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朱熹の歴史観

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(1)

朱熹の歴史観

「王覇義利」をめぐっ

(一)―

金剛(

中 嶋

訳)

趙金剛 は

、一 九八五 年 生まれ。二〇〇

五 年に北京大学哲学系に入学後、二〇一四年に同大学に

て 博 士 の学位 を 取得。現在

、清華大学哲学系副

教 授。二〇一八年

四 月に『朱熹的歴史

観――天理視域 下的歴 史 世界

』( 三聯 書店)

を 刊行。儒

学 思想、宋

明理学分野における新進気鋭の研究者

で ある。

なお本 稿 は、該書の第

三篇

「王覇 義 利」の 巻 頭言

( 原 書・二二

八~二三一頁

)、 お よ びそれに続 く第十章「心事、経権」の前

半 部分(二三三~二五五頁)の翻訳となる。

第三 篇 王覇義利

淳熙一一年(一一八四)よ

り起 こ る

、 朱子と陳

亮 の往復 書 簡で は、

「王 覇義 利」

の問題に

つい て 議 論 が

論叢 アジアの文化

号28

(2)

なされた

。 従 来の朱子の歴

史観に か んする 研 究 で は

、 こ の 朱陳 論争

〔 で なさ れた「王

覇 義 利」の 問 題

〕 に

( 1)

対して、最も多

く の 関 心 が 向け られ、たびたび分析

が なさ れ て き た

。 例 えば馮 友 蘭

、 銭穆

、陳 栄捷

、侯外 盧、鄧広

、 労 思光、束

景南、

朱 漢民、

テ ィ ル マン

(田浩

)、趙峰氏ら

に は、

みなこ の 論 争 にかんする専 論が あ る

( 2)

けれども朱陳

の往復書

簡は、たん

な る〔朱陳の歴史

観 の〕

「顕 在化

」 で あっ て

、 こ れ らの書簡

の 背 後に は、朱陳両者

の哲学を

支 え る、極め

て複 雑な思想が潜

在し ている。とりわけ朱

子 に つい て いえば

、 その思 想構造 はいっ そう複 雑 で

、 朱 陳 論 争 における一

五通 の 書簡は

、 いわ ゆる「氷山の一角」にすぎず、朱子の 歴史観をあま

ねく顕在して

いるとは、到底

い えないの

である。

した がっ て 書 簡の 背後にある諸

問題 を、丁 寧に読 み 解くこ と で

、「 顕 在 化

」は さら に進 んで

、〔 朱陳 の歴史観を

支 え る潜在 化し た思想も

〕明らか

に なる であ ろう。

ところで

もしも朱

陳 論 争に 注 目 し て

、 朱 子の思 想 を分析 す れば、

〔 外 的な 事 象に 対し て、

よ り 関心 を向 けた陳亮

と の 対比か ら

〕その「

尊徳 性」の 側面のみ

が 際立 ち、また

朱 陸 論争に 注 目 し て、

朱子の思

想 を 分 析 す れば

、〔 心 の 内 面 に対して

、より関心

を 向け た 陸 九淵と の 対 比 から

〕 そ の「道問

学」の側

面のみ が 浮 き彫りになる

。けれども朱子は

、実際には「

広大を致して、精

微 を 尽 く す

」〔

『 中庸

』二 七章〕

で あ っ た

〔 す なわち

「 尊徳性

」、

「 道問学」いずれ

の 側面も 有 して いた〕

の で あ るから、いかな

る 論 争 にお いて も、

このような朱子の

思想の 全 体か らアプ ロ ーチ し て いかな け ればな ら ないの で ある。

(3)

論叢 アジアの文化

号28

か つ て 何 俊氏 は、

葉適思想に

つ いて 検 討 し た 際に、

「 激しい論

争の 只中にあって

は、思想はある

一 定 の 方向性 を帯 び て〔

自 ら

〕顕 れる

、ある い は

〔 相手に よ っ て

〕顕さ れ る

」 と述べた

が、

この 指 摘 は

、 朱陳 論

( 3)

争 に も同 様 に 適用 し え よ う

。すな わ ち こ の

〔 朱陳 論争 にお ける

〕数通の

書 簡 のみに 視 線が 集中 する と、朱 子に対して、あ

る 一定 の認 識 が 生じ てしまい、朱子の

歴史観にかんする多

様な理解

を 見落と し てしまうと い うこ と で あ る

。 陳 亮 が 提 示し た様々な

観 点 につ いて

、朱子 の 一 五 通 の 書簡で は

、 詳 細 に 論 じ ら れ るこ と は な く、多くは「意気の争

」〔 感 情 に任せた攻撃〕として表

出し た。

けれども

こ れ に関 連す る〔朱陳論争 で は 語ら れな かった〕

議論 は、朱子

の思想 体 系の中 で は、

自 ず とな されて

〔 詳細に論じら

れて

〕いるの

で ある。

そ の 一方 で

、 朱 子 のい う

「 王 覇 義 利

」 の 背後から

は、極 め て 複 雑 な 思想が看取でき

る。理 気の強弱

や 理 勢の問題な

ど は、

いずれも朱子の哲学

を 背後か ら 支 え ていると見な

しうるが、

こ れらの 問 題 を 考慮する

こ とな しに、朱子の〔

「 王覇 義 利

」の〕思想

を 理解 する ことは で き な い。それ

と同 時に、

我 々が意 識 し て お かな ければ な らな いの は、朱 子 は陳亮と直接に論

争 し たが、実際には

、 そ こで の 朱子の陳亮に対す

る態 度 は

、 朱子 の 浙 学

( 永嘉学派と永康

学 派)に 代 表さ れる

「 功 利の 学」

全体 に 対 する 態度 を体 現 し ている と い う こ とで ある。

朱 子は葉適や

陳 傅良 ら〔永嘉学派の思想

〕とは、直接に

論 争 し て いないが、

朱子の「王 覇 義 利」の思想

を 見るにあたって

、彼 の功 利学派の

学説に対す

る 姿勢 を考慮す

る必要がある。

( 4)

ただ 実のところ

、 大まか な方向性、とりわけ政治

や 現実問題への態度という点についていえば、朱子と

(4)

陳亮 に根本的な相

違はな い よう で あ る。彼ら

はいずれも

「 中原恢復」

を 主張し、現実の

諸 問題に対して

変 革 を 求め て い た の である

。 けれ ど も 彼 ら の 着 眼 点 や

、 彼 らの 思 想 を支 える 哲 学 的基盤 と な る と

、 双 方 に は

「あ れか

、こ れか

」と い う 決定 的 な 差 異 が

「 顕在 化

」 す る ので ある

。 実 際 に は

「 顕在 化し た 領 域

」、すな わち〔政

治や現 実 にかんす

る〕具体的な問

題 につい て は、両者

に根本的な乖

離はないが

、「本体

の 領域

」、 す な わち 思想 の 根 源 に おいて は

、 決 定的 な 齟 齬が あ る

。陳亮の第七

書簡

、 お よび朱子

の第十 書 簡 以 後、彼 ら の

「 義 利王覇」の論争は、突如とし

て 終息 した。しかし書

簡 の や り取りはな

く なった も のの

、 彼 ら の 交 友は決して

途 絶え るこ とは なかった。ここには、彼らがこ

れ ら

〔本体の領域、思想の根源〕

の 相違によっ て

、 現実 や政治 問 題に かん する 合 意 を失 う こ と を 望 ま な か っ た という背景

が あ っ たの では ない であ ろう か。

なお 朱子と葉適、陳傅良と

の関係も

、〔 朱子と陳亮

のそれと

〕 類似性が看取で

き る。

以下、朱陳の

往復書 簡 を端緒 と し て

、 い くつかの

具体 的 な 問題に 切 り込 ん で いく。そ

れ と とも に

、 朱子 の書 簡 に 垣 間 見え る、彼 の 思 想 の背景を

解 き 明かすこ

とで

、朱子 の 認識を 明 確化して

い き たい。

そ の一方 で

、 陳亮の思想の背景につい

て は、あまり深

入り しないこ

ととす る

。 さ て 朱 陳 論 争 に お いて は、

以下 のいくつか

の 問 題 につ いて 注視し な け れ ば な らない

。 一.

朱陳 論争の争

点は

、そ もそ も何 であっ た の か

。 ま た 具 体 的 な 問 題 は ど こ に あ ったの か

。 二.朱陳論争の争点とそ

れに関連する問題

をめぐっ

、 朱子は 何 を 主 張し、陳亮は

何を 主張し た のか。

三.朱子

はいかに

し て 陳亮 の哲学に

対峙 したの か

。また陳亮は朱

子 に同 意したの

か。

(5)

論叢 アジアの文化

号28

四.朱子の思想に

、陳亮ないし功

利 学派の学説についての具体的な批判は

あったのか。

五.朱子の立場に立った

と き

、〔陳亮の

〕 思 想

〔 や 功 利 学 派の 学説

〕の危険

性は ど こに あ ったの か

。 またどうして

〔朱子は

こ れ ら の 思想や学説に〕賛

同しえな

かったのか。

六.

朱子の思想におい

、 陳亮の哲学

を 受 け 入れる余地はあ

っ たのか。

七.朱 子 の思想において、義

利 の問 題は、どのように位置づけ

ら れ て い たのか。

朱陳論争の核心は、実のと

ころ、歴

史上の「

内聖

」 と

「外王」に

か かわる 問 題 で ある。

例 えば朱漢民

氏 は

、「 朱 子 と 陳 亮 の「

道徳」

「 事 功」

、 す な わ ち「

内聖」

「 外 王

」 に 対 す る 態 度 に は

、 深 刻 な 齟 齬 が あり

、 そ れ ゆ え に

、「 王覇義 利

」と い っ た一 連 の 学術問 題 にか か わ る論戦 が 引き 起こ され た

」 と い って いる。朱漢民

氏は、これ〔

「 内 聖」

と「外王」

の 問題〕

を 核 心 としつつ

、朱陳論争における

三つ の 問題 に

( 5)

言及し た

。すなわち

「 王 道

」と「覇

」、

「 做儒」と「

成 人」

、「 道」

「 人」

である。た

だ実 際 には、朱 子を 理 解 す る にあ たって は

、 こ れ以 外にも い っ そ う 多 く の 問 題、

例 え ば 三 代 と漢 唐 の 歴史区 分

、義 と 利 の 関係、立心と処

( こ れは ま た 知と行の

関係

、明体 と 達用の 関 係

、 本 領 と事功の

関係 とい った テー マに も かかわるも

の で あ る

)、経と史の

関 係、理と欲の関

係 な ど を

、こ の論争の射程に入れて論じなけれ

ば な ら ない

。 朱 漢 民 氏 は

〔 上 述し た〕

三 つ の問 題を 列挙 し

、 こ れ ら に つ い て 考 察し たが

、〔 さら に多 く の 問 題 が ある以上、

〕いま 一歩、検討する余

地があ ろ う。

もちろ ん〔

上述し た〕筆者の議

論に も、欠陥があるかもしれないが

、すで に こ れ ま で

= 原書第一、二

(6)

篇 で

〕詳細 に 論じてき

た基礎的な問題に

つい て は

、 こ こ〔=原書第

三篇〕

で は適宜説明

す るにとどめる。

例 え ば、朱子の

い う道 と物の関

係に つい ては、す

でに〔原書

第 一篇の

〕 理と気に

かんする

箇所にお

い て 取 り上げ た

。 ま た 歴 史区 分や経 と 史、

正統など

の問 題に ついて は

、後文〔=原書第

四、

五篇〕で

論 及 す る

。 本 篇 は、

〔 朱 子の 思 想 を〕

「 厘 清

」 す る

〔整 理 し は っ きり さ せ る

〕 と と も に

、 ま た

「 去 敝

」 す る

〔 誤 解 を 取り 除 く

〕こ と に 重き を 置 く

。〔

「 去敝

」 と は

、〕 朱 子 の 義 利 に 対 す る 観点〔

の 見直し

〕 や、

覇道

〔を 全 面 的に 否 定 したとさ

れる が、実 際 に は そ れ

〕に 対 す る 寛 容さ

〔 も 窺 え る

〕 な ど

、 朱 陳 論 争に よ っ て も た ら さ れた朱子へ

の 誤解〔

を 取り除く〕こ

と で あ る

。本篇で

は、

こ れ ら に ついて 重 点的 に論じて

いき た い

第十章

心事

、経権 一、枉尺

直尋――朱

子 の功 利の学

に 対する

概 括と評価

陳亮と の 論 争 の 前 後、朱子

は功利 の 学 に 対して

、 多く の評価を下して

お り、ま た

〔永康 の

〕陳亮

、〔永 嘉の〕葉

適や 陳 傅 良 ら に対 して は、いっそう多く

の論 評を残して

い る。総じ

て 朱 子は、永嘉と永康

の学を いずれも

功 利 の学と 概 括し

、彼ら は 功 利 を 重 んず るあまりに、基

盤 を 失 って いると 考 え た

。例えば『朱子

(7)

論叢 アジアの文化

号28

語類』に

は、次のようにある。

朱子「いま浙

江の 人々は

、 利 害 をは かる ことが甚だ

し く、

か え っ て 邪曲 な も の と なっ ている

。 その 弊 害は

、 功 利が 得ら れる ので あ れ ば

、 何でも や ると いっ たも の で あ る

。」

(『 朱子語類

』巻一 二 二、

四四 条/

中華書局評点本、

Ⅷ・二九八五頁)

朱 子 は

、 浙学 が 功 利 を 重 視 し 過 ぎる ば か り

、 そ の 功利 の た めに、

〔 あ る

〕 行 為〔

を な すべ きか 否 か と い う 基準〕を

失って い るという

。『 朱子語類』

に はま た、

朱子

「近ご ろ の浙 江 に おけ る 一 連 の 議論 は、す べ て 空 し く な さ れ た もので

、 全 く とら えどころ

が ない よう だ。ま る で 家 に基 礎がな い のに、かえ

っ て 高 楼 を 建て ようと、一

、ま た一 層と積 み 上げて い く よう なも の で ある。

たんに目

新 しく、耳心地が

よ いだけ で

、 実 の と ころ

、全く役

に立たない

。」さ ら に 朱 子

「 空しく な され た議論 の 多くは

、 ま る で 捏 目生花

〔 か た く目を つ む っ て

、 そ こ に花の幻影

を 見 出すこ と

。すなわち幻想す

る こ と に よ っ て

、 自らを 欺 くこと〕

のよう で あ る

。」

(『 朱子語類』巻一二 二、四六条/Ⅷ・二

九 八五頁)

と述べて

い る

。 朱子が

〔 浙 江 の人 々 に 対 し て

〕 こ の 種 の 評価 を 下 すこ と は 多いが、ここで

学 術的な見地

に 立って

、 朱子 の浙 学 に 対す る 別 の批 評 に も 目 を 向 け て み た い

。 それ はいっ そ う論 理的

、かつ深

遠で

、 我 々が朱子を

理 解 す る う え で、大 き な 手 がかり と なる も の であ る

。〔 そ れ は 具 体 的に は、

〕『 朱 文 公文 集

』、

『 朱 子 語 類

』 の 中

(8)

で、

朱子がたび

た び「

枉 尺 直尋(

た と え 一尺 を枉げ て でも、八

尺 を 真 っ 直 ぐ に で きればよ

い)

」の 語 を 用 いて

、功 利の学 を 概括し〔て

い ることで

あ る

。 そ して朱子

は〕

、ま た こ の語をも

っ て

、 浙 学 を 功 利の学の 代 表 で あ る と 位置づけて

い る。

まずは『朱子語類』の以下

の 発 言を 見 て みたい。

浙 中 の 人 々 は

、 お おむ ね 揉 めごとを

起こ さず、安定を

図 る こ と を 肝 要と 考え る。朱子

「 こ れこ そ「枉 尺直尋

」 で あ る。かくのごと

き 風潮のまま十年

も 経 て ば、国 家 の 事 業 を なすも の はい なくなり、常人 は 文 飾に 励 む ば か り で

、 小 人は 奸 邪 とな っ て し ま う が

、 か く の ご と き風 潮 は

、多 大 な る 弊 害 で あ ろ う

。」

(『 朱 子語類

』巻一〇八・四五条

Ⅶ・二六八六頁

) ここでは

、「 枉尺直尋」

と 功利の学に、ど

の ような関

係 が あ る のかは分

から ないが、ともかく「

枉 尺 直 尋」は、浙学

の や り口に対する朱子の概括

で あるよう

である。け

れ ども『朱文公文

』には、浙学の学

問 的特徴 を

「 枉 尺直尋」と

表 現した 箇 所がある。

『 朱文公文集

』 巻 三 八所収の「答

耿直之」

には、次の

よ う にあ 頃歳 る。

浙 に 入り、士大夫に従

ひて游ぶ

。数月 の 間、

凡そ 聞 く 所の 者

、 枉尺 直尋

、苟 容偸 合 の 論 に 非 ざ

このごろ

る無く、心

窃 かに 之に

く。

(『 朱 文 公 文 集

』 巻 三 八

、「 答 耿 直 之

『 朱 子 全 書

』、 上 海 古 籍 出 版

ひそおどろ

社・

安徽教育出版社、

Ⅱ・一六九四~九五

) ここで朱子は、

自 身 が 浙江にお

い て 見 聞 した こと を叙述 し

、浙中の

士人 らの 講ずる 内 容は、す

べ て

「 枉 尺 直尋

」 の 論 だ と 考 えた

。「 枉尺直 尋

」は明ら

か に

、浙 中の人々

の や り 口 のみなら

ず、彼ら

の思想と直接か

(9)

論叢 アジアの文化

号28

かわりの

あるも の だったと

いえ る。

朱子は こ のよ うな〔

「 枉尺直尋」の

〕思想 に

、いささ

か不満 を 抱い て い た よ う で ある

。『 朱 文 公文 集』

には

、功 利 の 学 を

「枉 尺直 尋

」 と概括し

た箇所

、 あ る い は それを も って反 駁 し た 箇所 が い くつ か 見 え る

。 例 え ば巻四七所

収 の「答呂子約」第

二五、二六書の二つの書簡

に は

、 いずれ も こ の

(「 枉尺直尋」に

かん する

) 記 述 が 見える

。 そ し て第二五

書 で は

、 朱陳 論争に 言 及 し

、また 第 二六 書 で は

、直接に「

枉尺 直尋」

の語を 用いて

、 功 利 の学を 批 判して い る

( なお朱子は呂祖

〔やその弟の呂祖

倹、字は子約〕ら

、 功 利 の 学 とかかわりのある人物と

見 なしている)

。朱子は

いう。

来書に 亦 た

、「智 力の二字に

於 い て

、 畢 竟看破 せ ず、放 下 せざるは、殊に

此 れ正是 に 智力中 の 仁 義

まさ

賓中 の主、鉄中の金ある

を 知らず

」、と

。若し 苦 しみ て這 裏に向ひて道理を

覓 む れば、

便 ち「五覇は

ここもと

之 を 仮る

」〔

『 孟 子』尽 心 上〕以下

の 規 模の 裏 に 落在し、身を

出し得ず。孟子、董子の抜本

塞 源、斬

うち

釘截鉄〔き

っ ぱりとし

ている〕たる

所以は、便

是 ち 正 に後人

、 此 の 似 く 拖泥帯水〔だ

ら だ らし てい

すなはごと

る さ ま〕た る を怕るればなり

。熹嘗 て此の間の

朋 友に語る

に、

「 孟 子 一 生、窮 を 忍び飢 を 受け、心

力 を 費 尽し

、「 枉 尺 直 尋

」 の 四字を 破 り得 たり

。今 日の諸賢

は、

心を 苦しめ力を

労 し

、 言 語 を 費 尽し

、 只だ

「枉尺直

尋」

の四字を

成就 す る の み

」、 と

。(

『 朱文公文集』巻四七

、「答呂子約

」 二五/Ⅲ

・二 一九九 頁

「枉尺直尋」は、

素 よ り 未 だ嘗 て 此 を 以 て 疑 ひを 奉ぜざるなり

。但だ

頃来

、議論 一 変し、山移河決

もとこの

(10)

す る が如く、学ぶ者をし

て 震 蕩回 撓せ しめ

、愚智 を 問はず

、 人 々 皆 な 趨 時 徇 勢

、馳鶩功名の

心有 る を 見るに、人

を して 憂懼せしむ。故に之

を 極言せざる

を 得ず。

(『朱文公文集

』巻 四七

、「 答 呂 子約」二 六/Ⅲ

・ 二二〇 二 頁)

朱 子 に 言 わせれば、

功 利 の 学とは

、 まさ に 孟 子の い わ ゆ る

「 枉 尺 直 尋」

で あ った

。先 賢〔

孟 子

〕は

、心力 を尽くし

て、

こ の 思想 を排除 し た わ け だ が、思 い がけずも

、〔 朱 子 の 生 き た

〕 当 時には、

多くの学

ぶ者た ち が

、 こ の〔

「 枉 尺 直 尋」の

〕立場 を堅 持していたため

、朱子 は 危機感 を 募らせた

の で ある

。それ で は 結局のところ

、「 枉 尺 直尋」と

はいかな

るもの で

、功 利の学といかな

る 関係が あ ると され たの で あ ろ う か

。 以下、

朱 子 の 注釈に目を

向 けて

、その「枉尺直尋」に対す

る分析と評価を

考 察するととも

に、

さ ら に 踏 み 込ん で

、 朱子 の功 利の学に対す

る態 度について

も 検討して

みた い。

「枉尺直

尋」の出

典は、

『 孟子』

滕 文公下 で あり、そ

れは 孟子自身

の出処 進 退 と 密接な 関 係 が ある。し かもこ の

『孟子』

当該 章 の

( 王 良と嬖奚に

か んする)内容は、朱陳

の往復書

簡に も見 え て いる。した

が っ て当該 章 の経文 と

、それに

つい ての 朱 子 の 注 釈 を 考 察 する ことは

、 朱 子 の

〔 陳亮

、さ らに は 功 利の 学に 対 する〕立場

を理解 す るための

一 助 となる で あ ろ う

。『 孟 子』経文

と朱子の注釈は、

以下の通り

で ある。

陳代曰 は く

、「諸侯を

見ざるは、

宜 んど小 な るが若し。今一たび

之 を 見 れば

、大は則ち以

て 王 たり

ほと

小は則ち以

て 霸た り。

且つ『志

』に 曰は く、

「尺 を枉 げ て 尋 を 直くす」

。 宜んど 為 すべ きが 若 き な り」

と。

(11)

論叢 アジアの文化

号28

……

「 小

」は、小節を謂ふなり

。「 枉

」 は、屈なり。

「直」

、伸 なり。

八 尺 を

「尋」

と 曰ふ

「尺を枉げて尋を直くす」は、猶ほ己を屈して、一たび諸侯を見て、以て王霸を致すべければ、

屈す る所 は小 にして、

伸ぶ る所 は大 な る が ご とき なり

。 孟子曰 は く

、「昔斉

の 景公 田 す るに、虞人を

招くに旌を

以 てす るも至ら

ず。

将に之 を 殺さんとす。志

かり

士は溝壑に

在 る を 忘れず

、 勇 士 は其の

を 喪 ふを 忘れ ず。

孔子 奚 を か 取 と す

。 其 の招く べ き に 非

かうなによし

ざれば往

かざる を 取とする

なり。如

し其の招

きを 待たずし

て 往 け ば

、何ぞや。

… 大夫 を招 くに 旌 を 以 て し

、 虞人 を招 くに 皮 冠 を 以 てす。

「 元

」 は

、 首 な り

。 志 士 は 固 よ り 窮 す る に、常に念ふ

に「死して

棺 槨 無 く、溝壑

に棄 てら るるも恨まず」

。 勇 士 は 生を 軽んず る に、

常 に 念ふ に「

戦 闘 して 死し、

其 の首 を喪ふも顧みず」

と。此の二句は、乃

ち 孔子の虞人

を 歎美す るの 言なり

。 夫れ 虞人は

、 之 を 招 く に 其 の 物 を以 てせ ざ れ ば

、 尚 ほ 死 を 守 り て往 か ず

。況 ん や 君 子

、 豈に 其 の 招きを 待 たず して

、 自 ら 往 きて 之 を 見るべけんや。此より以

、 之 に告ぐ る に、往 きて 見るべからざる

の 意を以 て す。

且 つ 夫 れ

「 尺 を 枉 げ て 尋を 直 く す

」 と は

、利を 以 て 言 ふ な り

。 如し 利を 以て す れ ば

、 則ち 尋を 枉 げ 尺 を直 く す る も

、利 あれ ば 亦 た 為 すべ きか。

……此 よ り 以 下、

其の称 す る所 の「尺 を 枉げて尋

を直くす」の非

を 正す。夫れ所謂る

枉ぐる こ と 小 に して、伸ぶ

る 所 の 者大 なれば、則ち

之 を 為す者、其の利

を 計 る のみ。一たび計利

の心有れば、

(12)

則 ち 枉 ぐ るこ と 多 く

、 伸ぶ るこ と 少 なし と 雖 も

、 而 れ ど も 利 有 れ ば

、 亦 た 将 に 之 を 為 す か

。 甚 だ 其の不可

なる を言ふ な り。

昔者、趙簡子、王

良 を し て 嬖 奚 と乗 らし む る も、

終日に し て一禽 も 獲 ず

。嬖奚 反 命 し て曰はく

、「 天

むか

下の賎工なり」

。或 ひ と 以 て 王 良 に 告 ぐ。

良曰は く

、「 請 ふ

、之 を 復 た び せん」

。 彊 ひて後に

ふたゆる

され、一朝

に し て 十 禽 を 獲 た り

。嬖奚反命して曰はく

、「 天下の良工なり

」 と。簡子曰は

、「 我

と乗 る こ と を 掌 ら し め ん」

。 王 良 に 謂 ふ も

、 良 可 か ず し て 曰 は く

、「 吾

、 之 が 為に 我 が 馳 駆 を

なん

範すれ ば

、終日 に して 一も 獲ず

。之が為

に 詭 遇すれ ば

、一朝に

し て 十 を獲たり」

。『 詩

』 に云 ふ

「其 の馳を 失 はざれば

、矢を 舍 ちて 破 る

」と。我

、小 人と乗る

こ と を 貫 はず。請ふ

、「辞せん」

はなあたなら

……「趙簡子」は、晋

の大夫、趙鞅

なり

。「 王 良

」 は

、御 を善く す る者 なり。

「 嬖奚」は

、簡子 の幸臣。

「之と乗

る」は、之が為

に 御 す るなり

。「之 を 復 たびす」

は、再び乗

る なり。

「 彊 ひ て後 に可す」は、嬖奚

肯ぜざるも、之

を 彊 ひ て 後 に肯ずるな

。「 一朝」

、晨より食時

に 至 るなり。

「掌」は、専主

す る な り。

「範」

、法 度 な り。

「詭遇

」 は、

正 し か ら ず し て禽と 遇 ふな り。

言 ふここ ろ は、

奚は射 を 善く せず、法を

以 て馳 駆すれば則ち

獲らざ る も、法を

廃し て 詭 遇して 後 に 中る なり

。『 詩

』 は、小 雅 車攻 の 篇

。言ふこころ

は、御者は、其

の 馳 駆 の法を 失 は ず

、射 る者は

、 矢を 発す るに皆 中 りて 力あり。今嬖

奚能はざるなり

。「貫」は、

習 なり。

あた

御者すら且つ射者の与に

るを 羞ず

。比り て 禽獣 を得る こ と、丘陵の若しと

雖も、為

さ ざ るなり

おも

(13)

論叢 アジアの文化

号28

道を枉げて彼に従

ふ が 如 き は、何ぞや

。 且つ子過

てり。己

を枉ぐる者に

し て

、未だ能く人

を直く す る 者有 らざる な り。

或 ひ と曰 はく

、「 今の 世 に 居り て、出処

去就、必ずしも

一 一節に 中 らず、

其 の 一 一節 に中る を 欲 すれば、則ち道行ふを得ず

」 と

。楊氏 曰 はく、

「 何ぞ 其れ自 ら 重 ん ぜざる や

。己 を枉 げて其れ

能 く人 を 直 くせんや。古の人

、寧 ろ道の 行 はれざ る も、其の

去就 を軽んぜざれ。是

を以 て 孔 孟、春 秋戦 国 の 時 に 在 り と雖も

、 而 れ ども進む

に必ず正

しきを 以 て し

、以 て 終 に行ふを

得ずし て

、死す るに至る

なり。使し其の去就

を 恤へずして

、 以 て 道を 行ふべければ

、孔孟当に先づ之

を 為すべし。

孔孟

、豈 に道 の行ふ る を 欲 せざら ん

」と

。(

『 孟 子 集 注』

滕 文 公 下

/『

四書章 句 集注

』、 中華書 局 評点本、二六

四~二六五頁)

この 章 で は、

孟 子 が諸 侯に 会 わ な か っ た ことに 焦 点 が あて ら れ て い る。

陳代 は、孟 子 が 諸 侯 に 会わ なか っ たこ と は

、小 節 の 問 題 で あ ると 見 な す

。 な お

『 孟 子

』 経文 に拠れ ば

、「 枉尺直 尋

」は

、〔 孟子以 前 の〕

古 くに由来が

あ るよう で

、陳 代 は 古の

『志』なる

も の か ら、

こ の ことば を 引用 する。そ

し て 孟子は諸侯に会 い に 行 く こ と が でき る し

、それ が 王 覇 の 功 の実 現 で ある というの

であ る。

けれども孟子は、二

つ の 事 例に 基づい て

、「 諸侯 を 見 ず」

と「

枉尺直 尋

」に つい て 説 明する。陳代

「枉 尺直 尋

」 に は

、実 のとこ ろ

、大 小 の 問 題 が内 包 さ れて いるという

。「尺」は小で

あ り

、「 尋」は 大 で ある。そし

て 孟子が 諸 侯に会わない

こと は 小 節 で

、それに

対し て、王 覇 の 事 業 は 大節 である。

し か し孟子

(14)

に 言 わせれば、

「 諸侯 を見ず」とは

、招 きを俟つこと

なく、自分から会いにい

く わけには

いかない

とい う こ と で あ る

。 旌人、志士、

勇 士 には〔特定

の ものによって

招かれる

という〕守るとこ

ろ が あったのだから、

君 子 にも守 る ところが

ないわ け に は いかない。

こ の 孟 子の 論法の 中 に も

、大小の

判断 がか くさ れ て いる

。 多くの人々に

とっ ては、生

死が大 で ある。

し かし旌人

、志 士、勇 士 に と っ て は、守る

と こ ろが大 で あり、

生死は小である。そ

し て 同 様に、君子にとっ

て 気 節 を 守る ことが、小節の

問 題 で あるとはならないの

で あ る。孟子

は こ こで

、 諸 侯に会わないこと

と、王覇の事

業 の それぞ れ につ いて

、い ずれが 大 で

、 いずれが小 であるかとは明

言 していないため、それが陳

代 に 対 する有力

な反論た

り え た と はいい難い。た

だ 続 け て、

孟子 は直 接に

、「 枉 尺 直 尋

」 自 体 の ロ ジ ック に立ち返

り、こ の

〔 大 小 の

〕 問 題 に 対 す る回 答を うち だして いる。孟

子 に いわ せ れ ば

、「枉 尺直 尋

」 と は

、 動 機と目的と

い う 観 点から 見 れば、

「 利

」〔という目的〕を 追及 する こと である

。 も し も「利

」 という 目 的か ら出 発する と

、「 尺 を 枉 げ て尋 を直く す

」 と いう よ う な ことがなされ

てしまうの

で あ る

。 孟 子 が 主 張 した かっ たのは

、 いったん「

」 を目的と

し てし まうと

「利

」のた め に「為 さ ざる 所 無 し」になっ

て しまう と いう ことで あ る

。 そしてここで

は、

やはり大小の比 較 が 問題とされて

いるといいえ

よ う

。陳代は「枉尺直尋」の一節

を 拠り どころとして

、基本 的 には事功を 大、事功

以外のすべ

て の も のを小と

し た

。しかし孟子に

、利益 を 追求するために、その他の

すべ てを 犠 牲にす る ような ロ ジッ クは

、到 底受け入れら

れなかっ

。 事功と 比 べて

、道義 が さら に重要であり、事功 のために、道

義を 犠 牲 にす る こ となどあ

りえないの

で ある

。そ し て 孟子は、王

良 と嬖奚 を 例とし て

、 こ の

(15)

論叢 アジアの文化

号28

問題に つ いて詳述し

て いく。

ど れだけ得る

と ころ がある か

(利

)に よ っ て、行 為 の 正 当 性 を考 え て は な ら ない

。重要 な のは

、そ の行為 の 背後にある動機(義)を

考 慮す る こ と で ある。しかも孟子は、もしも

自ら

「 道 を枉 げ

」 て 他 人にした

がうよ う では

、理想 を 実 現 する ことは で きな いという。

も ち ろ ん当該 章 にお い て、

孟子 の「利」の

ロ ジ ッ ク に つい て の 明確 な説 明は なさ れ て いないの

で、さ ら に 他 章に見 え る

、 孟子の

「利」に対す

る態 度と 関連 付けて 論 じ て いく必要があろう。しかしここでこれ以上、贅言を

重 ねるのは避 ける こ と とし たい。

朱子 は、こ の 章を 解釈するにあたっ

、 基本的には

孟 子のロジックに

沿 っ て 論じ て い る が

、いくつかの 問題に つ い て は、孟子

以上に明

快 で ある

。まず朱子

、「 枉尺直尋

」の背後に

あ る 大 小の 関係

、および

孟 子の いう旌人

、志 士、勇 士 の 背 後に 含まれ る 大小 の 判 断に つい て、明 ら かな解釈

を下し て いる

。 続 い て 朱 子 は

、「 計 利 の心

」と いう ロ ジ ッ ク の行き 着 く 先

、 お よ び それ と

「 枉 尺 直 尋

」と の関 係 に つ い て、分 か り や すい指 摘 をし た

。 朱 子 の 注 釈に 拠 れ ば

、 も し も「

枉 尺 直尋」の

ロ ジ ッ ク を守 り続 ける な ら ば

、 事功

〔=利〕と価

値〔

=義〕と

いう異質なものに

つ い て、

これ らを

「 大 小」

で 比 較していた

つ もりが、量 の

「 多少」

で 比較するようにな

っ て しまうかもしれ

な い。あら

ゆるものは、利益の多少

に よっ て 比 較され、

「 義

」 自 体の独立

した 価値 は、

こ の

(「 枉尺直尋」の

)ロ ジ ッ クに あっ ては、失

われ てしまうの

で ある

。 さ ら に 朱 子 は

、楊 時 の こ と ばを 引用して

、再び「道を

行ふ

」 こ との結果と目的

の 間に ある軽重関

係 を 強 調し た

。〔 そ こ で は ま ず〕

も し も 行 為 が

「一 一 節 に 中 る

」 よ う 堅 持 す る な ら ば、

こ の よう な 道 は 実 現 不 可

(16)

能 で はない か

、と いう疑 問 があげら

れる。しかし

こ の 疑問 に沿って考え

るならば、最終

的 に実現しなけれ ばならない道と、

「節に中る

」 よう堅 持 する ことの間に

、何 ら直接的

な関係はな

、 む し ろ 両者に は 断 絶 さ えあるという

こと に な る。一 方

、孟子や楊時、朱

子に あっ ては、自

ら「節に中る」よ

う堅持する

こ と と、最終的に実現

され なければならない「

」の間に

は、直接的な論理関係があり、もしも

道 を行おうと する者が

、行為 と 道義 の一 致 を 保証で き ないの で あれば

、 結局のところ

、道の実現も保証できないの

で あ る。当時

孔孟 は、出 処 の原 則を 堅持していたの

で あって

、 彼らが軽々しく出仕

し なかった原因は

こ こ に あ る。楊 時 や朱 子 に い わ せれ ば、

孔孟 はいずれも道が世

に行われる

こ とを 求 め てい たが、

己 を 枉 げてまで

道 を実現しようとしていたの

で あ れば、ど

うし て彼 らは出 仕 し な かったの

であ ろ う か。

な お 最終的な結果

であ る 道 の実 現は 外 的 な事柄 で あり

、 こ れと〔人間の

内 面 に属する〕動機

や 結果とは 別物で あるという

(陳代 の ような)疑問も想定

で き る

。けれども孟子や朱子にとっ

、道とはたんなる形 式的

〔外的

〕 なも の で あ る と は いえず、それと〔

内的な〕価値とは

切り離せず、道

の 実 現 には価値が含ま れ、

それゆえ

に 道 を 実 現する過程、とりわけ行為

の 動 機 と いう点にお

い て、価値の

要 素 を 損う ことは で き な い の で ある

。動機 と 過程にあっ

、 価 値の 要素 を損 っ て しまっ て は

、 価値 を含んだ

道徳の 最 終 的 な実 現 はか な わ な い ので あ る

。 これにか

かわる 問 題 と して、

道 を枉 げる と

、 な ぜ 最終 的に

「 道 の 行

」 を 実 現 する すべ がな く

、 王 覇 の 業 を 実 現し えな いの で あ ろ う かという

こと がある。孟子と朱

子はいずれも、こ

の 章 の中 で は っ き り と 説明し

(17)

論叢 アジアの文化

号28

ては いな いが、

孟 子の 別の 章、お よ び朱子の思

想 と結び 付 ける こ と で、

価値とは外

在 の 事 業の根 本 であ り、

かつ 基礎で あ る こ とが 分か る。ま た こ れ は

「 内 聖

」が「外王」の

基 礎で あるこ と

、すなわち

『 孟 子

』〔 公 孫丑 上〕

に い う と ころ の「先 王 人に忍びざ

る の心有り

、 斯に人に忍び

ざ る の政 有り

」というこ

と で も あ る。

『朱子語類』で

は、この〔

「 枉尺直尋」の

〕章 について

、以下のよう

に 論じて い る。

「枉尺直尋

」 につ い て 質問し た

。朱子「天下を救うには、道

に よ る ことだ。もしも己

を枉げてしまっ ては、

す で に 道 も 枉 げ てし ま っ てお り

、 天 下 を救 う「

具」

をも失 っ てし ま っ ている

。 こ れ 以上

、 何 を いえばよ

いの だ。自 ら 身 を 崩 し ていな が ら、どう

やっ て 人 を糾 すと いうの だ

。」

(『 朱 子 語 類

』巻 五 五・三 八 条/Ⅳ

・ 一三一四頁)

朱子 にいわせれば、道は天下を救う

ための「具

」 であ る。ここで

「具」と

、「工具

」 の意 を 含 ん で い る が

、また完

全に「

工 具

」 の 意 である と 理解 す る こと も で きない。

道は手 段 でもあり

、目 的 で もあり、

こ こでの「具」とは、欠くべからず

と いう意でもある。

朱子としては、

「 道

」は天下を救う根本

で あり

、道 から 離れ て し まって は

、事功を語る

ことは で き な い

。 もはや〔道から離れ

〕駄目になっ

てしまった

も の に よ っ て

、人 を 正 そう に も

、 根 本 的 に無理 で ある。

こ こで掲げられた

道 と、天下

を救う事業

と は、本末の 関係にあ

る。

し た がって

「 枉 尺 直尋」は、

〔=末〕

を求める

こと を目 的とし て お り

、朱 子に いわせれば、

本を失った行為であったはずである。

朱 子 が「

枉尺 直尋」の

語をもっ

て、

功利 の 学 を概 括 し て き た こ と か ら、少 な く と も以 下 の 二点 を結 論 と

(18)

して 挙げることができ

よう。第一に、朱子にいわ

せれば、功利の学

は「計利の心」によ

る 行動 で あ り、道 を 動 機とはして

い ない

。彼ら が 究極的 に 追及す る 王 覇 の道とは、価値

か ら は 乖離し た も の で あ って

、本を 失っ た行 動 な の で あ る

。 第 二 に

、「 枉 尺 直 尋

」 の よ う に 行 動す る と

、結 局

「 人を 直 く す

」 る 術 を 失 い

、 他 人の 行 為 を正 すことはできないの

で ある。

こ れは 具体 的な行 為 を実 践 す る 実 践主 体 と

〔その 実 践主 体の

〕 行 為 の効果と

の関係にか

か わっ て い る

。 孟子 や朱子は、さ

ら に

「 己 を 正 して人 を 正 す

」 こ とを 強 調 し

「己を 正 す

」 こ と を 本

、「 人を 正 す

」こ と を 末と し た が

、 こ れ は彼ら にい わせれば

、「 枉 尺 直 尋

」と は相 反 す る も の で ある。さ

ら に 一歩 進め て論 じるならば、

こ の

〔「 己 を 正す」

こ とと「

人 を 正 す」

との〕

二 者 は

、 前者は直接「

義 利

」の問題とかかわ

り、後者は直接、立

心 と処事(知と行

) の問題とかかわっ

て お り、

さ ら に 両 者はとも

に、朱 陳 論 争 とも関連しているといえ

る の で ある。とりわけ後者は、朱陳論

争の直接の 引き 金と な っ て

、 朱 陳 両人 の 思 想 の 相 違 を 露 見 さ せ た ので あ る

二、

立 心

、 処 事

朱陳 の往 復書簡 に は、

朱子の 陳 亮 に 対す る修養方面の

批判、勧

誡、忠告の

こ とばが多出す

。 こ れ ら は とりわ け 陳亮が、

無実の 罪 で 入 獄された以後の

も の で ある。もし

こ れ ら の書簡のみ

に 拠るならば、朱子

(19)

論叢 アジアの文化

号28

義理 や修 身に偏 重 し、

事 功 を排斥 す る 傾 向 が あり、

道 学の 立場 か ら

、 ひ た す ら「幸 災 楽 禍

」、 す な わ ち 陳 亮の

〔投 獄 と いう

〕災 難を 喜 ん で い ると 考え る人 さ え も い る。

ただもしも

朱 子 の 陳亮に対す

る 修養方 面 の 批 判 を精緻 に 分 析 し、

朱子の 思 想 体 系とあわせて

考察 す る と、朱子は心の修養を

主張して、事功を

排斥す るのみならず、

さ ら に 立心と 処 事(

知と行、明体と達用)の本末の関係

を強調して

い る。

この本末のとら え方は、朱子のいうそ

の 他 の 問 題 か ら も

、一貫 し て窺 えるも の で あ る。また

朱子の陳亮に対する批判は、

あた かも 陳亮が自身

の 才能を発揮し、外

界の 事業 を実 現 で き る よ う

、彼の 哲 学 的 基盤 を築 き 上 げる こと を 望んで い る か の ご とく で あ る

。 朱陳論 争 は

、 朱子が陳亮に宛てた第四の書簡より始ま

った

。その と き陳亮 は

、無実の罪

に よる 投獄 か ら

、 よう やく解かれたばかり

で あった。朱子は

い う。

比 ご ろ

に意 外 の 禍 有 るを 聞き

、甚だ 驚 嘆を 為 す

。 方 め 未 だ相 為 に 力を 致す 処有ら ず と念ふ も

このにはかはじため

又 た 已に 弁白 して 帰すと聞き

、 深く以 て 喜びと為す。……然るに凡百、宜しく痛く自

ら 収 斂すべ し

。 此 の 事

、 合 に 説く べ き も

、 多事 に し て 当 らず、今

日に至 る ま で 遅鈍して事及ばざ

るは、

に罪 すべ

まさまこ

きと 為す

。 然 る に 老 兄

、平 時自 ら法 度 の 外 に 処 り

、 儒 生 礼 法 の 論 を 聞 く を楽 し ま ず

。 朋 友 の 賢

、 伯 恭 の如 き 者 と雖 も、

亦 た 法 度 の外 を 以 て 相 処り

、敢へて

其の逆耳の

論 を進めず。毎に規諷

有 るも、必ず 宛転回互して

巧みに之

が為に説

き、然る後に敢

へ て発す。……然

る に平日の

積する 所

、亦た 衆 尤 を 集 めて 讒口を 信 ずる 者無し と 為 さ ざ る が 似 し。老兄高明

剛決にし

て、過ちを改

む る に 吝 か な る者 に非

ごと

(20)

ず。願はくは、愚言を以

て 之 を 思 ひ

、 義 利双行、王覇並用

の説 を 絀 去し て、

懲忿窒慾、遷善改過の

事 に 従 事 し

、粋 然として

醇儒 の 道 を 以 て 自 ら 律 すれば、則ち

豈 に 独だ人道

の禍 を免るるのみならんや。

而し て 其 の本 根 を 培壅し、

源 を 澄ませ本

を正 し、異時に

事 業の 地に 発揮する者と

為るに、益

ま す光 大 にし て 高 明たり

。(

『 朱文公文集』巻三六

、「与 陳同甫」

四/Ⅱ・一

五 八〇~一

五 八一頁)

朱子にいわ

せ れば

、陳亮が

「意 外の禍」

を 招 い て しまった理由は

、 日ごろ よ り自身の

修養を 軽 視して い たこ と と 関 係 が あ る

。 陳 亮 は つ ね づ ね

「 自ら 法 度 の 外 に 処

」 り

、 儒 者 の 修 身 の原 則 に 則 っ て

、 自ら の行 動 を 律 す る こ と を せ ず

、 ま た 朋友 たち から 忠告 され るこ とも 少なく

、 結 局

、 陳 亮は 罪人として

投 獄されて

し まった の だと いう。こ

れら はいずれも、内

的 な修養と

いう側面

から〔なされた見

解〕

で あ る。朱子の

陳 亮 に 対 する提案

は、陳亮

に「

懲忿 窒慾、遷善

改 過(忿 り を懲らし

慾 を 窒ぎ

、善に遷

り過ちを改

)」 さ せ る こ と である。こ

れ は理学の内的な道

徳、

修養の方面から

〔 な さ れた提案〕で

ある。

ただし朱

子は、内

的な側面への

言及の み に と どま らなかっ

。〔朱 子に とっ て〕内的な

修 養は「

根 本」

であっ て

、 最 終 的 に は この根 本 か ら

、外 的な 事業 へと向 か わなけれ

ばな らないの

であっ た

。 も しも陳亮

、 この根本

にお いて十分な工夫をな

し ていた な らば、事

業はさ ら に「光大にして

高 明」になる

は ず で ある。

ここで 指 摘しな け れば なら な い のは

、朱子は決して

、 外 的 な事 業 を 排除し て い た わけで な く、

事功は内的 な徳性 の 修養を 根 本と しな ければならないと強調して

いた こ と で あ る。朱子

が陳亮に宛て

た書 簡 に は、た びたび こ のような見解

が窺える。例

えば

、朱陳 論 争の 終結 を象徴 す る、朱子の

第 十書簡には、以

下 のよう

(21)

論叢 アジアの文化

号28

にあ る。

已往の是非

、 深較 す る に 足 らず。今日の

計の 如 き は

、 但だ当 に 窮理修 身 し、聖 賢 の 事 業 を 学 取 すべ き のみ。

窮 して 以て 独 り 其 の 身を 善 く し

、 達す れば 則ち 以て 兼ね て 天 下を 善 く す る こ と 有ら しむ れば、

則ち 枉 げ て 一 世 の 人と為 ら ざ る に 庶 幾き のみ

。(

『朱文公

文 集

』 巻 三 六

、「 与 陳 同甫

」一〇

Ⅱ・一 五 九二~

一 五九三頁)

朱子 に 拠 れば、昨今の

学ぶ者た

ち がいう「

窮理修 身

」 な どは、た

だ 内 的な修 養 のみに 意 を向 ける という こ と で は な い

。〔 そこ に は 内 面 に〕

通 達 し た なら ば

、〔続 いて 外面で あ る〕天下

に善を 及 ぼ し て いくと い う 使 命に 溢れ てお り、そ こ に は 外 的 な 事 業 へ の 志 向 が 含 ま れ て いる と い えよ う

。 この よ う であ っ て こそ

、 真正の「人」となれるの

で ある。

朱 子は陳 亮に対 し て

、 上記 のごとく批判し

た が、それ以外に実際には、

たびたび積極的な評価

を下すこ ともあった。

こ れ ら は朱子の陳亮に対す

る態 度 を 見るうえで

、 いささか参考になる

で あろ う。

質問「陳亮は有用

な人物 で し ょ うか

。」 朱子「

朝 廷の 賞罰が明

らか であれ ば

、 こ う い った人 々 はみ な 有用で あ る。例え

ば辛幼安

〔棄 疾〕も 将 軍 と して の才能があるのだが、

勝手気 ま ま に して い た と き は、

誰一人とし

て 彼に忠告

し た り、戒めた

り する もの がいなかった。

い ま ひ とたび罪に

問 われる や

、それ を問うこと

も なく

、すぐ さ ま罷免され

、それ っ き り で あ る。

この人が安

撫 使となったとき

、 他 の 人 よ り も優れた

とこ ろがあった。た

だ 賞罰を明

らかにした上

、 用いるべ

き だった の だ

。」

(『 朱 子語

(22)

類』巻一三二・六

四条/

・三一七

九頁)

朱子にい

わせれ ば

、陳亮 は 事業の 方 面に お い て卓 越 し た と こ ろ があ った

。た だ し 陳亮 は根 本 を 欠い てい た た め、

「 賞 罰明 ら か

」に し て

〔外 的な 事業に か んし ては優れ

ている が

、 内 的な根本

に か んし て は 劣 っ て いるということを

よく理 解 し た う え で

〕 用いなければなら

ない。

さ て

、内的な修養は「

立心

」、 外 的 な事業 は

「処事」と言い換え

る こ と がで き よ う。朱 子 は決し て

「処 事」

を 否 定した わ け で な く

、ただ「

立心」が本である

と強調

し たの である

。 なぜ朱

子 は、

〔「 立心」

「 処 事」の

〕 両者の 関 係 を

、このように位置づけたの

で あ ろうか。

この問題に

つ いて は

、『朱 子語類』巻 一三 に 明 確な 説 明 が あ る。

理があって、はじめ

て こ の 物がある

。草木には種があ

っ て

、はじめ

て そ こか ら草木が生

え てくるよう な も の で あ る

。 人 には 事を な そ うとする心があって

、 はじ めて 事を なすこ と ができ る

。もしも

こ の 心 がなければ、どう

して事を

なし遂げ

られようか

。(

『 朱子語類』巻一三・八四条/Ⅰ・二

三六頁)

お そ ら く 事を な そ う と 思って も

、 自 らを立て

るこ とを 知ら なけ れば、

決 して 事 を なし 遂げら れ ない。

人は心に僅かでも私

意 が尽 きる こ と なく〔残っていて

は〕

、 失 敗 す るに 十分 である

。 もしも表

面に 一 点の黒があれば、内面は一面黒

であり、表面

に僅かの

差異があれ

、内面には尋丈の

差異がある。い ま十分 に 徹 底 して 理解 し た といっ て も、結局の

と ころ 事に あた っ て いる う ち に

、 た っ た五

、六 割な す のみ で あ る

。 いま たっ た四、

五 割しか 理 解し て い なければ、結

局のところ

ど うなってしまうのだ

参照

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