要 因 として の宗 教
︿翻訳﹀
要因としての宗教
一はじめに ﹄魯き○巴ε昌ひq
高村忠成訳
われわれは長い間︑個人︑社会そして地球的レベルで社会分
析を行う揚合︑唯物論的な方法を用いてきた︒それは社会・経
済的要因を重視する考え方である︒宗教とついたこの小論のタ
イトルは︑筆者が唯心論的考え方への転換を提唱していること
を意味するのであろうか︒全くそうではない︒表題の"要因"
という言葉は︑要因としての宗教を拒否するとともに︑宗教は
直接的役割を果たすものではなく︑下部構造の中のもっと物質
的な要因から生じた結果でしかないという命題をも否定すると
いうことを表わしている︒宗教は多くの要因のうちのひとつの
要因であり︑しかもおそらく︑主要な要因のうちのひとつであ
ろうと考えられてきた︒しかし︑多くの人によって︑非常に重
要であるとみなされてきたこの点について︑何らかのより明確 な態度を打ち出す前に︑宗教についてもう少し多くのことを知
る必要がある︒
具体的にいうならば︑宗教の社会的意味がはっきりわかるよ
うな方法で︑宗教を分析しなければならないのである︒換言す
ると︑宗数を超越的な立場から少し引き降し︑もっと世俗的な
レベルに近づけねばならない︒つまり宗教が地上に存在する物
質と比較できなくてはならないのである︒私はそのための方法
としては︑他にもっとよい方法があるのかも知れないが︑今の
ところたんに次のように尋ねるしか手がない︒すなわち︑ある
宗教の思想形態︑理念構造が極めて具体的︑物質的で︑人間的
実在の中の︑どの構造および過程と最も両立するのであろうか︑
という問である︒両立性からある一定の傾向や性質︑それは一
つの偏見だが︑そこへの段階は消極的な意味の場合を除いて
は︑あまり明瞭ではない︒すなわち宗教は︑非常に明確で具体
的な構造を積極的に決定するというよりも︑ある形態の構造や
過程を排除しようとする傾向にある︒宗教は差し止めるが︑し
かし曖昧な方法で指示することはないであろう︒だが︑社会的
分析のためにはそれで十分であり︑また重要なのである︒宗教
は両立しうるものを更に促進し︑両立しないものを排除し︑し
かも禁止さえするのである︒
宗教をわれわれの物質的存在と接近させることが必要である
とのべるにあたって︑宗教が何を意味するかを見てとること
は︑私が宗教の本性と考えている超人性︑超越性を宗教から剥
奪してしまうことではない︒宗教とはレ・リジオ︑つまり再び
連結させることである︒何と連結させるのか︒多くの宗教の中
でも︑西洋の宗教の特徴をなす人格神と連結させることは必ず
しも必要ではない︒むしろそれは︑個々の人間や具体的なひと
かたまりの人間を超越した何かとであり︑いわゆる超入的なも
のと結び付けることであろう︒宗教は何かであり︑存在を脱し
たものであり︑道である︒しかしどのように考えようとも︑そ
の"何か"は︑存在に意味を与えているものである︒その何か
は︑宇宙を︑つまり自然的︑地球的︑社会的︑個人的空間を︑
少なくともある程度組み立てている︒それは話し︑考えるとい
うことを含む人間の行動を指導する︒明らかにそれは︑"発展"
とよばれるこの世の事物と結び付いているのである︒このよう
にのべる時︑人はたしかに︑宗教もまた社会・経済的構造によ
って決定づけられているという仮説を︑少なくとも人がそれと
反対の仮説︑すなわち宗教は同時にそれら構造を決定づけてい
るのであるという仮説を受け入れている限り︑放棄することは
ないであろう︒すなわち︑おそらく宗教を観察するのに︑より
成熟した見方とは次のようなものであろう︒つまり宗教も社
会・経済的構造も︑ともにより深部に存在している要因︑ある
揚合は宇宙論といわれるもの︑それが表面に現われたものであ
る︒
二世界の宗教地図
次頁の図は︑世界の宗教を幅広く調査した努力の賜物といえ
るようなものではない︒アメリカ大陸原住民地域︑アフリカ︑ 太平洋地域(ポリネシア︑メラネシア︑ミクロネシア)などを
除いた主な宗教に焦点を当てたものにすぎない︒ただ除外した
ものについては終りの方で少し触れることにする︒この図が意
味しているのは︑いわゆる"世界宗教"に焦点をあてることは︑
それ自体出発点から危険であるということである︒というの
は︑"より高度な文明"は世界宗教に焦点をあてるという方法
論の結果であろうという偏見をもってしまうからである︒後に
この誤りを正す作業を試みることにしよう︒
ω宗教による地理的区分
図1を概観してわかるように︑主要な宗教をヒンズー教を中
間において︑西洋から東洋まで系統だてて配列してみた︒この
場合︑ヒンズi教は︑"どちらの側にも組みしない"という観
点から見るのではなく︑西洋︑東洋"どちらの側にも組する〃
という点から考えて欲しい︒というのはヒンズー教は︑ここで
考えられるような西洋と東洋で見い出せる思想の宗教的形態
を︑その驚くほどの複雑性の中に大部分包摂しているからであ
る︒
宗教の内容面から︑二つの概念を規定できる︒西洋とは︑キ
タブ囚一雷びの宗教によって支配されている地理的空間と考えら
れる︒キタブとは旧約聖書(キリスト教の見地からみれば聖書
の一部)を意味する聖書のことである︒また東洋とは︑釈迦の
教義が影響力をもっている地域である︒このことは要するに︑
ここでいう西洋︑東洋という概念は︑宗教の内容面から定義し
たものであり︑地理的な西洋︑東洋という分け方とは必ずしも
要 因 と して の宗 教
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一致しないということを意味する︒だから地理的にはしばしば
東洋︑東南アジアと考えられているアセアン諸国の中に︑西洋
と東洋の宗教が結合しているという興味深い現象が見られるの
である︒
たとえば︑フィリピンはカトリックだが︑少数の回教を強く
信じている人々がいる︒インドネシアは回教国であり︑シンガ
ポールは道教︑儒教︑そして仏教が混り交った思想をもつ中国
人によって占められている︒その中に少数の回教を信じるマレ
ー人︑ヒンズー教のタミル人がいる︒マレーシアには中国人に
加えてシンガポールに対して記述したようにマレー人とタミル
人がいる︒またかなりのキリスト教の影響も受けている︒そし
ノて最後にタイであるが︑そこは純粋に小乗仏教であり︑少しだ
が回教徒もいる︒東南アジアと東アジア諸国というのは︑はっ
きりした区別がつけにくいが︑私の意見ではそのような紛らわ
しさは︑宗教的違いから生じてきているのではないかと思う︒
もちろんこれは︑その根底に他の相違があるということを否定
するものではない︒ただこの宗教的相違は︑"西洋"と"東洋"
というような区分けが︑しばしばなされているように︑もしこ
れを最も単純な地理的意味で行ってしまうと︑両者の関係性を
かえって漠然としたものにしてしまうだけである︑ということ
を物語っていよう︒
②西洋の宗教の基本的内容
宗教地図を左から右へ見て行くことにするが︑まず西洋の宗
教の基本的な内容から出発しよう︒私はそれは五つの部分に分 けられると思う︒
ωひとつの人格神がある︒その神は︑人間の形をしており︑
一般に背が高く年とった男性で白人︑貴族的な風貌をしてい
て︑卓越した行動力をもっている人︑という特徴がある︒
②その神は︑彼の側にだれかがいることに対して寛容ではな
い︒彼は唯一のものである︒その宗教は他の信仰を排除し単一
であり︑何ものもそれに反駁することは許されない︒
圖広くいえばその宗教︑そして個別的にいえばその人格神
は︑全世界のため︑全人類のため︑かつ全宇宙のために存在す
る︒神は普遍的存在である︒
働すべての人間(しかしもともとは女性よりも男性)は︑各
人特有の人格的魂を備えており︑言説や思想を含む祈りや正し
い行動を通して︑人格神との接点を築き上げている︒
㈲その魂には︑天国または地獄において︑永遠の生命を付与
されており︑どこで付与されるかは全般的には今世における行
動と︑また個別的には人格的魂と人格神との間の関係性いかん
にかかっている︒
基本的な点については︑西洋の宗教は多くの共通点をもって
いる︒だが明確な相違があることもいうまでもない︒次頁の図
は︑それらいくつかの相違を歴史的に︑時を追って描いたもの
である︒
㈹各宗教の特質
aユダヤ教
出発点はユダヤ教である︒それはヤーヴェの神を頂点とし︑