「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のア プローチ : D・コーネルの理論を手がかりに
著者 小久見 祥恵
雑誌名 同志社法學
巻 60
号 2
ページ 101‑139
発行年 2008‑07‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011426
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇一同志社法学 六〇巻二号
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ
――
D・コーネルの理論を手がかりに――
小 久 見 祥 恵
(五二五)
目次はじめに一
チムるフェミニズ法対理論のアプローすマに二ンレジ 「マンレ差の」等平「と」異ジ
1本質主義的アプローチ
チ質ーロプアの論等平な的義主反本三 2チーロプア的義主質本反
「1
イマジナリーな領域」の平等な保障
「2
イマジナリーな領域」とジレンマおわりに
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇二同志社法学 六〇巻二号
(五二六)
は じ め に
平等は、自由と並んで近代社会の理念として掲げられてきた。すべて人は平等である、という場合の「人」は、抽象
的な集合としての人を意味するが、実際に人々はそれぞれ様々な点で異なっている。そして、人々の間の差異は、しばしば差別や抑圧に結び付けられてきた。人種、性別、国籍、民族などの差異は、人々の能力の優劣の差異と関連付けら
れ、差別や抑圧をもたらす「異なる取扱い」が正当化されるからである。これらの差別や抑圧に結び付く「異なる取扱い」は平等の理念に反するものであるが、平等の達成のために、「異なる取扱い」が正当化される場合がある。例えば、
アファーマティブ・アクションやポジティブ・アクションといった積極的差別是正措置は、差別を受けてきた集団の成員に「異なる取扱い」として優遇措置を行うことによって、差別の解消を目指すものである。その他にも女性の母性の
保護に関わる措置などは、男性と「異なる取扱い」であると言える。
差別や抑圧を受けてきたグループによって、差別の解消のための「異なる取扱い」が求められる場合は多い。しかし
一方で、それらの「異なる取扱い」が依拠する「差異」は過去に差別や抑圧をもたらしてきたものであるから、差別を解消するのではなく、平等の実現を阻害し、差別を永続させる結果につながる、との批判も根強く行われてきた。批判
者たちは、ディファレンス・ブラインドな取り扱い、すなわち「同じ取扱い」こそが差別の解消に結び付く、と主張するのである。「同じ取扱いか、異なる取扱いか」あるいは「差異か平等か (
まなきつに圧抑や別差々様、は題問ういと」 1)
とい、いずれによっても差別や抑圧は解消されないという意味でジレンマとなる、と指摘されてきた。
このようなジレンマは、人種差別、民族的あるいは文化的マイノリティへの差別あるいは女性差別などの差別の撤廃
を目指す際に立ちあらわれてくるが、本稿は、女性差別の文脈でジレンマに取り組んできたフェミニズムのアプローチ
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇三同志社法学 六〇巻二号 に焦点を合わせる。フェミニズムとジレンマの関わりは、「性差」という「差異」の取扱いをめぐって生じる。フェミニズムは、男女の平等を目指す場合に、男性と女性の「同じ取扱い」を求めるのか、「異なる取扱い」を求めるのかと
いう問題に悩まされてきた。例えば、女性の参政権などの権利の獲得は、機会の平等に基づいた「同じ取扱い」の要求にあたるが、母性の保護めぐる「異なる取扱い」も要求される場合がある。様々な社会的制度や措置において性差を考
慮にいれる必要はないと論じる人々は「平等派」、女性特有のニーズや特性の観点の考慮を求める人々は「差異派」と呼ばれ、「差異か平等か」が争われてきた (
。 2)
フェミニズムによって「差異か平等か」が問われる場合に当初想定されていたのは、男女間の差異であった。しかし、フェミニズムの理論の進展とともに、「女性の解放」をフェミニズムが求める際に、そこでの「女性」とは誰なのか、
を問う必要性が認識され、女性の間の差異もまた問題にされるようになる。さらに、現代社会においては、男女間の差別のみならず「ある女性が他の女性に、ある男性がある女性に、あるいはまたある男性が他の男性に抱く不平等感が確
かなリアリティをもち、さまざまな状況に応じて人々の﹃差別されている﹄という感覚を構成している (
こらよの「。るれ見な差別の二重化う ( 」も摘指ういと 3)
題し保障するに際て等の「差異」の問を平」化あるいは多重が、、差別を撤廃し 4)
を難しくしている。フェミニズムは、男女の差異だけでなく、人種の違いや、それぞれの女性の文化的背景や経済的背
景などの差異がもたらす問題にも取り組んできた。差異の多様化は、ジレンマをもたらす差異の項目を増加させるがゆえに、ジレンマの問題をさらに入り組んだものにする。
フェミニズムによる「差異」と「平等」のジレンマへの対処法として、理論的なアプローチと実践的なアプローチが考えられるだろう。あらゆる女性を想定した理論的アプローチを試みることは困難であるため、むしろ個別具体的な状
況において、差異ゆえの不利益を被る女性あるいはマイノリティの人々の問題を考える、という比較的実践的なアプロ
(五二七)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇四同志社法学 六〇巻二号
ーチが有意義な場合も考えられる。例えば、フェミニズムが取り組んできた様々な問題として、人工妊娠中絶の権利あ
るいはリプロダクティブ・ライツ、雇用における平等、セクシュアル・ハラスメント、およびポルノグラフィに関する問題などがある。それらの諸問題をめぐって、不利益を被る人々、あるいは権利を侵害されている人々は一見明らかで
ある。ゆえに、現実に切迫した状況を、個別具体的な法的権利の主張に基づいて改善できるならば、改めて一貫した理論的根拠を求める理由はないようにも見える。しかし、それらの権利主張は、それぞれの権利主張の根拠が矛盾した理
論に基づいてしまうために、一貫性を保てなくなる場合がしばしば生じる。よって、諸問題に対して一貫した理論的根拠を探究するアプローチとは異なる実践的アプローチの有用性を認識したうえで、本稿ではフェミニズム法理論からの
アプローチを見ることにしたい。
フェミニズムの課題を法の領域で取り組む学問分野として、欧米では、フェミニズム法学(
fe m in ism le ga l sc ho la rs hip
)、フェミニズム法理論(fe m in ism le ga l t he or y
)あるいはフェミニズム法理学(fe m in ist ju ris pr ud en ce
)と呼ばれる領域 (に結法制度や法的権利とびは付けて論じられるよう、マ差ン場した。そして「異が」と「平等」のジレ登 5)
なった。フェミニズムにおける様々な立場への分化に対応する形で、フェミニズム法理論においてもまた様々な立場や理論が生み出されている。フェミニズム法理論の様々な立場に基づくジレンマへのアプローチとして、本質主義の観点
からするものと、反本質主義の観点からするものとがある (
場るのとるあにとこす析定規てしと質本分に々る立の義主質本反す基定否をれそ、きづの人る定の特質を一のグループ ジをマンレ。、はで稿本じ生大させる一つのきな要因が、あ 6)
に立った平等論のアプローチを試みている。平等論のアプローチのなかには、平等を保障する尺度を本質主義に依拠して決定するアプローチが含まれているが、本稿で紹介する平等論のアプローチは、本質主義批判を踏まえた新しい平等
論のアプローチである。それは、人としての平等ともいうべき基底的な平等の理念に依拠し、人々における多様な差異
(五二八)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇五同志社法学 六〇巻二号 の尊重を可能にする平等の捉え方を模索するものである。
ところで、反本質主義的な平等論のアプローチを試みる場合、フェミニズムとリベラリズムの緊張関係を踏まえる必
要がある。第二波フェミニズム以降のフェミニズムは、「自由」や「平等」といった抽象的な価値を掲げるリベラリズムを批判してきた。その主張を大雑把に言えば、リベラリズムの掲げる「平等」の下では、女性と男性の差異を生じさ
せる文脈が無視され、しかも現状中立性のもとで、公私二元論が作用するといったものである (
るるのジレンマは「平等」を掲げリ、ベラリズムと「差異」に注目すこりレ等等」のジおンマは平の捉え方に関連して 「そもそも。差異」と「平 7)
フェミニズムの対決から生じてきたものとも理解できる (
、す与を解誤のとる味る意を帰回のへ派えか等いはとこるじ論てつもに等平。いなれし」平「試プローのチみは、単純に レ対にマン。そジ、えゆれるすな反本質主義的平等論からのア 8)
ブルジョア・フェミニズムとも批判されてきたリベラル・フェミニズムに加担する行いとして断罪されかねないのである。フェミニズム法理論の中でも、「平等」といった抽象的な理念に訴えるよりもむしろ、平等を「放棄」して「中規
模程度」の理想の実現を訴えたり (
なっいてれ表が向傾たいのと、りたせわ合を点るはにしれしもかのるいて係、関も景背なうよのそ焦題な的体具別個問 、ルンメスラハ・クアュシ、セはいるあトに家ーたっいと等平不ダ族ンェジるけお法 9)
い。
しかし他方では、アメリカのフェミニズム法理論の論者の中にはリベラリズムとフェミニズムの関係を問い直す作業を進める者もおり (
ラミリズムとフェニベズムは「抵触いリな者、わが国の論に、よってもまたし 10)(
」とされたり、あるい 11)
は「リベラル・フェミニズムの再定位 (
つ質の論等平な的義主本プ反、がいないてしはアロ的しに係関の者両、て通ーをとこるす目注にチと目とこるけ付論を とたリは稿本。らきてれラみ試がどベフリ関結ていつに係のズムズニミェ」ムな 12)
いてもまた何らかの示唆を得られるではないか、と考えている。
(五二九)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇六同志社法学 六〇巻二号
本稿では、平等論のアプローチとして、具体的には、ドゥルシラ・コーネル(
D ru cil la C or ne ll
)の理論に注目する。コーネルは、「イマジナリーな領域」の平等な保障を唱え、自らの理論が差異と平等の二項対立の位置ずらしを可能にする、と主張する。その理論は、ポストモダン思想の影響を受けながら、リベラルな正義論に対しても一定の評価を与
えている点で、リベラリズムに再接近したフェミニズム法理論でもある。
以下では第一章において、差別の解消を目指す際に、「差異」と「平等」のジレンマがどのように現れるかについて
述べる。続く第二章では、このジレンマに対するアプローチとして、アメリカ合衆国におけるフェミニズム法理論のアプローチ――具体的には本質主義と反本質主義のアプローチ――を概観する。さらに第三章では、反本質主義的な平等
論からのアプローチとして、コーネルの理論を取り上げる。
一 「差異」と「平等」のジレンマ
さて、平等の理念は、きわめて重要な役割を果たすが、平等をいかにして保障するかについては、様々なレベルで異なる見解が示されてきた。実際に多様な差異を有する人々の間で平等を保障する場合には、それらの差異を一定の観点 から捨象せざるをえない (
の々は異差な様多の間の人歴。いなれさ成達は等、史、みられそ。たきてし出生的を圧抑や別差な々様に平はっよにて 捨事差、てし関に柄らるゆあ、に時同しか異象をじとこう扱取で方仕同。を人のてべす、しし 13)
差別や抑圧を受ける人々は、ほかの人々と「人として平等に扱われていない」と主張し、平等な取扱いを求める。しかしここでの平等な取扱いが、同じ取扱いではなく、異なる取扱いを意味することがある。
差別や抑圧を受けてきたマイノリティのグループが、平等の名の下に差異を捨象した政策や立法を行うことに反対し
(五三〇)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇七同志社法学 六〇巻二号 て、マジョリティのグループとの間の差異を理由に、一定の異なる取扱いを求める場合がある。彼/彼女らにとって差異を捨象した同じ取扱いは、著しい不利益をもたらす可能性があるからである。たとえば女性の妊娠や出産といった差
異に基づくフェミニズムの様々な権利要求や、多文化主義の論者による文化的マイノリティに属する人々の権利要求が挙げられる。
しかし、それらの「差異」に基づいた異なる取扱いは、差別や抑圧を永続化させる危険性も認識されてきた。なぜなら、差別や抑圧を受けてきたマイノリティのグループとマジョリティのグループとの間になんらかの「差異」があるこ
とを根拠に、過去の差別や抑圧は正当化されてきたからである。たとえば人種差別や性差別は、有色人種は白人よりも、女性は男性よりもさまざまな能力の点で劣っている、との認識に基づいて正当化されてきたのである。したがって、差
別を解消するためには、差別そのものを非難すると同時に、人種や性別が諸個人の能力を規定しているわけではないことを証明しようとすることも進められてきた。
つまり、差別や抑圧の解消を目指す場合に二つの方向性が生じる。一方は、マイノリティがマジョリティと同化あるいは融合することを目指し、マイノリティとマジョリティの同じ取扱いを求めていく動きである。他方は、マイノリテ
ィのグループの文化的独自性や差異に基づいて異なる取扱いを求めていく動きである。ここではこれらを「平等」志向
と「差異」志向と呼ぶことにする。
例えば、人種差別の撤廃を求めたアメリカ合衆国の公民権運動の指導者たちの間でも、人種差別の撤廃という最終的 目標を同じにしながら、白人との同化を目指す統合主義者と、白人とは異なる存在としての黒人の文化を維持しようとする多元主義者に立場が分かれる (
グだはまると言えるろ当う。また民族的てに」向れぞれ「平等志。向と「差異」志そ 14)
ループの間での文化的差異に基づいて、差異の認知を求める多文化主義と、法制度や政策は文化的差異に注目するべき
(五三一)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇八同志社法学 六〇巻二号
ではないとする文化多元主義の論争もある (
同ニ志向のフェミス等トは、男性と」平の。てし関に異差、「女男、にらさ 15)
じように女性を取扱うことを要求し、「男なみの平等」を求めるのに対し、「差異」志向のフェミニストは、女性と男性の間の差異を強調し、女性の特質の保護を求める。
アメリカの法学者のマーサ・ミノウ(
M ar th a M in ow
)は、このジレンマを「差異のジレンマ (ンたを再生産している、と指摘し。グさらに、ミノウによれば、ジレマィ局差もに、結テところの別生にたじスてっよ 」と向志両、け付名と 16)
マが生じる原因は、「異なっている」と判断し、物事をカテゴリー化する過程の中に潜んでいる。そして、それらの差異が、比較によるものではなくむしろ本質的なものとみなされてしまい、比較の前提とされる規範が述べられないまま
に、価値中立的で不偏的な観点から判断されている、と暗黙のうちに想定されることにある (
。 17)
このような「差異」と「平等」のジレンマは、とりわけフェミニズムを悩ませてきた問題である。なぜなら、このジ
レンマは、白人/有色人種、マジョリティの文化/マイノリティの文化、男性/女性という各々の差異に関して生じるだけでなく、マイノリティの文化に属する有色人種の女性などにとっては、より複雑なジレンマが生じてくるからであ
る。カテゴリー化が行われ、差異に意味が与えられるとき、カテゴリーの内部では、差異の捨象が首尾一貫したアイデンティティを生み出す。それゆえに、「女」というカテゴリーは、フェミニストの団結に役立つ一方で、女性の間での
文化や人種などの差異の重要性を軽視することになってしまうのである (
。 18)
さらに、ジレンマの生じる原因について先述のミノウの指摘がもっともであるとしても、このジレンマにいかに対処
するかという問いに対する回答は容易に導き出せない。特に法制度や法的取扱いにおいては事柄を明確にカテゴリー分けすることが要請されるため、フェミニズムの課題について法の領域で取り組もうとする際には、「差異」と「平等」
のジレンマはさらに深刻な問題となってくるのである。本稿の主たる目的は、ジレンマに対する平等論からのアプロー
(五三二)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一〇九同志社法学 六〇巻二号 チにあるため、法制度や法的取扱いとジレンマの関係については、詳しく考察することはできないが、次章においてフェミニズム法理論の取り組みについて概観する。アメリカ合衆国では、フェミニズム法理論 (
あるいはフェミニズム法学 19)
などと呼ばれる領域において、フェミニズムの課題が法の領域で取り組まれてきた。そこでは、「差異」と「平等」のジレンマについて様々な形で論じられている。次章では、フェミニズム法理論がどのようにこのジレンマにアプローチ
してきたかについて概観する。
二 ジレンマに対するフェミニズム法理論のアプローチ
1
本質主義的アプローチ 本章では、前章で示した「差異」と「平等」のジレンマに対して、フェミニズム法理論がどのようなアプローチを試 みてきたかについて概観する。フェミニズム法理論は、フェミニズムの課題について法の領域で取り組んできた。しかし、そもそもフェミニズムの定義は様々である。フェミニズムは、「女性のおかれた場を変革すること (」ことや「女性 20)
の解放 (
性と」に限定するこの女危険性も認識される「いる」などといわれ一を方で、解放の対象て 21)(
。フェミニズムの定 22)
義が一様でないことに加えて、フェミニズムの中には、法システムそのものが家父長制的システムであり、法システムの下でのフェミニズムの目標達成の可能性を疑問視する態度も見られた。フェミニズム理論は多様化が進んでおり、フ
ェミニズムと法がいかに関わるべきかについても一致していない。
しかし、事実として、フェミニズムは歴史的に法と関わってきた。なぜならフェミニズムは、その起源において女性
の政治的および法的権利の獲得を目指してきたからである。フェミニズムは、その具体的要求を法的権利の保障や法制
(五三三)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一〇同志社法学 六〇巻二号
度と結びつけるように働きかけてきたし、現在もそのような運動を展開している。
フェミニズムと法を結びつける学問分野であるフェミニズム法学、フェミニズム法理論あるいはフェミニズム法理学と呼ばれる領域が、アメリカの法学において隆盛を見るようになったのは、一九八〇年代頃のことである (
。七〇年代か 23)
ら八〇年代初頭にかけてのアメリカにおけるフェミニズム法理論の重点は、どのように男性と等しい法的権利を女性にも保障するべきか、という点に置かれていた (
雇きが与えられてた保一方で、特に護な性。特はてし対に別女、に的史歴 24)
用や経済的な問題については、女性が男性と同等であることが強調された。つまり平等の保障の具体的内容としては、女性を男性と同じように取扱う形式的な平等あるいは機会の平等で事足りたのである。しかし、性別間の生物学上の差
異に基づく「特別な権利」を女性に保障せよ、という主張があらわれる (
ba te de
たじ生が) (es e sa m en th s-d er en ce iff
か扱いを保障すべき質、同性/差異論争(る取なす男いを保障べきか、女の差異に基づく異sa es s en m
同質性(の女取扱)に基づいた。男 25)同枠でのもるまどとに内のりムズリガーリ・ルラベあ、のフに論議のムズニミェ波八二第の降以ば半代年〇リ存、は既 」で平「と」異差「の、章前は争論異差/性質等の。る論議のそしかし。あジで例な著顕のマンレ同 26)
調して、フェミニズム法理論家からも、その枠組みについて疑問が提示されるようになる。
男女間の平等に関する同質性/差異論争の両陣営に批判を展開したのが、キャサリン・マッキノン(
C at ha rin e M ac K in no n
)である。マッキノンは、両者があくまでも男性を標準としていることを批判し、問題は男女間の力(po w er
)の違いにあることに注目すべきであると主張する。マッキノンによれば、社会的、政治的、および経済的なあらゆる側 面で、男性が支配し、女性が従属するという構造こそ問題であり、そのような構造の一端を、法も担ってきたのである (固与少なからずインパクトをえ度たが、男女の力の差異をに制際法ッキノンの主張は、実のアメリカ合衆国の裁判やマ 。 27)
定的にみなす点や、女性を一つのカテゴリーとして捉える点について、批判が投げかけられるようになる (
。 28)
(五三四)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一一同志社法学 六〇巻二号 マッキノンと同時期に、その対極的な主張として、一九八二年に出版されたギリガンの﹃もう一つの声﹄ (
なっュラル・フェミニストによてル、男性を基準とした形式的チカと異響のもとで、男性るはなる女性の特性を称揚す の影なき大 29)
平等あるいは機会の平等は、平等な結果を生み出さないという批判も見られるようになる。例えば、ロビン・ウェスト(
R ob in W es t
)は、既存の法システムが女性の主張を捉えそこなっており、法理論についても、リベラル・リーガリズ ムは本質的に男性的であるとして批判を展開した (。 30)
同質性/差異論争では、男性と女性に対する同じ取扱いか異なる取扱いか、が争われたのに比べ、マッキノンやウェ ストは、いずれの取扱いを要求するにしても、その前提を問う必要があることを強調した。しかし、マッキノンおよびウェストのようなフェミニズム法理論は、ともに本質主義の立場に立つものであるとの批判が向けられるようになる (
。 31)
本質主義として批判される問題には、いくつかの異なるものが含まれている (
する階産中で人白すの有を体身な康級異、る有を権特はいあ性、かるあで者愛健にフミ第一に、ェニズムは暗黙のうち とてして義主質判批、される問題とし。本 32)
る「女性」を、想定しているのではないか、という問題がある。第二に、西洋のフェミニズムが他の文化圏にも適用可能か、という普遍主義の問題がある。第三に、一つの「一般」理論(
“ gr an d” t he or y
)によってすべてが説明されるとする還元主義の問題がある。例えば、ジェンダーにもとづく抑圧が最も深刻であるとして、他の形態の抑圧を下位に位
置づける見解がこれにあたる。第四に、女性のアイデンティティがジェンダー、人種、あるいは階級などのうち、ただ一つの事柄によって規定されるとみなすことが本質主義として批判される。第五に、生物学的性差を自然なものとみな
すような見解に対して、それらが社会的に構築されたものである、との批判が向けられる場合に、その批判は本質主義に対する批判として語られる場合がある。第六に、上記よりもさらに深い問題として、カテゴリー化のプロセスそのも
のに含まれる問題が指摘される場合に、本質主義が関わってくる。あるカテゴリーが用いられる場合、そのカテゴリー
(五三五)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一二同志社法学 六〇巻二号
に適合しない人々を過剰に包摂することになるか、あるいはそこに包摂されない人々を排除するという問題が生じたり
する。しかしカテゴリー化を避けると、集団でアクションを起こすことが困難になってしまうという問題がある。最後に、本質主義は、ある人の経験世界はその人が置かれた立場によって形成される、とするポストモダン思想の見解の擁
護者たちによる批判対象とされる。
これら七つの問題は相互に関連しており、重なりあう部分もあるが、前章で見たように、いずれも「差異」と「平等」
のジレンマに関わってくるものである。上述のマッキノンやウェストの場合も、七つの問題のうちいくつかの本質主義の問題を抱えていると言えるだろう。
では、これらの本質主義の問題を回避した反本質主義的なアプローチは、一体どのようにしてジレンマに対処することができるだろうか。
係主関の論等平とチーロプア的義本質反⑴
2
チーロプア的義主質本反 マッキノンやウェストの理論に基づくアプローチは、従来とは異なる視点を提供したものの、女性の本質を規定する点で本質主義的であり、女性と男性との間の差異を結果的に固定的なものにしてしまい、ジレンマから脱するアプローチにはならない。
例えばミノウは、暗黙のうちに想定され、隠されている、「差異」を生じさせる文脈や、「異なっている」と判断するパースペクティブを明らかにすることが、ジレンマ状況を脱するために必要である、と主張した (
。あらゆる差異を本質 33)
主義的に捉えるのではなく、差異を生み出すパースペクティブを相対的に捉えるミノウのような立場は、ポストモダン・
(五三六)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一三同志社法学 六〇巻二号 フェミニズムの論者によって強調されてきた。パトリシア・ケイン(
P at ric ia C ain
)は、単一の「女性」の定義は存在しない、というポストモダン的な見解を支持し、「女性」の意味についての会話こそが重要であり、平等などに関する ような実質的な理論をいったん横に置いて、会話を継続することが重要であると主張する (。 34)
ポストモダン・フェミニズムによる本質主義の危険性の指摘は評価される一方で、その帰結として、フェミニズムの 主張が弱められることに対する危惧も示されるようになった。例えば、「本質主義に対するポストモダニズムの過敏さが一種の超個人主義を招き、非常に保守的な結果をもたらしうるという危険性 (
ミスェフ・ンダモトポ、かと、るあが」 35)
ニズムのようないわゆる「第三波」フェミニズムは無価値なものに崩れ去る危険性を冒している (
避のに強化されるため、ジレンマ解さ消のためには、本質主義は回らて等レ異」と「平っのジ」ン主よマ義に質本、は 、な差。「るれわ言とど 36)
しなければならない。しかし、本質主義に陥ることなく女性の間での多様な差異を考慮しなければならない、との認識は、逆に女性たちを「一種声を上げにくい状況に、つまり女性たちが階級、性的志向、あるいは人種などの主要な非ジ
ェンダー的特徴を相手と共有しない限り、だれかのために声を上げることができないと思い込む (
かるういともいなはでの共安有されるようになる不 ( いでん込い追に況状」 37)
。 38)
先述のように本質主義がジレンマをもたらすと指摘したミノウもまた、差異を生み出すあらゆるパースペクティブの 相対化が、結果として、社会的抑圧に結びつくパースペクティブの維持に陥る危険性があることを認識している。その上で、権利の力に注目し、権利を用いたアプローチと関係性アプローチの統合により、権利を再構成することを試みた (
。 39)
ミノウのアプローチは、差異がもたらされる関係性をも考慮しうる権利によって、不正義に抗おうとするものであった。
ジレンマを認知し、本質主義的なアプローチの限界を指摘したミノウが、個別的な問題での不正義と取り組む消極的
アプローチに傾いたのと同様に、多くのフェミニズム法理論は、ジレンマに対して理論的に取り組むよりも、個別的な
(五三七)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一四同志社法学 六〇巻二号
問題に取り組んでいる。たとえば雇用における性差別、リプロダクティブ・フリーダム、家族法に潜むジェンダー・バ
イアス、あるいはドメスティック・バイオレンスなどの個別的な問題である。また、実質的な平等に関して論じるようなアプローチではなく、方法論に焦点をあて、フェミニズム法学の方法論(
fe m in ist le ga l m et ho ds
)に関する議論も見られる (
。 40)
⑵ 反本質主義的な平等論のアプローチへ 以上のようなフェミニズム法理論の流れとは別に、歴史学者のJ・C・スコットによって示された方向性は興味深い。 歴史学者のスコットは、ミノウの「差異のジレンマ」を踏まえて、ジレンマの対処法が「単に二項対立的な差異を多数の差異に置き換えるだけであってはならない (
と差て構築された異とを無視するこし範ン」「は消解のマ規レジたま、し 41)
からも、無条件に受け入れることからも生まれない (
でそ化ーリゴテカの、究し判批をーリゴテが極すことこるす絶拒をとる的れさと」実真「なカらもを異差、はつ一のた のレ解のマン張ジ。るすに主消動は、二つ」きが必要であり、そと 42)
ある。そして、二つ目は、この拒絶を「いかなる固定的な二項対立の意味をも混乱に陥れ、分裂させ、意味不明なものにしてしまうような差異の上に成立する平等の名において (
をス性険危の義主質本はトッコ、りまつ。るあでとこう行」 43)
踏まえて、「差異の上に成立する平等」を求めるべきである、と結論付けるのである。
「にこまでに見てきたよう、。フェミニズム法理論ではこか差」異の上に成立する平等とうはどのようなものであろ、 本質主義に基づかずに平等を論じることの困難さが認識されてきた。たとえば先述のケインは、ポストモダンの見解を支持し、どのような平等を求めるのかという議論はいったん横に置いておくべきであると主張した (
。さらにケインのよ 44)
うなポストモダン・フェミニズムに批判的なファインマンもまた、平等概念が役に立たない場合が多い、として「ポス
(五三八)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一五同志社法学 六〇巻二号 ト平等主義のフェミニスト」を自認する (
。 45)
これらの平等論への懐疑は、本稿「はじめに」で触れたような、フェミニズムとリベラリズムの緊張関係とパラレル にあるとも考えられよう。第二波フェミニズム以降のフェミニズムはリベラリズムを批判してきたが、近年では、リベラリズムの再評価も進められている (
」しェミニスト」とての、平等の「放棄フ義ま主ァインマンもた。「ポスト平等フ 46)
と中規模程度の理想の実現を訴えると同時に、自らの平等に関する認識の変化について次のように述べている。すなわち、八〇年代は平等の様々な形の区別を目指したが、「しかし私は間もなく、平等は法の基本と捉えられ、したがって軽々
しく扱えない生きた解釈の歴史を有する概念であると認識するようになった。それ︹平等――筆者︺は、簡単に理解することも、フェミニズムの改革にすぐに使えるような操作も容易にはできない用語なのである (
」と。さらにファインマ 47)
ンはその後の著作においても、平等の理念とリベラリズムとの結び付きについては、警戒を示しながらも、平等を論じることに対する従来の懐疑的な態度を和らげている (
。 48)
ファインマンの引用の中にも見られるように、平等の捉え方には様々なものがある。ここで「平等」の捉え方について確認しておこう。平等の捉え方として、「形式的平等」、「実質的平等」、「機会の平等」、「結果の平等」、「資源の平等」、
「福利の平等」、「相対的平等」、および「絶対的平等」などが挙げられる。現代の様々な平等論は「形式的な機会の平等
論」、「実質的な機会の平等論」、「福利の平等論」の三つに大別できる (
。な会の平等論」および「実質的機な会の平等論」にあたるであろう機的形、「は論等平つ式 ニにえ従す類分る、ばズフェミ、ムが関心を持と 49)
対、し象捨を異差のられそく、なとこるす目注に異差てす間すにれこ。るなにとこる障べ保を会機の一均に人のてのの 「、タス果結の圧抑や別差はト」論等平の会機な的式ー形々う人いなでうそ、と々人まイしてれさ除排ていおにンラ
して「実質的な機会の平等論」は、差別や抑圧ゆえのスタートラインにおけるハンディを補うことによって、実質的な
(五三九)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一六同志社法学 六〇巻二号
意味での機会を等しく保障するものである。フェミニズムが平等論を批判する場合、その批判対象たる平等論は主に「形
式的機会の平等論」である場合が多い (
。 50)
「平な機会の平等論」は、「等式」志向に含まれ、「男並的形差ン異」と「平等」のジレマ、「との関連でみてみるとみ
平等」を保障するのみとなる。さらに、「実質的な機会の平等論」は、一定の基準に依拠して実質的な機会を保障するため、その基準で判断される差異を本質的ものとみなした場合には、ジレンマに陥ってしまう。ジレンマに対処可能な
「平等」、すなわちスコットの言う「差異の上に成立する平等」は果たしてどのような平等であろうか。コーネルの平等論は、スコットの言う「平等」に近付いた「実質的な機会の平等論」にあたると思われる。次章においてコーネルの平
等論を概観し、その平等論がどのようにジレンマに対処することができるのかについて検討したい。
三 反本質主義的な平等論のアプローチ
「
1
イマジナリーな領域」の平等な保障
D・コーネルは、アメリカ合衆国の二つのロー・スクールで法学の教授を務めた後、現在は、ラトガース大学・政治 学部において教鞭をとっている。彼女は、ラカンの精神分析理論やデリダの脱構築の手法を用いて、女性のおかれている場を変革するフェミニズムの理論を提示しようと試み、﹃イマジナリーな領域(
The Imaginary Domain
)﹄(一九九五年)、﹃自由のハートで(
At the Heart of Freedom
)﹄(一九九八年)などのいくつかの書物 (・Fけでなく、T・アドルノ、J・・論リオタール、N・ルーマン、Rだ理初でけ彼女の析の著作期はラカンの精神分、 きわしてわた。とりを著 51)
イリガライ等の理論を批判的に検討したために、理解しづらい (
る用あ「は念概」格人「るす採の女彼、りたれさ評と、 52)
(五四〇)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一七同志社法学 六〇巻二号 意味でカント的な﹃自由﹄の原則にあまりにも忠実な形で構成されている」ことが、彼女の言説には"わかりにくさ"につながっている、と指摘されたり (
ニス潮流のうち、ポトのモダン・フェミ諸ム理ズいる。彼女の論しは、フェミニて 53)
ズム理論と呼ばれる理論にあたると言えるだろう (
線こ理の女彼、がとるをいてえ与を価評の論、一ェ一と論理ムズニミフ他・ンダモトスポの定て対に論義正なルラベし 拠「や」由自か的トンカし人し「し格」に依がて理論を展開し、リ、 54)
を画すものにしている。リベラルな正義論と自らの理論との違いについて、前者が主に分配的正義に焦点を当てているのに対し、後者は分配を受ける主体に注目し、分配的正義以前の平等に目をむけている、とコーネルは繰り返し述べて
いる。したがって彼女の理論は、フェミニズムによるリベラリズム批判というよりも、むしろ従来のフェミニズムの限界を指摘し、新たなフェミニズムの可能性を模索する理論と位置づけることができよう。
前章で指摘したように、従来のフェミニズムおよびフェミニズム法理論が、直面してきた限界の一つは、女性と男性の「差異」だけでなく女性たちの間での「差異」をどのように捉えることができるのか、という問題に対して有効な答 えを示せなかったことである。「差異」と「平等」のジレンマがフェミニズム法理論の発展を妨げてきたのに対して、コーネルの平等論は平等と差異の二項対立(
th e eq ua lit y/d iff er en ce d ic ho to m y
)を位置ずらしできるものである(JC , p. 22 ,
邦訳、四一頁)。彼女は、「尊厳」および「人格の同等性」を基底にした平等を説き、自由と平等の価値をどのように統合できるか、を探求する。コーネルの言う「人格」は、あらゆる差異を帯びているがゆえに、諸人格が等しく扱われる平等性を掲げたその理論は、普遍的な平等のもとでの差異の承認を可能にしている。
先述のようにポストモダン哲学やラカンの精神分析論の影響を受けて、コーネルは、「イマジナリーな領域」なる概念を提示する。そして「イマジナリーな領域」が各人に平等に保障されるべきであるとする平等論を展開する。新たに
「イマジナリーな領域」を設定することによって、まずもって性にまつわる差異をどのように取り扱うか、という問題
(五四一)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一八同志社法学 六〇巻二号
への対処が可能になると考えるのである。
本節では、「イマジナリーな領域」の平等な保障がなぜ必要であるのか、「イマジナリーな領域」とは何なのかについて、そして「イマジナリーな領域」の平等な保障は具体的な問題について何を要請するのか、について見ることにする。
⑴ 個体化のためのミニマルな条件としての「イマジナリーな領域」 個体化のためのミニマルな条件 先述のように、リベラルな正義論は、諸個人を想定した上で、その諸個人の間での分配的正義に関する原理を問題にする。しかし、コーネルによって問われるのは、それら諸原理の適用ですでに想定 された諸個人となるための条件なのである(
ID , p . 4 ,
邦訳、四頁)。たとえば、ロールズの正義論では、「市民は既に諸人格の道徳的共同体に包摂されており、したがって、平等な最大限の自由を保障されねばならない」(HF , p . 14 ,
邦訳、三三頁)ことになるが、「まずもって人格になるための同等な機会が私たちに与えられるように、私たちが象徴的に結集するためには、私たちにはどのような条件が必要なのかという問いとは取り組んでいない」(
ID , p . 17 ,
邦訳、二二頁) とコーネルは指摘する。コーネルのこれらの指摘は、ロールズのリベラリズムと同様にカント主義的であり (道しを摂包のへ」体同共的徳す「た釈視解を」国王の的目「るのである重 ( のトンカ、 55)
人正個、にうよの論義なルラベリ、しかし。 56)
の個体性(
in div id ua lit y
)あるいは人格(pe rs on
)を所与のものとして捉えるのではなく、個体化(in div id ua tio n
)つまり個人になる次元を、コーネルは設定する。われわれが人格とみなしているのは、すでに個体化された存在であり、個体化のためにはミニマルな条件が必要となる。それらの条件がなければ、一つの人格になるというプロジェクトに取り組むことができない。
人格となるプロジェクトに取り組むにあたり必要となるのが、個体化のためのミニマルな条件である。それは次の三
(五四二)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一一九同志社法学 六〇巻二号 つであるとされる。①身体的統合性(
bo dil y in te gr ity
)、②「自らを他者から差異化できる程度の言語的スキルを獲得するのに十分な象徴的な諸形態へのアクセス」、③「イマジナリーな領域」の保護の三つである(ID , p . 4 ,
邦訳、四頁)。①および②は、③の「イマジナリーな領域」の中に潜んで(
be e ns co nc ed
)いるものとされる(JC , p . 19 ,
邦訳、三四頁)。したがって、ここでは、③について詳しく見ることにする (。 57)
まず、「人格」がコーネルによってどのように捉えられているか、という点から見る必要がある。コーネルは「人格(
pe rs on
)」という言葉を特別な方針のもとに用いる。ラテン語のペルソナ(pe r-s on a
)という言葉が「~を通して輝く(
sh in in g th ro ug h
)」ことを意味し、人格は「仮面(m as k
)を通して輝く」もの、として捉えられる(ID , p. 4 ,
邦訳、四頁)。「仮面」は「自己(th e se lf
)」と真に区別できることはありえないとわかっていても、まず一つの人格は自らを 全体として想像できなければならない。人格は、その時々の仮面としてのペルソナと折り合いをつける終わりのないプロセスと関わっている、とされる(ID , p . 5 ,
邦訳、五頁)。折り合いをつけるプロセスにおいて、「自分は誰であり、何になろうとするのか」をその都度再想像する必要がある。したがって、人格になるプロジェクト(計画=投影)に乗り出すためには、「想像力を更新し、それと共時的に、自分は誰であり、何になろうとするのか再想像するための空間」
が必要になってくる(
ID , p. 5 ,
邦訳、五頁)。ここでの再想像のための心的空間が「イマジナリーな領域」にあたる、とされる。
人格は、「まさに﹃そこに﹄あるものとして表象される」(
JC , p. 18 ,
邦訳、三三頁)のではなく、プロジェクトの一 部として考慮されるものである。さらに、このプロジェクトは一回限りで終わるものではなく、人生を通じて終わることなく続けられる。人格とは、「決して一度も充たされえないがゆえに、ひとつの願望(as pir at io n
)なのである」(JC ,
p. 19 ,
邦訳、三五頁)と言い換えられる。(五四三)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二〇同志社法学 六〇巻二号
ただし、この再想像のプロセスは、決して「選択」とは呼べない類のものであることに留意しなければならない。な ぜなら、個体化に関わる、アイデンティティの基礎となるような諸々の要素は、歴史や文化から切り離されているわけではなく、まったく自由に選び取ることのできるものではないからである(
HF , p . 63 ,
邦訳、一一八頁)。コーネルは、Ch・テイラーの「自分自身を定義するということは、他者たちと自分との差異において何が意味あるものであるのかを見出すということを意味する (
」という見解に同意する 58)(
、一めたるれさ成形てじ通を化同のと者他、はジーメイ己自。 59)
アイデンティティの形成過程は、他者との関わりを必要とする。しかしその一方で、どのような存在になりたいか、という想像力の及ぶ範囲は、他者との同一化によって限定されるわけではない、ともされる(
BWG , p . 29 ,
邦訳、四七頁)。上述のように、個体化のプロセスで、各人は相互に差異化される状況と常に関わっており、そこでの人格の捉え方は、他者から独立した自律的人格像とは明らかに異なっているのである (
。 60)
「性化された存在」と個体化 個体化のためのミニマルな条件を考えるとき、新たに重要となるカテゴリーが
「性」のカテゴリーである。コーネルによれば、従来人格は一見「中性化」されてきたが、われわれは性化された存在(
se xe d be in g
)であるために、それら従来の人格概念には問題がある。性は人間にとって根本的なものであり、したが って、性のカテゴリーを含めた理論に基づいて、人格を捉え直す必要がある(ID , p. 17 ,
邦訳、二二頁、JC , pp . 17 - 18 ,
邦訳、三二―三三頁)。自分たちが何であるのかを想像する際に、すでに私たちは「性化」されており、性化されてきた存在としての自己自身の無意識的な同一化をともなうペルソナの基盤なしには、再想像できないのである。したがって「私たちは自分たち を、きわめて深く、深遠に﹃内側﹄から男性や女性として理解している」(
ID , p. 7 ,
邦訳、八頁)ことになる。ホモセ(五四四)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二一同志社法学 六〇巻二号 クシュアリティおよびヘテロセクシュアリティというセクシュアリティのあり方も、無意識的に引き受けたペルソナの基盤(性的イマーゴ)を暗に示すものであるため、それらを個人の「選択」とみなすことはできないのである(
ID , p.
8 ,
邦訳、九頁)。それらペルソナの基盤を通じて、想像し生き抜いている"性に関わる存在としての生"の否定は、「アイデンティティの根本的な部分を否定することになる」(ID , p . 8 ,
邦訳、九頁)。ここでの「性」という言葉は内面化さ れたアイデンティティを含意して用いられている(ID , p p. 6 - 7 ,
邦訳、七頁)。人格と「仮面」との結びつきに関連して、コーネルは、押しつけられた「仮装としての女性性(
fe m in in ity a s m as qu er ad e
)」を例に挙げる。ステレオタイプ化された女性性の仮面が押し付けられ、その仮面を通して自己の人格を輝かせることしかできない場合、女性的なもの(th e fe m in in e
)の想像が妨げられるため、個体化のためのミニマルな条件は満たされないことになる。なぜなら、仮面との折り合いをつけるために、私はだれであるのか、何になろうとするのかと想像するための領域(「イマジナリーな領域」)が必要であり、そのような領域の保護が個体化のためのミニマ
ルな条件のひとつとして保障されなければならないからである。したがって、女性性の仮装を押し付けられることは、「イマジナリーな領域」の侵害を意味するのである(
ID , p p. 7 - 8 ,
邦訳、八―九頁)。格下げの禁止 上述のような「イマジナリーな領域」が等しく保障されるべきである、とコーネルは主張するのであるが、「イマジナリーな領域」を保障するにあたり、制約がある、とされている。それは「格下げ(
de gr ad at io n
)禁止」 と呼ばれるものである。格下げは、ある人が「人格性に値しない、あるいは劣った形態の存在として﹃格付け﹄される」(ID , p . 10 ,
邦訳、一二頁)ことを意味する。たとえば、ゲイやレズビアンのカップルが彼/彼女たちの子どもたちとともに生活することや、両親になることを許
(五四五)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二二同志社法学 六〇巻二号
されないことが「格下げ」の例として示されている(
H F, p p. 60 , 17 6 ,
邦訳、一一二、三〇〇頁)。他方、ゲイやレズビ アンの人々がレストランで食事しており、そのレストランの持ち主が同性愛嫌悪者であって、気を悪くしたとしても、その持ち主の人格は格下げされていない。なぜなら、彼/彼女は異性愛者である自由を保持し続けるからである (10 p. ,
邦訳、一二頁)。ID ,
( 61)筆者の理解するところでは、「格下げ禁止」は、各人の「イマジナリーな領域」の保護に際して、新たに必然的に要
請される制約の一つであると解することができる。なぜならば「格下げ禁止」として挙げられている事柄は、従来の理論であれば、害悪として把握されることがない可能性があるからである。例えば、同性愛の人々が自らのセクシュアリ
ティを異性愛の人々と同じように表象することが許されないとしても、それは明確な害悪とは認知され得ない。逆に、歴史的にみれば、ソドミー法などに見られるように、同性愛者のふるまいに対する嫌悪の方が、害悪として正当化され
る機会を認められてきた傾向にある。コーネルの問題意識は「﹃心(
he ar ts
)﹄の枯渇」(HF , p. ix
邦訳、六頁)と表されるものにある。形式的平等が達成されたとしても、「心」が枯渇しつづけているのは「イマジナリーな領域」が欠け ているからである、と指摘する。「心の問題」は一見唐突であるが、差別をめぐって、しばしば問題とされてきたのは、ここでの「心の問題」であるとも言えるのではないか。たとえば、人種差別の問題をめぐっても、格下げやスティグマ (62)
といった心理的害悪について論じられてきた (
知唱てっよにとこるす提性を」域領なーリナ、「」マす認を悪害的理心る化を雑複りよ、るぐめジイは女彼、がだの「 る、悪害的理心じに際るも論を等を論考慮す。者はコーネルに限らない平 63)
可能なものにしたと言えよう。
なお、コーネルによれば、格下げの禁止によって要請されているのは、公的な空間における他者の平等な尊重であり
(
ID , p . 23 2 ,
邦訳、三二六頁)、それは、法的規制のために特別に仕立て上げられたものである(ID , p . 98 ,
邦訳、一三(五四六)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二三同志社法学 六〇巻二号 四頁)。ゆえに、格下げの禁止は、心理的害悪への制約を一定程度、法的領域に取り込むと同時に、他者の平等な尊重と各人の自由とを両立させる原則として理解できよう。
これまで個体化のためのミニマルな条件を平等に保障するためには「イマジナリーな領域」が各人に等しく保護されなければならない、というコーネルの見解を見てきた。先述のように「イマジナリーな領域」の保護に関するコーネル
の議論は、主として性的差異をめぐる問題に焦点を合わせているが、性的差異のみならず、アイデンティティ形成に関わる他の差異についても同様に扱うべきであるとされている。なぜなら性的差異とアイデンティティ形成に関わる差異
は分かちがたく絡み合っているからである。次に、「イマジナリーな領域」の平等保障が、性的差異やアイデンティティに関わる差異をめぐる具体的な問題に、どのように対処することができるのかについて見てみよう。
⑵ 「
イマジナリーな領域」と具体的諸問題
フ性、てしと題問るわ関に、絶はルネーコ。かうろだ中のすメラグノルポびよおトンス権ラハ・ルアュシクセ、利る請 「等フけわりと、は障保な平ミの」域領なーリナジマェイ要きを何ていつに題問諸たてズっなと的の争論で間のムニ ィなどの問題を、さらに文化的アイデンティティに関わる問題として、スペイン語の権利(
Sp an ish L an gu ag e R ig ht s
)の問題を取り上げている。
まず、中絶の権利についてであるが、中絶の権利の否定が身体的統合性への権利の侵害にあたり、平等な人格として 取り扱われないことを意味するとして、コーネルは、中絶の権利を平等の観点から擁護する (
いる機会を保障されていないのであか等ら、同等な価値評価がなされてな同れち否定さる女性たたはもはや人格にな、 性体的統合をへの権利。身 64)
ないことを意味する。さらにコーネルによれば、中絶の権利は一人で放っておかれる権利としてのプライバシーの権利
(五四七)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二四同志社法学 六〇巻二号
ではない。単なる国家の不介入を求めるのではなく、すべての女性にとって安全な中絶が可能である条件の確立が要請
される(
ID , p . 33 ,
邦訳、四五頁)。それは単なる消極的な自由の保障には止まらない自由の保障を意味している。妊娠は女性に特有な現象であるが、生物学的差異を根拠とした保護としてではなく、平等に関わる権利として中絶の権利を 論じる点に、コーネルの議論の一つの特徴があると言えよう (。 65)
次に、ポルノグラフィについては、マッキノンによるポルノグラフィ規制の立場とは異なる見解を、コーネルは提示
する。マッキノンによるポルノの法的規制に関する議論の第一の問題点は、ポルノ・ワーカーたちを、救済を必要とする犠牲者として取り扱っている点であり、それは彼/彼女たちの「イマジナリーな領域」における想像の妨げになりか
ねない。売春の法的禁止についても、同様の理由が示されている。すなわち売春が何を意味するかを決定するのは、国家ではなく当該女性たち自身である、と指摘する。売春婦あるいはポルノ・ワーカーとして生きることが、「イマジナ
リーな領域」の中で自己を回復するために必要な場合もあるからである。第二に、マッキノンがポルノグラフィはそれ自体が差別である、と論じる点についても反論を加える。ポルノグラフィは女性を沈黙させる威圧的な言語行為である、
との断罪は、ポルノグラフィに過大な力を認めることを意味する。過大な力を認めれば、その力によって沈黙させられた女性たちは、法的な保護によってしか救済されないことになる。それは、沈黙化に抵抗する女性たちによって日々あ
げられている声をかき消してしまいかねないのである(
ID , p . 14 4 ,
邦訳、一九四頁)。セクシュアル・ハラスメントについて、コーネルは、ロールズの「公共的理性(
pu bli c re as on
)」による基準を取り入れた議論を展開することで、従来の基準では定義の難しかった「環境型セクシュアル・ハラスメント」の適切な定義を可能にしている。さらにコーネルは、親密なアソシエーションを形成する権利を、様々な種類の家族││異性愛者に
限定しない││にまで拡大するべきことを主張する。例えば、子どもを養子に迎え、親となる資格を異性愛者に限定す
(五四八)
「差異」と「平等」のジレンマに対する平等論のアプローチ一二五同志社法学 六〇巻二号 ることは、「イマジナリーな領域」の平等な保護とは相いれない(
HF , C h. 4
)。「なれるのは、上記のよう性げに直接的に関わる事柄ら挙イ平マジナリーな領域」の等てな保護に関わる問題としだ けではない。コーネルは、アメリカ合衆国において、英語を公用語化する法令を批判し、「イマジナリーな領域」と関連付けてスペイン語の権利を擁護している。文化および言語的出自(
lin gu ist ic o rig in
)についても、それを「イマジナリーな領域」の内部で評価し、表現し、最終的に統合することが、個体化のためには必要だからである(
JC , C h. 8
)。スペイン語を用いるラテン系の人々に公共生活や職場の中で英語のみの会話を強いることは、その人々を「自由な人格 より劣るものとして扱い、それゆえ彼らを格下げし、そのイマジナリーな領域を侵害している」(JC , p. 13 1 ,
邦訳、二六〇頁)し、また英語のみの会話の強制は、「明らかに人々をその言語的な出自によって、格下げ(de gr ad e
)する」(JC , p. 15 1 ,
邦訳、二九六頁)ことになるのである。本節では、具体的な問題について、「イマジナリーな領域」の平等な保障がいかになされるべきかについてのコーネ
ルの見解を紹介してきた。コーネルの理論は、差異をめぐる様々な問題について、性的差異と結びついた他の差異に関しても矛盾を生み出すことなく一貫して論じることができるものである。またコーネルの平等論は、形式的な平等論や
本質主義的アプローチをとる実質的な平等論とも異なる形で、平等に関して論じるものであった。次節では、以上のよ
うなコーネルの平等論がどのように「差異」と「平等」のジレンマに対処できるのかについて、さらに詳しく見ていくことにする。
「
2
イマジナリー」な領域とジレンマ
前節で概観したコーネルの平等論は、「差異」と「平等」のジレンマにどのように対処することができるだろうか。
(五四九)