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清水  紀弘

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Academic year: 2021

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(1)

一………一 サの理論的考察一一一…一一一一

清水  紀弘

1 精神薄弱児の概念規定

最近,精神薄弱児の概念規定が大きくゆれうごき,医学・社会学・心理学・教育学等あらゆる 角度からのさまざまな概念規定がなされている。それらを要約すると,(1)精神薄弱児を状態像と

して見るか病理形としてみるか,(2)正常といわれる者との差を質的にとらえるか量的にとらえる か,(3)教育の可能性鮪限とみるか無限とみるか等の点において差異を示す力斗すべてに一致す る点は,「精神薄弱児は,現時点において正常児とくらべ精神発達が遅れをみせている。」とい うことだけである。

(、)の状態像か離形かは請禰弓弓児を頒する際の視点のちがいでかて・本質的な対立点 ではない.また,(2)の質的嵯か量的嵯かも,燗を人格全体からみるとき質的嵯となり・

入格を轍する部分としてのそれぞれの能力・こついてみると・それらはすべて量的な差でしかな い.っまり,人格を全体的な側面からみるか,部分的な側面か筋るかの視点のちがいにすきず 本質的な対立ではない。

教育課程を論ずる際に最欄題としなけれ1まならないのは・(3)の教育の可能性を有限とみるか 無限とみるかの致命的な対立である。

わが国においては,文部省の概念規定に代表されるように,「いろいろの原因で,精神発達が 恒久的に遅滞し,このため蜘的能力力・劣り,自已の身辺のことがらの処珊および社会生活へ の適応が著しく困難なもの」という考え方が主力を示している。この中の「恒久的遅滞」という 部分は識轍師に暗轍育の可能性の有限を提示している感がないでもない・この言勲招来 しなければならない必然性は,おそらく,学業不振児等の一時的な精神発達の遅滞を示す者との 区別を,あまりにも意識しすぎたためであろうか。

しかし,この言葉は,我々教育者にとってみれば,誠に無責任な定義であるといわざるを得な い。というのは,判別の時点において明確に精神発達の恒久曲遅滞を証明するに足る,確固とし た手段が存在しないからである.それゆえ,言葉では恒久的遅滞と言いながらも・判別の後蟷 に誤診の不安はつきまとうのである。これまでも・数多くその不完全さが指摘されながらも・IQ という数のマジックにより,多くの子どもを見誤ってきはしなかっただろうか。

人間はすべて未来に向nて未知である。ただ有る真実は,現事点における行動の事実だけであ

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る。そして,生きている限り,ごく近い将来に獲得しうる現時点の行動にごく近接した行動が存 在しうるということだけである。

       9

アの後者は,生きている人間の事実を証明する最も重大な命題であると思う。その人間が,現 在の行動の事実の上に何らの新しい行動をも獲得しえないとしたなら,それはもはや生きている 人間ではなく・廃人と同様の人間である。それは,ちょうど病床に臥し明日までの命と宣告され た人間と同じである。

精神の発達が現時点に於て恒久的に遅滞していると明確に判別されうる者というのは,まさし くこのような者をいうのであろう。もし,実際にそのような者が存在したとしても,その人間は,

おそらく大脳そのものの機能が,現在の医学の力ではどうにもならない程に損傷しているであろ うし,それはもはや教育の対象ではなく保護の対象である。従ハて,そのようなものの判別は,

医学の力をもつてなされることである・しカ・し誠念ながら現在の医学の力をも一てしても人 間の可能性を完全に計り知ることはできないであろう。

このように,現在ある人間のいかなる力をもってしても完全に計り知ることのできない人間の 能力の可能性を・恒久的遅滞などという未来を計り知ってしまったような表現で規定してしまう ことは,あまりにも大担すぎることのように思えるのである。

このように考えてくると,教育の対象児としての精神薄弱児の定義は,「精神発達が現時点に おいて正常といわれるものよりも遅れているために,現時点の社会生活の上で不適応行動を起こ している者」ということで充分である。教育の場においては,明確に判別しきれない学業不振児 やその他の一時的遅滞を示す者との区別を,あえて行なおうとする必要はない。

そもそも,精神薄弱児とか学業不振児なじという言葉は,すべて教育の結果からみて記述的に 牢義された概念にすぎないのである。我々教育者にと(て,子どもたちの結果としての様々の行 動特性と過去の歴史的・社会的経験とは・その子どものこれからの教育を考える上に大きな意義 を持つが・だからといnて・それらの結果からみて,未来に向ハて恒久的遅滞と決めつけてしま うことは・教育の本質に立ちかえ(てみてもできるものではない。あくまでも,ひとりひとりの 現時点の行動に近接した,ごく近い将来に獲得し得る行動をひとっひとっ着実に身につかせ,未 来に向ハて無限の可能憐を信じて行くことが,教育者にとって最も重要なことであると思うので

ある。

11 精薄教育の目標

精薄教育の目標は,社会的な自立にあるとされている。換言すれば,身辺生活の処理,集団生 活・経済生活・職業生活への適応にあるといわれている。

しかし・この適応という諜は・や・もすると沈蝉に順応の意義にのみ解されがちである。

実際の教育の場においては・単に職場の中でた父「ハイ」 「ハイ」と,よく命令を聞く,雇主に

とって都合のよい人間を作ることだけに力をそそいでいるという結果に終わってしまってはいな

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清水:特殊学級教育課程改訂試案

いだろうか。

たしかに,いかなる場面にもすぐに順応しうる人間に育てることは,一面重要なことである。

しかし,た父単にそれだけでは,真に適応しうる人間とは言えない。適応の意の中にはもうひと つの側面,すなわち,積極的に自已の環境をより住み良いものに改善して行くべく力の意が存在 する。この同化と調節の相互作用としての適応力こそが,真の自已実現を可能にするのである。

教育の究極の目標は,いかなる人間の教育においても異なるものではなくひとつである。それ は,目已の能力を最大限に発揮し,社会の中で真の自已実現をなし得る人間に育てるということ である。

ところが,これまでの精薄教育においては,具体的な経験を通して学習させるべきであるとい う方法論に目標そのものまでもがまどわされ,何かしら,普通教育と特殊教育は別の教育である かのような錯覚が生じていることは,私一人の単なる取り越し苦労なのであろうか。

いかえ精神薄弱児の教育といえども,社会の中で真の自已実現をなしうる人間に育てるという 教育の究極の目標は同じなのである。

皿学力の構造

真の自已実現を可能にするために,学校豫育の中で身につけなければならない学力の構造は,

どのようにとらえるべきであろうか。

特殊教育においては,しばしば生活力という言葉が用いられている。しかし,学校教育の中で 教育を通して身につけうる生活力は,あくまでも学校というわくの中での生活力であり,その意 味では,広義にとらえた学力と同意義であると考える。

私は,学力というものを2つの下位概念に分類する。一方は,人間の全人格を形成する部分と なる諸能力,すなわち,人間が外界の諸刺激に対処しうる知的・技能的学力である。これには,

知覚・感覚能力,各種運動機能,知識・理解力,思考力,技能等い(さいの能力を含める。

もう一一方は,周囲の諸刺激に対し反応を起こす原動力となりうる全人格の内面的エネルギーと

しての学力である。すなわち,外界の諸刺激の中から自已が反応すべき刺激を選択し,自已の持       .

っ諸能力をどのように対処させるべきかを決定する全人格的学力である。これには,態度・興味

・関心・習慣等,内面的エネルギー源となりうるいnさいのものを含める。

前者を道具的学力,後者を動力的学力と呼ぶことにする。

この両者の学力をもう少し具体的に説明しよう。たとえば,こ、にピアノを上手に弾くことの

できる生徒がいたとする。この生徒がある生活場面の中でピアノを弾くか否かは,ピアノを上手

に弾けることとは直接には結びっかない。たとえ上手に弾けたとしても,みんなが真剣に話し合い

をしている時に,話し合いに参加もせず,そばで勝手にピアノを弾いていたり,また,合唱の伴

奏をして欲しいと皆からたのまれても,弾きたくないからといって引き受けなかったりしたとき

その生徒のもつピアノを上手に弾けるという能力は,生きて働いたことにはならない。すなわち,

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教育研究所紀要第五号

真の自已実現が可能となっていないのである。

ところが,皆からたのまれた時にすなおに快よく引き受けたとしたら,ピアノを上手に弾ける というその能力が,その集団の中で認められ,その集団の中での彼の存在意義はそれだけ大きく なり,彼自身の心の中に満足感と精神的な安定感を作る結果となるであろう。

このように,自已の持つ種々の能力を適切に発揮しうるか否かは,その個人の内面的な動力的 学力のいかんによるのである。そしてまた、動力的学力は,その個人の持っ道具的学力の種類や 程度によりて,質的変容をするものである。

この道具的学力と動力的学力が相互作用として働くとき,そこに真の学力(生活力)が生まれ るのである。そして,この学力が社会的になればなるほど,言いかえるなら,より広範囲の社会 に対処しうる時,自已実現の力もより高次なものとなるのである。

学力の構造を図示すると図1のごとくなる。

図1 〔学力の構造〕

      ノ

ア多の多

◎動力的学力

A道具的学力

寢O的刺激(社会)

⇔自已実現の方向

〈『一一一〉動力的学力と道具的 学力との相互作用

この真の学力を身につけさせるために行なわれる教育計画が教育課程である。

】V教育課程改訂の視点

1. 教育課程の領域構造

私は学力の構造を,道具的学力と動力的学力との相互作用としてとらえてきた。道具的学力は

個人的であり,動力的学力は社会的である。また,教育の目標はひとりひとりの真の自已実現を

(5)

清水:特殊学級教育課程改訂試案

めざすことにあり,そのためには,学校教育の  図2 〔教育課程の領域構造案〕

中で真の学力を身にっけなければならないとす

るなら,教育課程の領域構造も,この学力の構 教育の目標 造にもとついて組まれなければならない。

それゆえ,私はこの教育課程の領域を図2に

具 力

示すごとく2大領域とすることを提案する。こ 的 的

学 学

の2大領域は教育実践を行なう上で同程度のウ エイトを持っものと考える。そして,道具的学

力の伸長をれらう道具的学習は,そもそも個人

的な各種の能力を伸ばそうとするものであるか 各種機能訓練 ら,その教育の方法も全く個別的な方法がとら 心理・医学的治療 れなければならない。また,動力的学力の伸長

をれらう動力的学習は,集団の中でどう自已の持つ各種の能力を発揮すべきか,

ギーそのものをみがこうとするものであるから,その教育の方法も全く集団的な方法がとられな ければならない。

さて,このように,2大領域としてみたとき,現在行なわれている教育課程の領域は,どのよ うに考えられるであろうか。

わが校の特殊教育における教育課程の領域を

例に上げるなら,図3に示すごとく,5領域と  図3 〔特殊教育の教育課程の領域と なっている。この分け方は,おそらく全国どの      その機能的側面〕

学校においても大同小異であろう。そして,そ

れそれの領域ごとに週何時間かの時間割りが組 教育 目 標 まれ実践されているのである。

しかし,この領域のうち,各教科と養護・訓 別 護 練と総合学習の中でれらう個人的な内容に関し

訓 ては,これらは全く別個のものではなく,同一一 領域の内容,すなわち,人間の人格の諸部分を

構成する諸能力をのばそうとするものであり,

本質的には同一次元のものである。それゆえ,

これらの領域が平行的に計画されることは,それぞれの領域で相互に重複される内容が多く・し かも,取り扱い上どうしても時間の・スも多くなnてしまう。

たとえば,足の運動機能に障害があり,ボールをけうこともできない子どもに・たとえできた

としても,ごく弱くしかけることのできない子どもに,体育の時間いっしょにサッカーをやらせ

たところで,結局はお客さんになってしまい,その時間はむだになってしまう(しかし・全く意

義のないことであるとは言えないが)。むしろ,その時間に足をけり上げる訓練をしたり・ジヤ

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ンプカの訓練をしたり,ボールを足にあてる訓練をしたりする。いわゆる養・訓的内容の取り扱 いがなされるべきであることは当然の理だからである。

このように,これら個人的な学習内容は,すべて個別の計画にもとついて教育がなされるべき であり,私が示す道具的学力を伸ばす道具的学習の領域にまとめて教育計画を立てることの方が より効果的であると思う。

さらに・現行の教育課程の中の他の領域,すなわち,総合学習,道徳,特別活動はすべて各人 が集団の中で,どのように目已実現を行なうべきか,その内面的な人格的エネルギーそのものを 伸ばそうどするものであり,これらもまた,平行的に時間が設けられて教育されるということは 時間のロスであり,効果もそれだけ半減する。たとえば,道徳や特別活動にしても,た讐単に週 何時間というかたちで各教科の授業と同様な扱いがなされていることが多いが,道徳や特別活動 でれらう内面性の発達は,実際の集団生活の中でのみ学習されるものである。それゆえ,これら の教育は,単に教室の中で週に何時間などととびとびに決めて行なうのではなく,種々の能力を 持つ生徒の集団を構成し・その中で・教師が意図的に自已実現のための生活場面を構成し与えて やることが必要である。その意味で,これらの領域もまた私の示す動力的学習の領域の中に,ひ とつにまとめることができるのである。

2.時間割即カリキュラム

現在どこの学校でも行なわれている週時間割とカリキユラムは(本校の場合も類にもれないが)

全く別々に組まれている。何教科が何時間と,しかも,授業をやる日と時間までもが,教育され る内容に関係なく・とびとびに形式的に組まれ,その時間の中で,各教科ごとに各領域ごとに教 育内容が配分されている。

しかし・教育内容の中には,長期間経続的に行なわれるべき内容と,集中的に短期間で,しか もあるまとまハた時間が必要な内容とがあるにもかΣわらず,現在の行き方では,毎日短時間で 継続してやりたい内容があnても,また,何時間か集中的に行ないたい内容があ^ても,簡単に そうすることのできない避けられない事実が存在することは,真に教育を見つめようとするもの なら・だれもが気づくはずである。

そもそもの問題点は,時間割は時間割で文部省の示す時間数にならりて組まれ,カリキュラム はカリキュラムで,単に年間時数から割り出して時間配分され組まれるところにあるのである。

この問題を解決するためには・どうしても時間割即カリキュラムの方向に行く必要がある。し かも・道具的学習内容に関しては,そのねらう能力内容ごとに,理論分析の上に立ったスモ_ル ステップの系統化がなされ・ひとりひとりの能力の段階に応じて個別カリキュラムが組まれるこ とが必要となnてくるのである。

この個別カリキュラムという意味は・ひとりひとりについてカリキュラムを立てるとqうこと

ではあるが,あるひとつの能力を考えた場合でも,能力の程度のちがいによってひとりひとり別

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清水:特殊学級教育課程改訂試案

かったように思われる。我々は,むしろ,この動力的学力のための時間を,道具的学習と同様,

相当のウエイトを持nて計画しなければならない。そのためにも,異質的な学習集団の構成が必 要となハてくるのである。      一

この観点は,ある意味では,現在の普通学級と特殊学級とのわくをとりはずすひとつの力とも なりうるものである。その意味では,現在の本校での特殊学級における,1年から3年までの生 徒がひとつになり,具体的な生活を通して学習する総合学習の時間は,この動力的学力をのばす ための異質的学習集団として大いに意義のあるものと思う。

まとめの意味で,流動的学習集団と異質的学習集団の1日の中での時間配分と,個別カリキュ ラムとの関連についての例を図4に示す。

図4 〔1日の学習計画の例〕

(生徒)→ A    B    G D    E

流 リズム感覚機能訓練 音   楽 ( 個

午  動 道 別

   的

O  学 体   育

具 及

I び

習 学 能

集 言語の ひらがせ読み書き訓練 国   語 習 力

団 ) 別

) 機能

P練 前数概念思考訓練 数 学

指導

   婁午  質       }       l

@         i心理治棚学級農園作り    一_一一_一、

莇集力 団

的 的 学

後  学 (生徒計画による生徒の運営) 学 習

習 習 指

集 ) 導

4. チィームティーチング的教師集団

さて,生徒の学習集団が,流動的学習集団と異質的学習集団により構成されるべきであるとす れば,当然,教師集団も現在のま」ではこれに対応することはできない。何らかのシステム化が 必要になることは明白である。

そのためには,まず,異質的学習集団を単位として,教師のチィームを構成すべきであると考

える。

その構成は,動力的学習,つまり異質的学習集団を直接担当する教師が中心となり,各教科専 門教師,各種機能訓練師,心理治療師,医師及び学校保健専門教師, 等によるチィームであ

る。そして,それらの教師の分担は,図5に示すごとく,密接なつながり を持つようにするので

(8)

ある。

たとえば,各教科の専門教師が道具的学習にあた6ている際に,機能訓練を必要とする生徒に に各種機能訓練師がそれら生徒の指導にあたり,また,リーダーが動力的学習の指導にあたって

図5 〔チィームティーチャー担当領域関連図〕

各教科専門教師

道具的学習

諺デ…の提出 個別カリキュラム  ふ

/ \

奇. φ

、/ \

チ・一ムリーダー @  ㍉

動力的学習

各種機能訓練師

   ①越、

 タ・ @ \

ォ難医師 囎師

医学治療

種機能訓練 及び

心理治療          」

fーターの交換

いる際にどうしてもその集団の中へ入ハて行けない生徒がいる場合には,心理治療師がその生徒 の治療教育にあたるのである。さらに,医学的な治療を必要とする生徒には担当医師が常に相談 にのり,適切な医学的な治療をすみやかにほどこせるようにするのである。

そして,それらすべての教戸実践におけるデーターを持ち寄り,リーダーを中心として常に検 討を加え,個別カリキュラムの修正をほどこしていくようにするのである。

以上のような組織を持たないかぎり,現在ある教師集団のまΣの,一斉授業を前提とした教育

システムのま\では,個の能力の開発などと言^てみても,結極は体制の波におし流され,ひと

りのこらず・すべての子どもに・真の自已実現をねらう教育を行なうことはきわめて困難である

と思う。そう思うことは私一人の単なる考えすぎであるのだろうか。

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清水:特殊学級教育課程改訂試案

V あとがき

教育課程の問題はあまりにも大きすぎる。しかも,考察する際には,あらゆる角度からの検討 が必要となる。それだけに難題であり,ややもすると,自分の主張しようとしていることがその まま真意で受けとられなかりたりして,誤解・曲解を生んだりすることが多いものと思う。しか

し,誤解を生ずるようでは,こちら側がまだまだ不完全なるがゆえんであろう。

だが,私は,あえて誤解されたり,批判されたりすることを恐れはしない。むしろ,多くの人 の反論を期待する。それは,次への進展を促すからである。

今や,わが国の特殊教育は,量的には相当の発展を示してはいるが,その中身は,過去数十年 間の量的発展に比べると,さほどの発展をみせてはいない。このことは,単に特殊教育のみでは なく,普通教育においても言えることではなかろうか。

発展ということは,いつも新しさを求めるということではない。むしろ,過去の教育の中での 艮さを現代の教育の中で生かしていくことにあると思う。その意味で,私は,その教育の真髄に あるべきものを,封建時代での寺小屋式教育の中に見出すのである。そこには,全くの個別の能 力教育と,教師の全人格を生のままぶつけていく全人的教育とでもいうべきものが共存していた と思う。(しかし,当時の教育者には,この面の意義について気づいてはいなかハたかも知れな

いが)。

現在の教育においては,そのどちらもが,マスプロ教育の中で変容し,今やその姿すらもわす れ去られようとしているのではなかろうか。我々は,もっと,過去の教育に学び,その中にある 教育の真髄を,教育の現代化の中で生かして行きたいものである。

今後の課題として,私は,この理論的考察の上に,さらに多くの方々の意見を取り入れ,より

完全なものとし,ぜひ,チームを組んで実践の場で検証して行きたいと願うものである。       ●

@最後に,この論文をまとめるにあたり,附属中学校特殊教育主任の堀川賢寿先生より,多大な る知的援助をいただいたことをここに記し,心から感謝いたす次第である。

(完)

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