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バーリ海事慣習法瞥見

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(1)

バーリ海事慣習法瞥見

その他のタイトル Brevi riflessioni sul diritto marittimo consuetudinario di Bari

著者 栗田 和彦

雑誌名 關西大學法學論集

巻 59

号 3‑4

ページ 801‑837

発行年 2009‑12‑18

URL http://hdl.handle.net/10112/1519

(2)

バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

(3)

む ―

すび バ バ し

1 が

か リ

I  き

て 慣

(4)

バ ー リ 海

慣 習 法 瞥 見

八 四 九

ラ ー ニ

( B a

r i )   は︑アドリア海に面する中世に栄えた都市でありながら︑そのタイトルに海事法であることを明

した絹纂物を有していない ︒ 同じくアドリア海に面するヴェネツィア

( A n c o n a )

  およびト

( T r a

n i )

などが︑それぞれ︑そうした編纂物を有しているのと対照的であり︑また︑若干奇異にも感じられ

なか っ たとか︑あるいは︑海事法が形成されていなか っ たことを意味しない ︒

バ ー

リ は

纂 された同市の慣習法のなかに︑海 事 慣習法に関連する規定を有していた ︒

( 1 ) 

そのバーリ海事慣習法は︑有力説によると︑アドリア海の海事法のなかにあって偽ロード海法以降のものとしては

最古の海事法と認識されており︑そして︑

し た

ま ま

︵固有の独立した︶編纂物を有していない︑という事実は︑往時のバーリに海運が存在し

のちにみるように︑かなり

アドリア海沿 岸 の諸都市の海事法の形成にかなりの影響を及ぼした︑とい

バーリは︑中世イタリア海法史を論じる場合︑少なくとも︑中世アドリア海法史を議論する場合には︑そこを看過

アドリア海を北に遡上することが許されないほど重要な都市︑というべきであろう

︒事 実︑中世イタリア

海法史に関するモノグラフィにおいては︑もちろんであるが︑航行法ないし海商法の教科

書 ・体系書においても︑中

( 2 ) 

世イタリア海法史を扱った章を設けている場合︑ほぼ例外なく︑バーリの海事慣習法に関する紹介がなされている

︒ われている ︒

早い時期から交通の要衝として広く認識されており︑

ニ 盃世紀初頭ころに

︵ 八 O

I

︵この時期については︑議論はあるが︶編

しかし︑海事法に関する るほどである ︒

( V e n e z i a

) ︑

︶  ゞ

ま し

1,

アンコーナ

(5)

︵ごく控え目にいえば︑中世アドリア海海法史研究上︶

( 3 )  を有するバーリ海事慣習法の概要を簡略に紹介するものである︒

Ad 

e s . ,   G u i d o   B o n o l

i s , 

I I  

d i r i t t o   m a r i t t i m o   m e d i e v a l e   d e l l

' A d r i a t i c o , 

P i

s a

1921628

p . 

1 ‑ l ‑ 6  

. ; . . ! ︑

A n t o n i o

B r u n e t t i

,  D i

r i t t o   m a r i t t i m o   p r i v a t o   i t a l i

a n o , 

v o l .

 

1 , 

T o r i

n o

1928

p .  , 

8 5  

t i

︑ バ

ー リ

洵 西

車 デ

樺 四

習 i i

を 志

E

苅叩イタリアの最古の海事法︑とする ︒

( 2 ) アドリア海沿岸の諸都市の海 事

法について議論する場合︑バーリのほか︑ヴェネツィア︑アンコーナおよびトラーニを避

けて通るわけにはゆかない ︒

四都市のなかにあっては︑ヴェネッィアが他を圧倒するほどの存在感を

示 しており︑そこから

議論をはじめるべきかもしれない︒しかし︑すべての文献がそのような識論の順を踏んでいるわけではない︒たとえば︑

M a r i n o   M u r i

n o , 

A n d a r   p e r a   m r e e l   n   m e d i o e

v o , 

C h i e

t i

1988

p .  , 

5 5

 

s e

は︑トラーニ︑バーリ︑ヴェネツィア︑アンコー g g . 

ナ ︵ およびリーミニニ

R i m i n i )

の順に論じているが︑ ︵

リーミニを除けば︶編纂年の若いもの

︵ もちろん︑それに関して大

いに議論がある ︒ トラーニ海法は︑前文において︑絹纂年を 一

〇 六

︳ ︱

‑ 年 と 明 言 し て い る が

一 三六三年をもってその編纂年

と解する説が有力である ︒

トラーニ海法については︑拙稿﹁トラーニ海法素描﹂関西大学法

論集五五巻四・五合併号

︱ 二

八六頁参照︶から順に扱ったもの︑と思われる

絹纂年が古いと思われるものから検討の対象とするのも

︱ つの研究方法の

あり方であろう

( 3

) バーリ市慣習法のなかにみられる海事法に関連する規定は︑ごく断片的であり︑解読がきわめて困難なものが含まれてい

る ︒

また︑イタリアにおいても︑バーリ海事慣習法に関する研究が充分に蓄積されておらず︑そして︑筆者がそれらをすべ

て分析・検討できているわけではない ︒ そのような状況において︑﹁備忘録﹂というべき本稿の公表にためらいを覚えるが︑

本稿が中世イタリア海法史研究の発展・深化のきっかけ

( s p

u n t i ) になればとの思いと︑本稿をもって孝忠延夫教授のご還 暦を慶賀する人々の末尾に加わりたいとの思いから︑あえて本稿を公表する次第である

︒ ( l

)  

本小稿は︑中世イタリア海法史研究上 関法 第五九巻三•四号 四九〇

きわめて重要な意義 ︵ 八 0

二 ︶

(6)

バーリの起源は︑おそらく現在のプーリアの中心部あたりに居住していたイリュリア人たちの手によるものであろ

ー リ 海

慣 習 法 瞥 見

歴 史

八 0

0 ミリメートル バーリは︑イタリア半島のかかとからアキレス腱の部分にあたるプーリア

線のほぼ中央に位置している ︒ バーリは︑豊かな後背地 (

C o n c a d i   B a r i

︑さらに広くいえば︑

T e r r a d i   B a r i )  出される多くの農作物の集散地として栄えた街である ︒ そして︑そこから︑

およびイオニア海へは︑ほぼ 二

0

キロメートルである 0 ︒ アドリア海を隔てた対岸のバルカン半 島

バーリは︑現在︑プーリアの州都であるが︑プーリアの政治・経済の中心地にとどまらず︑南部イタリアの経済・

産 業 発 展 の 拠 点 と な る 重 要 な 都 市 の

︱ つである

︒ 現在のバーリの発展は︑ とりわけ︑

M u r a t 二 によって新市街地の開発が承認され︑市街地が著しく拡大したこと︑さらには︑

o t t t

紀に入ってから︑南 部イタリア開発の重要拠点の ︱ つに選ばれたことによるところが大きい︑といいうる ︒

一 月の約八度︑最高は︑七月の約二四度︶

︵ 降水量がも

っ とも多いのが 一 0 月であり︑少ないのは七月 ︶

リ ア

︶ は︑現在︑良質のオリーヴォイル︑ 年間平均気温は︑約一六度︵最低は︑

地 理

J ゞ

四 九

︵ あるいは ︑

プー から産

であり、年間降水量は、六 oo~

である ︒ バーリ

ワインおよびパスタの生産地として広く知られている ︒

︵ 八 0 三 ︶

一 八

一 三 年

G i o a c c h i n o  

( P

u g l i

a ) 州がアドリア海と接する海岸

(7)

争いのため︑幾度となく︑苦しみを味わった︒

八世紀前半︑

九世紀初頭︑

八七 0

年 ︑

八 七

五 年

バーリは︑東フランク王

L u d o v i c o

二世︵ドイッ王︶

ゞ ー

︶ ま

J 1 t  

ビザンツ帝国に属するようになった︒しかし︑ その支配者の地位についた︒

しかし︑八四

0 年 ︑

R a d e l c h i

とサレルノ

至 っ た ︒

手に落ちた︒

ゞ ー

︶ ま

J l '

し `

徐々に︑プーリアの中心地としての地歩を固めていった︒ の略奪を受けた︒その後︑

名目的にはビザンツ帝国に服していたが︑ ベネヴェント

アラブ人の支配から解放された︒

ベネヴェント公

R a d e l c h i の保護を受けるに

六 六 九 年

略奪・破壊を受けた︒ ローマ帝国滅亡後︑ キリスト教の伝播にともない︑ 第五九巻―――•四号

ラテン語で

B a r i

u m ︑ギリシャ語で

B g 5 0 くである︒紀元前二軋紀ころ︑す バーリにも教会が建立され︑三四七年には︑

バーリは︑南部イタリアの多くの都市と同様︑幾人もの支配者に服し︑しばしば︑異民族による

ロンバルド人とビザンツ帝国の争いが原因となり︑

( B e n e v e n t o )

R o m o a l

d 0 がバーリを奪還するが︑また︑

ビザンツ帝国皇帝

L e o n e I s a u r i c o   ( レ オ 三 世 ︶

ビザンツ帝国皇帝

C o s t a n t e ( コ ン ス タ ン ス ︶

に対する反乱のなか︑

( S a l e r n o )

S i c o n o l f o

の争いに乗じたアラブ人は︑

に よ

っ て

バーリを略奪し︑

︵ 八

0

四 ︶

二世

G e r v a s

i   0

が司教の座にあった︒西

ゞ ー

リ ま

l l  

で に

︑ バ ー リ ︵ 港 ︶

の 重

要 性

は ︑

ローマ人たちによって認識されていたようである︒ う︒もっとも広く知られていた名称は︑ 関法

ビザンツ帝国の

バーリは︑自らの指導者を選び︑

ビザンツ帝国とロンバルド人との

四 九

(8)

c r e d

i とともに聖地に赴いた︒

ま た

なった ︒

バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

四 九

ベネヴェント ︵

ロ ン バ ル ド 人

︶ ︑

1 0

七 一 年 ︑ R o b e r t o i l   G u i s c a r d

o がバーリを手に入れ︑

1 0

八 五

年 ︑

R o b e r t o i l   G u i s c a r d o

の死後︑長男の

B o e m o n d o

がバーリの統治を継承するが︑二年後︑異母兄弟の

バーリは︑十字軍の出帆地の一っとして知られている︒そこから︑多くのプーリア人が

B o e m o n d o

T a

n ,  て献じられた︒同年︑聖ニコラは︑ バーリの守護聖人とされた ︒そ

て し

︵ 八 0

五 ︶

バーリは︑多くの巡礼者を集めるように

1 0

八七年︑聖骸を保存するための聖堂の建設が着手され︑ 1 0 八九年︑法王

U r a b n o

二世によって納骨所とし いたバーリの 三 艘の船が︑ミラ

( M i r a )

で聖ニコラ

(S

.  N i

c o l a

の聖骸を入手し︑ バーリに持ち帰った )   ︒ 兄弟間の醜い争いのかたわら︑ バーリに大きな幸運が訪れた︒

R u g g e r  

0 がそれを奪った︒ バーリは︑なおも︑ ︵

立 独

︶ 運

動 は

1 0

一 八年まで続いた ︒

1 0

九 0

年 ︑

し か し ︑

ア ラ ブ 人 は ︑

ンツ帝国によって取り戻された︒

九 六 八 年

ビザンツ帝国総統の過酷な統治が︑ バーリに対する野心を絶やさず︑

ァンティオキア バーリは︑神聖ローマ皇帝

O t t o n e 一世︵オットー大帝︶

( A n t i o c h i a )  

との交易に従事して バーリは︑六ヶ月間その攻撃を凌いだのち︑

P i e t r o O r s e o l  

0 二世が率いるヴェネツィア艦隊によって救助された ︒

バーリをビザンツ帝国に対する反乱へと導いた ︒

そうした抵抗

ビザンツ帝国およびアラブ人たちの争いに苦しみ続けた︒

ビザンツ帝国のバーリ支配は終了した ︒

1 0

0 二年︑シチリアより北上し︑攻撃を仕掛けてきた︒ の手に落ち︑そして︑九八 二

年 ︑ 再 度

ビザ

(9)

その後︑数十年間︑ 朝に帰するが︑

ま た

戦 後

バーリは︑繁栄の時期をすごすが︑

一 四

六 四

年 ︑

バーリは︑デュラッツォ G

i o v a n n a が タ ー ラ ン ト

受け︑降伏せざるをえなかった︒ ンガリーの

L u i g

i との争いに際して︑ アンジュー王朝下︑ ジュー王朝によって引き継がれた︒ な市

( f i e r a )

F e d e r i c o

︱ 一 世

は ︑

それから一 0

年 ︑

それも束の間︑

スペインの再統治に服して以降︑約

二 匪紀に

( M i l a n o )

S f o r z a M a r i a   ( S f o r z a )  

ゞー︶ま︑

J l

ー し `

バーリは︑今度は︑南部イタリア全体とともに︑

がバーリを去ったのち︑紛争が再発したが︑ R

u g g e r  

0 二 枇の争い︒そして︑

一 方

関法 第五九巻三•四号

に譲渡された ︒

G i o v a n n a

に加担した︒しかし︑

( N a p o l i )

女王

G i o v a n n a

( ︱

二 六

六 年

の ち

バ ー リ の 支 配 を め ぐ り

︑ 対 立 は 継 続 し て い た

B o e m o n d o

R u g g e r

0

の 争

い ︑

い っ

た ん

その支配者は︑

ハンガリーの攻撃を

︵ 一

世 ︶

バーリの支配は︑

ア ン と

ハ ア

スワヴィア王朝の

F e d e r i

c 0

二世の手に渡った

一三六年︑神聖ローマ皇帝

L o t a

r i 0 三 低がバーリの支配を手にした︒

L o t a r i 0 三世

一 五

六 年

︑ G u g l i e l m i l   o M a l  

0 がバーリを侵略し︑徹底的に破壊した︒

バーリの人々は︑街の再興に乗り出した︒

バーリの重要性を認識し︑築城と新たな港の建設を命じた︒そして︑王国で開かれる七つの大き

の︱つをここで催し︑種々の特権を付与した︒

し か

し ︑

M a n f r e d i ( F e d e r i c

o 二世の子︶がベネヴェントで敗退した

バーリは︑衰退期に入った︒

( T a r a n t o )  

アンジュー王朝・ナポリ

R o b e r t o d ' A

n g i o にバーリを与えたのち︑

ジュー王朝内部において︑目まぐるしいほどに交代した︒

( D u r a s )   ミラノ

とアンジュー王朝との紛争に巻き込まれたのち︑

一 五

五 八

年 ︑

一 三 四 九 年 ︑

四九四 ︵ 八 0

六 ︶

アラゴン王

バーリの

G r i m o a l d o

(10)

*  われる ︒ バ

ー リ 海

慣 習 法 瞥 見

v e c c h i o )  

‑ ' 三 アドリア海沿岸にあってプーリアは︑比較的︑港に恵まれている ︒ それらのなかにあって︑

も恵まれた場所に位置する︑というぺきであろう︒また︑その古さにおいても︑

それでもなお︑

I

二 で ふ れ た よ う に

︑ そ の 重 要 性 は

︑ も ち ろ ん

︑ 旧 市 街 地 の 東 側 に 位 置 す る 古 い 港

( p

o r t o

て︑われわれが議論をしようとしているバーリ市慣習法が形成されたころ︑あるいは︑第 一 次十字軍が出帆の地とし

バ ー

リ 港

は ︑

ブリンディジ港に勝るとも劣らないほど重要な港と認識されていたもの︑と思

以 上

の 記

述 は

として︑下記の三冊の辞典によ

っ て

い る

E n c i c l o p e d i a t a   l l i a n

a , 

v o l .

 

6 , 

R o

m a

1949

177‑184

p p . 

D i z i o n a r i o   E n c i c l o p e d i c o

t a   I l i a n

o , 

v o l .

 

2 , 

R o

m a

1970

p .  , 

8

5. 

G r a n d e   E n c i c l o p e d i a

e   D

  A g o s t i n i , 

v o l .

 

3 , 

N o v a

r a

1994

441443

p p . 

.

たころには︑おそらく︑

の こ と で あ る が 紀 元 前

二 世紀ころ︑すでに︑

四九五

︵ 八 0 七 ︶ ローマ人たちによって認識されていたようである ︒ そし かもしれない ︒ しかし︑東方貿易の便宜のみからすると︑ つにあげられる ︒

バーリ港

わたる衰退期に入った︒

ブリンディジがバーリに勝っている アッピア街道の終点・ブリンディジ

( B r i n d i s i )

の  

ほ う

が ︑

バーリより バーリ港は︑良港の

(11)

m e n t o   d

i   V . 

M a s s i l l a )

が出版されている︒ 経緯のみを概観すると︑まず︑

M a s s i l l a

の 死

後 ︑

そのタイトルが示すように︑

ニ ・ '

関法

バーリ市慣習法 第五九巻―

―•四号

二つの編纂物

バーリ市慣習法

( C o n s u e t u d i n e s p r a e

c l

r a e c i v i t a t i s   B a r i i

こ祐誉あるバーリ市慣習法︶

いない ︒

同法に関するもっとも古い情報は︑

p r a e c l a r a e   c i v i t a t i s   B

r i ,

P a t a

v i i , 

1 5

5 0 ︑

その補遺において︑

V i n c e n t i u s   M a s s i l l a   a b   A t e

l l a , 

C o m m e n t a r i i   s u p e r

o n   c s u e t u d i n i b u s  

( 1 )  といわれている ︒ 同書は︑二つのバーリ市慣習法に関する編纂物を提供し︑

コメントを付している︑

S p a r a n o   ( S p a r r o ) が編纂︵収集︶

し た

も の

されているが、人物•生存時期については、

のあいだ︑幾人かの研究者によって︑ 一八但紀後期にも︵一七八四年︶ ︵ 八 0 八 ︶

一 七

世 紀

という ︒ 同書が報じている慣習法の ︱

つ は

A n d r e a

が︑他は

( 2 )  といわれている ︒ 二人の編纂者は同じく法律職にあったもの︑と推定

( 3 )  いまだに特定されていないようである︒

同書は︑不明・難解な点が多く︑その点に関しては︑

( 4 )  重な文献であることに︑おそらく異論はない ︒ 事実︑同 書 は︑幾度となく︑再版・再検討の対象となった ︒ 主だった 一般的に評判はあまり芳しくないが︑古い慣習法を扱 っ た貴

一 五九六年︑ヴェネツィアにおいて再版︵復刻︶された ︒

バーリ市慣習法に関する検討がなされた ︒

も ︑ D o m e n i c o D e   R o s s i に

よ り

︑ N a p o l i

に お

い て

︑ M a s s i l l a

の註釈に対する検証本

( C r i t i c h o s e s e r v a z i o n i   s u l   c

o m   , 

一九世紀中葉に出版された

G i u l i o P e t r o n

i , 

S t o r i a   d i   B a

r i , 

N a p o

l i , 

1 8 5 6

は ︑

( 5 )  バーリ市慣習法の洗練されたイタリア語訳と註釈を掲げている︑という ︒

いま︑われわれは︑

M a s s i l l a

の出版物を直接手にすることができない ︒

A n d r e a

S p a r a n

0 の編纂物の全体は︑ の原典の存在は︑知られて

四 九

(12)

( 3 )  

( 4

)  

( l

)  

一 方 ︑

バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

このことは︑バーリ市慣習法を議論する研究者が等しく認めるところ︑と思われる︒ Ad

e s . ,   E n r i c o   B e s t

a , 

I l   d i r i t t o   c

o n   ,  s u e t u d i n a r i o   d i   B a r i   e  l a  

s u a   g e n e s

i , 

R i v i s t a   i t a l i a n a   p e r

  l e   s c i e n z e   g i u r i d

41901

i c h e p . 

( 2 )

そこに 収集されている慣習法は︑バーリ市においてのみ適用されていたのではなく︑周辺の諸都市︑たとえば︑ノイア

( N

o i

a ) ( T トゥリ ︑

u r ) i

︑ルティリアーノ

( R u

t i g l i a n o

) ︑カプール

ソ (

C a p u r s o )

︑モラ

(M

o l a

)

などにおいても︑その大 部分が妥当していたようである

( V i t o G i u s t i n i a n i

,  I l  

d i r i t t o  

c o

n s u e t u d i n a r i o   d i   B a r

i , 

i n   T e r r a   d i   B a r

i , 

v o l .

 

1 , 

T r a n

i

1900

p .  , 

150)

二人の編纂者の特定作業に関しては︑二

I

二において概観する︒

Ad 

e s . ,   B e s t

a , 

o p

.  c i t

. , 

l o c o   c i t ・

な お

︑ B e s t

a ,

o p

.  c i t

.

7

によると︑バーリ市慣習法として︑少なくとも︑ 三つの p .  , 

編纂物

ていた︑と考えられている︒したがって︑

S p a r a n o は ︑

バーリ市慣習法とローマ法との差異ではなく︑ 思われる︒すなわち︑

A n d r e a

は ︑

G i u s t i n i a n i

の研究が提示しているものによって︑みることができるだけである

( 6 )  

本 ︑

S p a r a n

o 本と称することにする︶ ︒

二つの編纂物は︑同じバーリ市の慣習法を扱ったものであるにもかかわらず︑条文数︑規定の形式・用語および編

︵ 慨して ︶ 無味乾燥・正確・概要的である︒これに対して︑

ではなく︑多くの規定において冗長・誇張がみられる ︒

えられている︒そして︑

四九七 ︵以下︑それぞれの編纂物を

A n r d e a S p

a r a n

o 本は︑条文数が五

ニ ヶ

条と多くなっているだけ

二つの編纂物は︑外形的特徴が異なる点よりも︑むしろ︑編纂者の意図・目的が異なる点がより重要であろう︑

バーリ市慣習法とローマ法との差異を明確にする目的から︑網纂を試みた︑

( 7 ) 

A n d r e a

は︑教会法をも意識していたのではないか︑と指摘されている ︒

ロンバルド法との差異を明確にする意図を有し

( 8 )  

二人の絹慕者に共通の意図・相互依存関係を認めることは困難であろう︒ ︵ ようである︶

A n d r e a

本 は

︵ 八 0 九 ︶ と

と考

纂の形式・目的が異なっている

一 八ヶ条の条文からなり︑規定の形式 ︵

用 語

(13)

付記されているように︑ こ ︑

9'r 

があったようであるが︑第 三 のものは︑貴族の夫婦間の財産に関する慣習法のようであり︑また︑かなり後年のもののよう

である ︒ 多くの研究者は︑バーリ市慣 習 法を識論する場合︑

A n d r e a

本と

S p a r a n

0

本の分析に集中している ︒

( 5 ) この間の 事 情については︑

B e s t

a ,

o p

.  c i

t . ,  

5‑6 

p p

B a r t o l o m m e o   C a p a s

s o , 

L e   f o n t i   d e l l e   p r o v i n c i e   n a p o l i t a n e   d a l  

568 

a l  

15 00

N

a p o l

i , 

19 02

 

( r i s t a m p a , 

19 97

)

p . 

11

43; 

n . 

G i u s t i n i

a n i , 

o p .  c i t . ,  

p . 

14 8

に ト

6

30

( 6 ) 

G i u s t i n i

a n i , 

o p .  c i t

. ,   p p . 

20 4‑ 24

1

に両者が紹介されている ︒

( 7 ) 

B e s t

a , 

o p

.  c i t . ,  

p . 

13. 

M a s s i l l a

には凡庸にみえた

A n d r e a は ︑ B e s t

a には︑かなり法的 素 養の高い人にみえるようである ︒

( 8 ) 

B e s t

a , 

o p

.  c i t . ,  

p . 

14. 

また︑本文で少しふれたように︑

S p a r a n

o 本の多くの規定において冗長さがみられる ︵

た と え ば

I‑l‑I

五でみる第 三 六条 ︶

が ︑ そ れ は ︑

S p a r a n

0

が バ ーリ市慣習法を客観的に編纂 ︵ 保存 ︶ する意凶ではなく︑個人的註

釈を加える意図を有していたためかもしれない ( Ad

e s . ,   M u r i

n o

p .  , 

c i t . ,   p p . 

65

‑6 6)

二 ' ニ

が存在しているが︑それほど大きな隔たりはない ︒ すなわち︑①

ら一三世紀初頭︵少なくとも︑

そ れ

ぞ れ

やはり議論が分かれている ︒ 結論を先に示すと︑大略︑ 三 つの見解

F e d e r i c o

二 世が法律を公布した︱二

三 一

年 以

前 ︶

いくつかあげられよう ︒

ま ず

A n d r e a

S p a r a n

0

の 二 人の編纂者

おおよその編纂時期を知ることができるであろう

G i u s t i n i a n

i が提示する二つの編纂物

C o n s u e t u d i n e s   b

r e n s e s c o m p i l a t a e

e

i r u d i c e m   A

d r

m e ︑

二 人が裁判官であった︑と考えられている ︒ 幾人か同名の者がバーリ関連の古文 書 のなかに を特定することによって︑ 絹纂時期を特定するための手掛かり・論拠は︑ る ︒ A

n d r e a 本と

S p a r a n

o 本の編纂時期に関して︑ 編纂時期 関法第五九巻―

―•四号

C o

n s . 

b a

r . 

c o m p .  p e r   i u d i c e m

  S p

r

r u

m と

お よ び

︱ 二

0 四年の 三 説であ 一 八

o i

︱ 二

0

0 年のあいだ︑② 四九八 ︵ 一 八

0 )

︱二世紀末か

(14)

バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

︵かなりよく知られた︶古文書の一節であろう︒すなわち︑ 注目すべきものとして︑

バーリ市慣習法は︑ ︱

0 二

年 ︑

二 ︱

0 九年および︱ニ ︱ 0 年の文書にみられる

A n d r e a

をもって 一 方の編纂者

︱ 一九六年の文書に名を残す

S p a r a n

をもって他方の絹纂者とする点で︑学説はほぼ一致しているもの︑ o

( 1 ) 

思 わ

れ る

︒ そして︑編纂時期をより絞り込むためには︑もっとも正統的な方法として︑条文中にみられる用語・制度・通貨な

どをあげ︑個別・具体的論拠を示すのである ︒ さらには︑それらの論拠を補強するために︑関連する古文書︵の記

載 ・

一 節︶を提ホする方法も用いられる ︒ 上記の方法は︑①および②説がそれにしたがっている ︒

( 2

)  

に ︑ B e s t

a によって提唱されている︒この説の支持者のなかで 0 ①説は︑すでに二 0 世紀の最初の年(‑九

一 年 ︶

R u

g g

e r

o

(二世︶が一︱三二年に承認したもの︑

し て な し た ︑ す る

規 定

︱︱三二年六月 一

四 日

︑ R

u g

g e

r o

が バ

ー リ

市 民

に 対

( 4

)  

バーリ市民の法律と慣習をその意思なくして廃棄しない旨の宣誓の一節である︒

そして︑②説は︑①説と前後して︑

C a p a s s

によって提唱されている︒ o

C a p a s s

0 が具体的にあげる論拠は︑四つで

あ る

︒ A n d r e a

本第二条にみられる

o c m i t e s (民・刑事裁判権を有する裁判官︶︑

F e d e r i c o

二世の公布した法律に矛盾

とりわけ

S p a r a n

o 本第七条にみられる通貨および

A n d r e a

本第︱二条にみられる

m o r g i n c a p ( いわゆる

( 5 ) 

嫁資︑と思われる︶に関する規定である︒これら条文のなかにみられる諸制度から︑絹築時期を推測している︒

( 6 ) 

③説は︑近年︑多くの有力な支持者をえており︑ほぼ通説的地位を占めるに至っているが︑筆者は︑いまだ︑その

最初の提唱者︵およびその論拠︶を知らない︒筆者の知りえたかぎりでは︑③説の支持者は︑結論(︱二 0

四 年

と し

登場するようであるが︑

四九九 ︵ 八 ▲

一 ︶ と

︱ ︱ 八 0

から

︱ 二 0

0 年 のあいだに絹纂されたものであるが︑シチリア

( 3 )  

と明 言 する者がいる ︒ おそらく︑その論拠は︑バーリに関連す

(15)

( 5 )  

よび先行の提唱者のみを示し︑論拠を示していない︒そして︑引用された提唱者も︑論拠を提示していない︒

作業である︒

︵ の

重 要

性 ︶

その絹纂時期にふれていない

( 7 ) 

有力な文献も多数存在している︒あるいは︑正確に編纂時期を特定しうる状況にな

( 8 )  い︑というのが妥当なところかもしれない︒

いささか無責任であるが︑三説のいずれによっても︑結論が大きく変るわけでもないので︑

( 9 )  つぎの作業に進むことにしたい︒また︑

いずれの説も︑絹纂時期よりかなり以前に︑慣習法自体は成立していた︑

二人の特定作業の概要に関しては︑

B e s t

a

p .  ,

c i t . ,   p p . 

8‑9 ; 

A d o l f o   S e n i g a l l i a

,  L

e   c o n s u e t u d i n i   m a r i t t i m e   d i   B a r i

,  L

o r o   d a t a z i o n e   e  c o n t e n u t

o , 

A r c h i v i o   s t o r i c o   p e

r   l e   p r o v i n c e   n a p o l e t a n

N S e .  , 

. ,  

1944‑1946, 

p p . 

96‑97, 

e c ( O ~~\昭心りこ

AJ

c .  2 )   B e s t

a

p .  , 

c i t . ,  

p . 

20. 

R i n i e r o   Z e n

o , 

S t o r i a   d e l   d i r i t t o   m a r i t t i m o   i t a l i a n o   n e l   m e d i t e r r a n e o

,  M

i l a n

o

1946185 

p

.  , 

M u r i n o

o p

.  c i t

. p .  , 

64

が︑なおこの立場を支持している

( 3 ) 

G r a n d e   E n c i c l o p e d i a c i t  

.

443

p .  , 

を あ

げ る

こ と

が で

き る

︒ ( 4 )   G i u s t i n i a n i

,  o

p .  c i t . ,  

p . 

149. 

こ の

一 節を紹介している

G i u s t i n i a n i

自 身

は ︑

編 纂

時 期

の 特

定 を

試 み

て い

な い

︒ な

お ︑

一 〇

一 年

四 月

: 五日︑バーリを手に入れた

R o b e r t o i i   G u i s c a r d

o も︑バーリの法律と慣習を維持する旨の宜誓を行ったようであ

るが︑その法律と慣習がいかなるものであったのかは報告されていない (

S e n i g a l l

i a ,

o p

.  c i t

. p .  , 

9 8 ; 

G i u s t i n i a n i

,  o

p .  c i t

. p .  , 

14

8)

C a p a s s

o , 

o p

.  c i t

. , 

p p

.  1 1

6

1 1

7

2

n . 

, ( 1

)  

ことを認めている︒ 三世紀初頭にはすでに編纂されていた︑ われわれとすれば︑ の編纂時期に言及していながら︶

と思われるいくつかの規定が存在している

という漠然とした仮説を受け入れ︑ バーリ市慣習法 に論及しながらも︑ ︵他の同様に重要な法源

バーリ市慣習法の編纂時期の特定は︑他の都市の︵海事︶法についてと同様

︵ な い し そ れ 以 上 に ︶

関 法

第五九巻三•四号 五

0 0

︵ 八 ︱

きわめて困難な 二 ︶

(16)

(<.o)  Bonolis,  op .  cit.,  loco  cit.;  Brunetti,  op.  cit.,  loco  cit.;  Antonio  Scialoja,  Corso  di  diritto  della  navigazione,  I,  Roma,  1943, 

p .  20;  Dante  Gaeta,  Le  fonti  del  diritto  della  navigazione,  Milano,  1965,  p.  61;  Mirella  Tocci,  Sintesi  storica  del  diritto 

marittimo  dall'antichita  al  medioevo,  Diritto  <lei  trasporti,  2002,  p.  377,  n.  77;  Antonio  Lefevre  D'Ovidio  ‑ Gabriele  Pesca‑

tore  ‑ Leopoldo  Tullio,  Manuale  del  diritto  della  navigazione,  10  ed.,  Milano,  2004,  p.  15;  Alfredo  Antonini,  Corso  di 

diritto  dei  trasporti,  Milano,  2004,  p.  13,  ecc. 

( c‑‑ )  Romualdo  Trifone,  Le  fonti  della  storia  del  diritto  italiano,  2  ed. ,  Napoli,  1936,  p .  198;  Francesco  Calasso,  Medio  evo  del 

diritto,  I,  Milano,  1954,  p.  437;  Francesco  M.  Dominedo ,  Principi  del  diritto  della  navigazione,  I,  Padova,  1957,  p.  24; 

Giorgio  Righetti,  Trattato  di  diritto  marittimo,  Pt.  I,  Tom.  1,  Milano,  1987,  p.  93,  ecc. 

( co)  Senigallia,  op.  cit.,  p.  108. 

( 0) )  ·- ~

—=把鯉即坦

e

筍斗営芸祖吋る瑶嘩営芸如華製ゃ如心似

111 111

如悪諜蓉コ

#=Q

終全旦弼

~t{d

ぷ¥心対迎

'Andrea

怜釘忌

Q j

塩共吋も匡踪

1 ~

知如玲士心

J

刈冷や枷心や母

I'(',r- ゜

淀押以~,

Rogerius  ( Ruggero  I  1~) Q 如茶令ふ菜, r‑¥J  ....J  ¥J  , 

巡神~,

·- ~-=-- Q{ 材経 嗣 ‑<如雀 0 足則 Nicola

配印蕗

⇒ 臼叡如ド年心 ゜嗣 Nicola 迄諏飼釘謬・営芸鱈勾逗 I ‑ IIPr-t-~ 茶, 0: 

011‑111 や如

r{t{d

11‑ Ill  ~ 鵜,梃ユ超 -to-~ 粟{赳

竺 ⇒ 茶枷以将:, \J 枇 H-- ヽ令菜¥吋 J\" 旦, ''.(—=竺'尭誓坦旦室 1"'!{d 国 ~Q 柔料 ⇒ 心醍蓋春如~,__) ¥J 共ふ 1"', 匡把 Q 草

即坦 Q 終全旦牛 ~H--Q 悪誓坦旦室 1"'~ 薬製如 ~1"' 心旦伶珈終二 ゜

~Q 草即坦 Q 終全旦 ~!{d 尭号坦以巨 1"'~ 眠製以 0:, \J~ 芸怜心祝 -K 以, '' (―=茶造芸坦旦翌 1"'!{d 固 ~Q 忌斉 ⇒ 北隠

撼奏如 "tl!F ,̲̲)  ¥.J  :,  終二武壬(})刈互如合沢菜迎’把草即坦 Q~ 令旦尭茄母紅且翌怜心栞十〇薬製如挙皿 ~..J ,rs  !{d 旦刈勾侃心

萄壬)以 0:,¥.J't 担 H‑‑' 痘濾如,̲̲) \.J 将枷~:, ゜

,.< ―=逹 詈 熙即坦苗皿四ミ ば o: ( < i 1 1 1) 

(17)

それにもかかわらず︑ バーリが独立した海事法︵の編築物︶を有していない理由は︑

独 立 した海事法 ︵ の編纂物 ︶ はたんに失われてしまった︑

た こ

こ で

るが︑これについて多くを語った文献は︑

と考えるのは︑市慣習法が残されており︑そのなかにわ

ずかにせよ海事法の規定が存在している以上︑説得力に欠けるであろう ︒

( 2 )  有力な考えは︑偽ロード海法が長いあいだアドリア海の 一 般慣習法として海運を規律していた︑という主張である︒

しかし︑この主張は︑後年のものになるにせよ︑他のアドリア海の都市が独立した海事法を有していることを説明し

( 3

)  

きれないかもしれない ︒ また︑この議論がかなりの説得力を有するにしても︑確証をえているものではない ︒ われわ

れは︑この議論にこれ以上とどまることは避け︑海 事 法に関する規定の個別的検討に進むぺきであろう ︒ しかし︑ま

いずれの規定をもって海事法に関する規定︑と認定するべきかについて議論が分かれうる ︒

( 4 )  

B e s t

a は︑海 事 法の規定として︑

S p a r a n

三 o 本第 六条のみを解説し︑

a P r d e s s u s は ︑

S p a r a n

o 二 本第 二条および第

三 六条の ニ ヶ条をあげている ︒ 一

方 ︑ A l i a n e l l i は ︑

A n d r e a

本 第

一 条ならびに

S p a r a n

o 本第ニ ︱

一 条

︑ 第

五 条︑第 ︵ 筆者の知るところ ︶ 存在しない ︒ の役割を終えたわけではない ︒ 船員たちは︑聖ニコラ会 (

s o c i e t a s s a n c t i   N i c o l

a i ) を結成し︑それが︑

最初の核となった ︒ 後 年 ︑ヴェネツィア人によ っ て︑聖ニコラの聖骸の 真 否が疑われることになるが︑バーリが︑し

ばしば︑異民族の侵略や政争の標的にされながらも︑その 当 時︑東方貿易に参画していた︑という事実は︑疑問の余

( 1 )  地を残さない ︒

そ し

て ︑

す で

に ︱

l

二でみたように︑

関 法 第五九巻―

――•四

1 0

八 七

年 ︑

バーリの船 員 たちが聖ニコラの聖骸を入手し持ち帰った ︒ そして︑その

バーリ関連の古文 書 に記録された船員団体の

︱ 一

五六年の

G u g l i e l m i i   o M a l  

0 による略奪・破壊ののちも︑ バーリは︑海運の要衝として

いくつか考えられるはずであ 五 〇 ︵ 八 ー 四 ︶

(18)

( 6 ) 

( 7 ) 

( 8 )  ( 4 ) 

( 5 )  ( l ) 

( 2 ) 

( 3 ) 

し か

し ︑

ー リ 海

慣 習 法 瞥 見

S e n i g a l l

i a , 

o p

.  c i

t . ,  

p . 

95. 

それらの規定 ︵ と

り わ

け ︑

S p a r a n

三 o 本第

六 条

に難解・不明な点が多く︑ 分析・検討・翻訳に大きな困難を伴う︑ を欠くものではない ︒

わ れ わ れ は ︑

た し

か に

その重要性を認める 立 場に立つことにする ︒

た と

え ︑

( 7 ) 

G i u s t i n i a n i は ︑

A n d r e a

本第 三 条にも 言 及している ︒

( 8 )   P a r d e s s u

s のあげる二つにかぎられるであろう ︒

そ の

一 部のみがあるいは間接的にのみ海 事 法に関連する規定であっても︑海事法の研究上の重要性

以上のように海事法に関連する規定としていずれの規定を取り上げているかは別として︑学説上 一

致しているのは︑

という認識である ︒ そして︑規定の翻訳を試みた研究者は︑

( 9 )  

る旨を断っている ︒ その試みが裁星的なものあるいは可能性を示すものであ

Z e n o

,  o

p .  c i t

. , 

l o c o   c i t .   Z e n o

,  o

p .  c i t

. , 

l o c o   c i t .

;  T

o c c i

  , 

o p

.  c i

t . ,   p . 

3 7 7 . 

M u r i

n o , 

o p .  c i t . ,   p . 

63

は ︑

バ ーリが長いあいだ政 情 不安定な状況にあ っ たこと︑海運に経済の基盤を求めなか

っ た

ことな

どをもって︑

バ ーリが独立した海事法 ︵ の編纂物 ︶ を有していない理由としたいようである ︒

B e s t

a 0  p .  , 

c i t . , p   p . 

1 0 9

‑ 1 1 1

.  

18 

s i e c

l e , 

v o l .

 

6 , 

P a r i

s , 

18 45

p

p . 

62 5‑ 62

6

~

~ '

Nico

J e a n a   M r i e   P a r d e s s

u s , 

C o l l e c t i o n   d e   1 0 1 s   m a n t 1 m e s   a n t e n e u r e s   a u   l a   A l i a n e l l

i , 

D e l l e   a n t i c h e   c o n s u e t u d i n i   e 

l e g g m i   a r i t t i m e   d e l l e   p r o v i n c i e   n p a o l i t a n

e , 

N a p o l i

18 71 , 

p . 

150 , 

n .  4~

-

)マ

1uri

n o

,  0  p . 

c i t . ,   p . 

64

は ︑ a P r d e s s u s

-~Sparano

‑ ] 4 ‑ :  

一 王

ハ 冬 木

の み

J律安の洵

西辻

i

隼 木

に 而

5

収している旨を報じているが︑

P a r d e

s s u s は ︑ S p a r a n   0 本第

二 二 条 をも 所 収している ︒ あえてその

事実

を摘 示 し︑世界に 冠 たる海法 学 者の

名誉

を守 っ ておき た い ︒

A l i a n e l l i

,  o

p .  c i t . ,  

p p

1

50

‑1 54

G i u s t i n i a n

i , 

o p

.  c i

t . ,  

p . 

183. 

五 0 三 ︵ 八 一 五 ︶ 規定の全体が海 事 法に直接関連するものをあげれば︑ ( 6 )  三 六条および第 三

七 条

を あ

げ ︑

(19)

﹁今日︑われわれの法によって︑

︵ も同様である ︒ カッコ内は筆者補充︶

︒ ﹂

t e s t i b u s

証 人

に つ

い て

(二

I-—-I

五)ふれるよ 証人

( A n d r e

a 本第三条第︳項︶ ( 9 ) 

M u r i n o

,  o

p . 

c i t . ,  

p . 

66 ; 

S e n i g a l l

i a p .  , 

c i t . ,  

p . 

1 0 0 . 

筆 者 の な す S p a r a n o 本 お よ び A n d r e a 本 に 関 す る 試 訳 も

︑ い く つ か の 論稿・解説の助けを借りながら︑多分に

者の推測が混じ

っ たものにならざるをえなか

っ た ︒

I

I

の 第

一 項である

︵ な

お ︑

M a s s i l l a

による慣習法の再現文は︑

うに︑とりわけ︑句読点の有無・位置について︑かなりの混乱がみられる︑という ︒ 本稿において︑改行 ︵ 項 ︶

と り

あ え

ず ︑

G i u s t i n i a n

i のそれにしたが っ

て お

く ︶

︒ 同条は︑全 ︱ 二項からなり︑第 一 項のみが海事法に関連する規

( l )  定︑といいうるが︑それも︑あくまで︑間接的に関連するにすぎない ︒ つぎのような規定である ︒

一 オンスをこえる金額も契約も︑われわれの市においては︑文書が存しないかぎ

り ︑ 区別されていない ︒ そして︑船舶または市場の取引において

筆者の試訳が拙いにせよ︑明らかに︑文章の構造上︑不明・欠落部を認めざるをえない ︒ そして︑不明・欠落部を

直後の項から推測・補充することは︑おそらく不可能であろう︒

ぎ り

G i

u s

t i

n i

a n

i および

S e

n i

g a

l l

i a

のみである ︒ 前者の解説︵ないし意訳︶

けると同様︑船舶または市場の審判において︑

されていなかった

︒ ﹂

の ち

この規定について︑商事ないし海事関連規定として︑簡略な解説 ︵ ないし意訳︶を加えているのは︑筆者の知るか

は︑以下のようである︒﹁民事事件にお

一 オンスをこえる債務額または契約も︑文 書 が存しないかぎり︑区別

同項の内容を明らかにするために︑これ以上の推測を加えることは︑試訳ないし解説の域を大きく踏み外すことに

( 3 )  

なるであろう ︒

わ れ

わ れ

は ︑

G i u s t i n i a n i

の解説をもって︑満足しておくほかなさそうである ︒ 関法第五九巻三•四 号

A n d r e a

本のなかで最初に出会う海事関連規定は︑第

三 条 ( De 五 0 四 ︵ 八 一

六 ︶

(20)

バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

第 三

条第一項のほかに︑海事関連規定として︑第

先買権︵重要度こ

A n d r e a

本第

五 0 五 一 致した規定︑といいうるであろう ︒ を有する第三七条を発見することがで 一条第︳項および

S p a r a n

0 本第三七条第六項︶ ( 1 ) 

S e n i g a l l

i a o , 

p .  c i t

. ,

  l o c o   c i t .  

( 2 ) 

G i u s t i n i a n i

,  o

p .  c i t . ,   l o c o

  c i t . 

( 3 )   S e n i g a l l

i a o , 

p .  c i t . ,  

p . 

99

は︑同項により︑海事および商事裁判にも︑文

書が 存しないかぎり︑

は契約に関して証言を排除する規定が拡大適用される旨を説いている

二︐三︐ニ

i u r e   p r o t h o m i s e o s   ( 先 買 権 に つ い て

︶ 周知のように︑

との見出し語を付された全

一 三

項からなる長文の規定である︒同条全体におけ

る海事関連部分の比重は︑第 三 条におけると同様に非常に小さい︒

一 方 ︑

S p a r a n

o 本に目を転じると︑同じ見出し語

( D i u e r e   p r o t

h o m i s e o s )  

きる︒やはり︑同条も全一六項からなる長文の規定であり︑その第六項のみが海事関連規定である ︒

両者は︑文 言 ・形式をかなり異にしているが︑実質的内容においては︑

ビザンツ帝国皇帝

R o m a n o L a c a p e n o   ( ロ マ ノ ス

一 世︶は︑九二二年四月︑農耕地などに関して先

買権︵重要度︶制度を認めた︒詳細は︑専門の歴史 書 に譲るが︑同制度は︑農耕地などの共有者の持分の譲渡

︵ ・

借︶に関して他の共有者に優先的権利を与えるものである ︒ すなわち︑共有財産の持分譲渡・貸借に制限を加え︑部

外者が共有関係に参入することを困難にする制度︑ 一

条第一項第

三 文︵段︶をあげうるのみである︒同条は︑

D e

といいうる ︒ 一

オンスをこえる債務また A n

d r e a

本第︱一条第一項第 三 文および

S p a r a n

0 本第 三 七条第六項は︑この先買権︵重要度︶制度が船舶に対して

も適用される旨を定めた規定である︒これらは︑それぞれが含まれている規定の全体に対する比重が小さいにしても︑

︵ 八 一

七 ︶

A n d r e a

本 は

(21)

の先買権制度を摂取していない 第五九巻三•四 号

( 2

)  

海事法の研究上︑無視することは適切ではない︑と思われる ︒ そこに規定された制度は︑船舶共有に関連するもので

あり︑船舶共有に関してかなり詳細に定めている

S p

a r

a n

o 本第 三 六条とも関連する︑と考えられる

I

五において検討する︶

以 下

に ︑

A n

d r

e a

本第

一 ︱

条第 一 項第 三 文および

S p

a r

a n

o 本第 三 七条第六項の両者の試

A n

d r

e a

本第

︱ 一

条第一項第 三 文

﹁先買権は︑農業用地および市街地において︑実行され︑ほとんど住

のかわりになっている船舶を除いては︑

﹁そして︑この特別の権利は︑土地に対して︑行使されてきたにもかかわらず︑

両者は︑表現こそ異にはしているが︑船舶が動産であること︑そして︑それに本来は不動産について認められてい

る先買権が適用される旨を等しく承認している ︒ そこに︑われわれは︑船舶がバーリ市の社会において有していた価

値の大きさ ︵ 不動 産 と同等視されるほどの ︶ を知ることができる ︒ ︵ 八 一 八 ︶

しかし︑︵人々は

︶ 同じ権利を

しかし︑船舶の価値の大きさは︑バーリにおいてのみ認められるべきものではないはずである

︒ そして︑バーリ市

慣習法がアドリア海の他の都市法に影響を与えた︑といわれているにもかかわらず︑他の都市の海事法は︑この船舶

( 3 )  ようである ︒ この制度がバーリに ︵ 少なくとも︑同種の明示的規定を有していない︶

固有のものである︑とされている理由 ︵ あるいは︑バーリ市慣習法においてのみ明示的 言 及がなされている理由 ︶ に 船舶において実行するであろう ︒ ﹂

S p

a r

a n

o 本第 三 七条第六項 動産には関係しない ﹂ ︒ 訳を掲げておく ︒ 関法 五 0 六

︵ 同

条 は

︑ ニ

(22)

( 1 )  ( 2 )   バ ー リ 海 事 慣 習 法 瞥 見

評価を受けていたことを再度銘記しておきたい︒

このような認識に立てば︑

バーリ市慣習法以前の海事法が

︵あるいは設けていなかったのかは︶︑

る巨額の船舶が存在しなかった︑

それは︑当然︑航海にとって大きな阻害要因になったはずである

往時の古文書や他の海事法にはみられない︑

五 0 七 ︵ 八 一

九 ︶

T r i f o n

e は︑往時の状況をつぎのように捉えている ︒

﹁九枇紀に至るまで︑とりわけ︑東方の地中海において︑あ るいは︑複数の人の所有する巨額の船舶が存在しなかったか︑あるいは︑船舶共有者間の意見の不

一 致はそうした規

定を要求するほど航海にとって危険であることが︑まだ︑理解されていなかった

﹂ ︒

︵あればのことであるが︶船舶の先買権制度について規 定を設けなかったにしても︑不思議はないかもしれない

︒ 偽ロード海法が船舶共有制度について︑どのような規定を

しばらく置いておこう︒しかし︑往時︑まだ︑共有に属す

という点については︑疑問なし︑としない ︒ 共有者がいれば︑意見の不 一

致 も

あ り

︑ Z e

n o は ︑ T r i f o n

e の認識・主張を認めず︑別の見解を示している ︒

す な

わ ち

︑ A n d r e a

本第 ︱

一条および

S p r a a n o

本第 三 七条における船舶に対する 言

及は︑二人の編纂者による先買権に関するバーリ市慣習法に対する註釈であり︑

( 6

)  

とするのである ︒

うえに示した二つの試訳が︑ N

e n がいうように︑ o

二 人の絹纂者による註釈であるのか︑それとも︑慣習法自体で

あるのかは︑筆者には不明である︒しかし︑往時すでに︑ 設けていたのかは ( 4

)  

ついて︑若干の検討をしておくべきであろう︒

バーリにおいて︑動産である船舶が不動産と同様の扱い・

尚樹啓太郎﹁ビザンツ帝国史﹂︵東海大学出版会・

一 九九九年 ︶ 五 二 四ー五二五頁 ︒

た と

え ば

︑ A n d r e a 本 第

一 一

条 第 一 項第三文を引用または解説こ

言 及する者は︑

G i u s t i n i

i a n ,

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. , 

l o c o   c i t . ;  A l i a n e l l

i , 

参照

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