司会 皆さんお早うございます。本日は,わたくし(平野)の刑事法入門の時間を利用 して立野雅子さんをお迎えし,法学講演会を開催いたします。講演会に先立ちまして, 法学会の会長,山本陽一法学部長からご挨拶をお願いしたいと思います。よろしくお願 いいたします。 山本 お早うございます。本日はたくさん参加してくださって,ありがとうございます。 立野先生には私たちのために時間を割いていただいてありがとうございます。法律の根 底には共通して,人間の共感というものがあると思います。共感するためには想像力が 必要で,現在は想像力が貧弱になっています。それからメディアが伝える情報も偏って いたり,不十分だったりするので,今日は立野先生のお話を聞いて法律の原点について 考えるいい機会になるのではないか,と思います。本日はよろしくお願いいたします。 司会 立野さんの事件は 年です。被害者を支援するための法律ができて,我が国 において,被害者保護制度が非常に変わり始めたのが 年くらいですので,その前 の話です。被害者保護の制度ができる前の状況がどうであったのかということを,頭だ けで考えないで,ぜひ想像力を用いて全身で受け止めて,いろいろな事を学び取ってほ しいと思います。それではよろしくお願いいたします。
犯 罪 被 害 者 と 支 援
―― 殺人事件被害者遺族の立場から ――
立
野
雅
子
立野 お早うございます。今日はありがとうございます。立野雅子と言います。私はあ まり話すのが得意ではないので,原稿の方を読ませていただくので下を向いてお話しす るかと思いますが,どうぞお聞きください。 年 月 日午後 時頃,姉は殺されました。当時 歳でした。高知のよさこい 祭りに参加する 日前の事です。私は保育士をしながら宇多津町で独り暮らしをしてい ました。夜中,父からの電話で,何も持たず,車もないので一人電車に乗り実家に帰り ました。詳しい状況が何も分からず,そこから数時間は姉が死んでしまったということ だけでした。犯人は姉が半年程前に知り合った男でした。暴力を振るわれ,お前の家族 を殺すと脅され,殺される少し前にやっと離れることができていました。私も両親も初 耳でした。そして 月 日,母親とビアガーデンに行く約束の 時間くらい前に,家の 近所まで来ていた犯人に最後だからと頼まれ,ほんの 分位のつもりで出かけました。 そのまま二度と戻れなくなりました。実家から メートルほどの犯人の車の中でした。 サバイバルナイフを購入し,殺すつもりで呼び出したそうです。殺した後,すぐに近く の人に,「人を殺した,警察を呼んでくれ」と自首したそうです。そして犯人にとって 姉は,二人目の殺人でした。一人目の時は 年の刑で出てきたそうです。 当時,お葬式が終わるまで書いた日記があります。殴り書きで感情も不安定のため, 意味の分からない文章や個人名も出てきますので,抜粋して読ませていただきます。
『 月 日, 時頃,父から電話があった。 時間ほど前,姉ちゃんが刺されて即死 したそうだ。訳が分からん,耳がおかしいのかと思った。とりあえず,最新のマリンに 乗り,ぎりぎり間に合いそうなので 分で家を出た。遅いが園長先生に電話した。遅 出を頼んだ。駅に着いた。友達に電話した。少し話を聞いてもらった。現実感がない。 気持ち悪い,吐きそうだ。今,マリンの中だ。長く,すごく長い。どうして,返して下 さい。どうして姉ちゃんなの。よさこいも楽しみにしとったのに。』 父からの電話があって,次の日仕事だったので寝ていた。「姉ちゃんが死んだ。朝一 で帰ってきてほしい」「噓や」「噓やない! 即死や‼」。とりあえず電話を切った。す ぐに時刻表を見ると夜中の : の坂出発の電車があったので,もう一度家に電話を して,今から帰れると思うと伝えた。先生に電話をして,すぐに出て,自転車で坂出駅 まで行った。涙があふれてきた。駅に間に合った。ホームから友達に電話をした。電車 の中で先ほどのことを思いつくままに書いた。手が震える。 AM : ,家に着いた。父と母が家の電気をすべて点け,戸や窓も開けていた。「姉 ちゃんが帰ってくるかもしれないから,開けておこうね」と言った。母は呆然とし,父 は頭を抱えて黙っていた。まったく詳しいことは知らないそうだ。私はソファに座って いた。夜 時頃に家に警察の人が来て北署に行き,帰ってすぐに私に電話をしたそうだ。 ずっとソファに座って独り言のように歌っていた。朝方横になったが一睡もできるはず がなかった。涙が止まらない。 今日は 日。香川医大にて検死がある。葬儀屋もきた。明日 日通夜で,あさって 日が告別式だ。父が朝,声もなく泣いた。母は泣くことすらできない。まだ信じら れないようだ。私はずっと泣きどおしだ。朝一でおじいちゃん,おばあちゃんが高知か ら来てくれた。車を置く所の案内に出た。私の顔を見ておばあちゃんが,「どうしてあ の子が」と言いながら泣き出した。私もまた涙が出てきた。昼ごろ,一度宇多津に戻っ た。とりあえず保育園に行き,書類をだし, 日から 日は有給を使って, 日から 日間, 日まではお盆休みだった。家に帰って着替えをもって再び高松に帰った。 高松駅まで自転車で来ていたので,殺された現場に寄ろうかと思ったが,怖くて行けな かった。告別式の写真を決めた。 年の海外でのものだった。とてもいい笑顔をして いる。 夕方,姉ちゃんを医大に迎えに行く用意をした。おじいちゃんと高知のおじさんは, 回高知に帰った。おばあちゃんに留守を頼んで,葬儀屋と一緒に 人で 時に家を出 た。ワゴン車の中には新しい棺があった。その横に縦に 人並んで座った。父は無言だ。 時前,検死はまだ終わっていなかった。隣の控え室で待った,ずっと待った。警察の 人が来て, カ所以上刺されているのでまだ時間がかかりますとのことだった。涙が
出てきた。外に出て一人で泣いていた。暗くなってくると検死部屋の人たちが少し浮か び上がって見えてきた。 人以上の医者や警察に囲まれているようだ。とにかく,た くさんの人が取り囲んでいた。悔しかった。 時頃,警察の人がまた控え室に来た。今やっと検死が終わり,これから縫うそうだ。 抵抗した跡があり,小指が取れかけていて, センチくらいの刃物で背中まで貫通し ているところも数カ所あるそうだ。死因は失血死によるもので,胸の中まで血がたまっ ていたそうだ。一刺しで即死したと思っていたので,悔しくて悔しくて,苦しんだ姉の 姿を思い涙が止まらなかった。手と足の力が抜け,痛いし気持ち悪い。歩くのも一苦労。 外に出て窓に浮かび上がる影を見ていると,明らかに縫っているのが分かった。その周 りを警察が囲んでいるようだった。 時前,誰も入っていない新しい棺が中に入っていった。入り口でずっとわめいてい た。 時 分,棺が出てきた。あまりの傷の多さに, 時間半の検死だった。この中 に姉ちゃんが入っている。指が取れかけているので組むこともできず,重ねているだけ だそうだ。棺がワゴン車にはいった。父は検死のお金を支払った。私は泣きながら警察 の人たちにお礼を言った。ワゴン車に乗り,ずっと棺にしがみついて泣いていた。母は 棺をずっと撫でていた。父は一番前に座り黙っていた。 時過ぎに家に着いた。 回家に連れて帰ってあげようと,畳の部屋に棺を置いた。 友達が電話をしてきてくれ,少し待ってもらった。私は最初に姉の顔を見た。発狂した。 と同時に犯人への憎しみが初めて生まれた。止まらないくらいの憎しみが。震えが止ま らず涙も止まらない。姉ちゃんは,顔以外はすべて綿で覆われていた。目は半開きだっ た。でも目の玉はもう動かない。白く濁っていた。口も半開きだ。殺したあと怖くなっ て自首した男,頼むから死んでくれ。不公平だ。どうして動かないの。あいつはしゃべ れるし食べられるし,嫌だ。どうして姉ちゃんだけ,不公平だ。何度も泣きながら繰り 返した。その場にしゃがみ込んだ。そこで姉の前の会社の人が十数人来てくれた。みん な泣いていた。家の近くで待ってくれていたらしい。私は姉の部屋に 回入り,姉のと ころに戻って,来てくださった方々にお礼を言いに,マンションの下に行った。私の友 達も来てくれていた。みんなの前だったので取り乱さずにいられた。 時間くらい話を 聞いてくれた。だいぶ落ちついた。来て下さった人の十人くらいの方が帰ったあと,部 屋に戻った。友達全員が帰ったあと,父はこらえていた涙を流した。私も姉の顔を見る 度に涙が止まらない。姉の顔は冷たくてやわらかかった。 朝から姉の携帯を持っていた。ニュースを見た人たちからかかってきた。昔から私と 姉の声は似ていて,かけてきた人はほとんど,「なんや,人違いや。びっくりさせんと いて」と言われ,説明するとみんな泣きだした。殺された 日の日,よさこい祭りで踊
るときに使う腰のところにぶら下げるカバンを買って,一度 時頃家に帰って,母と二 人でビアガーデンに行く予定だったらしい。早速よさこいの衣装とその日に買ったカバ ンをかぶせてあげた。父は何度も何度も姉の顔を見た。今日はろうそくの灯を絶やして はいけないということだった。ろうそくが足りなくなったらいけないので,コンビニへ 買いに行った。父がビールを買っていた。夜,姉の横で母と私が火の番をしていた。私 はいつの間にか 時間くらい寝てしまっていた。 朝 時過ぎに起き慌てたが,母が火の番をしてくれていた。父が突然泣き出した。 私もその都度涙が出てくる。姉の歯と口が渇いていたので,おばあちゃんがガーゼを割 り に巻いて湿らせてくれた。母が初めて涙を流した。父が背中をさすった。みんなで 姉の口を湿らせた。父が「雅子,頼むからお姉ちゃんの口を湿らせてあげてくれ」と 言って泣いている。私に懇願するように言ってきた。思わず「私だって同じ辛いのに, 何でそんな言い方をするん」と強い口調で言ってしまった。最低だ,イライラする。相 変わらず手のひらと足の裏に力が入らない。気持ち悪くてイライラする。何も欲しくな い。 時頃, おばあちゃんとスーツと数珠を買いに行った。 立野家で初めてのお葬式だ。 私は青い数珠を選んだ。今日は通夜だ。葬儀屋が 時に迎えに来る。 時頃家に帰った。 時半頃, 時半までには帰ると言って家を出た。自転車で浜ノ町へ行き,殺された現 場を 分ほど探しまわった。見つからない。ワゴン車の花屋のおじさんに聞いた。殺 人事件だったのでみんな知っていた。浜ノ町だとばかり思っていたが,新北町だった。 私は事件がどのように放送されたか知らなかった。テレビや新聞を見る余裕もなかった。 もちろん両親に現場へ行くとは言えなかった。私は浜ノ町だと勝手に思い込んでいた。 おじさんからユリを買い,今来た道を号泣しながら戻った。母から 時頃連絡があり, 早く帰って来いとのことだった。私は泣いているのを気づかれないように,声を潜めて 「 時半には帰るから一人にしておいて」と言った。現場と思われるところに花束があっ た。自分の買ったユリを置き,大声で泣いた。涙が止まらない。そこは家から ∼ メートルのところだった。悔しい,泣いた。姉ちゃん,姉ちゃんと繰り返した。少しし て,後ろを振り向くと血の跡があった。涙があふれて止まらない。コンクリの上の血の 跡をずっと撫でていた。 時半が近づいたので泣きながら家に帰り,シャワーを浴びて 準備をした。姉の口から残った血が噴出した。ティッシュでふき取った。 葬儀場へ行った。姉の棺のドライアイスを取り換えた。持って来たぬいぐるみや服な どを入れた。私が高校の修学旅行の時,姉に買ってきた魔法使いの格好をしたミッキー マウスの人形も入れた。姉の棺が閉められた。しばらく棺にくっついていた。顔の部分 を開け,一生懸命に目を合わそうとした。母が姉の目を開かせていた。昨日より大きく
開いた。 時半頃,友達が心配して電話をくれた。 時まであっという間だった。通夜 が始まった。 時間で終わった。たくさんの人が来てくれた。 時まで来る人が絶え なかった。 時を過ぎてもぽつり,ぽつりと来てくれた。広島,大阪の方など, 時間 以上佇む方もいた。一人になった時,姉の棺にずっとしがみついていた。目を合わせよ うとした。合った気がする。夜中,誰も来なくなった会場で座っていた。外はすごい雨 だ。 時 分,祭壇に向かった左側のライトが一度消えた。きっと姉ちゃんだ。おば あちゃんに,「あんたはあんたの思うように生きなさいね」と言われた。ホールで椅子 をつなげてベッドを作った。 時半頃,万が一のため 時に携帯をセットし,いつの間 にか寝ていた。 起きると朝の 時だった。鳴らなかった?と聞くと,自分でとめて再び寝たそうだ。 覚えていない。火は母とおばあちゃんが見てくれていた。一旦,父,母,私は家に帰り, シャワーを浴び,スーツに着替えた。おじちゃんと高知のおじさんが来てくれた。 時前にホールへ戻った。大阪から大学時代の友人が何人も来てくれていた。姉から手紙 をもらい,返事を持って来てくれていた人がいたので棺の中に入れてもらった。棺に 触って姉の顔を見て,ずっと目を合わせていた。葬儀屋が来て冷たく棺を閉められた。 たくさんの人が来てくれていた。 時から告別式が始まった。焼香も終わった。涙を こらえた。最後の父のあいさつで,母と 人立ち,後ろを振り返り驚いた。準備をして いたホールの椅子では足りずに臨時の椅子を用意してくれ,それにさえ座れず立ってい た人がたくさんいた。こらえていた涙が一気にあふれてきた。 棺が開けられ花を入れた。姉の足を触った,柔らかかった。来てくれた人たち一人ひ とりが花を置いてくれ,顔以外花で埋まった。来てくれた人たちは 回のロビーに移動 した。最後にみんなで顔をたくさん触った。冷たかったけどやっぱり柔らかい。姉の遺 影を持ちエレベーターに乗った。ロビーで 人以上の人が見送ってくれた。涙でよく 見えない。手も足も少し痛みは和らいだが,力はまだはいらない。火葬場へは 分で ついた。もう二度と顔は見られない。姉の友人も来てくれていた。最後に焼香をした。 時半だった。 番の火葬場へ棺が入る直前,母が発狂し,「お母さんももうすぐ行く きね」と叫び出した。おばあちゃんが落ち着かせた。控え室でおじいちゃんとしゃべっ ていた。みんなで わたしをしながら骨壺へ納めた。そのまま遺骨を持ちホールへ帰っ た。親族だけで初七日を済ませた。 時過ぎに家に帰った。簡易祭壇を葬儀屋が作った。終わった。姉ちゃんがいなくなっ た。形がない,すがるものがない。足がなくても手がなくても返してほしい。なぜ,ど うして。夕方花束をもって,スーツのまま数珠をもって現場へ行った。花束が増えてい た。悔しくてたまらない。しばらく座っていた。父も途中で来て現場の写真を撮ってい
た。帰って着替えた。夜,父が言った。「前からしたいことがあって,お金を貯めよん やろ。気にせずしてもいいからな」「うん」と小さな声で言った。できるわけがない, もう二度と戻ってこない。姉ちゃん,自分のことばかり考えてごめん。でもどうしてい いか分からん。 今日は 時から事情聴取の日だ。お昼前,姉ちゃんのところへ行って掃除をした。友 達が来てくれていた。花も増えていた。ジュースを置いた。少しの間ぼーっとしていた。 人でタクシーで行った。北署だ。父と母の調書をとった。おばあちゃんは高知へ帰ら ず残ってくれていたので留守を頼んだ。 時半に終わった。犯人は冷暖房の部屋にいる そうだ。朝 時から調書を受けているそうだ。父も母も私も死刑を望んでいる。お前も 死ね。息をしてほしくない。しかも同じ北署にいるなんて。 夜 時半頃家を出た。歩いて姉ちゃんの現場に行った。 時間ほど座っていた。自分 が嫌だ。朝 時頃,姉ちゃんの部屋で寝た。 姉ちゃんの現場へ行った。 時から私の調書だ。姉の思い出を語った。犯人は絞首刑 などではなく同じ方法で死んでほしいと言った。犯人の写真を見た。汚い,死ね。二度 目の殺人。 回目で死刑になっていれば。でも 回目なので重たいだろう。今度は何も かも奪う,金がないなら作れ。刑務所で働いたお金,両親がいらないと言っても私はそ れさえ奪いたい。いらないなら姉ちゃんの名前で世界で苦しんでいる子供に寄付をす る。 時前に終わった。今日は花火だ。 時半頃港へ行った。花火見物でいっぱいだ。 姉ちゃんのところだけは空いていた。帰って 人で姉ちゃんの写真をもってマンション から花火を見た。姉ちゃんは友達とここから見る予定だったそうだ。 時に終わった。 次の日,姉ちゃんのところに行った。ゴミもなくまったく汚れていなかった。 時前, よさこいの人たち 人くらいが来てくれた。 次の日 時に港に行こうとすると,父も母も行くと言い出した。 人で現場に行った。 父は少しして帰った。母も 時間くらいで帰った。私は 時頃までいた。夜,マリンラ イナーに乗って帰った。友達が一緒にいてくれた。坂出駅から自転車で帰った。明日か ら仕事だ。 以上が当時の日記の内容です。私と姉は つ離れたごく普通の姉妹でした。あの日以 来,私たち家族の生活は 度変わりました。父は事件の翌日仕事を退職しました。私 は仕事に復帰しましたが,当時保育園で 歳児のクラスを担当していたので,その兄弟 や姉妹が弟や妹の名前を呼びながら,保護者と迎えに来る姿を見て涙をこらえるのが精 いっぱいでした。裁判が始まる頃,怪我でお休みされていた先生が職場復帰されるとい うことで退職願を出しました。当時は二度とこの職業につけないと思い涙が止まりませ
んでした。そして裁判が始まりました。裁判所にはいると,父は犯人の顔を見ようと前 の方の記者席に進み,覗き込もうとしました。もちろん職員の方に制止されました。私 は父の行動を驚きながらも,父が制止されたことに悔しさを感じ矛盾した感情が起きま した。向こうが守られている思いが悔しさになりました。 証言をする時,当時は犯人の前に立ってしていました。その時,事前に何度も何度も 念を押されていた事は,絶対に犯人の方を振り向かないでくださいということでした。 どうして私たちの方が気を使い,証言をしなければならないのか。また向こうが守られ ているんだなと思い,悔しかったです。裁判が進む中,犯人は自分が幼いころに父親か ら暴力を受けたと弁護士が口にすると,初めて涙を流しました。本当に本当に,怒りが こみ上げてきました。自分のことだけかと思うのと,暴力を受けた事を殺人の理由にさ れるかと思うと吐き気を覚えました。そのような環境でもちゃんと生きている人はたく さんいます。しかも,私たち被害者からしてみれば,そんな事は関係ない話であり,憎 しみと怒りでいっぱいになりました。しかしそれを言えるわけでもなく,私たちが証言 できる時間や内容は限られており,唯一感情を出せるのは傍聴席で泣くことだけでし た。 ある日の裁判の後,週刊新潮の記者が来て,雑誌に書かせてもらいたいと言われて父 が断ると,こちらは書く権利があるのでと言われ,後日雑誌に載りました。内容は腹立 たしいものではなかったので,傷つくほどではありませんでしたが,マスコミの怖さを 知りました。 この裁判の間も私はボロボロでした。実家へ行ったり来たりし,両親の前ではなるべ く明るく過ごし,家で一人でいる時に泣き続け,毎日毎日朝方までお酒を飲むのを繰り 返していました。人前では笑い,家に帰って泣く生活。両親も同じだと思います。当時 私は留学をしたくて,節約をしながらお金を貯めていました。目標まであと少しでした。 あれだけ一生懸命に貯めていた 万円以上のお金をあっという間に使いました。もち ろん生活費もありましたが,毎日の飲み代や,やった事のないパチンコにも入り浸りま した。勝ち負けなど関係ありませんでした。以前香川県で幼い姉妹の殺人事件がありま した。この姉妹の両親が,事件からまだ間が経っていない頃にパチンコばかりしている という が流れました。それを聞いた友人たちは皆,最低と言っていました。私はすご く理解できました。でも口に出すことはありませんでした。なぜなら私の事件のことで 気を使われるのが嫌だったからです。私も自分の事件のことがなければ,友人と同じよ うに最低と思っていたかも知れません。 裁判中,だんだんお酒を飲んでも眠れずに,体へはストレスから異常が出始めまし た。夜尿症にもなり病院へも通いました。そんな中,警察の方が精神科でカウンセリン
グを受けてみてはどうかと勧めてくれました。しかし姉が殺され,一人残った妹が病院 通いとなると両親が辛いだろうと思いながら,決心がつきませんでした。母親から行っ てみてはと言われ,カウンセリングを受け薬を飲むようになりました。しかし,日に日 に犯人に対する憎しみが止まらなくなり,早く死んでくれ,姉ちゃんは息をしていない のになんでお前だけ息をし,食事をし,睡眠をとっているんだと思い,薬を飲んでも些 細な事でイライラが止まらなくなってきました。ある日の裁判の後,裁判所の駐車場で 職員の方に連れられて行く,別の公判の加害者を見ました。じっと見てしまいました。 あいつもここを通るかもしれない,ここでならあいつを殺せるかもと思いました。 翌年, 年 月 日,犯人は無期懲役になり裁判は終わりました。二人目の殺人 でしたが,無期でも難しいかもと言われていました。私は自分がこのような立場になる 前,友人と死刑についての話をしたことがあります。その時「悪いことをして死刑もい いけど,刑務所の中で一生苦しんで生きろとも思うよね」と言いました。しかし実際, 被害者側の立場に立って思うのは,頼むから死んでくれ,息をしてほしくないでした。 私は犯人に刑務所で働いたお金を少しでもいいので,姉の名前で寄付をしたいと伝え ました。すると犯人から手紙が来ました。こちらはコピーになります。原文のまま読み ます。 「前略 突然のお手紙をお許しください。 御両親様には言い様のない気持でいっぱいのことと推察致すべきも,育恵さんのことを 思うと私としましても,本当に申し訳なき事と,日夜沈思し,どうしてこの様なことに と,ただただ私の身勝手さ故に,何の落ち度もない,育恵さんの命をと…。育恵さんの 無念さを思うと今となってはどの様に私がお詫,仕様が,皆様のお気持ちに沿うことは ならぬと思います。私としましては育恵さんの冥福を祈り,自ら犯した罰に服し,今後 に身を託す為にも一日も早く刑に服したいと思っております。 今回の判決では御両親様も納得なされていないと思います。私がこの世に生きている自 体,申し訳ない気持で一杯です。刑に対して控訴などする気持は一切ありません。上訴 権放棄してでも一日も早く刑に服そうと思います。今日,弁護士の先生から聞いたので すが,妹さんの意思とのことですが,ユニセフの方に私の務めた賞与金を世界の恵まれ ない子供さんの為に寄付ができるのであれば,喜んでさせて頂きたいと思います。 突然この様なお手紙を出し,受け取り,皆様のお気持ちが判らぬ訳はありませんが,唯 一言申し訳なき事を致しました。哀心よりお詫びしたき心情から,拙い文にて何卆お許 しください。皆様のお気持ちを察するに,私自身生きている自体申し訳無いことと思っ
ております。何卆々皆様には身勝手な云い方ですが,御健勝にてお暮しくださいます様 心より祈念いたします。 乱筆乱文お許しください。合掌」 という内容でした。それ以来,一度も送金もなければ連絡もありません。刑務所へ行っ てしまえば何でもありなのかと感じました。二人目の殺人。一人目の時は, 年の刑を 受け 年半で仮出所したそうです。出所した後,一人目の殺人を自慢話のように語って いたと聞きました。裁判や刑務所で反省した,申し訳ない,演技なんて簡単だと思いま した。せめて一人目の殺人で出てこなければと何度も思います。 裁判が終わり祖父母が自分たちのために用意しておいた高知県の土地に新しいお墓を 建てました。「一番に彫られる名前があの子の名前になるなんて。私たちが先に入るは ずだったのに」と泣いていました。手続き上のことはすべて終わりましたが,私たちの 苦しみは日に日に増しました。父,母は姉に関する日記をつけ,犯人の両親にも会いに 行き,門前払いをされました。 そして裁判では争えない事実がありました。以前,姉が交際を断った同じ会社だった 男が,犯人を殺人者と知りながらわざと姉と合わせ,自分も一緒にいくと噓を言い二人 きりにさせ,出会わせました。そして殺しはしないでくれと頼んでいたということです。 振られた腹いせに,ちょっとした嫌がらせのつもりでしたことかもしれませんが,姉は 殺されました。両親は男に謝罪を求めました。すると承諾しました。私はその男が謝罪 したら両親を止めようと思っていました。しかし男は,待ち合わせの場所に関係のない 人物を二人連れ,横柄な態度で関係ないと開き直ったそうです。このまま行っても両親 が傷つくだけだと分かっていましたが,私は口出しせず止めませんでした。もう両親の やりたいようにさせてあげようと思いました。それだけがその時の両親の生きていく力 だったからです。もう以前の両親ではありませんでした。男の会社に何度も電話をかけ たり,一般的な考えができなくなっていたのです。男から訴えられ, 万のお金を払 いました。その後,男は職場にいられなくなったそうです。 あれからもうすぐ 年です。どんなにあがいても苦しんでも姉は帰ってきません。 周りは過去の話なので,だいぶん癒えていると思われることもあります。事件から数年 後,何人かの友人と集まっている時に,一人の友人が両親のことを聞いてきました。「な かなかねぇ」と言うと,「えっ,まだ言いよん?」と言われました。すると別の友人が その子を肘でつついて発言を制止しました。その子は口を押さえて「あっ」と申し訳な さそうな顔をしました。私は「そうなんや」と笑って流しました。当時の職場の方にも,
「もう一人兄弟がいたらね」と言われたこともあります。でも周りはそんなものだと感 じていたので,改めて実感させられただけでした。私もこちらの立場にならなければ分 かり得ない苦しみでいっぱいでした。 周りは日に日に軽くなっていくと思っておられる方もおられますが,苦しみ,悲しみ, 恨みは死ぬまで一生持ち続けていかなければなりません。自分が死んでいればと思いま す。家族はみんなそうだと思います。自分が死ぬことで身代わりという意味もあります が,自分が死ねばこの生き地獄から逃げられるという意味もあります。記憶喪失になれ ば犯人は喜ぶかもしれませんが,それによってこの苦しみから逃れられるのなら構わな いと思うこともあります。 つらいのは姉が夢に出てきて起きた時,一瞬生きていると思った瞬間。それが夢であ ると認識した時,そのまま元の生活に戻さなければならない時は,耐え難いものがあり ました。事件後, 年くらいはそれを受け入れるのに何時間もかかることがありまし た。今はその日の体調にもよりますが何時間もかかることは滅多にありません。事件以 来,生きていて楽しいことは,たくさんあります。でも自分が生きていてよかったと思 うことは一度もありません。 事件からしばらくして姉の死を受け止め,何度か取材を受けた事があります。中には 「それはちょっと」とカメラを止められ,撮り直しをさせられ被害者というものを作り 上げられたこともありました。取材を受けた事を後悔しましたが,オンエアではその作 り上げられた部分はカットされていたので傷つかずにすみました。他の殺人の犯罪被害 者の遺族の方とお話しさせていただいた時,この話をすると他の方も同じような事が あったとおっしゃっていました。もちろんきちんと取材して下さったマスコミの方も多 くいらっしゃいました。 犯罪被害者の支援をしたいという一般の方々の前でお話をさせていただいたこともあ ります。後の意見交換の時に,「あなたは弱いからだ,高知県という出身地が悪い。世 の中にはねえ,後輩に先に出世されるなどもっと辛い事がある」と年輩の男の方に言わ れたことがありました。涙が止まらず,他の皆さんがいらっしゃいましたがその場から トイレに逃げ込んでしまいました。それ以来, 年ほど取材も講演もしなくなりました。 表に出て発言をするということは,厳しい意見も覚悟していたはずなのに,自分の弱さ を感じました。そして再び表に出て話をする決心をしました。命の大切さや死のうとし ている人に聞いてほしい,残された人々の苦しみを伝えていけたらと思います。それが 犯罪被害者らしくないと言われ,撮り直しと言われても次ははっきりと断るつもりで す。講演での意見交換の時も,今思えば殺人によって残された遺族の苦しみを出身県の せいや,後輩に先を越される方が辛いと考えるならば,どうか犯罪被害者支援には関わ
らないでくださいと言うべきでした。 再び話をするようになって何年も経ちますが,以前ほど傷つくことはありませんが, それでも犯罪被害者支援の担当の方や検察や警察など専門の方の場合はショックを受け ることもあります。こちらの勝手なイメージではありますが,専門の方だから少しは理 解してくれていると思い込んでいるためかもしれません。 私も何度かそういった立場の方からの言葉で不快な思いをしたことがあります。そう いった機関でお話をさせていただくことになった時,犯罪被害担当の方に打ち合わせの 時から,「上からやれと言われているから」,「私も忙しい」と何度も言われました。 そして当日,お話をさせていただいたあと,その方から「まあ,不幸中の幸いだと思っ て頑張ってください」と軽く言われました。悪気はないんだろうと思いましたがいい気 分はしませんでした。その数カ月後,その方から電話があり,「この前の話の内容をす ぐにファックスしてほしい」と言われ,「今ファックスも用紙もないからすぐには無理 です」と言うと,「適当に書いてあなたの職場のファックスから送ってくれればいい」 と言われ,最後には「上司から言われているから困る」と言われました。そういった 考えの方がいるのは分かりますが,せめて被害者支援の担当は止めてほしいと思いまし た。 以前,少年犯罪で息子さんを亡くされた親御さんが少年法について等を話し合う討論 会のようなテレビ番組に出演されていました。その方に対して国会議員が「加害者の人 権はどうなるんだ」と問いかけました。私は被害者遺族に対して,加害者の人権を考え るように求めた事に啞然としました。確かに加害者の人権も守らないといけないのかも しれません。しかし当の遺族である私たちにそれを求められても,この議員が被害者遺 族ならば対等な立場だと思いますが,そうではないので落ちついてテレビを見ることが できませんでした。死刑廃止論や終身刑,少年法など様々な事について時折議論になり ますが,被害者側ではない方が語っているのを見聞きすると,正直耳に入ってきませ ん。被害者の方が語っているのを見た時,その思いが自分の思いと正反対で納得できな いものであっても,真剣に聞くことができました。姉のことがなければ被害者ではない 方の意見も普通に聞くことができていたと思います。やはりお互いを理解するのは非常 に難しいのかもしれません。被害者の中でもとても敏感で,少しのことでも気分を害す る方もいらっしゃいました。私が同じ被害者遺族の立場だったので大丈夫だったのだと 思います。私がそうでなければ同じ発言や行動をしたとしても,その方の気分を悪くさ せていたと思います。性格に加え事件の内容も違うとなると,全く感情も変わってくる と思います。とても難しいと思います。 少し内容はそれてしまいましたが,全く人権を考えられないわけではありません。事
件の内容によっては更生も大切だと思います。どんな理由であろうと殺人イコール死刑 という考えでもありません。以前テレビで,日本唯一の刑務所の中にある中学校の特集 を見ました。 年の課程を 年で学ぶそうです。勉強は大変で 日 時間に及ぶそう です。 人の様々な年齢の方が勉強していました。一人の方は 代でした。刑務所の 方も犯罪を犯した人を国民の税金で勉学させるということを指摘されれば躊躇してしま うとのことでした。 代の方は放火で誰も殺めたわけではありません。私は話を聞い ていると,その方に頑張ってほしいという思いが湧いてきました。しかしこの放火に よって誰かが亡くなっていれば許せなかったと思います。ましてや姉を殺した犯人だっ たら抗議していたと思います。毎年多くの希望者の中から面接などを何回も重ねて選ば れるそうです。番組では触れていなかったのでわかりませんが,その中に理由のない殺 人犯が含まれていないことを願っています。更生は大切です。しかし本当に更生できて いるかどうか見極めはとても難しいと思います。勉強や刑務作業を一生懸命にしている イコール更生ではないと私は思います。ましてや勉学は自分のためであるのですから。 この問題は裁判員制度にもつながってくると思います。何とか裁判員の同情を得ようと するような裁判となってしまわないように願っています。 姉の事件よりも前の 年,神戸連続殺人事件が起きました。当時 歳だった少年 が二人の小学生の命を奪った事件です。事件の内容の異常さから,当時大きく報道され ていました。その元少年が 年後の 年,手記を出版しました。私は出版の カ月 ほど前,遺族の方が毎年元少年から手紙が来るという内容の番組を見ました。この手紙 の内容がこれまでとは違い人間味が出てきていると思ったという内容でした。その矢 先,突然手記を出版しその事をこの遺族の方は報道で初めて知り,回収を求めたという ニュースが流れました。元少年と出版社に対して怒りと遺族の方の悔しさや悲しみを思 うと,両方の意味で涙が止まらなくなりました。 確かに少年院を出て社会的には罪を償ったのかもしれませんが,元少年は自分勝手で 何も更生されていなければ,自己陶酔しきって体だけ無駄に成長した,ただの幼稚な殺 人鬼だったのです。これによって遺族の方はあの 年に再び引き戻され,当時の苦 しみに何倍もの苦しみを足されてまたそこから生活をしていかなければならなくなりま した。私は事件からの時間の経過とともに,現実への切り替えが早くうまくできるよう になりました。これには何年もかかりました。それが全くできなかったあの 年に 戻され,あの苦しみにまだ苦しみを足されてそこからまた生きていかなければならない と思うと,その苦しみは言葉では言い表せません。やっとここまで来れたのに,どうし て?しかありません。私はこの手記を読む気はありません。もう出版されたものは取り 戻せません。アメリカには「サムの息子法」という犯罪加害者が手記の出版で得た印税
を加害者が受け取れないようにする法律があると聞きます。元少年の印税はかなりのも のらしいです。それがどうなったかは知りません。 円たりとも元少年には渡ってほし くないです。実際には起こってほしくないことになっているのでしょう。出版 カ月前 の遺族の方の思いはなんだったのでしょうか。 姉を殺した犯人のその後のことですが,事件も今の状況も聞きたいと思いつつ,なか なか行動へ移せませんでした。 年 月 日,検察のホットラインへ電話をしまし た。どのようにしたら今の犯人の状況が分かるか聞きました。声からして年輩の方が出 られました。聞かれたとおり,名前,住所,電話番号,事件の内容を伝えました。後で 担当の方が折り返してくれるとのことでした。 時間後,別の方と思われる人から電話 があり,「犯人の名前を伝えられてもなかなか分からない」と言われ,「正式な手続きは 香川へ来てください」とのことでした。「昔過ぎてあまり資料がない」と言われました。 私の両親のことやほかに兄弟がいないか聞かれました。事件の内容をもう一度伝え, 年に高知県へ引越していたので香川まで手続きに行くことにしました。それから 時間ほどしてもう一度電話が来ました。「もう調べようがないから香川まで来なくてい いです。死んでます」と言われました。当時肝炎と聞いていたので死んでいるかもと思 いつつ,なんとも言えない感情でした。「いつごろですか」と聞くと,「 年くらい前。 だから調べられないからこの話はもうないってことで」と言われました。 お礼を言って電話を切り泣きました。自分だけは病死して,結局お金を送ってくるつ もりなどなかった。あんな手紙,やっぱり反省などしていなかったのだと改めて思い知 らされました。私は死んだときにまとめて送って来るのではないかと, %くらいは考 えていましたが,あるわけはなかったです。本当は何年何月何日何時にどう死んだか聞 きたかったです。しかし冷たい対応だったので,これ以上頼むことはできませんでした。 確かに多くの事件を抱えて大変なので, 年以上前に終わった事件に関わる時間はな いと思います。しかし専用ダイヤルだったので,少しは理解があるのではないかと勝手 に思い込んでいました。 一度自分を落ち着かせ,泣いていた事を悟られないように母に電話をし伝えました。 母も「そうやろ,そうやと思った」と声を殺していました。切った後また涙が止まりま せんでした。あの男が死んだら何か一つは終わると思っていたのに,終わるどころか何 かが増えました。香川から高知に引っ越した後も,高知の病院で睡眠薬をいただいてい ましたが,毎日は飲んでいませんでした。その日からまたしばらく毎日飲むようになり ました。本当はもっと詳しく聞きたい,でもこんな昔の事件で手間をかけては申し訳な いという思いと,あの電話での対応でまた傷つきたくないという両方の思いがあり,悩 みました。
日後の 月 日,やはり 年くらい前ではなく,少しでもいいので状況を知りた いと思いました。でもあそこには電話をしたくありませんでした。悩んだ末,香川県の 犯罪被害者支援センターを訪ねお願いしました。センターの方から伝えてもらえること になり,後日検察の方から連絡が入るようになりました。 月 日,検察の方から電 話がありました。まずこの前の対応について謝罪をしていただきました。そして犯人は 年 月 日大阪医療刑務所で肝硬変で死んだそうです。最後は徳島刑務所と大阪 医療刑務所を行ったり来たりを繰り返していたそうです。ベッドか布団かは分かりませ んが,二人を殺害した男は医療を受けながら屋根のあるところで死にました。 私は姉が死んで数年後,姉が大阪で大学時代を過ごした東大阪市を訪れた事がありま す。通っていた大学,住んでいたマンションを写真に納めました。私が高校生の時によ く泊まりに行き,いろいろな所に遊びに連れて行ってくれました。 年 月 日, 再び東大阪へ行き,同じところを りました。大学は増築されマンションはそのままで した。そのあと大阪の堺市に移動し,大阪医療刑務所を見に行きました。高い壁が続く 大阪刑務所のその先に,塀が低いコンクリートの建物が見えてきました。門の前まで行 き見ていると,刑務官がすぐに来て「何か御用ですか」と言われました。「ここで姉を 殺した犯人が死んだと聞いたので見に来ました」と答えると,その場を立ち去ってくれ ました。建物を見ていると涙が出てきました。こんな塀の低い立派なコンクリの棟の中 で,自分だけは病死したなんて許せませんでした。しばらく涙を流しながら立っていま
した。敷地内で写真撮影禁止と書かれていたので道路を渡り,離れた所から写真を撮 り,またしばらく見ていました。 高知に戻り,母に見に行ったことだけを伝えて写真を撮った事は伝えませんでした。 普通に考えると老朽化した施設かも知れません。しかし私から見れば,あんなことを しておいて,私たちの人生を狂わせた男の死んだ所はこんなに立派な施設なんだと思う ことしかできません。私との約束なんてただの紙切れで,なんとも思っていないどころ か 笑っていたのかもしれません。ただただ悔しいです。あの男にとってはもう何もか も終わってしまっていたのです。生きている間にとっくに終わっていたのかもしれませ ん。 今回のことで支援者センターへ行けた私は恵まれていたと思います。センターの方々 にはお世話になった事もあり,顔も知っていたのでできた事でした。あまり知らなけれ ば 年くらい前でと諦めるしかなかったかもしれません。そのような事がなるべく起こ らないためにも検察に限らず,やはり助けになるような第一番目の窓口となるようなと ころには,ぜいたくなお願いではありますが,もう少し慎重な対応をしていただけると ありがたいです。いろいろな考え方があるのは当たり前です。今お話しさせていただい ている内容も,私の一方的な考えなのですから。警察や検察の方は犯罪被害者の専門で はないのですが,被害者はそのような職業の方は一般の方よりは理解してくれていると 期待してしまうところがあります。そういった方々の前でお話をさせていただいた時 に,失礼ではありますがもし考えが違っていても仕事だと割り切って,傷つくような言 動を少し抑えて,言い回しを変えていただければとお願いします。 あれからもうすぐ 年です。私は幼いころからパニック障害がありました。あの事 件以来,あの恐怖の発作が出なくなりました。精神科の先生曰く,あまりのショックな 出来事があり,症状が出なくなったのだろうということでした。父は事件の数年後, 若年性認知症と診断されました。私は死ぬまで姉のことで苦しむより,姉の思い出を忘 れるならよかったと思うようになりました。しかし父の認知症はピック病というもの で,どちらかというと過去の記憶は残っているとのことでした。確かに母に,「雅子は 来んのか」と聞くことはあっても,姉のことは来ないのかと聞くことはないそうです。 私は二度と戻れないと思っていた保育所の職にも再び復帰して働くことができていまし た。 その後,姉の事件の翌年に出会った人と結婚しました。しかし,何年も結婚は断り続 けていました。突然泣き始めたり感情を抑えられない中,病院へも付き添ってくれてい ました。だからこそよけいに迷惑をかけたくないという思いと,家族を増やしたくない という思いがありました。そして知っての通り,自分は犯罪被害者遺族であるというこ
と,一生不安が消えることがないかもということを伝え,あなたが良くてもあなたの両 親にも改めて犯罪被害者遺族であることを伝えに行き,反対されたら別れましょうとい うことになりました。相手の両親は以前からその事を知っていたので,何も問題にはな りませんでした。被害者遺族がなぜ気にするのかと思われるかもしれませんが,うまく 説明できませんが,私は今でも足枷のように捉えています。周りの理解を得て入籍し, 高知へ転勤しました。途中にも言いましたが,高知でも薬をもらっています。カウンセ リングは今は受けていません。辛い時,すぐに眠れる薬があればよいという考えになり ました。一時期,効きにくくて量を増やした睡眠薬も,今は時々飲むくらいなので効き にくくなることもめったにありません。 年,祖父が亡くなりました。悲しかったですが,恨む相手がいない悲しみは全 く違いました。 毎日毎日ひどい事件が起こっています。何の非もない通りすがりで殺された方や未解 決の事件,裁判で傷ついている方など,顔見知りに殺され裁判もすぐに終わった私たち でさえこの苦しみなら,その方々の残された家族の苦しみは私の想像を超えるものだと 思います。私の事件は 年前。被害者に対する対応は大きく変わってきたと思います。 事件以外のことでこれ以上苦しむことが少しでも少なくなればと願っています。 私は「何が私たちにできますか」と何度か聞かれたことがあります。その時に,「た だ話を聞いてくれるだけでとても助かります」と答えます。それが私にとって最大のカ ウンセリングにもなっているからです。そして「機会があれば,別の方にこんな立場の 人たちがいることを広めてくれればありがたいです」と答えます。最後に姉のことで つだけ良かったと思うことがあります。それは姉と喧嘩をしたまま別れたわけではな かった事です。 殺人だけではなく震災,事故,いつ突然そうなるか誰にもわかりません。 日 日を 大切にして下さい。 これからたくさん楽しいことがあると思います。同時に苦しい事もあるかもしれませ ん。でも必ず生きていってください。 長い時間,お聞きいただきありがとうございました。 司会 ありがとうございました。今日は香川県警の方もたくさん来てくださいました。 被害者支援センターの方も来て下さっています。今日この講演会で聞いたことを是非, 自分の心だけに留めないで,周囲の方に伝えていただければと思います。最初に申し上 げたように,被害者の支援のための制度はかなりできてきましたが,制度を支えるのは,
人です。そのことをぜひ周囲の方にもお話ししていただければと思います。あとちょっ と時間がありますので,せっかくの機会なのでご質問があれば…。 (質疑応答省略) (たちの・まさこ) 【編集注】 本稿は平成 年 月 日に行われた香川大学法学会講演会の記録である。