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布教研究所報 第06号(vol.2)

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昭和六十三年度

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現代人に極楽をどう説くか

表 者 ﹀ 教 学 代 院 布 教 師 会 東 北 支 部 代 表 11 近畿支部代表 A ~ 者 ﹀ 布 教 師 会 東 北 支 部 表 東洋大学教授 青 森 教 区 兵 庫 教 区 宮 城 教 区

田野島

F

:fV. 彰

-158-道

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││ただいまから、﹁現代人に極楽をどう説くか﹂という テーマで意見発表を行いたいと思います 。 司会を、宮城 教区の西光寺、樋口隆信先生にお願いいたします 。 樋 口 た だ い ま ご紹介いただきました樋口です 。 今 回 は 、 去年までと様子が違いまして、お三方に意見の発表をい ただきます 。 どうぞよろしくお願いいたします 。 これは説きよ うによっては大変なことになってしまいますが、いつも 新しい命題としながら説いていかなくてはならない問題 ご案内のとおりのテ ーマ でありますが だと思います 。 この説き方についてはかつて四十九年で しょうか、知思院宗学研究所で﹃往生浄土の理解と表現 ﹄ ということで、藤士口先生が中心になって取り組みました 。 いろいろな考、ぇ方があるということを私たち そ の 中 で 、 は勉強させてもらいました 。 私はフィールドの立場にありますので、これを一体ど ういうふうに現代に説いていったらいいだろうか、つま り、現代をどう理解して、そして、自分自身が法然様に な っ たつもりで、もし法然様がここに生きていら っ し ゃ るならば現代人に向かってどう理解させ、あるいは納得 そして、どう信じきせ、それをどう行じさせるか さ せ 、 ということが課題ではないかなと思います。意見の発表 でありますから、その辺のところはかなりフリーな、 フ ランクな気持ちでお話しいただきたく思います 。 主催者側のお話ですと、先生方から大体二十分お話を ちょっとパネルデイスカッシヨ いただくということで、 ンと似てきますが、二十分の発表をいただいた後に五分 ずつ補足のご意見を発表していただき、あとは、ここに いらっしゃる方々で自由に、私はかく思うでも結構です し、また、先生方がいろいろと発表された意見の中から 何かを引き出していただきながら問題提示をしていただ -159-いても結構です 。 今までの会とは違ったもっとフランク な会ではないかと思います 。 ブレ ー ンスト │ミ ングのよ うなつもりで、お互いの意見を大事にしながら、ざっく ばらんにこの会を進めさせていただければ大変ありがた いと思います 。 それでは、最初に東洋大学の恩田先生にお願いいたし ます 。 ただいまご紹介いただきました恩田でございます 。 約 二 十分の間で、﹁現代人に極楽をどう説くか﹂という、 大変難しい問題をお話しすることになりました 。 思 回

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私は教学院代表ということでございますが、 言いますか、その資格は十分ございませんが、 その任と 一個の人 聞が自分の体験を通して話をするということでお話をし てみたいと思います 。 もちろん、教学上のいろいろな問 題点、あるいは、建前のお話がございますけれども、き ょうは布教という面で、第一線の重大問題でございます ので、できるだけ自分の体験から本音が出るようなお話 をしたいと思っております 。 そこで、諸先生及び諸大徳 のご指導ご批判をいただければ幸いでございます 。 まず、極楽ということでございますが 、 極楽は印 己 目 ハ ・ 彰上人 } d 削 ︿ 白 色 の 訳 語 で す 。 非常に安楽のあるところということ で、極楽浄土とか西方浄土、あるいは安楽固とか安楽浄 土というような言葉であらわされております。そして、 そこは阿弥陀様の世界ということで 、 遠く西方十万億の 仏国土を過ぎたところにあるということになっているわ 思回 けでございます。現在、仏様は説法しておられて、我々 の救済をしておられるというわけでございます 。 それはともかくも 、 安楽ということは我々が安らぎを 得る、安心を得るということと、もう一つは、ただ者痛 や恐怖がないというだけではなくて、積極的に楽しむと ころということで、これは非常に意味があると思います が、それはまた後にお話しいたします 。 それから、もう 一つは、私は心理学を専門にやっておりますが、浄土と いうのは心理学的にいえば心のふるさとであるというこ とになると思います 。 ﹃ 故郷﹄とか、﹃旅愁﹄とか、ある -160-いは﹃北国の春 ﹄ というような流行歌にもありますし、 あ る い は 、 ﹃ もみじ ﹄ という唱歌にも非常にすばらしいふ るさと、ある意味においては極楽を説いているというこ

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とにもなると思いますが、その面についてお話しすると 大変時聞がかかりますので、省略いたします 。 浄土教にとって一番重大問題は報土としての極楽浄土、 あるいは報身としての阿弥陀仏、これが大変な問題であ ると思います。そういう面で新しいアプロ ー チといいま すか、方法を導入する意味があるのではないかというこ と で きょうはその面についてお話をしたいと思います 。 ご存じのように、極楽浄土は法蔵菩薩が四十八願の誓願 を立てられて、これを成就されておっくりになったもの でございます 。 それで、法蔵菩薩は報身としての阿弥陀 仏におなりになったということは言うまでもございませ ん。したがって、報身としての阿弥陀仏の特徴、あるい は、報土としての極楽浄土の光景というものは ﹃ 浄土 三 部経 ﹄ に詳しく述べられているわけでございます 。 心理学的におもしろいのは、現在の我々がどのように 観想するかというのは、 ﹃ 観無量寿経 ﹄ の観想の方向にご ざいます。それから、もう 一 つの問題は、現世において 三昧発得して阿弥陀仏のお姿をとらえ、あるいは、浄土 をとらえるということができても、それを報身として、 また、報土として、 ﹂れをはっきりつかむということは 大変難しいことであります 。 その難しいことをどのよう ここに到達してそれをつかむかということが、 浄土宗あるいは浄土教における重大問題であるかと思う わけでございます 。 にして 私は臨死体験から極楽浄土と いうものを考察いたしましたので、 その一つの方法として、 その一端についてお 話ししてみたいと思います 。 臨床的な体験として、病院 などで脳波がとまり、心臓がとまったということで、死 んだと判定された者が生き返る、いわゆる蘇生するとい う体験があります 。 蘇生したときに、浄土と思われる、 あるいは、天国と思われるところを見た体験、あるいは、 阿弥陀様とか神様、あるいは、聖者という方にお会いし た体験があるわけです 。 そういう天国体験あるいは極楽 体験がされているということで、極楽というものは単に 絵そら事ではない、 -161-一つの事実であるということの探索 の糸口になるのではないかというわけでございます 。 これを話しますと大変時聞がかかりますので、かいつ まんでお話ししてみたいと思います 。 そのように身体的 に死んだ人がどういう体験をしているかということです が、魂、霊魂とい っ てもいいんですが、それが体から抜

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け出しまして、暗いトンネルみたいなところを通 っ て そこを突き抜けたところに光の世界がある 。 そこは光明 にあふれた世界であり、光明に輝いた人物に出会 っ た り するというわけであります 。 その見たところの世界とい 、 つ の は 、 私たちが見ている自然の世界とそう違わないと 川や海もある 。 あ る い は 、 いうわけです 。 花 畑 も あ り 、 親戚の人がいる 。 と こ ろ が 、 そ う い う と き に は 、 まだあ なたが来るところじゃないもう少しやるべきことをや っ てこいとか 言 われて追い返されるわけです 。 こういう ことは皆さんもお聞きにな っ たことがあるでしょ う 。 私 も子供のときによく聞いております 。 よく、お医者様が﹁御臨終 ﹂ ですと 言 うんですが、本 人はそれをちゃんと聞いているんですね 。 恐いですね 。 この人は死んだと思 っ ているとちゃんと生 これは非常に きている 。 自分は生きているんだよとみ ん な思 っ ている んですね 。 肉体は死んでも人聞は絶対に死なないという ことですね、過去、現在、未来、永遠にずう っ と生きど おしです 。 これはやはり無量寿ということですね 。 私た ちにはそういう命があるんですね 。 そ れ か ら 、 いわゆる仮死状態のときに 一 生の体験をす る 。 死に損な っ たときに ビデオテープレコーダーが猛 烈に速く回転するように、一生を振り返ることがあるわ けですが、これは一つの浄化作用です 。 地獄に落ちて浄 破璃の鏡を見せられるという 。 あれも極楽に行く一つの 道場の手段としての浄化作用なんです 。 私は心理学で精 神分析を 主 にや っ ていますけれども、心理療法、あるい は、カウ ン セリン グ などの研究もしておりまして、そう いうことを検討しますと、 そういう面もこの世において もや っ ているわけであります 。 吉 本伊信という浄土 真宗 出身の人が内観法 ( 内観療法 ともいう ) という方法を創始しています 。 これは臨床的 な面で病院などでも使われておりますけれども、例えば 母親にしてもら っ たこと、して返したこと ( 御恩を返し たことてそれから、迷惑をかけたことなどを徹底的に洗 いざらい反省させる 。 そうしたときに、いかに自分が至 らない者であるか、それから、人のおかげさまで生きて いながら、自分は文句ば っ かり 言 っ て生きてきた人物か と本当の機悔をし、そのとき初めて自分が生かされてい -162-ると感じるわけです 。 そこで、場合によ っ ては母親を通して、あるいは父親

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を通して、信仰のある方は阿弥陀様に出会うことができ るわけですね 。 ですから、機悔偽を唱、える程度では私は 本物ではないと思います。本格的に俄悔をしないといけ な い 。 そういう面を合理的、科学的にや っ ているのが心 理療法であり、カウンセリングであり、あるいは内観法 であります 。 これは恐らく仏教にも昔からあったと思う んです 。 そういう徹底的な機悔をやりますと、見仏往生、 それから見性成仏などが可能だと思います 。 そ れ か ら 、 光の人物というのには、 たとえば阿弥陀様とか菩薩とか、 イエス . 、キリストや聖者といわれる方々がいます 。 イ ン ドではマヤという閤魔様に会う人が多い 。 アメリカでは 親戚の人に出会うということが多いようです 。 天国体験についてはまた後でお話ししますが、非常に すばらしい景色が見えるそうです 。 心霊研究とか、スピ ーチュアリズムといいますか、霊一界通信などを調べて見 て も 、 ﹃ 浄土 三 部経 ﹄に書かれていることは全部事実であ っ て、単なる絵そら事ではないということなんです 。 実 は経典に書かれている以上にもっとすばらしい世界なん ですね 。 要 す る に 、 一 言 葉に記述できない、この世のもの ではあらわせないすばらしい世界なんですね、極楽は 。 そういうことを言うと問題になるのは、 そんないいとこ ろなら早くいきたいとい っ て自殺することはいけません 。 これだけは抑えなければいけないんです、急いではいけ ないと 。 私も調べてみたんですが、本当にすばらしい世 界なんです 。 あとで言いますが、死線をさまよっている 人を蘇生させると、 なんで自分を生き返らせたのかと看 護婦さんに文句を 言 っ ているんですよ 。 こんなすばらし いのになぜ戻したのかとみんな言っているんですが、そ ういう面があるわけです 。 それから、もう 一 つ大事なのは、極楽を見た者が心の 安定をして、心から安らぎを得ることです 。 中には、こ れによ っ て、自分だけが安心をうるのに満足できず、人 様のために社会奉仕なり、衆生済度をやろうという気持 ちが起こ っ てくることです 。 これはすばらしいことです 。 極楽に行けば必ず悟りが得られるのは当然なんです 。 本 当の安心が得られ、悟りが得られる、そういう世界なん です 。 そういうものが本当の報土としての極楽浄土で、 単に想像の産物ではなくて、事実として我々みんなが体 験できることです 。 もちろん、信仰がある人は信仰のあ -163-る形において 。 一つの文化ということでもいいと思いま

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す カず そういう面でお浄土なり極楽浄土が現実にあると 頭で考、えたものではないんです 。 そういう研究は本当はまだはっきりしておりませんが、 いうことなんですね、 私の心の中では確信しております 。 それから、死は恐くないということは多くの人が言っ てます 。 死に損なった人が生き返って、死は恐くないよ、 す ー っ と入っていくだけだと 。 考えてみれば、肉体だと か霊魂だとかいうけれども、我々のすべてが霊魂の存在 でもあるし、生まれる前からこの世もあの世も永遠に生 そういうことがこのような面からあ きている存在です 。 る程度推察できるわけです 。 わが国では、古い物語類、たとえば﹃今昔物語﹄﹃宇治 拾遺物語 ﹄ ﹃ 日本往生極楽記 ﹄ ﹃ 続本朝往生伝﹄﹃拾遺往生 伝 ﹄ に臨死体験と思われる体験の記録があります 。 ある 人が下回開下生で極楽に往生し、また戻ってきて、またあ の世へいったとか、向こうの世界をいろいろ見てきて、 それから 三 年後に死んだとか 。 そういう記録が残されて います 。 それから、向こうでは音楽が聞こえたりすると いうんです 。天 上の音楽とか光ですね 。 向こうの世界は 光と音楽の世界であり、若干香気がするという体験があ ります 。 これは仏教ばかりでもなくて、キリスト教の文 化圏でもいいにおいがするそうです 。 特に光と音ですね 。 だから、音響忍とかいうのがありますでしょう 。 音楽を 聞いて悟ることです 。 音楽というのは 心 を浄化する働き があります 。 ですから、お念仏とかお経はみんな 心 の 浄 土、仏様にだんだん近づける方法なんです。お念 仏 は 心 を浄化して仏様に近づけるということでは非常に有力な 方法ですね 。 これは単に主観的なことではなくて、例えば、ある人 の臨終の時、周りが光るんです 。 火事じゃないかと心配 したほど光が見えるんです 。 それから、第三者にも見え るんです 。 看護婦さんや医師で臨終のときに光を見た人 がいます 。 ですから、ご来迎というのは頭で考、えた絵そ ら事ではないんです、みんな事実なんです 。 そして、迎 えにくるという場合にはご来迎をさすんですが、それが -1 64-阿弥陀様だけでなく親戚の人もあるし、パウロとか、あ るいは菩薩のような方が見えるということで、ご来迎も 事実なんです 。 その場合事実といっても体験的な事実と い っ たらよいと思います 。 ま た その光は本当にすばらしくて この世とも思わ

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れない、目がくらむほどのものです 。 でも、本当を言、 7 と、それはこちらの信仰がそこまでい っ てないからなん です 。 初めていったところの光というのは、自分の魂の 境界に相当するものであって自己の信仰が高くなれば、 もっと高い境界に相当する光の世界に移るらしいのです 。 最初にいったところはそれほどでもないけれども、それ でも我々からいえば光の世界で、目がくらむほどなんで す 。 ところが、その世界も上には上があるんですね 。 こ れは永遠に修行していくことで、極楽浄土というのは一 つの道場だと私は思うんです 。 向こうの人に非常にやさしいが厳しく指導を受けて修 行させられるんです 。 ただ向こうへい っ て蓮の上にぽか ー んとしているものではないんです 。 その人に応じた修 行をさせられるんです 。 しかも、それが無理なく自然に させられるというんですね 。 こういう 一 つの仕組みがあ るわけです 。 ですから、向こうへ行けばおのずと心が浄 化され て、悟りが聞けるようにな っ ています 。 それで阿 弥陀様を初め菩薩様の説法を聞くとか、あるいは無常説 法とい っ て、木の枝葉が風にふかれてきらきらする音と か、川の流れの立日を聞いて、音響忍とか無生法忍が得ら れるというのも、 そういう非常にすばらしい理想的なシ ステムになっているからなのです 。 これは事実だと私は 確信しています 。 もちろん、行ってみないとわかりませ んので、大変楽しみなんです、向こうへ行ったら本当に 考えたとおりになるかどうか 。 それから、幾つか問題点がありますが、 それは浄土の 未来性と現在性ということです 。 ここで一つ難しいのは、 未来性というのが浄土教の大問題だということです 。 亡 くな っ て西方極楽の浄土に往生するという未来性が浄土 教の特徴ですが、今までのアプローチではどうも難しい んです 。 来世観というか、霊界とかいうような問題の研 究をしなければいけないのではないかと思うのです 。 そ の 一 つの兆しが臨死体験

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と いうもので、これを研究する学会が外国にあ っ て、体験 者もいて、学者も一緒になって研究しています 。 私ども -165-もそういう面を少し調べてみました 。 それから、もっと 深いところも調べて、心霊研究とかスピリチュアリズム を長年研究しまして、向こうの世界も自分なりに少しつ かんでいますが そういう面と矛盾しないんですね 。 そ ういうこともアプローチの一つになるのではないかと思

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います 。 むしろ現在性のほうが簡単だと思います 。 禅などでは非常には っ きりしています 。 悟りを得るとい いますか、見性体験を得るということです 。 浄土教では 三 味発得をすれば現在において往生できるということで あります 。 しかも、この世界が浄土であるということで そ れ よ り は 、 す 。 これは間違いないことで、仏教的な考え方というか、 通仏教の考えからいえば、そういう考えが出てくると思 います 。 しかし、それはなかなか難しいので、浄土教で は、九夫が極楽浄土に往生して無生法忍を得て初めてそ れがわかるということになっています 。 現在において、 三 昧発得している 方は体験しておられるとする、それから禅でも体験でき るということであれば、この世が浄土であることがわか るわけです 。 ですから、現世往生と 言 いますか、現世に おいて悟りを得るということで、無生法忍が得られると いうことなのであります 。 しかし、浄土教によれば、お 念仏をして往生が決定する、だから間違いなく往生でき るというので安心感が得られるのです 。 そこにおいて往 相回向から還相回向へ転ずるのです 。 例えば山崎弁栄師 その方法としては、 渡辺海旭師、矢吹慶輝師とか椎尾弁医師とかいう方々が 現世において浄土建設の活動をされる、あるいは、社会 福祉とか教育活動とかいう面に 一 生懸命になるという意 味の積極性というものが出てくるわけです 。 それから、未来往生は難しい問題だと申し上げました が、それは先ほどお話ししました 。 未来の問題は、そう いう面の研究を今後やらなければならないし、ある程度 わ か っ てきました 。 臨死体験の研究などもそうだと思う んです 。 科学的に研究するとなるとなかなか難しいんで すけれども、そういう面の事実がある程度とらえられる そういう世界があるということですね 。 それ -166-と す れ ば 、 天台では唯心の浄土とか、己心の弥陀とか 言 われ ますが、これは、心が浄化すればこの世界このままが浄 土であるということであります 。 ですから、今ここに浄 土が現出しておりますから、その面から見ればすべてが か ら 、 仏 の 世 界 、 万法が仏である、 ここが浄土であるというこ とは間違いないことであります 。 これについてはいろい ろと境界を示すことができますが例えば、我々が景色を 見て非常に美しい、きれない花が咲いているな、美しい 鳥 の声だなとい う 体験をします 。 も ち ろ ん 、 これをその

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まま意識しているのであれば、 日常的な 一 つの風景を鑑 そこに倍りの目がないと、本当 に浄土というのはわからないわけです 。 その 外 界が問題 自己の境界が問題です 。 賞しているだけでして、 で は な く 、 例えば、花を見て美しいという面がある 。 禅 で あ れ ば 、 ﹁日々是好日 L と い っ て、自分が病気をしたり、家族が亡 くな っ たり、病気したり、貧乏したりというようなこと が あ っ たときに、これが極楽だなと体験できる境界が本 当の極楽です 。 これは我々凡夫にはなかなか難しいこと ですね。しかし、本来は我々は仏性を持 っ ているわけで す 。 ですから 、 両面を持っているわけです 。 煩悩という 現象の世界なのですけれども、本質は自分も仏であると いうことに気づくことが見性であり、それが無生法忍と いうことになるわけです 。 すべてが空である 、 自 他 が 一 如であるという世界がつかめる 。 不生不滅ですから 、 生 まれてないから死なないわけですね、自己もすべての永 遠に生きている存在ということを自分で悟るわけです 。 ち ょ っ と時聞が過ぎまして失礼いたしました 。 それで は、私の話を一応これで終わりたいと思います 。 ご承知のように 、 心理学は実証的な世界でありま 樋 口 すので、本誓偽の中にあります無生法忍というものを実 証的に証明せられているということで、大変おもしろい お話をいただきました 。 それでは、次に東 北 代表の長尾先生お願いいたします 。 ただいまご紹介にあずかりました青森教区の長尾 長 尾 と申します 。 これから、表題の ﹁ 現代人に極楽をどう説くか﹂とい うことについて、私なりの意見を述べさせていただきま す 。 しかし、ただいま恩 田 先生からお話があったような 教学的なことは、私からは 申 し上げることはできません 。 ただ田舎の現場の 一 僧侶として、自分なりの意見を述べ させてもらいます 。 -167-まず、第 一 番目に、極楽という言葉 。 この極楽という 言 葉と大体同じような意味で使われているのに浄土、天 国、あるいは彼岸、あるいは、浬繋とか、さまざまな 言 葉があります 。 もちろん、内容的には全部異なるもので あることと思いますが、その言葉をすべて同じものと し てとらえているのが世間の人々でございます 。 特に天国 という 言 葉は、現代日本におきましては最も 一 般 的 な 、 ポピュラーな言葉として使われております 。

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お寺で経営している幼稚園や保育園の園児たちは別で すが、一般の子供たちにとっては、極楽というのはほと んど死語に近い状態になっていると思います 。 またマス コミでは天国という言葉一つで処理をしているようです 。 我々仏教者としては、天国という言葉と極楽という言 葉を使い分けをして説明しなければならない立場にある わけですが、今の世の中の状況は、極楽という言葉を申 すことができないような時代です 。 その極楽という言葉ですが、極楽、一般的には 天国ですが、そ れは 一体どういうところなのか 、あるい き て 、 は、僧侶は人々にどのように極楽を説いてきたのか。和 尚さんの中でも、ときどきこのような意見を述べられる 長尾隆道上人 方がいらっしゃいます 。 法然上人が立教開宗された十二 世紀後半のころは、ちょうど保元 ・ 平治の乱で平家が滅 亡する、戦乱の時代でした。そういう直接的な戦乱によ る死への恐怖、あるいは飢餓、疫病、洪水、台風、そし てまた、末法思想という大きな思想の柱がございまして、 その時代の人々は現世での満たされない気持ちを、来世 で の 、 - 168-いわゆる極楽往生という形で願わざるを得ないよ うな状況にあったと思います 。 現代の日本というのは戦争の危機もこ れといってあるわけではなく、特別貧しいということで もなく、まあまあの生活を営んでいる 。 そういう現代人 に極楽を説くということそれ自体にもう無理があるので はないか、現代日本人に宗教心が欠如していると言われ ているのは、時代背景からして無理からぬことではない それに反して、 か 。 住みにくい社会であるからこそ人々は極楽を求める のであって 、住みやすい、何 一つ不自由のない 社会にお

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いては極楽を求める気持ちすらないのではないか と し、 うふうなことを言う和尚さんもいらっしゃいます 。 しかし、はたしてそうでしょうか 。 実際、今の世の中 というのは金余りの世の中で、大多数の国民がそれぞれ にレジャーを楽しみ、おいしいものを食べ、あまり無理 なことを望まなければ、 それぞれに何とか満足できるよ うな生活をしているのではないかと思うのです。 き て 、 そのような現代人には悩みや苦しみというのはもうなく なってしまい、みんな満足してしまったのでしょうか。 かえって、法然上人の時代の人々の直接的な死 への恐怖、あるいは貧困、飢餓の恐怖より以上に、複雑 に多岐化した悩みというのを抱、えているのが我々現代日 本人だと思うわけです 。 たとえば、嫁姑の問題 。 今は昔と違いまして、電気機 器が非常に普及しておりますので、ぞうきんがけをした り、あくせく働く必要もないものですので、時聞がかな し か し 、 り余 っ ております 。 その余 っ た時間が嫁姑の冷たい争い に費やされているというようなこともあります 。 ま た 、 今は長寿社会です。平均年齢がずっと上がってしまいま したので、直接、死への恐怖というよりは、 ボケてしま うんじゃなかろうか、寝たきりになってしまうのではな そういう恐れのほうがかえってあるように思 か ろ 、 7 か 、 います 。 さらに今は核家族の時代で、家族の構成人員が少ない わけです 。 娘 一 人しかおりませんと、自分が死んだ後だ れが自分を肥ってくれるのだろうか、死んだ後のお骨は だれが面倒見てくれるのだろうか、そういうような悩み が本当に深刻な悩みとして、 人々の間にあるように思わ れます 。 特に私たちは僧侶として、 一般の家庭に入って いく機会が普通の方よりはかなり多いと思います 。 そこ で、その実態を聞いたり見たりいたしますと、そういう ふうに複雑 化されてしま っ た悩みを抱えているのがほと んどの家庭であるように思われます。 -169 -そのように複雑になってしまった悩み、苦し み、その解決を一体何に求めているのでしょうか 。 なか なかお金では解決できない問題です 。 かと言って行政が や っ てくれる問題でもありません 。 最終的には宗教に求 めるのではなかろうかと思います 。 人 々 は 、 嫁姑の争いに疲れた人たちは容易に新興宗教へ走 っ て まいります 。 そこで問題が解決されるわけではありませ

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んが、何かを求めてそ っ ちのほうに走 っ ていきます 。 そ れがだんだん高じてきますと狂信的な信者とな っ てしま ぃ、家庭の崩壊という結末を迎、えてしまうというような ケースも随分聞き、そして、見ております 。 あ る い は 、 ボケを心配するお年寄りの方は﹁ぽ っ くり寺﹂へ足を運 ぶようになっています 。 このように現代日本人がさまざ まな悩みを抱えており、宗教に解決の糸口を見出そうと している 。 それは、我々僧侶としては、厳然たる事実で あるということをまず認識しなければならない、と思い ます 。 それから、昨今は占いプ

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ムです 。 小学校、中学生、 高校生、女の子男の子を問わず、占いはすごい勢いで浸 透しております 。 我々の世代、また、諸大徳の方々のお 小さか っ たころとは違 っ て 、複雑化した子供なりの悩 み をいろいろ持 っ ております 。 もちろん、占いと宗教とい うのを同 一 には論ずることができませんけれども、何か しらの心配事をも っ てその解決を求めて、上口いのほうに 走っているような気もいたします 。 九月一日、新学期が 始ま っ たときに二日間のうちに全国で十人の子供が自殺 をしております 。 このように子供でさえもそういうふう な悩みを抱えているのが今の世の中であると思うわけで す 。 さて、私たち僧侶の日常で、檀徒の方々がお寺に相談 に来る場合に、まず第 一 はお葬式のこと、そして、年回、 法事の日取りというような、現実的な法務の相談にはよ くお見えになります 。 ところが、その抱えている悩み苦 しみというのを菩提寺の和尚に相談するかというと、何 か 二 の足を踏んでいるような気がするわけです 。 我々僧 侶に対して自分の悩みを打ち明け、何とか相談に乗 っ て もらいたいというふうな気持ちはあるのですが、何かう ちの和尚では頼りないなというふうに思っている檀信徒 の方が多いように思うわけです 。 -170 -本来、僧侶というのはそのような人々の悩み苦しみを 聞くのがもともとの立場であ っ たはずです 。 一体、世間 の人々というのは、我々宗教者、僧侶のことをどういう ふうな目で見ているのだろうか 。 新聞に ﹁ 投書欄﹂という欄があります 。 調べた新聞は 青 森県の ﹃ 東奥日報 ﹄ です 。 一日の発行部数が二十五万 部ほどの地方紙ですが、その新聞を過去八年間にわたり、 部数にして約 三 千部ぐらい、ず っ と目を通してみました 。

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そこには宗教者、特に仏教者に対するさまざま な批判、苦情が百 二 十五件出てきたのです 。 今、ここに 百二十幾つのコピーを持 っ てきておりますが、その中身 を見ますと、お布施に関する苦情、そして、僧侶の態度、 寺院経営に対する苦情というものが半分以上を占めてお りました 。 皆様にその一部をコピ ーし てお渡してありま す る と 、 す が 、 それを抜き出してみましたので、 ちょ っ とご紹介 させてもらいます 。 こ れ は 、 六 十 一 年の九月ですが、 ﹁ 和尚きん反省してく だ さ い ﹂ という投書です 。 ﹁私は、和尚さんという職業の 人は皆やさしくて思いやりがあり、亡くな っ た人を悲し み、その家族をも思いやる人と思 っ ていました 。 それが 今回とても裏切られた思いで帰 っ てきました 。 第 一 に お 布施のことです 。 私の親類では葬儀に十万円包むことに し、また 三 十五日は 三 万円と決めたそ う です 。 貧乏人は 死んでもお経を上げてもらえないと嘆いている人もいま し た 。 ある人は、法要の時か何かよくわかりませんが、 お布施に 三 千円包んだそうです 。 そした ら 、和尚さんは 三 千円なんて金のうちに入らないと怒 っ ていたそうです 。 町の人たちはほとんどその和尚さんのお 寺 の檀家なのだ そうです 。 何から何までお金を要求する、高慢でわがま まな和尚さんに町の人々は泣いています 。 私の生まれ故 郷のことなので、 せめてこのことが新聞に載ることで何 かのお役に立てればと思います 。 ﹂このように締め括る投 書がありました 。 もう 一 つ、昭和五十六年の、 ﹁ 高すぎるお布施﹂という 投 書 です 。 ﹁ お布施は最低でも十万円で、財力のある人は その数倍を提示すると聞き、また、お寺も最低額の十万 円を割ると受領を拒 否 し、増額を要求するという 。 金の ある人は結構だが、ない人は非常に困窮する 。 私どもの 場合は相場は祭壇と同額のものをと寺が 言 っ た 。 つ ま り 、 三 十万の祭壇の場合お布施も 三 十万ということである 。 こんなばかな話があろうか 。 寺と祭壇とは何ら関係もな いし、あろうはずもない 。 なのにこれが相場だと 言 う 。 通常社会における価値観しか持ち合わせていない私ども 凡人に、わずか数十分の読経儀式で、私どもが額に汗し て 二 ヵ月以上も働いてや っ と稼ぐ金額を、こともなげに 口にするお寺さんの感覚は理解しがたい 。 ちなみに私ど もはお寺の要求する四分の 一 しか支払をしなか っ た 。 L こ れはお布施に関する苦情です 。

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次に、僧侶の姿勢、態度に関する批判、非難です 。 四 番目、﹁慈悲心忘れたお寺﹂ 。 ﹁あるお寺で行われた親戚の 法事に参列しましたが、そこで私はとても腹立たしい思 いと情けなきで定然としてしまいました。本堂の梁に、 お寺の修復寄附金未納者ということで、名前がずらりと 張り出されていたのです 。 多くの人々が出入りする聖な る場所に何と五年間も張られているのだそうです 。 人間 一生のうちには経済的にもさまざまな浮き沈みがあるは ず、人々が苦境のときこそ仏の道を説き、教えを伝え、 人々を助けなければならない僧が、苦しんでいる人に追 い討ちをかけるような仕打ちは信じられないことです。 片方の手で人を殴り、片方の手で仏の慈悲を施そうとで も言うのでしょうか、 そんなことはとても信じられませ ん 。 L これはある女子学生の投書でした 。 五番、﹁情けない住職の暴言 L 。 ﹁ 先日ある寺で行われた 法要に参列した 。 読経が終わると遺族を前に住職の説教 が始ま っ た 。 ところが、話し始めると驚くほどの暴 言 が 出てきた 。 法要に出ていたのは三遺族だったが、それぞ れに供養の仕方がな ってないことを指摘し始めた。いわ く、供物の量の少ないこと、ろうそくが足りないこと、 線香が不足なこと、その毒舌が 三十 分にも及んだ 。参 列 者が四十人ほどいたが、その面前で遺族を非難して説教 は終わり、情けないやら腹立たしいやら、いたたまれな い 三 十分だった 。 卑しくも仏の道を説き、人の道を諭す 立場の住職が、大勢の面前で檀家を非難するとは料 簡違 いも甚だしい 。 遺族は故人の霊を杷るために法要してい るのであり、それを物の多少、損得だけを取り上げると は説教ではない 。 近代から現代にかけ仏教が日本人の心 をつかめないでいる事実を見せつけられる思いがした 。 ﹂ ついでですので、もう少し紹介させてもらいます 。 六 番目、﹁お寺の態度に不快な経験﹂、五十六年八月 。 ﹁ 私 も 墓石や仏壇の購入をめぐ っ て不愉快な経験をしています 。 住職がそれらをお世話してくれるのは大変ありがたいの ですが、その勧めを断 っ たり、勧めてくれた庖以外の庖 から墓石や仏壇を買 っ たりすると途端にあいそが悪くな ります 。 ﹂ 次に﹁お布施を包むときです 。 こちらが納めた お布施が少ないと嫌な顔をして、これは間違いたのでは ありませんかと言われた人がいます 。 たとえ少なか っ た にせよ、ありがたくいただくのがお坊さんのお心という この物価高の当節、多く差し -172ー ものではないでしょうか 。

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上げたいのは山々ですが、なかなかできかねる人もいる のです 。 近所の人とも話し合い、何とかならないのかと 言 っ ても、相手が自分の墓を管理しているのでは言いた くても言えないのです 。 つまり、あとが恐いのです 。 で も、仏に仕える身なのですから、私利私欲に迷わされな い高潔な坊さんを待望しています 。 L ほかにも、きりがないほど紹介しなければならないわ けですが、この・ようにいろいろなことが言われていると いうことが目についたわけです 。 もちろん、自分に限っ てはそんなはずはない、自分は檀家の方から多少なりと も尊敬の念で見られているはずだ、そう思うのが我々僧 侶だと思います 。 しかし、現実にこういうふうな投書が 新聞に掲載され、何年もの間には何百万という人の目に 触れているのは事実なのです 。 人々がそのような投書を 見たときに、確信を持 っ て、うちの和尚は違う、うちの 寺は違う、うちはありがたい和尚だ、間違いのない寺だ と思 っ てくださるでしょうか 。 もちろんそう思 っ ている と思いますが、多くの人がこれを見たときに、知らず知 らずのうちに我々に対する見方が偏 っ たものにな っ て く るのを否定することはできないと思います 。 このようなさまざまな投書の裏を返して見れば 人

が宗教者に何かを求めているからこそ、 が出てくるわけです 。 特に慈悲心を忘れたお寺、人々を 助けなければならない僧が、というふうに人が見ている わけです 。 一般の人たちはお寺に対して、僧侶に対して 何かしらのことを求めているのが現実だと認識しなくて はならないと思います 。 まさに死後の極楽往生を求めて お寺にお参りし、御本尊様に手を合わせて祈っていらっ しゃいます 。 あるいは、夫婦関係のトラブルが生じて、 その解決を求めて阿弥陀様に手を合わせる檀信徒もいる はずです 。 また、小さい子供が学校でいじめられて泣い てきて、本 堂 に 入 っ て阿弥陀さまの前で手を合わせるこ このようなこと -173-さらには、嫁姑のけんかからお寺 に入 っ てきて念仏を唱え、木魚を叩いて、心の安定を図 ともあると思います 。 る人もいます 。 このよ う に 、 多 くの人々がお寺に極楽を求めてや っ て くるのが今の社会だと思います 。 そして、その求めに応 ずるために我々はい ろ いろなことをしております 。 法話 日曜学校とか、あるいは掲示板、 子供会、念仏会、お経の会な を説くのもその道です 。 テレフォン法話、 青 年 会 、

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いろんな形で我々はその要求に応じるための努力を してまい っ ております 。 そして、現実にそれが実を結び つつあるのが、今の浄土宗だと思います 。 ところが、こ うして我々がせ っ かく心血を注いでや っ ている布教活動 も、今読み上げたような人々の、た っ た 一 言 の 暴 言 、あ るいは、生活態度、姿勢によ っ て、檀信徒と和尚との信 頼関係が根底から崩れてしまうこともあるわけです 。 私自身、反省すべき点が多々あるわけですが、自分なり に 二 つのことを考えて布教に携わ っ ているわけです 。 ま ず第 一 にお布施のことです 。 さまざまな投書がありまし たが、お葬式の場合には必ずと 言 っ ていいほど、幾ら包 んだらいいですかと聞かれるわけです 。 その場合に、人 によ っ て は 、 せ っ か く 聞いてくるんだから、答えてや っ たほうがいいのだとい う ことで、相当高額な金額を要求 する方もいら っ しゃるようですが、やはり布施というの は布施、本来の意味からい っ て幾らでも結構ですと 一 言 う のが、我々として絶対崩してはいけない姿勢だと思われ ど ます 。 実は私がそのことで苦い経験をしたのは住職になり始 めのころです 。 今から十 二 、 三 年前の話ですが、お葬式 お檀家さんからお幾ら差し 上げればいいんですかと聞かれて、幾らでも結構です、 お志で結構ですよとお答えしました 。 一万円というお布 施を頂戴しました 。 そうしたら、家人が施主側に電話を して、投書にもあ っ たように、何かお間違いじゃござい ませんか、普通はこれぐらいですよと申したわけです 。 それで、檀家の方は後でその数倍のお布施を包んで持っ てきました 。 そして、その方は檀家にも入りませんでし がありまして、 終わ っ た 後 、 たし、本堂を建てるときの寄附にも応じてくれませんで た っ た、そのことでお寺とその方との信頼関係が -174 し た 。 崩れてしま っ たのです 。 これは反省しなければならない ことで、それからは布施に関しては、幾ら欲しいとか、 幾ら足りないと絶対に 言 うべきではない、あくまでも志 に徹することをかた く 心に誓 っ たわけです 。 もう 一 つ、頭 髪 の件です 。 比叡山とか高野山での修行 がテレビに映 っ ておりますが、人々は、あの風景を見て、 和尚さんの修行というのは大変なんですね、ああして毎 日頭を剃りながら修行なさらなければ一人前の和尚さん になれないのですねと、半ば感激した口調で言 っ てくる 人々というのは、頭をきれいに剃 っ た、そし わけです 。

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て、背筋をちゃんと伸ばした、端整な僧侶の姿に畏敬の 念を感じて見ているわけです 。 古来、僧侶が頭を丸めるのは当然のことでした 。 しか し、宗教者が肉食妻帯が常識化した時代にあっては、頭 を丸めるということは残された唯一の形ではないかと思 います 。 私たちは法務以外のときには洋服で通すことが 多いわけです 。 頭の毛を伸ばして、ネクタイを締めて洋 服を着ておりますと、だれも和尚さんだとは思ってくれ ません 。 また、思 っ てくれないことをいいことに歩いて いるところもあるでしょう 。 これは自分自身ですが、肉 食妻帯、酒も飲みます 。 せめて頭のすっきりしたところ だけは残しておいて、だれが見ても和尚だとい う こ と 、 僧侶だということを 。 人から見られることによ っ て、自 分自身の戒めとしていきたいと考えているのが、そのこ とです 。 最後の結論を申し上げたいと思います 。 こ う して、現 代人が極楽を求める心というのは、法然上人の時代の 人々の極楽を求める心と何ら異なることがなく、それ以 上に人々は僧侶、寺院に極楽を求めてや っ てきていると 思います 。 ところが、我々のちょ っ とした間違い、ちょ っ とした素行の悪さによ っ て、その求めに応じられない でいるのが現状ではなかろうかと考、えた次第です 。 人 々 が求める心と、我々が布教する心との聞にすれ違いを生 じきせないためにも、みずからの姿勢を正し、襟を正し、 人々に接するのが大事なことかと思われるわけです 。 現 代人に極楽をどう説くか、説く以前の問題として我々が 注意しなければならないことを、自分自身に戒めまして 意見発表とさせていただきます 。 暮らしの中で説く前に、むしろ浄土をまず身の周 りに、六法礼拝ではないですけれども、しなければなら ないのではないかと、そういう生々しい現実の反省を含 樋 口 - 175-めて、浄土というものをはるかに描いたようなお話のよ うに伺いました 。 では、最後に、お三人目のお方、近畿支部の代表で田 野島孝道先生、お願いいたします 。 田野 島 近 畿 支 部 の 回 野 島 で す 。 意見発表のテーマは ﹁ 現 代人に極楽をどう説くか﹂でありますが、私には、﹁現代 人 ﹂ ということと ﹁ 極楽 ﹂ ということ、私にはそのどち で す か ら 、 らもよくわか つ てないのです 。 こ の 二 つ を 掛 け合わしたらどこにい っ てしまうのやら、自分でも見当

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がつかないので、皆様方もそのおつもりで聞いていただ きたいと思います 。 現代人をどういうふうに受け止めればいいかと、私も さんざん悩んだのでありますが、自分自身も現代人の一 人だなというふうな気がしております 。 それから、最近 わからなくなりましたのが、新人類というようなお方で あ り ま す 。 あ る い は . 、 カウチポテト族とか申しまして 長椅子に寝そべ っ てポテトチ ッ プスを食べている そ 、 7 いう方すべてをひっくるめて現代人というのでありまし 私どもはそこまでわかりませんので、 ょ 、 つ が 、 一応理屈 っぽい、鹿理屈の多い ような人聞が、恐らくみんなの思 っている現代 人ではないかと、こういうふうな想定をい たしまして考えているわけであります 。 その毘理屈が現代人の特徴になっていると思うのです 。 だた、物事を考える場合に最後まで考えてしまうという よりは、ある程度自分が納得したところで、ある点から ある点まで 一 応理屈が通 っ ていれば、それでオーケーと いうような、部分的な考え方、部分的なインテリという -176 -園 野 島 孝 道 上 人 のが非常に多いのではないかというふうに思うわけであ ります 。 特に目に見、えたものというのはかなり信用する ようであります 。 さ て ここにございます極楽ということでありますが、 その前に阿弥陀きまということにつきましては、仏像を 見てイメージをしている部分があるだろうと思います 。 しかし、極楽となりますとなかなかイメージもわいて な い 。 先ほどもおっしゃっておりましだけれども、極楽 と天国とい っ たものは区別がついていないわけでありま す 。 極楽というのは死語に近いとお っ し ゃ っ ておりまし

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たが、風呂に入ったら極楽極楽みたいなことを申したり いたしまして、まだ死語まではい っ てないのではないか と 思 っ ている次第であります 。 極楽の話をいたしますと、おまえ極楽を見てきたのか と 、 言 うわけです 。 極楽というのは西にあるそうゃな、 西にあると言われている 。 地球 っ て丸いんだ、西へず っ と行 っ たらまた元へ 一 戻 っ てくる、まだ行 っ てもまた戻 っ てくる 一 体どこにあるのだというふうなことを言われ 私が感心いたしましたのは、 あるお坊さんが、西へ西へどんどん行 っ たら自分のとこ るわけですね 。 そ れ か ら 、 ろへ戻ってくる、極楽というのは自分の心の中にあるの だとおっしゃ っ たことですが、なかなか立派なところを ついたと思います 。 私はこれで納得させられる面もあるわけですが、現代 人というのはそこではまだ引 っ 込まないところがあるの ですね 。 この辺が毘理屈の現代人だと思います 。 それな ら北極へ行 っ てみろ、あそこは東や西のないところだ、 ど っ ちを見ても南ば っ かりじゃないか、南極へ行 っ ても ど っ ちを向いても北ばっかり 。 それなら極 閉じことだ、 楽というのは北極と南極にはないのかと こ 、 7 い 、 7 ト 品 、 っ な毘理屈をこねてくるわけです 。 そう 言 われると、私ど もはそんなことはないと、もぞもぞと言うよりほかはな い の で す が 、 ここにちょ っ とずれがあるのではないかと 思うのです 。 というのは、北極や南極には極楽はないのかと 言 っ た 人は、もぞもぞと明確な回答は出てこないで、どうせい いかげんなことを 一 言 っ ておるわいなということで、あま り信用せんようにな っ てくるのではないかと思います 。 ここにちょ っ と問題がありますのは、極楽はどこにある かとか、どういう形であるかとか、そういう受け止め方 と 言 いますか、尋ね方と申しますか、そういう観点から かなり大きな次元のず -177 -ものを見ていこうというときに、 れがあるのではないかと思うのですね 。 私 自 身 、 このことに関しまして時間を大変に費やした わけです 。 私の父も僧侶ですが、も っ と 早 く 言 っ てくれ たらいいのにと思 っ たわけでございます 。 そこのところ の次元の違いというものをもう少し早めにみんなに訴え ていけば、わかりやすい部分があるのではないか 。 私た ち人間というのは、自分の考え方で物事を測 っ てまいり それは無理からんことだと思うのですが、そ ま す か ら 、

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こにまた、考えを改めて別の次元から考えていかなけれ ばいけないのだよということを、もっと強調していく必 要があるのではないかと思いました 。 これが第一の関門 だろうと思うのです。この関門を乗り切りますと、現代 も昔もそうだと思うのですけれども、大体、人間個人に 帰っていくわけでございますので、 楽を説く上に非常に重要なポイントになっているのでは ないかと考えております 。 この第一の関門が極 この次元の違いと申しますのは 私はなかなかうまく 説明できませんで、 一つのたと、えとして涙のことを取り 上げたりいたします 。 例えば、悲しみ極ま って泣く涙と いうのがあります 。 それから、うれし泣きというのもあ ります 。 それから、あくびのついでに出る涙があります 。 涙という点ではどれも同じなんですが、涙という点で受 け止めるのを現代人的なものの考え方だといたしますと、 その奥に潜んでおります心の問題、感情の問題といった もの、こういった違いが私が今申しております次元の違 いではないかと思うのです 。 これはあまり的確な表現で はないので申しわけないのですが、とにかく浄土を申し 上げる場合には、内観を通じて、 自分の内からあふれ出 てくるような そういったがものが必ず存在するのだろ うと思います。 このことは、自分の心の中を暴き出すと申しますか、 自分の心の中を探して探して探しまくって悲嘆に暮れて しまうといった面があるのではないかと思いますが、こ こにもまた一つ問題があると思うのでございます 。 今の 人たちは、私もそうでございますが、人には厳しく自分 にはやさしくというのがこの世に生きていく鉄則でござ いまして、若い人たちは特にこれを実践しているようで ございます 。 自分の心を暴いていくということが、私も -178 -含めまして、若い人たちには非常に嫌なことなんです 。 自分はいい子でいたいし、人の欠点は暴き出したい、自 分の内面をのぞくことすら嫌だと、そうい っ たことがあ るのではないかと思います 。 そういった意味で、 白分の心の中を広げていく、自分 だけの世界ですら知ることは非常に嫌だとい っ た面が第 二の関門ではないかと私は思っております。今の人たち は自分は何も悪いことをしてないと思っているのが普通 でございます 。 私もそうでございます 。 法律は守らなけ ればならない最低条件の義務でありますけれども、今の

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人たちは法律を犯さなければそれで十分だというような 考え方もあるようでございまして、ご年配の方々には非 常にわかりにくいところだろうと思います 。 もう一つ、自分の心の中をのぞいて、自分の至らない ところ、自分というものを崩れさせてしま っ た と こ ろ 、 そうい っ たところまで理解したときに、改めて阿弥陀さ まなり極楽なりが出てくると思うのですが、そこまで行 きついたとしても、現代人はまたそれを知識 と して持っ てかえりたがるのではないかと思うのです 。 そこが非常 に問題だろうと思うのです 。 私が最後に強調しておきたいのは、阿弥陀仏というの は、頭の中でこうだからこうなる、ああなるといったと い っ た筋道とい っ たような、仏ではなしに、自分と直接 かかわ っ てくる、自分を救 っ てくださる仏でなければ全 然意味がないわけでございます 。 自分と非常に密接した 阿弥陀仏、あるいは、それの報土としての極楽浄土とい うものを説くなり、受け取 っ ていただくなりしなければ 、 法然様の浄土教とはおよそ離れたものになっていくので はないかと思います 。 で す か ら 、 ただいま申し上げまし たように、次元の違いということをまず第 一 の難関とい たしまして、第 二 の難関というのは、自分の心を暴いて いくことが非常に嫌なんだということ 。 そして、最後の 理屈までわか っ ても、知識として持ってかえりたがる、 カルチャ ー 的な得意げなところが現代 人 にはあるのでは ないかと思います 。 そ れ で は 、 一 体どうしたらそ う い っ たものが解決でき るのかということは非常に難しい問題でございますが、 現代人は、今申し上げました特性のほかには 、 何か求め ている部分もあるのです、仏教には何か神秘的なものが あるのだと 。 も っ とひどい場合にはゲ

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ム化されたもの -1 79-まで考えたりしておりますけれども、とにかく仏教にも 何かを求めておることは確かなのではないかと思うので す 。 去年、私ども青年会で四十八時間の不断念仏をいた しましたが、ああい つ た場に在家の人を引 っ 張り込んで 一 緒にするとか、あるいは、いつもどこかに行けばお念 仏が気軽にできるとか、 一 緒にお念仏してくれるとか、 そうい っ た場所を求めていく必要があるのではないかと 思うのです 。 おまえの心は非常に汚らしい、おまえは悪 だから ﹁ 南無阿弥陀仏 ﹂ を唱えなさいと 一 方 人は悲観するばかりでございまして、 い 人 間 だ 、 的に申しましでも、

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そんな楽しくないところには寄ってこない 。 ただ、日本人はプ

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ムに弱おうございますので、だれ かがやっているところに参加していくというのは結構で きることではないかと思うのです 。 そうした環境づくり といったところから糸口を求めてい っ て、最後に極楽と いうものをしっかりと見ていただくというのが大切では そういう方法があるのではないかという な い か 、 ま た 、 ふうなことを考えております 。 現代人に極楽をどう説く かということに関しましては、伝える内容というのはそ う大幅にかわる問題ではない、むしろ自分の信仰をそれ ほど簡単に変、えられるようなのは信仰のうちに入 っ て い ないのではないかと思うのです 。 皆様方がそれぞれにつ かまえていただいております信仰を、そのままお取り次 ぎいただいたらいいのだと思うのです 。 私が今回申し上げたいところは、第て第二、 設けましたけれども、現代人の特性として、 第 と どの辺を強 調して突 っ 込んで進めてい っ たらいいかというようなと ポイント的につかま、えてみたわけでご ざいます 。 これが合 っ ているかどうかは皆様方の判断次 第でございます 。 本来は後ろに座 っ ているはずの私が前 ころをちょ っ と 、 に出てまいりましたので、 この程度のことしか申し上げ られませんけれども、どうぞ皆様方でお考えいただきた いと思います 。 ご無礼いたしました 。 樋口 現代をどうとらえるかということについては、世 相的に技術の世界とかハイテクの世界というようなこと がありますけれども、若い人は若い人なり庇理屈の多い、 そして、納得してもなおそれが真理までいかない 。 それ には、各自の信仰体験に基づいた実践でやれば、おのず からわか っ てもらえるのではないかというふうなお話だ っ たように思います 。 180ー 思回先生、補足することがございましたら 。 恩田 それではちょ っ と補足させていただきます 。 まず、指方立相と実義実体義についてお話ししたいと 思います 。 こ の 二つ は 表 裏の両面であると思います 。 結 局、両方がつかめるということであります 。 現象界につ いては必ず、現実に家があるし、こうい う 建物もあるし、 西もある東もあるということで、 そこから入るのは当然 で、それから間違いない指方立相義というものをつかむ 。 もう 一 つは実体ですね 。 いわゆる本質と 言 いますか、真 の事実をは っ きりつかむということが大事であります 。

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それについては私の体験を後でお話ししたいと思います 。 指方立相義というのが私は大好きでして、西の世界を 見る 。 私は今でも阿弥陀様とか極楽は私なりに見、えるん です 。 しかし、これは固定したもので、皆さんとは全然 関係なく、私なりに見ているわけです 。 私は夕方の景色 が好きなんです 。 去年、山西省に講演に呼ばれまして、 帰りに玄中寺、ついで文殊菩薩の霊場である五台山に参 拝しました 。 南山寺という非常に高い山にある寺に登っ て、帰りに夕日を見たんです 。 ここはあまり人が行かな いところなので空気が非常に澄んでいるんです 。 そ し て 、 山に固まれています 。 その山の聞に夕日が落ちてぱ!っ と空が光 っ ているんです 。 山越え の弥陀をここで拝ませ ていただきました 。 非常にすばらしか っ たですね 。 オーストラリアのシドニーで、国際心理 もう 一 つ は 、 学会議がありまして、 す 。 おととい帰 っ てきたばかりなんで エ ア

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ズロックという、長さが七キロ、幅が 二 キ ロ 、 高きが 三 百八十四メ ートル の一枚の岩が 山にな っ ている ところへみんな日没を見に行くんです 。 日本ではお日様 を見るわけですが、あそこは反対側にある山を見ている んです 。 その山に太陽の光が映 っ て色が七色に変わるん です 。 本当は夕日を見ているんだけれども、山を見て美 しく変わ っ ていくのを楽しんでいるのです 。 平原で何も ないところなのですが、空気が澄んでいて、空も真 っ 青 なんですね 。 その日没の光、光琶を見て、あそこに極楽 浄土があると楽しみました 。 私は、指方立相というのは 説いて間違いないことだと思 っ たわけでございます 。 次に、実義実体義ですが、これは私の浄土体験があり ます 。 それを説明すると長くなりますが、私は浄土宗の 寺に生まれたのですが、周りに光明会の人たちが多くお りました 。 私のおばの 一 人が十六歳のときに念仏をして 往生しました 。 私は妙好人だと思いますが、非常に純粋 なんです 。 本当に仏様の境界でしたね 。 それを私は見て それから、もう 一 人のおじも念仏往生してお きました 。 ります 。 そういう雰囲気で育 っ て、私も青年期に悩みを 持 っ て、光明会の念仏をや っ て、私なりに 一 つの安心を 得させていただきました 。 そのうちに禅の修行をやりま して、そこで見性体験を得たわけです 。 それはお念仏が もとにな っ て 、 無 { 子 の 公 案 と 雪 7 ん で す が 、 ﹁ 南無阿弥陀 仏 L を無という音で集約したと見てもよいと思います 。 それで悟りの体験を得たわけです 。

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その体験を得たときのうれしさはとても口では話せま せん 。 私から太い木の幹が宇宙空間にのびて、それが無 数の枝葉に分かれまして、その枝葉に多くの諸仏がおら れ、それらが動いているんですね、讃嘆してくださ っ た んです 。 諸仏の動きが本当に見、えるんですよ 。 自分が体 験をするとこのように喜んでくださるのかなと思いまし た 。 周りを見ますと、私の先輩もそうなんですが、外的 な世界が光明を放 っ ているんですね 。 これは幻覚ではあ りません 。 そういうふうに確信できるのです 。 また、人 様をみますと仏性が見、えるわけです 。 我々は汚れて現世 的な面がありますが、本質の世界の光明が見えるわけで すね 。霊 能のある人には後光が射しているのが見、えます 。 オ

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ラといいまして、外国では仏様に輪がついてますが、 あれが見えるんです 。 それは幻覚ではございません 。 光 が見えるんです 。 それはなぜかというと、外側の汚れて いるところを見るのではなくて、清浄の本質の世界を見 るわけです 。 それは、心身が浄化し、魂が浄化された状 態で見ているわけです 。 我 々 は ふ っ 、 7 物事を対立的に見たり、自己中心に見て いるのですが、心が浄化され空(カラ ツ ポ)にな っ た仏 の境界で見てますから光明が見えるんです 。 そこで私は 自分は仏なんだと思ったんです 。 自分がそうであればほ かの人も全部仏です 。 また万象が全部仏だと 。 そ し て 、 この世が浄土であるということを確信いたしました。そ ういう面で、凡夫として極楽へ行っていろいろ説法を聞 いて、無生法忍を得たときに気づく体験は、私と同じよ うな体験ではないかと信じておりま す 。 しかし、これは 正念相続といって、この現実の世界では、凡夫でありま すからいろいろ悩みや不安がありますが、本来の自分の 性質が仏であるという自覚があ っ たときに、それから見 -182-た世界というのはまたすばらし川ものです 。 で す か ら 、 経典にあることは全部事実なんです 。 私は専門が創造性というものですから、発想の仕方と いうのを研究しておりますので、その面からでもわかり みんな本当のことが書いてあるんです、絵そら事 ではないんです 。 生物の構造や機能をみてもわかります 。 それから、霊一界通信とい っ て、向こうの世界を見ていた ら、そういうことが書いてありました 。 例 え ば 、 ﹃ 阿弥陀 ます 。 経 ﹄ と か 、 ﹃ 無量寿経 ﹄ とか、﹃観無量寿経 ﹄ というもの よりも っ と具体的に書いてあります 。 ですから、経典に

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書いてあることはみんな事実だと私は信じております 。 次は往生浄土の問題ですが、悟りを得るとどうなるか というと、このような浄土であるということに気づくわ けです 。 これが仏教的な世界でいう通仏教的な面だと思 うんですが、浄土教においてもやはり本質的であると思 います 。 し か し 、 これだけでは往生浄土の受け取り方と しては十分でないと思います 。 阿弥陀様の本願を信じて 念仏し、自分が必ず極楽往生できるという確信を持つ、 決定往生ができるという、そこに安心を得て、それから 往相回向のみならず、還相回向として衆生済度に活動す るということで既にいろいろご活躍にな っ ておられる 方々がおられますが、そういう面が大事だと思います 。 それから、もう一つ大事なのは、亡くな っ て極楽に往 生するという問題ですね 。 凡人報土というか、向こうで 凡夫として往生するけれども、そこの理想的なシステム の中で悟りを聞き、仏になるということです 。 こういう ふうな面が非常に大事なのではないかと思います 。 それ から、最後に浄土建設、浄土の創造ということです 。 一 番大事なのは智慧と慈悲というものをこの世において還 相回向するということだと思うんです 。 これは恐らく既 になさっている方があると思います 。 しかし この世が 浄土だと気づくという、本質をつかむということがまず あると思うんです 。 そして、その可能性を実現するため には、念仏を相続して自分の心を純粋にし、自分を磨き あげて衆生済度を行なう 。 そこで大事なのは、浄土とい うものをこの世に建設するということ、阿弥陀様の本願 に参画する 。 参 加して自分もその 一 員としてこの世にお いて努力することです 。 これについては、ご存じのように、教化活動がまずそ うですね 。 皆さんは実際にや っ ているわけであります 。 それから、社会事業もそうですし、あるいは、心理療法 カウンセリングという心の治療、あるいは、企業 -183 -と か 、 マネージメントでもそうです 。 あるい の経営というか、 は、政治という面を志す方もあると思います 。 いろいろ やり方があるかと思います 。 そういう面では、 山崎弁栄 上人のように現世に理想の浄土を建設するとか、あるい は、椎尾弁匡上人の共生会の運動とかいうような、積極 的な動きをすべきだと思うんです 。 往相回向も大事だけ れども、還相回向をやるべきだと思うんです、 例 え ば 、 この世においては随分制約があるんですけれ

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四十八願を見ますと、霊界といいますか、 霊 性 の 面からいえばあれはみんな可能ですね 。 私たちがやろう と思えば 。 もちろん、あそこへ行 っ てからでも、我々が 向こうでいろいろお手伝いしたりすることは大事なんで すが、阿弥陀様の本願は、この世において実現するとい うところにあるのではないかと思います 。 そういうふう に我々のできることを解釈しますと、私は、今、超心理 ど も 、 学とか心霊研究をや っ て ま す が 、 度可能だと思 っ ております 。 ああいうものはある程 もちろん、現世においては相当制約があるのですけれ ども、あれを見ていると不可能なことではないんです 。 あれを我々が解釈して、自分がこの世でできることを実 行して、この世を浄土にしていくことことを我々が浄土 教においてやるべきではないかと思うんです 。 そうい う 能力を我々は持っているんです 。 というのは、阿弥陀様 が浄土を建設する、創造するということは、私たちはす べて創造性を持 っ ていますので、世界にいろんなものを アイデアでつくるということです 。 向こうの世界はイメ ー ジの世界ですから、我々がイメージを描くとたいがい できるんです 。 もちろん相当工夫と努力しなければでき ませんけれども 。 そういう面で積極的に浄土を建設する とい、つことですね 。 これは私の夢なんですが、 ﹃ 浄土 三 部経 ﹄ のポスト ﹃ 浄 土 三 部 経 ﹄ を考、えるべきだと思 っ ているんです 。 向こう へ往生してから悟りを開いて、我々はいかになすべきか ということのモデルを、 ﹃ 三 部経 ﹄ を発展させて、発見し つくり上げるというのはおこがましいん て、あるいは、 そういう面で積極的にこの世においてで きることを学 ぶ といいますか、プログラムをつく っ て実 践していくという面が、阿弥陀様のご本願に沿うことで それがまた我々のご先輩である、 ですけれども、 -184 -はないかと思うんです 。 曇驚、道紳、 善 導、あるいは法然上人などの元祖、祖師 方の素意に沿う 一 つの道になるのでないか、 うに考えている次第でございます 。 以上をもって私の話を終わりにします 。 ありがとうございました 。 そ う い うふ 樋口 今、恩田先生から、かなり笑証的であり、かなり 具 体的 なお話がありました 。 たくさんの先生方の諸説の中には、 例えば ﹃ 三 部経 ﹄ に説かれている ﹃ 阿弥陀経 ﹄ の浄土と いわば象徴的な 表 ぃ 、 7 のは、あれはそ 、 7 ではないのだ、

参照

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