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︑鎌倉

ドキュメント内 ミネヤナギJ! 恕 ~~~~~!~: 芝 生 命 に (ページ 33-37)

で 過 ご し た 穏 や か な 日 々 ︒

E階の部屋から。晴れていれば海が見えるがごの日は雨のため、空と水平線が混ざり合っていた

西国幾多郎先生の直筆の額。 1階の部屋に飾られ ている

E階の部屋。先生愛用の机が置かれている 寸心荘の縁側に座わる西田先生(左)と哲学者

の三木清氏 右)

京都の有名な散歩道︑﹁哲学の道﹂の

名の由来ともなった︑日本を代表する哲

営者

・西

田幾 多郎 先生

︒鎌

倉寸 心荘 は︑

西田先生が晩年を過ごした家だ︒私は今

回︑ 初め て訪 れた

その ため 住所 と

地図

を頼りに向かったのだが︑稲村ヶ崎駅か

ら先 がよ くわ から ない

︒最

後は 寸心 荘に

電話をして道を教えてもらった︒

それ ほ

どに住宅街の入り組んだ道の奥に︑小ぢ

んま りと ある

この 日は あい にく の雨 だ

った

でも 雨の 音が 穏や かに 響く よう な︑

心落ち着く静かな静かな場所だ︒

海からは歩いて約日分︑それなのに山

の中 に入 り込 んだ よう な錯 覚に 陥る ほど

木々に閉まれている︒

家の 造り は︑ もと

は平屋建てだったというが︑途中で西田

先生 が増 築さ れた ので

︑ 一部

2

階建 て

玄関を入ると左手には障子で仕切った

2

聞があり︑さらに奥に入ると

1

階が 室洋︑

2

階が畳と板間のある古斎の

2

階建て部

分と なっ てい

る︒

入っ て右 手に は食 堂と

台所と風呂場︒どこにでもありそうな普

通の 家だ

︒現在も管理をされている学習院大学の現役非常勤韓間で哲学を教えて

いる 岡野 浩先 生の おか げで

︑こ ざっ ぱり とし てい て︑ 気持 ちが いい

この 家に は両 国先 生の 生活 を感 じら れ るも のが いく つも ある

︒食

群雄 の時 代に

野菜を育てていた裏の畑に︑使っていら

した机に椅子に本棚︑当時から庭に生え

てい た梅 の木

︒そ

して 原稿 を書 かれ たと

い う ︑

2

の書 斎な どだ

︒先

生は どん な

環境で執筆されていたのか︑そんな興味

に誘 われ るま まに

2

へと 上が った

6

畳ほどの大きさだろうか︑特に飾るもの

は何 もな い

︒だ

が︑ 窓に 日を 向け ると

なんと︑そこからは海が見えた︒

海辺 か

Oblige 38 

庭を眺める縁側。西国先生がいた当時とはガラス戸の造りが変わっているだけ 嫡孫幾久彦さんを抱く西国先生。完全未公開

の貴重な写真(よ図書幅氏蔵)

E階建て部分のl階にある洋室。奥に西国先生の胸像がある

鎌倉寸,心遊利用料金

12歳以下の者は無料

撰よICOJ途は、消 慨を含む金額てす。

※現在、宿泊は原則的に受け付けていません。

減日帰りの時間は午前l時から午後持までです。

※本携在学生の妻子については培技が認めたものの料金に該当します。

※見学のみなどの希望の場合は学習院綴錦官邸にお問合せ下さ 本 院 の 学主主、生徒 、 教 職 員

(本院の生徒、中等科)

本 院 の 教 職 員 割 長

本 院 の 在 学生父 母 、 卒 業生お よ び 賛 助 員 本 院 が 認 め た も の

ら山 へ入 り︑ 山の 隠れ 家的 な雰 囲気 だっ たの に︑ 海が 見え る

︒海

と山

︑両 方を 居 なが らに して 感じ られ るこ の部 屋は まさ に特 等席

︒し

るばらく窓辺から離れること

取が 出来 なか った

肘西田先生が京都帝国大学

M

を定 年退 官す る際 に書 いた 乱﹃ 或る 教授 の退 職の

﹄辞

に ︑

明記は今日を以て私の何十年刊の公生涯を終ったのである ︒

に︵ 中略

︶回 顧す れば

︑私 の生

払涯は極めて簡単なものであ

釣った︒その前半は黒板を前ーにして坐した︑その後半は

乱黒板を後にして立った

︒黒

町板に向って一

回転 をな した

酌と云へば︑それで私の伝記

裏は尽きるのである﹂という

もの があ る

︒鎌

倉で 週こ さ れた のは 公生 涯が 終わ って から のこ と︒ 少し はゆ った りと され てい たの だろ うか

︑こ の頃 の詩 には 七里 ヶ浜 の歌 碑に もあ るよ うな

︑の どか な感 じの もの が多 い

︒毎

日の 生活

も︑

午前 中に 原 稿を 書き

︑午 後に は人 に会 った り︑ 七里 ケ浜 あた りま で散 歩を した りと いう ゆと りあ るも のだ った

︒近 所で は寸 心荘 のあ る当 時の 地名

︑姥 ヶ谷 から

H

ヶ谷 の先 生︒ と呼 ばれ

︑親 しま れて いた そう だ︒ 不幸 なこ とが 多か った 公生 涯時 代に 比べ

穏やかな日々を過ごした鎌有ここには

京都 にい た時 とは 違う 顔を 持っ た西 田先 生が 歩か れた もう ひと つの

﹁哲 学の 道﹂ があ るよ うに 思う

39 Obi信e

上回薫氏に聞く

おじいさま西国幾多郎先生のこと

丙田先生によく似たお顔立ちの上回燕

先生

︒﹃ 知ら れざ る教 育﹄

︵察 明占

刊房︶

などの著書も多く︑教育学の世界ではよく知られた先生だ︒お会いしているとその穏やかな雰囲気に︑初めてとは思えな

いほ

ど心が和んでしまう︒次から次へと

ぶし つけ に質 問さ せて いた だい たの に︑ 先生 は大 変ご 丁寧 にお 答え くだ さっ た︒

丙回先生はどうして鎌倉に家を構えた

ので しょ

︑っ か︒

二番は身体の問題だと忠います︒京都に比べ鎌倉は気候がいいので︑勉強に集中

でき ると いう こと があ るで しょ う﹂

鎌倉というひとつの都が争いによって

滅びてしまった︑その部びた廃櫨の趣を丙田先生が好まれた︑というのを以前読

んだ こと があ るの です が︒

﹁必 ずし もそ うい うこ とで はな いで しょ

う︒祖父に関することはいろいろhH

いか

ていますが︑正問︑作り話のことが多い

です ね︒ 私生 活を 見せ たり

か痕

跡を

残そ うと いう 人で はな かっ たで すか ら︒

京都の註字の道に関しても本当の

とこ ろ ︑

それほど歩いていないと思います︒なに

上回廊先生。西国先生 のご畏女がお母嫌

西国幾多郎先生の生涯

明治3年(1870)  519日、石川県;可北郡字ノ木村 現・

宇ノ木町)に生まれる 明治同年(1883)石川県師範学校に入学 明治17年(1884)チフスに穫り師範学校を退学 明治21年(1888)  7月、第四高等中学校予科を卒業

9月、第四高等中学校第一部に入学し、

鈴木大拙らと同級となる 明治23年(1890)第四高等中学校を中途退学

明治24年(1891)東京帝国大学文科大学哲学制翠科入学 明治27年(1894)東京帝国大学文科大学哲学手羽釜科卒業 明治28年(1895)石川県能登尋常中学校七尾分校教諭となる

5月、得田寿美と車歓喜 明治29年(1896)  3月、長女弥生誕生

第四高等学校講師となる 山口高等学校教抑属託となる 6月、長男謙誕生

山口高等学校事対受となる

第四高等学校教授となりドイツ語を教える 明治34年(1901)  2月、次男外彦誕生

3月、雪門老師より寸心居士の号を受ける 12月、次女幽子誕生

JO月、三女静子誕生 1月、次女幽子没

5月、四女友子、五女愛子誕生 6月、五女愛子没

明治42年(1909)  3月、六女梅子誕生

7月、学習院に阿汗苦主任教授として副壬 8月、京都帝国大学文科大学E減対受となる

善の研究」出版

8J京都帝国大学文科大学事対受となる 12丹、文明専士の学位を得る

自覚に於ける直観と反省」出版

意識の問題」出版 6月、長男謙没

「奇術と~措」 出版

|月、妻寿美没

「場所」のE雪命を 哲学研究」iこ発表

働くものから見るものへ」出版 8月、定年退官

r

E者の自覚的体系」出版 12月、山田琴と再婚

r無の自覚的限定」出版 r哲学の根本問題』出版。

7月、鎌倉の姥ヶ谷に居を構える r哲学の根本問題材調』出版

r日本文イtの問題」出版 3月、文化鮫章受章 4月、四女友子没 JO月、リューマチを患う 昭和20 1945)  2月、長女材生没

67日、尿毒症により75歳で死去

せ家から速かったですからね︒鎌倉では稲村ヶ崎から七里ヶ浜あたりまではよく

散歩 をし てい まし た﹂

近所の方には姥ヶ谷の先生と呼ばれていたとか︒西田先生は賀子という︑なか

なか理解しにくい︑難しい世界に生きていらしたのですが︑実はお優しかったの

では ない でし ょう か︒

﹁い や︑ いや

︑結 構厳 しく 難し い人 でし たよ

︒明 治の 人ら しく ね︒ でも その 反面

いろいろなエヒソ

l

ドも あり ます

︒七 回宝

ケ浜が散手νて

いた

ら︑

﹃ト

載されていた吉川英治の﹃宵本武蔵﹄を してたこともあります︒また︑夕刊に連 初期の喜劇役行︶に会った﹄なんて興奮 川緑波︵昭和一

楽し みに して いて

︑夕 刊が い米 る時 間に な

るとホストあたりで待っていた︑なんて

こと を叔 母か ら聞 いた こと もあ りま す︒

でもこれは多少叔母の作n

ノ訴 かも しれ ま

せん

が﹂

窓外 にチ ャー ミン グな 回を お持 ちで

︑ 驚き です

﹁だ けれ ど気 安く 冗談 を言 える よう な雰

開気ではなくて︑近寄りがたかったです

明治30年(1897)  明治31年(1898)  明治32年(1899) 

ょ︒嫡孫の幾久彦君などはともかく︑初孫でも外孫の私なんか優しい言葉をかけてもらった記憶がありませんから︒でもお弟子さんに対しては査ヨに愛情を持って接してましたけどね︒鎌倉にも家を持つようになったのは定年後で︑いうなれば隠居の生活でしたから気分的にも余裕はあったのではないでしょうか︒それまで生活も背しかったですから︒苫しいと

いっ ても 家族 が次 々に 死ん でし まう など

精神的

f £

ぬ味ですけど︒それに比べ鎌合

にい た時 代は

2

人目の祖ほも本当にいい

人で した し︑ 落ち 世相 けた ので はな いで し ょう か︒ 鎌倉 には 来客 も多 かっ たで すよ

﹂ もし かし て学 習院 で教 わっ た人 達も

︑ 鎌倉 を訪 ねて いる ので は︒ コえ え︑ 近衛 文麿 さん をは じめ

︑尚 子相 円院

時代の教え子には政界の要職につかれた人が多く︑いろいろ相談に米られていま

した

︒町

一子

制円

院に

いた

のは

1年

でし たが

みなさんその後も組父を慕ってくださいました︒祖父白身も学刊院にはいろいろ

f 正以味で愛清があったようです︒祖父を受け入れてくれる学校が少ない時代に迎

明治35年(1902)  明治38年(1905)  明治40年(1907) 

明治43年(1910)  明治44年(1911)  大正2年(1913)

えてくれたのが学習院でした︒直接の弟子ではないのですが︑哲蛍令だった安倍

能成 先生 が弟 子の 仲間 でい らし たこ と︑ 愛弟 子の 下村 寅太 郎先 生も いら した こと

そんな関係で︑鎌倉の家は学習院に引き取っていただいたのだと思います︒実を言うと私の父も学習院での教え子︑私の仲人も下村先生なんです﹂日本を代表する哲学者の西田先生が学

科院 に愛 着を 持っ てい ただ いて いた とは

︑ い竿 点生 とし てう れし い限 りで す︒

それでは最後になりますが︑ひとつ教えて下さい︒もし︑西国符学を入門的に

読む とし たら 何が よい でし ょう か︒

﹁思 怨を 知る ため には

︑や はり まず

﹃善

の研究﹄からお読みになるのがよいでしょう︒それでもとつつきにくい人は︑簡単な伝記などを読んでみられるのはどうでしょうか︒祖父はあらかじめ内容をき

っち りと 整え

てくのではなく︑与えな

S

がら 省 いて いく たち でし たか ら︑ ある ぷ

味では普通の哲学在より読みやすく︑馴染みゃすいと言えましょう︒でもわかり

やす いと はき 口え ない でし ょう ね﹂

Oblige 40  大正6年(1917) 

大正9年(1920) 

大正12年(1923)  大正14年(1925) 大正月年(1926)  昭和2 1927)  昭和3年(1928)  昭和5年(1930)  昭和6年(1931)  昭和7年(1932)  昭和8年(1933) 

昭和9年(1934)  昭和同年 1940)  昭和同年(1941) 

ドキュメント内 ミネヤナギJ! 恕 ~~~~~!~: 芝 生 命 に (ページ 33-37)

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