法学における歴史観 : 法哲学の観点からの総括的 覚え書き
その他のタイトル Study of History in Legal Sciences
著者 竹下 賢
雑誌名 關西大學法學論集
巻 52
号 4‑5
ページ 1523‑1548
発行年 2003‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00023519
法 学 に お け る 歴 史
観 目
次 は じ め に
一解釈法学における歴史観
1 法適用の構造
2 法適用と法思想との対応
3 体系性と法思想との連関
二法社会学における歴史観
1 社会学の基礎理論と歴史観
2 社会学上の対立と法実証主義
3 法文化論と歴史観
三 法 史 学 と 歴 史 観
1 歴史法則主義への批判
2 歴史観と価値観
む す び
ー法哲学の観点からの総括的覚え書き I
法 学 に お け る 歴 史 観
竹
五 一 五
下
︵ 一 五 二 三 ︶
賢
の観点は︑法哲学的である︒ に関連するかを検討することにする︒ 第五二巻四・五号
︵ 一 五 二 四 ︶
法哲学上の重要な課題として︑世界観の考察が挙げられようが︑この世界観はその重要な部分として歴史観を含む
といえる︒私は法哲学研究の当初より︑法哲学の考察態度を導くのは世界観的関心であるという見解に︑
一 般
論 と
し
て賛同するものであった︒しかし︑自己の研究との関連で世界観に関心をもったのは︑
( 1 )
の功罪﹄をまとめる作業においてであった︒そこでは︑歴史法学や目的法学の歴史主義的な歴史観に接したが︑その
際︑すくなくとも法哲学は︑世界観について自らの位置を見定める場合︑歴史観をいささかなりとも立てておくこと
本稿は︑こうした問題意識を念頭におきつつも︑法哲学のこの課題がどのように法学の研究につながるかを検討し
ようとするものである︒むしろ以下では︑法哲学以外の法学諸学科が︑歴史観︑それもとりわけ歴史主義とどのよう
ここでいう歴史主義は︑カール・ポッパー﹃歴史主義の貧困﹄にいう歴史主義ではなく︑より広義の歴史主義であ
るが︑これについての説明は本文後述に譲る︒また︑標題における法学は法哲学をも含む広義の法学であるが︑本稿
で検討の対象にするのは︑法哲学以外の法学である解釈法学と法社会学とであり︑そして法史学である︒ただ︑検討 の重要性が感じられた︒
関 法
は じ め
に
1 0
年程前の拙著﹃実証主義
五 一
六
ー
解釈法学における歴史観
捉えてゆくことにしたい︒
五 一
七
一定の把握を示してみることにしたい︒ 歴史にもっとも身近な法学は法史学であるが︑法史学が歴史観を前面に出すことはまれであろう︒それは︑通常︑ 法史学においては歴史的な現実としての法が前提にされていて︑歴史的な法の学問的意義がことさらに問題にされな いからである︒同様に︑解釈法学や法社会学においても︑歴史観が正面から問われることはない︒
だが︑法史学が何らかの歴史的事実について法史的論述をなすとき︑また︑解釈法学が一定の法的問題について解
釈論的議論をなすとき︑さらに︑法社会学が一定の法現実に社会学的な説明を加えるとき︑何らかの歴史観がそうし
た立論の背後にあって作用しているといえよう︒以下では︑解釈法学︑法社会学︑法史学の順に︑この種の歴史観を
解釈法学は実定法の条文を解釈する学問であるが︑このような条文の解釈という学問が学問の名に値するのかどう
か︑つまり︑学問性︵科学性︶をもつのかどうかが問われたし︑いまでも問われている︒本稿では︑この疑問に正面
から答えることはしないが︑解釈法学のとる方法について︑
法適用の構造
法が司法の場におかれると︑解釈という作業を法はかならずともなうことになる︒解釈は文書の解釈が通例である
ので︑判例法国家ではなく︑成文法を基本とする制定法国家により明白に意識される︒制定法国家での司法は法適用
といわれるが︑それは裁判官が特定の事件に特定の法律を適用して判決を導き出すからである︒従来︑この法適用の
法 学
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け る
歴 史
観
︵ 一
五 二
五 ︶
第五二巻四・五号
よって主張される︑法学における解釈の方法は︑論理学的な一二段論法を基本にしたといえる︒
一 定
の
構造については︑自由法論という対立する見解はあったが︑国際的にみても法実証主義が支配的であった︒それに
論理学の三段論法にならって、法適用はつぎのように理解される。「大前提・~盗をおかした者は一二年の懲役刑
に服する︒小前提 1 ある者が窃盗をおかした︒結論ーその者は三年の懲役刑に服する﹂︒大まかな形式をみれば︑
判決の構造はたしかに論理の三段論法に類似している︒この点から︑小前提につけられる事件と大前提におかれる法
規範との論理的関係に注目して︑法適用はある法規範へのある事件の包摂と呼ばれることもある︒しかし︑論理学の
三段論法と法適用の三段論法とは異なるという見解が有力である︒
ここでは︑法適用と三段論法との間の根本的な相違のみを︑示すことにする︒法適用の構成要素には︑法と事件の
ニ大要素がある︒三段論法でいえば︑法は大前提の規範であり︑事件は小前提にあたるが︑事件というのは︑
人間が規範で指示された行動をとったという事実である︒ここにいう法にしても事件にしても︑論理的な三段論法に
おける大前提や小前提の実証的な確実性を欠いているのである︒
つまり︑法適用はたしかに判決を形式的になぞってゆけば三段論法になるが︑しかし︑現実の法適用の過程は事実
認定と法律解釈の複合である︒この認定にしても解釈にしても当事者が主体となっていて︑この過程にさらにこうし
た解釈者が関与する︒このように︑法適用は︑法と事件と解釈者という三要素の相互関係で行なわれる︑事実認定と
法律解釈の複合である︒
こうした見解は︑最近の法哲学で討議︵議論︶理論や法律学的ヘルメノイティクによって擁護されている︒それに
よれば︑法と事実に対して︑法適用者は解釈者として関与するということになる︒法適用者は法律といういわば枠の
関 法
五 一
八
︵ 一
五 二
六 ︶
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歴 史
観
五 一
九
一定の制度が前提されることに 一定の解釈の選択︑また一定の解釈方法の選択を正当化する規準を求めることになる︒そして︑その規準に
( 2 )
は事実判断とともに価値判断が含まれるとされる︒
この事実判断と価値判断とは︑相互に連関していて︑分離することはできない︒事実の認識の側面では︑当該の事
件があり︑判例とされる事件があり︑また︑そうした事件についての一般的な評価︵社会通念︶があり︑さらに︑そ
れを生んだ社会状況がある︒このような事実についての認識は︑該当する法律の規範的な内容に照らしながらなされ
るとともに︑とりわけ︑評価や社会状況の認識においては︑認識する側の価値判断を排除することができない︒
法適用と法思想との対応
こうした法適用の把握は︑法実証主義の包摂理論に対する法律学的弁証理論とでも呼ぶべきものであり︑法適用を
めぐる思想上の対立がここで問題になってくるようにみえる︒しかし︑ここには︑二つの論点が生じる︒第一に︑こ
の思想の問題は︑法適用についての現実の制度によって解答が与えられるのではないかということである︒すでにの
べたように︑制定法国家であるか判例法国家であるか︑あるいは︑制定法国家であっても裁判官の法律への拘束がど
の程度に制度化されているかなどによって︑制度的な前提が異なる︒このように︑
よって︑法適用をめぐる多くの思想問題に︑解答が与えられているとの見解がありうる︒
よって制度的に解決され︑司法において︑思想問題は解決済みであると考えるとすれば︑それは誤りである︒現実の
制定法国家が︑制定法を中心とした法への裁判官の拘束を厳格にした場合︑たしかに自由法論的な適用論は排除され 2
こうした見解から︑法実証主義的な包摂理論と法律学的弁証理論との思想的な対立は︑いずれかを支持する立法に
内 部
で ︑
︵ 一
五 二
七 ︶
第五二巻四・五号
ることにはなっても︑法律学的弁証理論のいう解釈者の関与を否定しさることは制度的に無理であろう︒
しかし︑この論点で重要なのは︑こうした関与を否定できないことは︑たんに制度的な問題ではなく︑原理的な問
題であるということを︑弁証理論の側が主張しているということである︒すなわち︑法適用はつねに適用者ないし解
釈者の介入を予定しているといえる︒抽象のレベルにある法律が具体のレベルにある事件に適用されるには︑それを
( 3 )
媒介する者がかならず必要になるのだとされるのである︒
法適用のこうした原理的側面を︑包摂理論によって否定することは難しい︒だが︑それでもこの理論は︑法適用の
制度的枠組みを含む︑法の規範的内容の大部分が立法によってすでに与えられていると主張することによって︑程度
の問題として弁証理論を斥けることができる︒ここに︑第二の論点が提起されることになる︒
︵ 一 五 二 八 ︶
こうした包摂理論は︑すでにのべたように︑法実証主義の思想に立脚するとされ︑その思想は︑制定法を中心にし
た実定法一元論をとり︑法において︑事実超越的な理念的要素を認めないものである︒しかし︑包摂理論の側にあっ
ても︑すくなくとも一定の利益選好という意味での評価︑この意味での価値判断が実定法に含まれていると︑認める
立場は一般的であろう︒さらには︑実定法に理念的な意味での価値判断が含まれているとみて︑法適用は包摂的にそ
れをそのまま受け取るべきものと主張して︑その限りで価値的要素を認めるという立場もありうる︒
だが︑こうした価値的要素を認めるいずれの見解も︑法原則の歴史性という主張に直面する︒法律の規範的な内容
との関連で︑実定法に含まれる価値判断として︑しかも解釈にとって重要なのは︑法原則ないし法原理である︒ホ
( 4 a )
セ・ヨンパルト﹃法の歴史性ー現行法の法哲学的試論ー﹄が問題にしたのは︑こうした法原則の歴史性である︒
意味内容が歴史的に変遷してきたとされる実定法上の法原則を︑より最近の動向を踏まえて私なりに挙げるなら︑
関 法
五 二
0
をできるかぎり立法の領域に帰属させるという見解は︑維持できないことになる︒ということは︑すでに言及した法
適用における法律解釈は︑そしてとりわけ︑その一般的な解釈論を提供する法学は︑立法によって与えられた法律を︑
すくなくとも法原則の部分について自己の立場から解釈せねばならない︒そして︑この立場を形成するのは︑解釈者
の 価
値 判
断 で
あ る
︒
りいっそう包括的な体系的解釈に連関しうる以上︑その種の価値判断であっても︑理論上︑より包括的な価値観につ 3
五
憲法により保障されるべき﹁基本的人権﹂︑とりわけ﹁生存権﹂や﹁幸福追求権﹂であり︑憲法により規定された
﹁戦争放棄﹂である︒民法においては︑歴史的な変遷に服しているのは︑所有権や婚姻関係︑不法行為に関する原則
である︒また︑刑法では︑﹁罪刑法定主義﹂︑﹁法的に自由な領域﹂︑犯罪構成要件に関する原則などである︒
このように︑原則の意味内容が歴史的に変化しているとすれば︑しかも立法によってというより司法によってそう
一義的に与えられていないということになる︒解釈の歴史的な変
化は現在の法適用の時点で起こるかもしれないし︑また︑解釈においては︑過去に支配的であった説を維持すること
も可能なのである︒つまり︑法律上の原則は解釈の対象になるということである︒この解釈において︑解釈者は何ら
かの価値判断︑さらには思想をもって︑あるいはすくなくとも利益衡量をもって作業せねばならないことになる︒
体系性と法思想との連関
このように︑法原則の意味内容が変化していて︑その確定が解釈に委ねられるということであれば︑法的価値判断
法原則の解釈に対応する価値判断は︑個別的な法律の解釈の場合よりは包括的であるが︑個別的な解釈がつねによ
法 学
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け る
歴 史
観
だとすれば︑法律の規範的な内容の重要な部分が︑
︵ 一
五 二
九 ︶
要求されるといえる︒これは︑ 第五二巻四・五号
五 ニ ニ
︵ 一 五 三
0 )
ながるといえる︒たとえば︑民法上の所有権の解釈と不法行為の解釈とは︑また︑刑法上の罪刑法定主義の解釈と
﹁法的に自由な領域﹂の解釈とは︑それぞれ両者を整合的に包括する価値判断︑規範的な民法観や刑法観において連
関 さ
せ ら
れ る
︒
このように︑各実定法に対応した価値観としての法律観は︑さらに全体的な法律観に連結してゆくのである︒こう
した価値観はすでに法的世界観ということができ︑それは理論的にさらに世界観一般につながる︒法解釈の体系的な
統一性︑つまり整合性は制定法システムにおいてはもとより︑判例法システムにおいてもその程度は弱まるとはいえ
一般的に個別的な法解釈のひとつとして類型化される体系的解釈を意味しているので
( 4 b )
はなく︑法解釈の普遍的な意味合いとしての体系的解釈である︒
法解釈のこうした普遍的な意味合いのもとでは︑法律の規範的な内容の個別的な解釈はつねに体系的な解釈に連関
しうるといえ︑そうした解釈で重要な意味をもつのは包括的な価値観であり︑最終的には世界観である︒通常の法適
用がつねにこうした包括的価値観に明示的に関係づけられるわけではないし︑その必要もない︒しかし︑法律の体系
的な連関は︑潜在的につねに個別的な法適用と包括的な価値観との対応を予想している︒
ここにいう世界観との関連で︑歴史をどう扱うか︑つまり歴史観が問われることになる︒現に︑﹁歴史の発展法則﹂
( 5 )
ゃ﹁歴史進歩の方向﹂を認めうるかどうかの是非が︑法解釈をめぐる論争において問題となっている︒最大幸福の原
理に立脚する功利主義によって︑この歴史の方向性を否定するにしても︑それはそれで歴史に対する態度が表明され
( 6 )
て い
る ︒
前者のいわば歴史主義と後者の功利主義はともに︑法哲学上の世界観における見解の対立という問題領域に位置づ
関 法
法 学
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け る
歴 史
観
究明する学問だということになる︒ けられ︑こうした世界観の一環として歴史観が問われることになる︒このように︑法適用は潜在的にこうした包括的 歴史観に結びついている︒ここでいう歴史観も︑解釈の一類型とされる歴史的解釈とは異なって︑解釈にとって普遍 的な意味合いをもつが︑これとの関連で︑前述で言及した︑法原則の歴史的な変化のもつ意味が︑それぞれに解釈さ
解釈法学は実定法の条文を解釈する学問であり︑実定法学とも呼ばれ︑基本的には共通の考察方法を取る︒こうし
た実定法学が︑法学と呼ばれることが多い︒これに対して︑実定法学以外の法学として重要なのは︑基礎法学という
学問領域に属し︑ここで取り上げる法社会学︑法史学であり︑また︑法哲学であろう︒これらの学科は︑それぞれ歴
史学︑社会学︑哲学の考察方法を採用するので︑解釈法学とは事情が異なる︒前述のように︑近年︑解釈法学は解釈
学
( H e r m e n e u t i k )
という包括的な学問に属するものとして把握される傾向があるが︑それでも︑解釈法学の考察方
法は他の法学の考察方法と区別されることには︑変わりがない︒
こうした基礎法学を解釈法学に寄与するための学問として︑位置づけることも可能である︒その場合の基礎法学は︑
法解釈との関連で究明されるべき課題を︑ 一定の法概念や法原則の社会学的︑歴史学的︑さらに哲学的考察を通じて
基礎法学にそうした部分があることは否定できないが︑それでもこの学問は︑それぞれの学問の考察方法をとると
いうことで解釈法学とは異なる︒また︑基礎法学にとってそれ以上に重要なのは︑それぞれの考察方法を採用して︑ れることになろう︒
法 社 会 学 に お け る 歴 史 観
五 二 三
︵ 一
五 =
二 ︶
第五二巻四・五号
学が解釈法学に対してより実りの多い貢献をなすことができる︒
社会学の基礎理論と歴史観
︵ 一 五 =
= 一 ︶
それに即した独自の考察をもって法秩序や法現象を把握することである︒こうした独自の考察があってこそ︑基礎法
現 代
社 会
学 に
お け
る グ
ラ ン
ド ・
セ オ
リ ー
に つ
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は ︑
﹁ 統
合 モ
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﹂ ︵
﹁ 機
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析 的
コ ン
フ リ
ク ト
・ パ
ー ス
ペ ク
テ ィ
プ ﹂
︶
に対する﹁葛藤モデル﹂︵﹁コンフリクト・パースペクティプ﹂︶の対立が語られている︒最近の学説動向では︑この対立
( 7 )
図式の後者が有力であるが︑それは規範が変動過程にあり︑多様な価値が競合しているからだとされる︒ ー
しかし︑従来︑支配的であったのは﹁統合モデル﹂であって︑その典型的な理論は︑タルコット・パーソンズに
よって展開された︒この理論からすれば︑社会システムは全体の安定を維持してゆくという機能をはたすかたちで形
成される︒その基本的な機能要件は︑目標の達成のための用具の調達である﹁適応﹂︑目標の設定とそれを達成する
ための資源の配置である﹁目標達成﹂︑構成要素間の関係の調整である﹁統制﹂︑システムの安定化やシステム内の緊
( 8 )
張の処理である﹁潜在性﹂の四つである︒
すこし簡略化してこの見解をまとめると︑これらの四機能はそれぞれ︑経済︑政治︑法︑文化に対応する︒つまり︑
法は﹁統制﹂の機能をになう︒この﹁統合モデル﹂に対して︑﹁葛藤モデル﹂によれば︑人間の社会的な行為は︑規
範意識をともなう遵守行動と反規範意識をともなう逸脱行動のうち︑それぞれに帰属する諸行為からの選択の結果で
ある︒こうした把握には︑創造的主意主義の観点が関与している︒佐藤勉﹃社会学的機能主義の研究﹄では︑﹁主意
主義を基軸とする現象学的行為理論﹂と﹁社会統合を重視する機能的理論﹂の対立関係︑﹁主意主義を源流とする闘
関 法
五 二
四
ところで︑後者の富永の対立図式が参考にしているのは︑パーソンズの立てた行為理論の三類型論である︒これに よれば︑﹁実証主義的行為理論﹂︑﹁功利主義的行為理論﹂︑そして﹁理念主義的行為理論﹂とが区別される︒第一の実 証王義は︑自然科学的な実証主義的方法によって︑人間行為についての法則を見出すことができるとし︑第二の功利 主義は︑人間の行為を︑各個人の欲望充足を実現する目的的な過程であるとみ︑第三の理念主義は︑人間の行為が経
( 1 2 )
験から区別され︑主観的に構成された理念を実現しようとする過程であるとする︒
( 1 3 )
富永前掲書は︑この功利主義を﹁実証主義的行為理論の一変種﹂とみて︑社会科学を﹁実証主義﹂と﹁理念主義﹂ よ
う ︒
﹃現代の社会科学者﹄で展開された﹁実証主義﹂と﹁理念主義﹂の対立図式の方が︑基礎理論の問題点を把握
( 1 1 )
するのに適している︒この﹁統合モデル﹂と﹁葛藤モデル﹂の対立図式と﹁実証主義﹂と﹁理念主義﹂の対立図式と
の対応関係は︑葛藤モデルの創造的主意主義が﹁理念﹂によって導かれるとの理解からすれば︑ほぼ合致するといえ 永健
法 学
に お
け る
歴 史
観
( 9 )
争理論﹂と﹁機能主義を根幹とする統合理論﹂の対立関係が語られている︒
このような主意主義の観点は︑﹁葛藤モデル﹂の﹁コンフリクト・パースペクティプ﹂が﹁批判的パースペクティ プ﹂に︑さらにマルクスの疎外論の系譜にも連なるとされることから分かるように︑体制変革を視野に納めることが できる︒これに対して︑機能主義の﹁統合モデル﹂が体制の転換を説明するためは︑何らかの概念装置を付加的に導
( 1 0 )
入する必要があろう︒ともあれ︑﹁葛藤モデル﹂はその概念枠組みにおいて︑すでに社会の歴史的変動の把握を課題
とする傾向にあり︑社会変動の歴史観を要求することにもなる︒
五 二 五
しかし︑こうした﹁統合モデル﹂と﹁葛藤モデル﹂の対立図式よりも︑法学を含む社会科学全体の観点からは︑富
︵ 一
五 三
三 ︶
2 な
る ︒
いう意味で︑歴史的でない普遍的アプローチをとる︒ 第五二巻四・五号
︵ 一 五 三 四 ︶
の二大潮流に分類する︒社会学に限定して︑配属される学派を挙げるなら︑﹁実証主義﹂としては︑ コントやスペン
サーの産業主義的社会進化論︑デュルケームやパーソンズの機能主義社会学︑テンニースやジンメルの形式主義社会
学があり︑他方の﹁理念主義﹂としては︑ディルタイやトレルチの歴史主義︑シェーラーやシュッツの現象学的社会
( 1 4 )
学︑ホルクハイマーやハバーマスの批判社会学︑それにプルーマーなどの象徴的相互行為主義学派がある︒
こうした対立図式のもとで︑各学説の歴史とのかかわりを見直してみると︑既述のように﹁葛藤モデル﹂は歴史的
な考察方法になじむが︑﹁統合モデル﹂はそうではないといった捉え方では︑十分ではないことが分かる︒実証主義
の内部にも社会進化論という歴史的アプローチがあり︑理念主義の内部でも︑現象学的社会学は内観主義的な方法と
つまり︑実証主義と理念主義の対立図式に︑︵上記の狭義の歴史主義ではなく広義の︶﹁歴史主義﹂と﹁普遍主義﹂
の対立図式が交差していると考えることができる︒歴史主義に実証主義と理念主義の両派があるのであり︑理念主義
についても同様である︒ここで︑このような広義の歴史主義が法社会学にどのようにかかわるのかが問われることに
社会学上の対立と法実証主義
以上のような﹁実証主義﹂と﹁理念主義﹂の対立を︑法社会学の主要学説に関連づけるために︑さしあたり︑法哲
学上の観点からの図式である︑事実的法実証主義と規範的法実証主義との対立にこれを比較することにする︒この対
立図式は︑法が効力をもっている状態を意味する法の妥当を︑どのように把握するかを基準にして構成される︒前者 関法
五 二
六
他方で︑﹁主観的に構成された理念﹂を基礎に理論展開している代表的な論者は︑
その法社会学についても規範的法実証主義との類似性が指摘できないわけではない︒ウェーバーの法社会学では︑独
自の考察方法にとって重要な︑法の﹁経験的妥当﹂を︑﹁人々が一定の秩序を妥当力のあるものと主観的にみなし︑
法 学
に お
け る
歴 史
観
それらの超越論的な措定という側面との共通性がみられる︒
五二七 一方ではマックス・シェーラーの実 の事実的なそれは︑物理的にせよ心理的にせよ︑法が経験的な事実に即して実効的であると判断される場合に︑法の 妥当を認める立場である︒後者の規範的なそれによれば︑法の妥当は︑法が存在︵事実︶から区別される当為︵規範︶ として存立しているときに︑認められるとす︐和︒
このことからすれば︑社会学上の﹁実証主義﹂は事実的法実証主義に︑﹁理念主義﹂は規範的法実証主義に対応し
ている︒理念主義に対しても実証主義という特徴づけを行うのは奇妙であるが︑右記の後者の対立図式が法哲学に固
有の観点に由来しているからである︒この規範的法実証主義は︑前述の理念主義的行動理論で言及されていた︑﹁経
験から区別され︑主観的に構成された理念﹂として以上に︑法を経験から峻別された義務を課す規範として把握する︒
だが︑それにもかかわらず︑その規範の意義が無内容のまま前提されるにとどまっているのであり︑こうした規範の
妥当は根拠づけられることなく︑結局は何らかの事実によって認知されることになる︒
このような規範的法実証主義が︑社会学上の理念主義に類似していることは︑
質的価値倫理学を想起することによって理解できる︒シェーラーは理念主義の現象学的社会学の論者であり︑その価
値倫理学よれば︑︵そこでは規範が問題になっていないという違いがあるが︶価値は人間の主観的な評価に依存する
( 1 6 )
ことなく︑理念的世界に客観的に存在するとされる︒ここには︑規範にせよ価値にせよ︑規範的法実証主義における
マ ッ ク ス ・ ウ ェ ー バ ー で あ る が ︑
︵ 一
五 三
五 ︶
第五二巻四・五号
( 1 7 )
また︑実際上そのように取り扱う﹂事態として定義している︒こうした定義は︑たしかに実証主義的に事実に定位し
た理念型の構成を取っているといえ︑富永前掲書によれば︑ウェーバーは理念主義から出発し︑のちにそこから実証
主義の方向へ脱却した社会学者と評価される︒理由は︑その理念が﹁評価的価値判断﹂ではなく︑比較のための﹁客
( 1 8 )
観的な基準﹂であって︑﹁価値自由﹂が強力に擁護されていることにあるとされる︒
しかし︑こうした法の﹁経験的妥当﹂の定義は︑法についての西欧近代の意味での理念型であり︑形式的合理化の
強化を意味する西欧の近代化をになう︑評価的な概念枠組みとみることができるように思う︒こうした近代化過程の
( 1 9 )
分析を指向する理論形成は︑価値関係的な︵狭義の︶歴史主義の系譜に属している︒このように︑事実に定位した価
値理念の措定に︑規範的法実証主義との共通性をみることができる︒
本稿の関心からここで注目すべきことは︑規範主義的法実証主義の論者は︑法の歴史的なアプローチに対して消極
的であるが︑ウェーバーや狭義の歴史主義者の理念主義は︑法の歴史的なアプローチを積極的に評価するということ
である︒また︑前述のように︑広義の歴史主義は︑理念主義と実証主義の対立図式を交差している︒
実証王義における歴史主義と考えられるのは︑上記の産業主義的社会進化論である︒たとえば︑スペンサーは社会
有機体論を展開し︑生物の場合の進化論が有機体としての社会にも通用するとみるが︑ニクラス・ルーマンの法社会
( 2 0 )
学は一種の有機体論だといえるが︑そこでも社会進化論が語られている︒
ところで︑解釈法学上︑なお重要な位置を占める利益衡量論が︑﹁最大多数の最大幸福﹂を目標とする﹁功利性の
( 2 1 )
原理﹂を基礎におくとすれば︑この功利主義的利益衡量論は︑実証主義の一類型とみなしうる︒この功利主義はそれ
自体としては歴史主義ではないが︑功利の追求が歴史の実証的事実としての社会の進化と結びつくということによっ
関 法
五 二 八
︵ 一
五 三
六 ︶
法 学
に お
け る
歴 史
観
ら︑社会の生活様式はすべて文化だということになる︒
五 二 九
以上のような広義の歴史主義について︑社会学の学問領域にとどまって︑その歴史的な考察方法の意義に検討を加
えることはできず︑その検討はどうしても哲学の領域に入り込まざるをえないといえよう︒
近年︑社会学の分野では︑文化人類学の影響が顕著となっているが︑それによって︑
する法社会学の分野でも︑︵法社会学とは異なるとの見解もあろうが︶法文化論の立場が広く支持されるようになっ
てきている︒これによって︑法と文化の関係については︑従来と異なった捉え方が登場することになる︒前述のよう
に従来︑﹁統合﹂の機能をになう法と﹁潜在性﹂の機能をになう文化とが︑社会の機能として並列的に位置づけられ
これに対して︑文化人類学の見方は社会と文化を同義的に捉えるのであり︑それゆえに︑文化は法に対してより一
般的で根底的なものとなる︒この見解によれば︑社会とは必要の充足のための組織であるが︑その必要の充足はつね
に特殊化された側面をもつ︒それが︑本来の意味での文化である︒文化はつねに特殊化され︑個別化された生活様式
であり︑文化の要素は人間の活動の広範囲な可能性からの選択の結果である︒このような特殊化として文化をみるな
こうした両者の見解に対応して︑法社会学にも二つのタイプの見解がみられる︒従来の社会学タイプによれば︑法
と文化とは機能的に並列的に区別され︑法文化論はその両者の交錯を問うことになる︒法文化は︑法についての考え て
い る
︒
3 法文化論と歴史観 て︑進化論の歴史主義になりうる︒
︵ 一 五 ︳
︱ ‑ 七 ︶
一般に社会学の方法論を共有
第五二巻四・五号
方︑態度︑信念︑期待︑そして意見である︒この文化が︑要求を生み出す︒つまり︑人々が法的要求を行うかどうか︑
法システムを使うかどうかは︑法文化によって決定されるのである︒
文化人類学の立場からは︑どのような社会も多数の可能な行動の間で︑
いうことが前提である︒したがって︑社会的な行動パターンとして実現されている法も︑その行動パターンがつねに
文化的である︒また︑こうした選択を導く文化統合が指摘され︑これを法との関連で解明することが︑法文化論の課
( 2 2 )
題であるとされる︒
文化人類学による文化の根強さや相対性の主張や︑多文化主義による文化の共存と交流の指摘は︑文化と社会を同
一視する新しいタイプの法社会学に︑われわれ向かわせるように思う︒さらに︑文化社会学の有力な動向として︑地
域的な特殊文化の解釈による説明︑つまり文化解釈学を挙げることができる︒
こうした文化への注目を促すものとして︑同時に︑社会における歴史的な伝統の力の大きさが指摘できよう︒文化
とは︑歴史的な積み重ねであり︑歴史を抜きにして語ることはできない︒だとすれば︑法社会学の現在の傾向は︑法
の把握にあたってその歴史的な意味合いを重視することにもなる︒たしかに︑法社会学は︑現代の法のもつ文化的な
意味合いを明確にするものといえる︒しかし︑その文化は歴史的な脈絡のもとでのみ︑十分な理解が可能となる︒
法 史 学 と 歴 史 観
法史学の考察方法を考えてみると︑ 関法
一応︑基本的には︑資料に基づいた法的な歴史的事実についての説明というこ
とができる︒しかし︑それにはさまざまな方法がありうるのであって︑それらは歴史学の方法に対応しているといえ 一定のものを文化のうちに選択していると
五 三
〇
︵ 一
五 三
八 ︶
ならないとする広義の歴史主義の立場がみられたのであった︒ 最近の歴史学で注目される動きは︑社会学と同様︑文化を取り上げる傾向であろう︒その動向が成立している経緯 を︑適切に説明することは難しい︒しかし︑そのことはさしあたり︑西欧の歴史を基本にして構成された進歩史観の 普遍性が︑たとえば︑文化的な相対性の観念によって疑問視され︑さらには︑歴史観の普遍性そのものが疑問視され たことに︑由来するといえよう︒そのことが各文化の歴史的な相対性を認めさせることになり︑各国ないし地域に独 自な文化史の研究をもたらしたのであろう︒
しかし︑こうした多文化主義の歴史観が︑哲学的にどのように理論化されるのかは不透明である︒その立場は価値
多元主義に親和的であるといっても︑それが価値相対主義や︑さらに価値論一般にどのような姿勢をとるのかはいま
だ不明である︒以下では︑法史学が方法論上の基礎ともしている︑歴史学における従来のオーソドックスな歴史観を
すでにみたように︑解釈法学で問題となったのは﹁歴史の発展法則﹂や﹁歴史進歩の方向﹂を認めうるかどうかの
是非であったが︑そこでは︑最大幸福の原理に立脚する功利主義によって︑この歴史の方向性を否定するという立場
もありうるとされた︒その後の社会学に関連した論述では︑基本的な立場として実証主義と理念主義の対立図式を取
り上げたが︑そこには︑実証主義と理念主義の両陣営において︑人間の社会的行動の把握に歴史の観点を採用せねば
法 学
に お
け る
歴 史
観
1 歴史法則主義への批判 取り上げて検討することにしたい︒ る ︒
五 三
一
︵ 一
五 三
九 ︶
反自然王義的要素と自然王義的要素とがある︒ 第五二巻四・五号
がって︑本稿では︑法史学との関連で﹁歴史主義﹂を扱うことにする︒
五 三 二
︵ 一 五 四
0 )
この歴史主義を検討するに際して︑まず︑カール・ポッパー﹁歴史主義の貧困﹄の主張を問題にすることにしたい︒
この著書は社会科学一般の方法論としての﹁歴史主義﹂を問題にしているのであるが︑こうした方法論の出自はやは
り人文科学に分類される歴史学にあるといえ︑それも︑歴史学の基礎理論︑さらには歴史哲学にあるといえる︒した
本書にいう﹁歴史主義﹂は︑本稿前述の広義の﹁歴史主義﹂でも︑ディルタイやトレルチの狭義の歴史主義でもな
い︒したがって︑富永前掲書に依拠して︑本稿ではこれを﹁歴史法則主義﹂と呼ぶことにする︒この立場は︑﹁歴史
的な予測が社会科学の主要な目的であり︑その目的は歴史の進化の基底に横たわる﹃律動﹂や﹃類型﹂︑あるいは
( 2 3 )
﹃法則﹄や﹁傾向﹄を見出すことによって達成しうると仮定する﹂︑ひとつのアプローチである︒
この歴史主義への批判にあたって︑ポッパーは方法論に関しての自然主義と反自然主義という対立図式を使用する︒
この自然王義とは︑物理学の方法を一般的に適用可能とみる方法論的な基本的立場である︒そして︑歴史主義には︑
前 者
の 要
素 は
︑
ユートピア主義との結合のもとで︑﹁全体﹂としての社会の発展を追求する全体論的アプローチに
みられる︒つまり︑このアプローチは︑社会の真の企図や目的が何であるかを見出すことができると想定している︒
しかし︑見出されたものは︑歴史主義的道徳説の成果であって︑上記の﹁全体﹂は科学的探究の対象とはなりえない︒
( 2 4 )
社会的な現実そのものの具体的な構造は︑けっして把握しえない
本稿の脈略で重要なのは後者の自然主義的要素であるが︑それは︑社会科学の課題が社会の進化の法則をあばいて︑
未来を予測することにあると主張する点にみられる︒しかし︑ポッパーによれば︑生命の進化も社会の進化も︑ひと 関法
法 学
に お
け る
歴 史
観
つの独自な歴史的過程である︒この過程は︑あらゆる種類の因果法則にしたがって進行していると仮定してよかろう が︑その過程についての陳述は︑法則ではなく特称的な歴史的言明である︒普遍的な法則は︑科学的であるためには︑
( 2 5 )
新しい事例によって検証されねばならないが︑こうした特称的言明は新しい事例による反証が不可能である︒
以上のように︑ボッパーは歴史法則主義を批判する︒しかし︑ポッパーはその主張によって︑歴史についての説明 が不可能だといっているわけではない︒進化的な趨勢や歴史的な趨勢について説明が可能であって︑この点で歴史的 科学は理論的科学とは異ならないが︑理論的科学を特徴づけるのは法則や一般化であるが︑歴史的科学を特徴づける
( 2 6 )
のは﹁特殊な出来事﹂である︒
このような趨勢についての説明とは︑政治的な事態や社会的な事態などにおける﹁事態の論理﹂と呼ばれるものを より詳細に分析することでもあるとされる︒理論的科学を導く普遍的法則は観察の観点を提供し︑資料を選択する見
地を与えるが︑歴史的科学はそうした観点が欠けているために︑説明がむずかしい︒
そこで︑ポッパーが主張するのは︑歴史的科学に意識的に︑人々の関心をひく観点を導入することである︒こうし た観点の導入による説明が﹁解釈﹂であって︑歴史法則主義がいう﹁理論﹂ではない︒社会進化論はたとえば﹁人間 精神の進歩﹂を﹁人間性の諸法則﹂に根拠づけようとするが︑そうした法則は検証不可能であり︑むしろそれは﹁一
( 2 7 )
定の人間性﹂を観点として導人した﹁解釈﹂の産物である︒
以上のようなポッパーの見解は︑科学における方法一元論に立脚している︒だが︑歴史的科学における観点の導入 は︑方法一元論を方法二元論に対して微妙な位置に追いやっているようにも思える︒それは︑導入された観点が歴史
的 な
趨 勢
︑ つまり事実に関連しているとはいえ︑価値的な要素を含んでいるからである︒歴史の説明は︑たとえば進
五 ︱ ‑ = ︱ ︱
︵ 一
五 四
一 ︶
第五二巻四・五号
法一元論に立脚するのだが︑ポッパーのような自然科学者ではない︑
歴史観と価値観
一般化を行うもの
五 三
四
︵ 一
五 四
二 ︶
歩とか近代化とか︑また幸福の増進とか︑価値的な観点によって可能になるのではないか︒そこでつぎに︑同じく方
︵一九六一年の連続講演︶は︑当時としてはかなり見通しのき
いたものといえ︑当然︑ポッパーの見解も検討の対象となっている︒この著書は方法一元論を擁護してはいるが︑そ れは前述のポッパーの見解とは異なっている︒大まかに比較するなら︑ポッパーの場合には︑理論的科学︵典型的に は物理学︶の方法が優位にあって︑歴史的科学もそれに近似した方法を取るということになるが︑カーの場合はポッ
( 2 8 )
パーの場合とは違って︑理論的科学の方法が歴史的科学の方向に歩み寄っているのである︒
つまり︑たとえば物理学に顕著なように︑理論的科学に属する自然科学では︑すでに﹁法則﹂の観念が意義を失い つつあって︑むしろ﹁仮説﹂をもって知識の獲得をめざすという状況がみられる︒さらに︑カーは歴史を科学から区 別する五つの論点を挙げ︑すべてを批判してい糾︒たとえば︑歴史学もやはり自然科学と同様に︑
であって︑より正確には︑特殊的なものと一般的なものとの関係を問題にするとされ︑歴史学では認識の主体と客体 とが相互に作用を及ぼすとされるが︑その事情は︑不確定性の原理が支配する物理学でも同様であるとされる︒
この論点のうち本稿の関心から興味があるのは︑歴史が道徳上の問題を含むという点である︒これに対して︑カー
( 3 0 )
は﹁歴史的解釈はつねに道徳的判断︑価値判断が含まれる﹂という見解を示しているのだが︑同時に︑歴史が道徳的 2
歴史哲学の古典である
E.H
・カー﹃歴史とは何か﹄
こ ヽ
〇
t し 関法
一人の歴史学者の見解に検討を加えることにし
法 学
に お
け る
歴 史
観
( 3 1 )
判断の問題に巻き込まれるといっても︑﹁歴史が価値という超歴史的な標準に屈服する﹂ことを意味しているわけで はないとのべる︒この点を検討する前に︑この﹁歴史的解釈﹂についての彼の見解をみておく必要がある︒
当該の著書では︑﹁歴史は現在と過去との対話である﹂との見解が標語的に表明されているが︑そこでは標語以上 の重要な立場が擁護されてもいる︒カーにとって︑歴史的事実とは確かめられた過去の事実の集積でもなく︑逆に︑
歴史家による創造の産物でもなく︑歴史家により選択された事実なのである︒この点で︑カーはポッパーと同意見だ
( 3 2 )
ということになる︒
つまり彼の立場は︑歴史を確証された事実の編纂とみる客観主義と︑歴史家の解釈による事実の征服とみる主観主 義の両者に対立する︒こうした客観主義と主観主義の両極の間に多くの立場がありうるのであって︑歴史的事実の連 鎖に意味を認めはしないが︑現在の問題に対する助言としての有益さを︑歴史的事実に認める立場がある︒カーの立
( 3 3 )
場は︑これよりもさらに主観主義に近い立場であり︑限定された解釈を認める立場である︒
それによれば︑歴史は歴史家の属する現在と事実の属する過去との相互作用であって︑解釈は征服でなく︑相互作 用として行われねばならない︒こうした解釈による歴史的な事実の説明は主観的な創作ではないにしても︑歴史的な 連鎖の意味をある程度まで認めることによって可能となる︒ある程度というのは︑この立場が︑
ヘーゲルやマルクス
のように歴史に目的方向を認めることには反対して︑歴史の内部で目的ないし意味を探るからである︒カーは︑歴史 の客観性とは事実と解釈との間の客観性であるとし︑進歩史観のように︑歴史から独立に一定の価値に絶対的な規準
( 3 4 )
を認める立場を斥ける︒
こうした歴史の説明は目的や意味との関連で︑前述のように価値の問題に巻き込まれているが︑カーによれば︑歴
五 三 五
︵ 一
五 四
三 ︶
するとき︑二種類の方法の相違はきわ立つのである︒ 第五二巻四・五号
史家が対象とする事実がそもそも価値的であるとされる︒価値体系は環境の事実から作り上げられると同時に︑事実
を知ろうとする場合︑価値体系が背景になる︒事実は価値に︑価値は事実に入り込んでいる︒
︵ 一
五 四
四 ︶
以上のような︑カーによる歴史学方法論は︑すでにのぺた解釈法学の方法論︑それもヘルメノイティクの解釈方法
論にきわめて類似している︒その意味でも︑その方法論は現在にも通用するものといえ︑また︑法史学にも当てはま
カーの歴史学方法論は︑方法一元論を擁護しているとはいえ︑歴史的科学に観点の導入を主張するポッパー以上に︑
方法二元論に近いといえる︒というのも︑カーの観点は歴史的な事実の内部で探究される︑価値判断に依拠した価値
の観点であるからである︒方法二元論はたとえばドイツの新カント主義によって唱えられるが︑それは自然科学の没
( 3 6 )
価値的考察方法と社会科学の価値関係的考察方法の対立によって︑特徴づけられる︒
わたし自身も方法二元論を支持するのであるがこの立場からすれば︑ポッパーが﹁事実の趨勢の説明﹂ということ
で︑あるいは︑カーが﹁人間とその環境との研究﹂ということで︑科学一般に共通するものを指摘しているとしても︑
歴史的な事実は価値関係的な事実であり︑歴史的な環境は自然環境とは異なって︑価値的な環境である︒これに注目
とはいえ︑カーの歴史学方法論それ自体は︑解釈学︵ヘルメノイティク︶の方法論に類似していて︑わたしにとって
説得力をもっている︒この方法論は︑実証主義と理念主義の対立図式に関連させた広義の歴史主義と比較するなら︑
む す び
るものといえる︒法史学が対象とする過去の法は︑ 一般の事実以上に︑価値の入り込んだ事実なのである︒
関 法
五三六
察については︑わたしの今後の課題としたい︒ いう哲学の本格的な領域に進むことになるのである︒ 価値観点を重視することから︑さしあたり理念主義に属するといえる︒しかし︑その価値観点は︑歴史超越的な性質
こうした見方から歴史主義を見直してみるなら︑実証主義の社会進化論と理念主義の絶対精神論などは進歩史観と
( 3 7 )
しては同義であって︑この問題点は︑歴史の法則性に固執するという点にある︒これと異なる歴史主義は評価史観と
も呼ぶことができようが︑仮説的な一定の価値観点をもって歴史を評価的に説明する︑歴史的相対主義である︒私見
によれば︑カーの方法論も解釈学の方法論もこの立場に属している︒
ここで︑最終的に問題となるのは︑こうした歴史主義の立場を支持するのかどうかということである︒この問題を
検討するとき︑研究者はすでに哲学の領域へと足を踏み込むことになる︒歴史哲学の問題と取り組んだときに︑論者
はすでに哲学の領域に入ったといえるのだが︑いまや︑歴史主義を検討する問題領域︑つまり︑歴史観の問題領域と
このことは︑世界観を問うことの一環として問われざるをえない問題であり︑法学との関連では法哲学の問題であ
る︒法哲学の研究において︑とりわけ歴史観が問題にされるのは︑法という実在が歴史に規定されるのか否かという
( 3 8 )
問題をめぐって︑つまり︑法の歴史性をめぐってである︒こうした法の歴史性の問題との関係を含めて︑歴史観の考
( l
)
竹下賢﹃実証主義の功罪ードイツ法思想の現代史ー﹂︵ナカニシヤ出版︑一九九五年︶︒
( 2
)
こ れ に つ い て は ︑ 竹 下 賢 ﹁ 法 律 学 的 弁 証 理 論 ﹂ 前 掲 書
( 1
)
﹃実証主義の功罪ードイツ法思想の現代史ー﹄一四頁以下︑
竹 下
賢 ﹁
法 学
に お
け る
レ ト
リ ッ
ク と
ヘ ル
メ ノ
イ テ
ィ ク
﹂ 植
松 秀
雄 編
﹃ 埋
も れ
て い
た 術
・ レ
ト リ
ッ ク
﹂ ︵
木 鐸
社 ︑
一 九
九 八
年 ︶
法 学 に お け る 歴 史 観 をもつのではなく︑その意味では歴史内在的である︒
五三七
︵ 一
五 四
五 ︶
関 法
第五二巻四・五号
五 三 八
二 0 七頁以下︑竹下賢﹁法解釈と実践性ー天野和夫法解釈論を手がかりとしてー﹂︑立命館法学二七五号︑二
0
0 一 年 ︑
七六頁以下︑とりわけ九 0
頁 参 照 ︒
( 3
)
法適用のこうした構造を︑アルトゥール・カウフマンは﹁類推
A n a l o g i e
﹂という概念で説明している︒最新の著作を参
照 す る な ら ︑ v g l . A r t h u r K a u f m a n n , R e c h t s p h i l o s o p h i e , i M . i n c h e n
19 97 ,
S .
54 ff .
( 4 a )
ホセ・ヨンパルト﹃法の歴史性ー現行法の法哲学的試論ー﹂︵成文堂︑一九七七年︶ニ︱一頁以下参照︒
( 4 b )
この点については︑団藤重光﹃法学の基礎﹄︵有斐閣︑一九九六年︶三五一頁以下参照︒
( 5
) 竹 下 前 掲 論 文
︵
2 ︶﹁法解釈と実践性﹂八一頁以下︑九一頁以下参照︒
( 6
) 前 掲 論 文
︵
2 ︶ ﹁ 法 解 釈 と 実 践 性 ﹂ 八 二 頁 以 下 参 照 ︒
( 7
)
この対立図式には︑竹下賢﹁規範意識の再検討ー法哲学と社会病理学の接点ー﹂ホセ・ヨンパルト教授古稀祝賀論集 『人間の尊厳と現代法理論』(成文堂、— 1000 年)四九四頁以下で、法規範に対応する規範意識の分析方法との関連で言
及 し た ︒
( 8
)
竹下賢﹁法文化の概念の整理﹂竹下賢・角田猛之編﹃マルチ・リーガル・カルチャ
l I
法文化へのアプローチー﹄
︵ 晃 洋 書 房 ︑ 改 訂 版 ︑ 二
0 文化時代の市民権」をてがかりにー」、関西大学法学論集四八巻三•四号、一九九八年、一七四頁以下参照。 0 二年︶二六七頁以下参照︑竹下賢﹁多文化主義の規範理論の法哲学的検討ーキムリッカ﹃多
( 9 )
佐藤勉﹃社会学的機能主義の研究
j(恒星社厚生閣︑一九七一年︶七 0 頁参照︒同書によれば︑パーソンズの理論を﹁統
合モデル﹂に分類するのはその理論の単純化といえ︑詳細にはそれを﹁主意主義と機能主義の収倣﹂とみることができる
( 1
0 七
頁 以 下 参 照 ︶
︒
( 1 0 )
たとえば︑佐藤前掲書
( 9
) では︑社会の変動理論を提供しうる﹁因果性の原理﹂という概念が導入されている︵二 0
一 頁
以 下 参 照
︶ ︒
( 1 1 )
富永健一﹃現代の社会科学者﹂︵中央公論社︑一九八四年︶七一頁以下参照︒
( 1 2 )
C f . T a l c o t t
P a r s o n s ,
h T e S t r u c t u r e
o f S o c i a l A c t i o n ,
e w N
York•
1937•
2 n d e d . F r e e P r e s s
1
95 7,
細叩卜士毅・直 H
果 洋
" 舗 ヰ 訳
﹃ 社
i
会的行為の構造 5 ﹄︵木鐸社︑一九八九年︶九一頁以下参照︒ちなみに︑パーソンズは自らの学説をここでは﹁主意主義的
行為理論﹂と特徴づけていて︑それを本文の一二類型の行為理論を統合するものと位置づけている︵富永健一前掲書
( 1 1 )
一 三
︵ 一
五 四
六 ︶
八頁注 1 参照︶︒この点は︑佐藤前掲書
( 9
) と把握のしかたが異なるが︑本稿ではこれに立入らない︒
( 1 3 )
富永前掲書
( 1 1 )
一 三 八 頁 注 1 0
( 1 4 )
前掲書
( 1 1 )
一 六 八 頁 以 下 参 照
︒
( 1 5 )
これについて詳細には︑竹下賢﹃法その存在と効力﹄︵ミネルヴァ書房︑一九八五年︶︱‑七頁以下︑
照 ︒
( 1 6 )
V g l .
M a x S
c h e l e r , D e r F o r m a l i s m u s i n d e r E t h i k u n d d i e m a t e r i a l e W e r t e t h i k ,
3 . u n v e r i i n d e r t e A u f l a g e ,
a H l l e 1 9 2 7 , 6 . A u f l . , B e r n u•
M i i n c h e n 1 9 8 0 , S 3 9 f , f ・
二
s .
6 5 f f . ,
飯島宗享・小倉志祥•吉沢伝三郎訳『倫理学における形式主義と実質的価値
倫理学︵上︶﹂シェーラー著作集 1 ︵白水社︑一九七六年︶六二頁以下 10
六 頁 以 下 参 照
︒
( 1 7 )
V g l . Max W e b e r , i W r t s c h a f t u n d G e s e l l s c h a f t , 5 . A u f l a g e ,
1 9 7 2 , S . 1 8 1 ,
世良晃志郎訳﹃法社会学﹄︵創文社︑一九七四年︶
三頁参照︒なお︑これに似通った定義については︑
v g l .
Max
W e b e r , i W r t s c h a f t u n d G e s e l l s c h a f t , . 4 A u f l a g e , T i i b i n g e n 1 9 5 6
s . , 1 6 , O C l l , ' f
吉 甲
R
. 内
i 藤
莞 査
EB5
﹃ 社 丈
H 辛
子 の 基 礎 概 念
﹄ ︵ 角 川 書 店
︑ 改 訂 版
︑ 一 九 七 四 年
︶ 五 一 三 貝 参 照 ︒
( 1 8 )
富永前掲書
( 1 1 )
四 一 三 頁 参 照
︒
( 1 9 )
富永前掲書
( 1 1 )
はこれとは異なり︑この近代化の歴史主義に︑産業主義的社会進化論の後継者という側面をみている︵一
七 0
頁 参 照 ︶
︒
( 2 0 )
さしあたり︑前掲
( 1 5 )
﹃法その存在と効力﹄ニ︱七頁以下参照︒
( 2 1 )
富永前掲書
( 1 1 )
によれば︑功利主義は﹁実証主義的行為理論の一九世紀イギリス的形態﹂︵七二頁︶である︒
( 2 2 )
以上については︑前掲
( 8 )
﹃マルチ・リーガル・カルチャー﹄二六二頁以下参照︒
( 2 3 )
K a r l R .
P o p p e r , T h e P o v e r t y
f o H i s t o r i c i s m L , o n d o n 1 9 5 7 , n 2 d e d . 1 9 6 0 S . , 3 9
£ £ . , ' ‑ ' ハ
野 #
収 ・
士 m
# ︱ ︱ 一 部 呼
B i
﹃ 麻
呼 史
︑ 王
羞 会
の 盆
E
困
1﹄
︵ 中 央 公 論 社 ︑ 一 九 六 一 年 ︶ 一 七 頁 以 下 ︒
( 2 4 )
以 上 に つ い て は ︑ c f . i b i d . p . 6 4 f f . ,
訳 一 ー ニ 頁 以 下 参 照 ︒
( 2 5 )
以 上 に つ い て は ︑ c f . i b i d . p . 7 1 £ £ . , 訳 一 六 三 頁 以 下 参 照 ︒
( 2 6 )
以 上 に つ い て は ︑ c f . i b i d . p . 1 2 6 £
£ . , P . 1 4 3
£ £ . ,
訳一九 0 頁以下︑ニ︱六頁以下参照︒
( 2 7 ) 以 上 に つ い て は ︑ c f . i b i d . p . 1 4 7 £
£ . , 訳 ニ ニ ニ 頁 以 下 ︒
法学における歴史観
五 三 九
ニ ニ 四 頁 以 下 参
︵ 一
五 四
七 ︶
関法 第五二巻四・五号 (28)E•
H . C
a r r ,
W h a t i s ' H ^
i s t o r y
●
"
,
L o n d o
n
196 1,
p .
56££ .,
造
E水幾太郎訳﹃歴史とは何か﹄︵岩波書店︑一九六二年︶とりわけ
訳 七 九 頁 以 下 参 照 ︒
( 2 9 )
その五つの論点とは︑一︑歴史は特殊的なものを扱い︑科学は一般的なものを扱う︑二︑歴史は教訓を与えない︑三︑歴
史は予見することができない︑四︑歴史はどうしても主観的になる︑五︑歴史は宗教上あるいは道徳上の問題を含む︑とい
うものである
( c f .
i b i d . p . 6 2 ,
訳 八 八 頁 以 下 参 照
︶ ︒ ( 3 0 )
C f . i b i d . p . 7 9 ,
訳 ︱
‑ 四 頁 ︒
( 3 1 )
C f . i b i d . p .
8 1 £ . , 訳 ︱
‑ 八 頁 ︒
( 3 2 )
C f . i b i d . p . 2 9 £ . ,
訳 三 八 頁 以 下 参 照 ︒
( 3 3 )
な お
︑
c f . i b i d . p . 1 0 3 £
. , 訳一五一頁以下をも参照︒
( 3 4 )
と り わ け
︑ c f .
i b i d . p . 1 1 9 f f . ,
訳 一 七 七 頁 以 下 参 照 ︒
( 3 5 )
C f . i b i d . p .
13 0££. ,