生 命 の 場 所
Circle of Life
第日目 ものの見方ということがよくいわ れる。確かにひとつのものを上カ、 ら見るのと下から見るのとでは全 く違う印象を受けることがある。 カメラの機能についても同様で、 例えばズムレンズがものの見方 を教えてくれることもあるのだ。 写 真 / 渡 辺 潔 白根山麓のミネヤナギ。 一見かわいらしいと思 うが、実際はどんなふ うに生きているのか「ミネヤナギJ
!恕~~~~~!~:芝生命に
長野県山ノ内町内の志賀高原と境を接する群馬県草津町。 江戸時代の温泉番付に「東の大関」と記された名湯・草 津温泉で広く知られている。温泉街には温泉情緒たっぷ りの共同浴場が約20
カ所あり、ゆかた姿で湯めぐりを楽 しむ観光客も多い。また、湯治場時代の伝統を受け継ぐ 時間湯といわれる入浴法も伝わっており、まさに溜凍天 国。多くの浴客を集める温泉で有名な草津だが、一方で は高原散策のメッカでもある。温泉街からパスで3的土ほ 1 Obli毎号E どのところにある標高2150mの白根山はめざす散策スポ ットのひとつで、湯釜と呼ばれる火口湖が目玉となって いる。周辺は月面をイメージさせる荒涼とした風景が広 がるが、よ∼く見ると足もとには植物たちがしぶとく生 きている。酸性度世界ーの湯釜のほとりで見つけたのは ミネヤナギだ。一見生きにくい場所に適応して生きつづ ける小さな生命には、浮世離れした印象とともに、どこ かほっとさせる空気が漂う。Spring No.32
2001.3.25 COVER 日本にはいろいろなj船励まある。 「世界遺匙に登録された世界に 誇るべき風景ばかりでなく、何げ なLνj、さな風景もある。そんな加 景を風景たらしめているのはわれ われ自身である。(背森県下北半 島の仏ヶ捕で)。 Photographer/KiyoshiWatanabe 本文デザイン加厳正博 SPECIAL THANKS KOUSAI-SHUPPANSHA 3 C助崎~CONTENTS
特集
よりよい人間関係のために
「
話
す
:
』
日
本
人
考
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ノープレス・オブリージ宣言
vol.18小西千鶴(エッセイスト・日本画家)…
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聞き書き
この人の「わが町」へ!その
3
野 口 忠 直 ( 東 京 都 府 中 市 長 )
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人物クローズ、アップ「学習院と私」
Vol.IO小 堀 宗 実 ( 遠 州 流 茶 道 宗 家1
3
世家元)
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・生命の場所第
9回「ミオ、ヤナギ」写真
/
渡
辺
潔
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・食卓の四季[
13]サーモン
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種 英・ @
校外施設シリーズ鎌倉寸心荘
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第3
回卒業生底桧「学習院の継承すべき伝統と文化
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桜友会倉
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立80周年皇太子殿下・同妃殿下をお迎えして
記念式典&祝賀会開催
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・桜友会だより
職域桜友会/日本医科大学・・……
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輔仁会サークノレ/空手道部@弁論部@
桜友会全国支部/府中桜友会…
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OBLIGE CLUBe樫家クラブからのあ?知らせ
「日本銀行見学会」のご案内
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OBLIGE伝言板・
会員からのあ慣り紹介コーナー…
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本Aます品似戸り写兵・イラスト・記事の焦樹博言載および複写を祭じます。i
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ノープレス・オブリージ室言
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人々は、洋の東西を問わず、古来から香り にあこがれ、神秘的かつ幽幻な香りに陶酔し て き た 。 ク レ オ パ ト ラ は 香 水 や 香 膏 を こ よ な く 愛 し 、 身体からかぐわしい香りがいつも匂い立って いたという。シェイクスピアは﹁風も恋こが れるほどの香水を身につけたい﹂と書いてい る。また、ローマの皇帝ネロは、香水風巳を つくらせたり、宮殿の天井から香水を散布す る ほ ど の 香 水 好 き で あ っ た 。 魅惑的な香りは、世にさまざまな歴史物語 や伝説を残した。日本では優雅絢欄な王朝貴 族 の 生 活 の 奥 深 く に ゆ か し く 漂 い 伝 え ら れ 、 宮 廷 文 化 の 中 で 大 き な 役 割 を 果 た し た 。 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ に み る よ う に 、 宮 廷 人 は 、 各 々 こ う ね り 己 う ふ み の 好 み で 合 香 し 丸 め て 固 め た 練 香 を 衣 服 、 文 、 室内に姓きしめて楽しんだ。恋文の主が誰で あ る か が わ か る よ う に 、 各 々 の や フ レ ン ド を 持 た 者 も の っていたのである。典雅な薫物を生活の中で 遊びかつ楽しんだ王朝びとの洗練された感性 に は 驚 く ば か り で あ る 。 日本の香りは、微妙に移りゆく季節感に触 発 さ れ た ﹁ 移 ろ い ﹂ ﹁ も の の あ は れ ﹂ と い っ た 情 感 と 、 ﹁ 匂 い L ﹁ 匂 や か ﹂ な 雰 囲 気 の 融 合 し たもので、香りそのものは、移り香、残り香 のように間接的に伝えられるところに特長が ある。文字通り奥ゆかしい内に秘めた香りの 文化である。一方香水は、外へ発散する直接 的 な 香 り で あ る 。 日ごろ、私は、香席はもとより、書画や原 稿を書く前に、家に伝わる香をくゆらせてか らはじめる。まさに﹄杏の十徳﹄の中にいう ﹁ 清 浄 心 身 ﹂ の 中 で 、 現 世 を 超 越 し た 敬 度 な 想 いと幽幻典雅な香りが心に響きわたり、陶酔 の 宇 宙 に 遊 ぶ 心 地 が す る 。 さて、香木は、太古の樹木が地中に埋没し て、長い長い年月の聞に地熱によりその樹脂 が凝結したものである。日本では産出しない 貴重なもので、産地は東南アジアの熱帯地方 に限られている。インドをはじめ、タイ、マ ナ パl
ル、スマトラ、マラッカ、サンリl
が 有名である。世界文明発祥地といわれるエジ プト、メソポタミア、インド、中国には香料 に 関 す る 古 い 記 録 や 伝 説 が 残 さ れ て い る が 、 そもそも香料のルi
ツ は パ ミl
ル 地 方 の ヒ ン ズー族にあるとされ、防腐 ・ 殺菌用として用 いられていた。その後、香はオリエント文化 とともに伝わり、一つの流れは西漸して香水 となり、もう一つの流れは中国を経て日本に 入 り 香 気 の 華 を 咲 か せ た の で あ る 。 香木に関する日本最古の記録は、推古天皇 の595
年に淡路島に香木が標着したという香りを聞く
幽玄の世界ヘ
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小 西 千 鶴
(
昭
調
)
エッセイスト・日本画家
4 守 日 本 書 紀 ﹄ の 記 述 で あ る 。 香 は 仏 様 の 供 養 品 として大切だと経典にもあり、天智天皇の時 代にも使われていた 。 また、聖武天皇の時に は経典とともに多種類の香木が日本に入って くるようになり、香木と薬草の粉末を指先で ず こすり合わせて清める仏前での作法である塗 こ う お ん こ う が ん こ う 香や飲香、そして口に含む含香としての使用 が 始 ま っ た 。753
年に鑑真が来日した時の積載品の目 録に、香木︵沈香︶、鹿香、甲香、竜脳など 練香の材料となる多種の香木、香料が記載さ れ て い る 。 医 薬 の 知 識 に も 優 れ て い た 鑑 真 は 、 薬草と香料を調合する中国古来からのぷ口せ 香。製法を伝えたという。この製法がのちに た き も 申 平安時代の ρ 薫 物 。 の 基 礎 と な っ た 。 ま た 、840
年の仁明天皇の時代になると、宮中に 御 香 所 が 設 け ら れ て い た 。 華麗なる王朝物語﹃源氏物語﹄は、香りの 文学といってよいほど貴族生活の描写から気 品高い香りが漂い満ちてくる。例えば﹁梅枝 L の巻では練香のつくり方がことこまかに描か れている。また、全巻を通して宮中の代表的 む く さ く ろ ぼ う ば い か か よ う 薫 物 万 六 種 の 薫 物 。 の 内 の 黒 方 、 梅 花 、 荷 葉 、 侍 従 の4
種が登場する。そしてまた創意工夫 した好みの香を競うか薫物合。の遊びが雅び に 漂 い 伝 え ら れ て い る 。 鎌倉以降の武家社会では、合否の薫物に代 わって香木を削って佐いて浄妙なる香気を尊 ぶ風習が広まった。歌舞伎、狂言にもみられ る が 、 鎧 や 兜 に 名 香 を 佐 き し め 出 陣 し た な ど 、 武 士 道 精 神 が し の ば れ る 。 ら ん じ ゃ た い 正 倉 院 の 御 物 で 有 名 な 蘭 者 待 を 足 利 義 政 、 織 田 信 長 、 明 治 天 皇 が 切 っ た と い う 記 録 は 、 O b均
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小西千鶴 (こにし・ちづる) エッセイスト・日本画家。昭和33年学習院女子短期大学文科卒業。国文学専攻。 各地に残る日本の伝統文化や食文化に興昧をもち日本全国を歩く。また、日本 舞踊や能、茶道、華道を習得し、各種作法に通じる。特に香道は幼い頃から母 とともにたしなみ、現在、日本香道協会会員として御家流を学ぶ。講演活動の ほか雑誌などに執筆。著書に r心の昧付』 r皇室の素顔Jr昭和天皇のお食事』 などがある。/
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名香の価値の高さを物語っている 。 ︿ み こ う 香木を作法にしたがって楽しむか組香。へ 発 展 し た 香 は 、2
種以上の香木を一定の文学 的 テl
マ で 位 き 、 感 性 の 宇 宙 を 広 げ 、 豊 か な 教養と文学的世界を味わうものになる 。 さらに室町時代には、将軍足型事政の庇護 も ん こ う のもとに香木の聞香を定式化した香道が生ま れ た 。 その発生は、義政が志野宗信に香の遊 び方を組織化するようにと、命じたことにあ る 。 宗信は、公家の名家 ・ 藤原氏の 一 族で最 高の貴族文学者でもある宮中の御香所預りの 役にあった 三 条西実隆公に教えを受け、脊道 の基礎をつくったのだ 。 今日に継承されてい る雅びな公家風の ﹁ 御家流﹂と武家風の ﹁ 志 野流﹂は、この時以来のものである 。 き や ら ら こ ︿ ま な ばん ま な さ て 、 香 木 は 、 伽 羅 、 羅 園 、 盲 目 南 蛮 、 真 那 か さ そ ら す も た ら 伽、佐曽羅、寸間多羅の6
種に分類され、こ れ を よ ハ 国 H と い う 。 こ れ ら を 辛 、 甘 、 酸 、 献、苦の五味の組み合わせで位いた香りを聞 く 。 くゆる香りに文学的雰同 気 、 さ ら に 無 限 な 世 界 を 心 身 で 聞 く こ と は 、 ザ 金 唱 、 華 道 と 並 んで最高の人間形成の道といえる 。 H 組香 u とは、阿季折々に合わせ、文 学 的 な 背 景 、 日 本 人 の 繊 細 な 感 性 か ら つ く ら れ た 数 々 の 組 み 店 に よ る 。 世に知れた ﹁ 源氏香 ﹂ は そ の 一 つ で ﹃ 源氏物語 ﹄ をもとに考案され、源 氏香之図という優れた記号がつくられ、文様 と し て も 好 ま れ て い る 。 賀茂神社の競馬に由 来し典雅な装束をつけた人形を使う ﹁ 競 馬 香 ﹂ や 三 十 三 間堂の通し矢の行事を写した ﹁ 矢数 香﹂などはゲl
ム的な楽しみがある 。 香は邪気を鎮め、心身を清らかに、神秘と 幽幻の世界へ華やかに誘 っ て く れ る 。 Obl信e 5特 集 . よ り よ い 人 間 関 係 の た め に
世は国際化の
真
っ最中である
。
外国語を自由にあやつる日本人も普通に見られるようになった
。
しかし、依然として、母国語である日本語による表現が
ヘタだと
L、う意識が日本人には根強くある
。
ここではわれわれ日本人が
、
「話す」ことに対して
どういうイメージをもってきたかという歴史をふ坊足りながら、
新たなコミュニケーションのゆくえを探ってみたい
。
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話
さ
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学
主
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き
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い
日
本
人
。
−話さないことが美徳 日本には古くから、話さないことを美穂と す る 風 潮 が あ っ た 。 例 え ば 吉 田 兼 好 は 、 ﹃ 徒 然 草 ﹄ の な か で ﹁ よ くわきまへたる道には、必ず口重く、問わぬ 限 り は 言 は ぬ こ そ い み じ け れ ﹂ と い う よ う に 、 知識人は必ず寡黙であるということを述べて い る 。2
7
昔物語﹄でも﹁源頼信朝臣男頼義 馬盗人ヲ射殺ス語﹂のなかで、寡黙な源理信 が源氏の棟梁としていかにふさわしい人物で あ る か が 語 ら れ て い る 。 ま た 近 年 に な っ て も 、 大山厳元帥や山本五十六元帥らが沈黙の英雄 としてたたえられており、男の雄弁は概して 重 ん じ ら れ る こ と が な か っ た の で あ る 。 女性にしても昔から、物静かでおとなしい ことが奥ゆかしくて良いとされてきた。それ は今の世の中でも、例えば誘われてレストラ ン に 入 り ﹁ 何 に す る ﹂ と 聞 か れ た と き に 、 つ い 寸 同 じ も の を L と か ﹁ 何 で も ﹂ と 答 え て し まうことに象徴されている。結局この日本で は、いつの時代でも自分の意見をはっきりと 主張することがあまり好まれなかった。それ は 何 故 な の だ ろ う か 。 日本人が自分の意見をはっきりと言わない こ と に つ い て 、 ロ シ ア の 軍 人 で あ る ゴ ロ ヴ ニl
ン は ﹃ 日 本 幽 囚 記 ﹄ の 中 で 次 の よ う に 書 い て い る 。 ﹁ 日 本 で は 熱 烈 に 論 争 す る こ と は 、 大 変非礼で粗暴なことと認められている 。 態守 はいろいろと申し訳をつけて、自分の意見を 礼儀正しく述べ、しかも自分自身の判断を信 じていないような素振りまで見せる。また反 Obi.桓:
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ばくするときには決して真正面から切り返し てこないで、必ず遠回しに、しかも多くは例 を 挙 げ た り 、 比 較 を と っ た り し て や っ て く る ﹂ ﹀ ﹄ 。 そもそも封建時代の世の中で意見すること は、もしそれが目上の者に対してであろうも のなら、まさに命懸けの行為だった。織田信 長に諌言した平手政秀にしても、足利氏満へ の上杉憲春にしても﹁殿様に意見を申し上げ る﹂ことはイコール腹を切って果てる覚悟だ っ た の で あ る 。 − 弁 解 を 嫌 ‘ つ 精 神 ﹁ 意 見 を 言 う ﹂ こ と の う ち で も 、 日 本 人 は と くに﹁弁解﹂することを激しく嫌った。武士 道の中では弁解は人の道ではないと考え、そ れ に ま つ わ る 逸 話 も 多 く 残 さ れ て い る 。 例 え ば 、 井 原 西 鶴 の ﹃ 武 道 伝 来 記 ﹄ に は 、 まったくの誤解から他人に果たし状を突き付 けられた男の話がある。彼は、弁明して決闘 を避けるのは武士道に反すると考え、潔くこ れに応じて武士の意地を通した。しかも、こ の話を聞いた殿様は﹁この時に及びその断り を か ま は ず 、 一 命 を 捨 つ る 志 こ れ 神 妙 の 至 り ﹂ と 彼 を 褒 め 挙 げ た と 言 う の で あ る 。 こうした気風は後に、軍隊にも引き継がれ て い っ た 。 と く に 海 軍 で よ く 使 わ れ た ﹁ 言 い 訳無用﹂がそれである。だから例え任務が成 功しなくても、結果報告だけをすればよいの であって、その理由をだらだらと述べるのは 潔くない軍人らしからぬ行為として僅底的に 嫌われたのだった 。ー
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−今もある言霊信仰 日本人が多くを話すまいとする理由の一つ に、日本には古くから﹁口は災いのもと﹂と いう考えがあったことがあげられる。むやみ なことを口走るとそれが実現してしまうとい こ ︾ 持 h ま う J 一 一 白 霊 信 何 。 で あ る 。 ﹃ 古 事 記 ﹄ の な か に は こ ん な 事 請 が あ る 。 ヤマトタケルが伊吹山の神を征伐する途中 で 、 山 の 神 の 化 身 で あ る 白 い 猪 に 出 会 っ た 。 タ ケ ル は こ れ を 山 の神の従者と思い﹁今は殺 さなくても帰るときに殺してやろう﹂と J ﹂ とあげ。して頂上に向かった。これを聞いた 山の神は大いに怒って大あられを降らせ、タ ケルに打撃を与えた。軽率なかことあげ H が 自 ら を 死 に 導 い た の だ と い う の で あ る 。 こうした言霊の思想は、現代の日常生活の なかにもまだ至るところに残されている。結 婚 式 な ど の め で た い 席 上 で ﹁ 忌 一 詞 ﹂ を 避 け る 慣習がそれである。よく知られるのは﹁かえ る、もどる﹂だが、江戸時代にはもっと厳し く 、 祝 言 の 手 紙 に ﹁ 返 々 ﹂ ﹁ 重 々 ﹂ ﹁ 又 々 ﹂ な どの文字を使うのは、一方の死や離婚を暗示 するのでタブ!とされた。また﹁今虚﹂とい うと婚礼が何回もあるように聞こえるので避 け ら れ た と も い う 。 こ の よ う に 日 本 人 は 、 昔 か ら ﹁ 一 言 葉 ﹂ に 対 しては、文明人の中でも珍しいほどの原始的 な畏敬感を持ち続けてきた。それゆえ、現代 社会においてもなお﹁話す﹂ことに必要以上 に 瞥 戒 心 を 抱 い て し ま う の か も し れ な い 。 − 約 束 を 重 ん じ る 日本人が話すことに慎重になってしまうの は、日本人が口約束を大事にする民族だから で は な い だ ろ う か 。 ﹁ 武 士 に 二 言 は な い ﹂ と か ﹁ 一 度 口 に し た こ と は 命 に 代 え て も 果 た す L と い う よ う な 武 士 道 精 神 か ら も う か が え る 。 口 約 束 に 関 す る 逸 話 や 物 語 も と て も 多 く 、 例えば西鶴の﹃武家義理物語﹄にはこんな話 が あ る 。 石 川 丈 山 の 友 人 の 小 栗 某 と い う 男 が ﹁ 来 年 の 今 月 今 日 再 び お 宅 を お 尋 ね す る ﹂ と い う 約 束 を し た だ け で 、 ほ か に 何 も 用 が な い の に 盤 削 か ら わ ざ わ ざ 京 ま で 山 て き た 。 あ い に くその夜は大雪だったが、男は雪を踏みわけ で 丈 山 の 庵 に た ど り 着 き 、 朝 食 を 食 べ て 帰 っ ていったというものだ。これとよく似たのが コ 同 月 物 語 ﹄ の ﹁ 菊 花 の 約 ﹂ で 、 殺 さ れ た 男 が 生前の約束を守り、亡霊となって会いに来る と い 、 ユ 話 で あ る 。 ま た ﹃ 雲 市 沖 雑 誌 ﹄ に は 名 和 長 年 の 父 が 子 供 同士の口約束を守って、玄関脇の立派な松の 木を切り落とす話がある。長年が乞食の子供 と 遊 ん で い て ﹁ 家 の 松 の 木 を お 前 に や ろ う ﹂ と言ってしまったのを真に受けた乞食の親子 に 対 し て 、 父 親 は ﹁ 約 束 し た か ら に は L と 本 当 に 木 を 切 っ て 与 え る の で あ る 。 こ う し た 話 は 大 抵 が 美 談 と し て 語 ら れ る が 、 一 方 で は 口 約 束 を 重 ん じ る あ ま り 、 日 本 人 の 言動が不可解なものになっていることも否め ない。どうしても約束を実行するためにそれ を逆手にとった妙な言動を起こしたり、また そ の 逆 に 、 約 束 に 関 し て 言 質 を と ら れ ま い と 、 暖昧な話し方をしたり、言葉を濁したり、果 てはうっかり断言して後で責められないよう に 抑 し 黙 っ て い た り と い う 風 に で あ る 。 − 何 で も イ エ ス 日本人が暖昧な話し方を好むのは、約束に 8 0帥ige 縛られたり、言質をとられることを避けるた め だ け で は な い 。 もともと日本人というのは、言い争うこと や許論を嫌う。そのため、なるべく相手の言 う事を否定しない。自分の意見とは明らかに 違う場合でもあからさまにノl
と は 言 わ ず 、 まず相手の意見に同意する。それから抽象的 な言葉を使って遠回しにやんわりと、穏やか に 自 分 の 意 見 を 述 べ て い く の で あ る 。 こうした日本人の論法は、外国人からする と 時 に は 非 常 に 奇 異 に 映 る 。 ﹃ サ ク ラ と 沈 獣 山 ﹄ の 中 で オ フ チ ン ニ コ フ は ﹁ 日 本 人 の ハ イ は ヨ ー ロ ッ パ 人 の イ エ ス と 同 じ で は な い 。 あ な た の言っている言葉が聞こえます﹂という意味 だと言っている。またイザヤ ・ ベ ン ダ サ ン は ﹃ 日 本 人 と ユ ダ ヤ 人 ﹄ の 中 で ﹁ 日 本 人 は 、 賛 成 できない意見が述べられると、言わせておけ ばいい、あるいは聞き流すというような冷た い 態 度 を と る ﹂ と 注 意 す る の で あ る 。 よ く 言 わ れ る こ と だ が 、 日 本 人 の イ エ ス 、 ノl
は欧米人のそれとは違う。円本人がノl
と言いたがらないのは、相手の意見を否定し て も め る の を 防 ぐ た め だ 。 だ が 同 時 に ま た 、 ノ1
を言って相手に不快な思いをさせまいと す る 配 慮 の 表 れ で も あ る の だ 。 こうしてみると日本人というのは、話をす る と き に 、 内 容 そ の も の よ り も 言 い 方 や 態 度 、 それに対する相手の気持ちの方を重要視する 傾 向 が あ る 。 理屈は通らなくてもいい、というと言い過 ぎだが、要は話を聞いた相手にどういう印象 を与えるか、相手にどうとられるかが話すと き の 最 重 要 ポ イ ン ト と な る よ う だ 。人
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−長い挨拶 日本人の話し方が最も特徴的に表れるもの の ひ と つ に 挨 拶 が あ る 。 日本人は話したがらないくせに、挨拶とな る と 異 様 に 長 い 。 長 い 挨 拶 と 聞 い て ま ず 思 い 浮かぶのは披露宴のスピーチだが、日常生活 の中でも日本人はそこかしこで長い挨拶を交 わし合う。知人の家を訪ねたときや電話をか けたとき、あるいは町中で突然、出くわした 顔見知り同士が、いつ終わるともなくペコペ コ と 頭 を 下 げ 合 っ て い る の を よ く 見 か け る 。 日本人の挨拶が長いのは今に始まったこと ではない。その黄武士は合戦の修羅場でも、 ま ず 長 々 し い 名 乗 り を 上 げ て か ら で な い と 、 戦 い が 始 め ら れ な い し き た り に な っ て い た し 、 芝居の前口上やヤクザの仁義、軍隊の申告な ど も そ の 典 型 的 な 例 だ ろ う 。 日本人の挨拶が長くなるのは、形式や礼儀 を重んじるからである。その結果、相手に対 す る 気 遣 い が 裏 目 に 出 て し ま い 、 ﹁ ど ち ら へ お 出かけですか﹂とか﹁お年はいくつ﹂という ような、欧米人にとっては侮辱にもとれる質 問 を 平 気 で し て し ま う こ と に な る 。 ところが日本人の挨拶の中でのこうした質 問は、実際に正確な答えを求めているわけで は な い 。 ﹁ ど ち ら へ ? ﹂ は 最 初 か ら ﹁ ち ょ っ と そこまで﹂というような答えが期待されてい る し 、 ﹁ 年 は い く つ ? L に 対 し て は 、 相 手 が ど う答えようが次には必ず﹁そんなお年にはと ても見えません﹂というような返答が用意さ れ て い る 。 い ず れ も 深 い 意 味 は な い 。 −コミュニケーションの変化 こ う し て み る と 、 日 本 人 の 話 し 方 の 特 徴 に は 、 次 の よ う な こ と が 上 げ ら れ る 。 話 し た が ら な い 。 自 分 の 意 見 を 主 張 し な い 。 言葉を怖がる。言葉を濁し、暖昧にする。何 で も 同 意 す る 。 形 式 や 礼 儀 を 優 先 す る 。 確かに、これでは日本人の話が面白くない と い わ れ で も 無 理 は な い 。 だが、面白くないくらいならまだいい。こ れらの要素が総合されて、有識者でさえ、何 を言っているのかわからない話し方をする人 が大勢いる。国会の答弁や、会社組織の上層 部の弁明、陳謝などがその良い例だ。困った も の で あ る 。 ここにきて、何も今さら話しベタの日本人 に 名 演 説 、 名 セ リ フ を 期 待 し よ う と い う の で はない。最低限、聞く者に話し手の意図がき ちんと伝わるような明瞭な話し方ができない も の か と 思 う の だ 。 インターネットを初めとする通信技術の凄 まじい発達により、人と人とが直接に会って 寸 話 す ﹂ 機 会 は 確 実 に 減 少 し て き て い る 。 若 者 の 間 で は 電 子 メ1
ル が 大 流 行 し 、 コ ミ ュ ニ ケ ーションの手段が﹁会話 ﹂から﹁画像﹂の交 換に移行しつつあるし、また、仕事上でも会 議やミーティング、取引までが自宅のパソコ ン 上 で 行 わ れ る 今 日 で あ る 。 だがこの先どんなに文明が発達しても、人 間と人間のコミュニケーションの最良の手段 は、やはり直接に会って﹁話す﹂ことだ。何 故なら声に出して話すことは、内容を伝える だけではなく、声の調子や﹁間﹂の取り方な ど で 、 心 情 を 察 し 合 う こ と が で き る 。 ﹁ 目 は 口 ほどに物をいう﹂というように、日本人には 表情や身振りからも相手の気持ちを読み取ろ 10ow
惨
うとする、特有の歴史があるのである 0 . 魅 力 的 な 話 し 方 と は ? このように﹁話す﹂機会がどんどん失われ ていく現代社会だからこそ、私たちは人と直 接 会 っ た と き の 会 話 や 、 人 が 集 う 場 で の 挨 拶 、 スピーチといったものをより大切にしなけれ ば な ら な い と 思 う の だ 。 ﹁ 話 す ﹂ こ と を 面 倒 が っ て 、 気 持 ち の 伝 達 を 機 械 に 頼 り 続 け て い る と、人間と人聞がこの先もっと、疎遠になる お そ れ が あ る 。 で は 多 く の 日 本 人 が 持 っ て い る で あ ろ う ﹁ 話 す﹂ことに対する苦手意識は、どうしたら克 服できるだろう。そして、上手な話し方、魅 力的な話し方をするには、どんなコツがある の だ ろ う か 。 相 手 の 心 を 引 き つ け る 話 し 方 と い う の は 、 決して﹁雄弁﹂とか﹁流暢﹂な話し方をいう のではない。話が最初に戻るが、日本人はあ まり人にまくしたてられたり、口を差し挟む すきもないほどぺラペラしゃべりまくられる と 、 か え っ て う ん ざ り し て し ま う 。 さ ら に ﹁ 口 がうまい﹂とか﹁口先だけ﹂というような軽 率な印象を与え、相手には決して良く思われ ないのである。その加減が難しいのだが、程 と っ ぺ ん よ く ﹁ 一 理 汁 ﹂ な の が 丁 度 よ い 。 そして魅力的な話し方とは、まず言葉が明 瞭で、何より話し手の心がこもっていること だが、例えばスピーチなどの場合、限られた 時間の中でそう簡単に聞き手を印象づける話 ができるものではない。そうした時に、自分 の言いたいことや気持ちをうまく代弁してく れる言葉があるといいなと思う。そこで引用 し た い の が 、 古 ム ヱ 東 西 の 名 言 名 句 で あ る 。ス
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器 禁
− 人 生 の 旅 立 ち に 際 し て 名言名句には歴史的人物のものから現代の 著名人のものまで、ごまんとある 。 こ こ で は 入社、開業など人生の出発を祝うスピーチに ふさわしい名言から紹介していこう。まずは 誰もが知 っ ており、いろいろな方面へのはな む け の 言 葉として使うことのできる﹁初心忘 る べ か ら ず ﹂ で あ る 。 これは世阿弥の﹃風姿花伝﹄の冒頭に掲げ ら れ た 言 葉で﹁およそ能楽を修めようとする ものは初入門のときの志、自分はどんな事が あっても能の奥義を極めるのだという初心を 忘れずに、いかなる難犠にも負けない覚悟を 持たなければならぬ﹂と、修行を志した最初 の純粋な心構えをいつまでも持ち続けるべき で あ る こ と を 説 い て い る 。 人は事を始めるときは重大な決意を持って 臨むくせに、それが順調に進み始めると最初 の 瑞 々 し い 決 意 を 忘 れ て つ い 怠 け 心 を 起 こ す 。 それを諌めると同時に、初心を持ち続けるこ との難しさを話したいときに引用できる 。 これと並んで、もの事を始めるときの激励 として使いたいのが武田信玄の﹁為せば成る 。 為 さ ね ば な ら ぬ 。 成る業を成らぬと捨つる人 の は か な さ L で あ る 。 自領を流れる笛吹川と釜無川の氾濫を何と かなくしたいと考えた信玄は、それまでの常 識を覆す大胆な発想で﹁武田流﹂と呼ばれる 工法を考え出し、初年余に及ぶ治水工事の末 に 洪 水 を 防 ぐ こ と に 成 功 し た 。 世の中に不可能はないという音媒だけでは なく、誰もが不可能と考えたことを多大な年 月をかけてやり続けた行動力をたたえる意味 で 使 い た い 0 .極めてもさらなる自戒を また、努力することを奨励する名 言 と し て 有名なものに﹁育は藍より出でて藍よりも青 し ﹂ が あ る 。 こ の 事 は ﹃ 句 子 ﹄ に 出 て い る も の で ﹁ 学は以て己むべか ら ず 。 青はこれを藍 に 取 り て 、 藍 よ り 青 し ﹂ と い う よ う に 、 青 い 色は藍玉から取ったものだが、もとの藍玉よ り さ ら に 青 い 。 こ の 様 に 学 問 を 続 け て い れ ば 、 教えを受けた先生よりも優れた人物になれる と い う 音 様 で あ る 。 と こ ろ で 同 じ 祝 い の 言 葉でも、これらとは 逆に、何かを成し遂げたときにさらなる自戒 を込めて使う名言に、次のようなものがある 。 将棋士、升田幸 三 の 言 葉で﹁たどりきて未だ 山 麓 ﹂ で あ る 。 昭和初年代に将棋界の 三 冠 王 となった彼は自著﹃勝負 ﹄ の 中 で 、 当 時 を 振 り 返 り こ う い っ た 。 量両峰を極めながら未だ 山麓とは、実に謙遜深い言葉だ 。 そしてこれと似たものが中国の歴史書﹃戦 国策﹄にある コ 臼 里 を 行 く 者 は 九 十 を 半 ば と す L で あ る 。 これは、秦の武王に部下が諌言 し た も の で ﹁ 百里の道のりを行く者は九十里 まで達したときに初めて半分の所まで来たの だ と 考 え よ 。 もっとも大変なのは最後の十里 で あ る ﹂ と い う 意 味 で あ る 。 物事の中で一番 難しいのは最後の部分で、そこで油断したた めに目標達成を旦聞にしてふいにすることも あ る 。 最後の詰めこそ最も力を入れて行うべ きだという戒めで、落成、竣工などを祝う話 の 中 に 使 う と よ い か も し れ な い 。 − 名 言 は 料 理 の ス パ イ ス 人生の出会いを説いた名 言 中の名 言 は ﹁ 一 12 Oblige 期 一 会 ﹂ で あ ろ う 。 手利休が佑茶の心を語 っ た も の で ﹁ 万物は刻々と変化して定まりがな く 、 人 も ま た そ の 例 外 で は な い 。 し た が っ て 、 ある時ある所で人が出会うことは 一 生 に 一 度 の出会いに他ならない﹂という意味である 。 だ か ら ﹁ 茶席でも主人は万事に 気 を 配 り 、 客 もその意をくみ、互いに誠 意 を 以 て 交 わ る べ きだ﹂というのである 。 信長と秀吉に仕え 二 千石を受けた利休であ っ たが、秀吉に死を命 じられて悲劇的な最期を遂げる 。 時代背景を 知ると重い言葉ではあるが、人との出会いを 強調するのにこれ以上の名 言 は な い 。 人とのつきあいでも組織や団体行動におけ る教訓となるのが﹁事は十中八、九まで自ら こ れ を 行 い 、 残 り 一 、二を他に譲りて功をな さしむべし﹂という坂本龍馬の名言である 。 維 新 の 事 実 上 の 立 て 役 者 で あ っ た 龍 馬 は 、 常日噴からこの 言 葉 を 居 間 念 と し て い た 。 そ し て彼の胸中には薩長連合の大事業も、八、九 までは自分が動き、残りの 一、 二 を西郷と桂 にやらせて仕上げようという構想があったに 違 い な い 。 こ の よ う に ﹁ 何 事 も 一 人 で や ろ う と せ ず 、 部下や仲間と成果を分けあうことが成功の鍵 である﹂という教えは、例えば入社祝いの場 でのスピーチになどに担仙しいかもしれない 。 このように、人生の知恵が込められた名 言 名句は上げればきりがない 。 だがここで注意 したいのは、名言はあくまで刺身に付けるワ サビであって刺身そのものではないというこ と だ 。 そしてサビの効果を最大限にするため に は 、 刺 身 は や は り 自 分 の 言 葉 で し っ か り と 捌かなければならないということである 。2
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野口忠直(のぐち・ただなお) 昭和lD年2月19日東京都府中市生 まれ。明星高校より昭和四年学習 院大学政経学部経済学科に入学、 同33年卒業。家業の合名会社野口 酒造店に入社し、副社長を経て代 表社員社長に。仕事の傍ら、府中 市社会教育委員、大国魂神社奉賛 会長としても活動。昭和55年9月 25日から平成7年7月31日まで4 期にわたって府中市収入役を務め る。平成12年E月i日日府中市長に 就任、現在に至る。大学では国劇 部、観世会部に所膚しながら、落 語研究会の創設に加わる。任意の 集まりだった府中桜友会会長から、 平成13年2月ID日の府中桜友会正 式発足時に、顧問に就任。 ........I
I
A 、 易と流行。変えてはいけないもの 一 ノ と、変えなくてはいけないものと 言うのでしょうか。その境をしっかり見 極めて、今、行政に当たっていくことを 心 がけているのですが、これは学習院時 代 に 児 玉 幸 多 先 生 か ら 学 ん だ こ と で し た 。 私 は 、 府中にある明星周寝から空習院 大学へ進みました。親戚が入学していて 勧められたこともありますが 、 高校時代 に 児 玉 幸 多 先 生 の 本 を よ く 読 ん で い て 、 ぜ ひ 先 生 に 教 わ り た い と 思 っ た の で す 。 お お ︿ に た ま 府中市役所の隣に大国魂神社という大 き な 袖 社があるのですが、私の家は、祭 神の大国主神がここにいらっしゃる時に 宿泊する v 仮屋。だとされ、今でも神社 の例大祭の折にか野口仮屋の儀 H と い う 祭礼をしているんです。そんなこともあ って、昔から歴史にはたいへん興味があ っ た の で す ね 。 当時はまだ学習院に史掌科がなくて 、 児玉先生は政経学部経済学科にいらっし ゃいました。ゼミはもちろん児玉先生の ところに入れていただきましたし、先生 の強襲は全部聴きました。児玉先生は史 料 に 忠 実 な 学 風 で 、 厳 し か っ た で す ね 。 古文書を正確に読まなければならないの ですが、あれがなかなか読めるようにな ら な い 。 古 文 書 と は 格 闘 し ま し た よ 。 当時の学習院は、安倍能成院長をはじ め、清水幾太郎先生ら、すばらしい先生 方 が き ら 星 の ご と く い ら っ し ゃ い ま し た 。 院長宵舎で、院長先生直々に議義を受け た こ と も あ り ま し た よ 。 ーl
ク ラ ブ 活 動 は ど ん な こ と を 。 児玉先生の講義を受けて、今の日本文 化 の原型はほとんどが江戸時代にあるん じゃないかと思って、クラブ活動は江戸 14 。 凶ge文化に関係することをやることにしまし た 。 そ れ で 、
2
年から歌舞伎のクラブで あ る 国 劇 部 に 入 部 し た の で す 。 こ の 部 は 、 鑑 賞 だ け で は な く て 上 演 も す る と こ ろ で 、 三越劇場が多かったのですが、読売ホー ル、厚生年金会館といった外の劇場での 公 演 も た く さ ん や り ま し た 。 歌舞伎を演ずるのに、発声練習もあっ て謡曲を習わなければいけないというこ と で 、 観 世 会 部 に も 所 属 す る こ と に な り 、 今でもOB
会には出かけています。この5
年ほどの聞に、両方の部が創立回周年 を迎えました。国劇部の印周年は国立小 劇 場 で ﹃ 助 六 ﹄ を や っ た の で す が 、 私 は 髭 の意休という、仇役だけれどおもしろい 役 を や り ま し た 。 現 役 の 時 は 、 ﹃ 一 ノ 谷 撤 軍記熊谷陣屋の段﹄や﹃忠臣蔵一力 茶 屋 の 場 ﹄ な ん か が 思 い 出 深 い で す ね 。 ||先ほどから、バリトンのお声が魅力 的 だ な と 思 っ て い ま し た が 。 それは、謡曲のおかげですね。おなか から声を出さなければ声が暖れてしまい ますから。今もいろいろな場所でスピー チをする機会がありますが、却分ぐらい し ゃ べ っ て も な ん で も あ り ま せ ん よ 。 大学時代、寄麿通いして落語も聞いて いたのですが、それが嵩じて落語研究会 を創ろうということになりました。それ で目白には柳家小さん師匠がいるってい うことで、直接指導を頼みに行ったんで す ね 。 だ か ら 、 落 語 は 小 さ ん 直 伝 で す よ 。 落研からは噺家がひとり、国劇部から もプロの役者がふたり、観世会部からは 能 楽 師 が4
人出ています。大学で始めて そ の 世 界 で プ ロ に な っ て い る の で す か ら 、 すごいです。学習院は、古典を大事にす る 校 風 が あ る か ら で し ょ う ね 。 卒業してからは、家業の酒屋に入りま した。もともと神社にお仕えする家だっ たのですが、神社のお酒を造ってみない こ う づ る かということで先祖が﹁国府鶴﹂という 酒 を 造 る よ う に な っ た の で す 。 その後必歳の時に、前の市長から市の 収入役というのをやってみないかと言わ れまして。結局日年間収入役を務めたの が、行政との縁になったのですね。収入 役というのは、市のお金については全責 任 が あ る の で 、 た い へ ん な 仕 事 で し た 。 印 歳 で 辞 め て 酒 屋 に 戻 っ た の で す が 、 それからまた市長にという話になりまし て。たいへんな選挙でしたが、府中桜友 会の方たちゃクラブのOB
会 に 、 ず い ぶ ん 車町王強l年、野口市長の側主力怖政に反映されていくのが期待される 力になっていただきました。ありがたか っ た で す ね 。 先 輩 か ら 後 輩 ま で そ れ は 一 所 愛 叩 や っ て く れ て 、 感 謝 し て い ま す 。 市長になって 1 年。今、府中市をすば ら し く 魅 力 的 な 町 に し よ う と い う こ と で 、 人を大切にして、人材を育てていこうと い う ﹁ ソ フ ト パ ワ1
﹂ を 掲 げ て い ま す 。 ここは、駅からいらっしゃるときにご覧 になったと思いますが、美しいケヤキ並 木があります。そして、なにしろ武蔵国 の国府が置かれたところですから、豊か な 歴 史 も あ る 。 そ の よ う な 自 然 や 文 化 を 、 これからの時代にどう伝え、発展させて いくかが重要だと考えています。多磨霊 園や府中刑務所、競馬場など、市内には むずかしい施設も多いのですが、それを プラスに発展させていきたい。例えば競 馬場には伺十万という人が集まって交通 渋滞などの問題もあるのですが、それを プラスの方向にもっていけないか、知恵 を し ぼ っ て い ま す 。 今はなかなかプライベートの時聞がも てないのですが、歌舞伎の観劇にはほと んど毎月行っています。自分で演じてい た わ け で す か ら 、 ﹁ あ そ こ で 、 あ あ い う 仕 草 を す る の か ﹂ な ん て い う 見 方 が で き て 、 楽しいですよ。時々、起居振る舞いがき れいだと言われることもあるのは、芝居 で 身 に つ け た も の か も し れ ま せ ん 。 平成叩年に、学習院の生涯学習センタ ー ﹁ 江 戸 文 化 ・ 伝統芸能を楽しむ﹂とい う公開講座でまた学習院に通ったのです が、それも楽しかったですよ。国劇部出 身の園田栄治君がコl
ディネl
ト し た の ですが、ああいう企画は、学習院らしく て い い で す ね 。 学習院は、古典を大事にする学校だと Photographer/Kouji Yoneya ﹄同 ・ 府 中 の 名 は 、 武 蔵 国 の 国 府 が 置 かη
れ た こ と に 由 来 す る 。 昭 和 却 年 、 府 吋 中 町 、 多 磨 町 、 西 府 村 が 合 併 し て 府 府 中市が発足。喜の人口は約辺万5
一 000 人 。 旧 甲 州 街 道 が 通 り 、 京 王 一 線 、 武 蔵 野 線 、 南 武 線 、 ま た 中 央 自 一 動 車 道 の 走 る 交 通 の 要 衝 。 一 − 市 の 中 心 に 、 景 行 天 皇 位 年 ︵ 11 一 1 ︶ 創 建 と 伝 え ら れ る 大 図 魂 神 社 が あ り 、5
月5
日に行われる例大祭は。 ﹁ 暗 闇 祭 ﹂ と し て 親 し ま れ て い る 。 ま 曜 た 府 中 磯 子 、 武 蔵 国 府 太 鼓 と い っ た 何 芸 能 も 育 ま れ て い る 。 平 成 ロ 年 に は 、 子 府 虫 巾 美 術 館 が 開 館 し た 。 難 陣 剖 刊 / 成 構 ヒ b f ン J q 市庁舎の隣の大圏魂神キL武蔵国国府がこの近くにあった のではないかと、知醐査も ‘ 慣’司除、,.' 思っています。それを大切にすると同時 に、わかりやすく伝えていくことをやっ て い っ て ほ し い と 思 い ま す 。 + A T + A T 市長執務室には、直筆の﹁古い壷に新 しい酒を﹂という高浜虚子の言葉がさり げなく掛けられていた。これが野口市長 の願いと抱負を語り尽くしているようだ つ た 。 15Obi伊
置司Z喧~9{1・l•・h~I~・
内藤名誉院長合同追悼式
学習院名誉院長の
内藤頼博氏がと逝去。
平成 1
2
年
1
2
月
2
1日(木)
/
東京都港区・青山葬儀所にて合同追悼式
学習院と内藤家合間の追悼式 し 、 平 成 5 年 8 月日日の任期満了までご活躍なさいまし た 。 同 年 9 月 7 日 、 今 ま で の 功 績 が 称 え ら れ 、 学 習 院 名 誉 院 長 の 称 号 が 贈 ら れ ま し た 。 昨 年 ロ 月 幻 日 の 午 後 1 時 か ら 、 内 藤 家 と 学 校 法 人 学 習 院 の 合 同 で 、 追 埋 山 が 墓 尽 都 港 区 の 青 山 葬 聾 附 で 行 わ れ ま し た 。 島 津 院 長 や 小 倉 大 書 長 、 賀 陽 墜 友 会 会 長 を は じ め 、 学 習 院 や 桜 友 会 、 法 曹 界 の 関 係 者 が 参 列 。 内 藤 名 誉 底 長 と の 最 後 の お 別 れ を な さ っ て い ま し た 。 慎 ん で ご 冥 福 を お 祈 り 申 し 上 げ ま す 。島津院長をはじめ多くの関係者が参列
学 習 院 の 名 誉 院 長 で あ る 内 藤 頼 博 氏 が 昨 年 ロ 月 5 日 、 老 衰 の た め に ご 逝 去 さ れ ま し た 。 享 年 四 歳 で し た 。 故 内 藤 名 誉 院 長 は 、 明 治 但 年 ︵ 1 9 0 8 ︶ 東 京 に 生 ま れ ま し た 。 昭 和 3 年に室長の旧制童話をど套来。東亙帝 国 大 学 法 学 部 に ご 進 学 さ れ 、 同 6 年 3 月 卒 業 さ れ ま し た 。 卒 業 後 は 法 曹 界 に 進 み 、 同 7 年 か ら 判 事 と し て 千 葉 宝 束 京 の 地 方 裁 判 所 な ど で 勤 務 。 同 詑 年 に は 墨 両 裁 判 所 事 務 総 局 秘 書 課 長 、 翌 々 年 に は 同 局 総 務 局 長 に 就 任 し ご 活 躍 な さ い ま し た 。 学 校 法 人 学 習 院 と の 関 わ り は 昭 和 初 年 6 月 か ら 。 評 議 員 と し て 、 同 沼 年3
月 ま で 母 校 の た め に 尽 力 さ れ ま し た 。 昭 和 泊 年 四 月 の 東 墓 翠 庭 裁 判 所 判 事 就 任 を 皮 切 り に 、 同 叩 ぬ 年 叩 月 に は 東 京 家 庭 裁 判 所 理 長 、 同 叫 年 4 月 に は 広 島 高 等 裁 判 型 啓 一 文 官 、 翌 必 年 に は 名 古 屋 高 誼 立 誠 判 所 長 官 と 要 職 を 歴 任 さ れ ま し た 。 同 必 年 3 月 、 定 年 の た め 名 古 屋 高 裁 長 官 を 退 官 後 は 、 弁 護 士 と し て 多 仕 な 日 々 を 過 ご さ れ ま し た 。 そ の 後 、 再 び 学 校 法 人 学 習 院 の 評 議 員 を 向 必 年 か ら 同 位 年 ま で の 日 年 に わ た っ て 務 め ら れ 、 そ の 間 に も 多 摩 美 術 大 学 の 理 事 長 や 学 長 を 歴 任 さ れ ま し た 。 岡 田 年 4 丹 、 勲 一 等 瑞 宝 章 を 受 章 。 岡 田 年 か ら は 学 校 法 人学習院の理事、同臼年からは第包代の学習院長に就任 祭壇には天皇皇后両陛下をはじめ皇族方からの供花や勲章ガ快えられまレた 17Obi信e「職域桜友会
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:士事の仲間たち
1
なつかしのキャンパス再び
日卒塵科末手
昨年のオル学習院の繁いでは講演会や健康診断などが開かれた桜友会だより
「オール
学習
院の
集
い
」
で
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は
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健康相談や進路相談も実施。
日医大内でも知名度が
高
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(・・・~恒星図届・・・
束京都文京区千駄木の付問調涜を本院とし、 神奈川県川崎市新丸子の付属第二病院東京 都多摩市の付属多摩永山病院さらに千葉県 附 欄iにある付属千葉樹繍院の4伺涜があ る。1年生は新丸子校舎、 2年生から千射て 校舎にて勉学に励んでいる。 平成13年度の入試状況は定員の100名に対 し、遺制者数は1676名、また受験者数は1425 名であった。 ・大学所在地:東京都文京区千駄木1-1-5 日本医科大学監 H A 会 は 、 平 成8
年 日 月 幻 日 に 消 化 器 内 科 ・平 川 相 夫 助 教 授 ︵ 平 川 医 院 院 長 ・ 現 日 本 医 科 大 学 兼 任 説 師 、 昭 担 品 ︶ を 会 長 と し 設 立 さ れ ま し た 。 会 員 の 範 聞 は A 孟 田 院 を 事 業 し 、 学 校 法 人 日 本 医 科 大 学 に 在 籍 す る 職 員 ・ 学 生 及 び 卒 業 生 を 対 象 と し て い ま す 。 堂 内 で の 知 名 度 も 高 く 、 桜 友 会 H 学 習 院 と 返 っ て く る ほ ど に な り ま し た 。 毎 年 、 第 一 次 入 学 試 験 会 場 に 学 習 院 を 利 用 さ せ て い た だ い て お り 、 当 学 の 教 務 課 も 協 力 的 で あ る こ と も 大 い に 助 か っ て お り ま す 。 現 在 の 会 員 数 は 幻 名 。 毎 年 4 月 に は 、 新 入 生 向 け に 会 員 獲 得 の ポ ス タ ー を 校 内 に 貼 り 、 意 外 な 反 応 が あ り ま す 。 2 代目安震の脳神経外科・官事 村 孝 幸 助 教 授 ︵ 昭 4 初 ︶ の よ う に 、 初 等 科 だ け 学 科 院 の 場 合 は 、 本 人 か ら の 述 絡 が な い と 調 べ よ う が あ り ま せ ん 。 最 近 、 学 習 院 大 学 を 中 退 、 一 念 発 起 し 医 学 の 道 に 日 本 医 科 大 学 を 選 ば れ る ケl
ス が あ り ま す 。 腹 部 外 科 の 架 山 登 至 さ ん 、 6 年 生 の 坂 本 徹 君 ら 、 皆 さ ん 頑 張 っ て お り ま す 。 き っ と 素 晴 ら し い お 医 者 さ ん に な る こ Oblige 18 と と 思 い ま す 。 毎 年 3 月 に ﹁ オ l ル 学 習 院 の 集 い ﹂ の 打 ち 合 わ せ も 兼 ね 、H
本 医 科 大 学 桜 友 会 の 総 会 を 聞 い て お り ま す 。 学 生 か ら 名 誉 教 授 、 開 業 医 と な っ た 先 輩 、 さ ら に 事 務 職 ま で 、 ﹁ 学 押 院 ﹂ と い う 紳 で 結 ぼ れ た 集 団 は 素 晴 ら し い ひ と と き を 過 ご し ま す 。 ま た 今 年 は 、 昨 年 帝 京 大 学 一 号 T 部 名 卦 義 授 に 就 任 さ れ た 山 川 達 郎 先 生 ︵ 昭 部 両 ︶ も お 忙 し い 中 、 ご 出 席 を 賜 り ま し た 。 毎 年 4 月 半 ば に 開 催 さ れ る ﹁ オ ー ル 学 期 門 院 の 集 い ﹂ に は 、 積 極 的 に 参 加 し て お り ま す 。 当 日 は 急 患 、 オ ペ 、 日 当 直 や ク ラ ブ 活 動 の な い 限 り 全 員 集 ム 円 で す 。 今 年 は J 子 生 ホl
ル ﹂ に て ﹁ 一 健 康 相 談 ﹂ と つ 進 学 担 談 ﹂ を 催 し ま す 。 ま た 、 家 族 の 参 茄 も 大 歓 迎 。 こ ん な 職 域 桜 友 会 が 円 本 医 科 大 学 桜 友 会 で す 。 今後は、他大学医学部監去 E と の 交 流 も 考 え て お り ま す 。 ご 連 絡 を お 待 ち し て お り ま す 。 − 日 本 医 科 大 学 向 窓 会 合 出 ・ 382 巧 i・
ι U A U つ & R U 文 / 善 利 秀 臣 ︵ 日 本 医 科 大 学 監 去 E 幹 事 、 昭 必 済 ︶禿典
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聞聞膿偲窓際翻悶悶盛田臨機織覇軍司闘際−厳密綴覇軍制鳳.充実した内容が魅力!
日本医科大学桜友会の
インターネット・ホームページ
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昨年の「第14回オ ル学習院の集LJ
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での日本医科大学桜友会。目白キャンパス西l号館にて 初 ( ( ( 初 新 平 代 芳 平 平 、 て 谷 成 会 野EID~ 英 12票廃車喜自滋守
半豊前マ型菟品
川 亨 列 小 示 疫 の安~~:寵: w
2 雪~;~主思
平 l ・昭会 目幹川!」昭 47~ 黒 事 情 ち61初 東 区の久、高、て京 洗 善 ( 研 、 て 曾 足 利 昭fill'品 喜 舘 で 秀 サ 多 コ 平 臣40医 生 村 Jll 琶 の の 孝 俊 医宿汁||秋幸列 院 4日 芳 村 谷 ( 空 関 経 野 邦 麻 昭 包 業 ) 隆 彦 衣41'-' 「インターネットて桜友会の活動の輪をつなげた い」。そんな思いから、日本医科大学桜友会では独 自のホームページを作成し、活動内容を広く紹介 している。 今まで、の総会報告など桜友会活動に関するもの や頭痛の治し方など医大ならではの専門分野、さ らに医学の道を目指す人へのメッセージなど、そ の内容は多彩だ0 .掲載内容 会長挨拶、会員名鉱専門分野の紹介、外来診 察担当日、桜友会幸閥載記事、上手な医者のかか り方、これから医道を目指すあなたへ、総会のご 報告、今までのトピックス、いのちへの優しさと おもいやり、頭痛の治し方、平成13年度入学誤験 要項、平成13年度入学志願者状況など ・日本医科大学桜友会ホームページhttp://www.momo-papa.com/sakura/