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『宗教研究』日本宗教学会第3回大会紀要(*91号)

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(1)

――目次――

宗教学の部

宗教哲学の諸問題

1,

宗教的非合理性,久松真一,Shinichi HISAMATSU,pp.1-5.

2,

神秘主義と弁証法,特にシュライエルマッヘルの宗教論に関して,柴野恭堂,Kyōdō SHIBANO,pp.6-20.

3,

内在神と外在神,主観神と客観神,帆足理一郎,Riichiro HOASHI,pp.21-26.

4,

仏教々義の合理性についての一考察,稲葉文海,Bunkai INABA,pp.27-29.

5,

仏・祖の限界と飛躍,望月歓厚,Kankō MOCHIDSUKI,pp.30-35.

6,

仏教における宗教性について,岡邦俊,Kunitoshi OKA,pp.36-40.

7,

神学の独自性について,菅円吉,Enkichi KAN,pp.41-45.

8,

仏典研究の方法論的一考察,特に根本律蔵研究に留意して,尾崎数真,Kazuma OZAKI,pp.46-51.

9,

リッケルトの宗教哲学について,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.52-74.

宗教心理学の諸問題

10,

宗教的情操とその型,上野隆誠,Ryūzyō UENO,pp.75-77.

11,

高砂族の他界表象,及川真学,Shingaku OIKAWA,pp.78-82.

12,

児童の自然現象観と宗教意識の発達との関係,関寛之,Hiroyuki SEKI,pp.83-91.

13,

日本青少年の宗教的情操の発達と日曜学校の影響,神根悊生,Tesshō KAMINE,pp.92-102.

宗教社会学の諸問題

14,

インクイジションとその影響,金山龍重,Ryūzyū KANAYAMA,pp.103-108.

15,

荘園と宗教,圭室諦成,Taizyō TAMAMURO,pp.109-113.

16,

社会的態度としての宗教,村上俊雄,Toshio MURAKAMI,pp.114-119.

17,

仏教徒の経済生活について,西義雄,Yoshio NISHI,pp.120-126.

18,

宗派の対立性について,宇野円空,Enkū UNO,pp.127-131.

19,

国家組織の発展と神々の統一,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.132-137.

特殊問題

20,

「宗教」と「神秘主義」との限界付けの試み,浜田本悠,Honyū HAMADA,pp.139-141.

21,

伝道と運輸の線について,小松雄道,Yūdō KOMATSU,pp.142-145.

22,

宗教地理学の提唱,原始仏教を中心に,稲垣了俊,Ryōshun INAGAKI,pp.146-153.

23,

宗教々育の原理としての教育勅語,宮地潜,Sen MIYAJI,pp.154-158.

24,

ギイヨーの「未来の無宗教」について,吉水十果,Zyukka YOSHIMIZU,pp.159-162.

25,

独逸における民族主義と宗教,相原一郎介,Ichirōsuke AIHARA,pp.162-168.

26,

日本社会事業史上の神・仏・基三教,谷山恵林,Keirin TANIYAMA,pp.169-170.

宗教史の部

一般宗教史の諸問題

27,

古代におけるキリスト教と東洋諸宗教との争闘,佐野勝也,Katsuya SANO,pp.171-176.

28,

教団史における二つの時期,真野正順,Shōzyun MANO,pp.177-182.

29,

法華経寿量品の思想と新約ヨハネ伝の思想について,石田友治,Yūji ISHIDA,pp.182-202.

(2)

日本宗教史の諸問題

30,

「日本仏教史」考,花山信勝,Shinshō HANAYAMA,pp.203-208.

31,

法華正系思想の展開,天台より日蓮への展開とその内面的関聯,山川智応,Chiō

YAMAKAWA,pp.209-212.

32,

弘法大師の実相観,神林隆浄,Ryūzyō KANBAYASHI,pp.213-218.

33,

弘法大師と伝教大師の立場,上田天瑞,Tenzui UEDA,pp.219-224.

34,

鎌倉時代の弥勒信仰について,寺崎修一,Shūichi TERASAKI,pp.225-229.

35,

お筆先に現れたる刻限思想,上田嘉成,Yoshinari UEDA,pp.230-236.

36,

宮座の発達,豊田武,Takeshi TOYODA,pp.237-240.

37,

国語国民主義と宗教の本質,『明治天皇御集』の宗教シキシマノミチ,蓑田胸喜,Kyōki

MINODA,pp.241-245.

38,

日本宗教思想史における「ドチリィナ」の地位,飯田尭一,Gyōichi IIDA,pp.246-250.

39,

年中行事にあらはれた民間の宗教生活,杉浦健一,Kenichi SUGIURA,pp.251-254.

40,

梨木神社,黒住宗武,Munetake KUROZUMI,pp.255-256.

41,

岐阜県における神社の現状,主として西美濃地方,寺沢智了,Chiryō TERASAWA,pp.257-263.

42,

豆州来宮神社に関する宗教学的研究,加藤玄智,Genchi KATŌ,pp.264-268.

東洋宗教史の諸問題

43,

古ウパニシャッドに現はれた婆羅門族と王族との関係,山本快龍,Kairyū YAMAMOTO,pp.269-272.

44,

不二金剛のタトヴラトナーヴァリー,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.273-274.

45,

支那仏教史の区分について,布施浩岳,Hirotake FUSE,pp.275-279.

46,

十不二門における「一念」について,大久保海仁,Kaijin ŌKUBO,pp.280-284.

47,

「宝林伝」特に婆舎斯多につきて,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.285-288.

48,

巫堂における死神賽神,金孝敬,Hyokyon KIM,pp.289-295.

49,

イラン語族民衆と大乗仏教,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.296-309.

50,

大集月蔵経について,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.310-315.

51,

印度仏教建築私考,支提について,財部健次,Kenji TAKARABE,pp.316-318.

西洋宗教史の諸問題

52,

国民信仰復興としての英国19世紀基督教社会運動,小関紹夫,Tsuguo KOZEKI,pp.319-323.

53,

パウロの宗教信念の核心,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.324-332.

54,

イエス誕生年代について,桜井匡,Masashi SAKURAI,pp.333-338.

55,

タルムッドにおけるイエス観,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.339-340.

56,

日本宗教学会第3回大会記録,pp.341-350.

Posted in 1935

(昭和10)年

(3)

に 数 の本 と 質 つて で う あ な 考 る る が ・、 起 ノ っ ー て ゼ ま は ゐ 、 り 全 ま え く し 非 た こ 理 と 的 は 、 も 人 の 間 合なであ 性 作 ト の 自 の 覚 敢 に 験 へ 基 る づ く 人 間 ク、ことので 中 き 心 な 主 い 誌 も の の 近 で 世 貫 あ 思 即 つ 想 て、 領 ら 見 出 ま 精紳 すれ か ら ば 喚 ー 拘 只び発 茸な論墟をもつて接朗致してまゐhヱまして、現今の宗教螢界の中心問題であるかの如き勧を呈してまゐりました。宗 御承知の通少、近来、宗教は非合理的なも 宗教的非人‖理性

宗教的非合理性

のであるといふ 久 松 展 き ま し 一 、 か な り 碓

(4)

べ ま て、 叱 正 を 仰 ぎ た し い と 存 し皆様の御する次第で ど ざ い ま

す。

の で ど と

ざい せ う か 。 そ れ る に は

t

ま づ い ふ こ と で 可 あ 笥呵 る へ も が、 素 却 推 数 的 ろ 非 く 〈い 理 性 は 非 合 理 と い ふ や う な も こ と は申 す に 致 し 脚 ま し て も 、 人 間 ま 中 合心 す。 そ た の に 心 主 に 義 た 基 的 え 立 ぬ 場 と・ こ ろ 最 こ に 、 あ そ り 的 れ ま を す い

った考を持

って居り 射す威−の七、甚だ恐縮ではありまするが時間の都合もあhて王するから、生では只骨子のみを中速

(5)

く 宗教 教が 的法 進

やう オブ こ めた 則 も の み に 則 限 る ら す、 と ふ 道 徳 的 法 法 則 合 る 宗 も、 道 毒 と る 術 的 法 法 則 う。 も 塊 合 の 理 も の 的法 で 則 あ で り 鮎 あ ま る す と る 考 た へ ら ら ば、 れ う の て 。 そ 居 れ る は や 性 う 単 で に、 あ す り 道 ま 結 す る 法 的

。然

則 ら 、 ば、 ) も せ し 宗 人間のある一つの合理性が、他の合理性に封する関係に於て成立するのではなくして、、人間と人間にあらざる、重盗 でありまして、この封立が、取りもなほさす、合理的と非合理的との封立に 即ち、人間的には到達し得ないものであります。とこに於て、人間的と 宗教的非合理性 非人間的との臨ゆべからざる封立が生するの なるのであります。即ち、非合理性は、

(6)

れ が る 可 き で も あ の る の 間 が 少 量 れ せ う

能、到引

別封劉あ ク り ま す。 す 摺 記法 非 の 的 紳 単 著 はー ば ミ ス テ ィ ト ク 可 は 人 間 中 心 主 義 的 で あ る と 申 間 を 越 え た な る 人ものと て 人 の 、 封 立 に 於 て 成 立 す る も の と な つ て ま ゎ る の あ ゎ ま す。 ば で 而 し て、 す。 ヤ こ の 人 で聞に非ざるものが人 宗教的非合理性

(7)

れ ま せ ぬ。 の 立 少こ場は、近世の人間中心主義的 立 場 でも あ な く、 叉 、 性 御託法 的 紳 畢 の 立 場 で も な く れ して 等 の 立 、それ場

素数的非合理性

(8)

ノ質を基礎づくる方法的意義に す 隷 理 と う 曹 し の 発 陰性

q

の 雨 着 が 原てでも■なく、 ま れ 毒性 的

債値

有 ひ、 す ゆ る ま 意 た 味 其 に の 於 経 て 験 心 に 埋 撃 よ 法 と 掬刻佃醐組封dし− 宗教 的 懐 胎 の 契

∴ 機と し

て 哲 墜 的 重 要 主義

性 を 有

問 題 エ は ル † ル の

論 に 騙 層呵 して 呵ヨ で あ 挙 − る 前 者 は 教 の 本 紳秘主義と榊記法

於て神秘主義と名づけられ、之れによつて宗教の超文化的庖封性が論ぜられる。所謂認

(9)

あ も 文 の 化 と 憤 し 値 との 。 定 る 関 係 に る 於 感 る 用 法 だ 却 存 す る け使とを混同せる鮎にの で で は る あ る。 表 様 ( 併 、 ぎー賢 の 後 に 穿 替る へ 諭す も 閃) る て 如 其 く 内 彼 直 容 の 観 が 意 に 全 固

、乱し然

あ が 属 偶 寧 する 然 り の す な に へ で る 在 紳秘主義と清澄法 七

(10)

る に 過 神 す 秘 主 鶉 と 掃 記法 シーライエルマッヘルは彼の所謂感情が誤解せられんことを顧慮して度々解明を試み、感情の代りに﹁宇宙の直観﹂ といふ語を用ひ、直敬なき感情も感情なき直翫も共に基虚であると鳥し、﹁世界に於ける札ゆる出来事を紳の研兼と して表象するのが宗教である。是は夫等の出茶事の無限なる金牌︵6昌d巳OF歪¢岩窟ユに封する関係皇己ひ衣はす のである。併し此の紳の布衣に閥して、世界以前また世界の外に詮索を馬すことは、形而上畢に於てはよき必要なる 何 ととであらうがー宗教に在っては基虚な翻話妄るに過ぎないでもあらう。﹂といひ、また﹁直観笛に或る個別的な るもの、孤立的なるもの、直接なる知覚以外の何物でもない。⋮⋮宗教は宇宙の存在と作用の直接経験に依少、個々

の直貌と感情にょりて成立する。︵﹂と述べて居る。 賃k彼の感幣とは﹁無限なるもの﹂または絶封的なる紳の直接なる意識岱鹸に名づけ、直観とはその偲翰内容を文 化慣櫨との関聯の上より見たるものに外ならない。かくて此虞に到れば、往還して彼藍環る感情によつて宗教を 理解せんとせし者として批評するが如きは甚だしい僻見といふべく、吾人は却って彼が正常計る意味に於て宗教を把 撞せし神秘主義者の位置に列せらるべきであゎ、しかも備ほ其の畢的識見の偉大さに於ては、確かに中世紀の紳秘蒙 以上に教ふる虚あることを、その近代的なる廉史観について窺知することが出奔る。是れは後の論述を供って明かに せんとする所である。 、ヘーゲルが感情を諭するに督って㌔思情︵H旦に粛らさるべきであ少−従って意鼓の内奥に在って自然的意 志並びに自然的意志等を止揚せる拝所︵ロ卦t︶の主観、或は自由なる主親性たる此の心情に於て、個性が形成せらる /ヽ

(11)

る領域に宗教が見出されねばならぬ。而して心情は吾人の行為及び活動の普遍的なる仕方であゎ、有ゆる展なる感情

内容ゐ源泉・根基・是認根接即ち虞理が永速的に個人的所有となる形式であると見て居るのであるが、是は恰かもシ

のでなけれぼならぬ。但し其は考へらるべきもの、従って共概念を作り其れに関して語り論じ得るものでなければな ▼

り のやある。︵

早や結質して居る織麗なる花が蓉芽し開華して青井を造るが如くでなければならぬと言へる断と遷座なきことを知る

ュライエルマツヘルが、直駁及び感情が吾人の璽性または心の内部から昂まり出でて、かの掩ひ包まれたる管の申に

然るに、ヘーゲルは主知主義的形而上畢或は形而上畢的宗教観を有したるが故に、宗教を速に知的表象作用︵概念︶

忙まで止揚して宗教の礪立性を否認するの結果となれるに反して、シュライエルマツヘルは宗教を正しく理解せんが

負に宗教そのもの1立場を息賓に無邪気に認容して、益々その本質的虞理性を蓉挿するに到つたのである。走れ彼が

骨に理想主義の哲単著として積極的宗教を基礎づけんとせしが禿ではなく、寧ろ崇高なる宗教家否な偉大なる宗教慣

扱者として所謂エロイジス︵日①宏iエの神秘に参じたるが鳥である。

彼が﹁宗教の本質は思惟でもなく行為でもなくして直観と感棺とである。茸に人間の心の内に来り得べき特有のも

らぬ。︵﹂と語る言渡には極めて含蓄探きものがあるのである。かくて抱封依願感情とは宗教的柁翰と同義語であり

カルダインも言へる如く宗教の一部分を成すに非すして宗教そのものであると言はねばならぬのである。

シュライエルマツヘルは共著﹁宗教論﹂の琴一講努頭に於て、シモミデスの故事に倣って、宗教を語るよりも寧ろ

沈獣を守らんとする態度を扱適して悟る。何が故に期′\あらねばならぬのであらうか。吾人は其鹿に彼が以後宗教の 沖秘主轟と粁芯法 九

(12)

紳秘主義と舞㌍法 一〇 本質に就いて終々として論述せしにも拘らず、繹迦の四十九年一字不詮といひ、また推摩敢然たると全く符節を合す 同じ寓意の存することを知るのである。即ち共虚には二様の意味が伏在して居る。第一に絶封的賓在の虞相が不可言 ヽヽヽヽヽヽヽ 詮であること。その散りに普遍的にまた絶大にして、現賛の何物を以てしても到底壷し得ざること。たゞ紳となれる ●● 者のみ之れを見または知るのである。か1る知見をグノーナイ ︵さぎミ冒。W監g①。fpj骨︷胃旦 と言って んり ● ● エイデナイ ︵h㌫等虐因nO乳乳g①Ofdi註n註呂︶ と院別することが出来るい前者は絶封著そのもの1知見を云ひ 後者は吾人通常の相封的知級を云ふのである。転封者に封しては吾人の知識は盲目である。また従って口を閉づる︵ 亙ざ︶ ことを飴儀なくせられる。宗教的封象が超文化的茸在たる所以が故に基づくのである。而して宗教的偲験 に於て紳を見ること、香な紳と合一することに依って紳の知見を開き得るとするものが紳秘主義に外ならぬが故に、 神秘主義こそ峰宗教の玄極を究明し崇高なる知見に生くるものと云はなければならぬ。シュライエルマッヘルの感情 は斯くの如き知見を意味するのである。 次に第二の寓意といふのは、第一の場合即ち宗教的封象の超文化的絶封貢在的知見の反省的知見、換言すれば象徴 的認諭の謂である。シュライエルマ,ヘルの直叔は是れに相嘗するのである。斯の如き直軌は反省的知見であるとし ても、央張わ紳の知見に外ならぬが故に、通常の知諭の立場に於ては不可能である。紳と合一の直接経験を離れては 存しない。たゞ紳の象徴的表現の立場に在る直貌のみ之れを語り得るのである。発きに引用せるシュライエルマツヘ ルの言葉に﹁但し其は考へらるべきヽの、従って概念を作り其れに関して語り論じ得るものでなければなら聖と言 ● ヽ へるは、か1る意味に於てでなければならぬ。是れ鵜て宗教的なる府澄法が展開せらる1地盤に相督するのである。

(13)

と 主 以 卒 に 上 は する に沈献 も く に於 っ ける て

人は熟

中 語 第 ( ヘル は、 とい 最 つ 初 の も に ぐるの が、し 別して が為に 普遍的 るもの ︵F亀 企固 引用 れる み、 る紳 て行 け マ し な 蟄即 と アツ 意 吾 「 人の 語り得 定 な 義 世 と 車 紳 れ、 と い ら 或は ふ 「軸 接 内 一 秘 主 せ またイ 義的 義 し で は あ 直現 ング る る 封 な 永 遠 に に 封 よ 宗教 し つ 画秘 て て の 紳 忙 「詮 紳秘主義と#記法

(14)

lニ 岬秘主義と#詮法 ■的統一にょつて充全となるのであるから、一般的に論する場合には、紳秘主義の名によつて雨着里持して其意轟

電撃れるのであ㌔

、、 ヽヽ ヽヽ 享、紳の知見姦苧晶ち﹁雪見る﹂ことは﹁紳となる﹂︳によつて可能である。従って﹁誓知る﹂。 、、、 ヽヽ とは﹁紳と見る﹂ことに由来するのであつて、﹁知って見る﹂のではなく﹁見て知る﹂のである。﹁然るに﹁紳にたる﹂ ヽヽヽ ととは如何にして可能であるか。それは﹁紳忙見られる﹂即ち﹁紳がなる﹂ことにょつてでなければならぬ。何とな ヽヽヽ れば、庇忙音量なる組織組封の箕在になるの邁は、屯超絶封なる紳自身に於てのみ有り得る。故に﹁耐になる﹂ ヽヽヽヽヽ、、、、、、 亡とは却らて﹁前になられる﹂のでたければならぬ。鼓に於て﹁紳になる﹂こと即ち﹁紳が見る﹂ことよりして必然 ヽヽヽ、、、、、、、−、、、、、、、、 的忙﹁紳t見皐﹂即ち﹁紳がなる﹂ことが締結せらるゝと同席に、﹁紳を見て知る﹂ことが却って﹁紳が知って見る﹂ ヽ モと忙壬づけらる1のである。︵吾人はこれを或は信・行・琵の開係にょつて諭することが出来るであらう。︶是れ吾 人ポ﹁紳の知見と粥く﹂ことが狭義の又厳密なる意味に於て紳秘主我の特質と見倣さんとする研であつて、また之れ に餞つ七縛秘義と招村法との闊係が必然的意義を有することが明かにせられ得ると息ふのである。而←て此鹿に到 れ打、・洗書に於けも第三の義ii兵転k﹁詮いて説かす﹂または﹁語って語り得ない﹂と首へることが、更に重た﹂ ︳いても♯盲す、語つても知わ特なとといふ意味があることと知るのである。かくの如くして、紳と人との関係忙 ︳ 蛛■■的忙l‡雀的忙も循環的泣理が存するのであるが、其の直凄忙して端的なるせ験こそ宗教転外ならない。 〓

(15)

前項の所論と以てすれば、紳秘重義の目的は紳との合一であゎ、而して之が達成せらるゝ烏には紳が音人鱒於て‡

親せ♭れなければなら札のであつた。通常これが可能なるべさ遭は、穐上よ少天圃への梯子としての紳秘逆︵声○ り

、、、

曹司首︶と以て隋られる。︵然しながら、それ専の考へ方は﹁醐になる﹂ことの根城とし七、それ以前に眈に﹁ ︳ヽヽ ﹁紳がなる﹂ことの絶封必然性と看過するものである。而して此のことは、やがて宗教的封象のね文化的艇封的‡在

性と唇ふ結垂となるであらう。

ゲインデルバントの﹁紳変﹂にしても、サ.’ケルトの﹁非人格的蟄﹂にしても、未だ主動と封象との封立を勉えて ヽヽヽヽ 盾ないと考へらる1所以は、﹁紳がなる﹂ことの重要意義を閑却せし結果と冒はなければならぬ。故に宗教的懐胎の意

味内容は、逆改的ではあるが、寧ろ﹁紳がなる﹂ことであると為すべ幸であゎ、然かも斯くの如くにして現はれたる

紳は主客封立以前の転封箕在の紳︵無税定、無形相の蒙撒︵晋邑鼻骨巨g。︶として直接に輿へらるるのである。従 って主客の封立を癒したる暢験内容としては、紳は甥巨in畠○ と官はるべきであらう。而トて其が絶封者の象徴た ●● る意味に於て現‡を超越し、現箕的存在に非ざるが故にまた無と解せられねばならぬ。無に於てのみ﹁紳になる﹂の

である。如何なる道徳的善も如何なる野草的屈も天国への造を準備するものではない。シセロは正鎮や博愛を行ふと

も無界ではなく、人の最大の罪はその生れたといふ事にあると紆つたと侍へらるる如く、罪は凰なる尿慣値としてQ

・惑に非すして、﹁滅ぶべきもの﹂﹁有り得べからざるもの﹂の存轟、従って無に膵せらるべきことの一般的意義と特殊

なる自己の生存上に謎むることである。か1る非貰在の香定が宗教的無である。唯だ純一なる無が即ち紳である。シ

▲ライエルマツヘルの転封俵鳥感情が斯くの如き無の意敵、ナベての粕封性を香定せる、而して紳の転封的箕在のみ

神秘主義と群躍法

(16)

が肯定せられたる懐験であることは、次の引用に依つても明らかである。 ﹁世外耕紳が音人に荘最に現はれたる時1其作用をかくも大きく考へられたる立沢な法則にょつて窺ひ知れる時、永遠なるものに して見えぎるものに対する衷心からなる長歌に感動せらるること程自然なこてがあらうか。而して奇人が宇宙を衝動し、其良上, ● 如何に自我が宇宙との比較に於て無限小の内に滑え失せるかを敲る時、艮の自然なる従順より以上に人間に叡然たるものが有り得 り るか﹂ロ 転封低廉感情が自然のありの健を如茸に知る、香な、従って自然を自然たらしむる所以の範封との一致を意味する 呵 ● とせばーウオバー、ミンの批評にも拘らず吾人は十分の理由を以てシ⋮イエルマツヘルを承認することが出来る。く 彼は﹁個々のものを観べて全橙の部分として、制限せられたもののすべてを無限者の表現として受取るのが宗教であ ︶ る﹂卯と言って居るが、斯の如き宗教的直哉に於ては、どこ迄も人間性のすべて及び有ゆる文化即ち宇宙を親猿して 無と為さねばならぬ。所謂﹁心念を離れて扇の境界の相を絶する﹂底に於てのみT有りの健﹂が肯定せらる1ので ある。宗教の立場は無の範封を契横とする貰在論である。かゝる賓在論は常に高次的統一への生命的飛躍に於て成立 ︶ するが故匹鍔記法的と解せられる。印 シュライエルマツヘルが﹁愛の知見﹂と呼び、此の知見に依って働く鮭史的生命を﹁人﹂︵岩芦む註F乱t︶と名づけ 居る祈のものは、相封差別の世界に在って常に亀封への飛躍または向上を含める耕澄的帝劾と意味するのである。﹁私 ● 紳秘主義と締羅法

(17)

●● 見れば、彼遠か忙﹁宗教と密盤古結合して放されなとところの人を顎見したのである。彼によれば、人は本来の

最愛の故郷の存するところ、最も内的誉生命が始まゎ、有ゆる努力と行馬との目的が有るところ、人間忙警て本

来の富または紳性である。個々り人間が此の菖牒る時は、何物量があるが偉の位掛に於て冨㌃会

憬の大なる膝史室に属する契横として栗しむことが出来る。故に、﹁宗教比自由その湯.が既に再び自然となつた鹿

に生きて居る。鱒﹂と言ふのである。

宗教は道徳の如く白主的なものでなくー神秘的直朝に去て全然受数的に無となり、然る後始めて生の改革的進展

● によつて宇宙と人間との関係が親密になるのであるO﹁人といふ永遠の車輪が廻侍する﹂ところ宇宙の有ゆる出来事 は人と交互に作用して神聖なる音楽を奏でる。紳を見る時共虎に紳の柴を知り之れ竃力するのである。人には過現 ● ● 束の三際が自由に委任せらる1ニこと1なる。此の意味に於て、人はまた﹁知ること﹂が﹁行ふこと﹂と嘉する壷・ i 已慧訂︶である。P故に坐臥行住がすべて紳の審知と一致せる即ち虞の自由として﹁火叢生連絡・不壇﹂と.いふ状態 ▲4一

忙達する。斯かる自由人の時間の歩みが名作造作の上に紡がれて行く時は﹁随靡名主﹂である。

現貰の生滅流轄が象徴として眺めらる1時、事象のすべては永遠である。直観に於ては各々か統品なる公憤であ る。而して特筆と不轡の両者を含む立場が最も具牌的なる竺である。其は締約貰奄の全櫻性に於て見らる1からで ● ある。人の立場はか主具壌的統一として理解せられなげればたらぬ。此腱が人間を否定し紳をも否定して始めて到

達し得る宗教の最後の世界、即ち否定の香淀を止揚する論理に生くる宗教彊澄渡が成立する立場である。勿論之れは

ヘーゲルが合理的理性又は精紳の蟄展と考へたるディアレクティークと同一鋭せられてはならぬ。何となれば、宗教

● 紳秘主義と締記法

(18)

的 法 掃澄 個人 法 に 流 性 於て と で は て呼びかけて 不 常に無 そ 離 底の深 餞 淵、 此の深 閏」 ゞ 紳 る て の深 宗

み︵

教の か1 ての 此漂 によ な ざ に 立 は エ ロ っ て 喜 眞 3C し 邑 C う。 ) 出 il が 介 在 す るか が ら で あ

裡 宗 ぺ冨 教

り 的 史 返 の 】 す 的 単 側副 に に 辿 笥 綿 呵 萬 紳秘主義と締霞法

(19)

一 か速方盲探し集芝ばならない慧もの喜べて自己自身に於て見出すのである島

● と官ひ、政令の人間はすべて紳の中に在って互に他の人を必要とする相互作用を曹み、以て紳の集合統一饅を形成す

る。更に人間社台以外の生白然界との閥係を見るに、此場合は宇宙といふ紳性の中に在って組イての事物は夫々狗立

の佃慣の佳にて央張り紳を象徴し紳の現はれである。かくして宇宙の仝喧が旋律的なる語調の音楽を奏して居ると云

ふのである。先きに彼が﹁宇宙は紳よりも大である﹂と官へる所以である。かくの如く人を存在に於てのみならす、

尭生成の塵史に於ても探い洞察を巡らしたのである。

﹁長の意味に於て隆史が宗教の最高の封象であ少、歴史と共に宗教は興り叉共に終る。而してあらゆる虞の廉史は

常に先づ宗教的目的を有し宗教的理念から出費して居る。かくて叉宗教の最高にして最も荘厳なる直税は藤史の範囲

ヽ/

内に存する。﹂印

● と語るのである。忘にはー紳の意囲に牡鹿亙るべき人の蓮命に即して、他面忙は未来をも強育する知行合一底の生

活々動に於て紳の愛を受け、かくて有が無となり無が有とな少、また無限者が有限者に倍現せられ有限者が無限者に

照らされつ1、すべては流れ然かも不動なる永劫の世界に安住する。是れが語り得られたる宗教である。

以上の加き考察を以てすればー吾人はシュライエルマツヘルを単なる浪漫的宗教論者としてでなく、偉大なる紳秘

主義の宗教哲畢者として尊敬す1くー同時にまた、カントの精紳が彼によつて完全に費坪せられて鐘に宗教の曹皐的

礎先の成就せられしことは、蓋し功捺の不朽なるものあゎと耕すペきである。

︵−︶ H品阜崇¢ノ1雪日昌きFdOりq望OE註tO−ビ岩写n∵−寧∴巴■争 神秘主義と梓符法

(20)

︵N︶ ︵0︶ ︵▲︶ ︵ひ︶ ︵か︶ ︵↓︶ ︵∞︶ ︵J ︵︼○︶ ︵〓︶ 神秘主義ミ薄霞注 目egel,穿官︻fdel謬l牽芦 今 キ. や, キ キ,ロiOづe冒uロ︻ニn d、¢e芳江さt? 芽−ei男m邑er、㌘d昌二旨焉dleR巴覚芦 今 や H戚色−汐雪雲d巧R臣号n. ScEeieり2g訂JReden芦d.R. キ や 聾き声=農iO畠CO邑Ou芦挙句・喜色彼が、J書き買n恩1ま0岩雲邑0笥よ,引用すろ併を見れば、 貞邑−屋u蔓⋮Hp蒜更訂dl邑邑10PこF岳プぎe、ぷ芸nO焉re、Seire;昌OP、ま莞n;0日已冒♪ 雪Oir⋮︰⋮・Ⅰぎ〇三訂邑弓ゎーg畠eニ冨iI告dIFO−⋮⋮−ニe弓き昌=邑ニー︰⋮︰bま■b邑 t訂inロe⋮已u雪ごF慧どー⋮て司Fp−mp訂︰Femさぇ1訂ヽprOHg事:01已口内已邑⋮⋮・︰l 閏違元博士は﹁哲嬰通論﹂七入貢k於て絶対否定の飛躍的陣換が見失はれる糀な有限無限の直接合一の立場薩宗教を十分 に根撞づけ得ぎることを述べ、更に三ライエルマツヘルが在職に於て直接に有限者と無限者の合一が♯︳せられるとし て、挺封依馬感情牢宗教の本音と点せろ鮎に何等の丼詮的契*を隠宅居られないが、余は牧が直暮とけぴたろと共k人 を疑点せる鮎よ申して其虎に癖茫的意義を認容せんとすろのであiO Addi冨・WFえi匂岩音id訂m↓句.声 ln電−眉苫ti乱写−吋.▲. ど澄On︻・弾岩0点−・ キ 00■巴−紀−岩−﹂邑● キ ∽●岩−. S.uu.亡.¢.一r P∽叫−∽P 平山戸 S・−ON●−○♪N叫叫●■早 野ヾ▲.u︸. 芦∽〇.ロnd▲︸.

(21)

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し 去 滞 し こ せ て、 啓治氏− な k ‡ 岩 神秘主義と#詮法

(22)

紳秘主義と繕旺法 二〇 ︵NJ ぞndO邑中はスコラ哲単著に用ひちれたろ甘にして﹁良知良能﹂を慧蛛ナる。司,昏声○寧日害p身10f寅盲i卦β り●ご配さ凧せよ。 ︵Nひ︶ qロde旨E.︼き1邑d小声吋●8り. ︵Nひ︶ 押家に﹁正念相撃といふ暴食の粕蹟∬も上逃の如き舞匿的意義があろと息ふ。 ︵N︸︶ 許EOi寛mp臣宅.R乙昏.㌍−OP や P−短. ︵恕︶ も ︵牒︶ 加哀iと組師癖とが不∬不♯の鵬備にあ,乍ら、厳かも前者が音数照心と強癒すちに封して、畏著が活︳■tO♯用毛▲ んずる所以は、軸木群が辞秘主義的童暮の立場にあI、粗師群が#霞まの立為に凍ろからである。 ︵8︶ 封Od昌.寧∴苗. ︵巴︶ 卑 .声−8●

(23)

いといふのだ。﹃伏し拝む敢の中に沖はなし、斬る心に紳ぞまします﹄といふ甜菜の歌忙あ■るやうに、客軌的な紳の

‡在位を香定して、自己の主取に紳む認める。即ち祈る心その昔が紳であ少、帥性の表現だと見るのである。

尤も、前の外在紳といふのも、紳は全く人間外にある紳で、人間の円に在る紳でないといふ意味ではない。宇宙奪

なる紳は宇宙の一点たる人間にも内在して、その紳性を牽拝するけれど、そは人間藍の円にある耐性に勉強した宇宙

間には超越した紳なるが故に、之をウイサアム・ジェームスの言葉に従ひ、か少

かうした意味における外衣紳に封して、今一つ可能なる紳軌は、L.臣田丸臨 モの創造的努力を傾注す あるのではなく、吾々 せあらて、外から宇宙を創造した ●

内在紳と外在御、主観紳と客親御

帆 足 理 一 部

−現代思想の認容する二種の諦観 今日、副然−嬰l馴鼠頭韻詞虚無から此大宇宙を創造したと偏する者はあるまい。あ少うる魔の紳は宇宙に内在する坤 内在闊と外在縛、主覿紳と客覿剛

聞の心に和が

はなく、宇宙の内にあつて、無限の過去から無限の未来に向つて、永遠に

01 従って人間の本質上、此の内在紳を謎めすして精細生活牲迭甘えな l−11−−i−t1− けれどそは宇宙に円 0 それは紳といふ宇宙窪が 宇宙尭として人

(24)

命 か 喪 今 と 又 日 は 内 の科 の も 在 挙 在 的 客 と な 外 し 在 た 〓 紳、 進 主靭 化 は 紳 過 お 程 に ね と霹 凡 て、外 紳 る 在 紳 い だ も とふ と す れ二 こ の だ れ 同 ば じ つ 。 や 叉 別 後 に に う す の 宇 、 在 内 宙 に 電 子 紳 創 と の 造 結 といふ 的 合 に な か の 紳 ら も、 叉 成 在 所 立 つ 轄 が恩 は 宙 て 人 重 ゐ ● な い る だ る と ニ 者 い ニ の る 存 ふ。 内 一 在 在 け を れ す る 必 ど、 で と 生 あ い 生 る ふ

(25)

と が、 せ 、 今 も 日 宇 進 は 化 そ

す、宙れ自慢

で 云 と は 、 人 ば 自 一 然 の 過 程 あ によ に へ つ 悟 て 進 化す る と て も の と 見れ 物 ば て よ 自 い 。 然 ら ば 内 在 い○ す と 神 や 託 に お け る 彿 そは 性 第 現 と で 代 、 か 陀 的 耐 無 見 性 細 解 と 論 る か 内在押ミ外衣紳、主裁紳と客取締

(26)

モ は さ ケ 在 紳と 外 在 内紳、主 動 の 取 醐 方 と客数 で 紳 は 、 宙 の の 或 信者 る 海人間 め て 貢 的産の こと は孤偶 だ い 的で ふ こ 社 と 食 に を なれ 快 二田 之に反して、クyスト教や日本俳教の滞空門においては、自発教としての沸教とは異少、敦の紳である蒲陀或はク

タスト又は父なる紳といふ宇宙的な超人間的な客戟的茸在を宿することに、外在頑としての特色を示してぁる。が、

之を現代科挙の立場から改許すれば、どうなるか。人間には璽妙不可息蒲な精紳力の働きが既に規はれてゐる。そは

サツ’ンll’1シーン †に電子の偶然葬具が造少出したものとして、簡単に片付けるには飴少に美妙な働である一人間自身に雲あ少精 神あわと吾等は自発してぁる。婁の心tは宇宙進化の過程において創造的に猥生したものと見た虚で、現篭、書等の

内政において、心蜃あり拝所清動のあることを書等は香定することはできない。書︽の直接自詮において自我璽の存

三 外在紳と人格修養の社食牲

(27)

我と認識する吾等は、フーヒナアの如く、宇宙には宇宙仝せとしての大書あゎと類推しえないだらうか、信仰しえな いだらうか。 内在紳の粗方のやうに、只人間だけに雲あゎ、辞任あゎて、宇宙仝檀に天白檀の蛮なしと見るは寧ろ困難ではない わ。尤も内在紳観では、萬物に紳性あゎと見るが、そは萬物同程度といふのではなく、違った程度において、即ち人 脚には禽♯上♪も、聖‡には凡人よ♪も多大の耐性があると云ふのであるが、さうした紳性はアトムや電子の偏在と 何様セ、紳性竺の元凛的存在であつて、宇宙暮と云ふやうな人格的統一あを賛在ではない。人間自身が少くとも進 歩的に人格の統一と清規しゆく生命であるやうに、・そして環境の上に働きかけて創造的に環境を改造し、嘲って叉自 ヽ 裁と創造妙に建設しゆ■長老であるやうに、宇宙には宇宙皇位として宇宙頚境の上に働きかけ、之を創造的に改善改 縫しゆく大暮があるのではないか。そは一個弼立の‡鹿であつて、人間と‡的交渉藍保ちうるもので、人間の所願の 翳▲とな少、落穂生活の理想となカ、叉非に打勝つカを輿へ、救ひ導く力として、人柄の精紳生活を指導する創造的 生島ではないだらうか。 加う考へれば、青々の組先が偶級kよつて祓詳した魔の紳も、叉浄土門において救の頑として尊信された阿禰陀如 楽も、或はクサスト軟における救圭クサストといふのも、父なる紳といふのも、・何れも単なる人間理想の客叔的表現 や象徴化声はなくして、限に見えぬ宇宙璽の賛在を、或はその活躍の或る方面を、不完全な人間の言葉や蓼術的方法 忙よつて兼現しょうと試みたものではあるまいか。是等の蒲陀や救の前の観念が単なる人間の麻生、即ち巳むに巳ま

㌻用意化したもの蔓くー暫笥書落町九製鞘仰暫の骨賓宵㌢

二五 内在繹と外虚血、主︳紳と布製紳

(28)

に愛や正義の関係に立つことができる。一憬、愛と云ひ正義と云ひ、これらは社食関係を意味する言葉であつて、人

Ⅶが現在持つ虎の人間的社食関係を一暦よく調整することのできるのは、党づ大宇宙の大喪との臨係を愛と正義の庇

●観念を以て律しうるからではあるまいか。宇宙の大軍在と社台的交渉む調癒することが根本基調となつてこそ、人

間社食の諸紬係も園清に調節されてゆくのではあるまいか。加之、吾々人間の人格意識は孤狽に成長も向上もせす、

そは敢倉的交渉によつてのみ人格意識を高め、敢曾に奉仕することによつてのみ人格は向上する。だが、その根本は

宇宙藍と交渉し、宇宙ヰの目的に奉仕し、宇宙的大赦倉の善美化に創造的努力を捧げるLとによつてのみ、吾々人間

の人格は宇宙的意味をもち、叉宇宙的に向上するのであるから、人間蒐の封宇宙的社命性の択抜として、宇宙大堅の

t在を信することは、‡に、素数の本質的要求であらねばならぬ。︵完︶ 二六 内在紳と外在紳、主組紳と容貌抑 間の醐に封する態度は、純度なる渇仰の誠となり易いではないか。紳といひ俳といふも、所詮、そは我が理想の投影 に過ぎす、之を心の鏑として、自己修蕃の方便とするのだと見るととは、宇宙の大賢在把額づく宗教信者の態度と同 −であることはできない。 間として別個の人格を保ち、耐は紳としての人格、寧ろ紳格を保ちながら、

′⑧且、

書等は紳をかやうに海人聞及宇宙粟と見、宇宙の華美を創造し、惑や罪を征服するカと見る時、人間は人

的生前において政令的交渉を

(29)

併数々義の合理性に裁ての一考察

塘 葉 文 海

今日の沸教が、二千五首年前の併陀嘗時のそれと格段の相違あることは云ふまでもない。時の経過や地域及び民族

性の粕蓬は、宗教史の上に大きな逃を印してゐることは今更いふまでもない。然らば宗教は、時や地域乃至民族性等

のために、随時随虔に於て欒轄自由にして、廉も確固不動の部分が無いのであるか。自分は宗教に於て、感封印瑚司.

と室蘭とを認めるものであるが、更に相封的方南について一骨その概能が蟄輝されることを欲するのである。

今しばらく沸教についてこの二方面を考察したいと息ふのである。

︼零州叫積朝

の境地の相克である。然らば俳数の何歳に襲海性軌詔詞あるのか。自分はそれ暫町に求めるのである。教

ある限甘如何なる催件に依っても左右されるものではない。沸教の理想も、辛党するに故に存し、的々の彿法とはと

憬教に於け彗、

俄数々義の合理性についての一考寮 と 一般大衆の硯茸心とを繋ぎ、 やがて之を誘導して理想に近からしめる方法手段にすぎぬ。封機改 二七 吋恥心をl料串ねば朝日ぬ。とのことは沸教で

(30)

法、

を 臆 病 併数 々 義 善 の合理 性 便 kつ い て ま の る 一 減 考 察 に

軽雷面する時、勿論

の ら 理 且 想 は 忙 そ 到 の眞 る 意 プ こ ロ で セ 悉 ス く 忙 つ 場 金口 い の て 所 い 説 ふ で の あ で る あ と わ 信 す 同 る 筈 時 に も な 他 二 く、 八 可 一 そ 無 れ に の 諒 し 不 一 て 挙 も 兵 の 教義

相 矛

も の

も の

ない。

何に

白 沢の れ 教 義 に 執 着 し て も、 る と い ふ 資 ろ○しかしてこれ等は沸教の根本原理であつ

更に俳敬一般と云

ふ立場から此の教義に頸する部分を見ればー望l習かヨ研こ変l芸lとか叫相対再嘲封mr存在す

て、何れの時代、民族宗派に於いても認める研であつて、従って叉白沢

(31)

至るのであ巧。如何に重要なる教義といへぞも、暑野ナることは不可能である。

二 各宗覿師の遺文すら厳密な意味に於いては、例へ結局に於て同一の信仰に立つ者の問にすら、必ずしも露人一様に は解されるものではない。況して時代の欒濯が更に加味されることを知らなければならぬ。今日各条の現状を見る忙 夫々時代に砲艦せんため大いに努力を払ってぁる把拘らや、従ってその茸践に於いては皆ある経度の教荘の菱吏を絆 してゎながら、改めて教義といふことになると、厳としてその不可保と主張して止まないのセある。信仰の純粋性は 保つべきであるが、時代の通念と相容れす、矛盾撞着して、それがたぬに却って倫仰への荘を妨げてぁることに気付 かぬが如くである。かくて時代と離れ、青年と相容れぬ。時代民衆と離れて何の沸教ぞやである。︵時代匹阿れといふ のではない︶既成教囲は、之を廷生さすべきか、別に蟄足すべきか、宗教的新人の恨みである。その昔日蓮上人はr 教壇時岡序﹂と喝破されてゐる。然してこれこそ最も賢明なる例数の硬化を防ぐ安全耕である。最早や一字の解樺Q 相違から一束一次を建立すべき時代ではない。常に人炉文化の金牌的立場から、考へなくてはならぬ。 惟ふに教義といふものが飴りに転封的のもの1如く扱はれ過ぎたのであつて、人斯社食と相手とし、叉それ故にこ そ宗教存在の偵値あるものとすれば、教義の欒革も止むなきことであゎ、叉必然のことであるといはねばならぬ。モ れが宗教を殺すものでなくこれを生かすものである。 儒教々義古合瑠性についての一考蘇

(32)

彿・租の限界と飛軽

望 月 軟 厚

−緒 言

彿陀と組師との間に存すると息はる1限界と、その限界を飛躍せんとする要請−方法等を攻究せんとするのである 鼓に俳陀といふは、大乗沸教が意挙る唯−、罷封、根本の苦としての浣窒壷の雪いふ。即ち将士教に於 ける阿禰陀、彗最に於ける大日、孟宗に於ける本讐ある。組師とは竺、頼封の人格にして幽艶−停選者を意 ●

味する。即吉本各宗の組師嘉す竃ある。範雪景の彿警限れるはー印度−支那に於ける嘉はー宗闊的意

蝕に於て是のそれ昆べて異るものが雷、この禁飛躍の嘉について大に異るものと思考甘らる1からである

限雷普然飛躍を強葱し、要撃る。改に限界の有無と飛躍の能不、血に用ひられた方法について癒買ん与るので

ある○

〓 日本諸組の俳陀への飛躍

他力教に於て薫と親鸞盲にそゃ事例が求められる。法然は、繹劫、阿蒲喝大勢至、丈珠師利の細割と雪られ

■■ 彿・組の限界と飛躍

(33)

凡そ聖人在世の間諸人喪歩これおほし、成人は聖人樺迦如来なりと見る。或人は聖人蒲陀如来なゎと見る。成人は 虫人大勢重苦薩なりと見る。成人は聖人文殊師利菩薩な少と見る。ある人は聖人道綽絹師な少と見る。成人は聖人 善導大師な少と見る。︵檜詞停六巷︶ これは法然滅後百年頃の諸偉詮の整来であるが、勢至の化身な少との屈伸は、既に生臭の上人博に崩れてゐるから 上人の轟世若くは直後に顕れてゐるのである。 親鸞も亦阿禰陀彿若くは戟晋の化身とせられる。 連長八年二月九日夜実時、繹重信の夢に親驚を弄して大意阿滴陀彿と敬鐙す。云く︵口鱒紗の記者︶組師上人或は観 音の垂速とあらはれ、或は本師あみだの釆現としめしましますことあきらかなり。禰陀親晋〓慣異名。︵口停抄︶雨 ●﹁ ●. 組共に大勢至、親書の菩薩化身の詮は古いが、口倍妙に既に阿禰陀再来の思想が顕れたとすれば親鷲直後にこの信 仰が存したことに疑ひの飴地は無い。 自力教に於ては、弘法は夢二地の菩薩なりとの偉設があり、叉規身作件の信仰が倖へられる。 遺骨任山弟子等︵全集二︶に、吾到月、彼大阿問梨日、我命欧壷、待汝倫、巳典釆、我道東英、此抄門是非凡徒、 三地菩薩也。 樺筈日、海立即身成俳之轟、諸家争折之、海卓論精華上語日、義雄玄極朕思見許、握即入五織三度地碗、忽於頂 上涌五併糞冠、故五色光明威容赫如也、上離御楊作綬、文 文通綽、著導の再来ともせられてぁる。 彿・組の限界と飛躍

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一 三〓 依・組の限界と飛捜 叉高野の入定、新色不襲等の偉読も、この要請を裏付けるのである。︹囚に大輔の現身成俳の詮は孔雀扱者義︵正萩山ハ一、 七五五︶に始まるといふ高井氏の除文︵密教論叢二三軟︶参照︺ 体敦の覇王後身、天台の再生等の信仰も亦その傍例である。 日蓮の本国妙の教主、下種の法主、日蓮本俳論︵興門流等の併設︶。再生築現︵輿門併に一致状日暮の訣︶。本地不 可思講説︵玉薄日桓の詮︶。本化上行の再凝︵監人の自覚︶等、枚拳に追なき諸説は、皆轟く俳陀への飛躍の要請の 掛れである。 三 概 叔 巳上の語例を概観するに、飛躍の讃、葡萄ど偽絶との別があり、飛踵の関係に向下︵垂迩︶と向上︵成俳︶と の二門がある。而して菩薩との関係は大鰐向下思想であ少、俳との関係には、向下・向上の所思想が併存する。 菩薩の垂迩として特記すべきは、日蓮の上行再誕の主鶴的自覚と、鮭詮、埋設、事澄の論証による客取的質詮に明 確に具有するととである。他の諸組の菩薩化身の信仰は、諸組の自覚の上にこれを費見し給す、また客由的草野を自 他共に論許したるものがない。要するに、倖詮的にして、叉他の宗教的賃崇よ少する事請阻止まるものである。 働絶との陶係は、理恨的談道に於ては、自力門には、その日先の存する理由あるも、他力門に於て峰寧ろ無きを以 て昔然とする。垂加に官はミ向下的闊係k於ては自力門にはこれが許さるべきであるが、▲他力門忙は許さるぺきで はあるまい。何となれば、﹁我曹こそ本俄なれ﹂の自覚Q上に諸組の教化は成立つも、他力門に於ては、モの他力的意

(35)

義が多分に減損され滅却されるからせある。併し向上的打係﹂即ち未来成供するといふことは、行遭の意義に於て目 せ 垂 教 他 概 能 し 詭 力 の 教 如 倶 に 飛臨 する 飛 す はー の る 畢 こ 甜 と は 欺 は、 可 日 遍司 能 理 凪 で 論 あ 的 で 横

る。 あ 少、

但 で し 般 あ

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く、樹べd血道適」Ⅶ「凰ぷヨ君苫

倍 あ 彗 掛町 仰に り、 満 の 於 れ こ 月 て 親 れ 鸞 と 然

は、 教 封 他の 日 で あ 断 現 引 蓮、 れ 少 面 あ 、 ナ 、 1 日 てツ 日 親鸞 の 信 教 ナれ ぜ で ば、 ら は、 あ 係 れ 向 に で 上 。 賠 あ 的 威 る。 係 に 於て 、 句 せ これ仲秋が輸入 あ 成彿 と は る 沸 不 償●軋の限界と飛搾

(36)

して存するのである。

法然親盤面於ては、多くは給詮的方法に依らすして夢想等によつてこの飛躍を途げんとしじゐる。自力故に此して

一定その可能性が薄弱であることを許する。叉往生思想は、一種の隔世扱であるから、時間的叡念と基間的飛搾に陣

換せしめる効果を有する鮎をも考へなければならない。

これを樺瑳の壕合に例するに、小乗に於ても五分法身等の論kよつて眈に垂間的飛躍は可能甘あつた。大乗の眞庸

二身詮の如きも亦然♭である。更に嘲翠要諦するに至つて報身思想む以て属應二身閣の飛翔を拾果づけんと

した。本生縛は叉この時間的完成を過去に求めたのである。即ち報身詮は過去と未来とへの再生放であり時間的績大

である。加持身の如きはその融秘的方法の一である。かくの如き観鮎からすれば、繹♯の場合も祀師よ砂俳への飛蹟

と同一道程を取るものと考へられる。然るに繹寺は既にこの飛鴇を梁げたが、軋師に於ては未だこQ飛躍と成遽げ得

ぎるものである。

玉 総 官

これを要するに、基簡的限界は︵何人的、主叔的、寧智的︶飛ヰの可能なるものがあるが、時間的限界は︵誰書的 叔 弘 法 彿 ● 諷 の隈 界と 飛ヰ 生、 倍 々 萬 劫 の 未 来専 は、 未 来 へ の 無 限 延 長 を 以 て、 叉 蓮 の 本 三日 て現在即俳を論証したに過ぎない。故に縦令ひこの方法に去て情意の筍安を得たりとナるも¶ 依然と

(37)

客観的、情意的︶飛躍の大障壁を点すものである。叉飛躊の俄不は、客間的忙もせよ、時間的にもせよ、習ヨ叩

の厚薄に正比例するが、自発の有無は、飛陣の俄不の絶封的條件とはならない。但し自発の厚薄が飛躍に難易と生ぜ

しむるは勿論である。

時間的限界は、時間的方法以外には飛躇し能はぎる限兎である。︵時間的とは匿史性、地理的拝聞趨をも含む︶繹尊

は既にこの限界を超え、日本の諸組は、要請の簸烈なるものあるに拘らサー倫これと成途げ札ざる所以が此忙存する

芳し時間的方法とは、要請の善感であるといへば、時間的限界も亦垂紆によつて超ゆべしと冒ひ得るも、単に事隋

の蓄積のみに上つて客叔的勝央性、地理的諸開係を解決し毒さゞるものがある。即ち畢貯蓄積の横森的方法の外に清

種的なる忘却性、隔世扱が大なむ役目を点すととを忘れてはならない。︵昭利九、五、ニ入︶ 虜●諷の限界と飛麟

(38)

併故に於ける宗教性に裁て

この小論の試みは、﹁沸教は如何なる意味に於て宗教一般に加はゎ得るか﹂、と云ふことに閲しての管見なのである。

換言すれば、例数は宗教であるかどうか、苦し宗教であるとすれば如何なる意味に於てざあちふか。

此の間嶺の解決されるための必要な前捷は、﹁人は宗教に依って何を意味するか﹂と云≠ことなのである。今日に於

ても伺沸教は宗教に非すして哲畢であゎ、さなくば自己修養を説く賃践倫理である、と詮く串青もある。叉或る畢者

は、棟数は開組樺今の人格を崇帯封象とするに到つて初めて宗教となつたのであると。か1る主張の栴檀は、沸教が

ヽ一一′

l

無紳静であり、崇拝封象としての人格的存在を認めない、と云ふのがその中核をなして居る1うである。︵此の主張

の嘗香を決することは今しばらくこれを避けて、嘗初の問題に立ち励へって見よう。

かく沸教の宗教たることを香定する人は、一億宗教を如何様に概念して居るか。云ふ圭でもなく彼等は宗教を棲め

て狭義のグサーコP−マン式キリスー数的文化概念、換言すれば人格神の膚仰崇拝を以て宗教とするものである。抄 くとも今日の畢鬼丘か1る狭義の農牧概念を修正して居る。即ち非人格的努力一般の名の下に組指されて居るプレ丁

きズム乃至比アニマチズムに依ればか1孟託芸誉れて居る。か主香嘉と共にー他には働教の宗教ねる

ととモカ強く主張する単著もある。而してか1る人の翰趣は如何棟なものであるか。 ●軟K放けろ宗︳性に放て

(39)

鋤教︵殊に原始俳教︶はその崇拝対象として何等人格的存在の叡念を有しないけれども、奴等偶数徒にとつての生

命である四辞八聖道を初め、種々なる教理行法を神聖なるものと尊崇し、これを信念の泉とし茸践の動力となして居

る鮎に於て正しく宗教である。か1る主張をなす人々は今日畢界に於て、紳変貌念を以て宗教の本質であることを綺

推せんとする姦の人達である。鞘叉或る人達の見解に依れば、宗教に於てはその封象は必ずしも人格的の着たる事

を要せざるも、而もむの封象に向ふ人の尭分や態度は飽くまでも人格的である。と云ふことを主張する人々もある㈹

ともあれ、今日に於ては大髄に於て、人格的崇拝封象を以て宗教の水質と庵す詮は否定されて居る樺である。宗教

の宗教たる所以はむしろ人間の心持ち、態度である。言払古された言葉を用ふれば、それは飽くまでエモーショナル

な長歌、畏怖、エヤフルヒト等の心理的事茸に宗教性はある。即ち﹁紳変貌念﹂.こそ宗教の宗教たる所以の特性であ

ると云ふ詮は、大憤畢芝承認せられて居る棟である。唯此の神聖の意味内容が多少ユキザクーに表現されて居なぃ

傾きはあるが、食も此の立場に立って俳教の宗教性を主張しょうとする者の一人である。

今しばらく此の紳聖の意味内容を究明して、彿教の宗教味豊かなる表現を叙述して見よう。

本来、紳畢、聖なるものー紳聖観念と云ふ貫‡の持つ意味は極めて貴かなものであつて・その主要な平素は情緒的畏

敬畏怖の念ではあるがーその外にも何︵こ非合理性、︵二︶力の観念、︵三連夜の軌念及び︵讐超越性若くは神秘感等

が含まれて居る。而も紳聖と云ふ言葉白身は紳聖で無い不浄、凡俗、汚穣、眈阻等の意味をも包含して居少、庚義の

l

紳聖は狭義の聖浮−清浄等を含んだ意味忙解され七居る。匝即ち耐聖とは狭義の清浄、聖浮と封正する不浄、凡俗、

戎姐と意識し、両者を分つところにその面目がある弾けである。かゝる意味に於て紳変貌念は明か忙野草的二元軌モ

■教に放ける歳軟性に戯て

(40)

三八 麟教た於ける宗教性に裁て 暗示して居るが、此の二元軌を心理畢的に考案すれば︵一︶拒離感若くは不足の感と︵二︶到達感若くは充塞の念をその 内容として居るこ1に気付くのである。マナとタブーとが密接不可分である如くかゝる二元観も常に深い闊係を持つ ウォンツ ピーンFネス て居る。宗教的封象乃至は理想に封する現前の自我と環境とは拒熱感であゎ、不足の感である。而も宗教心、宗教の ’−ナネネフ▲フィルメント サ界が希念し憧憬する封象環境は到達感を持ち充塞の念を味ふことである。何れの宗教にもこの神聖な二元観と云ふ ものがある。此Q二元が奇しくも調和した時、宗教の世界は貢現され、宗教の生命は生々と感ぜられる。要するに長 廣鏡石宗教とは︵三▼▲、デフイユション︶神聖意識を持つ人間生活と云ふことになる。従って又宗教性とは此の紳里 .︵狭義の︶不浮とを分つ鮎に存して衣少、これあるがために宗教が宗教として成立するのである。要約せば、宗教とは 超勤性、貫在性、力、非合理性等を内容とする紳聖意識を持って人間が生きて行く生活であぅ では沸教の如何なる鮎が此の宗教性を表現して居るか。俳数に於ける教理行法の悉くが此の紳里親念に満ちて居る 几︵彿︶、要婆︵寂光土︶、頗悩︵菩鑓︶、流韓︵解脱︶、捏契、業、四諭八変造、これ等のものは皆豊かな意味と内容とを 持つものでは走るが、俳教徒のとれ等に封する気持、態度は〓言にして表はせば神聖意放である。今は主として押詰 八正道に現はれた沸教の宗教性、沸教の生命を探ぐつて見よう。蓋し此の四諦八製造こそ最もあざやかに沸教の宗教 性を表現して居るからである。 −不浄、凡俗、呪岨、不足の感、 1距瀧感、タブー、棟深心、煩悩、迷妄。

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規‡の粕としての人間生活の普壌は苦紆の眞理であ少、その昔諦の縁起する因由は集辞であ少、此の二許は正しく 不浄、汚椀、凡俗、眈阻のせ界であゎ、か1る世界と分かたれたる、かゝる世界を超越して箕在する紳聖の世界は云 ふまでもなく滅諦であ毀、滅許に到る必然の法、到達の錠は道諦である。文字通りそれこそ﹁紳聖﹂の法であ少﹁聖 なる邁﹂である。﹁四翌諦﹂の法の前に出た俳教徒の態度は、それが人格的であると香とを問はす、全く﹁畏まる﹂、 ﹁長歌する﹂態度であ少、全身全盛が紳聖の意識に充ち溢れて居る。件数に於ける﹁法一般﹂は決して自然料率的意味 乃至は物理畢的意味での法ではなくて、常に人間の生活と邁命とに深く因縁ある紳聖なる法であ少、この法に従ひ、 此の法を護念奉拝貢践して伸晃に到少成併し、浬輿の彼岸に到らんとする超越的の者への憧憬と熱意こそ俳教徒の生 命ではあるまいか。俳陀に依って詮かれたる法は一切が紳聖であゎ、力であ少、箕在する勢力でもある。珪に封する 此の紳聖の気持無しには、彿教の信念も質践もなからふ。﹁現茸の法﹂は凡俗、不浄であるが、﹁理想の法﹂は紳聖、帝 辞、空将であゎ、人々を魅する荘厳な勢力でもある。此の鮎に私は俳敦の宗教性を認めたい。 今日まで試みられたる俳敬一般の解繹、従って此の四聖諦に就てのそれとても極めて煩鎖なものであ少、彿教員串 間自の立場よ少のみ論ぜられて居るために、や1もすれば彿教が宗教一般に於て占むる位置、乃至時宗数としての沸 教と他の宗教との閥聯が明瞭にされて居ない。これは彿数を猫立せしめすして孤立せしむるものである。彿教は常に 索敵として語られ、宗教一般の生命を分有することに依って、即ち宗教性を持つことに依ってこそ、初めてその原質 彿敦転於ける宗教性に裁て ︷鎚 1清浄、聖浮、神聖、充塞の念、 −到達感、マナ、法探心、菩捷、浬欒。

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の相豊mゎ、表現することになる。余は叙述Q住総を趨へて批判の域に蓬入わ過ぎた。.

ともあれ、俳教の宗教性、その生命は正しく法一般に封する紳聖馳念であることは以上のことから分明する。俳数

を盟た理智主義苦くは合理主義の立場からのみ見ようとする人は、沸教の持つ強い非合理性の生命に嘱れることが出

水ないであらふ。此の鮎を進んで彼のオットーの所論と比較して見る時−均一履興味ある題材を得るのであるがー今 は割愛しなければならない。沸教々義に於けるカルマの意味や、浄土思想に於ける︵殊に眞衰た於ける︶蛾寧一種深

心等と此の宗教性としての紳丑戟念とのつらなゎを検討することも亦極めて興味ある問題ではあるが、とれも問題の

連出のみに止めておかねばならない。〓九三甲息冒︼九︶ ︵−︶ ナーレ原著、鈴木単線震チ氏乗数墨原票p●遥︶ 穿ぎ已.至言。○恩iロ芳d芽室星こち夢意音声︵p.N︶ ︵N︶ 字方劃生者、乗数の史賛と理更p・1設⊥8︶ ︵u︶声Pr夢。iヨ“訂中旬○冒ま告m邑,i;dOF5:○蜃○竃︵ミ㌣8︶ 宇野刑空電宗教の史★と寧諭す.−詑r・−苫︶ ︵▲︶ 同

︵β 素敵智城 仇彗不教事故の軒先︵p短リム ■軟に放ける尭敦牲K銑て

(43)

紳単が草間として占.める位置に裁ては今迄可成り開嶺又は疑問があつた楼である。普通、紳畢は歴史紳皐、組織紳 事及び貫践細塵ゐ三部門に分たれ、更に叉−廉史紳串は盈書紳串と致命史とに、組按紳串は府定率と教理畢並びに倫

理単に、貫鱒河畢は牧舎孝とか侍道草とか詮敦畢とかに分たれてぁる。然し此らの各宗串として取扱はれる際には

歴史紳単に於ては、言語畢や宗教史叉竺般腱史の研究方法がキサスト軟の経典や鮭史に埼用される事となり、組織

紳単に於ては、府紆畢はキリスト教の鹿理が普遍愛昔必然性を悌へてゐる事を詮明し又詮明せんとするのであるが故

に、之は宗教哲重文は野草によつて取扱はれる事となカー教理畢はキサスー教の中に於て生起した教理又は思想の萄

展を見るのであるが故にー首スト敦思想史として結局は歴史的研究に嵐する事となる。.倫理串は音スト敢の教趣

の中から便宜上、倫理に閲するものだけを引離したものであるが故に、数理畢と同じ取扱を受ける事となる。其の教

理や倫理の虞理性の問題は前述の摺謹単によつて取扱はれる事になるのである。従って組織紳畢は、結局は哲畢に還

元されるか、或は又膳史に琴苦れるかのいづれかとなる。最後の箕践紳単に於ては、牧舎皐は数台政令畢と云ふ名

Qもを雷畢の義妹哲として取扱はれー詮教卓蛙修腱畢の一朝門として研誉れ、其の他の偉碧か品蒜

紳革の銅自性に裁て

御畢の猫自性に就て

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四二 紳拳の弼自性k放て とかの賛際問題に関する研究は、宗教々育と云ふ大きい名目のもとに心理畢や教育畢の應用範囲として取扱はれる。 かくして紳畢は、敦倉の御用草間であると一Lふ鮎を除いては、一般の草間と何ら異る研がないかの如き状勢を展開し て来てゐる。つま少紬畢は、一般的畢間をば特殊な宗教圃慣の都合のょい様に利用すると云ふ事を其の課題とするも のであつて、純粋に理論的の梼準に従へば、紳畢は鶉立の草間としては存在しえないかの如くに考へられてぁる楼で ある○ 然らば何故に蕗史紳畢をば一般医史研究から離して紳畢科の一部門とするのであるか。聖書の中に酌められた文書 ● キー軟骨史の中に取上げられた一般勝取の部分の研究を、何故に率直竺般匪史単に委ねないのか。何故に組織紳畢 と名附けられる一群の思想を、特に宗教菅畢ヤー股哲畢から笹別するのであるか。叉、牧食草や俸邁畢や詮敬啓を、 ︼般的な社台畢や教育畢や修辞塵ぁー部門としてしまはないのか。歴史掛畢と組織紳拳と質践紳畢と云ふ三つの串間 的研究を、一つの統一ある草間として紳墜と云ふ名のもとに、他の放ての草間から我々をして貰別せしめるものは何 やあるか。 此らの諸車間と特に取出して紳畢と呼ぶのは、単に研究の便宜の上からであると云ふだけでは、紳畢が畢としての 璃自性を持つ理由としては飴少に薄射である。紳挙が禰宜の草間として存在するのには、単に守うする辛が貰際的に 有数であるとか、或は叉、博死の慣習であるとかと云ふ理由だけでは不十分である。料率は、自分の存在の櫛利が認 められん食めには、自分が、他の草間と並んだ一つの特殊な串間として基礎付けられん事を要求するのである。 抑々、一般に、串間と辞せられる所のものば放て、其の封象にエつて直別され規定される。夫々の串間は、夫々一

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定の特殊の封魚に向ひ、其の封象の内的構造や内的法則を把達する一定の方法を持ってゎなければならぬ。例へば紅 *事と呼ばれる串間は、経済と呼ばれる特定の性質を待った現象が見出される時に、始めて可能となる。経済畢は斯 かる現象の起滋とか内容とか叉法則とかを研究するのである。夫れと同様に、紳畢と云ふ串間が成立する限りに於て は、 ◆、我々の取扱はうとする紳畢の濁自性の問題は、つまり紳畢には、猫自の封魚があるかどうか、叉あるとすれば、 夫れは如何なる封象であるかと云ふ問題に結着するに他ならない。而Lて若し其の封象が示さ机るならば、紳皐は牢 としての存在の権利を確保する辛が出奔、若し叉、其の封象がないとすれば、或は叉、あつても我々の認識に這入ら ないものであるとすれば、紳畢は畢としての存在の樺利を全く失はねばならないのでむる。 尤も此の問題に封する答は、今迄の紳皐者と雑も之を持たなかったのではない。恐らぐ絶ての紳単著は、紳畢の狗 自性とは、紳を取扱ふ事にある、と答へる茹では皆一致するであらう。確かに其の通少である。耐暑とは、如何うい ふ凰忙して人間が前に交少うるか、或は叉、如何ういふ夙にして紳が人間に自分を啓示するか、を教へる草間に他な らない。然し此の紳畢の定義に就ての一致は、一度﹂我々が此の定義の中の一つ望一畳盲取上げて之を穿饗するや否 や、直ちに瓦解し始める。其の言葉は﹃如何ういふ夙にして﹄と云ふ言葉である。即ち絶ての正しい紳畢は﹃如何う いふ風にして紳が自分を啓示するか﹄亘如何ういふ風にして紳が人間に語るか﹄を我々に敦へ・ねばならないのである が、然し其の﹃如何ういふ風にして﹄に問題があるのである。即ち啓示が﹃如何ういふ風忙して﹄行はれるかに就て ・捧嬰が﹃如何ういふ風に﹄教へるかによつて、紳畢の濁目性の問題の解決が決まつて乗るのである。 紳串の狗自性に裁て

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の の 我々 く 動 の 結 と 従 論 て を 述 敷 の き 台 述 べ 猫 の活 る 動 辛 が ゆ ふ れ あ る。 前 あ あ が 起 て 詑 性を 確保 ら せ ん 食 には

にるさるならば、紳嗟猫自め、聖

し 書や軟 な で 骨 て語 史 で や な 現代 れ の数 般 性 無 る研 台 紳寧の粥自性に就て

表  に  仕  す  忙  よ  少、  数  段の  は  童  い  進  た  歩  し  事  を  ま  見せて  事  しても  ゐるの  部  分  で  に  一般に  七  あ  封  象  棒線  少ます  に  そ  本  る  封  の  の  が  す  も  に  、のゝ の  急  然  概  要  であ  し  性  し  な  質  る  性  か  ら  あ  と  れ  容  ま少  、  自  易  と  ち  の存在  に  垂  が  そ  を  知  憤  こ

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