効用(Utility)をめぐるヒュームとスミス
著者
遠藤 和朗
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
104
ページ
1-24
発行年
1987-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024437/
効用 (
Ut
通
W
)
を め く ' る ヒ ュ ー ム と ス ミ ス
遠 藤 和 朗
ア ダ ム
・
ス ミ ス(Adam Smith
,
l723
-
90)の 「
国富論』(AnInquiry
into the Nature
andCauses of the Wealth of Nations
,
17
「
'6
) は,
彼の道徳哲学のなかから震生したのであるが
,
その通哲学に大きな影響を与えたのはヒ3
.
ー ム ( D a v i dHume,
m
一
'll
6 ) で あ っ た。
すなわち,
t:二
,
.ームの『人間本性論』(ATreatise
of
Human
Nature
,
1
n
39
-
l0)
や『道徳原理の研究j
( A n
EnquiryConcerningthe
Principles
of
Monls,
l'「51)に描かれる道徳や法の理論は,
ス ミ ス の 「道德情操論1a
(The Theory of MoralSentiments
,
1l
1l
i9
) の な か に 雄 承・
展開された のであるo ス ミ ス は,
しばしばヒュームに言及し,
特 に,
ヒ3.
ームの道徳 や正義論における効用説からは多くを学びっ
つも,
批判的視点を加えるこ と に よ っ て,
経済学成立の契機となった彼独自の視点と論理を持つことが できたのである。
そこで本稿においては,
両者の道徳と正義論についての効用をめぐる見 解を取り上げ, スミス が ヒ,,
ー ムの ど の よ う な 点 を 継 承 し , ど の よ う な 点 を批判して彼独自の視点と論理を持つに至つたのかを考察しようと一
;
'・
る も のであるo さ て,
ヒ ュ ー ・,6'
の道徳論は,
観察者の同感に基づく快・
不快の感情にそ の中心原理を求めるものであり, その快・
不快の判断の基準は,
当事者自 身や社会にとって有用であるか否かにあった。
このばあい, 快=
有用性を もたらす'行為は徳とみなされる。
_
したがって, 「
徳の大部分は,
.社会の善 1_
l効用 (Utility) を め ぐ る ヒo.ーム と ス ミ ス 福
へ
の價向を持つかさもなければ,
徳を所持する人物の善福へ
の價向を持つ」
l )こ と に な る。
ヒ。
_
ー ム は,
以上のことを『人間本性論』第三篇の結論 都分において次のように述ぺている。「
いったい,殆どすぺての人は,
心 の有用な性質がその効用 (utility) の故に有徳であることを認容しようo この考え方は極めて自然であって,
極めて多くの場合に起るo 従つて,
こ の考え方の許容を送巡する者は殆どなかろう。
さて,
これがひとたび許容 されれば,
同感の力は必然的に承認されなければならない。
およそ徳は,
ある目的へ
の手段と考えられる。
然るに目的へ
の手段は,
目的が価値ある かぎりに於てのみ価値がある。
と こ ろ で,
赤の他人の幸福は,
ただ同感に ょってのみ我々の心を動かす。
それゆえ, すぺての社会にとって有用な徳 を日階するところから,
あるいはまた,
所有する人物にとって有用な徳を 日階するところから起る称費の心持は,
この原理に帰せられるぺきである。
それらが,
道德性の最も著しい部分を造るのである。」
2 ) こ の よ う な ヒ。
_
ー ムの道徳論は,
ス ミ ス に よ れ ば「
巧みに考案された機 械を是認」oする場合と同じものであって,
「
われわれが行為者の動機に移 入する場合に抱く同感とも異なり,
またわれわれがかような行為者の行為 のために利益を受ける人の感謝に共鳴する場合に抱く同感とも異なってい る」
3 )と 言 う。
そして,
スミスは次のように批判する。
第一
に,
人間行為の 道徳的是認と上手に設計された建集物や機械の称賛とは本来異ならなけ ればならない。
第二に,効用や有害の観念は,
道徳的判断の「最初の源泉 あるいは主たる源泉」 と な る も の で は な く, 「
是認の情操は常にそのうちに 効用(utility)の知覚とは全く性質を異にした道徳的適正の感覚(asense
l ) D
a
vj d Hume,A Treatise of Human Nature,ed.
,
by L.
A.
Selby-
1Bigge,Oxford
.
( 以 下 T.
と 略 記 す る ) p.
6的 大観春彦訳「人性識」(岩波文庫版)l
1
4)M買
。
(以下,
これからの引用はほぼ邦訳どぉりであるが,
若千変えた日所も ある)2
1
) T.
pp.
618-
6 l 9 邦 訳t
4]a
l5-
246買o31) Adam Smith, T h e Theory of MoralSentiments,Clarendon Press,l9'l「6
( 以 下 M
.s.
と 略 記 す る ) p.
327米林富男訳f
道德情操aa
l:
,l(下)未来社,
682買o(以下
,
これからの引用はほば邦訳どぉりであるが,
若干変えた'画所もある)-効用 (Utility)をめぐるヒ3
.
-
.
i-
,と ス ミ スof
propriety)を含んでいることがわかるであろう。
」
‘
') こ の よ う に,
ス ミ ス は,
道徳的判断の源泉において効用の観念をしりぞ けたのであった。「
効用に関する観念は,
明らかに後から付け加えられた 思想であって,
それは最初にかような特性に対して我々の是認を求めると ころのものではない」
S )のであったo
すなわち,
ス ミ ス は,
効用が道德的判 断の「
最初の源泉あるいは主たる源泉」
とはなりえないものであることを 強調したのである。
しかし, スミスは道徳論において,
効用の観念そのも のを否定したのではなく,
道徳の起源あるいは源泉としての効用を否定し たのであった。
したがって,
彼は効用の観点が道徳的適正と一
致しあるい は道徳的適正を強化する場合のあることを認めている。
「
我々が自分の現 在の欲望を抑制する時に作用する自己統制(self-
command)は,-
効用の観 点から是認されるのと同様に,
道徳的適正の観点からも是認されるのであ る。」o
)す な わ ち,
ス ミ ス に よ る と,
自己統制は将来の大なる快楽を得るた め に,
あるいは大なる苦痛を選けるために,
現在の快楽を慎んだり, 現在 の苦痛を忍んだりする行為であるが,
これは我々にとって最も有用な性質 である。
しかし, 同時に,
自己統制に基づく我々の行為は,公平な観察者 の同感を得ることができる道徳的適正に値する行為でもある。
したがって,
自己統制は,
効用の観点からも道徳的適正の観点からも是認されるという のである。
また,
ス ミ ス は 次 のt
う に 言 う。
「
ひとたび我々が効用を考慮 す る よ う に な る と,
この効用がそれらの行動にある新しい美を付与するこ とはたしかであり,
そのためになぉ一
層それ等の行動をして我々がこれを 承認するに.
i ,・さわしいものとするのである。
」
'
)もっともこのばあい,
ス ミ スはこの新しい美が省察する人々や哲学者によって知覚されることを強調 しているが。
そして,
彼は,
哲学者の限でもって人間社会を「
快適な結果 を産み出すところの一
種の広大無辺の機械」
に譬えて次のように述ぺてい4
) M.
S.
p.
188邦訳(下)403買o 5 ) M.
S.
p.
20邦訳(上)的買o 6:
) M.
S.
p.
l89邦訳(下)404買o 7 ) M.
S.
p.
la
2 邦 訳(l:)409買o -3-
3効用 (Utility) を め ぐ る l:
=
.ー ム と スミ ス る。
「
我々が人間社会をある種の抽象的な哲学的・な観点から考察する場合 には,
それはあたかも規則正しい, 調和のとれた運動が無数の快適な結果 を産み出すところの一
種の広大無辺の機械のように見えるものである。
人 間技術の所産であるほかのすべての美しい高級機械にあっては, その運動 を一
層円滑にし,
容易にする傾向をもっ
ものは,
すぺてこのような作用を もっ
た め に一
種の美しさが感ぜられ,
これに反して,
このような作用を妨 げるものは,
すぺてそのために不愉快な感情を起こさせるのであるが,
そ れと同様にして,
言わば社会の歯車に塗る磨き油である美徳は,
必然的に 人々に快感を与えるにかかわらず,一
方において悪徳は,
社会の窗車を互 いに車L
らせ摩擦させるいまわしい銷のように必然的に人々に,
不愉快な感 情を起こさせる。
それ故に,
是認並びに是認の起こる根源に関するこのよ うな説明は,
それが社会の秩序に対する配慮にこのような根源を求めよう とする限りにおいて,効用に美を求めようとする原理,すなわち,私が先 に説明を加えておいた原理と区別がっ
か な く な る」o
) と。
こ の よ う に,
ス ミ ス は,人間社会を快適な結果をもたらす機械に醫えて お り,
したがって,
この場合,
徳は社会の歯車を円滑にし,社会の秩序を 促進するという意味で美しく感じられ是認されることになる。「
美徳が社 会の秩序を促進する傾向をもち,
悪徳が社会の秩序を搜乱する價向をもっ
という事実は,
我々が冷静に哲学的に考察する場合には,
美徳に対してき わめて大なる美を与え, 悪德に対してきゎめて大なる酸を与える」o
)と。
か く し て , ス ミ ス に お い て も,
効用の観念は全く彼の道徳論から取り除 かれたのではなく, 人類全体を哲学的に考察するばあいには重要な観点に なりえるのであった。
したがって,
スミスの道徳論における効用批判は,
効用がヒュ.ームのように道徳的判断の唯一
の起源あるいは源泉であるとい うことに対する批判に他ならなかったのである。
しかしながら, ス ミ ス は,
ヒg.一
ムの効用批判を通じて, 効用の知覚とは異なる道徳的適正の感覚を 見いだすことによって, 個々人の道徳情操に基づく自律的な市民的道徳の 8︶
4 M.
S.
p.
3l6 邦訳(下)662買o -4-効用 (Utility) を め ぐ る ヒ ュ ー ム と ス ミ ス 成立を可能にする道を示すことができたのである
。
ス ミ ス は 次 の よ う に 言 う。
「
道徳の-
般原則が形成せられるのは,
このような方法で行なわれる のである。
それらの原則の形成は究極において我々の道徳能力, すなわち 功載と道徳的適正とに関する我々の自然の感覚が,
それぞ'れの特殊の事例 について是認したり,
あるいは否認したりする経験にもとづいている」o
) とo1i
・ 効用は,
スミスもすでに言及しているように美の源泉であったo これに ついて:l a. ー ム も 次 の よ う に 述 ぺ て い る。
「ある人が我々に家屋ないし建 物を案内するとする。
そのとき, 彼はいろいろなことを指摘するが,
特 に 入念に各部屋の便益やその位置の利益を階段要の小部屋や1控え部屋や通路 を指摘する。
また実のところ,
家屋の美の主要部分は明らかにこうした点 に存するのである。
さて, およそ便益は美である。
したがって,
便益を観 ることは快を与える。
が,
便益はどのようにして快を与えるか。
た し か に 我々自身の利書は少しもかかり合いがない。
然 る に上述の美は,
いわば形 式の美でなくて利害の美である。
それゆえ, 上記の美が我々を欲ばせるの は交感伝達によるのでなければならない。
換言すれば,
住宅の所有者に対 する我々の同感によるのでなければならない。
我々は想像の力によって住 宅の所有者の利書のうちへ
入り込む。
そして事物が所有者のうちに自然に 意起する満足と同じ満足を感じるのである。」
'
o)また, 「
家屋の便益 野の 肥沃,
馬の強さ,
船の積:職量や安固性や快走性,
それらはこれらさまざま な事実の主要な美を造る。
この場合,
美しいと呼称される事物は,
ある結 果を生む價向によってのみ快感を与える。
そして結果とは,
ある他の人物 91) M.
S.
p.
l59邦訳(上)345買。
なぉ, 市民的道德の成立については, 拙稿「
ア ダ ム・
ス ミ ス の 道 德 と 経 済」(l)東北学院大学解,
経済学第「6号,
. 参 照 o l 0:
) T.
pp.
363-
364 邦訳(3)l 34買o-
・ ・ ・ ・ 5-
5効用 (Utility) を め ぐ る l:
,
ー ム と ス ミ ス の快感ないし利益である」
u)と。
以上のような,
効用が美の源泉にあ る と す る ヒ3.
ームの考え方に対して,
ス ミ.ス は一
応費意を表明したのである。
すなわち,
ス ミ ス に よ る と,
明 ら かにある制度や機械がある目的をもって作られた場合,
その目的に適合し ているということはそれらが有用で便利であるということであって,
美や 快感の源泉になるというのである。
しかし, スミスは日常生活における観 察から,
ヒg.
ームの見逃している事実を指摘する。
それは,
日的に適合す る手段としての効用を重視するヒa.ームに対して,
手段そのものが本来の 日的とは独立して重視せられ,
手段の厳密な調整に人々が努力するという 事実である。
つまり,
手段である制度や組織それ自体の完全性や美しさが,
日的とは離れて重視されるという價向である。
ス ミ ス に よ れ ば,
こ の よ う な事実は「
私の知つている範囲では,
今だに何びともこれに気がっ
いてい ない」
l 9 )と 言 う。
例えば,
一
日に二分以上遅れる時計の持ち主は,
その時 計を二,
三ギニーで売りとばして五十ギ=
.一
も出して運れない新しい時計 を 買 う こ と が あ る。
本来,
時計の効用は我々に時を表示し, 約 東 を 守 ら せ る こ と にあるのだから,一
日に二分程度の運れならそんなに不便でもな い。
そ の う え,その持ち主が一
層几帳面に時間を守るとは限らない。
と こ ろが,
時計の持ち主の唯一
の関心は,
時 間 を 知 る と い う こ と で は な く,
時間を知る手段である機械の完全性にあったのである。
こ の よ う に,
ス ミ スによれば,
人々は体系自体の完全性,
うまく設計された機械自体の完全 性に価値を見出すのであって,
その体系や機械が日的に適合する手段にな っているからではないというのであるo そして,
ス ミ ス は,
こ の よ う な 手 段それ自体の完全性を, 本来の日的とは独立に重視する人間の性向が,
「
私的生活並びに公的生活の双方におけるもっとも深刻な, 最も重要な努 力の秘められた動機」
'
3 )と な り え る こ と を 指 摘 し て い る。
まず, 私的生活 ' ll) T.
p.
5176 邦 訳t
4)l86187買o 121
) M.
S.
p.
l80邦訳(下)386買o 13l
) M.
S.
p.
l8l邦訳(下)388買。
6-
6-効用 (Utilit:y)を め ,
'l1
'る l:3.
ーム と ス ミ ス における動機としては,
社会のなかでの個々人がな・1li
富や權勢を求めて努 力するのかという間いに対する解答を与えている。
言わば,
資本主義社会 における個々人の経済的動機を説明するものとして取り上げられる。
例え ば, 社会のなかの個々人には野心・
虚栄心があるから,
負:
乏人の息子が自 分の周囲を見回しはじめるや富者の境遇に感嘆する。
富者の持つ大邸宅や 家具・
調度品・馬車等に憧れて自分もこのような身分になりたいと思つて,
彼はあらゆる肉体的・
精神的機性をはらって富と権勢を追求することに努 力す'る。
この場合,
この息子にとっての関心事は, 富者が実際に幸福かど うかではない。
富者の持つ大邸宅や家具・調度品・馬車などのような幸福 をもたらす物的手段の完全性にあるのである。
こ の よ う に, ス ミ ス に よ れ ば,
我々は実際の幸福や満足が実現するかどうかというよりも幸福をもた らすあるいは高めると考えられる手段そのものの完全性を重視するという のであるo それでは,
我',1llはなぜ手段であるぺきものを重視して,
富と権勢を追求 するのかといえば,
それは自分自身の野心や虚栄心を満たすためである。
「
:
貪欲・
野心の究極の目的,
すなわち富と権力と出世とを追求する最後の 目的は,……
他人につ く づ く 跳 め ら れ る こ と,
他人に傾聴せられること,
他 人に同感と好意の称賛とをもって遇せられること, 我々が右の目的追求か らえょうとする利益はこれに尽きる。
我々の関心を抵き立てるのはむしろ 虚栄であって, 安楽とか快楽とかではない。
し か る に,
虚栄は自分自身が 他人の注日と称資の的になっているとの信念にもとづくのが常である。
」
l◆) つまり, 社会のなかでの各人にとって, 気になるのは他人の限である。
社 会的存在としての人間には野心, 虚栄心があるから自分の境遇がどのよう に他人に映るかということが重大関心事であったのであるo したがって,
人々は他人の注目と称費=社会的な「
自己の地位の向上」 を得るために富 と推勢の獲得に努力するようになるというのである。
社会のなかの人間に l 4 ) M.
S.
p.
50邦訳(上)130-
m
買o-
7-
7効用 (Utility) を め ぐ る ヒ ュ ー ム と ス ミ ス と っ て
,
ま さ に「富は力(power)」lo)なのである。
か く し て,
幸福を高める手段としての富・
権勢それ自体が「
雄大なもの, 美しいもの,高貴なものとして想像され」
'
o),
それ自身が追求されること に な る。
言うなれば,手段それ自体が目的化するのである。
ス ミ ス は こ れ を「
自然の欺蘭(deception)」と呼んでいる。
そして,この欺購こそが,
人々の労働・
動 勉 の 源 で あ る と い う。「
このような欺購こそ人類の動勉を 発動させ,
それを不断に働かせるところのものである。
このような欺購こ そまず最初に人類を促して土地を耕作させ, 家を建てさせ,
都市や国家を 建設させ,
人間生活を高尚にし, 美化するあらゆる学間や芸術を発明させ,
改良させるところのものである。」
lo) こ う し て, 「
自然の数購」
によって人々は富の獲得に向かうが,
結果的 に社会の一
般的繁栄をもたらすことになる。
これが周知の「見えざる手」 (aninvisible
hand)の思想にほかならない。
こ こ に,
ス ミ ス は,
人間の動機の世界とは異なる客観的な世界を発見し
,
経済学成立の契機を見い出 すことができたのであるl'
)。
以 上 の よ う に,
ス ミ ス は, 「
人間本性」 ( h u m a n nature)の観察と経験 のなかに,
人々の本能である野心や虚栄心を見て,
人々が目的に適合する 手段よりも目的とは離れて手段自体を目的化するのを認識したのであった。
次に,
このような手段そのものの完全性を本来の日的とは独立して重視 する人間の性向が,
公的生活においては 「公共の安寧を促進する諾制度の 制定を勧告する上に役立つ」
l 8 )こ と を ス ミ ス は 指 摘 す る o ス ミ ス に よ る と,
行政において,
為政者は社会の一
般的利益の観点から道路を修理したり, 奨動金制度を制定するのではなく,
行政組織の完成あるいは美しさに注意 を向け,「
政治という機械」を 整 然 と 調 和 さ せ る こ と に 関 心 を 向 け る と い l5
) Adam Smith,
Anl nquiry intothe Nature and Causesof the Wealthof Nations,Clarendon press
.
19l「 6 V o l , I,
p.
48.
ll61) M
.
S.
p.
l83邦訳(下)393買。
l7) 内田義彦「経済学の生震」(增:前)未来社
,
l97l年,
ll'「一
l26買。
.参照。
l 9 ) M
.
S.
p.
185邦訳(下)395買o-効用 (Utility)をめぐる t:a
一
ム と ス ミ ス うのである。
「ある種の組識体を愛する精神から,
ある種の技巧並びに考 察を愛する精神から, 我々はしばしば日的よりも手段のほうを高く評価す る よ う に 思 わ れ,
我々の同胞が何を苦しみ,
何を楽しむかということに関 するなんらかの直接的な感覚または感情にもとづくというよりも, むしろ ある種の美しい整然たる組織体を完成し, 改良しようという見地から我々 は彼等の幸福を增進させることに熱中するように思われる」
lo)と。
こ の よ う に,
ス ミ ス に よ れ ば , 為政者は直接に人々の幸福を考えるもの ではなく, 政治制度の完成とか秩序を整えるということに注意が向けられ る と い う の で あ る。
しかも, こ の ほ う が,
直接社会全体の利益を日指すょ
り有効に日的を促進することになるという。
換言すれば,
日的より手段を重視する人間の性向が,
政治的動機として は,政治制度を整え,行政を完成して,
結果的に人々の幸福を促進するこ と に な る と い う の で あ る。
しかし, 他方において,
スミスは現存の政治制度を破壊しようとする為政者
,
すなわち「
体系の人」(aman of system)
の持つ危険性を指摘する
。
「
体系の人」.は理想的な統治計画の美しさに心 をうばわれて国民の反対を押しきってまで統治や法律の改革を遂行しよう とする人である。
「
体系の人は非常な賢人ぶりを発輝したがるもので,
しばしば自分の理 想的な統治計画を夢に描いてそれに陶然とするのあま り , その計画のいか なる都分といえどもすこしでもそれから通脱することに我慢ができないこ とがある。
かれはその計画をそのあらゆる部分にわたって完全に遂行する 工作をすすめ, そのような計画に矛盾するかもしれない大きな利益または 強い偏見に対して何らの考慮をも払おうとはしない。
かれはあたかも将棋 盤のうえのそれぞれの駒の配置を手できめるように,
いとも簡単に大社会 のそれぞれ異なる成員の配置をきめることができるように想像しているら しく思われる。
9o)」
M.
S.
p.
185 邦訳(下)395-
396買。
M.
S.
pp.
233-
234邦訳(下)494買o -g-
9効用 ( U
a
lity) をめぐる、
ー.
a.
ー ム と ス ミ ス か く し て,
ス ミ ス は 為 政 者 に 対 し て , 人 間 愛 と 仁 愛 に も と づ く 公 共 心(public
spirit)の発輝を期待した。
「
全く人間愛と仁愛とにもとづいて公 共心を発輝させる人間は,
既存の個人的権力ならびに個人的特権をさえも 尊重するくらいであるから, 国家が分割せられてできている大階級ならび に大社会の権力や特椎ならばなぉ一
層これを尊重するであろう。
かれはそ れらのうちのあるものが,
ある程度まで濫用されていると考えても, 非常 に大きな暴力をもってしないでは,
かれとしてはしばしば根絶することの できないような事柄は,
これをある程度まで抑制することで満足するであ ろ う。
かれが民衆の胸底深く根差している偏見を,
理性と説得とによって 征服しえない場合には,
それを実力に訴えてまで屈服させようとは試みな いであろうo そ し て か れ は キ ケ ロ が 正 し く も プ ラ ト ンの聖影と呼んでいる 準則,
すなわち,
祖国に対して梁力を用いざること親に対するが如くせよ,
という準則を宗教的に連守するであろう。
かれはかれの社会政策をできる だけ固定した人民の習債と偏見とに調和させるであろう。
そして人民が服 従することを好まない諾規制がなくなるために生ずるであろう不便に対し てできるだけの手当をしようとするであろう。
かれが正義を確立すること をできない場合でもいさぎょ く邪惡を改めないことはないであろう。
しか しながら,
ソ ロ ンの よ う に,
かれが最善の法律体系を樹立できない場合に は,
人民の堪えうる法律体系のうちでの最善の体系を樹立しようと試みる で あ ろ う_
F
l )と。
こ う し て,
ス ミ ス は,
為政者に対しては,人々の習價や道徳情操を尊重 し変革ではなく改良の精神を強調したのである。
その場合にかぎって,
目 的より手段を重視する人間の性向は,
政治的動機として有効であった。
「政策ならびに法律の完成に関する一
般的な, しかも整然たる体系をさ えもっ
ある種の観念は_
政治家の見解に方向を与える上に必要欠くぺから ざるものであることは疑間の余地がないであろう。
しかしながら, そのよ うな観念が要求すると思われるあらゆる事柄を一
時に,
しかもあらゆる反 2 l ) M.
S.
:p.
233邦訳(下)493買o l 0-
l 0-効用 ( U t i l i t y ) を め ぐ る ヒ3. ーム と ス ミ ス 対をも押し切つて遂行しようと主張するのは
,
しばしばこの上もない傲慢 な越権の沙汰といわなければならない」
n)と。
以 上 か ら 明 ら か な よ う に,
ス ミ ス は ヒ ュ ー ムのいうょうに効用が美の源 泉であることを認めつつも, 手段が目的に適合するから美しいという以上 に, 手段それ自体の完全性 ・美しさを本来の日的とは離れて重視する人間 の性向を発見したのであった。
しかも, このような性向が経済的繁栄の動 機 と な り , また為政者の行為の動機となるものであった。
換言す、れば,
ス ミ ス は , ヒ ュ ー ムの「
有用はある一
定の目的に向かう一
傾向に過ぎない.。
そして日的自体が少しも我々の心を動かさない場合に, 目的のための手段 としてあるものが喜ばれるということは名辞上の矛盾である」
2a
)と す る 考 え方を批判することによって, 欺關理論を発見し, 経済学成立の契機を認 識しえたのである。
また,
同時に為政者のもっ
動機を認識するとともにそ の危険性をも指摘することができたのである。
Iii
次に,
ヒa.
ー ムの正義論については,
内国義彦氏が指摘したよ う に,
「全体の効用」に そ の 根 拠 を 求 め る ゆ え に,
それは,
「
国 家 に よ っ て 強 制 されるぺき法の範囲を不当に拡充し1て,
重商主義的政策体系の基礎づけと な っ た」
2'
)とする見方が一般的である。
羽鳥卓也氏も内田氏の説を數衍し て 次 の よ う に述 べ て い る。
「
ヒュームにあっては社会全体の利益が個々人 の利益に優先するものとされる。
そうしてまた,個々人の所有権に対する 侵害が国家によって処罰された時, その処罰を人々が是認するのは人々が 22) M.
S. p.
234邦訳(下)494頁。
23
1
) hud Hume,AnInquiryConcerning the Principlesof Morals,theLiberalArtsPress
,
1957,p.
47.
'松村文二郎
・
弘瀬 潔訳確徳原理の研究』春秋社,
1949 'le
-
?
T「買一
。
% ) 内国義彦 開 書
n
4;
買。
. .効用 ( U t i l i t y ) を め ぐ る ヒ ュ ー ム と ス ミ ス 公 共 の 利 益 を 願 慮 す る か ら だ と ヒ ュ ー ム は み る の で あ る
」
2S )と。
他方, ス ミスの正義論は個々人の憤慨感情に基礎をぉくものであって,
処師の正当 性の根拠は, 公益ではなく, あくまで個々人の道徳情操に基づくものであ る こ と が 強 調 さ れ て き た。「
侵害(injury)は当然, 傍観者の憤りをよび起 し , そ れ 故 に,犯罪者の処師は,公平な傍観者がそれに共感し得るかぎり 正当である。
これは処罰の自然の尺度である。
こ こ に注目すべきは, 我々 が刑1
ll
1
ll
を是認する第一
の根拠は,通 常 考 え ら れ て い る よ う な 公 共 的 効 用 (public utility)の尊重ではない, と い う こ と で あ る。
真の原理は,被害 者の憤りに対する我々の同感(sympathy)である。」
2 6 )以 上 の よ う な 両 者 の正義の根拠の違いは, 重 商 主 義 対 ス ミ ス と い う 対 立 的 構 図 の な か で 把 握 さ れ て き た。
本節以下では, 両者の正義論の構造に焦点をあてて両者の公 共的効用をめぐる見解を考察しよう。
ヒ ュ ー ム正義論の基本構造は2 7 ), ま ず , 正 義 の 法 が コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン (convention)によって, すなわち, 自分自身の利益の為に自分の利己心 を抑制し, 社会形成による利益2 8 )を 享 受 し よ う と い う一
般的感覚によって 25) 羽鳥卓也『市民革命思想の展開』 (增補版)御茶の水:f
l房, 1 9 7 6 , l 4 買。
26) Adam Smith,Lectureson Jurisprudence,Report dated1766.Clarendon Press,1978
.
( 以 下 L.
J.
と 略 記 す る ) p.
475.
高島善裁・水 田 洋 訳 『 グ ラ ス ゴ ウ 大 学 講 義 』 日 本 評 論 社 , 1 9 4 7 降 必 7 買。
(但し,以下訳文に お い て utilityは効用に統一
し た ) 27) 田中敏弘「ヒ ュ ー ム正義論に関する覚え雷」一
橋大経済研究所経済研究28 巻第1号参照。
船) ヒ ュ ー ム は , 社会形成による利益について次のように述べている。
「一一
各個人が別々に, ただ自分自身のために労働するときは, 人間の力は小 さ す ぎ て , 何 ら か の 著 し い 仕 事 を 遂 行 す る に 足 り な い。
ひとりの人の労働がそ のさまざまな必要のすべてを補うために用いられ, 従つて個々の技術が完全の 域に達することは決してない。
各人の力と首尾とはいつも等しくはない。
従つ て, いずれかの点の些少の不足も, 破減と不幸とを不可避的に伴わざるを得な い。
然るに社会は, これら三つの不使を救済する策をあてがう。
各人の力を速 接して, よって以てわれわれの力を增大する。
分 業 ( t h e partition of emp -1oyment) によってわれわれの能力は增す。
相互援護によってわれわれが連命 や 偶 然 に 曝 さ れ る こ と は 少 く な る。
こ の よ う に 力 と 能 力 と 安 圍 さ と が 加 わ る た め, 社 会 は 有 利 と な る の で あ る。」T.
p.
485邦訳(4)56-
57買。 12-
12-効用 (Utility) をめぐる t:
=
ー ム と ス ミ ス 位 さ れ る と い う も の で あ っ た。
すなわち,
ヒg. ー ム に よ る と , 人間本性 は利己的であるから個々人は相互に対立することになる。
しかも個々人の 欲望に比して物財は稀少であるがゆえに,
所有権をめぐる対立が激t
.
1くな る。
そこで,
個々人は相互の利益の為に自分の利己心を抑制し, 3ン ヴ,
,
ンシaンによる正義の法を確立し社会を形成するというのであるn)。
何故 なら正義がなければ社会は成立しないし,
個々人の生存も脅かされるから である。
「
…
正義がなければ,
社会は直ちに解消す'るに相違なく, 各人は あの未開で孤独な状態へ,
すなわち,
お よ1そ社会のなかで想定されうるか ぎりの最悪な状況より無限に悪い,
未開で孤独な状態へ
落ち込むに相違な いからである。」
3o)したがって,
ヒa.
ーム に よ る と,
社会を形成することに よってのみ個々人の利益が保障されるというのである。
さ ら に,
彼による と,
社会の形成は各人の結合によって力を增大させ,
分業によって我','
tの 能力を進展させ, 相互扶助によって運命や偶然に支配されることを少なくし,
安全性を保障するというのである。
こ う し て , ヒ3.
ームにおいては,
社会を形成することによって自分自身の利益は倍加されることが強調され るo か く し て,
'
ン ヴgン シ a ン に よ る 社 会 の 形 成 は,
自分自身にとっても 他人にとっても有利となる。
人々は,
このような社会の利益を経験と個習 に よ っ て 感 じ と っ て い る か ら,
コ ン ヴ=
.ン シaンによって社会秩序の大黒 柱である正義の法を成立させるのであった。
これによって自分自身の利己 心も充足せられ,社会形成の利益も達成される。
ヒ3.
ー ム にあっては, 社 会の利益を尊重することが個人の利益でもあった。
つまり,
個人の利益の 為に公共の利益は不可欠なのである。
か く し て , 「正義の法を破立させる 29
) ヒa.
ームの'
'
ン ヴ ニ ン シ o ン 論 については, 拙稿「
:、
g.
ーム「
人間本性ae
l:l
における道德と法」,
東北学院大学識集,
経済学第l00号(創立l00周年配念)。
「:l a ームf
入間本性藤l:
,lにおける市民社会の形成と政府」東北学院大学1論集 経済学第10l号,
参照。
・ 30:) T.
p.
497邦認4:
1
l「4買o -13-
13効用 (Utility) を め ぐ る ヒa.ー ム と ス ミ ス
ものは
,
我々自身の利益及び公共的利益(publicinterest)
~、
の配慮」a)なのであった
。
この場合の私的利益と公共的利益との関係は,
以上から明 ら か な よ う に,
私的利益を重視するが故に公共的利益が必要であり,
そし て,
公共的利益によって私的利益も倍加されるということである。
したが って,
ヒ。
.
ームにおいては,
必ずしも公共的利益のみが国l先されていたの ではなかった。
むしろ双方の利益は一
体化されていたと見ることができる。
こ の こ と が「
自分自身の利益及び公共的利益へ
の配慮」
という表現の意味 に他ならない。
と こ ろ で,
ヒg.
ームは以上のように,
正義の法の成立を'
ン ヴ,
,
ン シ a ンによって説明したあと,
徳としての正義について,
すなわち,
正義の規 則の速守・
無視に道徳的是認と否認とを結びつける間題を取り上げている。
ヒ3.
ームによれば, 人々は各人の利已心と制限された寛仁,
そして物財の 稀少性とが社会形成にとって阻害要因であることを経験上知つている。
し かし, 他方, 利己心を満足させる為にあるいは物財の增大を図る為には社 会が必要であることも知つている。
したがって, 人々は正義の法を速守す ることによって相互の安全と利益を確保しようとする。
換言すれば,
人々 は自らの利益の為に正義の諸規則を守るというのである。
社会の最初の形 成時においては,
この動機は十分に作用し強力であった。
ところが, 社会 が拡大・
発展するにつれて「
利益へ
の願慮(regardto
interest)」という 動機は弱まってくる。
「
…
社会が多人数になって,
ひとっ
の 種 族 も し く は 民族にまで增大してしまうと, この利益は比較的隔つたものである。
換言 すれば,
人々は正義の規則に違反するごとに素乱と混乱とが随伴すること を,
比較的に狭隆狭小な社会ほど即座には看取しない」
39oのである。
つま り, 「
利益へ
の願慮」では正義の諾規則を守ることはできない。
「
我々は自 分自身の行動に関するとき秩序を保持する利を頻繁に見失つて,
いっそう 小 さ く いっそう日前の利にしたがうであろう」
32)と。
こ の よ う に,
ヒ3.
-31) T.
p.
496邦訳「
4l l2買o 32l
) T.
p.
499邦訳t
4n
6買o l 4-
14-効用 (Utility) をめぐる:
、
o.ー ム と スミス ム に よ る と,
我々は社会の拡大・
発展にともなって, 社会全体の:跌序の重 要性を見失うことがあるという。
しかし,
彼によると, 我々は利己的情結 によって盲日におちいることはない。
な'
lまな ら,
人間は直接的な利書関係 から隔たっていても不正義は我々を不快にする。
不正義は人間社会に有書 であり, 我々は同感によってこの不快を感ずるからだというのである。
「
我々は,
不正義を犯す人物に近づくものの不快を同感によって享有する。
と こ ろ で,
お よ そ一
般的に目暗して人間の諾行動において不快を与えるも のはすぺて思徳と呼ばれ,
お な じ く一
般的に日階して満足を生むものはす ぺて徳と呼称される。
それ故,
このことが正義と不正義とに道徳的善思の 感の随伴する理由である」
39 )と。
こ の よ う に,
我々は同感によって正義が 与える快感を徳として是認し, 不正義の与える不快を悪徳として判断する というのである。
そして,
正義に対して我々が道徳的是認を与えるのは,
それがもっ
公共善(public good)~
、
の傾向に対してである。「正義が称費 される理由は確かに,
公共善へ
の領向を有するという理由のほかにはない。
そして公共善は,
同感がそれoの関心を我々に起こさせない限り,
我々に とって無関係なことなのである。」u
) かくして, t:3.
ー ム は 次 の よ う に 言 う。「
…
自利(self
-
interest)は正
義を樹立する根源的動機であるo が,
公共的利益へ
の 同 感 ( asympathy
with public interest)は,正義の徳に伴う道徳的是認の源泉なのであ
る o」u)公共的利益とは
,
い う ま で も な く 社 会 形 成 に よ っ て 得 ら れ る 各 人 の利益のことであるo こ う し て,
ヒ ュ ー ムにおいては,
コ ン ヴ ニ ン シ● ン によって確立された正義の法を前提に,
人々は同感の原理によって徳論と しての正義をはじめて成立させる契機を持つことになるのであった。
つま り,
正義の法のもっ
社会的効用を人々が同感能力によって感得するのであ るo そして,
正義t
t
社会的効用=
公共替を日的としているから道徳的に是 認されるのであった。
彼は『道徳原理の研究1a
において, 以 上 の こ と を 次 33︶
30
T.
p618邦訳(4)245買o T.
pp.
499-
500邦訳t
4f「「良o -l 5-
l 5効用 (Utility) を め ぐ る ヒ ュ ー ム と ス ミ ス の よ う に 結 論 づ け て い る。「正義が社会にとって有用であり, その結果と してその価値の
一
部 分 ( p a r t ) は, 少 な く と も こ の 有 用 についての考慮か ら生ずぺきものであるということを証明するのは無用の業であろう。
これ に対し公共的効用(public utility)が正義の唯一
の起源であり,
この徳 (正義) の有益な結果についての反省がその価値の唯一
の基礎であるとい う命題は,
より知識欲をそそる重要なものであるので,
我々の吟味及び研 究に一
用lよく値するであろう。
」
3'
'
) こ の よ う な ヒ3_
ームの考え方は,
ヒ ュームが私的利益よりも公共的利益 を重視しているという主張になりやすい。
しかし, 上述のうちに明らかなょ
う に,
正義の法の確立した後は,
社会の拡大・
発展にともなう法の拡が りのなかで,
法秩序連守の利益が私的利益とは直接には結びっ
か な く な る。
しかし, 我々の同感能力が正義のもっ
社会的効用を知覚し, 私的利益と公 共的利益が一
体化されていることを感得するというのである。
そこに法を 守る態度としての正義の徳が生じるのである。
換言すれば,
個々人の利害 調整としての・
,
ンヴニンシaンに基づく正義の法の成立過程とは異なって,
すでに社会的に確立している法を速守するには,
利己心が自分の利益を直 接自覚しえないほど社会が複雜な拡がりを示している。
そ こ で,
ヒ3.
ー ム は人間本性に存する同感が私的利益と公共的利益とが密接に結びついてい ることを知覚し,
我々に法秩序を連守するように導びくというのであるo したがって,
ヒ3.ームの場合,
決して公共的利益のみを優先する意味で述 ぺられているのではなく, 私的利益と公共的利益とが一
致あるいは一
体化 されている前提での公共的利益へ
の同感なのであった。
それ故,
ヒ ュ ー ム 正義論の根拠が社会全体の利益のみにあ っ た と は 必 ず し も 言 え な い よ う に 思われる。
しかし, ヒ3.
ー ムの正義論は,
道徳としての正義と法としての 正義を明確に区別することなく, 法を前提としてその社会的効用を認識す るところに徳としての正義が成立するという論理であるから, 実定法の重35) D
.
Hume,The Principles of Morals,the LiberalArts Pre9s,
l95'「.
pp
.
14-
l 5 邦 訳 2 3 買 o-効用 (Utility) を め ぐ る:
、
o.ーム と ス ミ ス みが正義の徳に優先することになる。
したがって,
このような論理の上に 立つ:l ュ ー ムの正義論は,
現実の法体系の連守にのみ力点がおかれている ことを表明するものである。
すなわち,
t:3.一
ムは実定法を速守するとこ ろに市民的道徳が成立すると考えていたのである。
それ故, :l a ー ム に お いては,
ス ミ ス の よ う な 正 義 と は 何 か,
正義の正当性の根組は何かという 間題は存在しなかった。
正義の法と正義の徳との関連も間われなかったの である。
現実の法体系を速守することだけがヒュームの関心事であった。
したがって,
t:g. ー ム正義論の論理構造では,
現実の重商主義の法体系を 批判することはできないのであった。
この点がスミスの批判を受けること に な る。
それでは,
スミスの正義論の構造はどのようなものであるか。
ス ミ ス 正 義論の基本構造は,
道徳としての正義と法としての正義を明確に分離する と こ ろ に あ る3o)。
すなわち,
正義は道徳の領域と法の領域との接点に位置 しており,
したがって,
徳目としての正義と法としての正義の双方の内容 を持つことになる。
ス ミ ス がf
道德情操論』において主題とした正義は,
個々人の道德情操の集積の結果として形成される「
自然的正義」
(natural justice) であって,
実定法の基礎をな-
;
1'道徳の世界における正義に他なら なかった。
「
いかなる国であろうとも, 成文法にもとづく判決が,
あ ら ゆ る事例において, 自然の正義感が命令するはずの諾原則と厳密に一
致する 国はない」
3'
)と。
こ の よ う に,
ス ミ ス は「
自然的正義」
と実定法とを明確に区別するので あった。
換言すれば,
スミスの『道徳情操論』は,正義を同感論的に基礎 361) 内国義彦 前掲:西l06-
'
l7買参照。
37) M.
S.
p.
:u
l邦訳(下)'707買。
.-
l 7-
17効用 (Utility) を め ぐ る ヒ
=
ー ム と ス ミ ス づけることによってその速守を市民個々人の内面倫理化することが主題38) であって,
法としての正義とは明確に区別し,
むしろ,
そこには踏み込ま なかったのである。
もとょり,
正義の法の間題はスミスが最後まで完成を 願つていた法学全体の間題であるが, それは社会経済の発展段階に応じて 歴史的に考察されるものであった3o)。
ス ミ ス が,
『道徳情操劃第二部第 二篇「正義と仁恵について」
と題するなかで,
日的因(finalcause)と作 用 因 (ef
ficient
cause)とを区別せよと言う主張は,
t:ュ ー ム正義論に対 する批判であった。
すなわち,
すでに述べた よ う に ヒ,
ー ムの正義論は,
はじめに正義の法がコンヴgン シ a ン に よ っ て 確 立 し た 後 , 「公共的利益へ
の同感」によって徳としての正義が成立されるものとされていた。
しかし,
ス ミ ス の 場 合 は,
道徳としての正義は法としての正義の領域とは独立 して, 公共的利益=
目的因を意識しない個々人の同感現象の集積として導 かれるものであった。
換言すれば法を前提とすることなく個々人の道徳情 操の世界=
作用因から生まれるのが道徳としての正義である。
そして, ス ミスの場合には,
ヒ3.ームとは逆であって実定法の正当性の根拠を人間本 性 に 即 し て 追 求 し よ う と し た の で あ り , その論理が債慨感情(resent -ment) を支える同感の原理なのである。
「公平無視なる観察者の限から見るならば,
計画された,
あるいは現実 に遂行せられた不正に対する道徳的に適正なる債慨だけが,
我々の隣人の 幸福を何らかの点において我々が傷つけたり, あ る い は 乱 し た り す る こ と を正当化することのできる唯一
の動機である。
それ以外の動機にもとづい てそのような行為をなすことは,
すぺてそれ自体正義の法則を冒演するも のであって, そのような正義の法則の力をかりて我々はそのような行為を 38:
) 国中正司「ア ダ ム・
スミスの正義論」横浜市立大学論渡, 第26巻 第 l,
2 合 特号, 参 照。
39:) cf
.
L.
J.
Report of l「62'-
3,Report datedl'「66.
国中正司「ア ダ ム・
ス ミス『法学部
t
義』研究序説一
ハチスン確德哲学体系」との対比的考察一
」横浜 市立大学紀要,社会科学l属,新 シ リーズ第1号,
参照。
-効用 ( U t i l i t y ) を め ぐ る l:o
.
ーム と ス ミ ス 慎ませたり, あるいは田したりしなければならない。
あらゆる聡明なる国 家もしくは共同体は,
社会の力を利用して,
それらの集団の積成に服する 人々がお互いの幸福を傷つけたり,
乱したりしないようにかれらを拘束す る た め に,
出来るだけ努力を払つている。
それらの集団がこうした目的の ために制定する諸原則がすなわちそれらの各特定国家または各共同体の民 法 と な り,
刑法となるのである」
‘
o)と。
か く し て,
スミスの目的因と作用因とを区別せよという主張は,
:l g.
-ム正義論における法を前提としての「公共的利益へ
の同感」 と い う,
言わ ば人々が法のもっ
公共的効用を知覚するから法を守るという論理に対する 批判だったのである。
ス ミ ス に よ る と , 我々人間は日的因=
公共的利益な どを意識しなくても良い。
作用因のなかでの理解で十分だというのである。
「しかしながら,
一
般 にあらゆる放経な習債が社会の安寧を破壤する價向 のあることを見分けるのにそれほどたいした鑑識限を必要としないにもか かわらず,
最初に我々を促してかような悪習慣に反対させるものがかよう な社会的な考慮であることは減多にない。
すぺての人間は,
もっとも頭の 思い,
もっとも考察力の鈍い人間ですらも,
詐欺や不誠実や不正をひどく 嫌い, 許欺や不信や不正を働く人間が処罰されるのをみて婚しがる。
しか るに社会の存立のために正義の必要なことがいかに明白に我々の限に映じ よ う と も,
か よ う な 必 要 を こ と さ ら 反 省 し て み る よ う な 人 間 は ほ と ん ど い ないはずである」
‘
l )と。
そして,
ス ミ ス の 場 合 に は,正義を基礎づけるの はあくまで直接に個人の生命・
財産に対して加えられた侵書を防止するこ と にあ る こ と を 強 調 す る。
「ある一
人の人間が解つけられたり殺されたり した場合,
我々は社会の一
般的な利書関係を考慮するためにその人に加え られた思事の処画を要求するのでなくて,
むしろ危害をうけた当の個人だ けの間題としてかような処罰を要求する。」
4 3 ) 40l
) M.
S.
p.
2l8邦訳(下)465買oa
) M.
S.
p.
8 9 邦 訳(上)209-
2!0買o 42l
) M.
S.
p.
90邦訳(上)210買o -1g-
l 9効用 (Utility) を め ぐ る ヒ sー ム と ス ミ ス こ の よ う に ス ミ ス に お い て は
,
法のもっ
社会的効用を知覚することによ って法を守るのではなく,
それとは独立して個々人の道徳情操から道徳と しての正義が形成されることが強調されるのであった。
それが「
自然的正 義」
で あ り,
実定法の基礎になるものだというのである。
こ こ に ス ミ ス は,
道徳的適正感に基づく個々人の道徳情操の集積から正義の徳を見いだし,
市民社会の自律性を認識する論理を把握しえたのである4 3 )。
ま た,
同時に 現存する実定法批判のよりどころを確立することができたのである。
そ し て,
スミスにおいては市民社会の自律性は,
経済社会の自律性の認識とし て経済学の対象領域になったのである。
すなわち,
正義の徳が人々に確立 されれば「
社会は,あたかも異なる商人達の間におけるように, 異 な る 人 々の間において, 何ら相互的愛情とか愛着とかがなくとも, お互いのもっ
効用 (utility) の感覚から存立することができる。
そしてその社会に住む ものが誰一
人としてお互いに何らの義務も感ぜず, あるいはお互いに何ら 感謝の気持ちで結ばれていないとしても, なぉ社会は,
合意的価値評価に もとづくめいめいの尽力の欲得ずくの交換によってもこれを維持すること ができるのである。
」
‘
'4 )このような交換社会が,「
国富論,n
に お け る「
商業 社会 (commercialsociety)
」
4S)に他ならなかったのである。
ところで, スミスの正義論においても, 社会的効用の観点は全く退けら れているのではない。
すなわち, 彼 に よ る と , 正 義 は「
社 会 の 全 開 を 支 える大黒柱」
●o)で あ り,
正義がなければ社会の維持は不可能であることが 強調されている。
言わば,
正義の法が社会全体の安全と幸福にとって重要 であることが示されている。
したがって,
正義が社会的効用の観点から考 察される場合のあることを彼自身も認めている。
「
社会は正義の法則が辛抱強 く 守られなければ存立するわけにはゆかな 431
) 描稿「「道徳情操論』 に お け る ァ ダ ム・
スミスの市民社会観」東北学院大学 論集,
経済学第'「4号参照。
44) M.
S.
p.
86邦訳(上)203-
m
真o的 ) A
.
Smith, T h e Wealth of Nations,a
arendon press,l 976.
V:
ol,
I,
p.
37.
461
) M.
S.
p.
86邦訳(上)204買o-効用 ( U t i l i t y ) を め ぐ る l:
=
ーム と ス ミ ス い故に,
またいかなる種類の社会的交渉といえども, 一一
般にお互いに危書 を加えないように使しみ合うことのできない人々の間にあっては起こりえ ないが故に,
かような必要性を考慮することが正義を犯した人を処爾する ことによって正義の法則を強調することを我々が是認する根觀であるよう に考えられてきた。
一
…
秩序ある繁栄せる社会状態は人間にとって気持ち のいいものであり,
彼はそのような社会状態を考えることに喜びを感ずる。
これに反して,
社会の無秩序と混乱はかれの反感の対象であり, かれはか ような社会状態をもたらす價向のあるものはいかなものといえどもこれに 対して債通を感ずる。
かれはまた自分自身の利害関係が社会の集栄と結び ついており,
幸福のみならずぉそらくかれの生存の維持自体も社会の繁栄 に も と 、づいていることを鋭敏に感じている。
それ故に,
あらゆる理由から して,
彼は社会を破壞に導きぅるいかなるものに対しても強い1確悪の情を 抱き, かくも情むぺき, ま た,
かくも恐るぺき事態を阻止しうるあらゆる 手段を採用することに費成する」
‘'
')と。
そしてこの場合,
「
社会の1跌序を維 持するために刑面がいかに必要であるか, と い う こ と を 反 省 す る こ と に よ って, 我々がしばしば刑罰の道徳的適正と妥当性に関する我々の自然の感 覚を要つける機会を持つ点から考えるならば,
右の説明は疑いもなく真実 である」 o と
。
こ の よ う に,
スミスは社会の必要性に対する願慮から正義の法の侵1f
lに 対する処国の正当性を主張することもありえることを表明しているのであ る。
つまり,正義の法は社会的効用の観点からも説明しえるのであるo こ の場合,
社会的効用の観点は,
同感原理を補完する役割を担つているo また,
ス ミ ス に よ る と , 「 あ る 場 合 に は,我々は単に社会の一
般的な利 書関係の観点からそれ以外の方法ではその安全が保降できないと考えて罰 し た り , あるいは刑罰を是認したりすることもまた事実である」
‘
'o)と い う。
47) M.
S.
pp.
8「1一
88邦訳(上)206-
207買o 4a
) M.
S.
p.
88邦訳(上)208買。
491) M.
S.
p.
90邦訳(上)2ll買o -2 l-
2 l効用 (Uti「ity) を め く'るt:a
.
ー ム と ス ミ ス そして,
スミスは市民替察制度や軍隊規律などに対する違反は,
社会の一
般的な利書関係のすなわち社会的効用の観点から考察されることを指摘す る。
見張りをしている歩晴が眠つてしまったような過失を伴う場合の処面 である。
もちろん,過失に対する処罰は苛酪すぎる場合が多く,しかもこ の場合の処画は,
個々人の生命や財産・
権利を侵書された場合に正当化さ れる我々の債概感情に基づく処罰とは異なっているが。
以 上 の よ う に,
スミスの正義論においても社会的効用は全く無視されて いるわけではなく, 間接的に社会的効用の観点も入り込んできていること が明らかである。
そして,
特に続治の間題においては,
服従と義務の原理 と し て,
彼は原契約説を退けて権威の原理と共に効用の原理をあげている。
「人々をみちびいて市民社会civilsociety に加わらしめる原理は二つあるが,我々はこれを権成及び効用の原理principles
of
authorityand
utility
と ょぶであろう」
l'o)と。
権威の原理はすぐれた人あるいは従うに値 する人間として他人が受け入れる人間の性向に関連している。
年長である こ と , 心身の能力のすぐれていること, 家柄の古さそして富の優越が椎成 の原理の源泉であるが, スミスはこの中でも富の優越に最大の根拠をみて いる。
富の大小によって階級の起源や区別が明らかになり社会跌序が保た れる。
「
富者や組力者の抱くあらゆる情感と同じ情感に常にひたりたいと いうこの人類の性情を基礎として,
身分の差別や社会の秩序が確立せられ るのである」
S l )と。
ス ミ ス に よ る と,
かかる権威の原理の基礎は同感の原理 に よ っ て 支 え ら れ て い る と し て 次 の よ う に 述 べ て い る。「
この原理は道徳 情操論において充分明らかにされている。
そ こ で は,
我々よりすぐれた者 に対する同感sympathy
が同等のまたは劣つた者に対する同感よりも大 き い こ と か ら,
それが生ずるものであるということが示されている。
すな わち我々は彼等の幸福な境遇を称資し,
喜びをもってそれに同感しそれを 5ll1
) L.
J.
p.
40:
l 邦訳98買。
5 l ) M.
S.
p.
52邦訳(上)l3,
l買o 22-
22-効用 (Utility) を め ぐ る ヒ
=
ー ム と ス ミ ス・ 促進させるように努めるものである。」
Sa)こ の よ う に,
権威の原理は人間の 自然的性向に基づく統治原理であり,
正当化されるものであった。
次に,
我々にとって間題となっている効用の原理は,
政府の機能に関する公共的 効用についての国民の意識に関連するものである。
ス ミ ス は「
誰でも, 社 会における正義と平和を維持するためには,
この原理が必要であることを 知つている。
国家制度(civilinstitution)によって,もっとも負1しい者も,
もっとも富める者及びもっとも有力な者による侵害を免れることがで きる。
そして特殊の場合においてはいくらか不都合はあるかもしれないが……
しかし我々はより大きな弊害を避けるためにこの国家制度に服従する のである」
o3 )と 説 明 し て い る。
この場合,
重要なことは人々が国家制度に 服従するのは個人的な効用感であるよりもむしろ公共的な効用感(senseof public
u t i l i t y ) で あ る と い う こ と で あ る。
つ ま り , 全 体 の 利 益 ( t h egood of the
whole)を重視するから我々は政府の決定に従うのであるというのである
。
私人の効用の立場からいえば,
政府に従わないでそれの転 1a
を 願 う ほ う が「
私の利益」 であるかもしれない。
しかし他人がこの私の 企図には同感してくれないことを, 私は十分知つているのである。
か く し て, この場合の効用の原理も同感の原理によって支えられていることが明 らかである。
以 上 の よ う に,
梅威と効用の原理を市民社会の統治原理として説明した ス ミ ス は,
次に, 「
すぺての統治には, あ る 程 度 こ の 二 つ の 原 理 が と も に おこなわれる.jS4)とし, プ リ テ ン に お い て は「適当に制限された種々の政 治形態の幸福な混和があり, 自由と財産に対する完全な保障がある」o
S )と してプリテンの政体に満足感を表明している。
すなわち,
ス ミ ス は 椎 成 と 効用の双方の原理が十分に作用し相互に調和・
補 完 す る と こ ろ に「
自由の 521
) L.
J.
p.
40l 邦訳99買o 5:31
) L.
J.
p.
402邦訳l00買。
54) L.
J.
p.
,402邦訳l0項o 55) L.
J.
pp.
42l-
422邦訳l5l-
152買o -23-
23効用 (Utility) を め ぐ る ヒ二.ー ム と ス ミ ス 合理的体系