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聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境

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Academic year: 2021

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一︑宗教の発生

  日本の最も伝統的な宗教として神道と呼ばれるものがあるしかしこの神道とは何かと定義する事になると其れは極めて困難なことであると感じざるを得ないなぜならば一口に神道 Бと言ってもそのВとして仰ぐものが一体何であるかが統一されたものではないし各祠神社或いは社などの建築物を持たない場合もあるであろうが其のまつられる場所によってもそれぞれ異なっているようであるからである其ればかりでなく同じ場同じ神のことであっても時代によってもかなり異なるし亦時代によっては他宗教の影響も受けたようである中世には本地垂跡 Гということで仏教と接近し室町では神仏儒 Д三教の調和が唱えられ江戸の後期には復古神道が盛んになったりしたのは周知の事であるそんな訳で神道を一つの概念でくくる事はきわめて困難である   ここでそんなに改まる必要もないのであるが一応簡単に宗教とはそもそも何かということを考えておく必要があるであろう

  宗教発生の基本は︑﹁人間は死後一体どうなるのかという恐怖に答えを与えるはずのものである

  古代宗教の誕生は恐らく総て此処に基づいているこの死の恐怖と死後の恐怖から逃れるために人は自然の眼前の様々な災難や驚異的脅威的現象に対してそれぞれに見合っていると想われる解釈を施したのであるしかしそのような現象の殆どは解釈する術も無くただ其れはこの世を支配している人智を超えたものの怒りによるものであると結論付けたのである故に人はこのこの世を支配し人智を超えた者を神と名づけその怒りを静めるためにその想定される存在に対してそのつど様々な願いを捧げその怒りを柔らげるようにおすがりし同時に自分達が生きていくに当たっての安泰と未来への幸せをお願いしたのであるこのお願いが祈りなのである

研究 ノート

聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境

髙   橋  

 

 

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三 二

三 二

  しかし此処で最も困難な問題はそのようなこの世を支配し人智を超えた存在とは何処に存在しているのかを認定する事であるこうした定義に最もふさわしく感じられるのは世の東西古今を問わず其れは太陽であるただとか太陽とか謂うのではなんとなくとりとめが無いので其れを擬人化したのが所謂太陽神 Еであり︑﹁日の神であり日本の場合は天照大神アマテラスオオミ神である日本のこの神は太陽神が擬人化されたものである

  宗教学には全くの素人が一応感想程度のことを此処に書く事になるのであるが

  神が擬人化されるとはどういうことか其れは神にも家族があり暮らしがあるとされる事である其れは人間と全くおなじというわけではないが例えば場合によっては神にも親がおり兄弟がおり子供がいると謂う具合になるということである故に何でも一番えらい神に祈るのは当然であるとしてもことによっては直接最高神を煩わするよりその弟とか子供のほうが適当であると謂う場合も考えられると謂うこともあるそれはつまり神の世界における社会化であり序列化が生まれてくると謂うことである

  こうした現象は日本のみならず世界各地に残る所謂神話 Ёを見ればよく理解できる

  そして神を考え神の世界を考えその世界の構造を考えその世界の社会と序列を考えその社会と序列の間に生じるに違いない多くの矛盾と軋轢とを考えてそれらがそれぞれ物語りとして生成され結実していったものが神話であるそして其れはある程度人間社会の構造序列矛盾軋轢の反映でもあるのである   しかし最初の恐怖の神から此処までの過程を考え出しその社会構造の序列がある程度成熟した後も神話までの道のりを辿ってくるには相当の歴史的時間が流れる事が必要であるつまり神話の生成は人間の神観念の発生から考えても相当後のことになるであろうしかも学説的にいえば日本神話 Ж高天原系出雲系日向系に分かれるらしいしまた比較神話学 З的に言えば例えば日向系神話は南太平洋系であるとかそのほかギリシャ系印欧語族系とかいろいろ海外からの影響を考えねばならないらしいしかしそうした内外の影響関係がたとえ有ったにしてもこうした一つの纏まりを持った独立性のある神話の発生成立はその核としては一部族的であり一氏族的であると謂うことを見落としてはならない

二︑宗教と神道

  話を戻すと古代人の信仰とは厳密に言えば現代人でもそうであるが極めて個人的なものである自然の恐怖から身を守りたいという願いから発する信仰は様々な対象物に様ざまな場で様ざまな形を採って表現される日本人の原始的というか最も古代的な信仰というものはどんなものであったのかは知る術がないしかし日本では少し後のことになるが昔から八万社といわれる多くの所謂神社が祀っている御神体が神話上の神想像上の人動物また実在した人物や動物など非常に多岐に亙っているのを見ても理解できようそう考えてみるとこうした神社の信仰理念を一括りにして神道と呼ぶのは極めて不自然であるように思われるつまり信仰としては最も根本であ

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三 二 聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境 Vol. 45 No. 1

三 二

る信仰対象の違う信仰を一つに纏めて捉えようとすること自体にそもそも無理があるのである古代人の一人ひとりの中にそれぞれ異なった信仰が存在するからであるその場合の信仰対象の多くは自然物であるそれらは太陽であり月であり星であり天空であり山であり川であり海原であり大岩であり大木古木であり時には大雨であり大風であり雲でありまた時には狼や熊や狐などのばあいもあるであろうただもし共通性のある信仰観念があるとすれば其れは恐らく自らを守ってくれるはずの祖先神でありそれぞれの部族氏族の守護神としての大本の祖先神であろうつまり日本の古代人の信仰は神を祀る社の中に表の形としてこのような祖先神が信仰対象として表されているかどうかは別としてこの祖先神にそれぞれ他の多くの様ざまな先に挙げたような信仰対象物をプラスしたものなのであったであろう

  日本人の古代信仰というものはいうなれば一人ひとりが或いは一部族一部族がそれぞれ異なった宗教を持っていたのであると考えるほうがより妥当であろうつまり日本の神社というのはその建物こそ同質の建築様式で互いに似通ってはいるがそれは当時の日本の建築様式或いは高級な建築物の様式がさほど多くの変化をもっていなかったと謂うだけのことで信仰内容はそれぞれまったく異なっているのであるただそこに国家という一つの強力な権力が登場してくるとそこに束ねられてしまうということになるのであろうがその束ねからもれているものも当然多いはずである

  だいぶ後世のものになるが平安時代初期の延喜神名式 Иに登録記載されている神社は二八六一社でありその祭神数は三一 三二座である勿論この中には名前として重複している祭神も多いが基本的にはそれぞれが独立した神社であり独立した祭神なのであるたとえおなじ祭神を掲げている場合でも宮社が異なっていればお互いに独立しており相互には殆ど連絡関係は無いのである

三︑神武紀と神祭り

  日本への仏教公伝は欽明紀の五三八年とされるそれではその頃までの日本の神や神社の状況はどうなっていたかを少し見てみると先ず神武天皇即位前紀では

  天皇の莵 の高 たかくらやまの巓 いただきに陟 のぼ︑⁝⁝の夜 みずから祈 うけひて寝 みね

ませりいめに天 あまつかみりて訓 をしへて曰 のたまはく︑﹁あまのやまの社 やしろの中 なかの土 はに

を取りてあまのひらひらを造 つくあはせて厳 いつを造 つくりてあまつかみくに

つかみКУゐやびまつまたいつかしりをせよせば虜 あたおのづからに平 むきしたがひなむとのたまふ

  此処に謂うとは何を祀った神社なのか明らかではないが現在奈良県橿原市南浦町にある天香山神社であろうか小学館が一九九四年に刊行した日本古典文学全集日本書紀の頭注には︑﹁延喜式神名の天香山坐櫛真命神社﹂︵十市郡を指すかとあるがはっきりとはしないその後の部分には︑﹁天神地祇を敬祭りとあるからこの高い山の上で天の神と地の神を祀ったことは間違いないまた後文に

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五 四

五 四

  天 すめらみことおほきに喜 よろこびたまひ乃ち丹 の川 かはかみの五 さかを抜

こじにしてもろいろのかみたち神を祭りたまふこれより始 はじめて厳 いつの置 おきもの時に道 みちのおみのみことに勅 みことのりしてのたまはく︑﹁今し高 皇産霊尊を以ちてわれみづから顕 うつしいはひを作 さむ

  とある︒﹁顕齋についてこの小学館本の頭注には︑﹁際の語構成で実際には見えない神が眼前に顕在しているように忌み慎んで祭祀することここでは神武天皇がその神霊の慿人となり自ら高皇産霊尊となる事によって目の前に顕在した祭神となる祭祀の形態をいう︒﹂としているしかしこの場合の諸神とはどんな神々かはっきりしないが其れで見るとこれ等の神は自然神ではなく神武天皇の祖先に纏わる有人格の神々ということになるであろうまたおなじ神武天皇四年春二月の条に

  詔して曰はく︑﹁が皇 おやの霊 みたまあめより降 くだりみそこなはが躬 を光 てら

し助 たすけたまへり今し諸 もろもろのあたどもすすでに平 ことむあめのしたに事 こと以ちて天 あまつかみを郊 かうちて大 たいかうを申 まをすべしとのたまふ

  とある此処には皇祖の霊が天降ってくるのに対して此処で天神を祭って我が身がどれほど大孝を尽くしているかをあらわそうとしているのである此処に謂う郊祀とは郊外で天を祭ることである

  以上の神武紀に登場する祭る﹂﹁祀る神を祀るのであるがそれらは総て神武天皇家に関わる祖先の神々を言っているようである勿論これ等の記事は事実ではありえないし時代的にも恐らく五六世紀から七世紀ぐらいの習俗に基づいて記 述されたものであろうということは自然物に宿る多種の神を崇めると謂う謂わば原始宗教とは全く異なったものになっているのである

四︑崇神紀と神祭り

  崇神天皇紀四年の詔に   惟 これが皇 おやもろもろのすめらみことたち天皇等の宸 あまつひつぎを光 しめししことはあに

ひとはしらの爲 みためならむやけだし人 じんしんを司 とのКФあめのしたを經 めたまふ所以なり

  とあり天皇は人も神も司牧するというのであるこれは天皇を神をも采配すると謂う高い立場にあるものと認識しているようにも想われるが一方神を天皇より低い一般の人と同じ立場にあるものとの認識が感じられなくもないこうした認識の背後には神と天皇は非常に近い立場にあるつまり司牧される神とは天皇の祖 おやかみたちであって言い換えれば天皇の身内であると謂う認識があるのであろう故にこの場合の神とは謂わば祖先達の霊というぐらいの意味であろうしかも其の祖先の霊たちはすぐ身近に存在していると謂う感覚であるまたすぐこの後の六年の条には百姓の中には流亡離散するものや歯向かうものの勢いが強かった為に

  是 ここを以ちてつとに興 き夕 ゆふへに惕 おそつみを神 あまつかみくにつかみに請 みたまふこれより先 さきあまてらすおほみかみやまとのおほくにたまふたはしらのかみを並 ならびに天 すめろみことの大 おほ殿 との

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五 四 聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境 Vol. 45 No. 1

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の内 うちに祭 まつ   とあるこの神祇とは天神地祇であってこれは天照大神倭大国魂とおなじであるらしいこの後文に

  故 かれ天照大神を以ちて豊 とよすきいりひめのみことに託 やまとの笠 かさぬひのむらに祭りりて磯 かたの神 ひもろぎを立つまた本大 おほくにたまのかみを以ちて渟

きのいりひめのみことに託け祭らしむ   とある最初宮中に祭られていたこの二神がこのあたりから宮中の外で祭られるようになったらしいこれはこの二神を天皇家から離しておほみたから一般にまでその信仰を広げようとする意図があったのかもしれない崇神天皇紀はその名にも由来するのであろうが非常に神 かみかかり的な天皇である七年の春の詔に

﹁⁝⁝をもはざりきいまし朕 が世 に当 あたりて数 しばしばわざはひらむとはおそ

るらくはみかどに善 よきまつりごとくしてとがを神 あまつかみくにつかみに取れるにかなにぞ命 神亀 КХて災 わざはひを致す所 を極 きはめざらむ︒﹂とのたまふここに天皇すなはち神 かむあさはらに幸 いでましてよろづのかみを会 つどへて卜 うらひたまふの時にやまとももひめのみことに慿 かかりて曰 のたまはく︑﹁天皇なにぞ国の治 をさまらざることを憂 うれへたまふやし能 く我 われを敬 ゐやまび祭りたまはばかなず自 ひらぎなむとのたまふ天皇問ひて曰はく︑﹁如此教ふは誰の神ぞとのたまふ答へて曰 のたまはく︑﹁われは是 これ

やまとのくにの域 さかひの内に居 る神名を大 おほものぬしのかみと爲 とのたまふ時にかむごとを得 て教 をしへの随 ままに祭 いはひまつ   とある此処に謂う大物主神とは︑﹁神代紀上に出てくる大三輪の神で今大神神社に祭られている神であるらしいまた秋八月には

  倭 やまとはやかむあさはらまぐはしひめづみのおみが遠 とほつおやおほみなくちの宿 すくのをみの

きみたり共に同じ夢 いめみて奏 まをして言 まをさく︑﹁の夢に一 ひとりのうまひと

をしへて曰 いは︑﹁大田田根子命を以ちて大物主大神を祭 まつる主 かむぬしと爲 またいちしのながを以ちて倭 やまとのおほくにたまのみみを祭る主と爲せば必ず天 あめのしたひらぎなむといふとまおす︒⁝⁝天皇即ち親 みづから神 かむあさ

はらに臨 いでまもろもろのおほきみまへつきみと八 もろとものをとを会 めしつどへて大田田根子に問ひて曰 のたまはく︑﹁いましは其 れ誰 が子ぞとのたまふこたへて曰 まをさく︑﹁父を大物主大神と曰 まをははを活 いくたまよりひめと曰 まを⁝﹂とまおす⁝⁝すめらみことの曰 のたまはく︑﹁⁝⁝すなはち物 もののべのむらじが祖 おやかがしこをしてかみものあかつひとКЦせむと卜 うらなふに便 たよりに他 あたしかみを祭 まつらむと卜 うらな

ふにからず   又続いて

  十一月の丁 ていぼうの朔 つきたちにして己 ぼうかがしこに命 みことおほせてもののべの

が作 つくれる祭 かみまつりものを以 ちてすなはち大 おほを以ちて大 おほもの

ぬしのおほかみを祭 まつる主 かむぬしとしまたながを以ちて倭 やまとのおほくにたまのみみを祭る主としたまふしかして後 のちあたしがみを祭らむと卜 うらなふに便 すなはち別 こと

に八 よろづのもろかみたちを祭りりて天 あまつやしろくにつやしろと神 かむところかむを定めたまふここに疫 やみ始めて息 くめやくやくに謐 しづまいつつのたなつものすでに成 みの

りておほみたからにぎはひぬ

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七 六

七 六

  とあるこうして見てくると天神地祇つまり天照大神や倭大国魂神と言えどもやはり天皇家の氏神皇祖の身内の神という観念が見て取れる更に九年春三月の条に

  天皇の夢 みいめに神 してをしへて曰 のたまはく︑﹁あかたてひらあかほこ竿 さを

を以 ちて墨 すみさかのかみを祠 まつまたくろたて八枚くろほこ八竿を以ちて大 おほさかのかみ

を祠 まつとのたまふ四月の甲 かふの朔にして己 いうみいめの教 をしへに依

りて墨坂神大坂神を祭 まつりたまふ   とある此処に謂う墨坂とは小学館本の頭注釈に︑﹁奈良県宇陀郡榛原町の大和と伊勢を結ぶ要路とあるまた大坂は同じく︑﹁奈良県北葛城郡香芝町孔虫二上山北側の穴虫越えで西の河内に出る要路とする恐らくこの二条の道は古来から人のよく行きかう道であってしかも当時は山深く木々の生い茂った山中であったために追いはぎ盗賊の類などがよく出没しそのため人々は其のあたりに魔物の存在を想像して其の魔物の跳梁を鎮めるために此処に鎮めの神を祭ったのであろうだからこの二柱の神は要は土地神土地鎮めの神であるこうした土地神は殆ど国家権力や地方権力とは関係の無い神で後に多くは村の鎮守の神や道祖神に収斂されていったものであろうまた十年七月の詔に

  民 おほみたからを導 みちびく本 もとをしへおもぶくるに在 いまし既に神 あまつかみくにつかみを礼 ゐやまひてわざはひみなきぬしかれどもとほきくにの人 ひとどもなほし正 せいさくをうけず

  とあるここでもやはり天皇は天神地祇を最も頼りにしている のであるが其れがうまくいかないと嘆いているのであるこの後十年九月の条に孝霊天皇の妃である細媛命の子倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻となるしかしこの神の本当の姿が小蛇である事を知って驚き叫んだのであるが其のことによって大物主神は恥をかき倭迹迹日百襲姫命は其れを後悔し恥じて箸で陰を突いて死んだと謂う説話が書かれているここに書かれていることは神はその本来の姿こそ人とは異なっているもののその行動様式には人と全く異なる所がないそして︑﹁是の倭迹迹日百襲姫命の墓は日は人作り夜は神作るとある此処では神と人は全くの同列であるまた十二年秋九月の条に

  始めて人 おほみたからを校 かむがへてまた調 みつきえだちを科 おほこれを男 をとこの弭 ゆはずの調 みつきをみなの手 たな

すゑの調 みつきと謂 是を以ちてあまつかみくにつかみ共に和 あまひてかぜあめ時に順 したがもものたなつものちて成 いへり人 ひとあめのした大きに平 たひらかなり

  とある此処の天神地祇とは所謂天の神地の神を謂うのではなく所謂自然全体を指しているのであろうつまり自然の法則と人間界の制度がうまく調和していると謂う事を言っているのであろう亦六十年の秋七月の条に

  群 まへつきみたちに詔 みことのりして曰 のたまはく︑﹁たけひなてりのみこと以下小書き︶︹あるに云 はくたけひなとりといふまた云はくあめひなとりといふ︒︺の天 あめより将 もちきたれる神 かむたからいづものおほかみの宮に蔵 をさめたりこれ見まく欲 とのたまふすなはち矢 べのみやつこが遠 とほつおやたけもろすみを遣 つかはしてたてまつらしむの時に当 あた

いづものおみが遠 とほつおやいづものふるかむたからを主 つかさどれりこれつくしのくにに往 まかりて遇 まゐあはずの弟 おといひいりすなはち皇 おほみことを被 かがふ神宝を以 ちて弟甘 うまから

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七 六 聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境 Vol. 45 No. 1

七 六

と子 うかづくとに付 けて貢 たてまつ既にして出雲振根つくより還 かへり来 きたりて神宝を朝 廷に献 たてまつると聞き其の弟飯入根を責めて曰 いは

︑﹁いくばくのか待つべきをなにを恐 かしこみてかたやすく神宝を許ししといふここを以ちてすでに年 としつきは経 れどもなほし恨 いき忿 どほりを懐 うだおと

を殺 ころさむとする志 こころざし   此処から読み取れる事は第一に出雲大神の宮には天から将来されたと謂う神宝が納められていたと謂うこと第二にこの神宝は極めて重要なもので弟の命に代えても守るべき価値あるものであるらしいと謂うこと第三にこの神宝は当時の中央政権によって何らかの方法によって奪い取られたと謂うこと

  であるしかし考えられる事はこの時奪い取られた神宝の中には神宝そのものばかりでなく神宝に纏わる一切のものも含まれていたのではないかということである例えばこの神宝に纏わる伝承説話或いはそれらに関係する伝統制度風俗習慣などである其の裏づけとして︑﹃書紀はこの後弟飯入根は兄の振根に殺され中央の朝廷はこの兄の振根も誅滅してしまうのである天皇は出雲と朝廷とのこうしたいざこざを清算するために結局は勅を下して出雲大神を祭らせることにしたのであるこのあたりに大和朝廷と出雲大神を抱えた出雲政権との関係の初期的な段階を見ることが出来るであろう

五︑垂仁紀と神祭り

垂仁天皇紀の神祭りで有名なものは伊勢の祭祀である二十五年春三月の朔の条に   天 あまてらすおほみかみを豊 とよすきいりびめのみことより離 はなちまつりやまとひめのみことに託 けたまふここに倭姫命おほみかみを鎮 しづめ坐 せむ処 ところを求 もとめての筱 ささはたに詣 いた

さらに還 かへりて近 あふみのくにに入りひがしのかたを廻 めぐせのくにに到 いた時に天照大神倭姫命に誨 をしへて曰 のたまはく︑﹁の神 かむかぜの伊 せのくにすなはち常 とこの浪 なみの重 しきなみする国なりかたくにの可 怜国 くになりの国に居 らむと欲 おもとのたまふかれ大神の教 をしへの随 まにまの祠 やしろを伊勢国に立てりて斎 いつきのみやを五 十鈴川 かはの上 に興 てたまふ是を磯 いそのみや

と謂 則ち天照大神の始 はじめて天 あめより降 くだります処 ところなり   とあるまた二十六年秋八月の条には

  先の崇神天皇のところでは︑﹁日本大国魂神を以ちて渟名城入姫命に託け祭らしむ︒﹂としたことの続きとして

  天皇もののべのとをねのおほむらじに勅 みことのりして曰 のたまはく︑﹁しばしば使 者を出 いづものくにに遣 つかはして其の国の神 かむたからを検 けんかうせしむと雖 いへどわきわきしく申 す者 ひと

いましみづから出雲に行 まかりてけんかうし定 さだむべしとのたまふ則ち十千根大連かむたからを校 かうていしてわきわきしく奏 りて神宝を掌 つかさどらしめたまふ

  とあるこうして見てくると例えば先の崇神天皇のところでは︑﹁日本大国魂神を以ちて渟名城入姫命に託け祭らしむとあるまたいまここでも︑﹁天照大神を豊耜姫命より離ちまつり倭姫命に託けたまふとあるところを見ると神を託くされるのはどうも女性が多いように想われる或いは亦︑﹁是の時に神明倭迹迹日百襲姫命に憑りて曰はく︑﹁天皇何ぞ国の⁝⁝﹂等と神が拠り付くのもやはり高貴の女性であるらしい КЧ恐らく魏志倭人伝卑弥呼なる女王が登場するのもこのような

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九 八

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背景が存在したからであろうただ一般に女性には出産や女性特有の身体的事情などがあるためにずっと生涯神に仕える事は出来ないと謂うさわりの条件があるそれに時の権力あるものが所謂神の力を自分の勢力に引き入れようとする時其の神の力を持つものが女性では謀議に組み入れる事が難しいと謂う事情から拠り付きを女性から男性にうつしていったのであろう故に最古の事は知らず後には神に仕える専門職は男性ということになっていったのであろう

  序に記しておくとまた二十八年の条には   故弓矢と横 を諸神の社に納む仍りて更に神 かむところかむを以ちて祠 まつらしめたまふけだし兵 つはものをもて神 あまつかみくにつかみを祭 まつること始めて是 の時に興 おこれるなりこの後天皇の母 弟倭 やまとひこのみことの死に際して近習の者を生けながらにして陵墓に埋めたが数日経ても死なず昼夜泣き叫び遂に死ぬと腐って犬や烏が集まり噉 むというこのときの声を聞いて天皇は心傷ましく想い以降殉死はやめさせたとの記事があるしかしこうした無残な記事のところには神祭りは全く登場してこないつまり当時の神祭りはただただ天皇家のためだけについて存在したのであると謂うことがこのことから理解される因みにこれ以降君王の陵墓に生き人を埋め立たすのはやめて出雲国の土部壱佰人を召し上げて自ら土部等を率いて埴輪を作って其れを陵墓に埋め立てることにしたという記事がる此処で亦出雲の登場である

六︑出雲風土記と神祭り

  時代は些か降る事になるが︑﹃出雲風土記の意 の郡 こほり和 爾に遇ひ賊はれて帰らなかった娘の敵を取ろうとした父の猪麻呂の言葉として次のようにある

  天 あまつかみよろづはしらくにつかみよろづはしらならびこのくにに静 しづまり坐 います三百九十九社 やしろまたわたつみたち大神の和 にぎみ魂 たまは静まりてあら

み魂は皆 ことごとに猪 が乞 こひのむところに依 り給へ   とあって巻頭の合せて神の社は三百九十九所なり一百八十四所は神祇官に在り二百一十五所は神祇官に在らず︒﹂とあるのに一致しているがまた天神地祇合わせて三千万はしらということになり是は恐らく当時の出雲の全人口を遥かに超える数であろうまた神社についても他の諸国がどれくらいの神社を擁していたか知られないが一国で四百にのぼるとは大変な数であるたとえこれ等の数字にかなりの誇張があったとしてもこの辺りからも出雲の国が極めて神域に近いとされていた言うことが認識されようまた出雲郡宇賀の郷の条に

  磯 いそより西の方 かたに窟 いはやあり高さと広さと各 おのもおのも六尺ばかりなりいはやの内 うちに穴 あなありることを得ず深き浅きを知らざるなりいめに此 の磯 いその窟 いはやの邊 ほとりに至れば必ず死ぬかれくにひといにしへより今に至るまでの坂の穴と号 なづ

  此処には人が死んでからのあの世に行くための入り口があるというわけであるしかし興味がもたれることは此処では人のあの世神は全く関係が無いらしいことであるつまり神の世界とあの世とは関係が無いのである︒﹃書紀

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九 八 聖徳太子信仰成立の歴史的基盤と環境 Vol. 45 No. 1

九 八

神代上にも

  然 しかして後 のちに伊 奘諾尊 みこと奘冉尊 みことを追 泉国 くにに入 りてきて共に語 かたりたまふ時に伊 奘冉尊 みことの曰 のたまはく吾が夫 の尊なにぞ来ますことの晩 おそきやあれすでに食 つへぐひしつしかりと雖 いへども吾 あれいねやすまむな視 たまひそとのたまふ伊奘諾聴 きたまはずひそか

に湯 つまぐしを取りその雄 をばしちを牽 き折 きて秉 としてみそこなはせばうみき虫 うじたかれたり︒⁝⁝すなはち急 すむやけく走 げ廻帰 かへりたまふ︒⁝⁝時に伊奘冉尊恨みて⁝⁝乃ち泉 よもしこたりを遣 つかは追ひて留 とどめまつるかれ伊奘諾尊剣を抜き背 しりへでに揮 きつつ逃げたまふ︒⁝⁝のちに則 すなはち伊 奘冉尊 みことも自 みづから来 きたり追ひたまふの時に伊奘諾尊すでに泉 よもひら

さかに到 いたります︒⁝⁝かれ便 すなはち千 人所引の磐 を以ちて其の坂 さか

に塞 伊奘冉尊と相 あひきて立ちつひに絶 妻之誓を建 わたしたまふ

  とありここでも神の世界とあの世とは関係がないのである結局神道から見れば日本人にとって死後の世界と神は関係が無く神々の世界はあくまでこの人間の現世といわば横に繋がったもう一つの別の世界に過ぎないのである因みに出雲国風土記には︑﹁天の下造らしし大神と言う表現が何度も繰り返し出て来るこの大神とは大穴持命のことで大国主命のことであると言う神はこの世を作りそれを司りはするが黄泉の世界については全くの無力であるか或いは全く影響力をもっていないのであるこの辺に大和のみならず当時の一般的日本人が原始的に抱いたであろう宗教意識と些か異なったつまりある纏まりのある体系化された宗教から一歩離れた意味での神の存在観を見て取る事が出来るのであるつまり此処に教理宗教とは違っ た神意識の成立を考える事が出来るのである

七︑朝鮮民族の宗教性

  このような考え方は或いは朝鮮半島における神観念と関係があるかもしれない朝鮮古代文化における神に仕える道は万神とか花郎とか呼ばれ今謂うところの所謂ムダン司祭者であるムダンは神に仕えるものあるいは神に依り憑かれる者ではあっても神ではないしかしそれでは其の神とはどのような存在であるのかははっきりしない︒﹃三国史記三国遺事にもこの神の本来的なあり方に言い及んだ部分は見当ら無い半島に於ける神はどうも︑﹁天の下造らしし大神ではないしよって其処には天の下治しめすと云う観念も勿論無いまた更に天を造り支配すると謂う観念が無いのも当然である十三世紀頃になったとされる三国遺事﹄﹁紀異第一古朝鮮の項には朝鮮で最も古い権威ある︑﹁檀君神話が収められているが其処には次のようにある

  古朝鮮王倹朝鮮   魏書云乃往二千載有壇君王倹立都阿斯達︒︵経云無葉山亦云白岳在白州地或云在開城東今白岳宮是︒︶開国号朝鮮与高同時古記云昔有桓因謂帝釈也庶子桓雄数意天下貪求人世父知子意下視三危太伯可以弘益人間乃授天符印三箇遣往理之雄率徒三千降於太伯山頂即太伯今妙香山︒︶神壇樹下謂之神市是謂桓雄天王也將風伯雨師雲師而主穀主命主病主刑主善悪凡主人間三百六十余

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一一 一〇

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在世理化時有一熊一虎同穴而居常祈于神雄願化爲人時神遺霊艾一炷蒜二十枚爾輩食之不見日光百日便得人形熊虎得而食之忌三七日熊得女身虎不能忌而不得人身熊女者無与爲婚故毎於壇樹下呪願有孕雄乃仮化而婚之孕生子号曰壇君王倹︒︵魏書に云く乃ち往 かし二千載壇君王倹有り都を阿斯達に立つ︒︹経に無葉山といふ亦た白岳と云ふ白州の地に在り或ひは開城の東に在り今白岳の宮なりと云ふ開国し朝鮮と号すと時を同じくす古記に曰く昔桓因有り︒︵帝釈と謂ふなり︶︒庶子桓雄しばしば天下を意 おもひてむさぼりて人の世を求む父子の意 おもひを知り下に三危大伯を視るに以って弘く人間に益すべきとす乃ち天府の印三箇を授けて遣り往きて之を理 さめしむ雄徒三千を率ゐて太伯山頂即ち太伯は今の妙香山の神壇樹の下に降る之を神市と謂ふ是を桓雄天王と謂ふなり風伯雨師雲師を将ゐて穀を主さどり命を主さどり病を主さどり刑を主さどり善悪を主さどらしむ凡そ人間の三百六十余事を主らしめ世に在りて理 おさめ化す時に一熊一虎有り穴を同じくして居する常に神雄に祈り化して人と爲るを願ふ時に神霊艾の一炷と蒜二十枚を遣 おくりて曰くいましたち之を食し日の光を百日見ざれば便ち人形を得む熊虎得て之を食し三七日忌みて熊女身になるを得たり虎忌むこと能はずして人の身となるを得ず熊女は与に婚をなす無し故に毎に壇樹の下に於いて呪して孕むこと有るを願ふ雄乃ち仮に化して之と婚ず孕みて子を生み号して壇君王倹と曰ふ КШ︒︶

  是は神話とは言いながら決してそんなに古いものではない 朝鮮王朝の開国神話と見ると十四世紀ぐらいに成ったものと想われるしかしこの中にも朝鮮民族の古代の風俗が含まれていると考えると幾つかの注目すべき点があるつまり

   ① 朝鮮民族の祖先は天から降りてきた桓雄という者であったらしい

   ② 其の父親の桓因が天上の世界を作ったのかどうかはわからないまた天上世界の状況はどのようであったかも解からない

   ③ ただ桓雄は人間の三百六十余事の凡てを主さどったということであるしかしこの主さどるとは具体的にはどうする事なのかははっきりしない

   ④ 後はこの桓雄が熊女と結婚して子を生み其れが朝鮮王朝の初代王王倹であるという

  以上のことから解かる事は朝鮮王朝の根本的な出自ははっきりしないと謂うことそれと天孫系の王がこの世界に進出してきてこの世を支配する事になった時の権勢の力の強さがはっきりしないと謂うことであるつまり是は神話というよりも朝鮮王朝の正当性を主張するために後世取ってつけたように付加えられた説話に過ぎないのであろうこうした説話からは朝鮮民族のもつ基本的な宗教性を導き出す事は出来ない朝鮮民族の宗教意識はこの説話の成立よりずっと以前半島三国時代以前から既にあったと想われる原始的アニミズムから発した所謂神降ろし神慿り付き的なムダンの宗教性こそがやはりこの民族の最も正統な宗教性であろうと考えられる

  ムダンは日本にもかつて或いは今猶存在しているのかも知れない所謂加持祈祷師である︒﹃日本書紀﹄︑敏達紀の冬十一

参照

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