六朝道教上清派再考――陶弘景を中心に廣瀬直記概要
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(2) 景が天師道の道士だったことの具体的根拠として、 「仙霊籙」をもっていたこと、上章を行 なっていたこと、 「老君誡」を受けていたことなどを挙げた。次に、陶弘景が信奉していた 上清経が、上清経全体の一部に過ぎなかったことや、彼が「上清籙」や「上清戒」をもっ ていなかったと考えられることから、筆者自身は陶弘景を上清派と呼ばない、という考え を示した。そして最後に、陶弘景が天師道の道士だったとすれば、従来、上清派との排他 的関係において捉えられていた天師道という概念も、見直さなければならないことを指摘 した。なお、筆者がここで最も強調したかったことは、陶弘景を上清派から天師道に移し 替えることではなく、上清派や天師道をそれぞれ排他的な流派と見なす従来の枠組みでは、 陶弘景という人物を十分に捉えきれず、またその枠組みによって彼の輪郭の一部が切り取 られていた、ということである。 第二章「六朝道教経典の真偽判別――陶弘景と陸修静の比較を中心に」では、従来、あ まり注目されることのなかった道教経典の真偽判別という問題について扱った。まず、陶 弘景と陸修静がそれぞれどのように真偽判別を行なっていたのかを検討した。その結果、 両者には天宮や真人に由来する経典を真経とし、人の手で作られたまたは手を加えられた 経典を偽経とする、という共通の基準があったことを明らかにした。次に、両者の真偽判 別の結果には大きな違いがあることを指摘したうえで、なぜそのような相違が生じたのか を検討した。それによって明らかになったのは、六朝道教経典の真偽は、いわゆる古書鑑 定のような文献学的次元のみならず、ある経典が天上や真人の世界に由来することを信じ るかどうか、という信仰の次元において語られる概念だったことである。つまり、両者の 相違は、どの経典が天宮や真人の世界に由来するのか、誰にそのような経典が伝授された のか、というところで両者の信仰が分岐していることによる、ということである。最後に、 陶弘景は真偽判別に対して使命感をもっていたが、その結果はほとんど後世に受け継がれ ず、また従来の研究では、陶弘景と同じく上清派と呼ばれていた人々の真偽判別の結果も、 陶弘景のそれとは大きく異なっていることを明らかにした。そして、そのことから、従来 の流派史における上清派という枠組みが、実際には信仰者のあり方をうまく捉え切れてい なかったことを指摘した。 第三章「太真斎法とその担い手たち――六朝上清儀礼の基礎的研究」では、『無上秘要』 「太真斎品」と『洞真太上八道命籍経』、『洞真太上太霄琅書』に見える太真斎法について 分析した。その結果、それが南斉のころに成立したものであり、構成と機能は霊宝斎法や 指教斎法とほぼ同じであるが、上清経の読誦と使用にその特徴があることなどが明らかに なった。ただ、筆者がそこで最も注目したのは、太真斎法を担っていた多様な道士たちで ある。それを改めて示しておくと、 「①三洞経典をすべて伝授された最高位の大洞三景弟子、 三洞法師。②三洞経典を伝授されていない三景弟子、大洞法師。③天師道の男官、女官、 祭酒。④さまざまな位階にある道士。⑤上の②と④のうち、天師道の治籙も受けた者、治 籙を受けずに経典だけを受けた者」である。太真斎法は、上清経に深く関わるという意味 では上清儀礼であるが、それを担っていた道士たちから見る限り、そこに(天師道でも霊. 2.
(3) 宝派でもないという意味での)上清派という枠組みを当てはめるのは難しい。つまり、太 真斎法の背後には、従来の流派史の枠組みでは捉えきれない信仰者の活動実態があったと いうことができる。 第四章「発炉と治籙――正一発炉と霊宝発炉の比較」では、道教儀礼における発炉と出 官の儀式において、体内神を出す過程が重複して見えるのはなぜか、という問題を提起し た。その答えとして、まず、発炉にはいくつかの種類があり、体内神を出すのは霊宝発炉 の特徴であることを指摘した。次に、霊宝発炉は、天師道の治籙をもたず出官することの できない道士が、治籙がなくとも行なえる発炉に、出官の働きを兼ね備えさせたことによ ってできたものであり、そして、その霊宝発炉が再び治籙をもち出官することのできる道 士に取り入れられたことにより、発炉と出官が重複して見えるようになった、という歴史 的変遷があったのではないかと推測した。以上は、上清派に直接関わる問題ではないが、 あえてここで取り上げたのは、発炉という儀式の変遷の背後に、治籙をもつ道士ともたな い道士の二種類が存在し、彼らが相互に深く関わり合っていた、という活動実態がかいま 見られる、と考えたからである。治籙の有無は、道士の間に排他的関係を生み出す要素で はないだろうが、一方でそれはこの時代の道士の自己定位ともなる基本的な区別だったと 見なせる。 第二部第一章「『紫文行事决』の注釈者について」では、『紫文行事决』の注釈者が陶弘 景であることを論証した。この資料については、以前から陶弘景のものであるとする見解 もあったが、十分な証拠が示されていなかった。また一方で、陶弘景のものではないとす る見解もあった。そこで、筆者は陶弘景に特徴的な記述形式や考え方が、 『紫文行事决』に いくつも見られることを挙げ、その注釈者が陶弘景であることは間違いないという結論を 示した。また、 『紫文行事决』のほかにも、いくつかの行事訣が存在し、それらはいずれも 陶弘景に結びつけられる可能性があり、楊羲と二許の時代の上清経の内容を知る手がかり になることを指摘した。 第二章「 『上清握中訣』 、 『上清明堂元真経訣』補論」では、 『上清握中訣』が『登真隠訣』 の再編本であることを論証し、 『上清明堂元真経訣』が『登真隠訣』の佚文であることを確 認した。いずれも結論はツェヅィッヒ氏の考えと同じになるが、これらについてはロビネ 氏が『登真隠訣』や陶弘景に結びつけることに懐疑的であるため、あえて補論として筆者 なりの考えを示すことにした。 『上清握中訣』は、宋代には陶弘景の著作として知られてい たようであり、その内容を見ると、 『真誥』、 『登真隠訣』の正文に重なる部分が多い。ただ、 楊羲と二許の手書であったはずの正文に対する扱いが、非常に杜撰であり、その作者が陶 弘景だったとは考え難い。しかし、筆者は『上清握中訣』が『登真隠訣』の再編本である ことを示す証拠として、 『上清握中訣』巻中には『登真隠訣』巻中に見られる独特のブロッ ク分けがきれいに反映されていることを明らかにした。 第三章「 『道迹経』小考」では、 『道迹経』の位置づけについて新たな見解を示した。 『道. 3.
(4) 迹経』は従来、顧歓『真迹経』と同類のもの、あるいは顧歓が編纂したものとされ、陶弘 景が『真誥』編纂の材料としたものの一つと考えられることもあった。しかし、ここでは 『道迹経』をそのように見なすことはできないことを指摘した。なぜなら、そもそも陶弘 景が『道迹経』を『真誥』編纂の材料にしたという証拠はどこにもないからである。また、 『道迹経』は『上清太極隠注玉経宝訣』という古霊宝経に、仙人の事跡を伝えるものとし て言及されている。この古霊宝経の成立年代は、いくら遅くとも五世紀半ば以前であるの で、 『道迹経』の成立年代もそれ以前である。一方、顧歓が『真迹経』を編纂したのは、 『真 誥』 「真経始末」によると、彼が楼恵明の馬家本真書と杜京産の杜家本真書を見た後のこと と考えられるので、いくら早くとも楼恵明が馬家本真書を手に入れた四六五年以降である。 以上のことから、 『道迹経』と『真迹経』は成立事情も年代もまったく異なる二つの書物で ある、という結論に達した。 第四章「 『真霊位業図』の作者について」では、先行研究において、陶弘景の『真霊位業 図』により近いとされていた『無上秘要』「道人名品」と『道門経法相承次序』所引本につ いて検討し、それらの作者が陶弘景であるとは考えられないことを示した。 『無上秘要』 「道 人名品」については、その内容が『真誥』やその陶注とあまりにも多く食い違っているこ とを理由に挙げた。 『道門経法相承次序』所引本については、そこに列挙された神々が、 『九 天譜録』や『玉皇譜録』などの上清籙に由来することを主な理由として挙げた。また、こ れらの上清籙が、陶弘景が信奉しなかった楊羲と二許以降の上清経を踏まえて作られてい ることも指摘した。従来の研究では、陶弘景は『真霊位業図』という六朝道教の神々を統 合するような神譜を作ったと見なされていた。そして、そのことが上清派という言葉とも 相俟って、六朝道教の中心人物あるいはリーダーという陶弘景のイメージを形成すること に一役買っていたと思われる。しかし、ここでは、陶弘景を『真霊位業図』から切り離す ことによって、その膨れ上がったイメージを修正することを意図した。 第三部第一章「楊許の上清経の改変――『九真中経』を例に」では、『九真中経』を例に 楊許の時代の上清経がどのように改変されていったのかを明らかにした。 『九真中経』は最 初の上清経の一つであるが、道蔵本『九真中経』(『上清太上帝君九真中経』と『上清太上 九真中経絳生神丹訣』 )には雑多な内容が含まれ、酷く混乱しているように見える。そこで 本章では、道蔵本『九真中経』には、いくつもの改変と拡張の跡が刻みつけられているは ずだ、という予想のもとに整理と分析をはじめた。まず、道蔵本『九真中経』を分析する 下準備として、 『上清太上帝君九真中経』と『上清太上九真中経絳生神丹訣』がもともと一 本の経典だったことを指摘し、 『上清八道秘言図』や『洞房上経』などの資料を用いながら、 それが分断される前の姿を可能な限り復元した。次に、整理した道蔵本『九真中経』と、 『紫 文行事决』をはじめとする各種行事訣および『登真隠訣』とを突き合わせることにより、 道蔵本『九真中経』の各節が改変されたものであること、そしてその改変の跡には等しく 「太一の道」に関する言葉が組み込まれていることを明らかにした。次に、楊許の時代の. 4.
(5) 『九真中経』の構成を復元し、またそれが最初に改変された時期を東晋末と推定した。さ らに、引用資料や伝授規定から、道蔵本『九真中経』の直接のもとになる経典が、『無上秘 要』以前には存在していたであろうことを述べた。最後に、陶弘景の時代には、陶弘景が 所有する楊許の『九真中経』と、以上のようにして改変された道蔵本『九真中経』のもと になる経典の二つが並存していたが、より広く流布し、より長く伝わったのは、陶弘景に とっての「真経」である楊許の『九真中経』ではなく、彼にとっては「偽経」である改変 された『九真中経』だったことを指摘した。 第二章「新しい上清経の成立――『紫度炎光経』を例に」では、まず、陶弘景が『真誥』 において『紫度炎光内視中方』に対して言う「未出世」は、真人の経典である「真経」が、 まだ隷字の経典として人の世界に出現していない、という意味であり、それは人の手で作 られた「偽経」が成立したかどうかとは別次元の話であることを指摘した。次に、陶弘景 が『登真隠訣』巻下において「偽経」の『紫度炎光経』について言及していることに注目 し、彼がそれは東晋時代に由来すると考えていたことを明らかにした。また、ロビネ氏の 研究に依拠して、その「偽経」が道蔵本『紫度炎光経』のもとになる経典だったことを、 さらに、道蔵本『紫度炎光経』に三種類の伝授規定が載っていることから、そこにその経 典の成立過程が反映されていることを示した。次に、道蔵本『紫度炎光経』の内容が、『真 誥』において魏夫人が引用する『紫度炎光内視中方』をはじめとする、楊羲と二許の残し た断片的な記述に脚色を加えながら作られていることを明らかにした。次に、補論として、 陶弘景のいう「偽経」の『紫度炎光経』に「廻風の法」の影響が見られることを述べたう えで、 「廻風の法」の形成時期が東晋末以前であることを推定した。そして最後に、陶弘景 が「偽経」であるとした『紫度炎光経』が、じつは陶弘景以外の多くの信仰者には「真経」 として信奉されていたことを指摘した。 第三章「上清経成立年代補正――ロビネ氏の研究を基礎に」では、 「上清大洞真経目」に 結びつけられる上清経のうち、主に十本( 『洞真太上飛行羽経九真昇玄上記』 、『洞真上清太 微帝君歩天綱飛地紀金簡玉字上経』、 『洞真太上八素真経服食日月皇華訣』、『上清太上八素 真経』、 『上清太上九真中経絳生神丹訣』、『上清九丹上化胎精中記経』、『太上九赤班符五帝 内真経』 、 『上清高上玉晨鳳台曲素上経』、 『太上玉佩金璫太極金書上経』『上清玉帝七聖玄紀 廻天九霄経』 )の成立年代について、ロビネ氏の見解に補正を加えた。また、最後にロビネ 氏の研究を追認しつつ補正するというかたちを取って、 「上清大洞真経目」に結びつけられ る五十数本の上清経について、楊許の時代のものかそれ以降のものか判断した結果を示し た。. 5.
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い。 しかし吋応氏六帖』が出典を示さない さぐっていけばあるいは出典を特定できるものもあるかもしれな い。
DSMIPv6 では IPv4/IPv6 両方の HoA を同時に利用可 能 (MobileIP では同時に保有できない ). IPv6 対応が図られていない IPv4
9% を占め、他の地域に ない特色を示している。
3-1-①-オ) その他 【具体的な配慮の内容】 ●道路から目立たない構造
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註(1) 佐和隆研編 『密教辞典』 四六四頁 (法蔵館 ・ 一九七五) 。なお、 『密教大辞典』 に 「大釈別体」 ・「大釈同体」
現役︵十八才︶の女子学生が入学してきたのも、私の入学した次の年からだったように思います。︵それ以前は、