社会化における絶対的平等と絶対的自由の両立可能空間
髙 澤 勇
日 次
要約
1
序論2
自我 にお ける相対的平等 と相対的 自由の両立不可能性 について2・1
相対的平等 と相対的 自由の相関関係 について2・2
相対的平等 と相対的 自由の反比例性 について 2 ・3 相対的平等 と相対的 自由の両立不可能性 について3
絶対的平等について3・1
自我 における絶対的不平等 について 3 ・2 絶対的平等の可能性 について4
絶対的自由について4 ・1
自我 における絶対的不 自由について 4 ・2 絶対的自由の可能性 について5
絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間について5 ・1
絶対的平等 と絶対的 自由の相関関係 について 5 ・2 絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間 について5・3
絶対的平等 と絶対的 自由の心境が もた らす もの6
結論要 約
本稿の 目標は、社会化 1)における絶対的平等 と絶対的自由2)の両立可能空間 を解明す る ことである。 この日標に向かって、まず第
2
章において、 「自我 に おける相対的平等 と相対的自由の両立不可能性について」 を研究 した。その第2
章第1
節 にお いては、 「相対的平等の増加は相対的 自由を減少させる」を研 究 した。次 に、第2
章第2
節においては、 「相対的 自由の増加は相対的平等 を 減少 させ る」 を研究 した。そ して第2章第 3節においては、 「相対的平等と相 対的 自由の相関関係について」 を研究 した。第
3
章においては、 「絶対的平等について」 を研究 した。その第3
章第1
節 においては、 「自我 における絶対的不平等について」 を研究 した。次 に、第3
章第2
節においては, 「絶対的平等の可能性 について」 を研究 した。第
4
章 においては、 「絶対的 自由について」 を研究 した。その第4
章第 1節 においては、 「自我 における絶対的不 自由について」 を研究 した。 次に、第4
章第2
節においては、 「絶対的 自由の可能性について」 を研究 した。最後に、第
5
章においては、 「絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間につ いて」を研究 した。その第5
章第 1節においては、 「絶対的平等 と絶対的自由 の相関関係について」を研究 した。次 に、第5
章第2
節においては、 「絶対的 平等 と絶対的自由の両立可能空間について」 を研究 した。そ して、第5
章第3
節においては、 「絶対的平等 と絶対的自由の心境がもた らす もの」 を研究した。これ らの研究結果 としての本稿の結論は以下のように要約す ることができ る。
社会化 における人間的視点や生物的視点および物質的視点か らみた個人の絶 対的平等は、人間の本来の姿は 「不生の単種単一の素粒子」 (物理学的見解)3)
「分割不能の点的存在」 (数学的 ・幾何学的見解)4) 「無的主体」 (仏教的見解)5) であるということを知ることによって可能となる。なぜな らば、人間の本来の 姿は.不生の単種単一の素粒子 (分割不能の点的存在または無的主体)であ り、
2
それは宇宙のすべての生物の本来の姿 と同様であ り、それはまた、宇宙のすべ ての物質の本来の姿と同様である、 ということを知れば、すべての人間や生物 および物質は不生の単種単一の素粒子 (分割不能の点的存在または無的主体) である点 において絶対的に平等であることが理解できるか らである。
上記のように、すべての人間や生物および物質は不生の単種単一の素粒子 (分割不能の点的存在または無的主体)である点において絶対的 に平等である な らば、宇宙空間におけるすべての物質間において、いかなる拘束 ・被拘束の 関係,上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係も存在することができない ことになる。
したがって、社会化における人間的視点や生物的視点および物質的視点か ら みた個人の絶対的 自由は、人間の本来の姿は 「不生の単種単一の素粒子」 (物 理学的見 解)「分割不能 の点 的存在」 (数 学的 ・幾何学 的見解 )「無的主 体」
(仏教的見解)であるということを知ることによって可能 となる。なぜな らば、
人間の本来の姿は、不生の単種単一の素粒子 (分割不能の点的存在または無的 主体)であり、それは宇宙のすべての生物の本来の姿 と同様であ り.それはま た、宇宙のすべての物質の本来の姿 と同様である、 ということを知れば、すべ ての人間や生物および物質は不生の単種単一の素粒子 (分割不能の点的存在ま たは無的主体)である点 において絶対的に平等であり、それゆえ宇宙における すべての物質間において、いかなる拘束 ・被拘束の関係、上 ・下の関係,支 配 ・被支配 (服従)の関係 も存在することができないことになる。したがって、
宇宙 におけるすべての物質は絶対的に自由であることが理解で きるか らであ る。
上記の、社会化 における絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間の直観は、
個人の社会化 において絶対的平安をもた らす。また、それは人類社会 に永久平 和をもた らす ことになるであろう。
キーワー ド :社会化、絶対的自由,絶対的平等、素粒子、無的主体、絶対的 平安,永久平和
3
1 序 論
わたくしの社会学の主題は 「人間における社会化の最終 目標は何であるのか。
そ こに到達する道は何処 にあるのか。それ らを論理的に解明 したい。」 という ことである。本稿は、この一連の研究における新 しい一部分をなす ものである。
この研究主題の論理的解明に向かって、まず第
1
に、わた くLは、拙論 「社 会化の原動力‑体系の大要‑」を公表 した。 (高揮1 997)
そ こでは、個人はな ぜ社会を生み出すのか、 という主題の解明に主眼をおいた。 6)第
2
に、わた くLは、拙論 「社会化の発展」を公表 した。 (高揮1998)
そ こ では、社会化の原動力によって生み出された、個人における最初の社会化およ び社会はいかにして発展するのか、 という主題の解明に主眼をおいた。 7)第3に、わた くLは、拙論 「社会化の最終 目標」 を公表 した。 (高揮2006) そ こでは、社会化の原動力によって生み出された、個人における社会化の最終
目標は何であるのか, という主題の解明に主眼をおいた。 8)
これに続いて、第
4
に、わたくLは、拙論 「社会化の最終 目標への道」を公 表 した。 (高揮2009)そ こでは、社会化の原動力によって生み出され、発展 し た、個人の社会化の最終 目標への道は何処 にあるのか、 という主題の解明に主 眼をおいた9)。 この 「社会化 の最終 目標への道」 において到達 した結論は次の 通 りである。「社会化の最終 目標は平安である。平安であるためには人生における諸々の 苦痛か ら開放されなければな らない。諸苦痛か ら開放されるためには、その諸 苦痛が発生して くる根源を知 らなければな らない。その諸苦痛の根源は無明に ある。無明 とは真実相 に対す る無明である。では,真実相 とは何であるのか。
真実相すなわち宇宙 (万物) の真実相 とは空である。宇宙 (万物)は空である とはどういうことであるのか。宇宙 (万物)は空であるとは、宇宙 (万物)は 不生の素粒子 (分割不能の点的存在または無的主体)の単種単一体が縁起によ って集合 し、また離散することを繰 りかえして絶えることのない姿であるか ら、
4
固定 した実体 というものがないということである。ひ とは、 この宇宙 (万物) の真実相を知ることによって 「苦痛」か ら開放されて社会化の最終日標である
「平安」 に到達することができるのである
。
」10) (高揮2009:65‑ 6)
さて、平安 とは絶対的平等にして絶対的自由の境地のことである。 したがっ て、平安に到達するためには絶対的平等にして絶対的 自由の境地 に到達 しなけ ればな らない。では、 どのようにすれば、絶対的平等 にして絶対的自由の境地 に到達することができるのであろうか。それを知るためには、まず第
1
に、社 会化における絶対的平等 とは何であるのか、また,社会化における絶対的平等 に到達するためにはどの道を歩いて行かなければな らないのか、 ということに ついて知 らなければな らない。第2
に、社会化における絶対的自由とは何であ るのか、また、社会化における絶対的自由に到達するためにはどの道 を歩いて 行かなければな らないのか、 ということについて知 らなければな らない。そ し て第3
に、絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空間は何処であるのか、 ということについて も知 らなければな らないと思 う。
それで、わたくLは、上記の 「社会化の最終 目標への道」に続いて、第
5
に、「社会化 における絶対的平等への道」 を公表 した。 (高
滞201 0
)そ こでは、社 会化における絶対的平等は如何にして可能であるのか、 という主題の解明に主 眼をおいた。 ll)さらに続いて、第6
に、 「社会化における絶対的自由への道」を公表 した。 (高
揮2011 )
そ こでは、社会化における絶対的 自由は如何にして 可能であるのか、 という主題の解明に主眼をおいた。 12)したがって、本稿においては、絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間は何 処であるのかについて解明しなければな らない。
2 自我における相対的平等 と相対的自由の両立不可能性について
本稿の目標は、社会化における絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間を解 明することである。 この 目標 に向かって、 この第
2
章においては、 「自我 にお5
ける相対的平等 と相対的自由の両立不可能性について」 を研究する。 まず第
1
節では、 「相対的平等 と相対的 自由の相関関係について」 を研究する。次に第2
節では、 「相対的平等 と相対的 自由の反比例性について」を研究する。そ し て第3
節では、 「絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間について」 を研究す る。2・1
相対的平等 と相対的自由の相関関係について相対的平等 と相対的 自由はいかなる相関関係にあるのか。 この命題 を解明す ることが本節の目標である。
自我における相対的平等 と相対的 自由の両立不可能性について、 ドイツの社 会学者である
G.
ジンメルは,約100
年以前に、『社会学の根本問題』のな かで、ゲーテの意見を引用 しなが ら、以下のように述べている。まず、歴史上における自由一般への要求に対する個人の意識の発展について は、次のように述べている。
「自由一般への要求、社会そのものが個人そのものを束縛するのに用いて来 た栓槽の廃棄への要求、それが極めて鋭 く目覚め且つ働 くようになったのは、
十八世紀である。 この原理的要求は、個人的利益の自由競争を世界の自然的秩 序 と讃えた重農主義者にあっては経済の衣裳を纏って現われ、歴史的に発展 し た社会が人間に加える暴行こそ一切の辛苦及び一切の悪の根源 と見たルソーに あっては感情的に洗練された姿で現われ、個人の自由を絶対者 に高めて、労働 者の利益擁護のための団結さえ禁 じたフランス革命にあっては政治的形態とし て現われ、 自我を認識可能な世界の基礎た らしめ、 自我の絶対的自律を道徳的 価値そのものた らしめたカン トやフィヒテ
( J o ha nnGot t l i e bFi c ht e , 1 762
‑1 81 4.
ドイツの哲学者)にあっては哲学的に純粋化された姿で現われている。」 (ジンメル1 979:1 01 ‑2 )
次 に、個人の社会的 自由の存立には、その前提 として個人の社会的平等が必
6
要であるということについては、次のように述べている。
「しか し、歴史的社会 によって狭められていると感 じた個人の、自由への要 求は、その実現に当って 自己矛盾に陥る。なぜな ら、言 うまでもなく、この要 求は、社会が全 く同じ強さの、心身に全 く同じ才能を恵まれた諸個人で成 り立 っていて こそ円滑に実現 されるものであるか ら。 しか し、 この条件が満たされ ているところは何処にもな く、む しろ,権力を与え地位を定める人間の力は、
質的にも量的にも、最初か ら不平等であるため、あの完全な 自由は、否応な く、
才能 に恵まれた人間による右の不平等の利用 という結果になる。愚かな人々に 対 して賢い人々が、弱い人々に対 して強い人々が、小胆な人々に対 して大胆な 人々が不平等を利用する結果 になる
。
」 (ジンメル1979:103)
最後に社会的平等の不可能性 とそれに基づ く社会的 自由の不可能性、社会的 平等 と社会的 自由の両立不可能性および絶対的平等の絶対的 自由に対する先行 性な どについては、次のように述べている。
「万人の完全な 自由は、万人の完全な平等があるところに初めて生れる こと が出来る。 しか しなが ら、完全な平等 というのは、全 く個人的のものにおいて 実現 され得ないのみな らず、経済的な ものが個人の優越性の利用を許す限 り、
経済的なものにおいても実現され得ない。 この可能性が排除されて初めて、即 ち、生産手段の私有が廃止されて初めて、 ここに平等が可能になり、そ して、
不平等 と不可分の自由の制限が除かれる。明 らかに、ほかな らぬ、この 「可能 性」 という点に自由と平等との深刻な矛盾が現われている。なぜなら、 この矛 盾は、 自由と平等 とが無所有及び無権力という否定的なものへ沈下することに よってのみ解決されるのであるか ら。当時、 この矛盾 を鋭 く見抜いていたのは ゲーテだけであったかと思う。彼によれば、平等は一般的規範への服従を求め、
自由は 「無拘束へ向う
。 」
「立法者にしろ、革命家にしろ、平等 と自由とを同時 に約束するものは、夢想家か山師である。」恐 らく、 こういう事態を救お うと いう本能が働いたのであろう、本能は、 自由及び平等 に第三者の要求 として友 愛を加えさせた。なぜな ら、 自由と平等 との矛盾を除去するのに強制 という手7
段を認めないとすれば、除去 の効果を挙げるには、公然たる利他主義 しかない か ら。即ち、 自由が平等を亡 ぼして しまった以上、天賦の才能の発揮 を道徳的 に断念す ることだけが平等を回復する道になる。」 (ジンメル
1 979;1 04‑5)
したがって、相対的平等と相対的 自由の相関関係は、両者の両立は不可能で あるということである。ジンメルによれば、前述のように、 「万人の完全な自由は、万人の完全な平 等があるところに初めて生れ ることが出来る。」 (ジンメル
1979:104)
すな わち、万人の完全な平等は万人の完全な 自由の前提条件であるということであ る。しか し、また、続けてジンメル によれば、前述のように、 「完全な平等 とい うのは,全 く個人的のものにおいて実現され得ないのみな らず、経済的なもの が個人の優越性の利用 を許す限 り、経済的なものにおいても実現 され得ない。
」
(ジンメル
1979:1 04)
すなわち、万人の完全な平等は個人的なものにおいて も経済的なものにおいても不可能であるということである。では、万人の完全な平等とそれに基づ く万人の完全な自由は何処において可 能であるのか。 これについて、ジンメルは 「生産手段の私有が廃止されて初め て、 ここに平等が可能になり、そ して、不平等 と不可分の自由の制限が除かれ る
。
」 (ジンメル1979:1 05)
と述べ 「自由と平等 とが無所有及び無権力とい う否定的なものへ沈下することによってのみ解決される」 (ジンメル1979:
1 05)
と述べている。た しかに、社会的存在 としての個人における完全な平等 とそれに基づ く完全 な 自由は、ジンメルの指摘した方向において しか求めることができないであろ う。 しか し、人類史上において、 いかなる個人も無所有及び無権力を求めたこ とはないと言 ってよいであろう。
それでは、 このように社会化した個人において完全な平等 とそれに基づく完 全な自由を求めることは不可能であるのか。別言すれば、個人は社会化 した存 在 において絶対的平等であり、 しか も絶対的自由であることを求めることは不
8
可能であるのか。 もし、それが可能であるな らば、その絶対的平等 と絶対的 自 由の両立可能空間は何処にあるのだろうか。
この、本稿の主題の解明に先立って、第
2
節では、相対的平等 と相対的自由 の反比例性について研究する。2・2
相対的平等 と相対的自由の反比例性について相対的平等 と相対的自由は反比例する。 この命題を解明することが本節の目 標である。
具体的に理解 しやすい例を用いて述べると次のようになる。AとBの2人が いる。 この
2
人が相互行為を行 う社会的存在でない場合には、 2
人とも他者に よって拘束されることがないか ら、相互に他者か ら自由である。 しか し、 この2
人が相互行為を行う社会状態に置かれているときには、 2人とも他者によっ て拘束される可能性もしくは危険性がある。 この2
人が相互行為を行 う社会状 態に置かれている場合においても、この2
人が相互に他者を拘束することな く、別言すれば、相互 に他者に拘束されることがない場合には、相互に他者か ら自 由である。
しか し、 この
2
人が相互行為を行 う社会状態に置かれていて、A
がB
に対 し て何 らかの拘束を行っていて、B
がA
に対 して何 らかの拘束 を受けている場合 には、 この社会的行為において、AはBに対 して自由であるが、 BはAに対 し て不 自由である。 この場合、A とBは交換可能要素であるか ら、逆 もまた真で ある。換言すると、次のようになる。AとBが平等状態にあるとき、Aが1つの自 由を得れば
、B
は 1つの不 自由( A
に対する劣等的不平等)を得る。すなわち、A
の 1つの自由の社会的行為が、B
には1
つの不 自由の社会的行為 となる。 こ の状態において、反対 に、A
がその1
つの自由を失 うと、B
はその 1つの不 自 由を失 う。9
たとえば
、A
とB
の2
人が同じ部屋に生活 しているとしよう。A
はクラッシ ック音楽が大好 きであ り、B
は演歌が大好 きであるとしよう。そ して、A
は演 歌が大嫌 いであ り、Bはクラッシック音楽が大嫌いであるとしよう。 この2人 が音楽を聴いていないときには2人はこの点において平等である。 しか し、A が 自分の大好 きなクラッシック音楽 を1時間聴 くとす る。 この場合、Aは1時 間の自由を取得す るとしよう。そ うすると、Bは1時間の不 自由を取得する こ とになる。別言すれば、Aは Bに対する1時間の優越的不平等を取得すること になる。 これに対 して、 BはAに対する 1時間の劣等的不平等を取得すること にな り、1
時間の平等 を消失することになる。したがって、 この場合には、Aにおける
「 +
1」の自由は、Bにおける 「‑1」の自由または
「 +
1」の不 自由であり、「 ‑
1」の平等である。 この場合、AとBは交換可能要素であるか ら逆 もまた真である。
それゆえに、相対的平等と相対的 自由は反比例するといえる。
2・3
相対的平等 と相対的自由の両立不可能性について相対的平等 と相対的 自由は両立不可能である。 この命題を解明することが本 節の目標である。
さて、上記第
2
章第1
節および第2
章第2
節の両方の結論か ら、相対的平等 と相対的 自由は反比例するのであるか ら、 2
人が相互行為を行 う社会状態に置 かれているときには、相対的 自由の増加は相対的平等の減少 とな り、逆に相対 的平等の増加は相対的 自由の減少 となる。 したがって、 2人が相互行為を行 う 社会状態 に置かれているときには、相対的平等 と相対的 自由は両立不可能であ る。1 0
3
絶対的平等について本稿の目標は、社会化における絶対的自由と絶対的平等の両立可能空間を解 明することである。 この目標に向かって、 この第
3
章においては、 「絶対的平 等について」 を研究する。まず第1
節では、 「自我における絶対的不平等につ いて」を研究する。第2
節では、 「絶対的平等の可能性について」を研究する。なお、上記の命題については、既に拙論 「社会化における絶対的平等への道」
(高揮2010)で明かにしてあるので、ここではその要点を述べるに止める。
3・1
自我における絶対的不平等について自我における絶対的不平等は如何にして可能であるか。 この命題を解明する ことが本節の目標である。
人間は、個人対個人という視点か ら人類史上において誕生した全ての人間を 見れば、いかなる二者においても絶対的に不平等である。
人類史上という時間上において全 く同一の年 ・月 ・日 ・時 ・分 ・秒に誕生し た人数は少ない。
その同一の年 ・月 ・日 ・時 ・分 ・秒に誕生した人々のなかで、同じ親から同 時に誕生した一卵性複数生児の人数ははるかに少ない。
その同じ親から同時に誕生した一卵性複数生児の人々のなかで、一定の親か ら同時に誕生した一卵性複数生児の人数は一般的には多 くても数名である。
その一定の親か ら同時に誕生した一卵性複数生児の人々のなかでも,一定の 個人と同数の、また同内容の細胞を同時に所有 している別の個人はいないと考 えてよいであろう。
したがって、 この程度の常識的レベルにおいてさえも、生物学的側面か ら人 類史上において誕生した全ての人間を比較して見れば、いかなる二者において も絶対的に不平等である。
11
誰もが知っているように、人類史上のどのような年 ・月 ・日 ・時 ・分 ・秒に おいてもー定の個人と同様の個人は存在 しないのである。
この絶対的不平等の身体に属する五官である眼 ・耳 ・鼻 ・舌 ・身は絶対的不 平等である。また、この五官に対応する五感である色 ・声 ・香 ・味 ・蝕も絶対 的不平等である。さらに、この五感か ら生じてくる意識とその記憶 もまた絶対 的不平等である。そして、この意識とその記憶を自分のものとして統括する自 我もまた絶対的不平等である。
「自我における絶対的不平等は如何にして可能であるか。」 という命題の解明 は、要約すると以下のようになる。
絶対的不平等の身体か ら生じる五官および五感は共に絶対的不平等であり、
その五感か ら生 じる意識とその記憶もまた絶対的不平等である。そ して、その 意識 とその記憶を自分のものとして統括する自我もまた絶対的不平等である。
3・2 絶対的平等の可能性について
上記の第
3
章第1
節における命題の解明によれば自我においては絶対的不平 等である。こうした自我の身体的 ・精神的特徴における絶対的不平等に加えて、自我の社会的存在における相対的不平等も不可避的である。学術的不平等、芸 術的不平等、美貌 ・容姿端麗的不平等、運動能力的不平等、経済的不平等など である。 これ らの具体例については、既に前掲 「社会化における絶対的平等へ の道」 (高揮2010)において述べてあるので、 ここでは省略したい。 このよう に観察すると、 自我の社会的存在においても絶対的不平等であるといえるであ ろう。
では、絶対的平等は如何にして可能であるのか。 この命題を解明することが 本節の目標である。別言すれば、いかなる視点か らみた場合において、入日別と おける二者の絶対的平等は可能であるのか。また、現在において生存するすべ ての人類の絶対的平等は可能であるのか。
12
さて、仏教によれば、天才や美貌 ・容姿端麗や巨万の富者な どという、先に 挙げた社会的存在 として相対的不平等に悩まされる特徴は、個人の本性 ・本質 ではないということである。それ らは虚妄であるということである。そ うであ るとすれば、個人の本性でないもの (虚妄)における相対的不平等は、その是 正を求めて努力する価値があるだろうか。それは、無価値であろう。
では、個人の本性とは何であるのか。仏教によれば、人間の本性は 「不生の 単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体である。 また、
人間の本来の姿は、前述の、「不生の単種単一の素粒子」(分割不能の点的存在) のような無的主体の集合体である。
さて、人間の本性が、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)の よ うな無的主体であるな らば、すべての人間は相対的に平等である。 また、
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体はすべて において平等であるか ら、 この視点か ら見るな らば、すべての人間は個人 と個 人を比較する必要性が皆無であるので、すべての人間は、相対的平等 というよ
りもむしろ絶対的平等 といったほうがよいであろう。
では、社会化における絶対平等はいかにして可能であるのか。既に触れたよ うに、 この命題を解明することが本節の目標である。
そ こで、本節第
1
項においては、 「人間的視点か らみた絶対的平等 について」を研究する。第
2
項では、 「生物的視点か らみた絶対的平等について」 を研究 する。そ して、第3
項では、 「物質的視点か らみた絶対的平等 について」 を研 究する。なお、 これ らの研究結果は、拙論 「社会化における絶対的平等への道」 (高 揮2010)において既に述べた ことであるか ら、 ここでは要約 して述べてお く。
3・2・1
人問的視点か らみた絶対的平等について社会化における人間的視点か らみた個人の絶対的平等はいかにして可能であ
13
るのか。 この命題を解明することが本項の目標である。
社会化における人間的視点か らみた個人の絶対的平等は、人間の本来の姿は,
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体であると いうことを知ることによって可能となる。なぜな らば、人間の本来の姿は無的 主体であることを知れば、すべての人間は無的主体である点において絶対的に 平等であることを知るか らである。
3 ・2・2 生物的視点か らみた絶対的平等について
社会化における生物的視点からみた個人の絶対的平等はいかにして可能であ るのか。 この命題を解明することが本項の目標である。
また、社会化における生物的視点からみた個人の絶対的平等は、人間の本来 の姿は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体 であり,それは宇宙のすべての生物の本来の姿と同様であるということを知る ことによって可能 となる。なぜならば、人間の本来の姿は無的主体であり、そ れは宇宙のすべての生物の本来の姿 と同様であるということを知れば、すべて の生物は無的主体である点において絶対的に平等であることを知るか らであ る。
3・2・3 物質的視点か らみた絶対的平等について
社会化における物質的視点か らみた個人の絶対的平等はいかにして可能であ るのか。 この命題を解明することが本項の目標である。
さらに、社会化における物質的視点か らみた個人の絶対的平等は、人間の本 来の姿は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主 体であり、それは宇宙のすべての物質の本来の姿と同様であるということを知 ることによって可能 となる。なぜな らば、人間の本来の姿は無的主体であり、
14
それは宇宙のすべての物質の本来の姿 と同様であるということを知れば、すべ ての物質は無的主体である点 において絶対的に平等であることを知るか らであ る。
4
絶対的自由について本稿の目標は、社会化における絶対的自由と絶対的平等の両立可能空間を解 明することである。 この目標 に向かって、 この第
3
章においては、 「絶対的 自 由について」 を研究する。まず第1
節では、 「自我における絶対的不 自由につ いて」 を研究する。第2
節では、 「絶対的自由の可能性について」を研究する。なお,上記の命題については、既に拙論 「社会化における絶対的自由への道」
(高揮2011)で明 らかにしてあるので、 ここではその要点を述べるに止める。
4・1
自我における絶対的不自由について自我における絶対的自由は可能であるのか。 この命題を解明することが本節 の目標である。
個人的存在においては、一生涯において
、 5
段階の欲求の不充足 という意味 での相対的不 自由の状態 とその欲求充足 という意味での相対的 自由の状態 とを 繰 り返 して生きてゆくのである。では、その道は絶対的 自由に向う道であろうか。そ うではないのである。
4・1・1
生理的欲求における絶対的不 自由について第
1
段階の生理的欲求13)がある程度 において充足されると、ひとはしば ら くはその欲求を追い求めないけれ ども、 しば らくすると、 またその欲求は生 じ てくるのであ り、 このようにしてひとは生涯 に亘って生理的欲求における相対 的不 自由 (不充足)の状態と生理的欲求における相対的自由 (充足)の状態 と1 5
を繰 り返 して生きてゆ くのである。ひ とは,誰で も、生まれてか ら死ぬまで、
この欲求の支配下にある。 この支配か ら開放されて絶対的 自由の状態 になるこ とは不可能である。 したがって、一時的にその支配か ら解放されることはあっ ても、つまり一時的に相対的 自由の状態におかれることはあって も、絶対的不 自由の状態にある。
4 ・1・2
安全欲求における絶対的不自由について第 1段階の生理的欲求がある程度において充足されると、ひとには次の第
2
段階の安全欲求14)が生 じて くる。別言すれば、第1
段階の生理的欲求の充足 によって生み出される相対的 自由は第2
段階の安全欲求という相対的不自由を 生み出すのである。 この欲求がある程度において充足 されると、ひとはしば ら くはその欲求 を追い求めないけれ ども、それが充足されな くなると、 またその 欲求は生 じて くるのであ り、 このようにしてひとは生涯に亘って、安全欲求 に おける相対的不 自由 (不充足)の状態 と相対的自由 (充足)の状態 とを繰 り返 して生きてゆくのである。ひ とは、誰でも、生まれてか ら死ぬまで、 この欲求 の支配下にある。 この支配か ら開放されて絶対的 自由の状態になることは不可 能である。 したがって、一時的にその支配か ら解放されることはあっても、つ ま り一時的に相対的 自由の状態におかれることはあっても,絶対的不 自由の状 態にある。4 ・1・3
社会的欲求における絶対的不 自由について第2段階の安全欲求がある程度 において充足されると、ひとには次の第 3段 階の社会的欲求15)が生 じて くる。別言すれば、第
2
段階の安全欲求の充足 に よって生み出される相対的自由は第3
段階の社会的欲求 という相対的不 自由を 生み出すのである。 この欲求がある程度において充足 されると、ひとはその欲1 6
求を追い求めないけれども、それが充足されなくなると、またその欲求は生じ てくるのであ り、このようにしてひとは生涯に亘って、社会的欲求における相 対的不 自由 (不充足)の状態と相対的自由 (充足)の状態とを繰 り返 して生き てゆくのである。ひとは、誰でも、生まれてか ら死ぬまで、 この欲求の支配下 にある。,この支配から開放されて絶対的自由の状態になることは不可能である。
したがって、一時的にその支配から解放されることはあっても、つまり一時的 に相対的自由の状態におかれることはあっても、絶対的不自由の状態にある。
4・1・4
尊敬欲求における植対的不 自由について第
3
段階の社会的欲求がある程度において充足されると、ひとには次の第4
段階の尊敬欲求16)が生 じて くる。別言すれば、第3
段階の社会的欲求の充足 によって生み出される相対的自由は第4
段階の尊敬欲求 という相対的不 自由を 生み出すのである。 この欲求がある程度において充足されると、ひとはその欲 求を追い求めないけれども、それが充足されなくなると、またその欲求は生 じ て くるのであ り、このようにしてひとは生涯に亘って,尊敬欲求における相対 的不自由 (不充足)の状態と相対的自由 (充足)の状態とを繰 り返して生きて ゆくのである。ひとは、誰でも、生まれてから死ぬまで、 この欲求の支配下に ある。 この支配から開放されて絶対的自由の状態になることは不可能である。したがって、一時的にその支配から解放されることはあっても、つまり一時的 に相対的自由の状態におかれることはあっても、絶対的不自由の状態にある。
4・1・5
自己実現欲求における絶対的不 自由について第4段階の尊敬欲求がある程度において充足されると、ひとには次の第
5
段 階の自己実現欲求17)が生じて くる。別言すれば、第4
段階の尊敬欲求の充足 によって生み出される相対的自由は第5
段階の自己実現欲求 という相対的不日17
由を生み出すのである。 この欲求がある程度において充足されると、ひとはそ の欲求を追い求めないけれども、それが充足されな くなると、またその欲求は 生じて くるのであり、 このようにしてひ とは生涯に亘って、 自己実現欲求にお ける相対的不 自由 (不充足)の状態 と相対的 自由 (充足)の状態 とを繰 り返 し て生きてゆくのである。ひとは、誰でも、生まれてか ら死ぬまで、 この欲求の 支配下にある。 この支配か ら開放されて絶対的 自由の状態になることは不可能 である。 したがって、一時的にその支配か ら解放されることはあって も、つま り一時的に相対的自由の状態におかれることはあっても、絶対的不 自由の状態 にある。
4・2
絶対的自由の可能性 について先の第
4
章第 1節における命題の解明によれば、 自我 においては絶対的不 自 由である。それゆえ、いうまでもな く現在において生存するすべての人類の自 我においても絶対的不 自由である。 こうした自我の個人的存在における絶対的 不 自由に加えて、 自我の社会的存在 における相対的不 自由も不可避的である。学術的能力の不平等 を原因として帰結する学術的不 自由、芸術的能力の不平等 を原因として帰結す る芸術的不自由、美貌 ・容姿端麗的不平等を原因として帰 結する美貌 ・容姿端麗的不自由、運動能力的不平等を原因として帰結する運動 能力的不 自由、経済的不平等 を原因 として帰結する経済的不 自由な どである。
これ らの具体例 については、既 に前掲 「社会化 における絶対的 自由への道」
(高滞2011)において述べてあるので、 ここでは省略したい。 このように観察 すると、 自我の社会的存在において も絶対的不 自由であるといえるであろう。
では、絶対的 自由は如何にして可能であるのか。 この命題を解明することが 本節の目標である。別言すれば、いかなる視点か らみた場合に、現在 においで 生存するすべての人類の絶対的自由は可能であるのか。
さて、仏教によれば、先の天才や美貌 ・容姿端麗や巨万の富者 という特徴は
18
個人の本性 ・本質 とは無関係である。それ らは個人に付属する一時的な虚妄 ・ 虚飾 ・幻 ・夢の類である。
では、個人の本性とは何であるのか。仏教によれば、人間の本性は 「不生の 単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体である。 また、
人間の本来の姿は、前述の、「不生の単種単一の素粒子」(分割不能の点的存在) のような無的主体の集合体である。
さて、人間の本性が、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)の ような無的主体であるな らば、すべての人間は、先に述べたような社会的存在 として、いかなるものにも拘束されていないし、また、個人的存在として、い かなる欲求にも拘束されていない。 したがって、すべての人間は本性 において 絶対的 自由であるということになる。 また、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割 不能の点的存在)のような無的主体はすべてにおいて平等であるか ら、 この視 点か ら見るな らば、個人と個人を比較する必要性がな くな り、素粒子 と素粒子 との同一物の比較 となる。各素粒子は相互に拘束不可能であるか ら、すべての 人間は絶対的 自由であるということになるのである。
そ こで、本節第 1項においては、 「人間的視点からみた絶対的 自由について」
を研究する。第
2
項では、 「生物的視点か らみた絶対的自由について」 を研究 する。そ して、第3
項では、 「物質的視点か らみた絶対的 自由について」 を研 究する。なお、 これ らの研究結果は、拙論 「社会化における絶対的自由への道」 (高 揮2011)において、既に述べてあるので、 ここでは要約 して述べてお く。
4 ・2・1
人問的視点か らみた絶対的 自由について社会化における人間的視点か らみた個人の絶対的 自由はいかにして可能であ るのか。 この命題を解明することが本項の目標である。
社会化における人間的視点か らみた個人の絶対的自由は、人間の本来の姿は.
1 9
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体であると いうことを知ることによって可能 となる。なぜな らば、人間の本来の姿は、
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体であるこ とを知れば、すべての人間は、「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存 荏)のような無的主体である点において絶対的に平等であ り、それゆえ、すべ ての個人間において、いかなる拘束 ・被拘束の関係、上 ・下の関係、支配 ・被 支配 (服従)の関係も存在することができない。 したがって、すべての人間は 絶対的に自由であるということになるか らである。
4 ・2 ・2 生物的視点からみた絶対的自由について
社会化における生物的視点からみた個人の絶対的自由はいかにして可能であ るのか。 この命題を解明することが本項の目標である。
社会化における生物的視点からみた個人の絶対的自由は、人間の本来の姿は、
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体であ り、
それは宇宙のすべての生物の本来の姿と同様であるということを知ることによ って可能 となる。なぜな らば、人間の本来の姿は、「不生の単種単一の素粒子」
(分割不能の点的存在)のような無的主体であり、それは宇宙のすべての生物 の本来の姿と同様であるということを知れば、すべての生物は、 「不生の単種 単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体である点において絶 対的に平等であり、それゆえ、すべての生物間において、いかなる拘束 ・被拘 束の関係、上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係も存在することができ ない。 したがって、すべての生物は絶対的に自由であるということになるか ら である。
20
4 ・2 ・3 物質的視点か らみた絶対的自由について
社会化 における物質的視点か らみた個人の絶対的自由はいかにして可能であ るのか。 この命題 を解明することが本項の目標である。
社会化における物質的視点か らみた個人の絶対的自由は、人間の本来の姿は、
「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体であ り、
それは宇宙のすべての物質の本来の姿 と同様であるということを知ることによ って可能 となる。なぜな らば、人間の本来の姿は、 「不生の単種単一の素粒子」
(分割不能の点的存在) のよ うな無的主体であ り、それは宇宙のすべての物質 の本来の姿 と同様であるということを知れば、すべての物質は、 「不生の単種 単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体である点において絶 対的に平等であり、それゆえ、すべての物質間において、いかなる拘束 ・被拘 束の関係、上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係も存在することができ ない。 したがって、すべての物質は絶対的に自由であるということになるか ら である。
5
絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空問について本稿の 目標は、社会化における絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間を解 明することである。 この目標 に向かって、 この第
5
章においては、 「絶対的平 等 と絶対的自由の両立可能空間について」 を研究す る。 まず第 1節では、 「相 対的平等 と相対的 自由の相関関係について」 を研究する。第2
節では、 「絶対 的平等 と絶対的自由の両立可能空間について」 を研究する。そ して、第3
節で は、 「絶対的平等 と絶対的自由の心境がもた らすもの」 について研究する。21
5・1
絶対的平等 と絶対的自由の相関関係について絶対的平等 と絶対的自由はいかなる相関関係にあるのか。 この命題 を解明す ることが本節の目標である。 この目標に向かって、 まず第
1
項では、 「絶対的 平等の先行性 について」 を研究する。第2
項では、 「絶対的 自由の後行性につ いて」 を研究する。そ して第3
項では、 「絶対的平等 と絶対的 自由の相関関係 について」を研究する。5・1・1
絶対的平等の先行性 について絶対的平等は絶対的 自由に先行する要件であるのか。 この命題 を解明するこ とが本項の目標である。この命題を解明するために最 も理解 しやすい例 として、
最 も小さい社会集団すなわち
A
とB
の2
人集団を想定することにしよう。A
とB
は絶対的平等でなければ絶対的 自由でないといえるであろうか。 これを確認 するために、AとBは絶対的平等でないとしよう。そ うすると、AとBの社会 関係は、絶対的不平等である社会においては、AとBとの間に拘束 ・被拘束の 関係、上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係が誕生する可能性がある。したがって、 A とBが絶対的 自由であるためには、その前提条件 としてAとB は絶対的平等でなければならない。 したがって、絶対的平等は絶対的 自由に先 行する要件である。
5・1・2
絶対的自由の後行性 について絶対的 自由は絶対的平等に後行する要件であるのか。 この命題を解明するこ とが本項の目標である。
この命題を解明するために、上記第
5
章第1
節第1
項 と同様に、最 も理解 し やすい例 として、最も小さい社会集団すなわちA
とB
の2
人集団を想定するこ22
とにしよう。上記第 5章第 1節第 1項の解明によれば、AとBが絶対的自由で あるためには、その前提条件 としてAとBは絶対的平等でなければな らないと いうことが明確になった。では、逆に、AとBとが絶対的平等であるためには、
その前提条件 としてAとBは絶対的自由でなければな らないといえるであろう か。さて、AとBが絶対的自由であるということは、AとBとの間に拘束 ・被 拘束の関係、上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係が誕生する可能性が ないということである。 ところで
、A
とB
との間に拘束 ・被拘束の関係、上 ・ 下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係が誕生する可能性がなくなるためには、その前提条件 としてAとBは絶対的平等でなければな らないことは既 に上記第
5
章第1
節第 1項 において解明した ことである。 したがってA
とB
との間に拘 束 ・被拘束の関係、上 ・下の関係、支配 ・被支配 (服従)の関係が誕生する可 能性がないか ら、AとBは絶対的平等であるのではな く、AとBは絶対的平等 であるか ら、AとBとの間に拘束 ・被拘束の関係,上 ・下の関係、支配 ・被支 醍 (服従)の関係が誕生することができないのである。 したがって、絶対的 自 由は絶対的平等に後行する要件である。5・1・3
絶対的平等 と絶対的自由の相関関係について絶対的平等 と絶対的自由はいかなる相関関係にあるのか。 この命題 を解明す ることが本節の目標である。
さて、上記第
5
章第1
節第1
項および第5
章第1
節第2
項の両方の結論か ら、絶対的平等 と絶対的自由の相関関係については、絶対的平等が認識根拠であ り、
絶対的自由が帰結であることが明確である。
5・2
絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空問について絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空間は何処にあるのか。 この命題を解明
23
することが本節の目標である。 この目標に向かって、まず第
1
項では、「絶対 的平等の空間について」を研究する。第2
項では、 「絶対的自由の空間につい て」 を研究する。そ して、第3
項では、 「絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能 空間について」を研究する。5・2・1
絶対的平等の空問について絶対的平等の空間は何処にあるのか。 この命題を解明することが本項の目標 である。既に、第
4
章第2
節で触れたように、社会化における人間的視点 ・生 物的視点および物質的視点の3
視点からみた個人の絶対的平等は、人間の本来 の姿は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体 であり,それは宇宙のすべての人間、生物および物質の本来の姿と同様である ということを知ることによって可能 となる。なぜならば、人間の本来の姿は無 的主体であ り、それは宇宙のすべての人間、生物および物質の本来の姿と同様 であるということを知れば、すべての人間、生物および物質は無的主体である 点において絶対的に平等であることを知るからである。したがって、絶対的平等の空間は、「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の 点的存在)のような無的主体の空間であり、別言すれば、宇宙である。
5 ・2 ・2 絶対的自由の空問について
絶対的自由の空間は何処にあるのか。 この命題を解明することが本項の目標 である。既に,第
4
章第2
節で触れたように、社会化における人間的視点、生 物的視点および物質的視点の3
視点からみた個人の絶対的自由は、人間の本来 の姿は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体 であり、それは宇宙のすべての人間、生物および物質の本来の姿と同様である ということを知ることによって可能となる。なぜな らば、既に上記第 5章第 224
節第
1
項で触れたように、人間の本来の姿は無的主体であり、それは宇宙のす べての人間,生物および物質の本来の姿 と同様であるということを知れば、す べての人間、生物および物質は無的主体である点において絶対的平等である。また、既に上記第
5
章第1
節で触れたように、それ らが絶対的平等であるな ら ば、それ らは絶対的自由であるか らである。したがって、絶対的自由の空間は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の 点的存在)のような無的主体の空間であ り、別言すれば、宇宙である。
5・2・3
絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空間について絶対的平等 と絶対的自由の両立可能空間は何処にあるのか。 この命題を解明 することが本項の目標である。既に第4章第 2節で触れたように、社会化にお ける人間的視点、生物的視点および物質的視点の
3
視点か らみた個人の絶対的 平等の空間は、 「不生の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無 的主体の空間であ り、別言すれば、宇宙である。また、既 に第5章第 2節で触れたように、社会化における人間的視点,生物 的視点および物質的視点の
3
視点か らみた個人の絶対的 自由の空間は、 「不生 の単種単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体の空間であ り, 別言すれば、宇宙である。したがって、社会化における人間的視点、生物的視点および物質的視点の
3
視点か らみた個人の絶対的平等 と絶対的 自由の両立可能空間は、 「不生の単種 単一の素粒子」 (分割不能の点的存在)のような無的主体の空間であ り、別言 すれば、宇宙である。5・3
絶対的平等 と絶対的自由の心境がもたらす もの絶対的平等および絶対的自由の心境が もた らすものは何か。 この命題を解明