 伊賀役の業務に支障がきたす場合には 、 伊賀役へ加わってもらえるよう相談している。 4 他家から伊賀役への転役 伊賀役は伊賀者しか就けなかったのかというと、そうではない。伊賀 者以外の家からも、伊賀役に就く者はいた。また人柄の査定はあるもの の新規召し抱えもあり得た。 ︹史料 7 ︺ 一、伊賀 此株之儀も︵中略︶嫡子之内御用之節ハ可被仰付候、御目見之儀も 御役義ニ付て、可被仰付候 ︵中略︶ 伊賀 此株之儀も人柄ニ寄候てハ御雇ニても可被仰付哉、右同断御役義 ニてハ御目見も可被仰付哉 ︶22 ︵ 職務によっては、藩主への御目見も行われた。また徳島藩には﹁御用誓 紙﹂というものがあり、家督相続の際に提出していたようであるが、伊 賀者の実子は特別に提出が不要とされていた。伊賀者以外から伊賀役に 入る場合や 、伊賀者に他家から養子が入って召し出しとなる場合には ﹁御用誓紙﹂の提出が必要であった。 ︹史料 8 ︺ 安永七戌年十一月二日板東宇右衛門義小奉行格之嫡子ニて御用名代 被召仕、御徒士え御指加、伊賀役ニ被仰付候砌、御用誓紙被仰付旨 控ニ相見申候 右ニ付てハ伊賀家之者ニ御座候得ハ御用誓紙不被仰付、外々より伊 賀役被仰付候得ハ御用誓紙被仰付と申御居ニ御座候哉、伊賀者家と ハ乍申、実子ハ格別、 養子ニて家督被下候節ハ御用誓紙被仰付候義 ニても可有御座哉、いつれ御居り之処相窺申度奉存候
付紙 以後ハ誓紙可被仰付候 ︶23 ︵ 例として挙げられている坂東宇右衛門は、坂東紋蔵の﹁成立書﹂によ ると、父が初めて町同心として召し抱えられた家で、伊賀者ではなかっ たため 、﹁御用誓紙﹂を出す必要があった 。文脈がやや捉えにくいが 、 ﹁付紙﹂として ﹁以後ハ誓紙可被仰付候﹂とあることから 、ある時期を 境に、伊賀者の実子でも誓紙を提出することになったと思われる。 四 他藩の忍びとの比較と考察 1 職務 まず他藩の忍びの職務について確認しておきたい。 福井藩の忍之者について、長野栄俊によれば、参勤交代の際に藩主の 供を勤めており 、また明和五年 ︵一七六八︶の城下で起きた百姓一揆 や、幕末の京都の情勢について調査・探索を行っている。平時は藩の武 具の管理や、安政以後は、藩校に附属する稽古所の門番もしていた ︶24 ︵ 。 津藩の伊賀者も、平時は伊賀上野城の門番として守衛業務を行ってい たが、その一方で寛政八年︵一七九六︶に伊勢で起きた大規模な一揆に ついて調査も行っており、幕末には異国船の探索も行った ︶25 ︵ 。また藩主の 参勤交代にも随行していたようである ︶26 ︵ 。 尾張藩の甲賀者は、そもそも城下には居住せず、本国の近江国甲賀郡 に在住し続けたため、平時の業務というべきものは無い。ただし享保八 年︵一七二三︶大和郡山藩の藩主家断絶により改易となった際には、郡 山城の探索を行い、様子を報告している ︶27 ︵ 。 岡山藩の伊賀者は 、藩主の参勤交代において道中の不寝番をしてい た ︶28 ︵ 。また元禄十四年︵一七〇一︶の元禄赤穂事件による赤穂藩取潰しの 際には、赤穂に赴き探索を行っている ︶29 ︵ 。 あらためて徳島藩の伊賀役の職務について見ると、平時は城の警備を 行い 、参勤交代の護衛や 、時には他国の百姓一揆の調査も行っていた 。 職務としては、福井藩・津藩・岡山藩と共通するといえる。 城や藩邸の警備と、藩主の参勤交代の護衛を行いながら、まれに自国 や他国の探索業務を行うというのが、江戸時代の忍びの一般的な職務で あるといえるだろう。 2 禄高と藩主への御目見 長野は、嘉永年間の福井藩忍之者と岡山藩御忍衆︵伊賀者︶との禄高 の比較を行っており、岡山藩は福井藩の二倍の俸禄を忍びに支払ってい たとしている。それでは徳島藩はどうであろうか。長野論文に従い一俵 を四斗、一人扶持を一石八斗として概算を行う。長野によれば岡山藩は 二十三石二斗∼二十五石二斗、福井藩は十二石六斗になる。 徳島藩伊賀者は安政年間の分限帳⑨⑩から、三人扶持七石∼六人扶持 十九石であるので、計算すると十二石四斗∼二十九石八斗となる。福井 藩と同程度の者から 、岡山藩を超える禄高の者までいることが分かっ た。 藩主への御目見については、岡山藩伊賀者は﹁御通掛之御目見 ︶30 ︵ ﹂をし ており、徳島藩伊賀役は﹁御役義ニてハ御目見﹂があった。また両者と も徒士以上で、家督相続が行われた身分であった。一方で福井藩忍之者 は、卒︵下士︶の中でも下級に属し、藩主への御目見や家督相続ができ ない役席であった。同じ﹁忍び﹂としての役職であっても、藩によって その身分や禄高には大きく差があったようである。
おわりに 本稿では 、寛永十七年に召し抱えられ 、幕末まで蜂須賀家に仕えた 、 徳島藩の伊賀者について検討してきた。まず、彼らが天正伊賀の乱から 他国へと逃れた伊賀者の末裔で、松江藩堀尾家、高松藩生駒家を経由し て蜂須賀家へ入ったことを確認した。続いて伊賀者の家格や彼らが就い た役職 ﹁ 伊賀役﹂について述べた 。最後に他藩の忍びとの比較を試み 、 近世の忍びの身分や職務についての検討を行った。 一方で課題も残った。まず幕末・明治の頃の記録が無く、また﹁成立 書﹂は文久元年までに作成されたものなので、幕末から明治維新にかけ ての徳島藩伊賀者が、どのような活動をしていたのか明らかにすること ができなかった。同様に、伊賀役という役職がいつまで存続したのかも 明らかにできていない。また、他藩との比較については、今回は一部の 藩との比較に留まったが、諸藩の忍びの事例を明らかにすることで、よ り適確な指摘が可能になるだろう。近世諸藩の忍びの研究は、忍びの実 態の調査であり、忍者像の解明に繋がる。今後の忍者研究の大きなテー マになることを期待したい。 注 ︵ 1 ︶川上仁一 ﹁ 江戸大名家と忍び﹂ ︵﹃別冊歴史読本 伊賀 ・甲賀忍びの﹄ 、新 人物往来社、二〇〇五年︶など。 ︵ 2 ︶研究事例のある藩として 、尾張藩に召し抱えられた甲賀者については 、鬼頭 勝之 ﹁史料にみる尾張藩における甲賀忍びの者の一断面﹂ ︵﹃ 郷土文化﹄一六七 号 、一九九三年︶ 、服部勲 ﹁﹁ 尾張藩における甲賀忍びの者﹂に見られる甲賀者 の特質について﹂ ︵﹃地域の歴史﹄三号 、二〇一〇年︶など 、先駆的な研究がな されていた 。他に津藩藤堂家の伊賀者については久保文武 ﹃伊賀国無足人の研 究﹄ ︵同朋舎 、一九九〇年︶や ﹃伊賀市史﹄第二巻 ︵二〇一六年︶に詳しい 。 福井藩の忍之者については 、長野栄俊 ﹁ 福井藩の忍者に関する基礎的研究﹂ ︵﹃忍者研究﹄一号、二〇一八年︶がある。 ︵ 3 ︶前掲注 ︵ 1 ︶川上論考 。 また徳島市のウェブサイトで公開されている 、徳島 市立徳島城博物館 ﹁とくしまヒストリー∼第 19回∼ ﹁伊賀町﹂│城下町徳島の 地名 7 │ ﹂︵ https://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/meihin/page02-00/tokushimahistory19.html ︶でも詳しく取り上げられている。 ︵ 4 ︶松江市教育委員会 ﹁春光院所蔵の堀尾氏関連文献史料について﹂ ︵﹃松江市歴 史叢書﹄一 、 二〇〇七年︶に拠った 。 なお引用した給帳は ﹃島根縣史﹄で ﹁ 甲 給帳﹂として扱われている。 ︵ 5 ︶大矢幸雄 ・渡辺理絵 ﹁近世初期における松江城下町の空間的特性﹂ ︵﹃松江市 歴史叢書﹄一一号︵ ﹃松江市史研究﹄九号︶ 、二〇一八年︶など。 ︵ 6 ︶上坂氏顕彰会 ﹃ 寛永十六年卯年生駒壱岐守家中分限帳﹄ ︵私家本 、二〇〇一 年︶所収。 ︵ 7 ︶ここで掲げている分限帳について 、それぞれ以下の資料に収録されている 。 ①②③④⑥桑井薫 ﹃阿波徳島藩蜂須賀家家臣無足以下分限帳﹄ ( 二〇〇一年 ) 、 ⑤宮本武史 ﹃宝暦四戌年 徳島藩役人帳﹄ ︵ 一九九六年︶ 、⑦宮本武史 ﹃阿州徳 島藩御家中録﹄ ︵一九六五年︶ 、⑨⑩宮本武史 ﹃徳島藩家臣団﹄ ︵ 一九九五年︶ 。 翻刻の無い⑧は国文学研究資料館蔵本に拠った 。 また①②③④⑩は原本である 国文学研究資料館蔵本との照合を行った。 ︵ 8 ︶前掲注︵ 7 ︶﹃阿州徳島藩御家中録﹄ 。 ︵ 9 ︶箕浦辰吉の﹁成立書﹂ 。 ︵ 10︶前掲注︵ 7 ︶﹃阿州徳島藩御家中録﹄ 。 ︵ 11︶戸川祐樹 ﹁徳島藩における家臣団編成について│役席役高制を中心に│﹂ ︵﹃鳴門史学﹄二五号、二〇一一年︶ 。なお同書五九頁より引用した。 ︵ 12︶﹁四人扶持﹂が抜けている可能性がある。 ︵ 13︶国文学研究資料館蔵 。なお ﹃徳島藩職制取調書抜 上﹄ ︵東京大学出版会 、 一九八三年︶に翻刻が収載される。
︵ 14︶﹃ 御大典記念阿波藩民政資料﹄上巻 ︵ 徳島県 、 一九一六年︶所収 。 成立年は 不詳だが 、家老を ﹁国の大臣たり﹂と表現していることなどから 、明治になっ て著されたものと考えられる。 ︵ 15︶徳島大学図書館蔵 。原本は同図書館のウェブサイトから閲覧することが可能 である。 ︵ 16︶﹃徳島市史別巻 地図絵図集﹄ ︵徳島市 、一九七八年︶でも 、伊賀士丁の町名 命名を文化九年としている。 ︵ 17︶藩法研究会 ﹃藩法集 3﹄ ︵創文社 、一九六二年︶ ︵以後 ﹃藩法集﹄とする︶史 料番号一二九六 。 なお同書史料番号一二九五∼一三二九は国文学研究資料館蔵 ﹁組一巻 ・諸御番手番処 ・ 御徒士伊賀者 ・諸御分一処元居書抜﹂の ﹁御徒士伊 賀者﹂の翻刻である。 ︵ 18︶﹃ 藩法集﹄史料番号一三〇八に ﹁御参勤御帰国御供為御用御歩行之面々 ﹂﹁ 御 参勤被遊候節 、江戸御勤御用﹂ 、同書史料番号一三一〇に ﹁御徒士之面々儀御 殿内其外共諸道具持運﹂ 、同書史料番号一三二二に ﹁御徒士之者共御城内打 之義﹂などとある。 ︵ 19︶﹃藩法集﹄史料番号一三〇八。 ︵ 20︶国文学研究資料館蔵 ﹁御作法御成来り替并御家中とも以前ニ相違之品 草 案﹂ 。なお前掲注︵ 13︶﹃徳島藩職制取調書抜 上﹄に翻刻が収載される。 ︵ 21︶﹃藩法集﹄史料番号一三〇八。 ︵ 22︶﹃藩法集﹄史料番号一三二〇。 ︵ 23︶﹃藩法集﹄史料番号一三〇八。 ︵ 24︶前掲注︵ 2 ︶長野論文。 ︵ 25︶前掲注︵ 2 ︶﹃伊賀市史﹄第二巻。 ︵ 26︶前掲注︵ 2 ︶長野論文。 ︵ 27︶﹃ 甲賀者忍術伝書│尾張藩甲賀者関係史料 Ⅱ │ ﹄︵ 滋賀県甲賀市 、二〇一八 年︶所収﹁達シ書并願留﹂ 。 ︵ 28︶岡山藩の伊賀者萩野弥太郎の ﹁奉公書﹂ ︵岡山大学図書館池田家文庫蔵︶に ﹁江戸御参勤之御供仕 、道中不寝御番相勤﹂とある 。なお同様の文面は頻出す る。 ︵ 29︶磯田道史﹃歴史の愉しみ方﹄ ︵中公新書、二〇一二年︶ 。 ︵ 30︶前掲注︵ 28︶史料。 [いのうえ なおや]