九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
浮世の成立(承前)
竹岡, 勝也
https://doi.org/10.15017/2341024
出版情報:史淵. 16, pp.23-61, 1937-07-05. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
浮批なる言葉は平安朝以来いるノーの意味に於て︑その時交の文學に使川されて來た︒併しながらこの
言葉が我國文化の上に震を結んだ時代を求めるならば︑それは矢張り江戸時代であったと云はれなければ
ならないであらう︒例へぱ浮世納と孵せられる縮識︑或は浮仙本︑浮世草紙と呼ばれる文學の發逵等が即
ちそれであって︑共他浮仙なる言葉を織り込んだいるノ︑の言葉が新にこの時代に發生した︒そして是等
の言葉の意味を穿鑿して見るならば︑矢張り一而雁史的な是迄の發逵卒繼承して來て居るには相逮ないが
同時にまたこの時代の壮命州と關係を結ぶ郡に依ってその意味が限定せられ︑錐に特殊な發逹を示して来
て居る事も見られなければならなかった︒しかもこの發逹は職闘の後を繼承し︑四民の祇會的地位が決定
せられ︑泰平が久しく繼紬するとの時代の雁史に依って導かれて来る︒然らば戦剛の後か.鱸承したこの時
代の肚愈に︑先づ如何なる思鯉が現れて來ろのであるか︒そこには政治逆徳の識へとしての僻學の勃興も
洋世の成立二三 浮世の成立
四
I へ
承 前
、−ノ
竹岡勝也
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かれるものとして︑鼓に埋木︵藤井乙兜氏︑江戸文學研究参照︶を學げる事が出来るであらう︒
埋木はその奥筈に依れば慶彊四年︑即ち開ケ原の戦ひの前年に︑志賀の店崎に於て一應士が記した庭の
随筆である︒その中に徒然革g汽葉が引川されて居ると云ふ丈ではなしに︑その形に於いても先づ徒然草
に倣ったものである事が肯かれる︒即ちこの時代に至って徒然草の僻を學んだ文學が綾盈として現れて来
るその風潮の先駆をなす地位に世かれるものであって︑その作者は嘗つては武人として恥國時代から秀吉
の頃に迄及び︑後その生活から隠遁した人であらうと老へられて居る︒兎に角この作考は耽飢の川にその
牛生を逢り︑後︑価の移愛りと共に武人の生訴から脈離して︑瀞かに自らの心を棚雌し︑その生活を染ん
で居る隠士であった︒そしてこの埋木の中にしばノ︑佛教の事が語られて居ることに依って見れば︑矢張
り形は法師であったらうと老へられるのであるが︑その思想は極めて自川に佛教の拘束から脱して来る︒
即ち彼は必ずしも人生の無常を否定するものではなかった︒しかもその無常である人生がまた苦の和に於
て眺められる場合があり得る事も彼はこれを否定しようとはしない︒併しながら彼は必ずしもこれを以て
浮世の成立二四
願られなければならないであらう︒爪向人心の統制を求める事は︑少く共爲政考としての武士︑就中幕府
の先づ節一に欲する鹿でなければならなかった︒併しなから到底一僻巣の發逹を以てこの時代の思想冴誰
くす事は州來なかつたぅ数には矢張り宵って室町時代の小歌に於て見る事の川來た奔放な人間性の飢舞︑
即ち色の浮仙を享樂する思想が非術な雌力を以て作川︐︶て来て勝る事が見られなければならなかったoか
くの如き意味に於けるこの時代の思想の發逹を窺ふために︑先づ節一に刷られなければならない地位に世
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﹁頭おろし︑深き山の奥に入り︑鹿猿を友として死ぬろを待つ﹂生活を求める理由としては考へて居なか
った︒鍵一言すれば人生に於ける苦の相はかくの如き出家の生活に依って晩離し得るものとは考へて居なか
った︒即ち彼の場合に於て︑出家の生活は唯﹁紙の愛き事﹂令老遁れるためD隠遁の生活であって︑そこに
於ても人生の苦しみを脱する事が出来ないとするならば︑それはも早無意味な生活でなければならなかっ
た︒嘗て求められた死後の成佛︑従生浄土の如き田紺底明かに彼の川家の生活から分裂してしまった︒躯
に死後の成佛︑或は往生淨土丈の問題ではなかった︒彼はまた死に就て次の如く語って居る︒﹁來仙とや
らんの事は片便りなればしかと知れぬ事なり︒たとへ治定あるにもせよ︑死してのことはおそし︒吏近き
今にきはまりたり云交﹂︒即ち彼に於て問題とされるものは死ではなくして生であり︲來世ではなくして
現変の人生である︒換言すれば死から分裂した生であり︑來批から分裂した現寅の人生であった︒然らば
彼は如何にかくの如き現庇の人生を享一父しようとしたのであるか︒もし人生に於ける苦の州が艸換される
事あるとするならば︑それは矢張りとの現庇の人生に於て行はれなければならなかった︒そしてこれこそ
彼が求めた生活であったと云はれる事が出来るであらう︒即ち彼は﹁何事もた■らくにきは主h候・たと
ひ人の目︑口にか入る事こそせまじけれ︑心をゆふに成次錐にして︑あはらくやと思うたがましにて候云
変﹂と語って居るのであった︒そしてこのあは梁やと忠ふ事の川來る状態を繼綾するためには︑次の如き
川意がなければなら友かつた︒即ち人の一生は如何に長くこれを見祇ろも百年を出づる事は出来ない︒似
りに百年の涛命が與へられたとするも︑その中に於て﹁二十五六迄は物のあぢをも知らずむざノ︑とらち
浮世の成立二五
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浮世の成立二六
過ぐるに︑また五十浄過ぎては目はかすみ︑耳速く︑歯はぬけ︑物をもくひえず︑次鋪/〜に腰屈み︑あ
るきも厳り難し﹂と云はれなければならない︒このさきの二十五六年︑後の四十年ぞ除き去れば︑伽かに
二十年除りの人生である︒この二十年除りの人生を如何に送るべきであるかと云ふ事が︑人生に對すみと
の作考の最も重大な問題であった︒そしてこの場合に彼は﹁今年はこぞを忘れ︑けふは昨日尭思ひ川さで﹂︑
術にさきの事ばかりを考へて生きる生活を求めて居る︒﹁さありては死ぬる時の心にはた図一Hばかり生
きて死ぬるやらにあるぺし﹂と云はれるのであって︑この一日の人生を︑あは樂やと思ひ過ごす事の川來
ろ生活とそはこの現疫の人生に於て苦の相から脱雛する事の川来る生活でなければならなかった︒かくし
て彼は﹁これを忘れていらぬ事に氣を悩まし︑身を使ひ︑人によく云はれんとする事︑更に益なし﹂と語
り︑また﹁炬燵の中にて若衆の御足などいるひ︑恩ふ事語り慰む﹂事に依って冬を梁しみ︑﹁いつまでの
命にてかあらんなどといろノ︑に心ぞ潜め︑浮仙の事など思ひ合せて飲みたらんこそ酒のみたるにてはあ
れ﹂と︑酒を楽しむ生活を語って居るのであった︒そして佛敏に就ては﹁佛逝に入らんにはよき長老など
へ通ひて間はねばならぬ事ぞと皆人が思うて展候︒聞えぬ事なり﹂と稲せられ︑要するに柳は柳︑花は花
にて︑一期を透る事が人生であり︑しかも﹁繭事は皆目前の境界なれば︑柳は絲花は紅﹂であって︑この
あるが催の人間と︑あるが催の世界とを離れて︑別に佛逝を求める事は︑求めるものL迷妄でなければな
らなかった︒それが人間である限り︑何人と雌︑途に人間に與へられた柴活か一脱する事は川來ないであら
う︒從って﹁あは面白の春の景色や﹂と︑この典へられた目前の境界を樂しみ︑苦堯忘れる事が彼の所詔 Ir
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佛道であると老へられた︒そしてその與へられた人間の生活に罪があるとするも︑それは要するに﹁引か
ぬ弓放たぬ矢にて射る時は︑中らぬしかもはづれざりけり﹂であって︑彼の問ふ所ではなかったのである︒
以上は埋木の作者に依って近枇に途られて來て居る一つの枇界であった︒一面に終いて徒然草と相通す
る世界であるには相逹ないが︑これを徒然草と比較するならば︑この間には確かに宗町時代を經過して來
て居る歴史の推移が眺められなければならなかった︒即ちと上に於ては人間の心ぞ拘束する一切の規範は
椛威を失って︑人生の意義は唯現涯の人生に︑しかも唯一日の人生に求められて居る︒その一日の人生を
靜かに自らの心を糊照し︑この仙界を梁んで過ごす事がこの作者に求められた生活であった︒そしてかく
の如き生活に於ては︑若衆の御足をいるふ事も︑浮枇の事を老へて酒飲む事も︑何等否定せらる今へき理由
を持つものではなかった︒甑めて消極的ではあるが︑また極めて自山な仙界であると云はれなければなら
ないであらう.J併しながら縦って老へて見るならば︑かくの如き埋木の仙界が成立することが川来るため
には︑少く共一弓の條件を必要としなければならなかった︒一つは︑徒然草の言葉に從へぱ︑この作考は
己に﹁心向ら静かなれば無益の行爲をなさず﹂と言はれて居る老ひの境涯に到逹して居る事︑次は經濟的
に自らの心と身とを顔はす事なくしてその生活を樂しむ事の川來ろ壯態に世かれて届た事であった︒この
二つの條件を具備することに依って︑埋木の仙界は特殊の仙界としてこの時代の祗愈に提供される︒そし
てこの二つの條件を取り除く事に依って︑そこには如何なる祉界が現川するのであるか︒蕊しるそこにこ
そこの時代の思想の發展を支配する一つの原助力が存在した︒この意味に於いて︑埋木の仙界の中から次
〆
浮世の成立二七
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浮世の成立二八
に恨之介が現れ︐浮仙物語が現れて来る事あるとするも何等不思議とするには足らなかったのである︒
先づ恨之介であるが︑この恨之介は矢張り作者を詳にはしないが︑この物諦の發端に﹁慶長九年の夏の
末﹂とあり︑その當時の川來事が描聴されて居る事に依って︑餅時を去る事述くない時代の制作と推定さ
芯かぞられて居る︒そしてこの物語の初めには︑先づ蔦の恨之介︑夢の浮仙之介︑松の雑之介︑飛を鯉之介.半天
の雄之介と云ふ︑その唖都にかくれなき五人の色好みの青年が現れて来る︒彼等はとり人︑に﹁心の鯉は
浮仙ばかりとうちしける﹂と稲せられ︑或は祇閲へ︑或は北野へ︑浮仙の樂をあさるのであるが︑その中
にあって帳之介は﹁袖をつらぬて郡人︑伽條五條の橘の上︑老若出女黄賎とひ︑色めく花衣︑けに而白き有
様なり﹂と云はれる怖景に誘はれて︑唯一人清水の海燈會へと足を蓮んだ︒そしてそこに於て先づ﹁一音羽
の瀧に立よりてみるに︑藩くる水に盃を浮べ︑さもいつくしき女房逹︑蚤た若衆もうち交り︑手まづさへ
ぎる盃をかなたこなたへ取かはし︑遊山ばかりと聞えける︒夢のうを世をぬめるやれ︑あそべや狂へ皆
人と云糞﹂と云はれる怖景を眺め︑次に田村堂の逢に於てはまた﹁とても能らば清水へ︑花の都葬見おろ
して︑とごろノ︑と鴫祁も︑愛は桑原杯と云ふ︑徴仙はやる小歌共︑しどろもどろに狐ひなし云餐﹂と云
はれる酒妾の一座を見た︒その一座の中には﹁柳櫻をこきまぜて︑錦をかざる座敷の鰐﹂ど云はれるやう
に︑多くの若き女房も交って居たが︑中に咄﹁琴をしらべておはします上聴の御姿﹂︑恨之介は蝶うるもの
もないその容色に打たれて﹁身の程をもうち忘れ︑はいけの島の風幡にて︑心もあきれて﹂立ち夫る力を
失ってしまった︒これより全く漣の恨之介となって︑遂にその愁の成就を所願するために清水の槻昔に参
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寵する︒幸ひにその斫頤は観音の受納する所となって︑その上箙は雪の前を稲する近衛殿の養女である事
を知る事が出来︑しかも一度忍び逢ふ事が出來たが︑その後は一府羽抜けの烏となって︑途に趣の病に命
を失ってしまった︒次で雪の前も恨之介の死を悲んで息絶えると云ふ物語である︒その椛想から云ふなら
ば.未だ宗町時代のお伽草子の剛を晩するものではないが︑﹁夢の浮泄をぬめるやれ﹂と云はれる慨界が
鼓に展開されて來て居る事︑またかくの如き仙界が展附される事に依って﹁浮価ばかりとうちしげる﹂と
云ふが如き言葉が發生して來て居る事︑殊に夢の浮惟之介が色好みの青年として現れて來て居る事は︑西
偲の一代男仙之介を諜想せしめるものある事等.いるノーの意味に於て注目されなければならない問題が
あった︒そしてこの時代に於て︑浮祉なろ言葉が︑価間の意味が更に限定せられ︑ある特殊の枇間︑即ち
享樂の価間︑就中色の惟間の意味がその間から導かれて来て居る事は︑慶長十五年に記された太︑和泉守
晃書及び慶長十九年と孵せられる三浦淨心の見聞雄等にもその例を求める事が川來ろのであった︒
太田和泉守発書は︑慶憂十川年朝廷に起った一つの不昨事に開する晃書である︒即ちこの時家旗迄もこ
れに干渉し︑五人の女屍と︑多くの殿上人上|が︑それ人︑速流︑その他の刑に庭せられ︑その原因をなし
たかいやす術後守は京の河脱に於て首切りの刑に唯せられて居る︒この本件に開し︑晃番には﹁との術後
日本一のいたづらものにて︑恭くもみかどに仕へ奉る妹の諦岐股にからくらせ︑御公家衆と御上砿様達引
き合せ︑浮批狂ひをさせ中し云袋﹂とあり︐更に﹁其加をも恐れず窓に相はたらき︑禰要遊興迄を識くし
色にふけ︑利得にふけり︑卑賎をもいとはず御盃をたべさせ︑脇次を素し︑鋪一のいたづら者云糞﹂とあ
浮世の成立二九
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●かくの如くこの時代には︑夢の浮仙之介が色好みの青年となり︑また浮世狂ひ︑浮世語りと云ふが如き
特殊の言葉が發生して︑次鏥に浮枇の意義を限定し︑これを一つの枇界に導いて来て居る事は注目されな
ければならなかった︒そしてかくの如き發逹の後を受けて︑一脈明瞭にこの浮世なる言葉の意味を説明し
その鍵遥を語って呉れるものに浮世物語があった︒
この浮世物語は︑鞘時代が下って︑寛文の初め甑の制作であると云はれて居る︒その中にしばノ︑調意
を寓する事に於て︑可笑記以後に於ける籔訓もの上列に加へられる事も出來ろのであるが︑一面また多堂
浮世の成立三○
ろ事に依って︐この事件の内容は略獅はれるのであるが︑かくの如き場合に浮仙狂ひと云ふ言葉が使川さ
れて來て居る事は注目されなければならなかった︒川ち酒色にふけろ事を意味する言葉として使川せられ
これが一稗して遊女に溺れる事を意味する言葉となる︑その準術は巳に弦に整へられて居る事を見るので
こ れ が
次に慶長見聞集には吉脈に傾城町立ろ事︑湯那風呂繁昌の事等︑遊女に州する極めて多くの見川を語り
矢張り夢の浮祉にた凹狂へと云はれる常時の生活に就て語って居るが︑その湯那風呂繁昌の事の條には︑
風呂屋の様子を説明して﹁湯那と云ひてなまめけろ女共二十人三十人ならび居て︑あかをかき︑髪をす上
ぐ︒扱また其外に容色類なく心ざま俊にやさしき女腸ども︑︑湯ょ茶ょといひて持來り︑たはぶれ淨仙がた
りをなす云袋﹂と云って居る︒葱に浮仙がたりと稀せれらろ話の内容が色の浮仙に剛するものである事はりをなす云袋﹂と云つ干
云ふ迄もないであらう︒ あった︒ ii
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に恨之介から一代男に至る過程に於て︑換言すれば淨壯革子發逵妙過程に於て取扱はれる事の出來ろ性質
を持つものであった〃即ちこの物語心主人公は﹁浮枇腸とてうきに浮いて瓢金なる法師﹂であった︒國中
無墜の臆病もの︑そのために武士から町人に塗り︑日蝕多くの金銀を貯へて︑うとく人と云はれて能り居
たろものL子供であった︒この浮枇房︑父の後を亜けて町人となったが︑親が身まかると共に次鋪に身も
ち我催となり︑遊びさまよふ浮かれ者となって︑しかも﹁椰突にほうけてものも食はず︑うつらノ︑とい
もせず︑おきもせず﹂と云はれる生活を縦ける事になった︒然るにこの浮仙房に︑またもやあらぬ病のつ
きて︑島原通ひの傾城狂ひとなり︑﹁日ごとに通ふほどに金銀をつかふ事水の如く︑親の貯へ紐きたるも
のどもおしけもなくつかひくづし﹂.﹁明日は間浮の座ともなれ︑わざくれ浮批は夢よ白什いつかは榮耀を
なしたる︒これこそ命なれ﹂と︑この傾城狂ひに榮耀の限り彩一識くしたのであった︒かくして親誕りの金
銀はまた上く間にた上きあげ︑身の世き庭を失って︑これよりいよノー瓢金な浮仙房の浮壯巡腿が始まっ
て來ろ︒そして最后にこの浮世屍は仙術を行って行術不明に終ったと云ふ物語であるが︑この物語の初め
に︑浮世と云ふ事の簡條があって︑これには次の如き説明が加へられて居る︒
恩ふ事かなはいばこそうき価なれといふ歌も侍くり︒よるづにつけてこLろにかなはず︑まLにならね
ばこそ浮枇とはいふめれ◎杏をへだて上腿を掻くとかや︒痒きところに手のと■かぬごとく︑あたるや
うにしてゆきたらず︐沈熱なものにて︑我ながら身も心もわがま上にならでいな物なり︒まして世の中
の事ひとつもわが乗にかなふことなし︒さればこそうき泄なれと云へぱ︑いやその義理ではない︒枇に
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遊女の存在は文献が体へる限りに於ても古く奈良刺に迄遡る事が川来る︒繭葉に遊行女婦と稲するもの
が即ちこれであって︑これが平安朝に至れば遊女︑偲伽子︑白拍子等の名孵が漸く獅繁に現れて來る︒中
に燗遊女は水陸の交通に作ひ︑最も庇く各地に發生したらしい︒殊に山城︑掘津の間には江口︑川崎︑河
陽︑聾烏等の津があって︑その遊女岐も箸れ︑瀬戸内海の交通に作っては︑宝の津の遊女が有名であった︒
.浮世の成立一一三
伎を占めて來ろかと云ふことに依っても︑との時代に於ける浮批なる言葉の意味を窺ふ事が川來ろであらう︒間よりとの時代に於ても﹁まLにならねばこそ浮仙とは云ふめれ﹂と云はれる浮枇︑或はまた庇く世間の意味に於てとの言葉が使用される場合がないとは限らなかった︒率しるその朧史的な過程に於て示された一切の意味が錯綜して︑浮枇なる言葉の郷を診︐複雑たらしめ︑彼等の人生槻に和唯じて來て居るとも云はれるのであるが︑同時にその言葉が邇川される世界に就て︑一面かくの如き意味の限定が加へられ︑錘に浮世文化の發展が導かれて來ることは︑この時代の肺禽に見られる著しい特色でなければならなかった︒そして長き歴史を漂って來た浮世なる言葉の發逹は︑こ上に至って止まったと云はれる事が川来るであらう︒然らば浮価と呼ばれるに至った遊廓なる︑ものは如何にしてこの時代の肚禽に現れて來たものであるか︒また如何なる性瞳の世界であったのであるか︒との時代の文化の一つの性格を規定するためにそれは極めて重要な問題となって來る︒句 五
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浮世の成立三四
また陸路に開しては詳斐銃文治六年の條に︑頼朝上洛の途中速江剛橘本の畔に於て﹁遊女等群参︑有繁多
附物云凌﹂と云ふ事があり︑平家物詔術北川の事の條には﹁共遥近き術為より︑遊荊遊女共召し錐め云盈﹂
と云ふ事がある︒兎に角水陛の交通に作ひ︑早く遊女の發生溌一見るに至ったのであるが︑未だこれを以て
必ずしも後枇の遊廓とその性伐を岡じくするものであるとは云はれなかった︒黙↓︒に近仙に至って︑都市
の發逹その他の關係に作ひ︑遊女の敬が激坤すると共に︑新に遊廓妙制度が設けられ︑誠に塒殊の仙界を
現出する事になった︒即ち延我六年畠山繁山に依って記された色迩大銃には京の脇腺︑江戸の吉脈以下日
本遊廓細目として二十五箇所の遊廓が學げら紅て居る︒中にも京いい脱は︑原三郎左工門占云ふ浪人が天
正十七年秀吉の許可を得て一初めて遊女町を柳の馬場に建設し︑束中の遊女歴をこ型に集めた事に溌脇し︑
これが慶長七年には一二筋町に移され︑寛永十八年更に新屋敷即ち島脱に移されたと云ふ︵色迅夫銃︑一目
千軒︶︒兎に角この烏脈は近仙遊廓の先駆をなすものであって︑これよりこれ匝倣ふもの釦盈として現れ
て來たが︑中に於ても注目されなければならないものは江戸吉旅の開基であった︒吉原の開基に開しては
享保五年吉原の名主庄司勝符が︑自ら﹁此色の來山と昔物詔をも知らせんと﹂して筆を採ったと云はれる
ものに洞房語幽がある︒これに依れば︑江原に於ても早く遊女屋か現れ︑峻踵の甑にはその鯉五六十聯に
も達したが︑當時未だ一定の遊女町と云ふものはなく︑是等の遊女屋は聯を並べて所交に分散して鵬たし
然るに慶長十七年の甑︑この著者の剛先に識ろ庄司註右工門と云ふもの︑新に価城町の建設を幕府に願ひ
出で︑元和三年御免許があって弾鹿町の下に於て二町四方の場所を賜はった︒これより辨諦にか上り︑所
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糞の遊女屋がこ上に集って翌四年十一月より一同に商寅を開始した︒これ即ち吉原の開基であった︒そし
てこれより一三年の間は﹁賑ひしとと大かたならず﹂と秘せられ︐その状態に就ては﹁聲夜共に見物の諸
人多く入込し節は︑密ぱ東側より向ふの西側へわづか幅四洲の所なれ共︑女童の如きは向ふまで自由に通
る事ならざる程賑ひしと也﹂と語られて居るのであるが︐然るに寛永十三年の戦より町中に風丹屋と云ふ
もの發興して遊女ぞ抱え低き︑誰夜の商寅をしたために︑吉原はその打雌を象って一時変微しなければな
らなかった︒
この洞房語園の吉原開基椀は一方の椛威をなすものであつで︑吉朧大全︑花街没鋒またこれに從って居
るが︑嬉遊笑礎の苓考喜多村信節は慶長見聞集に注目し︑この洞房語園の説を反駁して居る︒即ち慶長見
聞集には江戸の遊女に棚する極めて多くの記載があり︑特にその部分が獅立してそHろ物語として体へら
れて來て居る事も見られるのであるが︑その中には明かに﹁吉原に傾城町立る事﹂の一條がある︒即ちこ
れには先づ江戸の繁昌を語り︑次に﹁東南の海ぎはに葭脈あり︒色好みする京田舎の蒜ども此よし原を見
立︑側城町を建てんとよしの刈あと愛やかしとに家作りたりしは云狩﹂とあって︑更に古城の状態に就て
﹁日を追ひ月を亜ぬるに從って此町繁出する故︑草の假崖を破h︑西より束︑北より南へ町制をなす︒先
本町と號し︑京町︑江戸町︑伏見町︑堺町︑大阪町︑鵬町.新町等と名付け︑家居ぴ上しく軒逢並べ︑板
ぶきに作りたり︒扱又本町を中心にこめて其附りに揚屋町と號し.幾筋とも戦しらす横町を割り︑能歌舞
伎の舞台を立置を︑毎日舞樂をなして是を見せける︒此外糊進舞︑蛛舞︑獅子舞︑すまふ︑が瑠珊色燕さ
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浮惟の成並三六
主人︑の遊びしてぞ興じける云ごと語って居る︒しかもこのそ噌ろ物語は洞房語悶には見る事の川來な
かった次の一條ぞ語って居る︒川ち﹁遊女共江戸をはらはる上事﹂であって︐鼓に於ても先づ﹁遊女共我
劣らじと紅白粉を甑に奉り﹂︑﹁商きもいやしきも︑老ひたるも若きも︑昼きも鰻かなるも︑彼惑ひの一つ
やんごとなし﹂と云はれる吉原町の繁昌を語り︑最后に﹁扱叉今江戸町に側城多く有て高きいやしき瀝欲
に惑ふよし御奉行衆きとしめし︐とかくかれらを江戸に掻くべからすと女の澱をあらため給ふに︑和尚と
雅す遊女三十餘人︑其次に名をうろ遊女百餘人︑袴悉く桁根和坂を越し︑西阿へ流がし給ふ云登﹂と云ふ
出來事を語って居る︒この見州集ぞ慶長十九年の等作であるとするならば︑少く共との出來事は洞房語悶
が語る庭の吉原の開基︑即ち元和三年溌遡る事三年以前の川來事でなければならない︒そして亜にその以
前に於て吉原は一時繁昌を極めた事がなければならない︒絃に於て洞房語悶の吉原開韮説は吉原の再建に
か上るものとして居る嬉遊笑礎の説は確に傾確に慨ひするものがある︒
吉原の起元に開しては以上の問題が礎されるのであるが︑兎に角この後明肝に至る迄は︑江戸の仰城町
としての吉原はこの地に繼練される︒然るに矢張り洞房語附に依れば︑明牌二・年替地の問題が起って新吉
原の地が浅草の日本堤に決定せられ.同時にこの蒋地に作って次の五ヶ條が定められた︒
一︑只今迄載丁四方の場所なれ共此度新地にては五釧ます︒式町に三町の場所被下置候事︒
二︑只今迄聲許商寅致し候得共遠方え被遥侯代り謹夜の商愛御免の事︒
三︑御町中に式百軒餘有之候風呂屋共悉く御没し被遊候事︒
11
四.遠方え被遥候に付山王川田雨所の御祭澱並川火の邸跡火消等の町役御苑の事︒
五︑御引料御金一寓五百剛被下候事︒
かくの如く定められたのであったか︑宛かも翌三年江戸の大火があって吉原も焼失し︑いよノ︑新吉原
の姓設に若手して︑益糞吉原繁昌の基を開く事になつ七・そして長く吉陳の仇敵であった風呂屋は︐この
時の禁制に依って﹁品を巷て料理茶屋と清板など掛て︑内證には寅女を数猫抱へ置しを︑吉原より御訴申
上たる故厳敷御吟味被遊候間︑御町中にて御制禁の商寅難成︑吉陳へ降参したり︒此節茶屋共抱燈し遊女
を五百人餘召連たり云交﹂と語られる︒これは寛文五年の事であったが︑吉原に於ける散茶女郎はこの時を五百人餘召連たり云交﹂︐
に始まったと云はれて居る︒
兎に角新吉原の建設は一面吉腺の發歴を意味するものであった︒そして寛永の末年︑吾妬物詰には﹁大
夫七十五人︑格子三十一人︑端八百八十一人︑惣合九百八十七人﹂と記された遊女の數は次鋪に坤加して
婚遊笑確には﹁後枇繁華菱へたりといへども享保五年の丸鑑に散茶女郎ばかり二千人に近しとあれば其他
準へて知るべし︒天明六年遊女禿すべて二千二百七十餘人︑享和の初三千三百十七人︑文政八年三千六百
人︐此時男藝者二人︑女藝者百六十人ばかりなり﹂と摘られて居る︒しかもこの時に至れば江戸の遊女は
必ずしも吉原丈には限られて居なかった︒寛天見州記を見るならば︑これには先づ﹁深川其外の料理茶屋
水茶屋︑また宿場の飯盛女と吉原とをさして仙に悪所場とす﹂と云ふ悪所場の説明があって︑次に是等の
悪所場に開する詳細な記述かあり︑これを結んで﹁されば右に畢眈たる江戸中の娼家二十七ケ所︑野郎や
桴世の成立三七
1
I
この時代の遊廓なるものを恥解するためには矢張り浮批攻る言葉が持つ庭の長き歴史が願られなければ
ならないであらう︒即ちこの時代に至って︑夢の浮惟は享樂の浮世となり︑中に於ても色の浮祉としての
性賞を明瞭に示して來た︒そして或は浮世ぬめりと稲せられ︑或は浮世狂ひと孵せられる等︑極めて奔放
な色の享樂が求められて來たのであったが︑かくの如き要求に唯へるものとして新に建設された仙界が即
ち遊廓であったと見る事が川来るであらう︒この意味に於て︑この時代の遊廓なるものは︑雁史的に極め
て深き根源を有する存在でなければならなかった︒從って誠にはそ営ろ物語に見られるが如き︐多くの遊
女達が或は容色ぞ飾り︑或は歌舞を行ふ等︑時には天人の影向と稲せられ︑時には喜見城にも癖へられる
漱樂の祉界が現出したのであったが︑一面に於てこの惟界は腰史的にその意義が重大であればある程︑耐
浮世の成立三八
四ヶ所なり︒外畔場の娼家五ヶ所︑品川︑新柄︑小塚原︑千住︑板橘あり︒吉原を加へて四十ケ所にも及
ぶぺし云々﹂と語って居る︒雅末に於ける江戸の遊女は兎に角かくの如き状態にあった︒如何にこの時代
の世相が推移して來たかの一斑はこれに依っても鋺はれるであらう︒そしてこの時代の文化は矢張りかく
の如き仙相の推移に依って支剛されなければならなかった︒然らばこの世相の推移は如何なる意味に於て
この時代の文化の性格を規定するものであるか︒これには先づこの時代の初めに建設された遊廓なるもの
が︑如何なる性厩を持つ虚の仙界であったかを見て世か巌ければならない︒
一へ
’
禽的に重大な結果を作はなければたらない性礎を持って居た︒即ちこの世界は︑再びそ宮ろ物語の言葉を
借川するならば︑﹁高きもいやしきも︑老ひたる肖若きも︑かしこきもをろかなるも︑彼の惑ひの一つや
んごと左し﹂と云はれる祉界でなければ友らなかった︒しか哨鼓にはまたその結果に就て﹁此の慨は夢ぞ
かし︒命もおしからじ︑たからも川底しと︑帯へ侍たる財費を拷誰くし染て︑其上はせんかたもなく︑人
をすかして鏡余をかり︑身の世川なふしてかけ君ちする軒もあり︑ばくちすご六を打て抑法度におこなは
る上も有︑主親の量命に背き逐電するもあり︑盗をなして肯きらる上もあり︑女をさしころし同審し共に
死するも有︑下ぺの薪は其家のふだいにつかはるLもあり︑身の栗色堂様盈なり﹂と語られなければなら
なかつた︒この世界の存在が︑一つには淨祉を一場の夢と親じ︑唯今日の漱樂に於てのみ碓存の意義は求
められるとする思想に立脚して居る事を恩へぱ︑かく○如き結果は禰然︸ら批界に溌想されるものであっ
たとも云はれるであらう︒然らばこの時代の祗命は果してかくの如き結果を承認したのであるか︒一度こ
の惟界ぞ離れて見るならば︑如何にこの時代と雌︑そこには人倫の醤がある︒そしてその仙界を指導し建
設する使命を以て新に政治道徳の識へとしての儒単が勃興して來て居る一面も願られなければならなかっ
た︒矢張り錘に於て問題とされるものは仙洲であり︑現庇の人生ではあったが︑その現在の人朱は夢の浮
世と槻じられた今日一日の人生ではなくして︑天命を成就すると云ふ極めて量屯な目的に依って統制され
た秩序ある肺命でなければならない︒この僻教的な︑逝義的な立場に立脚して見るならば︑以上の結果を
作ふ虚の遊廓の如き壯界の存在は到底承認される聯が川来なかった︒從ってこの時代の文埋お中に於ても
洋仙の成立三九
I
I
浮批の成立四○
道義的な立場から︑要するに悪川場である遊廓の性筑を明かにし︑傾城狂ひを反省せしめ︑これを戒しめ
て届手口ものが少くなかった︒例へぱ寂訓草子の緋と云はれる可笑記︵寛永十三年︶を附いて見る︒これに
は先づ傾城狂ひの結果に就て﹁しかるに常仙の術侶武賎老若︑ともに此けいせいにたらされて心を迷はし
後には身を滅ぼし命を失ふ︒うつけたはけの中立︐けいせい狂ひに過たる事なし﹂と語って居る︒兎に角
この傾城狂ひは仙の逆義孝素し︑身を滅ぼす事に於て︑蚊も恐るべき結果を謝らすものであるが︐然らば
如何にしてこの伽城狂ひの誘惑から苑るべきであるか︒鼓に於てこの作者は﹁とかく価城と云ふものLむ
さくきたなき事をよく分別し心得ねば思ひやむ事狗べからず︒かるが故に氷たしけれども書付はくり﹂と
云って︑その傾城の一つの性質に就て次の如く語って居る︒
たとへばけいせい狂ひする人は︑大身︑小身.町人︑百姓︑僧︑めくら︑︑こつじき等︑あまた
の喰ひ残しのみ残したるものをとり難く︑これ合はせ︑一段うまさうなる料理也︒食ひ給へとて出した
らんには喜び取りて食はうするか︒但たれ人成共むさしきたなしとて腹をぱ立つ共食する人は有まじき
也J眞共如く︑傾城といへる物はうわくこそいろよき小袖を着飾り︑汕とろノーかね黒く︑苅化粧に花
車めかしてしやらなる風怖をおもてにし︑流布打見は樂しけなれ共内心は韮土にもなを劣れり︒︵中略︶︒
こつじき︑めくら︑坊主のたぐひのむさく卑しき奴源も.金さへ持てば梨を交し︑七百年八百年など戯
れてひよくの枕を並ぺ︑かいろうのはだへを合はする蕊いく千甑人と云ふ数をしらす云奄
即ち伽城はむさくきたなき限りのものであり.人をたぷらすものであり︑表面は花車めかして居るが内
0
心は糞土にも劣る虎の存在である︒この傾城の正鵠を明かにする事に依って傾城狂ひの恐るべき結果から
免れしめようとして居るもの︑渦り可笑記の作者丈には限らなかったのであるが︑如何にしばノ︑かくの
如き意味の反省が繰返へされ︑価城の正隈が明かに示されても︑尚遊廓は依然としてその存在を繼練し︑
寄砿の如き力を以てこの時代の人心を吸收した︒この闘係を理解するためには今一度との時代の遊廓に立
入って︑その性愛を松討して見る事が必要となって來ろ︒
遊廓存在の一つの理由は夢の浮世の享樂にあった︒浮世の亨樂が色の枇界に於て求められたと云ふ虚に
遊廓存在の極めて重大な理山がか上って居たと云ふ事は︑いるノ︑の意味に於て遊廓なるものL性髄を規
定する︒即ち遊廓の使命は︑単に未辮の男子に性欲的な意味に於ける共同の妻を與へる事にあるのではな
くして︑享樂の對象としての女性幸ぞ刺迭し︑数に女性に對する男の夢を實現せしめる事にある︒如何にそ
の夢は一面的なものであったにしても︑宵って浦脇の物語を生み川し︑禰世剛に憧れた剛民に取って︑そ
れは長く振り抑ふ事の川来ない夢であった︒この時代の文學を見るならば︑雌に天人の影向や寺見城との
比較が試みられて居ると云ふ丈ではなく︑或は和漢の美女の限りをあけて遊女の美を稲へ︑時には佛の三
士和を讃嘆す皇一︑葉を取って遊女の姿を描嬬して居る︒彼等が夢想する事の川來るあらゆる美女の幻影
が遊女に投げられて居ると云ふ事は︑この時代の遊女に一つの意義を與へるものでなければならない︒そ
れは文學でもなければまた納識でもなかった︒併しながらかくの如き夢を変現すぺく養成された遊女はこ
の時代の肚會の一つの創作として見られる事も川來ろであらう︒そしてかくの如き意味に於て創作された
桴世の成立四一
’
’
I
I
山韮山の色道夫鏡がある︒
この色道大鏡に就ては︑この書の凡例及び矢張り同じ群群の苓作と推定されて居る蛎り草の序文に依つ
−て略その成立の山來を知る事が川來ろ︵阿部次郎氏︐徳川時代の藝術と疵念参照︶︒即ち坤り車の序文に 女性が飛臨する惟界が即ち遊廓であった︒数に如何にその正冊はむさくきたなきものではあっても︑価城狂ひを止める事の川来ない一つの秘辮が存在した︒柳深洪剛はその随筆柵唯の中に︑女郎様と地女とを比較し︑﹁女郎様と地女とは雪と躯とは鯉かなこと也云堂﹂と語って専ら女郎様溌識唖して勝る︒もし伽城に於てかくの如き意味の創作が行はれたとするならば︑この柵推の言葉もこの時代の言葉として矢帳り注目されなければならないであらう︒これをその涯怖に見るも︑この時代の遊廓に於ては価城の川にいろいろの階級が存在した︒例へぱ鳥原に於ては大夫︑天川︑剛と称し︑吉原に於ては大夫$格子︑脇︑散茶云持と稲するものが即ちこれである︒躯に揚鎚淀異にすると云ふ丈ではなしに︑この間には素す事の川來ないいろノ︑の橘式が存在した︒そして大夫になるためには︑岡より生來の美質を必要とするが︑これにはまたいるノ︑の洗錬と教養とが加へられなければならなかった︒かくして禿の時代から特殊の取扱ひ〃一受け︐幾多の教養を職んで︑初めて大夫となる事が川來るのであった︒この意味に於て伽城の那想は大夫に於て斑現されると云はれる事咄出來る︒兎に角大夫は男の夢想ぞ庇現すべく創作された女性であり︑この色の祇界に飛臨する女王であった︒從ってこの時代の傾城を理解するためには︑先づ大夫逆とも云はれる虎の大夫養成の方法を見て世かなければならないのであるが︑幸ひにしてこの場合に典へられるものに胤
浮慨の成文
I
四
一
は﹁抑昔日十三才の秋より此道に列坐して︑振袖の下より手をしめ目配せ杯に探れて︑翌年の末より自ら
懸慕對談の琵否を糺す︒かるが故に我惟に出て三十年︒道を見る事十有八年︑旦ヶ断絶なく修して常道至
極の理を知り︑而して我斯道を立て始めて之発色道と名付く︒干時自ら経って後誰か色道の開基となって
若輩の妄人を示さんや︒我今大極の格式を定め股かずぱ︑末仙の誰當しく邪蹄に入って︑人氣散飢せん事
を悲み︑救枇の大師を起し︑瀧年の赤より恩ひ立ちて︑深秘決談抄と云ふ二十巻の書を細集す︒然りと雌
も所努に冒され︑遊宴に引かれ︑徒らに匝中の底に入れて未だ成就し難し︒若し予存命の内に首尾せしめ
たらば末代の軍費となさん云堂﹂︒即ちこれに依ればこの著考は三十才の勝巳に道を見る事十有八年と秘
し︑日一夕断絶なきその修業の結果に依って新に色逝の樹立を志し︑燕年の春︑即ち二十九の非より深秘決
談抄と稲する大極の棉式を定めるための群作に從事したのであった︒そしてこの時︸︶の薯者は﹁是を惟へ
ぱこの道に至り祁身孝莱てん事何ぞ僻むぺけんや﹂とこの逆のために一身を棒ける晃悟を語って居るので
あったが︑この坤り草が記された樹時︵明勝二年︶に於てはこの深秘決談抄は未だ未完成の催にM底深く
秘められなければならなかった︒然るに色逝大鏡淀見るならば是にはその凡例に次の言葉がある︒﹁此書
を思ひたっ事︑予汁九年より風と心に浄ぴて雌し出るといへども︑諸方の瓜硲人体にのみ剛ては涯敷勘辨
しがたきが放に︑或は關束に走り︑或は中閥より九州に渡り︑其眺迩に經雁して所だの風縦を何ふ︒畿内
に小地の遊廓は里牟是宅見跳び︑六條の過し北剛は古老の逹人に事を葬れてしるす︒しかはあれども時節の
移るに随ひ︑風裕もかはりもて行ぱ︑これを歪しく辨へ知らんがために︑人の渋か顧みず︑老年に至る迄
淨世の成立四三
、
I
浮世の成立四四
當逝に立まじり︑諸廓をめぐりて此害をしるしぬ云凌﹂︒この色道大鏡の言葉は域り草の序文に﹁蒋年の
春より思ひ立ち云糞﹂とある事と相雄ずろものがある︒即ち十三の時よりこの道に列坐した著考が︑二十
九才に及んで色道の格式を定める事を志し︑深秘決談抄の蒋作に從事した︒そして略その形を梁へる事が
川来たのであったが︑これは未だ色迩の格式として群考の意を充たすに足るもので肱なかった︒これより
薪者はこの書の完成を以て自らの使命と任じ災に老年に至る迄當逆に立ち交り︑或は關束に走り︑或は中
国より九州へ渡る等︑自ら諸剛の遊廓を廻ってその風俗浄見剛し︑先きの深秘決談抄に一大修服を加へ︑
面目を一新して仙に公にされたものが即ちこの色道大鏡であったと見られるのである︒そしてこの色逝大
鏡が州板されたのは延費六年であって︑増り革の後二十二年目に樹って居た︒
兎に角色道大鏡はかくの如き群老に依って︑かくの如き目的を以て︑またかくの如き巾來彩經過して著
作された極めて珍奇な著述であった︒そして全部十八巻を仲へられるのであるが︑今日未だその完本は發
兇されて居ない︒併しながら幸ひにして今日残されて居る部分に︑恐らく等者が色道の格式を定める事に
肢も重きをなしたと老へられる寛文格及び寛文式を見る事が出来る︒彼の所謂色道の格式なるものはこれ
に依って略窺はれるのであるが︐その中にあって寛文格は﹁遊客の教を記す﹂と稲せられ︑寛文式は﹁傾
國の訓辛一著す﹂と語られるものであった︒就中この場合に於て注目されなければならないものは寛文式で
ある︒.そしてこの式の初めには先づ次の如き言葉がある︒
此巻には傾國のをしへをしるす︒傾城のならひさま人︑ありといへども往古より巳來眞のをしへを仰ろ
’
事なし︒禿丁にてつかふまつるうちに先弛の〃女郎の所作を見ならひ︑自ら道に至るより外の事なし︒こ
れによって智恵秀たる女郎は其さかひにも到るぺし︒なぺての傭城たとひ年たけたりと云ふともいかで
深理の芳しき庭汚しらむ︒呪や新破においてをや︒年頃是を悔みなげきて此式をあらはす︒自今以後此
提をまもり︑又これをおぎなはr︑自ら逝にかなひ︑名は批に高くその身もさかへむものならし云令
即ち傾城は少く共この世界に存在する限りは﹁名は仙に高くその身もさかへむ﹂と云はれる事を目的と
してその修養か祇主なければならない︒換言すれば側城に對する遊客の要求〃自彊して︑そこに自らの修
養の道を見出さなければならない︒弦に傾城の道は時の好尚に依って支配されなければならない極めて不
安定な一面を展開して來ろのであるが︑併しながら同時に側城は色の枇界に於ける女王である事の白晃を
失ってはならない︒一度その自晃を失へぱ︑それはも早散茶女郎︐端玄郎の類であって︑或は大夫と呼ば
れ︑天祁と呼ばれる傾城に於ては︑あらゆる遊容に屈從する事を以て届しとしない︑牢しろ自ら色の祉界
に於けるイデー卒一投じて︑その色の枇界に閥する限り遊容か一指導する立場に立つ事ぞ忘れてはならなかつ
た︒と上にこの時代の価城に見られる張りがあったとも云はれるであらう︒間よりこの場合に於ても︑そ
れがこの時代の肺命に依って要求された色の祇界である事に於て︑この色の枇界のイデーなるものは側城
自ら生み川したものではなく︑して︑準しろ価城に與へられたものでなければならなかった︒そして一度こ
の世界から解放される事あれば︑換言すれば人間としての女性の立場に復蹄する事あれば︑それはも早解
膿しなければならないイデーであった︒この意味に於て遊廓が極めて将嫉な仙界であると同様に︑姉城の
浮世の成立四五
’
1
「
’
浮世の成立四六
逆なるものもまた極めて特殊なものである事を免れないのであるが︑兎に角色の泄界のイデーなるものが
存在する限り︑時觜に︐あらゆる遊客の要求に屈従する事以外に︑矢張り価城としての一つの道が絃に成
立し得る事が認められなければならないであらう︒かくの如き意味の佃城の道を定める事がこの斑文式の
目的であったと云はれる事が出来る︒
.次にその内容を見るに︑これには先づ峨城養成の事︑その階級及び叩廼に作ふ色だの規定に柵する説明が
あり︑次に傾城の柵話孵く心得︑読物の荒方に側する函蕪昌學Ⅲ遊藝の事︑遊客の取扱ひ方︑その他繭般
の所作心椛へに至る迄詳細な格式が定められて居る︒例へぱ傾城の養成に就ては﹁傾城の長の女子を抱え
て禿に仕立る事十歳を始めとす︒生れつき幼稚なろは十一︑十二にても禿に川すべし︒然といへども十四
歳より伽城となすものなれば︑士一などより先乖に仕へては道溌學ぴ得る溌なし︒且禿より直に傾城とな
る法なしo禿丁姿おとなしくなるより︑或は年年︑或は一年︑引込め世て後新艘に仕立るならひなれば︑
先誰に仕ふる事使の間なり︒禿丁は女郎に久しく仕へたる報よし︒これに依ってさ上やかに見ゅる女子は
八九歳より先輩に付るもあり︒是その幼女の生れつきに依るべし︒子供の内主人秘藏に恩ふ禿を共家露一
の女郎に付る事︑是常の例也云交﹂と先づ禿の時代から始められる︒隈ぞ隣く事もこの時代から注意を怠
ってはならないのであるが︑この磨き方に開しても︑或は﹁禿の時より鵬きたつるにはいづくにおろかは
なけれども︑耳のわき︑うなじのあたりをせむに解くし︒いかによのかたを改めたりとも︑此所くろきは
憂え劣り︑つたなく見ゆ云さと稲せられ︑或はまた﹁生つき旧うすき女郎の脳をそりて雄ひかんに︑細
過ぎたるは顔愁に見えて悪し︒太きはすさまじく見︑聖L尚悪し︒墨の漉きは卑しく見苦し︑眉さきの作り
出しをほのかにうすくして胴尻にてすこし濃く引たるよし云狩﹂と語られる︒そして假粧に開しては﹁伽
城の顔に假粧する事これを制する庭也﹂と云って居る︒﹁抑佃城と云ふは禿立より朝夕五催葬一腓ぎあけて
繕なき貌を本とす︒道に長ぜる人は傾城の色黒きとてきちはす︒色無き女郎は黒きま比にて世くぺし︒是
生れつきにてふたしなみといはす﹂であって︲却って﹁端女郎は如何程も心まかせにぬるべし︒その故は
局に入來る韮其善悪淀辨へざれぱ唯色白く見えたる計りよし﹂と︑この端女郎の類に於て假粧の必要が認
められて居るのであった︒その他髪の結ひ方︑爪の切り方︑その解き方に至る迄詳細な注意を必要とする︒
かくの如く佃城の慨は生来の美質が尊亜される丈ではなしに︐その美黄はまた他く迄解き蕊へられる事
が必要であった︒そして人間の作意がこの鵠に加へられる時に︑最も避けられなければならないものは
﹁いやし﹂﹁すさまじ﹂と云はれる作りであって︑これに反して﹁ゆかし﹂﹁上剛凹と云はれる姿が求め
られた︒着物の治方︑帯の仕方︑またⅢ様であって︑矢張り弦に於てもゆかしぐ上帖である事が求められ
た︒そして﹁額うすき女郎鵲をおく事なかれ︑町の女さへ見ぐるしきにまして師城たらむ人此癖へなから
むや﹂とある事に依って見れば︑少く共姿形のゆかしぐ上仙な邪に於ては︑傾城は町の女の上に位するも
のでなければならなかった︒換言すれば町の女には求められないゆかしぐ上品な姿形をこの作考は伽城に
於て求めたのであった︒かくの如き意味に於て仰城はこの作群に問題となって来た︒識には矢張り澗漉の
作者と祁通ずる態度が見られなければならないであらう︒しかもこの仰城のゆかしぐ上品である事は︑卵
浮世の成立.四七
I
女郎は喰物料理がたには不調法にしどけなきこそ床しけれ﹂と孵せられる等︑少く共色の仙界の女王とし
工の傾城は・或は深窓の虚女の如く︑或は壷た天女の如く︑価耕じみた町の女とは自らその仙界彩異にし
た存在でなければならなかった︒從ってその所作の上にも戸一れに作ふ虚の色盈の格式がなければならなか
った︒例へぱ鼓には笑ひの事の一ケ條が設けられて居るが︑この笑ひに閥しても次の如き注意が與へられ
浮肚の戒立四八
に姿形の上に於てのみ求められて居る事ではなかった︒その所作心樅えに於ても畑城は矢張り粥にゆかし
ぐ上品である堺を心がけなければならなかった︒例へば仰城は食ひ物に無頓蒲でなければならない︒殊に
客の前に於ては﹁酒の外物くふ事曾てあるべからず︒何瀝なじみの叫心易き中にて哨ゆめノ︑物くふぺか
らず﹂と孵せられ︑更にまた﹁惣じて側城たらむ渚は何によらず食ひものL名を随分といはいやうに心得
ぺし︒魚鳥の名は申に及ばず︑緋進物の類にても名をいふ事よるしからず︲一と云はれて居る︒或はまた﹁唯
て居る︒
塁つ唾をかしき事ある時傾城の発附として暁子に入はことの外うろはしく過分なろもの也︒おぼかたのをかし
ぎ事にも叉は一座どよみになるほどのをかしさにも傾城ばかりこそ心得あるべき噸なれ︒n泥あき︑歯
をかみ出し.かしらをなけうち︑貌をかへ︑高笑ひするなどは立所に風流を失ひつたなく見ゅ︒いたく
ぞかしくて笑ふく昔には口に袖を覆ひて笑ふか︑さなくぱ客のかたをそむきさしうつぷきてつLみ笑ひ
する等はやさしと見ゆ︒とかく醗をたてたる大笑ひは叫卑なる物と心得診へし云奄
凡て露骨な表現は野卑なものとしてこの価界の女王には許されない︒つLましやかにゆかしぐ上品な︑
一 昔圃腓毘S岸覇 ・汁JS+「j熟蝉n¥.(‑昏昏汁浄再八(卜鴬三.←料吋勢静巽・ア垂̲n(‑‑弄再rj汁び掛顛群巽計両撰。が 管いS鈴咳鶚洩擢蒔毒斗rl(v作針河内(トー饗。汁踊J‑1肴鈩S芳丙三s轆鳶缶予舛(汁岬彗S蝋奔島
荊
in理砺蟄巽昏
評川・ 鑿弄冷 塵r鴬 s葉山
八州丙 F卜膳
肴奏で 潅ザ塞 軸龍耐
些侭がご d・言
口s部 研口鳶
内テ鳥
︒−巽f琶弄汁 何川与
己部室圭司封
言再畔
砦詩侭︾6良.で行 門寄号
に媚妾−J
洋一悪言
偉吋ゴゴ替喬 嘩磑一﹃ご︽︺
.舛膳 母覗再 J潅母
まいぺい浄
鵲再汁 再洋丙
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浮世の成立五○
即ちこれに開しては﹁ひ主なくとよみおぽゆぺを物なるは︑古今の歌や伊勢物語﹂︑また﹁たん冊や色紙
の歌の散しやう︑かなづかひをもよく初ひおけ﹂と云ふが如き歌が學げられろ︒﹁仙城は歌學する迄こそ
あらめ︑せめて歌の文字よみ計りなどは兇え世きて︑折ふしのうつりかはる風景などに古歌をも吟じ見む
はいとやさしくゆかしかりなむ﹂︒即ち傾城はかくの如き教養を持つ事に依って︑一屑やさしくゆかしき
風術を加へる事か川来るのであった︒これは必ずしもこの作考の趣味から荊出された北理な注文であると
ばかりは云はれなかった︒この時代の佃城の中には和歌俳諾をよくするものも少くなく︑中にも島原の大
夫八千代は學問と遊藝とに於て特に右名であったと詔られる︵扶桑列女仰その他︶︒
この色遠大鏡はその凡例に依れば﹁いやしき町人の身に對して書けり﹂と云はれるものであった︒その
故は﹁高家高門の上にあはせて害たりとても︑柑時は高家高門立いらせ給ひがたき事なれば﹂と云はれる
事にあるのであって︑從って傾城は地下のもて遊びものであり︑地下のもて遊びものなるが故にそれはま
た﹁いやしくふつ上かなるを逝の要とす﹂とも云はれなければならないものであった︒然るにその色逝大
鏡に於工︑その姿形︑その川作︑心椛え︑或はまた遊塞學川の上に於て迄も︑ゅかしぐ︑上柵に︑氣高く
ある事に於て町の女と凧別せらるべきものが価城に求められて居ると一云ふととは何溌意味するものである
か︒我盈は誠に於て室町時代に於ける武家文化の一而を池ひ起こさなければならないものがある︒即ち処
迄京都と鎌倉とに對立して居た公家と武家とは︑新に幕府が京都に剛かれる︾﹂とに依って互ひに相推鯛し
た︒そして公家舳會と札接鯛する事に依って武家の文化的活動は漸く薪しく現れて來たのであるが︑かく
侭
して現れて來たこの時代の武家文化に於て先づ著しく示されたものは公家の文化意識に同化する事であり
更に遡っては平安朝文化に對する憧隙であった︒政治的にはその椛力を失ひ︑經濟的には窮迫の極にあっ
たと云はれるこの時代の公家祇會である︒併しながら平安朝文化の傳統は筒との公家祗會に鱒へられ︑錘
にこの時代の文化の一つの根源が求められた事に依って公家は矢張り特殊の地位に糧かれて來て居る事が
見られなければなら底かつた︒この時代の文學に見るも︑例へぱ謡曲やお伽草子の類に於て︑公家の占め
る地位は遥かに武家の上にあったと云はれなければならないであらう︒兎に角平安朝の文化はかくの如き
意味に於て長く武家時代の文化を支配した︒そしてその關係は矢張り江戸の町人文化に於ても見られるの
であるが︑その一つの形をこの遊廊に就て求める事は川來ないであらうか︒祗會的に云ふならば四民の最
下屑に世かれ︑専ら食殖の道に從事し︑義を知らない虚の素町人として︑武士に卑しまれた町人である︒
併しながら彼等と雌矢張り平安朝の量族文化に職れる夢を持って居た︒そして町人としては免れる事の出
來ない枇俗的な醤みから随制されたこの色の価界に於て︑そのはかなき夢を梁んだと云ふ事はこの時代の
文化の一つの性庇ぞ語るものとして︑またこの時代の遊廊に一つの意義を加へるものとして︑特に注目さ
れなければならないであらう︒
兎に角色道大鏡に定められた倣城の格式に於て︑我盈はかくの如き意味に於て傾城はこの時代の創作で
あったと云はれる關係を見る事が川来る︒更に傾城評判記の類を開いて見るも︑先づ島腺の評判記である
明暦元年の桃源集に於て︑島原の遊女の中に或は難︑初音︑浮舟︑玉葱︑雲井︑初花と稲するが如く︑源氏
浮役の成立五一
然らば色道大鏡に於ける傾城の格式は︑かくの如くゆかしぐ上品に︑また氣高く雁揚である事に依って
識くされるものであるか︒耐會的には到底貴族である事の出來ないこの時代の町人が︑文化的な生産力が って﹁風僻のけだかさ︐かたちのあでやか成事︑梨花の雨溌辨ぴ︑女郎花の露をふくめるもかくやはあらん﹂と云はれる土佐や︑﹁利發利根仙に勝れ︑向ら位そなはりて埖く︑心だての紡榊さ︑おとなしさ︑たのもしさ︑氣の大心成︑きれい成︑花車成︑風流なる︑た図よき率をのみ引そろへ︑悪しきと思ふ事露ばかりもなし﹂と稲せられる先代の小大夫等を發見する率が川來た︒併しながら鼓に於ても偲ばれて居るものは﹁上古六條の時代にもか上る人自今以後又有べきとも思はれず︒才智仙に勝れ︑器川あまり︑氣のはたらく事︑形の腿しき事︑とかく筆には及び難し︒いつかたより見てもあしきと恩ふ事かつてあらす︒島原錐一の遊女なり﹂と云はれて居る島原の大夫八千代が事であった︒兎に角かくの如き評判記を前提とする事に依って︑色道大鏡に於ける価城の絡式は︑この時代の耐愈に一暦重大な意味希持たなければならな
浮批の成立五二
或は築華等の物語にちなんだ多くの名前を發見する︒しかも菰の條には﹁むかしの薫様にも容色はおさお
さ劣るべからず﹂と稲せられ︑生た左門の味には﹁昔の源内侍と云はん女斯様にありそうに思はれば云掩﹂
と云全一﹇葉がある︒聡り革もかくの如き評判記の一つに脇するものであって〃それはまた色逝大鏡の格式
が一たの遊女の評判に邇川された形を示すものとして見られる事も出来るものであった︒そしてそれは島
原から見るならば田舎と云はれる大阪の仙城を評判したものではあるが︑錐に於ても日本節一の美人であ
いであらうっ
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て居るとは云はれなかった︒矢張りその根擦は色の浮仙を享樂する思想に求められるのであって︑それが
伽城である限り︑途にその女性は色の祉界に於て男の享樂の對象とされる運命を免れることが出来なかっ
た︒準しろ伽城の本髄はこの立場から規定されるものでなければならなかった︒即ち傾城はゆかしぐ上品
に︑また氣高く騰挑であると同時に︑飽く迄色の枇界に於て男の享樂の對象となる事の出來る女性を養は
なければならない︒そしてかくの如き伽城の性厩に對し︑鼓には浮氣と云ふ言葉が適用されて居る︒例へ
ぱ﹁仙城はわさノ︑としてしとやかに︑そこの浮莱ぞ誰もこのめる﹂と云はれて居るが如き是であったc
との浮莱に就てはまた﹁よき知普付たる事をはなにあて︑わきの男をおろそかにすな﹂とも歌はれる︒峨
城はその女性を磨き︑その女性を發散せしめる事に依って︑一切の男に常世閲の漱樂を經験させるもので
なければならない︒そしてそれが佃城である限り︑一人の男に脇するものではなくして多くの遊客に脇す
るものでなければならない︒他く迄一人の男に貞節を守らんとする女性の願ひは︑その根底に於てとの色
の世界の存在を否定するものでなければならなかった︒從ってこの色の枇界の道徳は︑貞節にあるのでは
なくして浮氣にある︒あらゆる男性に取って享樂の對象となる事の川来る浮氣にある︒坤り草に﹁悪しき
と恩ふ事露ばかりもなし﹂と云はれる小大夫はまた次の如き意味に於て蛍讃されて居る価城であった︒
浮世の成立五三
増大されると共に︑自らの肺會的地位に作ふ粘祁的な空虚を見出して︑これを充たすべく創作されたものこそはこの傾城であったと見られるのであるか︒価城は確かにこの意味に於て︑この時代の文化に與る事の川來る性質を持つものであるには相達ないが︑併しなから傾城の存在理由は必ずしもこの鮎にかけられ■■■■■■■■■■■■■■■■■FhlFL
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