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龍谷大學論集 474/475 - 003武田 晋「本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼懺儀』」

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本典引用の

句集諸経札機儀﹄

玉皿 目

l

め 親鷺聖人(以下、敬称を略す)の主著である﹃顕浄土真実教行証文類﹄(以下、﹃教行信証﹄と略す)は、七高僧 をはじめとして多くの経・論・釈が引用されている。その中で善導大師の引文は、五部九巻のすべてにわたって引 用される。しかしながら、善導引用文とした扱いのなかに、聖人自身も註記されるように智昇法師の﹃集諸経礼慨 儀﹄が引用されている。 ことに周知されているのは、﹃教行信証﹄﹁信巻﹂・寸化身土巻 L における﹃往生礼讃﹄﹁初夜讃 L の﹁自信教人信 難中転更難大悲弘普化真成報仏恩﹂(真聖全二、七七・一六五頁)の引用における読み替えであろうか。本来、 善導﹃往生礼讃﹄においては﹁大悲伝普化﹂と書かれであったこの文言は、﹃集諸経札機儀﹄引文中﹃往生礼讃﹄ にある﹁大悲弘普化﹂の語を引用されている。このことは﹁化身土巻﹂引文に﹁弘字知昇法師慨儀文也﹂と親鷺自 身が註記しているように、智昇﹃集諸経札機儀﹄より孫引きすることよって、親鷲独自の教義を発揮するかたちと な っ て い る 。 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼儀儀J(武田) - 37一

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すなわち、本来は﹁大悲を伝える道こそが真の仏弟子の歩む道﹂と記される文章が、﹁伝﹂の字が﹁弘 L に 変 わ ることによって、この末法の世においては﹁自ら信じて、人を教えて信ぜしめるということは、まさしく難きがな かに転たまた難し﹂ということとなっている。すなわち、自信教人信は凡夫には難中の難なのであって、大悲その ものの働きによって浄土の教えは弘まるという意味に変わっているのである。 しかれば、これらは親鷲が意図的に﹃集諸経札機儀﹄を引用したのかが問題となる。 本論では、﹃教行信証﹄引用における﹃往生礼讃﹄と﹃集諸経札機儀﹄を比較検討を通して、親鷲の﹃集諸経札 機儀﹄引用意図を探らんとするものである。 善導大師と具疏の行儀について 唐代、浄土教の祖師、光明寺和尚、終南大師とも称される善導大師(西暦六一三

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六 八 一 年 ) は 、 ﹃ 続 高 僧 伝 ﹄ をはじめ、その事績を記した資料は実に多い。それらによると陪代末期の六二ニ(大業九)年に臨消(山東省臨溜 県)あるいは澗州(安寧省)に誕生された。俗称は朱氏で、幼くして明勝法師について出家され、﹃法華経﹄・﹃維 摩経﹄を学び、その後、明開律師とともに経蔵に入り、諸経典を読み、﹃観無量寿経﹄に出遇われた。後に慧遠を 慕って白蓮社に行き、諸国の明徳を訪ねて修学し、終南山の悟真寺に入って観想をこらし、二十九歳の噴、西河 (山東省太原郊外)で名声をあげていた七高祖の第四祖、道紳禅師(五六二

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六四五年)のもとに千里の道を遠し とせず向かわれ、師弟関係を結び、禅師より念仏往生の教えを授けられた。五年後、長安(西安)の光明寺に住し、 ﹃観経四帖疏﹄など五部九巻の著作をなし、従来の諸学者の研究を批判した。また、﹃阿弥陀経﹄を十万巻を書写 し、浄土の変相図を三百枚描いたといわれている。六八一(唐の永隆二)年に六十九歳で往生されるまでの約四十 年近く、長安の光明寺・慈思寺・実際寺などを中心として多くの人々に称名念仏の教えを説かれたといわれる。 - 38一 龍谷大学論集

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﹃註釈版聖典七祖篇﹄表紙写真の香積寺善導大師古塔(長安の南方、神禾原)は、その埋葬の地といわれている。 このように善導は仏教の全盛期である唐時代の初期に活躍し、光明寺にて没したが、その著作、五部九巻は﹃観 無 量 寿 経 疏 ﹄ ( ﹃ 観 経 疏 ﹄ ) 四 巻 、 ﹃ 法 事 讃 ﹄ 一 一 巻 、 ﹃ 観 念 法 門 ﹄ 一 巻 、 ﹃ 往 生 礼 讃 ﹄ 一 巻 、 ﹃ 般 舟 讃 ﹄ 一 巻 で あ る 。 ﹃ 観 経疏﹄は善導教学の中心をなすもので本疏と呼ばれ、その他を静土教の儀礼・実践を明らかにしたもので﹃具疏﹄ と 過 称 し て い る 。 その功績としては、中国では末法の到来を悲痛する民衆から﹃観無量寿経﹄がもてはやされたが、仏教界を代表 する学匠たちはこぞってこの経典を講じるものの、彼らは聖道門の立場から考察された。凡夫が往生できる阿弥陀 仏の浄土は程度の低い浄土であるとか、愚痴ぷかい女性として経典の上に現れる掌提希夫人は実は聖者であったと いい、念仏を称えただけで往生するのは釈尊の方便に違いないとの解釈を施した。そこでこの事を深く嘆かれた善 導は﹃観経疏﹄を著作して、この経典が仏説であることを力説され、そのような解釈をする事を戒められたのであ る。大師は自己の姿を、迷いの世界から永遠に離脱するととができない罪深い凡夫であると告白し、その行業は、 雑毒の善、虚仮の行であって、阿弥陀仏の本顧に乗託するより外に、凡夫の救われる道はないと強調されたのであ った。その生涯に、﹁眼をあげて女人を見ず﹂と伝えられるほどに、厳しく戒律をまもられた清僧であった善導大 師が、律師の立場をすてて凡夫にかえりて、本願の教えに帰されたのである。特に善導により証明されたのは、樟 土は真実の報土であるという点、その浄土には称名念仏によって往生できるとされた点である。 ところで、このような善導が、在家出家を問わず共に仏道を求めたことは﹃観経疏﹄に、 先づ大衆を勧めて顧を発して三宝に帰せしむ。 道 俗 の 時 衆 等 、 お の お の 無 上 心 を 発 せ 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 二 九 七 頁 ) との表現にもみてとれる。例えば、﹃法事讃﹄は一日限りの行儀を説くが、この書の正式名は﹃転経行道願往生諦 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼儀儀J(武田) - 39一

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土法事讃﹄または﹃安楽行道転経願生浄土法事讃﹄であり、﹁転経﹂は読請の意味であり、﹁行道﹂は施遣で仏の周 囲をめぐることであり、﹁法事﹂は仏法を行ずることで、阿弥陀仏とその浄土を讃嘆する経典(偶文)を読謂する 儀礼の指南書である。﹃法事讃﹄の儀礼は概略すると、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩などの諸仏諸菩躍を讃え、 阿弥陀仏の周囲を行道し、﹃阿弥陀経﹄を読謂して自らの罪業を機悔する儀礼で、その目的は浄土往生のためであ る。蟻悔を重視する点は具疏に共通する点である。 また、﹃法事讃﹄の法要には施主がいる点が注目されていふ。高座の召請文や讃偏に寸施主某等のために L ( 註釈 版聖典七祖篇・五一七頁など)という言葉が随所にあり、施主某のために法会を勤修していることが注目される。 法会は善導の教化の一つであるが、それは信者が自己の功徳のために依頼して法会が営まれるのである。唐代には さまざまな法会(例えば、仏生日、成道会、浬繋会、孟蘭盆会、皇帝の誕生日(誕節)、先帝の思日(国思)、仏舎 利奉迎、斎会)が盛んであったといわれるが、民間の法会に関して記録するところは資料的にほとんどない。その 為﹃法事讃﹄は貴重な資料であみ。 同様に、司般舟讃﹄には、七日ないし九十日間、﹃往生礼讃﹄には、一日を六時に分けておこなう平生の行儀が説 かれたのである。では、﹃往生礼讃﹄は具体的に何を説いているのであろう。

この﹃往生礼讃﹄について、善導は毎日の日課として、日没・初夜・中夜・後夜・長朝・日中の六時に厳修され たもので、日没には﹁日没礼讃偏﹂、初夜には﹁初夜礼讃偶﹂というように、六時にそれぞれの礼讃備がある。そ れで、これを﹃六時礼讃﹄ともいい、または単に﹃礼讃﹄と呼称している。 善導の教義に依られた法然聖人の浄土教団でも、毎日の日課としてこの﹃礼讃﹄が流行し、浄土真宗教団でも、 - 40一 龍谷大学論集

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蓮如上人まではこの﹃礼讃﹄が毎日の勤行であった。しかし、蓮知上人の勤行改制によって、この﹃礼讃﹄を廃し て﹁正信偶和讃﹂を毎日の勤行とされたことは、すでに存知の事であろ弘。 さて、﹃礼讃﹄は、前記のように日没・初夜・中夜・後夜・長朝・日中の六種であるが、それではそれらは主に 何を説こうとしてるのであろ乱。 まず、﹃日没礼讃﹄は、昼夜六時における礼讃の行法を明かさんとされている。最初に日没があげられたのは、 ﹃観無量寿経﹄所説に準処せられたと考えられる。﹃観経﹄においては十六種の観法が説かれるが、その第一に日 想観を明かしている。観法の初めに何故に日没の相を観ずるのかというに、善導の説明は三つの意味があると言わ れ る 。 一つには、浄土の正しい方向を知らせんがために日没を観ずる。 二つには、日を観ずることにより、業障の軽重を知らしめんがためである。すなわち、もしも罪が重ければ、黒 雲が太陽を覆うがごとく、また罪がやや軽ければ黄雲が日を障ふるがごとく、また罪が最も軽ければ白雲が日を障 ともかくも雲の障碍によりて、太陽の姿を明らかに見ることができないと同じように、業障の雲が さわりとなって、客観の対象を明らかにみることができない。そこで日を観じて罪の軽重を知り、深く漸塊機悔の ふ る が ご と く 、 心を起こして、これまで造り重ねたる罪障の雲を除去するよう勤めなければならないのである。 三には、日を観*すると、浄土の輝かしい相が、太陽の光よりも幾千万倍も勝れていることを知ることが出来て、 遂に浄土の妙なる荘厳相を見るに至るのである。今もまた西方願生の行者として、礼讃の行法をつとめることを明 される立場から、初めに日没の説を挙げられたものと思われる。 さて、日没礼讃の最初には次のように述べられている。 に釈迦仏、阿弥陀仏の十二光の名を礼讃して往生を求願せよと勧めたまふに 第一につつしみて﹃大経﹄(上) 本典引用の r往生干し讃』と「集諸経札機儀J(武田) - 41一

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よ り て 、 一十九拝、日没の時に当りて礼す。中・下の働悔を取るもまた得たり。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 六 一 頁 ) と、これは﹃大経﹄に阿弥陀仏の十二光を説き終わりて、 ただわれのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくとも に歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至 心不断なれば、意の所願に臨ひて、その固に生ずることを得て、もろもろの普薩・声聞、大衆のために、とも に 歎 誉 し て そ の 功 徳 を 称 せ ら れ ん 。 ( 註 釈 版 聖 典 、 三

O

頁 ) と、説かれである文意によられたものである。浄土真宗においては、﹁その光明の威神功徳を聞 L くといふは、第 十八願成就の文に寸聞其名号 L と説かれるのと同意である。 ここに﹁一十九拝﹂というのは、釈迦仏等一切三宝に対する二拝と、阿弥陀仏に対する総別の十三拝、並びに重 礼の一仏二菩薩及び諸害薩に対する四拝とを合して十九拝を作られであることを指す。初めに釈迦仏等の一切三宝 に対して二礼を設けられであることは、この日没礼讃にのみに見られる一つの特色である。仏教儀礼の一般形式に 準処せられ六時礼讃の初めにおいてこの二礼を加えられたのであろうか。 次に、初夜礼讃について挙げられる讃備は、善導大師が、﹃大経﹄の東方偏の文、及び十四仏国の往生を説かれ る経文の中から、いろいろな要文を取り集めて作られたものである。ここに二十四拝とあるは、阿弥陀仏に対する 正礼の二十拝と、仏菩薩に対する重礼の四拝とを合したものである。また﹁働悔は前後に同じ﹂(註釈版聖典七祖 篇・六七一頁)というのは、前の日投礼讃には要機悔を明かし、次の中夜礼讃には略働悔を出し、後の日中礼讃に は広機悔が説かれであるので、今はその前後に明かすところの償法のいづれかを、任意に採用すべきことを示され た も の で あ る 。 - 42一 龍谷大学論集

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今、初夜礼讃の最初には、 南無至心帰命礼 皆悉到彼国 願共諸衆生往生安楽園 西方阿弥陀仏 弥陀智願海 深唐無涯底 聞名欲往生 ( 真 聖 全 一 ・ 六 五 八 頁 ) と述べられている。この中、初めの﹁南無﹂等は礼文、次の﹁阿弥陀﹂等は讃偶、後の﹁願共﹂等は回向文であっ てこれは礼讃の一般形式といわれる。その﹁南無至心﹂は意業の誠を表し、﹁帰命礼 L は身業の敬礼を示し、かく して口業において仏徳を讃嘆し、以て三業相応の誠の起行なる旨を表わさんとすると共に、更に大乗仏教として、 他の人々と共になさんことを念願するものであることを明らかにされている。 前の日没礼讃には、﹁南無西方極楽世界無量寿仏願共衆生滅帰命故我頂礼生彼国﹂(真聖全一・六五四頁)と いい、礼文と回向文とをあげて、中間の讃偶を略されている。さらに、礼文について比較すると、初夜礼讃には ﹁南無至心帰命礼﹂とあるのに対して、日没礼讃にはただ寸南無﹂といって、﹁帰命礼﹂が略されている。しかし ながら、これは日没礼讃には回向文の中において、﹁帰命両礼﹂とあるので、礼文においては﹁帰命礼﹂を省かれ たものであろう。今は礼文の中に﹁帰命礼﹂を挙げてあるので、次の回向文に至つては、これを略されている。ゆ えにそれは形式上の相違で、内容の上の相違ではない。 これが、智昇法師の﹃集諸経札機儀﹄になると、この初夜礼讃以下の礼文は、すべて﹁至心帰命礼西方阿弥陀 仏﹂とあって、その上に﹁南無﹂の二字がない。恐らくは﹁至心帰命礼﹂をもって、﹁南無﹂の内容意義を表詮す るものと見る立場から、前の日没礼讃に﹁南無﹂とあるのを初夜礼讃以下に於いては、﹁至心帰命礼﹂を以て、こ れに代用されたものではないかと考えられる。この意味において、﹃集諸経札機儀﹄に、﹁至心帰命礼西方阿弥陀 仏﹂といって、﹁南無﹂の二字のないものが、この礼文の原始的な形であったのではないかと考えられている。 今この﹁弥陀の智願海は、深庫にして涯底なし﹂というのは、﹃大経﹄の東方備に、 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼儀儀J(武田) - 43一

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知来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。 ( 註 釈 版 聖 典 ・ 四 七 頁 ) と、説かれである意を述べられたものである。また次の﹁名を聞きて往生せんと欲えば、みな悉く彼の国に到る﹂ と い う の は 、 みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。 ( 註 釈 版 聖 典 ・ 四 六 頁 ) と、一不されてある意を述べられたものである。すなはち弥陀成仏の因果と、衆生往生の因果とを、説きあらわされ た﹃大経﹄一部の要を総括的に示されたもので、我々が如来の普いの御名を聞信して、浄土に往生させていただく ことは、全く阿弥陀仏の本願力による旨を述べて、広大なる仏徳を総歎されている。 ﹃大経﹄に示されるところによれば、如来の出世にあうことは、甚だ困難なことであり、また仏の法を聞く乙と や、善知識に遇うこともまた容易なことではない。殊に阿弥陀仏の救いを信ずることは、極めて困難なことである と説かれである。かくの知く自ら信ずる乙とさえ容易でないとすれば、他人を導くことはなおさらである。今讃の 最後には、この意を述べて寸自身教入信難中転更難大悲伝普化真成報仏恩﹂と示される。しかしながら、浄 土真宗においては、よく知来の慈悲をいただいて、この信ずる心も、念ずる心も、阿弥陀知来の方便よりおこさし その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、 む る も の で あ る 。 続いて中夜礼讃については冒頭、 龍樹菩薩の願往生礼讃の偶(十二礼) とある。ここに、龍樹害薩の願往生礼讃偶とは、 一十六拝、中夜の時に当りて礼す。機悔は前後に同じ。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 七 七 頁 ) いわゆる十二礼の讃備を指す。ところが十二礼の文と今の礼讃の に よ り て 、 - 44一 龍谷大学論集

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文とを比較対照すると、相違する点がある。すなわち十二礼には一カ所だけ、﹁至心帰命礼西方阿弥陀仏﹂という 礼文が存するが、今は十二礼の一々に﹁南無﹂の語がついて﹁南無至心帰命礼西方阿弥陀仏﹂という礼文が置かれ てある。形の上からいえば、既に述べたように、その﹁南無﹂の二字がない方が、原始的な形である。 また、十二礼の文の第十偶と十一備とが、今の礼讃の文では全く相違しており、十二礼では中間十偏の第四句目 がすべて﹁故我頂礼弥陀仏﹂(真聖全一・二六八頁脚註参照)と﹁仏 L になっているが、今はそれがすべて﹁弥陀 尊﹂と﹁尊﹂になっている。その他に二・三の文字の異なる点が挙げられる。 この中夜礼讃においては、憤悔の相を明かすに当りて、五悔の法をのべられてある。五悔とは一に機悔、二に勧 請、三に随喜、四に回向、五に発顕である。いま五悔の文を示せば次のようである。 心 を 至 し て 働 悔 す 。 つねに十悪をもって衆生に加ふ。 父母に孝せず三宝を語り、五逆・不善業を造作す。 この衆罪の因縁をもってのゆゑに、妄想顛倒して纏縛を生じ、 無量の生死の苦を受くべし。頂礼し機悔したてまつる。願はくは滅除せし 無始に身を受けてよりこのかた、 め た ま へ 。 機悔しをはりて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。 心 を 至 し て 勧 請 す 。 諸 仏 大 慈 無 上 尊 、 衆生盲冥にして覚知せず。永く生死の大苦海に没す。 群生を抜きて諸苦を離れしめんがために、勧請したてまつる。 つ ね に 空 慧 を も っ て 一 ニ 界 を 照 ら し た ま ふ 。 つねに住し 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼儀儀J(武田) - 45一

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て法輪を転じたまへ。 - 46ー 勧請しをはりて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。 心を至して随喜す。 歴劫よりこのかた懐ける嫉妬、我慢、放逸は痴によりて生ず。 つねに膜悉毒害の火をもって、智慧・慈・善根を焚焼す。 龍谷大学論集 今日思惟しはじめて憧悟して、大精進随喜の心を発す。 随喜しをはりて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。 心を至して回向す。 三界のうちに流浪して、痴愛をもって胎獄に入る。 生じをはりて老死に帰し、苦海に沈没す。 われいまこの福を修して、回して安楽土に生ぜん。 回向しをはりて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。 心を至して発願す。 願はくは胎蔵の形を捨てて、安楽園に往生し、 すみやかに弥陀仏の無辺功徳の身を見たてまつり、 つつしみてもろもろの知来を観たてまつらん。賢聖もまたしかなり。 六神通力を獲て、苦の衆生を救摂せん。 虚空法界尽きんや。わが願もまたかくのごとくならん。 発顕しをはりて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。[余はことごとく上の法に同じ。]

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( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 八 二

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六 八 四 頁 ) と、以上五悔の法については、要するに罪業を破滅せんがために行ずる意味において憤悔の心と異なるものではな い。このような事が諸絶にあることから大乗仏教の一般的な通軌と思われる。 続いて後夜礼讃について、冒頭に 第四につつしみて天親菩薩の願往生礼讃の偏によりて、二十拝、後夜の時に当たりて礼す。機悔は前後に同じ。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 八 四 頁 ) と、ここに天親菩薩の願往生礼讃備は﹃浄土論﹄の偏文を指すのであるが、しかし今は偏文をそのままではなく、 その組織及び内容意義を異にしている。﹃浄土論﹄は、二十四行九十六句より成り、初めの一行四句は、天親菩薩 の一心願生の安心を表白されたものであり、次の二十二行八十八句は、その一心願生の信何によって起これる本源 を示されるものであり、終わりの一行四句は、自分の安心を他の人々に施して、自他同生を念願するこころを表明 されたものである。ゆへに﹃浄土論﹄の偶文は、一心の安心を顕すに外ならないことが窺い知られる。この意は、 この願備はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜ ん と 願 ず る が ゆ ゑ な り 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 三 二 頁 ) と、述べられている。観見願生といふことで、願生とは偶文の最初に掲げられてある、﹁世尊我一心帰命尽十方 無碍光知来願生安楽園﹂の一行四句の意味であり、観見とは次の二十二行八十八句に示される浄土の三厳二十九 種の功徳相を観見することである。 今、二十四行九十六句の偶文から十六行六十四句を取り集めて、十六拝を造り、これに重礼の四拝を加えて、二 十拝とせられたものであるが、その偶文の組織や配列などは、﹃浄土論﹄と相違せる点がある。﹃浄土論﹄偶文の最 初には、﹁世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来﹂との尽十方無碍光如来を礼讃の対象と定め、次の三種荘厳を明 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼餓儀J(武田) n , . 4 a τ

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かせる偶文を以て、仏徳讃嘆の情を表白されている。しかし、後夜礼讃では、正しく一心帰命の安心を基調とし、 これが如実修行の相である旨を示さんとされているのである。 後夜礼讃には、最初に﹁世尊我一心帰命尽十方無碍光知来輿仏教相応 L と述べられて、﹃浄土論﹄では第 四句目は﹁願生安楽園 L となっているが、今讃では願生の安心を顕わすのが主題ではなく、正しく礼讃の起行を明 かすことを主題となすが故に、第四句自に﹁輿仏教相応 L の一句を用い、心行の知実なるゆえんを顕されるのであ る。すなわち一心帰命の安心より顕れるのが礼讃の起行であって、かかる仏教と相応せる心行こそ、知実修行の相 であることを示されたのである。﹃浄土論註﹄に、知実讃嘆の相を解釈するに、二不知三不信(不知実の相)を挙 げて、﹃浄土論﹄の一心に結帰されてあるのも同じことである。 このように礼讃の行は、一心の安心よりあらはれる知実修行の相であるので、そこには礼讃を行ずることにより、 何物かを求めんとするはからいを加えるものではないことは無論で、今讃の最後には﹁讃仏諸功徳、無有分別心、 能令速満足功徳大宝海 L と示されている。初めの二句は﹃浄土論﹄の上では、浄土の菩麓が任運自然に、諸仏の 功徳を讃嘆せられる有様をあらはされたものであるが、今は決して自分が作意して礼讃したり、また礼讃した功徳 を認めて、その代償を求めたりするものではない旨を顕されたものである。そこで﹃浄土論﹄では、﹁讃諸仏功徳﹂ とあるを、今は﹁讃仏諸功徳﹂と改めて本仏阿弥陀の功徳に帰し、最初の﹁尽十方無碍光如来﹂と首尾対応して礼 讃の対象を明示している。 次に、長朝礼讃については、官頭に 第五につつしみて彦環法師の願往生礼讃の備によりて、二十一拝、

E

起の時に当りて礼したてまつる。機悔は 前 後 に 同 じ 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 八 九 頁 ) げ ん ぞ う と、ここに彦環法師の願往生礼讃偶というのは五言八句を以て一備となし、十九偶百五十二句より成るもので、そ - 48ー 龍谷大学論集

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れは浄土三部経によりて、その微妙なる依正二報の荘厳相(浄土・阿弥陀仏)を讃嘆せられた極めて流麗典雅な煩 文である。ところが、この願生偶は、この礼讃に引用されている十九偶がその全文ではなく、法照禅師の﹃浄土五 会念仏語経観行儀﹄中巻(大正八五・一二四九頁

a )

に載せられている彦環法師の浄土礼讃、三十二偶二百五十六 句よりなるものであふ。いま善導は彼の三十二備の中から十九偶を選び取られて依用されたもので、それは前の後 夜礼讃において、天親菩薩の願生偶を採用するにあたり、その二十四偶の中より、十六備を選びて礼讃の備とされ たのと全くその趣向を同じくするのである。 今、﹁旦起の時に当たりて礼 L すとあるが、﹃往生礼讃﹄の初めに六時を列記されている下では、長朝の時となっ ているから、普通にはこれを旦起礼讃とは言わないで、長朝礼讃と呼ばれている。今讃には、阿弥陀仏に対する正 礼の十七拝と、一仏二菩薩及び諸菩薩に対する重礼の四拝とを合して、二十一拝を造られてある。重拝四拝の中、 観音・勢至の二菩薩を礼する下において、上の正礼の下と同じように、各五言八句の偶文が添えられであることは、 他の礼讃と異なる特色である。しかしながら、その八句の偶文を子細に吟味すると、その八句全部を以て、必ずし も二菩薩のみに限れる讃文とは受け取れない点がある。そのことは﹃集諸経礼讃儀﹄に、この二備を上の正礼中に 属し、重礼の二菩薩においては、前の後夜礼讃などと同じように、ただ礼文と回向文とのみをあげて、讃文の置か れていないこと。また、﹃浄土五会念仏語経観行儀﹄においては、この二倍に対する礼文が、ともに﹁至心帰命礼 西方阿弥陀仏﹂(大正四七・四七二頁 a b ) とあって、二菩薩に対する礼文となっていないことより見て、これを 立証することが出来るのである。この意味によって、今讃における正礼は、十九拝であるのが適正で、これに重礼 の四拝を加えて、合計二十三拝と改めた方が、妥当であるといわなければならない。 いま長朝礼讃において、なぜに曇鷺大師の讃仏偶を採用せずに浄土教の祖師にあらざる彦環法師の浄土讃を依用 されたのであるかについて古来から議論されている。すでに前の日没礼讃には﹃大経﹄の十二光仏が挙げられてあ 本典引用の r往生礼讃』と『集諸経札機儀J(武田) 49一

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り、次の初夜礼讃においてもまた﹃大経﹄の要文が採用されてあるから、二讃の内容は﹃大経﹄のことろを讃述せ られたる讃仏備の内容と非常によく似通っている。いま善導はその当時の仏教界において、人格的に最も敬慕され ている彦環法師、そしてまた文学的も最もすぐれた作品である彼の顧生偏によりて今讃を作り、以て一般大衆に愛 請されるようにしたと推察される。況やそれが静土礼讃と名付げられているように、すでにその当時において礼讃 の行法として一般に応用されていたことを思うと、これを六時礼讃の一つに採用されたということは自然のなりゅ き で あ ろ う 。 きて、最後に日中礼讃について、その官頭には、 第六に沙門善導の願往生礼讃の偶、つつしみて︹観経の︺十六観によりて二十拝を作る。日中の時に当りて礼 す 。 憤 悔 は 前 後 に 同 じ 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 九 七 頁 ) と、この日中礼讃は、善導みずから、﹃観経﹄に説かれである十六観によりて、浄土の荘厳を讃嘆する顕生偶を作 られたものである。その讃備はすべて十八備あるが、これを大別すると総・別・結の三段となる。すなはち初めの 一偶は、浄土の依正二報の荘厳を讃えて西方願生を勧めるの意を総讃し、次の十六偶は、﹃観経﹄の宝池観以下の 妙相を別讃し、最後の一備は、上に述べられた依正の荘厳功徳を結んで往生滞土の信何を勧奨せられたものである。 これらの十八偶の中、初めの十六偶は各七言八句の讃文より成っているが、第十七備は言十二旬、最後の第十八偶 は七言十六句よりなっているから、その讃文の総数は、合計一百五十六句となる。 今ここに寸十六観によりて二十拝を作る﹂というのは、十八備をもってする正礼の十八拝と、重礼の二礼とを合 したものである。ただし、十六観によるとはいへども、前述のように日想観と水想観とは、この世界におげる現象 を観法の対象となし三昧への準備にすぎないものである。(このニ観は仮観と名付げられる)よって、これを省略 して、第三の宝池観以下の十四観について、讃述されたものである。 - 50一 龍谷大学論集

(15)

そ の 第 一 偏 に は 、 かの弥陀の極楽界を観ずるに、広大寛平にして衆宝をもって成ず。四十八願より荘厳起りて、もろもろの仏剃 に超えてもっとも精たり。本国・他方の大海衆、劫を窮めて算数すとも名すら知らず。あまねく勧む、西に帰 し て か の 会 に 同 ぜ よ 。 恒 沙 の 三 昧 自 然 に 成 ず 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 九 八 頁 ) と、﹃観経﹄十六観による礼讃は、全く﹃大経﹄に説かれる棒土の荘厳相と異なることがない。また、他の礼讃に は、いずれも重礼において、阿弥陀仏の一拝と、観音・勢至二菩薩の二拝と、その他の諸菩薩の一拝との四拝が挙 げられてある。しかし、今讃では、阿弥陀仏に対する一拝の次に、﹁南無至心帰命礼、西方極楽世界、観音勢至、 諸菩薩清浄大海衆﹂の一礼を置き、重一礼において二拝のみを挙げてある。これは観音・勢至の二菩薩と諸菩薩を合 して、一拝となしている。 また、機悔の法には、要・略・広の三品の別があって、そのいづれを用いるかは、行者の任意であるとされるこ とは前述したところである。その要憤悔は、前の日没礼讃において、またその略機悔は、前の中夜礼讃において、 それぞれ明かされであった。広機悔は今の日中礼讃において明かされてあふ。ちなみに、親鷺は 真心徹到するひとは 三 品 の 働 悔 す る ひ と と 、 金剛心なりければ ひとしと宗師はのたまへり ( 註 釈 版 聖 典 ・ 五 九 一 頁 ) と 、 讃 何 さ れ て い る 。 以上、﹃往生礼讃﹄の讃文をみると、昼夜六時における誠の三業による礼讃の行法を明かさんとされている。

親鷺と﹃集諸経札機儀﹄

について

ω 智昇は八世紀頃の唐代の僧で、二乗を学び経論に通じ、律を宗とした。親鷲も﹃教行信証﹄に﹃集諸経札機儀﹄ 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼儀儀J(武田) 51ー

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を 引 用 す る に あ た っ て 、 ﹃貞元の新定釈教の目録﹄巻第十一にいはく、﹁﹃集諸経札機儀﹄[上下]大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。 貞元十五年十月二十三日に准へて勘編して入る﹂と云々。﹃憤儀﹄の上巻は、智昇、諸経によりて﹃働儀﹄を 造るなかに、﹃観経﹄によりて善導の﹃札機﹄(礼讃)の日中の時の礼を引けり。下巻は﹁比丘善導の集記﹂と 云 々 。 か の ﹃ 働 儀 ﹄ に よ り て 要 文 を 紗 し て い は く 、 : : : ( 真 聖 全 二 ・ 五 七

1

五 八 頁 ) と、示されている。これらの記述は、例えば﹃貞元新定釈教目銑﹄以前の智昇自身撰述といわれる﹃開元糟教録﹄ ( 大 正 五 五 ・ 五 七 二 頁

a )

に も 、 開元稗教録二十巻上帳締録下映別録十八年庚午於西崇福寺東塔院撰 績大唐内典録一巻同前十八年撰 績古今課経国紀一巻同前十八年撰 績集古今悌道論衡一巻同前 集諸経種機儀二巻同前 右上五部二十五巻。智昇所撰。 と 、 長 安 の 崇 福 寺 に 住 し 、 ﹃ 開 元 釈 教 録 ﹄ ・ ﹃ 続 大 唐 内 典 録 ﹄ ・ ﹃ 績 古 今 誇 経 園 ﹄ ・ ﹃ 績 集 古 今 悌 道 論 衡 ﹄ ・ ﹃ 集 諸 経 札 機 儀﹄など五部二十五巻の著述が記されていふ。また、﹃教行信証﹄にも引用される宗暁﹃築邦文類﹄には、﹁集諸経 撞 憐 儀 二 巻 群 字 函 L に 解 説 し て 、 上巻唐沙門智昇集。上半巻通躍諸悌。下半巻別以偶煩櫨讃西方。及憤悔護願等文。下巻比丘善導棟示専修西方 要義。及集記諸祖六時趨讃揮土偶煩等。 とあり、親鷲の記述と非常に似通っている。 ( 大 正 四 七 ・ 一 五 一 頁 b ) - 52 龍谷大学論集

(17)

ところで、﹃集諸経礼讃儀﹄は上下ニ巻であるが、これは諸経典にみられる札機儀を収録したものである。上巻 には歎仏呪願・﹃十方仏名経﹄・﹃大集経﹄・文殊師利礼法身仏文・西方礼阿弥陀仏文・華厳偶・菩麗戒法偶・害薩戒 香湯法・﹃党網経﹄・破壊偏・大智度論偶・薬王薬上偶・毘尼経・﹃仏名経﹄・﹃三厨経﹄などを引用している。﹃往生 礼讃﹄の日中礼讃や﹁定善義 L の一部なども引かれている。下巻には﹃往生礼讃﹄の全文に亘り引用されている。 ﹃往生礼讃﹄のもととなった礼讃文なども引用されることにより、七三

O

年に編集された当時の礼仏儀礼について 知ることができる。また、﹃三厨経﹄のような道教と類似する疑経も平時に用いられたことが知られ弘。 では、何故に親鷲はこの﹃集諸経礼讃儀﹄から﹃往生礼讃﹄の文を引用されたのであろうか。これについては、 既に紅楳英顕氏が従来の学説を次のように分析されていふ。 ﹃集諸経札機儀﹄所収本以外の他本を見ることがなかったのではないか。 ﹃集諸経礼讃儀﹄は勅命によるものであり、﹃往生礼讃﹄を仏説と同等に扱っているから ﹁下至十声聞等に及ぶまで﹂の聞により行信不二、下至が一声よりさらに聞信之一念にいたる意味があるか ム ソ 。 A B C と、三義をだされている。 このうち A については、既に指摘されるように、高田専修寺には、親鷺聖人も確認された善導大師の五部九巻の 古版本の加点本が存在すふ。本典引用の﹃集諸経札機儀﹄中の﹃往生礼讃﹄では、﹁下至十声聞等に及ぶまで﹂(大 正四七・四六六頁 b 、真聖全二・三四頁五八頁)とあるが、﹃往生礼讃﹄加点本では﹁下至十声一声等に及ぶまで﹂ (定本親鷲聖人全集第九・一五六頁)と、﹁聞﹂の字が本来﹃往生礼讃﹄にはない。また、後に問題とするが、直 後の続く文に﹃集諸経札機儀﹄では﹁一心に至るに及ぶまで疑心あることなし﹂と﹁一心﹂とある部分は、﹃往生 礼讃﹄では二念に至るに及ぶまで疑心あることなし L である。その他、親鷺の若い頃の著とされる﹃観経弥陀集 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経札機儀J(武田) - 53一

(18)

註﹄の﹃往生礼讃﹄書き込みも、いまの深心釈部分は加点本と同じようになっており(定本親鷲聖人全集七・観無 量寿経集註の四五頁)、親鴛が善導本来の文を見られていたことは明らかであ旬。 ま た 、

B

については親鷲は念仏弾圧をした朝廷を非難したり、また自己の信仰体験に基づいて経釈の読(訓)み 替えや独自の釈顕をなされているので、

B

が 理 由 と は 考 え が た い 。 最 後 に 、 C については﹁下至十声聞等に及ぶまで﹂とある﹁聞﹂が親鷲にとって極めて重要であったとされ、 C 説 を 主 張 さ れ て い る 。 拙者も

C

説を穏当と考えるが、では﹃教行信証﹄における﹃往生礼讃﹄・﹃集諸経札機儀﹄引用全体に

E

っ て 、 こ の傾向は一貫しているのであろうか。

﹃教行信証﹄と﹃往生礼讃﹄・﹃集諸経札機儀﹄引用 さて、﹃教行信証﹄における﹃往生礼讃﹄の引用は、﹁行巻 L には大行釈に善導大師の文として五文、行一念釈に 一文、智昇師の﹃集諸経札機儀﹄として一文が引用され、合計七文が引用されている。また、ー信巻﹂には大信釈 に﹃集諸経札機儀﹄の文として一文が、真仏弟子釈に二文、合計三文が引用されている。また、寸化身土巻﹂には 三経隠顕釈に二文、真門釈に三文の合計五文が引用されている。 では、これらは﹃往生礼讃﹄からの直接の引用であろうか。それとも、﹃集諸経札機儀﹄(以下﹃札機儀﹄と略称 する)よりの引用であろうか。ここでは、訓点比較よりも、﹃集諸経札機儀﹄(宋・元・明版)と﹃浄土真宗聖典七 祖篇﹄や親鷲加点本﹃往生礼讃﹄等の﹃往生礼讃﹄との文字の異同に重点をおいて比較検討する。 まず、﹁行巻﹂より順次に確認しておこう。最初の﹃往生礼讃﹄の引文は大行釈にて﹃安楽集﹄の引用文に続い ての引用で、連続した五文である。この五文の引文の最後には、 - 54一 龍谷大学論集

(19)

智昇法師の﹃集諸経札機儀﹄の下巻は善導和尚の﹃礼讃﹄なり。これによる。 (真聖全ニ・二一頁、註釈版聖典一六八頁) と、親鷲は註記されていることから、これらの五文は﹁光明寺和尚云﹂との引文導入語から始まり、善導の言葉と して扱いながら、実際は﹃集諸経札機儀﹄より孫引きされたものだと示される。では、それらを確認してみよう。 先ず、第①引文は、﹃往生礼讃﹄前序に一行三昧を明かせる部分からの一文である。この中で、一仏を称せしむ るに、なんのゆえに境現ずるという質問の答えの部分に相違がある。すなわち、本来﹃往生礼讃﹄では、 また﹃観経﹄にのたまふがごとし。似、坐観・礼念等、みな面を西方に向かふるを須ゐるは最勝なりと勧めた ま ふ 。 ( 傍 線 筆 者 以 下 同 じ 、 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 五 八 頁 ) とある部分が、﹁行巻﹂引用では、 また﹃観経﹄にいふがごとし。勧めて坐観礼念等を行ぜしむ。みなすべからく面を西方に向かふは最勝なるべ (真聖全二・一九頁、註釈版聖典・一六四頁) となっている。漢文では﹁又如観経云似勧坐観礼念等﹂が寸又知観経云伺勧坐観礼念等﹂となっている。加点本で は前者であるが、﹃札機儀﹄(大正四七・四六七貰

a )

では後者である。よってまさに﹃札機儀﹄より孫引きされて い る 。 し また続いて、﹃往生礼讃﹄では、 諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し収むるに因縁なきにあらず。 (註釈版聖典七祖篇・六五九頁) とある部分も、﹁行巻﹂引文では、 諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し取むるに因縁なきにあらず。 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼機儀J(武田) F h u F h υ

(20)

(真聖全二・一九頁、註釈版聖典・一六五頁) と、寸収﹂の字が﹁取﹂の字になっている。こちらも加点本は前者で同じであるが、﹃札機儀﹄では﹁抜 L と な っ て い る 。 ﹁ 収 L も﹁取 L も﹁抜﹂も似通っている文字の形なので、判断が難しいが、少なくとも﹃往生礼讃﹄とは違 う文字とされている点から、一連の一文を﹃札機儀﹄より引用された可能性が高い。 続いて第②文(真聖全二・二

O

頁)であるが、これは日没讃の十二光名を示す部分でああるが、ここには異なる 点 は な い 。 第③文(真聖全二・ニ

O

頁)は、日没讃の偶文三文が﹁乃至﹂もなく続けて一文とされている。ここにも異なる 点 は な い 。 第④文(向上)は、﹃往生礼讃﹄後述の文である。ここでは、本来﹃往生礼讃﹄では、 現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に論みて、苦つぶさにいふべからず。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 七

O

1

七 一

O

頁 ) と あ る 部 分 が 、 ﹁ 行 巻 L 引文では 現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。 ( 真 聖 全 二 ・ 二

O

頁、註釈版聖典・一六六頁) と、﹁論﹂の字が﹁輪廻﹂の字になっている。こちらも加点本は前者で同じであるが、﹃札機儀﹄(大正四七・四七 四 頁 b ) では後者である。するとここも﹃札機儀﹄より孫引きされている。 続くて、第⑤文(同上)は、同じく﹃往生礼讃﹄後述の文である。ここでも本来﹃往生礼讃﹄では、 もし衆生ありて阿弥陀仏を称念すること、もしは七日および一日、下十声乃至一声、一念等に至るまで、かな ら ず 往 生 を 得 。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 七 一 一 一 頁 ) - 56一 龍谷大学論集

(21)

と あ る 部 分 が 、 ﹁ 行 巻 ﹂ 引 文 で は 、 もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かな ら ず 往 生 を 得 と 。 ( 真 聖 全 二 ・ 二 一 頁 、 註 釈 版 聖 典 一 六 八 頁 ) と、﹁下至十声乃至一声一今住守﹂が﹁下至一声乃至十声一念等﹂になっている。こちらも加点本は前者で同じであ る が 、 ﹃ 札 機 儀 ﹄ ( 大 正 四 七 ・ 四 七 四 頁 C) では後者である。するとここも﹃札機儀﹄より孫引きされている。 以上、これらの五文は親鷺が註記されたように﹃札機儀﹄より孫引きされた善導の文といえる。では、続いての 文 は ど う で あ ろ う 。 第⑥文は、行一念釈に引用されている。往相回向の行信に行に一念ありとし、﹁称名の偏数について選択易行の 至極を顕開す﹂(真聖全二・三四頁)という解釈に続く部分である。法としての行一念は選択易行の行であり(法 体)であり、機としての行一念は信心を具したものである(称名)。 ま た ﹁ 一 声 一 念 ﹂ ( 礼 讃 ) ( 真 聖 全 二 ・ 三 四 頁 、 註 釈 版 聖 典 一 八 八 頁 ) という部分である。光明寺の和尚の言葉として﹁云﹂と述べて続く一節である。﹃往生礼讃﹄において寸一声一念﹂ とあるのは、先の第⑤文の箇所のみである。しかも﹃札機儀﹄では﹁十声一念 L となっていたのであるから、こち らは明らかに﹃往生礼讃﹄からの直接の引用といえる。﹃札機儀﹄には、他の箇所にもない。よって、引文をする 箇所で、直接﹃往生礼讃﹄から引用する場合と﹃礼讃儀﹄から引用する場合があることが分かる。 続いて行一念釈引文である第⑦文は、明らかに智昇師﹃札機儀﹄と明示した上で、﹃往生礼讃﹄の前序の深心釈 部分を引用している。とこでは、本来の﹃往生礼讃﹄では、 自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願 は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至る 本典引用の『往生礼讃』と r集諸経干し餓儀J(武田) - 57一

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ま で 疑 心 あ る こ と な し 。 と あ る が 、 寸 行 巻 ﹂ 引 用 で は 、 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願 は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑 心 あ る こ と な し 。 ( 真 聖 全 二 ・ 三 四 頁 、 註 釈 版 聖 典 一 八 八 頁 ) となっており、寸下十声一声等﹂が﹁下至十声聞等﹂となっている。ここで、親鷲は寸聞﹂の義を示すために﹃札 機儀﹄(大正四七・四六六頁

b

)

から引用されたといわれている。 次に寸信巻﹂引文を確認しよう。第⑧文として、先ず大信釈に一連の善導大師の引文の最後に、﹃札機儀﹄引用 と断ったうえで﹃往生礼讃﹄の先の第⑦文と同じ文を引用している。ところで、﹁信巻﹂引文の全文は、 二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転し て火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称するとと下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生 を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。{乃至}それかの弥 陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べしと。 ( 註 釈 版 聖 典 七 祖 篇 ・ 六 五 四 頁 ) - 58一 龍谷大学論集 { 抄 出 } ( 真 聖 全 二 ・ 五 八 頁 、 註 釈 版 聖 典 ・ 二 二 八 頁 ) とある。﹃往生礼讃﹄と違う点は先と同じく寸下十声一声等﹂が﹁下至十声聞等﹂となっている点。寸乃至﹂以降の 引文(初夜讃)部分の﹁一念 L が、﹃札機儀﹄と同じく﹁一心 L となっている点である。これらによると、親鷲は 明らかに聞信と一心信心の関係の言葉が必要で、﹃札機儀﹄より引用されたことがわかる。 続いて真仏弟子釈引用の二文であるが、第⑨文は有名な次の文である。 仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもっとも難しとす。

(23)

みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する、まこと に 仏 思 を 報 ず る に な る 。 ( 真 聖 全 二 ・ 七 七 頁 、 註 釈 版 聖 典 ・ 二 六

01

二 六 一 頁 ) と、この文は後の﹁化身土巻﹂に同文が引用されるが、そこでは﹃礼讃儀﹄からの引用と註記(真聖全二・二ハ五 頁)されている。ここでは註記がないものの、﹃札機儀﹄からの引用と考えられる。本来﹃往生礼讃﹄(初夜讃)で、 ﹁大悲をもって伝えてあまねく化するは、まことに仏思を報ずるになる。﹂(註釈版聖典七祖篇・六七六頁)と寸大 悲伝普化 L とある部分が﹃札機儀﹄では寸大悲弘くあまねく化する﹂と﹁大悲弘普化 L ( 大正四七・四六九頁 b ) の語となっているからである。 連 続 す る 第 ⑩ 文 は 、 弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る。まさに知 るべし、本願もっとも強しとす。十方の知来、舌を静べて証したまふ。もつばら名号を称して西方に至る。か の華台に到って妙法を聞く。十地の願行、自然に彰る。(真聖全二・七七頁、註釈版聖典・二六一頁) であるが、こちらも﹃往生礼讃﹄(日中讃)では﹁到彼華開聞妙法﹂と﹁かしこに到り華開けて妙法をきけば﹂(註 釈版聖典七祖篇・七

O

二頁)とあるが、﹃札機儀﹄では﹁到彼華憂聞妙法﹂(大正四七・四七三頁

a )

であり、真仏 弟子釈の引用と同じである。よって真仏弟子釈引文二文は註記はないが﹃札機儀﹄より孫引きされていることとな る 。 最後に、﹁化身土巻﹂の三経隠顕釈に二文、真門釈に三文の合計五文を確認しておこう。第⑪文は、﹃往生礼讃﹄ 前序の文が三文続けられている。 またいはく、﹁﹃観経﹄の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三っとする。一つには 至誠心。:::三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼機儀J(武田) n w u r n u

(24)

と名づく O i -また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。:・ (真聖全二・一五一頁、註釈版聖典・三八八

1

三 八 九 頁 ) と、﹃往生礼讃﹄と﹃札機儀﹄の異なる点はない。 連続する第⑫文は、﹃往生礼讃﹄前序の文と日中讃の広慨の文が続けられている。 またいはく寸もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。 :・上・中・下なり。上品の憤悔とは、身の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出すをば上品の憤悔と 名づく。中品の憤悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の流るるをば中品の慨悔と名づく。下 品の慨悔とは、遍身徹り熱く、眼のうちより涙出づるをぱ下品の憤悔と名づく。これらの三品、差別ありとい へども、これ久しく解脱分の善根を種ゑたる人なり。今生に法を敬ひ、人を重くし、身命を惜しまず、乃至小 罪ももし慨すれば、すなはちょく心髄に徹りて、よくかくのごとく慨すれば、久近を問はず、所有の重障みな たちまちに滅尽せしむることを致す。もしかくのごとくせざれば、たとひ日夜十二時、急に走むれども、つひ にこれ益なし。差うてなさざるものは知んぬべし。流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく真心徹到す るものは、すなはち上と同じ L と。{以上}(真聖全二・一五二頁、註釈版聖典・三八九

1

三 九

O

頁 ) と、この部分の﹃往生礼讃﹄と﹃礼讃儀﹄は同じ文であるが、親鴛の引用ではどちらにも見られない相違点が三箇 所ほど後半の広織の部分に確認できる。一つには、﹁能徹心徹髄﹂とあるべき部分が﹁能徹心髄﹂と、﹁徹 L の 文 字 が抜けている。二つには、寸日夜十二時急走衆是﹂とあるべき部分が﹁日夜十二時急走終是 L と 、 ﹁ 衆 ﹂ が ﹁ 終 L と なっている。三つには、﹁若不作者応知 L とあるべき部分が﹁差不作者応知 L と 、 ﹁ 若 ﹂ が 寸 差 L なっている。これ らが書写間違いなのか、意図的なものであるのは不明であるが、大きな意味の変更はないと考えられる。 最後に真門釈の三文であるが、先ず第⑬文は、坂東本には﹁智昇師の﹃札機儀﹄の文にいはく、光明寺の﹃礼 60ー 龍谷大学論集

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讃﹄なり﹂と頭註がある。乙の﹃往生礼讃﹄引文は前序の文で、 引利引制司到、みづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして朝倒、異あり。ただ意をもっぱらにしてな さしむれば、十はすなはち十ながら生ず。維を修するは至心ならざれば、千がなかに一もなし﹂と。{以上} (真聖全二・二ハ一頁、註釈版聖典・四

O

五 頁 ) とあるが、官頭﹁爾比日自見聞﹂は、﹃往生礼讃﹄では﹁余比日自見聞﹂であるが、﹃札機儀﹄では﹁爾。比自見 聞﹂(大正四七・四六七頁

a )

となっている。親鷺引用では寸余﹂が寸爾﹂に変更している。しかしながら、﹃札機 儀﹄は逆に﹁日﹂の字がないので、もし頭註のように﹃札機儀﹄よりの引用とすると、ここは両方を混合した形に なっている。また、親鴛は﹃礼讃﹄﹃札機儀﹄とも﹁専雑﹂とあるべきところを﹁専修﹂とされている。ここでは 真門釈なので、敢えて寸専修﹂とされたと考えられる。 続いての引文は、第⑭文となるが、これは第⑨文で指摘した同文である。ここでは同じく坂東本では頭註に﹁弘 の字、智昇法師の﹃憤儀﹄の文なり﹂(真聖全二・一六五頁、註釈版聖典・四一一頁)として寸大悲弘くあまねく 化するは、まことに仏恩を報ずるになる﹂と引文される。 最後の第⑮文は、御自釈中に引文された形で、﹃往生礼讃﹄前序の文が引用され、 まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師は、﹁かの仏恩を念報することなし。 業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識 に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに﹂といへり。 (真聖全二・一六五頁、註釈版聖典・四一二頁) と、﹃往生礼讃﹄(註釈版聖典七祖篇・六六

O

頁)と﹃札機儀﹄(大正四七・四六七頁

a )

には違いはないのである が、この御自釈中引文では漢文の語句が﹁心生軽慢雄作業行﹂(心に軽慢を生じて業行をなすといへども)が、﹁雄 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経札機儀J(武田) - 61一

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作業行心生軽慢﹂(業行をなすといへども心に軽慢を生ず。)と、語句の前後が入れ替わっている。 結 ぴ 以上、﹃教行信証﹄におげる﹃往生礼讃﹄と﹃集諸経札機儀﹄の引用を比較検討してきた。両文あわせて十五文 が引用されるのであるが、そこには次のような特徴がみられた。 ー、引文導入語から善導引文とし、直接﹃往生礼讃﹄から引用した例。⑥・⑪ 2 、引文導入語から善導引文としながら、実際には教義的特徴を出すために﹃札機儀﹄より引用された例。① ー⑤・⑨・⑩・⑬・⑭ 3 、引文導入語から智昇﹃札機儀﹄として、﹃礼讃儀﹄を引用して教義的特徴をだされた例。⑦・⑧ 4、引文導入語から善導引文とし、直接﹃往生礼讃﹄から引用したものの書写間違いか意図的な改変がある例。 ⑫・⑮ と、多数をしめるのは 2 の引文導入語から善導引文としながら、実際には教義的特徴を出すために﹃札機儀﹄を引 用したものである。乙の点は、紅楳英顕氏が指摘するように C の 傾 向 が 強 い 。 しかしながら、ここで注目したい点がある。それは、引文の⑤と⑥である。同一箇所で文字の異同がある場合に、 その引文での文章の流れで、臨機応変に﹃往生礼讃﹄と﹃札機儀﹄を使い分凶りしている点である。 きすれば、親鷲は﹃往生礼讃﹄と﹃札機儀﹄の文言が違う点を熟知した上で、時には善導引用文として両書を引 文し、時には智昇﹃札機儀﹄と定義して引文するという態度を示されており、単に、宗義を発揮するためというよ りは、文脈の流れの中で両書を使い分け、親鷲思想を明らかにしているといえる。 - 62ー 龍谷大学論集

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﹃ 実 悟 記 ﹄ 第 一

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五条(真聖全三、九二九頁)による。

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転経・行道は、善導当時は皇室の行事として行われた記録がある。貞観一一(六二八)年年七月には首都と天下諸州の 寺院で転経・行道したという。(﹃弁正論﹄巻四、﹃仏祖統紀﹄巻三九、貞観二年、同三年の条)

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佐藤成順﹃善導の宗教﹄(浄土選書担、浄土宗出版、平成十八年)一八三頁参照。以下、氏の論考による点が多い。

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在家信者も参加した法会で俗講という法会は行われていたようで、単なる経典の講義ではなく、法師が経典に音調を つげ読請し解説し、順序、式次第をもっ講経儀式である。節を付けて因縁話を物語る唱導や焚唄を伴っており、その起 源は東晋時代に遡るという。(福井文雅﹃漢字文化圏の座標﹄一六一一

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一六九頁、一九三

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一九四頁、明徳出版社、二

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二 年 。 ) 同鎌倉時代の滞土宗の良忠(一一九九

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一二八七)の註釈書﹃法事讃私記﹄(浄全四巻所収)が研究の基本書ともいわ れ る 。 刷寂如上人(十四代宗主)のとき、この﹃往生礼讃﹄を報思講などの年中行儀に用いられるようになり現在に至ってい る。現行の﹃往生礼讃﹄は、昭和八年の声明改正の際に、﹃般舟讃﹄を加えて改制されたものである。 的以下の、概説は主に、松陰了諦﹃往生礼讃﹄(﹃聖典講讃全集﹄第七巻、小山書店、昭和十年)による。

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春秋二季の彼岸の中日には太陽が正しく東から出て西に没すると考えているので、この時分に日想観を行じて、日の 没する西方こそ理想世界のありかを直視することを思うて、いよいよ願生の信何を深めることができるからである。 倒﹃観仏三昧海経﹄第九、﹃十住毘婆沙論﹄第五、﹃摩詞止観﹄第七に詳しく述べてある。

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彦珠作海土礼讃対照表 海 土 浄土 19 32 19 11 32 1 1 1 1 1 2 2 2 2 2 3 3 3 4 4 5 4 4 5 4 6 6 5 7 8 6 7 6 8 10 8 8 11 9 9 7 10 9 7 10 11 11 9 11 8 12 12 10 12 9 13 3 3 13 14 7 5 14 15 5 18 15 16 6 19 16 17 17 18 13 11 18 19 14 12 19 20 20 21 21 22 22 23 15 13 23 24 24 25 25 26 26 27 16 14 27 28 19 17 28 29 17 15 29 10 30 18 16 30 31 31 32 32 本典引用の r往生礼讃』と r集諸経礼儀儀~ (武田) - 63一

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※一覧表は本学大学院修士課程の山崎真純君の作表による。彦稼作﹃浄土礼讃﹄引用を組めたものである。彦稼作﹃浄 土礼讃﹄は彦諜の書物には現存していないため、他本の引用箇所によるしかない。﹃正倉院本浄土詩﹄とは、正倉院所 蔵﹃聖武天皇度翰雑集﹄所収の寸惰大業主浄土詩﹂。惰大業主とは、国号惰の大帝である爆帝のことであるため、元来 場帝の作と考えられたが、岩井大慈氏の研究によりこれは彦諜作のものであることが判明した。善導集往生礼讃は、善 導著作﹃往生礼讃﹄のことである。巻頭に﹁善導集記 L とされているため、善導集往生礼讃としてある。これは、﹃真 宗聖教全書﹄一(一ニ経七祖部)所収のものを参考にした。集諸経礼儀儀所収とは、智昇著作の﹃集諸経札機儀﹄に所収 されているものを意味する。﹃集諸経礼儀儀﹄巻下には、後述のように善導﹃往生礼讃﹄が全文引用されている。即ち、 必然的に彦諜作﹃浄土礼讃﹄も孫引きで引用されている。﹃浄土五会念仏語経観行儀﹄と﹃浄土五会念仏法事儀讃﹄は どちらも、法照の著作である。従来より、﹃浄土五会念仏語経観行儀﹄は広本、﹃浄土五会念仏法事儀讃﹄は略本とされ る。諸本の比較により以下の特徴が指摘できる。 ①正倉院蔵の﹁階大業主浄土詩﹂と法照著の﹃浄土五会念仏語経観行儀﹄(広本)には全文が順番も同じ通りに載せら れ て い る 。 ②善導集記﹃往生礼讃﹄にあるものと智昇﹃集諸経札機儀﹄所収のものはどちらも十九偏引用されており、引用されて いる備はどちらも同じであるが、順番が多少異なる。智昇は﹃集諸経札機儀﹄巻下に善導の﹃往生礼讃﹄を全文に亘 り引用したにもかかわらず、順番が異なるのはどういう理由か。智昇の意図的の改作か、伝本にはそのようにあった の か 不 明 で あ る 。 ③法照著の﹃浄土五会念仏法事儀讃﹄(略本)には八偏引用されるが、順番を入れ換えて引用している。﹃浄土五会念仏 調経観行儀﹄(広本)にはそのまま順番通り引用されているので、検討の余地がある。

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三品の餓悔作法を修する相異によりて、三種の差別を見るのであるが、それは根機のったない凡夫の到底およぶもの ではない。では、何故にこれを礼讃の行者に対して、勧められたのであろう。松蔭了諦氏は、﹁聖道諸師の一般通軌に 従って明かされたもので、化他誘引の思し召し﹂(前述註釈書)と示される。

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﹃ 宋 高 僧 侍 ﹄ ( 大 正 五

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・ 七 三 三 頁 C) な ど に よ る 。 側唐の徳宗の貞元十六(八

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年、沙門円照が勅命によって編集した経典目録。﹃貞元録﹄ともいう。新定というの は開元年間に智昇による﹃開元録﹄があるため。 - 64一 龍谷大学論集

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智昇自身の著作に自らの著作が列記されるなど、智昇撰述に多少の疑問がある。この点の詳しくは、深浦正文寸経録 の 研 究 ﹂ ( ﹃ 龍 谷 学 報 ﹄ 三 一 一 一 一 号 ) な ど を 参 照 さ れ た い 。 今 は 真 偽 に つ い て は 論 究 し な い こ と と す る 。 尚 、 ﹃ 集 諸 経 札 機 儀 ﹄ 一 一 巻 を 智 昇 の 撰 述 と す る の は 、 ﹃ 貞 元 新 定 釈 教 目 録 ﹄ ( 大 正 五 五 ・ 八 七 九 頁 a ・ 一

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四 六 頁 a ) 、 ﹃ 諸 阿 闇 梨 県 言 密 教 部類線録﹄(大正五五・一一二五頁 b ) 、 ﹃ 東 域 侍 燈 目 録 ﹄ ( 大 正 五 五 ・ 一 一 四 五 頁 C) に も 確 認 で き る 。 回﹃大蔵経全解説大事典﹄(雄山閣出版、一九九八年)五八六頁、中西臨行の解説による。 側 紅 楳 英 顕 ﹁ ﹃ 一 教 窪 田 証 ﹄ に お け る ﹃ 往 生 礼 讃 ﹄ 引 用 文 に つ い て ﹂ ( 印 度 学 仏 教 学 研 究 大 四 十 七 巻 第 二 号 、 平 成 十 一 年 三 月 ) 的﹃底本親鷲聖人全集﹄第九巻(加点篇下)の解説によると、確定的な親鷺の加点本とはいえないが、塑人の校閲・ 訂正・加筆を得たものとされ、加点年次は聖人帰洛以後とされる。尚、存覚﹃集註﹄書写中の本文加点が、五部九巻の 聖人加点本を参照されたのではと指摘されている。 側親鷲八十七歳の時に、書写した仮名本﹃選択集﹄第八コニ心章﹂の﹃往生礼讃﹄引文の深心釈の文は、﹁下至十声一 声 等 ﹂ ( 親 鷺 聖 人 全 集 十 、 一

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九 頁 ) 。 八 十 四 歳 の 時 、 書 写 し た ﹃ 西 方 指 南 抄 ﹄ 巻 下 本 ( 十 八 ) 、 基 親 の 領 解 ( 真 聖 全 四 、 二 一

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頁)の﹃往生礼讃﹄の深心釈の文も同様である。よって、親矯は﹃集諸経札機儀﹄所収本﹃往生礼讃﹄が文言が 相違している点を知ったうえで﹃教行信証﹄引用したのは明らかである。 キーワード 往生礼讃、集諸経礼餓儀、教行信証 本典引用の『往生礼讃』と『集諸経礼機儀J(武田) - 65一

参照

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