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(1)

H・L・A・ハートの未発表論文「裁量」(一九五六年 )について

著者 濱 真一郎

雑誌名 同志社法學

巻 69

号 7

ページ 2423‑2487

発行年 2018‑02‑28

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000304

(2)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号三九五二四二三

」(  

           

    ﹂( 

  ﹁

(3)

(    )同志社法学 六九巻七号三九六H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四二四

はじめに

  本稿の目的は、H・L・A・ハートの未発表論文である﹁裁量

)1

﹂(一九五六年)の内容を紹介し、それが彼の法哲学の発展においていかなる役割を果たしたのかを検討することである。

  ハート(

H . L . A . H ar t

)は二十世紀を代表する法実証主義者の一人であり、英国オックスフォード大学の法理学教授を務めた人物である。彼は主著﹃法の概念 2

﹄(初版一九六一年、第二版一九九四年、第三版二〇一二年)で、日常言語学派の手法などを駆使し、近代国家法の特徴・構造を解明しようとした。彼の司法的裁量論によると、ルールがあっても曖昧であるようなハード・ケース(難事件)では、裁判官は司法的裁量(

ju dic ia l d isc re tio n

)を用いて事件を処理しており、司法的立法を行うとものとされる

)3

  さて、ハートの未発表論文である﹁裁量﹂は長らく紛失していたが、ハーヴァード・ロースクールの図書館で発見され、二〇一三年に﹃ハーヴァード・ロー・レヴュー﹄誌上で発表された。ハートの﹁裁量﹂を発見したのはジェフリー・C・ショー(

G eo ffr ey C . S ha w

)である。彼は二〇一三年現在、オックスフォード大学にて博士論文を執筆しつつ、イェール大学で

J. D .

(法務博士)の取得を目指しており、今後、法哲学者ないし法曹としての活躍が期待される。

  ﹃

N ic ola

ァニする、ショーおよびコかラ・レイシー(ヴーんにー﹄ド・ロー・レヴュー誌﹂には、ハートの﹁裁ハ量

L ac ey

)の論考も収録されている 4

。レイシーはロンドン大学LSEの法哲学の教授であり、ハートの伝記 5

を著している。以下ではショーの論考に依拠しながら、ハートが﹁裁量﹂論文を執筆した理論的・時代的な背景について確認しておこう。

  ハートは一九五六年から一九五七年にかけて、ハーヴァード・ロースクールに客員教授として招聘された。同ロース

(4)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号三九七二四二五 クールではちょうどその時期に、ヘンリー・ハート(

H en ry H ar t

)、ポール・フロインド(

P au l F re un d

)、およびロン・L・フラー(

L on L . F ull er

)らによって法哲学討論会(

T he L eg al P hil os op hy D isc us sio n G ro up

)が組織された。H・L・A・ハートもその討論会の創設に立ち会うこととなる。討論会の初年度の統一テーマは﹁行政および司法の裁量﹂であった 6

  このテーマが掲げられた理由を理解するためには、十九世紀から二十世紀にかけてのアメリカ法思想史の流れを理解する必要がある。すなわち、形式主義(機械法学と呼ばれることもある)、リアリズム法学、リーガル・プロセス学派の流れである 7

。この流れを把握するために、以下ではショーの論考を参照する。

  十九世紀の法形式主義者(

le ga l f or m ali st s

)によると、熟練した法律家たちは、法源(

le ga l s ou rc es

)︱︱裁判に当たって裁判官が適用すべき制定法や判例法といった規準 8

︱︱からの推論によって確固たる答えに至ることができる。それに対して、二十世紀初頭のリアリストたち(

th e r ea lis ts

)によると、裁判官や(法を運用する)公務員(

of fic ia ls

)︱︱公機関、公吏という訳語もある︱︱は実際には、強大な選択の権能(

tr em en do us p ow er o f c ho ic e

)を行使している。リアリストたちは、そうした権能が社会発展のために行使されることを希望していたが、そうした権能を導いたり制約したりする理論を発展させなかった。ここにおいて、リアリズム法学に対しては、﹁恣意的な選択による支配は法による支配(

ru le b y r ule

)ではないのではないか﹂という疑問が向けられることとなる 9

  さて、ニューディール政策 ₁₀

の時期以降は、﹁法の不確定性(

le ga l in de te rm in ac y

)と法の支配 ₁₁

ru le o f r ule

)は両立するか﹂、﹁裁量と法の支配は両立するか﹂という問題が重要となってくる。すなわち、ニューディール政策以降に法が複雑化するにつれて、不確定性も増大してくる。ポスト・ニューディール期の法学教授たち、すなわちプロセス論者たち(

pr oc es s t he or ist s

)は、法は時として不確定的であるというリアリズムの主張については受け入れるが、リアリズ

(5)

(    )同志社法学 六九巻七号三九八H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四二六

ムを超えて、不確定性と法の支配を両立させることのできる理論を探求する。プロセス学派によると、もしも責任感のある裁判官が、他の(司法府以外の)機関に対する自らの制度上の役割を理解し、自分の推論を書面で説明し、専門家としての技術・合理性・叡智を用いているならば︱︱さらに、以上のことによって市民からの信頼を得ているならば︱︱、裁量と法の支配は両立するのである ₁₂

  さて、ショーによると、H・L・A・ハートとプロセス学派は、形式主義とリアリズム法学の中間を進むという点で共通している ₁₃

。その両者が目的を共有したのはなぜか。それは、一方でプロセス学派は、ポスト・リアリズム法学およびポスト・ニューディール政策という時代状況において、国家の様々な機関への役割配分のあり方に関心があり、ハートの言語哲学が自分たちの研究にいかなる貢献ができるかを知りたかったからである ₁₄

。他方で、ハートの側も、制度分析に関心を有するアメリカの法学者たちに、自分の哲学的な研究手法が有用であることを示したいと考えていたからである ₁₅

。結局、ハートは﹁裁量﹂論文で以下を示した。すなわち、法が不確定的な場合に行使される裁量が、単なる気まぐれや好みに依拠するのではなく、合理的規準に根拠づけられた適切な裁量であるならば、法の支配と矛盾しないのである ₁₆

  以上で、ショーに依拠して、H・L・A・ハートが﹁裁量﹂論文を執筆した理論的・時代的な背景について確認した。ハート自身は、英国の分析的法実証主義の法理論を擁護しているけれども、ヘンリー・ハートらのプロセス学派と問題関心を共有した上で、法哲学討論会において報告をし、﹁裁量﹂という論文を書き上げたのである。

  ここで、本稿の構成を確認しておこう。第一章では、H・L・A・ハートが主著﹃法の概念﹄(初版一九六一年)を執筆して以降になされた司法的裁量をめぐる論争について確認する。第二章では、ハートの﹁裁量﹂論文の内容を紹介する。第三章および第四章では、﹁裁量﹂についてのレイシーとショーの読解を確認する。最後の﹁おわりに﹂では、

(6)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号三九九二四二七 筆者の関心から、ハートの﹁裁量﹂論文において重要と思われる四点に言及することにしたい。

一  司法的裁量をめぐる論争

1   ハ ー ト の 法 実 証 主 義 の 法 理 論

  本章では、ハートの﹁裁量﹂(一九五六年)について検討する準備作業として、ハートの﹃法の概念﹄(初版一九六一年、第三版二〇一二年)で提示された司法的裁量論と、ロナルド・ドゥオーキンによる司法的裁量論への批判を確認する作業を行う ₁₇

。なお、以下では筆者の旧稿 ₁₈

を再構成していることを断っておく。

  ハートは﹃法の概念﹄で、日常言語学派の手法などを駆使し、近代国家法の特徴・構造を解明しようとした。彼は、銃をもった銀行強盗が銀行員に﹁金を出せ﹂と命令する状況の分析から出発する。この例は、法は制裁を伴った主権者の﹁命令(

co m m an d

)﹂であるという、オースティン的な法

デる者命令説をモ権ルとしてい ⊖ 主 ₁₉

。しかしそのモデルでは、近代国家法の特徴は適切に説明できない。国家法は単なる命令ではないからである。そこで、﹁命令﹂に代えて﹁ルール(

ru le

)﹂の概念が導入される。ルールは、義務賦課ルールと権能賦与ルールに区分される。義務賦課ルールである一次的ルールしかない法以前の社会では、ルールは静態的・非効率的・不明確である。そうした欠陥を是正するために、変更のルール(

ru le o f c ha ng e

)、裁定のルール(

ru le o f a dju dic at io n

)、承認のルール(

ru le o f r ec og nit io n

)が導入される ₂₀

  変更のルールは、社会的変化に応じて、従来のルールを改廃したり新しいルールを創造したりする権能を誰かに付与し、その手続を定めるルールである。裁定のルールは、ルール違反の有無やルールの解釈をめぐる争いを解決する権能

(7)

(    )同志社法学 六九巻七号四〇〇H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四二八

を誰かに付与し、その手続を定めるルールである。承認のルールは、その国ないし社会において遵守されるべきルール、しかも妥当なルールが何であるかを定めるルールである。これら三種類のルールは、法以前の社会における一次的ルールにかんする 0000

about

)メタ・ルールであるため、二次的ルールと呼ばれる ₂₁

  承認のルールは、その国において遵守されるべき妥当な法的諸ルールが何であるかを特定する重要なルールである。承認のルール自体は、裁判官などの公務員たちのあいだにおける実践(

pr ac tic e

)としてのみ存在するのであり、その実践の存在は事実の問題(

a m at te r o f f ac t

)である ₂₂

。承認のルールに妥当性を付与するものは何もないから、それは﹁究極的ルール﹂であるとされる ₂₃

。一次的ルールしかなかった法以前の社会は、二次的ルールが加わることで、法的社会に移行する ₂₄

。近代国家法の中心には、このような一次的ルールと二次的ルールの結合が存する ₂₅

2   ハ ー ト の 司 法 的 裁 量 論

  次に、ハートの司法的裁量論の概要を確認しよう ₂₆

。ハートによると、法的ルールには、意味の明確な﹁確実な核心(

co re of c er ta in ty

)﹂の部分と、そうではない﹁疑わしい半影(

pe nu m br a of d ou bt

)﹂の部分がある ₂₇

。当該事件に関係するルールが不明確な事件においては、裁判官は裁量(

dis cr et io n

)を用いて事件を処理しており、法創造の権能(

la w -c re at in g po w er

)を委ねられているものとされる ₂₈

。以下、ハートの議論をみていこう。

  ハートは、法的ルールに不確実さの反影の部分があることを示すために、以下の事例をあげている。すなわち、﹁公園内に乗り物(

ve hic le

)を乗り入れてはいけない﹂という一般的ルールの場合、自動車、バス、オートバイなどは明瞭な事例である。それに対して、自転車、飛行機、ローラー・スケーターなどのような、その一般的ルールを適用できるかが明らかでない事例も存在している。これらの事例が示すように、ハートによれば、すべての一般的なルールには、

(8)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四〇一二四二九 確実な核心︱︱ルールの適用が明瞭な部分︱︱と、疑わしい半影︱︱ルールの適用が明らかでない部分︱︱が存在しているのである ₂₉

  以上の事例から明らかなように、立法は、その適用が疑問となるような場合には、不確定的である。というのも、人間たる立法者は、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を知りつくすことができないからである。こうした予知の不可能性から、目的についての相対的な不確定性(

in de te rm in ac y

)がもたらされることになる ₃₀

。なお、権威ある事例によって一般的ルールを伝達する場合にも、不確定性が存在する。というのも、判例(

pr ec ed en t

)を法的妥当性の基準として認めるとしても、法体系が異なる場合や、同じ法体系でも時期が異なるときには、判例の意味するところはさまざまだからである ₃₁

  ハートは、以上を踏まえて、法には﹁開かれた構造(

op en te xt ur e

)﹂が存在すると主張する。すなわち、﹁行動の基準を伝達する手段として、先例または立法のいずれが選ばれるにせよ、それらは、大多数の通常の事例については円滑に作用したとしても、その適用が疑問となるような点では不確定的であることがわかる ₃₂

﹂。ハートによれば、先例の場合も立法(制定法)の場合も、開かれた構造の領域が存在し、その領域においては、創造的な司法活動(

cr ea tiv e ju dic ia l a ct iv ity

)がなされることになる ₃₃

  結局、ハートによれば、法の開かれた構造は、﹁裁判所や公機関による展開にゆだねられざるをえないような行為の領域の多くがあることを意味して ₃₄

﹂いる。すなわち、﹁あらゆる法体系においては、裁判所および他の公機関が裁量を用いて当初は漠然としていた基準を確定したものとしたり、制定法の不確実さを解決したり、権威ある先例がただおおまかに伝達したルールを発展させ、資格づけたりするように、広範で重要な分野が、開かれたまま残されている ₃₅

﹂のである。

(9)

(    )同志社法学 六九巻七号四〇二H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四三〇

3   ド ゥ オ ー キ ン の 司 法 的 裁 量 論 批 判

  本章の第二節では、ハートの司法的裁量論の概要について確認する作業を行った。さて、ハートの司法的裁量論にはR・ドゥオーキンからの批判がある ₃₆

。ドゥオーキンによると、ハード・ケースの司法的裁定では、法実証主義者の言う﹁ルール﹂とは違った性質や機能をもつ﹁原理(

pr in cip le

)﹂が用いられている。原理は、ルールとルールの衝突を解決したり、制定法の新たな解釈を正当化したり、新たなルールの採用および適用を正当化したりする働きをなす ₃₇

。原理は、裁判官がそれを考慮に入れねばならないという意味で、裁判官を拘束している。したがってハード・ケースにおいても、司法的裁量は用いられていない ₃₈

  さて、ドゥオーキンは﹃法の帝国﹄(一九八六年)では、﹁統合性としての法(

la w a s i nt eg rit y

)﹂という法理論を提示している。この法理論について理解するためには、彼の解釈アプローチを参照するのが有用である。ドゥオーキンにとって、解釈は、さまざまな領域の価値についてのわれわれの判断がいかにして正しくありうるかということの説明と、関連している。芸術作品の意味を理解することは、その作品の芸術的な特徴を、その作品の価値の観点から説明しようとする解釈的な営みである。ドゥオーキンにとって、解釈的アプローチは、われわれが法哲学や政治哲学の問題について考える方法にとって根源的な含意を有している ₃₉

  ドゥオーキンは、自分自身が採用する解釈の営みを、構成的解釈(

co ns tr uc tiv e i nt er pr et at io n

)として説明している。﹁大雑把に言えば構成的解釈とは、ある対象や実践に目的を課し、かくして、これらが属すると想定される実践形態や芸術ジャンルの最善の一例としてこれらを提示することである ₄₀

﹂。彼は、例えば法の構成的解釈について、以下のように述べている。﹁法の一般理論は構成的解釈をこととするものである。つまり、それは法実務の総体を最善の光のもとで示すことを試み、現実に存在する法実務と、当該実務の最善の正当化との間で均衡を達成しようと試みる ₄₁

﹂。

(10)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四〇三二四三一

4   ハ ー ト の 「 補 遺 」 で の 議 論

  本章の第二節および第三節では、司法的裁量をめぐる、ハートとドゥオーキンのあいだの論争について確認を行った。ハートの司法的裁量論によると、法的ルールには意味の明確な﹁確実な核心﹂の部分と、そうではない﹁疑わしい反影﹂の部分がある。当該事件に関係するルールの意味が不明確な事件においては、裁判官は裁量を用いて事件を処理しており、創造的な立法活動を行うものとされる ₄₂

。ドゥオーキンはこの理解を批判し、そうしたハード・ケースにおいても、裁判官は原理を用いることによって、司法的裁量を用いることなしに、単一の正しい答えを提示できるとする ₄₃

  なお、ハートは﹃法の概念﹄の第二版以降の﹁補遺 ₄₄

﹂において、ドゥオーキンの司法的裁量論批判に対して、反論を試みている ₄₅

。ハートによると、ドゥオーキンは、裁判官が法創造的な裁量を行使しているという見解を否定する。よって、ドゥオーキンと自分(ハート)のあいだには、司法的裁定の説明にかんして、大きな違いが存在していた ₄₆

。しかしながら、ドゥオーキンは﹃法の帝国﹄において、すべての法命題は彼のいう意味で﹁解釈的(

in te rp re tiv e

)﹂であると主張したがゆえに、裁判所が法創造的な裁量を事実上もっており、それをしばしば行使していることを承認している。ここにおいて、司法的裁定にかんするドゥオーキンの実質的な立場は、裁判官は法創造的な裁量をしばしば行使しているという自分(ハート)の立場に、近くなったのである ₄₇

二  ハートの「裁量」(一九五六年)

  本章では、ハートの未発表論文﹁裁量 ₄₈

﹂(一九五六年)の内容を確認する。これは長らく紛失していたが、ハーヴァード・ロースクール図書館で発見され、﹃ハーヴァード・ロー・レヴュー﹄誌上で二〇一三年に発表された。この論文

(11)

(    )同志社法学 六九巻七号四〇四H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四三二

は九つの節に分かれているので、以下では節ごとに概要を示す。

1   「

裁 量 」 の 第 一 節

  ハートによると、裁量について論じるためには、まずは裁量にかんする問題を確認する必要がある。問題が明らかになれば、その答えを知るのはそれほど難しくないとされる。彼は以下の五つの問題をあげている ₄₉

   1  裁量とは何か。裁量の行使とは何か。    2  何を条件として、そしてなぜ、実際に法体系での裁量を受容ないし許容するのか。    3  裁量を受容ないし許容せねばならないだろうか。もしもそうせねばならないとすると、それはなぜか。    4  裁量の行使は、どのような価値に脅威を与え、どのような価値を保護・促進するのか。    5  裁量の行使の有益な機能を最大化するために、そして裁量の行使がもたらす危害を最小化するために、何をすべきであろうか ₅₀

2   「

裁 量 」 の 第 二 節

  以上の五つの問題のうちで、第一は定義にかんする問題であり、他はより実質的な問題である。裁量という言葉はとても曖昧で、裁判所や法律家はゆきあたりばったりにその言葉を使っている。しかし、裁量の標準的な事例において共通にみられる特徴がある。そうした特徴がなければ、われわれは裁量という現象について合意を得られないだろうとされる ₅₁

  裁量は現に存在している。例えば、アメリカのICC(州際通商委員会 ₅₂

)による州を超えての料金固定や、裁判所に

(12)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四〇五二四三三 よる特定履行(

sp ec ific p er fo rm an ce

₅₃

)の付与ないし拒絶や、行政府による刑の執行停止ないし恩赦、等々である。こうした明白な裁量の事例について、その特徴を明らかにするならば、その他の境界線上の裁量の事例があることも分かってくる ₅₄

  ハートによると、裁量の中心的事例に焦点を合わせる積極的な理由もある。第一に、この討論会(ハーヴァード・ロースクールの法哲学討論会)のメンバーが関心を有するような問題は、中心的事例で起こっているからである。第二に、誰もが当然と思っている中心的事例について考慮することこそ、哲学的考察に値するからである(これは、道を知っているが地図を書けないとか、象を知っているが象の特徴を述べることができないという事例と類似している)。結局、ハートによれば、裁量の中心的事例の特徴を明白にすることが重要なのである ₅₅

  さて、﹁Xとは何か﹂という問いは、﹁どのような目的のためにXを実際に使うのか﹂という問いと関連している。例えば﹁ナイフ﹂という道具と、ナイフの目的は、関連している。しかし、ある言葉が何らかの目的を有しているかを、事前に確定できない場合もある ₅₆

  それから、言葉についてわれわれが意見を異にしない場合がある。例えば、国家という言葉について、われわれは意見を異にしない。しかし、国家がどうあるべき(

sh ou ld

)かという問題になると、われわれは意見を異にする ₅₇

3   「

裁 量 」 の 第 三 節

  ハートは以上(定義にかんする問題)を確認した上で、﹁裁量﹂の具体例をあげている。彼は、裁量という現象がとても多様な場面で生じることを示している。一つの事例だけに集中しすぎることはミスリーディングだとされる ₅₈

(13)

(    )同志社法学 六九巻七号四〇六H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四三四

A  明示ないし公認された裁量の行使(

ex pr es s o r a vo w ed u se o f d isc re tio n

)   1  行政府による明示ないし公認された裁量の行使    ⒜  料金固定。例えば、ICC(州際通商委員会)による料金固定。    ⒝  特別な取引をなすことの許可。    ⒞  潜在的に危害をもたらしかねない活動の制御。例えば、自然動物保護委員による命令。    ⒟  公職への任命。    ⒠  政府が自由に処分できる資源の配分(

all oc at io ns

)。例えば、土地委員会による公有地の配分。    ⒡  政府が行っている公共事業ないし公営企業の管理。例えば、公共施設の建設の契約。   2  裁判所による明示ないし公認された裁量の行使    ⒜  裁判所による規準の適用。     ⑴  裁判官による、例えば、悪意訴追(

m ali cio us p ro se cu tio n

)における﹁相当ないし適切な訴訟原因﹂という規準の適用。

    ⑵  裁判官の助言に基づく、陪審員による(例えば)過失事件における﹁相当な注意﹂という規準の適用。    ⒝  裁量的な救済。例えば、差止命令や特定履行。    ⒞  刑事事件における量刑。B  暗黙ないし潜在的な裁量(

ta cit o r c on ce ale d d isc re tio n

  1  制定法の解釈。   2  先例の使用。

(14)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四〇七二四三五 C  裁量的な干渉ないし認知されているルールの適用免除   1  刑の執行停止ないし恩赦。   2  コモン・ロー上の救済の行使の︹エクイティ上の︺禁止命令。   なお、ハートは以上の諸事例を分類する際に、以下の二点を考慮している。 A  ハートによると、一方で、便益や報奨金を分配(

dis tr ib ut io n

)するために裁量が行使される場合がある(例えば、国家が自由に処分できる土地などの配分(

all oc at io n

))。他方で、一見すると正しいと思われるようなことへの裁量的な干渉がなされる場合がある(例えば、汚染や野生動物に危害を加えるような土壌ないし水の利用に干渉する命令) ₅₉

。B  ハートによると、一方で、行使することが事前に認められている裁量がある(公認された裁量)。この裁量の行使は、制定法によって、典型的な言い回し︱︱﹁相当な(

re as on ab le

)﹂、﹁便宜的な(

co nv en ie nt

)﹂、﹁正しい(

ju st

)﹂、﹁適切な(

pr op er

)﹂など︱︱で行政府や立法府に認められている。他方で、基本的にはルールによって事件を解決することが目指されるが、ルールを個別の事件にうまく適用できないためになされる裁量がある。この裁量の行使が認められるのは、⑴制定法の解釈に議論の余地がある場合や、⑵ある先例が何を意味しているのか、ある事案が先例として認められるか、といったことについて議論の余地がある場合である。こうした議論の余地をなくすために裁量が必要となるのである ₆₀

(15)

(    )同志社法学 六九巻七号四〇八H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四三六

4   「

裁 量 」 の 第 四 節

  では、裁量とは何か。この言葉について定義し、それを解明するために、ハートは法のことは横に置き、日常生活での単純な例について検討する ₆₁

  ハートによると、まずは﹁裁量﹂と﹁選択(

ch oic e

)﹂を区別する必要がある。この両者は関連しているが、別の観念である。裁量は知的な徳(

in te lle ct ua l v irt ue

)のことである。すなわち裁量は、実践知(

pr ac tic al w isd om

)、聡明さ(

sa ga cit y

)、賢慮(

pr ud en ce

)とほぼ同義である︱︱筆者が複数の英和辞典を確認したところ、

dis cr et io n

には﹁裁量﹂だけでなく﹁思慮深さ﹂といった訳語がある︱︱。裁量は、何をなすべきかを見極めることと関連しており、言語学的には﹁洞察力のある(

dis ce rn in g

)﹂という観念と関連している ₆₂

  さて、以上から分かることは、裁量とみなしてはならない選択がある、ということである。すなわち、裁量は、個人的な気まぐれ(

w him

)や欲求に基づく選択とは異なる。例えばある人物が、マティーニとシェリー酒のうちで、前者を選ぶとする。﹁なぜマティーニを選んだのか﹂と問われて、﹁なぜなら私はマティーニが好きだからだ﹂と答えるなら、それは単なる好みであって、裁量ではない ₆₃

  このことを法の文脈で考えてみよう。ハートによると、法における裁量は、責任ある公務員によってなされる。もしも公務員が、なすべきことをルールによって厳格に決定されているけれども、選択の余地が残されているならば、その公務員は責任をもって選択するのであって、単なる気まぐれで選択してはならないのである。よって、ハートが裁量という場合、それは、選択を導いてくれる賢明さ(

w isd om

)ないし熟慮(

de lib er at io n

)としての裁量のことを意味している ₆₄

  なお、選択のなかには、裁量ではないし、(以上で検討したような)単なる気まぐれや好みでもないようなものがある。

(16)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四〇九二四三七 それは、原理によって裏づけられている選択である。例えば、鉛筆を削りたいときに、ある店に、ナイフ、スプーン、フォークがあるとして、ナイフを選んだとする。﹁なぜナイフを選んだのか﹂と問われたならば、﹁それが好きだからだ﹂と答えるのではなく、﹁鉛筆を削るにはナイフが適しているから﹂だと答えるだろう。ここで、ナイフの選択を裁量と呼ぶことはない。この事例の場合は裁量の余地はないのである。他にも、裁量ではないけれども単なる気まぐれや好みでもないような、選択の例をあげることができる。アメリカでアメリカ国歌が演奏されたときに、ある人物が起立したとする。﹁なぜ起立したのか﹂と問われて、﹁起立したかったから﹂と答えるのではなく、﹁それがルールだから﹂と答えたとしよう。その人物は正しい選択をしているが、それを裁量と呼ぶのはミスリーディングだとされる ₆₅

5   「

裁 量 」 の 第 五 節

  以上での検討からすると、裁量は、﹁個人的ないし短期的な気まぐれによってなされる選択﹂と﹁目的およびルールに基づいてなされる選択﹂の中間に存在する。ハートはこのことを確認した上で、裁量の具体例として以下をあげている ₆₆

  若い女主人が夕食会を開こうとしている。彼女は最高のナイフを使おうと考えている。それは古い銀製で、とても美しく、雪のようなテーブルクロスやグラスと一揃いになっている。しかし、そのナイフは重くて、少し扱いにくいし、派手な印象を与えている。この夕食会の場合、その女主人の主たる目的は何か。それは﹁素晴らしい宴﹂や﹁(招待客からの)称賛﹂であろう。さらに、﹁招待客の心地よさ﹂も彼女の目的だろう︱︱この目的からすると、招待客の一人である著名な裁判官が、高齢のため手が震えていることが気にかかる。女主人は思案して、起こりうる失敗にも気を配ることになる。彼女は万事を考えた末に、このような状況について経験豊富な、信頼できる婦人に相談した。その婦人

(17)

(    )同志社法学 六九巻七号四一〇H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四三八

は、﹁全体として、最も賢明なのは次善策をとることです﹂と述べた。なぜなら、ナイフのせいで、高齢のX氏が不機嫌になるかもしれないからである。あるいは、若い招待客が高価なナイフに嫉妬するかもしれないからである ₆₇

  ハートによると、この簡潔な事例から、さまざまな分野の裁量に共通する特徴が明らかになる ₆₈

A  何が正しいか、間違っているかが明白でない。B  明確な目的がはっきりしない。﹁首尾良い夕食会﹂という表現が意味する目的が、明白でない。C  ある選択をしたことによって、どのような状況が生じるかを(ある程度は予想できるが)明確には知ることができない。(鉛筆を削るナイフの例と比較せよ。)D  ﹁首尾良い夕食会﹂という目的の構成要素としては、テーブルの美しさ、招待客の心地よさ、等々がある。どの要素を優先させるべきか、それらの要素が衝突するときにどうやって折り合いをつけるかについて、ルールや原理が定まっていない。E  このような事例においては、決定が﹁正しい(

rig ht

)﹂とか﹁間違っている(

w ro ng

)﹂とは言えない。決定は﹁賢明(

w ise

)﹂であったり﹁適切(

so un d

)﹂であったりする。より正確に言えば、決定は﹁より賢明(

w ise r

)﹂であり、﹁より適切(

so un de r

)﹂であり、﹁より望ましい(

be tte r

)﹂のである。F  女主人の決定に疑問が呈されたら、彼女の決定を擁護する二つの方法がある。

  1  彼女は、自分がどのようにして決定に至ったかを示すことができる。例えば、自分は、素晴らしい夕食会を成立させる諸要素について注意深く考慮した、自分の過去の経験に照らして考えた、経験を積んでいる人に助言してもらった、等々を示すことができる。要するに、彼女は、自分の決定を擁護するために、その決定

(18)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四一一二四三九 を選択するに至った筋道(

th e m an ne r

)を明示し、その筋道が含意する原理や価値を具体的な場面に適用しようと誠実に努め、複数の原理や価値が衝突したらそれらを折り合わせることができるのである。こうした選択をする際には、何が﹁正しい(

rig ht

)選択﹂であるかは分からないが、﹁適切(

so un d

)な選択﹂に至るための適正条件がどのようなものかを示すことができるのである。

  2  彼女は、夕食会が実際に成功したことから、自分の選択は正しかったと言うことができる。   3  この二つ(1および2)は区別できる。1は﹁正当化(

ju st ific at io n

)﹂である。2は﹁結果による正当性の主張(

vin dic at io n b y r es ult s

)﹂である。

6   「

裁 量 」 の 第 六 節

  ハートは以上で、裁量の具体例をあげた上で、すべての裁量に共通する特徴を提示している。さて、彼によると、夕食会を特徴づける諸要素(前節のA~F)は、法における裁量に関連する法文書にも見出される。例えば、ICC(州際通商委員会)の価格固定の決定について判断する法律家や裁判所は、しばしば以下のような表現をする。﹁数学の問題には一つの正解があるが、こうした問題︹州を超えて価格固定すべきかという問題︺を解決する可能性はない﹂。あるいは、﹁曖昧で推測の域を出ない諸要素があるため、価格固定にかんしては裁量の行使を認めざるをえない﹂。他にも、裁量にかんしては以下のような決まり文句がある。すなわち、﹁こうした問題は、専門家や有識者委員会に任せる必要がある﹂、﹁場合によっては、希望できる最善のことは、道理をわきまえた人間(

re as on ab le m an

)が証拠に基づいて決定することである﹂、﹁状況によっては、適切な判断が何であるかを確定することができない﹂、﹁結論を確定できないとしても、判断は下さなければならない﹂ ₆₉

(19)

(    )同志社法学 六九巻七号四一二H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四四〇

  以上を踏まえて、ハートは裁量の特徴を以下のように示している。すなわち、考慮すべきすべての要素を確定させたけれども、事前に定めた原理では決定できないような選択が残されてしまったので、裁量を行使する権限を与えられている(

au th or iz ed

)人物がその選択をせざるをえなくなってしまった。このように、すべてを考慮したけれども選択が残ってしまうことが、裁量の特徴なのである ₇₀

7   「

裁 量 」 の 第 七 節

  以上は、第一の、裁量とは何かという問題にかんする内容であった。ハートは﹁裁量﹂の第七節では、第二および第三の問題について検討する。すなわち、なぜ裁量を行使するのか。われわれは裁量を受容せねばならないのか ₇₁

  なぜ裁量を行使するのか。ハートによると、その答えは簡潔に言って、﹁われわれが神ではなく人間だから﹂である。では、われわれは裁量を受容せねばならないのか。ハートは明確な答えを示していないが、以下のように述べている。すなわち、われわれは、二つの困難の下で選択をせざるをえない状況に直面している、と ₇₂

  では、二つの困難とは何か。それは、﹁事実にかんする相対的な無知(

R ela tiv e Ig no ra nc e of F ac t

)﹂と﹁目的にかんする相対的な不確定性(

R ela tiv e In de te rm in ac y of A im s

)﹂である。これら二つの困難は、単独ないし組み合わさって生じる。その二つの困難に、あらかじめ一般的なルールや原理を作っておいて対応しようとしても、それらは人間の能力を制限してしまう ₇₃

  そこで、一方において、われわれ(人間)の能力が制限されることが分かっている領域では、事前に特定の公機関や権威に裁量的管轄権を付与しておく。この領域で行使されるのは﹁公認された裁量﹂である。他方において、能力が制限されるかが明白でない領域では、あらかじめルールを定めておくのであるが、実際に事件が発生したときにルールが

(20)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四一三二四四一 行き詰まり(

br ea k d ow n

)、その事件に応じた答えを提供することができないことがある。この領域で行使されるのは﹁暗黙ないし潜在的な裁量﹂である ₇₄

 ⑴  ハートは、後者の﹁暗黙ないし潜在的な裁量﹂が行使される場合における二つの困難から、検討をはじめている。   まずは、﹁事実にかんする相対的な無知﹂という第一の困難について。ハートによると、もしもわれわれが、自分たちが行為したり選択したりする世界について、①その世界を構成する諸々の特徴が有限であり、②それらの諸々の特徴の結合パターンも有限であり、そして③その両者(すべての特徴と結合パターン)を網羅的に知ることができるなら、われわれは常に事前に、ルールを適用する際にどのような問題が生じるかを知ることができるだろう。しかし、ハートに言わせればそれは機械法学の世界である。実際の人間の世界は、機械法学が考えるようにはできていない。例えば﹁乗り物(

ve hic le

)は公園に入ってはいけません﹂というルールについて考えてみよう。自動車、馬車、オートバイ、バスについては事前に考慮されている。これは明白な事例である。しかし、実際にルールを適用するとき、﹁これは乗り物だろうか﹂という問題が生じる。これは境界線上の事例である。われわれは以下のような事例を予期していないし、予期することができない。例えば、ローラー・スケーター、自転車、乳母車、おもちゃの車について、﹁これは乗り物と呼ばれるべきか﹂という問題が生じるのである。こうした問題を予期ないし想像できなかったとしても、実際に問題が生じたときには、ルールを適用できるか否かを述べるように求められることになる ₇₅

  次に、﹁目的にかんする相対的な不確定性﹂という第二の困難について。ハートによると、これは第一の困難と関連しているが、両者は別のものである。例えば、先ほどのルールを作った人物の目的が﹁平穏な公園﹂であるとする。しかし、その人物が予期できないこともある。おもちゃの自動車は、高齢者にはやや危険であるが、若年層にとってはとても楽しいものである。ここで、そのルールを作った人物の目的は不確定的なものとなる。われわれは、﹁公園の平穏さ﹂

(21)

(    )同志社法学 六九巻七号四一四H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四四二

という目的が、おもちゃの自動車で遊ぶ人々の利益や快によってどの程度まで犠牲にされるべきかについて、はっきりとした答えをもっていないのである ₇₆

  以上でみたように、ルールの目的をあらかじめ定めていても、実際の問題が生じたら、複数の利益のあいだで折り合いをつけて、当初の目的をさらに確定的な目的にせねばならないのである ₇₇

 ⑵  ハートは次に、﹁明示ないし公認された裁量﹂が行使される場合における困難に検討を加える。彼によると、﹁明示ないし公認された裁量﹂が行使されるのは、裁判所が変化しやすい規準(

a v ar ia ble s ta nd ar ds

)を適用する事例においてである。変化しやすい規準とは、例えば、民法上の過失における﹁相当な注意(

du e ca re

)﹂という規準のことである。大まかに言って、もしも損害(とくに肉体的な損害)を被った場合、加害者側がその損害を回避するために﹁十分な注意(

re as on ab le c ar e

)﹂を払っていなければ、被害者側は損害賠償を受ける権利を有することになる ₇₈

  しかし、﹁相当な注意﹂とか﹁十分な注意﹂とは何なのか。もちろん、﹁相当な注意﹂の具体例を参照することはできる。例えば、﹁通行が予期される場合は、止まって、見て、聞く(

st op pin g, lo ok in g, an d l ist en in g

)﹂といったことである。とはいえ、注意が求められている状況はあまりにも多様で、別の要素も考えないといけない。﹁十分な注意﹂という規準を適用する際に、われわれは、①実質的な危害を防ぐために考慮すべき予防措置をとらねばならない。しかし、②予防措置をとるといっても、他のことがおろそかにならない程度のものである。実際には、いろいろなことが起きるので、事前にすべてを考慮に入れることはできない ₇₉

  結局、﹁明示ないし公認された裁量﹂が行使される場合における困難とは何か。それは、裁判所は変わりやすい規準を適用せざるをえない、という困難のことである ₈₀

(22)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四一五二四四三

8   「 裁 量 」 の 第 八 節

  以上で確認したように、裁判において裁量の行使は避けられない。ハートは次に、行政府による価格決定においても裁量は避けられない、ということを示していく。例えば、われわれは﹁相当かつ公正な価格(

a ra te w hic h is re as on ab le a nd fa ir

)﹂を望む。しかし、﹁公正﹂ではあるが、地域の産業を壊滅させることで数百万人の繁栄を脅かすような価格もあるだろう。これは一例に過ぎないが、この例が示すように、満足の行くルールを事前に作ることは難しい。結局、予期できない事実があったり、目的が相対的に不確定的であったりする場合には、裁量が必要となるのである ₈₁

  以上で確認したように、裁量を行使する必要のある領域が存在している。ハートによると、裁量が避けられない場合、裁量の行使のための最適条件を確定しておくことが重要である。というのも、どの決定が正しい(

rig ht

)のかを確定できないとしても、われわれは少なくとも、決定のための最適条件を確定することはできるからである ₈₂

9   「

裁 量 」 の 第 九 節

  ハートは以上で、正しい裁量はないとしても、裁量の行使のための最適条件を考察することは重要であるという考えを提示した。なお、最適条件は、第三節で提示された裁量の領域ごとに異なるものとされる ₈₃

  さて、ハートによると、この討論会(ハーヴァード・ロースクールの法哲学討論会)のメンバーの関心は異なっている。ある者は、裁量を適切に行使するための要件を確定することに関心を寄せる。他の者は、様々な状況において、裁量を任せられている機関に付与されるべき裁量の範囲に関心がある ₈₄

  ハート自身は、われわれが裁量を行使する最適条件を確定した後の、裁量の行使に必然的に含まれる﹁決断(

‘le ap ’

)﹂

(23)

(    )同志社法学 六九巻七号四一六H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四四四

に関心がある。裁量の行使の際の決まり文句︱︱﹁直観﹂や﹁暗黙の導きの目的の承認﹂など︱︱は、以下の幻想を助長する。すなわち、衝突する諸価値を和解させたり、究極的原理なしで選択できたりするような地点には決して到達できないのだ、という幻想である。しかしながら、ハートが言うには、われわれは決して﹁決断﹂に到達できないという示唆は間違っている。それは、単なる恣意的な選択としての裁量という描写が間違っているのと同じくらい、間違っているのである ₈₅

  ハートによると、もはや原理によって導いてもらうことはできないので、同じような試練に直面した人々に、われわれの決定を裏づけてもらうことしかできないような局面が、存在している。そのような局面では、裁量における決定が、決定的ではないけれども合理的(

ra tio na l w ith ou t b ein g co nc lu siv e

)な場合がある。すなわち、われわれは、同じ分野における首尾良い裁量の行使から学ぶのであり、そして、先に説明された意味︱︱第五節で説明された﹁結果による正当化の主張(

vin dic at io n by re su lts

)﹂︱︱で、どのような決定が(その決定の結果によって)正当化されたのか(

to be v in dic at ed

)を理解するのである ₈₆

  結局、ハートにとっての、裁量にかんする最重要の問題は何か。彼によると、われわれは裁量的な決定(

dis cr et io na ry de cis io ns

)をしたあとに、﹁あれ︹あの決定︺は異なる諸価値のあいだの満足の行く妥協であった﹂と述べることがある。そのときにわれわれが訴えている基準は何か︱︱これこそが、ハートの考える裁量にかんする最重要の問題である。われわれはそのときに、公平な観察者による多元性の判断(

th e ju dg m en t o f a p lu ra lit y of im pa rti al sp ec ta to rs

)に訴えているのだろうか。あるいはそのときに、より確定的な原理(

m or e de te rm in at e pr in cip le s

)が作用しているのだろうか ₈₇

  ハートはこの問いに対する答えを示していない。しかし、彼の言う裁量は、もはや原理によって導いてもらうことが

(24)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四一七二四四五 できないので、われわれが裁量を行使する最適条件を確定した後でなされる決定のことである。よって、彼は﹁より確定的な原理が作用﹂することを想定しないように思われる。

  なお、先述のようにハートは、われわれが裁量を行使する最適条件を確定した後の、裁量の行使に必然的に含まれる﹁決断(

‘le ap ’

)﹂に関心がある。彼はこの﹁決断﹂についての説明を行っていないけれども、﹁裁量﹂論文の第八節で以下のように述べている。すなわち、裁量を含む諸決定は、そうした決定をなす﹁流儀(

m an ne r

)﹂のおかげで合理的なものとなっている。ここで言う﹁流儀﹂には、手続的要素や、私利や偏見の慎重な除外や、当該分野での経験の活用だけが含まれるのではない。それらに加えて、裁量の過程において、考慮すべき諸価値を認識した上で、それらの諸価値の折り合い(

co m pr om ise

)をつけたり優劣を決めたりするという決然とした努力も、そうした﹁流儀﹂に含まれるものとされる ₈₈

三  ハートが通らなかった道――N・レイシーの読解

  前節では、ハートの未発表論文である﹁裁量﹂の概要を確認した。以下では、その論文についての二つの読解を取り上げる。まずはニコラ・レイシーの読解をみていこう。彼女は﹁裁量﹂が掲載された﹃ハーヴァード・ロー・レヴュー﹄に、﹁通られなかった道︱︱H・L・A・ハートのハーヴァードでの裁量論文 ₈₉

﹂を寄せている。

  レイシーはまず、ハートの伝記の著者として、ハートの﹁裁量﹂の歴史的位置について語っているが、本稿ではその部分については割愛する。以下では、﹁裁量﹂の法哲学的意義にかんするレイシーの読解について概観しておこう。

  ハートは裁量にかんして五つの問題を提示していた。レイシーによると、第一の問題と第三の問題(﹁裁量とは何か﹂、

(25)

(    )同志社法学 六九巻七号四一八H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四四六

﹁なぜ裁量を許容すべきなのか﹂)は、ハートによって手厚く論じられているが、それには確固たる理由がある。これらの問題は、分析法理学の領域にしっかり収まっているからである。それに対して、第四の問題(﹁裁量はどのような価値を傷つけるのか、あるいはどのような価値を促進するのか﹂)は、規範的な政治哲学ないし道徳哲学の領域にある。第二および第五の問題(﹁いかなる条件で、法体系における裁量を認めるべきか﹂、﹁裁量の便益を最大化したり、裁量の危害を最小化したりするために、何をなすことができるか﹂)は、社会科学的な分析に属する ₉₀

  レイシーによると、ハートは第五の問題(﹁裁量はどうすれば最も効果的になすことができるか﹂)に答えていないが、それは二つの意味で残念なことである。なぜなら、第五の問題に関連する研究は、分析法理学と社会学的法学研究(

so cio -le ga l s tu die s

)との生産的な対話をもたらしたであろうし、裁量は法の支配に反するという批判に対して強力な反論ができただろうからである。とはいえ、ハートがそうした研究をしなかったことは驚きではない。なぜなら、その問題(第五の問題)に満足のいく形で答えるためには、彼は自分の理論を以下の三つのいずれかの方向に発展させねばならなかったであろうが、その三つはいずれも彼の性分に合わなかったからである ₉₁

  第一は、承認のルールによって妥当性を付与される法という考え方を放棄ないし修正し、後にロナルド・ドゥオーキン(

R on ald D w ro kin

)が提唱したような方法で、裁量を制約できるような法的理由にかんする野心的な存在論を構築するという、規範的な方向である。第二は、史実に基づく法の見方を受け入れるという、ジェラルド・ポステマ(

G er ald P os te m a

)が提唱するコモン・ロー的な法の考え方という方向である。第三は、法の経験科学から学んで、裁量を行使したり、裁量に責任を負ったりすることのできる法曹の育成を目指す、という方向である ₉₂

  レイシーによれば、この第三の方向は、ハートが自著﹃法の概念﹄を﹁記述社会学(

de sc rip tiv e so cio lo gy

)﹂として描写 ₉₃

した仕方で、自分の関心を発展させるという方向のことである。しかし、意思決定の制度的形式と意思決定の質を

(26)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四一九二四四七 結びつけるという試みは、プロセス学派やフラーの関心は惹いたけれども、ハートには深い関心を呼び起こさなかった。そして、第二と第三の方向は、ハートを、法についてのより偶然的で歴史的に特殊な考え方(

a m or e co nt in ge nt , his to ric all y s pe cif ic c on ce pt io n o f la w

)に向かわせて、彼が好んだ哲学的方向から彼を引き離したであろう。そうすれば、彼は裁量を、より経験的で社会理論的な形で説明できたであろう。しかし、彼の思想のそうした発展は、彼によって閉ざされたのである ₉₄

  さて、ハートの﹁裁量﹂論文に注目すれば、そこではハートの哲学的分析と、社会現象としての裁量の分析という両面が見られる。ところが、この論文での制度的な思考様式は、後の﹃法の概念﹄では消え失せていて、彼が後にドゥオーキンとなした論争でも再登場しなかった。このことからすると、この論文はハートにとっては、ハーヴァード大学で書かれたという文脈やプロセス学派への敬意によって、刺激されたものであった。さらに、分析哲学的なアプローチが明らかにできることや、それがプロセス学派の知的営みに貢献できるのだということを、示そうとするものでしかなかった ₉₅

  レイシーによると、ハートの﹁裁量﹂は、彼が選択しなかった道を示している。しかしながら、その道は、二十世紀後半の影響力のある多くの学者によって引き継がれている。それは、レイシーの考えでは、今日の法理論が進むべき最も生産的な道を示している。レイシーはそうした学者として、例えばブライアン・タマナハ(

B ria n T am an ah a

)、ウィリアム・トワイニング(

W illi am T w in in g

)、ロジャー・コッテレル(

R og er C ot te rr ell

)、および彼女自身をあげている ₉₆

あ・をれそ、がンキーオドRんき亡は今たっなにとこる読ゥで。もいこきべぶ喜、しかしとる残あなのはい念なことで 起ートの﹁裁ハ量﹂が提自した論争から説を提示すば、れ論にの永続的なテーマの多く関理連している。レイシーによ   ﹁量メがちた家律法のカリア﹂心の代年〇五九一、は関裁をで法の年〇六去過、くなだ向るせさ返り振を題問たけけ

(27)

(    )同志社法学 六九巻七号四二〇H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について二四四八

る。それは、﹁裁量﹂やその他の一九五〇年代の論文が開始した、半世紀にわたる英米の議論から、比類のない知的発展が登場したことである ₉₇

四  「

裁量」とプロセス学派――G・C・ショーの読解

  次に、ハートの﹁裁量﹂についての、ジェフリー・C・ショーによる読解を紹介する。彼は﹁裁量﹂が掲載された﹃ハーヴァード・ロー・レヴュー﹄に、﹁H・L・A・ハートの失われた論文︱︱﹁裁量﹂とリーガル・プロセス学派 ₉₈

﹂を掲載している。

1   ハ ー ト と プ ロ セ ス 学 派

 ⑴  形式主義とリアリズム法学   ショーは、ハートとリーガル・プロセス学派の関係について触れることで、﹁裁量﹂の意義を示している。

  ハートは英国の法哲学者であるけれども、アメリカの法思想史に詳しかったので、法哲学討論会で話すように求められた問題の重要性を理解していた。十九世紀には、法形式主義者たち(

le ga l f or m ali st s

)が、法的問題は熟練した法律家が法源からの推論によって到達できる確定的な答えがあると、論じていた。それとは対照的に、二十世紀初頭のリアリストたち(

th e r ea lis ts

)は、裁判官や公務員は実際には強大な選択の権能を有していると論じた。リアリストたちは、この選択の権能が社会状況を先進的に改良することを期待したが、その方向での理論を発展させなかった。恣意的な選択による支配は、法の支配ではない。よって、リアリズム法学の遺産に対する挑戦が生じた。すなわち、法的な不確定

(28)

(    )H・L・A・ハートの未発表論文﹁裁量﹂(一九五六年)について同志社法学 六九巻七号四二一二四四九 性は法の支配と両立できるかが問われたのである ₉₉

  ニューディール以降は、裁量が差し迫った問題となっていた。法における複雑さが増大するにつれて、決定や不確定性も増大する。よって、不確定性が生じたときに何をすべきかの理論が必要とされたのである。ポスト・ニューディール期の教授たち(

a gr ou p of p os t-N ew D ea l p ro fe ss or s

)の多くが、討論会においてハートの報告を聞いていた。その教授たちは、リアリストが解決できなかった問題に解答を与えようとしていた。それは、もしもある法体系において、ある裁量が十分に制約され、理に適った形で(

re as on ab le

)行使されていたら、その裁量はその法体系において受容可能である、という解答である。実際、﹁プロセス論者たち(

pr oc es s t he or ist s

)﹂は、法は時として不確定的であるというリアリストの考えを受け入れたが、リアリズムを乗り越えて、法の不確定性を法の支配と一貫させるための理論を探求した。プロセス論者たちにとって、責任感のある裁判官が事例を合理的に判断すれば、裁量と法の支配は共存できるのである 100

  ハートは、不確定的な事例を解決するための方法が、﹁裁量﹂と﹁恣意的な選択﹂を区別するための合理的規準(

ra tio na l st an da rd s

)と適合するならば、不確定性は法の支配と完全に両立すると信じた。彼にとって、裁量は、法の一部(

pa rt of la w

)であり、完全なものにされねばならない(

to b e p er fe ct ed

)のであって、(法の支配ならざる)人の支配と結びついた障害物ではないのである 101

  ハートの報告は、ハーヴァード・ロースクールの法哲学討論会でなされた。当日は短いハンドアウトが配布され、後日、彼の報告は﹁裁量﹂という論文にまとめられて、メンバーに配布された。メンバーたちはその論文を読み、議論を深めていった。ヘンリー・ハートは後に、フラーに送った手紙のなかで、H・L・A・ハートの﹁裁量﹂論文の論旨は、自分とアルバート・サックス(

A lb er t S ac ks

)の﹃リーガル・プロセス﹄の素材を形成したと記している 102

。(ハート=

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