• 検索結果がありません。

自由の客観的可能性と歴史の発展法則(三)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "自由の客観的可能性と歴史の発展法則(三)"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

V

自由の客観的可能性と歴史の発展法則白

次 21-.-W奈良法学会雑誌』第4巻4号 (1992年3月〉 口 同 序 言 第一章社会的統合の手段(以上第四巻二号﹀ 第二章社会的統合と自由 第一節統合と自由の関係(第四巻三号) 第二節政治的空間の規模(本号﹀ 第三章﹁統合史観﹂ 第二節 政治的空間の規模 以上述べてきたように、社会的統合と自由との聞には本質的な相関性がある。或る国家における自由の可能性は、 その国家の統合の在り方によって基本的に規定されるのである。そうであるならば、自由の客観的可能性に関する考

(2)

第4巻 4号一一22 察において次に問題とすべきは、統合の総合的・全体的な強さについてであろう。統合が自由を規定するとするなら ば、更にその統合を規定するものが、引き続いて間われなければならない。統合の強さ(統合力)の規定要因は何であ ろうか。統合力は何によって決まってくるのであろうか。 そこで登場する最も基本的且つ普遍的なファクターが、(既に前節において、理論の現実的妥当性の検証に関して具体的な 形では少し言及したが)政治的空間の規模である。既述の如く、統合には様々の手段や要因がある。そして、その組み 合わせと各々の強度はそれぞれの社会によって様々であるが、ともかくそれらが複合的に作用して、何らかの統合が 達成される。従って確かに、統合のレベルはそれらの作用の仕方によって決まってくる。しかしそうした作用は、全 一定の政治的空間の中で行なわれるのであり、それによって決定的な影響を受けるのである。つまり、政治 的空間それ自体は統合機能をもたないが、前者は後者を根本的に規定するのである。政治的空間の規模は統合作用に て 必 ず 、 おける(各種の手段・要因と並ぶ)もう一つの座標軸であり、全てに共通する座標軸であると、言えよう。或はまた、媒 介とか情況などと言ってもよいが、とまれ、それは統合作用全体に関る基本的・普遍的な条件なのである。 このように、統合の強さは政治的空間の如何と不可分の関係にあり、前者について考えようとすれば、後者を問題 にしなければならない。但しその場合、両者の関係は一方的ではなく、そこには二つの側面があることに、注意を要 する。即ちその一つは、政治的空間の成立に関るものであり、それが統合力によって規定されるという一次的な側面 である。畳一口うまでもなく、政治的空間の規模は直接的には人為的統合によって決定され、またその基礎には、当然の こ と な が ら 、 つ ま り 、 一 定 の 自 然 的 統 合 が あ る 。 一定の自然的統合に基づいて、何らかの政治権力が或る政治的空間 を設定するのである。ところが、その規模は何も科学的観点から合理的に決定されるわけではない。その決定のされ 方は基本的に歴史的なものであり、また多分に偶然的であったり洛意的であったりもする。従ってそこに、政治的空

(3)

間が逆に統合を規定するという二次的な働きが生ずる。即ち、或る規模をもっ政治的空聞が具体的に設定されると、 今度はそれが統合の強さに影響を与えるのである。それが両者の関係におけるもう一つの側面である。そして、ここ で問題にしなければならないのは、そのような側面なのである。 ともあれ、統合を基本的・普遍的に規定するものに、こうした政治的空間の規模というものがあるが、実は、それ と並んでもう一つ別のファクターが考えられる。それは人口である。人口もまた、統合に対して政治的空間と同様の 作用を及ぼすであろう。何故なら、統合にとって人間はその対象そのものであり、従って、人口というものは統合の 23一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 如何に直接(政治的空間より直接的に)影響せざるをえないからである。しかし本稿においては、人口を独立の因子と見 なし、それを個別的に取り上げて考察することは、しない。それは次のような理由に基づいている。 第一に、土地は生産力、特に食料のそれの基礎であるが放に、土地の広さと人口とは一応比例すると見倣してよい。 従って、人口は土地によって代表されうる。前述の政治的空間の規模とは、基本的には国土の広さを意味しているが、 それに一般的に付随する人口など(その他、地形や気候﹀の諸要素も︿先には叙述の順序として区別したが)包含している のである。即ち、それは綜合的な概念なのである。また第二に、人口密度の相違によって土地と人口の比例しないこ とが、確かにありうる。しかしその場合、統合の状態との聞に一定の相関関係が存在しているのは、人口ではなくて 土地である。というのは、人口密度の高さは、様々の点で人間相互間の距離を縮めることによって、統合に対して逆 にプラスの効果をもちうるが故に、土地の広さによっては、人口と統合の関係が通常とは逆転することがありうるか らである。人口の多少と統合の強弱とは必ずしも比例しない。人口は単独で統合を規定するのではなく、常に土地に よって媒介されているのであり、統合にとってヨリ基本的・普遍的なのは土地のほうなのである。 このようなわけで、政治的空間と言う場合、何よりもまず国土を念頭に置いている。人口には二次的な意味しかな

(4)

第4巻4号一"-24 いのである。そしてそうした政治的空間は、前述の如く、統合と深い関りをもっている。即ち、前者が後者の在り方 を規定するという関係である。そうであるならば、その場合の規定の仕方は如何なるものであろうか。政治的空間は 統合に対して、更には自由に対して、具体的にどのように影響を及ぼすのであろうか。 これについて答えることは、簡単である。それは全く単純な想像力によって可能となるであろう。即ちその解答と は、政治的空間の大小と統合の難易度は比例するというものである。政治的空間の規模が大きければ大きいほど統合 が困難になり、逆に、政治的空間の規模が小さければ小さいほど統合が容易になるということは、明らかであろう。 政治的空聞はこのような仕方で統合を規定するのである。そしてそうであるならば、前節において確立された、統合 と自由の関係についての命題と結合させることによって、次のように言うことができる ol--﹄政治的空間の規模が わ ト い 恥 ふ ( 統 合 が 困 難 に な り 、 従 っ て 、 強 大 な 権 力 を 必 要 と す る か ら ﹀ 岳 山 即 か 亦 骨 骨 ル 小 ト か わ ト 、 恥 w h r 骨 骨 骨 か 卦 崎 駅 仙 、 、 、 、 、 小さいほど(統合が容易になり、従って、弱い権力で事足りるから﹀自由の可能性が大きくなる。これが、政治的空間の規 模と自由の可能性との関係なのである。 但しここで、政治的空間の概念について一言付け加えておかねばならない。というのは、先にも人口に関して、単 なる国土ではないということを指摘したが、もう一つ追加すべき条件ないしは注意事項が存在しているからである。 それは実効的ということである。自由の可能性を規定する政治的空間とは、当然のことながら、あくまで実効的なそ れを意味している。即ち、その範囲、従って規模は、名目的・形式的なものではなく、事実上のそれ、実質的なそれ でなければならない。何故このような区別をする必要があるのかと言えば、国家形態や政治体制に関しては、単に名 前だけの国家や形だけの統治がしばしば見られるからである。例えば、古代のロ l マ帝国がそうであろう。なるほど それは、地中海全体を大きく取り囲む広大な版図をもっていた。しかし、それは一つのまとまった領域を形成してい

(5)

た わ け で は な い 。 戸 市 i マと属州の(優に五千を越える﹀諸都市との聞の一つ一つの支配関係ハ特に徴税)の総体、それが ローマ帝国の実態なのである。しかも、各都市は一定の自治を認められていた。従って、 ローマ帝国における政治的 空間の実際の規模は、見かけよりかなり小さいと考えるべきであろう。こうした事実は、その他にも例えば、閉鎖的 共同体の集積と主従契約の網の目とから成っていた、ヨ l ロヅパの封建国家や、領邦国家の分立状態であったドイツ ( 神 聖 ロ l マ帝国﹀など、数多く見受けられる。それ故そうした国家の場合には、できるだけ、そこにおける実効的な政 治的空間を発見して、それを問題にしなければならないのである。 ここに言う.政治的空間とは、このような概念を指している。そしてそのような意味における政治的空間を考えれば、 25一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 その大小は確かに自由の可能性を規定すると判断することができる。つまり、前述の﹁法則﹂は妥当すると見倣しう るのであるが、そうであるとするならば、国土が余りに広いのは考えものだということになるであろう。国土の広大 さは自由に対してマイナスに作用するからである。それを回避又は緩和するためには、自然的統合を強力に推進する 何か別の要素が存在していなければならない。それによって、十分な統合が達成されていなければならない。しかし そうしたことは、よほど恵まれた条件があって初めて可能になるのである。 とはいえ、それは逆に、国土は狭いほうがよい、狭ければ狭いほどよい、ということではない。単に自由の観点か 一応そのように言うことができるであろうが、人間生活の、従って国家運営の、要件は、それだけで ら す る な ら ば 、 はないからである。このことは全く論を侯たない。我々はただ自由でありさえすればよいというわけではなく、安全 保障・経済的繁栄・文化的発達などを必要としており、しかも、それらは自由と深く関っている。そしてそうした諸 々の要件は、国土が広いほど、従ってまた人口が多いほど、明らかに有利なのである。そうすると、国土というもの は狭すぎても駄目だということになる。広狭いずれにせよ、過剰は禁物なのである。そこで結局、国家には最適規模

(6)

第4巻 4号一一26 というものがあるという結論に到達する。各々の国家は、自らの置かれた情況やそれのもつ客観的諸条件に最も適合 した、それぞれ固有の理想的規模というものをもっているのである。 このようにして、自由の可能性の探求の中で、国家の最適規模という問題に逢着した。国家の規模が適切でない場 合には、多くの基本的困難を招来せざるをえないのである。ところでこの問題については、周知のように古来様々の 考察が存在している。それは思想史における一つの伝統的と言ってもよいテ l マである。そこで、それらを参照して みることは本稿にとって有益な示唆を与えるものと、予想されるであろう。従って、そのテIマに関して代表的と思 われるプラトン、アリストテレス、モンテスキュー、それにルソ I について、ここで簡単に見ておきたい。 まずプラトンから。彼には、理想的なポリスの人口を具体的な数字(/﹀ F で示した有名な議論がある。即ち、ポリス の人口としては五

O

O

人が最適だというのである。しかし、それはもちろん、例えば四

O

O

O

人とか六

0

0

0

人 、 或は五

0

0

0

人ではなく、ちょうど五

O

O

人でなければならぬという意味ではない。そのように細かい数字が導き 出されたのは、それが﹁五九の因数に分解可能であり、しかも、その因数のうち一から一

O

までは連続していて、戦 争のためであれ、平時の契約や交際のためであれ、徴税のためであれ、或はまた分配金のためであれ、どのようにも 利用することができる﹂からであり、とりわけ﹁土地や家屋をできるだけ平等に分配する﹂上で便利だからである。 従って、その数字の根本的な趣旨は、当時の感覚で少なからず多からずということであり、その背後にあるのは、次 のような考え方であった。﹁充分な人口は、土地の広さや近隣の国々のことを考慮しないでは、正しく決めることは できないものである。土地は、節制のある人々を一定数養うに充分であれば、それ以上必要ではない。人口は、近隣 の国々の攻撃から自国を守るに足り、自分の隣国が攻撃を受けたとき、全く途方に暮れてしまうのではなく援助の手 をさしのベうるほどであれば、それでよい。﹂ ここには、ポリスの統一を維持するためにその領域を制限しようとす

(7)

る基本的な思想が、示されているであろう。 次に、そうしたプラトンの弟子であるアリストテレスについて。彼にもまた、 しかし今度は全くイメージ的な表現 ﹁ひと目で全体を見渡すことができる程度の人数で、しか ハ 4 ﹀ も生活の自足に有利なようにできるだけ大きな人口、それが国家の大きさにおける最善の限界である。﹂アリストテ ハ 5 ) レスにとって、自足性はポリス(国家)の根本的条件であったが、単に自足という点では、人口の多いほうが有利であ る。だが、﹁余りに人口の多い国は、生活に必要な物資は自給できるであろうが、しかしそれは一つの民族のような ものとして存在するだけで、国家ではありえないであろう。何故なら、そのような集団が国制をもつことは、容易で は な い か ら で あ る 。 ﹂ で適切な人口を示した、やはりよく知られた議論がある。 つ ま り 、 一定の組織的共同体たる国家として存在するためには、その人口には限界があるとい ﹁人口の多すぎる国が良い法によって立派に統治され 27一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則白 うのである。これは、より明確に次のように説明されている。 ることは、非常に困難であり、おそらくは不可能である。実際、我々の見るところ、立派な統治を行なっているとい う評判の国で、人口の大きさに制限を設けていないところはない。/そのことは、理論の上から言っても明らかに確 証できる。即ち、法とは一つの秩序であり、良い法とは必然的に良い秩序でなければならない。ところが、余りに数 あ ず か あ た の多すぎるものは、秩序に与ることができない。というのは、無数のものに秩序を与えることは、もはや人間技では ( 7 ) なく、この宇宙全体を保持している神的な力の仕事だからである。﹂その他に、﹁裁判において正しく判決し、役職 を人の値打ちに応じて正しく割り当てるためには、どうしても市民がお互に、誰がどのような人間であるかを知って ( B ﹀ いなければならない﹂というような理由も挙げているが、これも結局﹁秩序﹂に結びつく事柄であろう。このように、 アリストテレスも社会的統合という観点からポリスの規模に一定の制限を付けているのである。 更 に 、 モンテスキューについてであるが、彼は(周知の如く)伝統的なアリストテレスの政体論を権力分立論へと発

(8)

第4巻4号一一一28 展させた。それ故彼においては、統合に関してもその質の問題が考慮されるようになる。即ち、自由の観点から政体 の要素が導入されるのであり、国土の大小と諸々の政体との関係が追究されるのである。そしてその結果、両者は次 のように対応させられている。﹁共和政の本性から言って、それは小さな領土しかもたない。然らずんば、それは殆 ど存続しえない。:::スパルタをあれほど久しく存続せしめたものは、その全ての戦争の後も依然として昔ながらの 領土に止まったことである。スパルタの唯一の目的は自由であった。:::君主国は中庸の大きさでなければならぬ。 小であれば、それは共和政となるであろう。:::大帝国の存立には、前提として統治者に専制的権威あるを必要とす る。決定の敏速が、その送達される場所の遠隔を補い、恐怖が遠隔地の総督、長官の慨怠を阻止しなければならない。 法がただ一人の頭脳の中に存すること、国家の広大さに比例して、その中に不断に激増する事件と同様、法も絶えず 変化することが、必要である。﹂ つまり、国土の大きさと権力の必要量とは比例しているのであり、従って、小さな 国土でなければ自由は実現されえないというのである。もちろん、ただ小さければよいというわけではなく、最適規 亡 模 す(と る思し、

己 う

も の

:

存 在 す る ﹁国家が小なるときは、外力によって破壊せられ、大なるときは、内部的欠陥によって誠 と も あ れ 、 モンテスキューにおいては、先述の如き考え、即ち国家の規模と統合との、従ってまた自由の 可能性との、相関性という考えが、明白に認められるであろう。 最後に、ルソーであるが、彼は彼独特の﹁一般意志﹂の観念に立脚して(即ち、主権を分割すれば﹁特殊意士山﹂になっ ( U ﹀ てしまうとして)モンテスキューの権力分立論を斥けた。しかし、国家の規模の問題に関しては、彼の思想は基本的に モンテスキューを継承している。ただ、 ルソーはそれをより理論的に展開しているのである。まず彼は、国家の最適 規模について一般的に論ずる。 ﹁国家の領有しうる面積には一定の限界があり、大きすぎれば良く統治できないし、 ハ ロ ) 小さすぎれば自分の力で維持できなくなる。﹂ それは何故か。前者の理由に関してはこう述べている。 ﹁ 全 て の 政 治

(9)

体には、越えることのできない力の最大限度があり、あまり膨脹すると、国家はしばしばこの限度から離れてゆく。 一般に、小国家は大国家よりも比較的に強力であるよ 社会的紐帯は広がれば広がるほど緩んでくる。 そして、更に それについて具体的に説明した後、こう締め括っている。 ﹁このようにして、国家組織に比較して政治体が大きすぎ るとき、それは弱体化し、自己の重みに押し潰されて滅亡するのである。﹂他方、後者、即ち小きすぎてもいけない ことの理由については、次のように述べられている。﹁国家は安定性をえ、どうしても経験せざるをえない動揺や自 己保存のためになすべき努力に耐えるために、一定の基礎が与えられていなければならないよそこで、これら両方 ﹁上の事情から、膨脹の理由もあり縮小の理由もあることが判る。この両者の を合わせて結局こういうことになる。 つまり、要はバランスという 聞に国家の保存に最も有利な兼ね合いを見出すのは、政治家の最高級の手腕である。﹂ ことであるが、しかし同時に、スパルタや共和政ロ l マに憧れたルソ l は、そこに優先順位をつけるのである。 一寸 29一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 般に、第一の膨脹の理由は対外的・相対的なものにすぎないから、それは内部的・絶対的な第二の縮小の理由に従属 しなければならないと言うことができる。従って、何にもまして追求すべきものは、健全強固な国家組織である。広 大な領土の提供する資源よりも、良い統治から生じる活力に期待すべきである。﹂ こ の よ う に し て 、 ルソーは小国家を理想とするが、それにはより根本的な理由があった。それは自由との関りであ る。彼は次のような計算に基づいて、国家の規模と自由とが反比例すると説く。 ﹁仮に、国家が一万人の市民から成 り立っていると考えよう。主権者は集合的にか又は一つの団体としてしか考察されえない。しかし、各人は臣民とし ては一個人と見倣される。だから、主権者対臣民の比は一万対一である。言い換えれば、国家の各成員は、全面的に 国家に服従しているにもかかわらず、主権の一万分の一しか自分の分け前をもたないわけである。人民の数が十万に なるとしても、臣民としての地位に変わりはなく、各人は等しく法の完全な支配を受ける。ところが、彼の投票権は

(10)

第4巻 4号一一30 十万分の一に減少しているので、法の制定に際しては、以前の十分の一の影響力しかもっていない。それ故、臣民の ほうはいつも一であることに変わりがないのだから、これに対する主権者の比率は市民の数に比例して増大する。従 ハ 百 ﹀ って、国家が大きくなればなるほど、自由は減少することになる。﹂ そしてこのことは、次の如き事情によっていっ ﹁特殊意志と一般意志との関係、言い換えれば習俗と法との関係が、稀薄になればなるほど、抑圧 力は増大しなければならない。従って、政府が良き政府であるためには、人民の数が多くなればなるほど、相対的に 強力でなくてはならなくなる。﹂ そう促進される。 ﹂うした権力の増大は当然自由を制約することになるであろう。 そ し て 、 ル ソ l の こ の よ う な 議 論 は 、 モンテスキューと同様、更に政体論との結合へと発展していく。その際、そ ﹁政府の力の総量は常に国家の力の総量であるから、決して変わること れを媒介したのは次のような認識であった。 はない。従って、政府がこの力をそれ自体の構成員のために用いることが多ければ多いほど、人民全体に働きかける ための余力は少なくなるということになる。/だから、施政者の数が多くなればなるほど、それだけ政府が弱くな る 。 ﹂ ﹁施政者の数が多くなるにつれて政府の結 これが先の議論と合わさって、こういう結論を導き出すのである。 束が緩むことを、私は今証明したが、その前に、人民の数が多くなればなるほど人民に対する抑制力は増大しなけれ ばならないことも、既に証明しておいた。そのことから、施政者の政府に対する比は、臣民の主権者に対する比と逆 の関係になければならないことになる。即ち、国家が大きくなればなるほど政府はいよいよ縮小され、首長たちの人 数は人民の数の増加に比例して減少するようにしなければならないのである。﹂ そうであるならば、このことは当然 次のような仕方で政体論と結びつくであろう。 ﹁様々な国家において最高施政者の数が市民の数と反比例しなければ こ な と ら に な な(し、 る~と

己 し

た ら 一般に、民主政は小国に適し、貴族政は中ぐらいの国家に、そして君主政は大国に適するという

(11)

以上が、国家の規模に関するルソIの理論の概要である。そこに示されているように、彼もまた、国家は大きすぎ ても小さすぎても良くないこと、そして、国家の大きさは権力のそれを規定し、従って自由のそれにも関係するとい うことを、明確に認識していたと言えよう。 これまで、先述の問題に関して代表的と思われる四人の思想家の見解について見てきた。そしてそれによって、統 合の維持や自由の確保という点から国家には最適規模というものがあるという思想が、伝統的に存在してきたことが、 実際に明らかにされた。既述の如く、国家の規模は統合のレベルに対して決定的な影響を及ぼす。従って、(政治の基 本が統合にある以上)それが国家論ないし政治思想における一つの普遍的なテ 17 とされてきたのは、 当然である。本 稿のそティ l フ及び先に私の提出した命題そのものは、基本的に新しい考えではないと言うべきであろう。しかしも ちろん、従来の見解はよく吟味する必要がある。そして、その本質を批判しなければならない。本稿の目的はより高 31一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 いところに設定されているからである。 そこで彼らの主張の内容についてであるが、それ自体としては基本的にほぼ妥当であると言えよう。それらは、政 治的空間の大小と自由の可能性のそれとの聞には反比例の関係が存在するという先述の﹁法則﹂と、軌を一にしてい るからである。但し、彼らの主張の妥当性は無条件ではない。そこには根本的な制約がある。それは何かと言えば、 自然的統合の明確な観念が欠けているということである。それ故また、統合力の自然的変化という観念も欠けている ということである。彼らの念頭には、人為的・政治的統合の観念、と言うより権力の観念しかないし、およそ、統合 の質的相違の観念がない。従って、彼らにおいて全体的な統合力は単純に決定されるのである。そこには、統合に関 する多様性並びに歴史性の認識が見られない。そうであるが故に、国家の最適規模が一面的に決定され、なお且っそ れが固定化されたり、或は、国家の規模と政体とがストレートに結びつけられたりするのである。しかるにそれが誤

(12)

第4巻4号一一32 っていることは、既述の通りである。実際には、国家の最適規模の問題は多面的な考察を要し、且つまたその値は変 動的であるし、国家の規模と政体の関係も単純ではないのである。 そのような意味で、従来の議論には限界があり、我々はそれを打破し更に発展させていかねばならない。そのため には、(既に試みたように)人間同士の結合の在り方を根源的に聞い直すことによって、統合の概念を総合的に規定又は 再規定することが、必要である。そうするならば、統合概念は拡大し、多様なもの、従ってまた変化するものとして、 捉えられることになるであろう。そしてその結果、それは様々な現実に対する妥当性を高め、同時に歴史的な視点を も獲得するであろう。これが本稿の目論見であることは、 ﹁序言﹂に記した通りである。 ともあれ、前述の如き一つの思想史的伝統が形成され、それが限定的ながらも語っているように、政治的空間の規 模と自由の可能性との聞には、本質的な相関性がある。前節の議論と合わせて言えば lil--自由の可能性は統合の在 り方によって基本的に決定されるが︹前節︺、後者の基礎には政治的空間の規模があるが故に、前者はそれと密接な関 係をもっているのである︹本節︺。このようなテlゼの確立が本章の主たる課題であった。それはこれまでの論述によ って既に果されたと思われるが、ここで最後に、或る具体的な考察を本章の締め括りとして付け加えておきたい。そ れは我が日本に関してである。それと言うのも、前節で現実のいくつかの国家を取り上げた以上、日本に言及しない わけにはいかないからである。と言うより、実は、日本は本章全体のテiゼを論証する最も顕著な実例であると見ら れるからであり、まただからこそ、前節においては省略したのである。 そこで日本についてであるが、私の見方によれば、自然的統合に関して日本ほど恵まれた国は(少なくとも、およそ 国家と呼びうるような国の中では)他にない。それは、世界中を見渡しても全く群を抜いている。極端に言えば、その強 さは人為的統合即ち政治を不要にするほどである。日本では、統合(少なくとも基本的な統合)は殆ど所与の事実であり、

(13)

従って、(他の国では﹀政治によって解決すべき基本的課題が政治以前に既に解決されているのである。おそらくこのこ とが、日本においては本格的な政治、政治らしい政治が存在しないことの、それ故また、政治の(行政のではない﹀ウ ェイトと政治家のレベルの低さ(日本ほど政治家を小馬鹿にしている国が、他にあろうか)、それに外交べたの、根本原因で あると思われるが、それはともかく、我々は社会的共存に関して政治に頼っていないし、また頼る必要がない。それ ほ ど 自 然 的 統 合 が ( 既 述 の 如 く 、 あ ま り 強 す ぎ る の も 問 題 だ が ) 噌 強 固 な の で あ る 。 では、何故そのように言えるのであろうか。その要因は何処に存するのであろうか。それについては、次の如き諸 々の事実が指摘されうる。 自然的統合の要因のうち、まず非経済的なものを挙げると、第一に、島国ということがある。それは外部世界を遮 断することによっ七内部的なまとまりを容易にする J 第二は、それと類似しているが、日本が位置している極東とい 33一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則同 う場所である。それは世界の政治的中心から大いに隔たっており、列強による諸々の庄力や影響力を免れることがで きる。第三に、ほぼ単一民族だということ、第四に、(よりいっそう完全な意味で)単一言語だということであり、それ らは共に統合にとって極めて有効に機能する。第五に、第一及び第二の要因とも関連するが、外国による侵略と(敵 対的・収奪的な﹀支配を受けた経験がないという稀有の歴史である。それは固有の伝統や安定した秩序の形成を促す。 第太に、歴史的に農耕社会であったということである。定住と協同作業という農業の特質、及び忍耐・穏和・従順と お の ず 古 いう農民の性格は、自ら統合を志向するであろう。第七に、宗教的な要因がある。即ち、無宗教ないし宗教的無節操、 又は多神教的宗教意識の故に、宗教的に寛容だということ、或は少なくとも、激しい宗教的対立がないということで ある。そして第八に、儒教の影響(それだけではないが)による国民の勤労・勉学意欲、順法精神、 秩序意識の高さが 指摘されうるのである。

(14)

第4巻 4号一一34 次に、もう一方の経済的要因であるが、この点については全く歴然としている。つまり、その世界屈指の経済力は 円咽却︾ 統合の確固たる基盤を成しているのである。しかも、その経済は単に規模だけでなくその在り方においても有効であ る。というのは(これは先の非経済的要因に属するが﹀、所得格差が諸外国に較べて少なく、少なくとも意識の上ではオー ル中流階級であり、従ってそこに、基本生活上の共通性・同質性が存在しているからである。 このように見てくると、そこには自然的統合のあらゆる要因がハ既に再三述べたように、それらは長所であると同時に短 所でもあるが)見事に出揃っていること、しかも、その一つ一つが極めて高い水準にあることが、判るであろう。日本 には、極限的と言ってもよいくらいの自然的統合が存在しているのである。そうであるならば、前述の如く、人為的 統合が殆ど必要ではなく、従って、前節の﹁法則﹂からして、自由の可能性が非常に大きいということになる。完壁 に近い自然的統合が、甚大な自由の可能性を生み出しているのである。 そして、実はそればかりではない。後者の基礎は、上述の諸点に基づく前者だけではない。日本には、もう一つの 決定的な好条件がある。それは、本節で取り上げた政治的空間の規模に関してであり、それが全く小さいということ である。日本の現実の国土は(人口は多いが)可能なそれよりもはるかに狭い。そうした事実は自然的統合をバ V クア ップすると同時に、人為的統合をも容易にする。それ故、本節の﹁法則﹂によれば、それは必要な統合力を引き下げ、 それによって日本における自由の可能性を更にいっそう拡大せしめているのである。 以上の如く、私の分析によれば、日本には極めて大きな自由の可能性が存在していることになる。それは世界最大 と言えるのではあるまいか。日本はその国民ハ住民﹀に最大限の自由を認めたとしても、一つの社会及び国家として立 派に存続していくことが、おそらく可能なのである。そして、それは現実が物語っている。日本における自由の情況 はハ個別的な問題はあるが﹀総じて世界の最高水準にあると言えよう。しかし、善し悪しは別にして、まだまだ質量共に

(15)

発展の余地があるように思われる。何が不十分であるかは見方によって異なるが、しかし例えば、政治に対する直接 的参加の自由や、各団体(特に職場﹀におけるメンバーの自由、或は、日本に居住する外国人の享受すべき自由などに ついては、それを拡充すべきことは明らかであろう。日本の社会は十分それに耐えることができるはずなのである。 ともあれ、上述のように、日本に関してもまた、本章の論理によって合理的に説明することができる。即ち逆に言え ば、前者は後者を実証しているのである。 35一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則伺 ( 1 ) 因に、ルソーも土地と人口に注目し、またそれらの関係について語っている。﹁政治体の規模は二つの方法で測定するこ とができる。即ち、領土の広さによる測定方法と人民の数による測定方法である。国家に真の偉大さを与えるのに適当な比 例関係は、この両者の聞に存在している。国家を造るのは人間であり、人間を養うのは土地である。従って、この比例関係 は、土地が住民の維持に十分であり、土地が養いうるだけの住民がいるということである。﹂ Q 社 会 契 約 論 ﹄ 、 井 上 幸 治 ・ 訳 、 ﹁世界の名著﹂部、中央公論社、二六九頁) ( 2 ) プ ラ ト ン ﹃ 法 律 ﹄ ハ 式 部 久 ・ 訳 ) 、 ﹁ プ ラ ト ン 著 作 集 ﹂ 2 、 動 草 書 房 、 ( 3 ﹀同右、一九二頁。 ハ 4 ﹀ ア リ ス ト テ レ ス ﹃ 政 治 学 ﹄ ( 田 中 美 知 太 郎 他 ・ 訳 ) 、 ( 5 ) 同 右 、 六 八 頁 。 ( 6 ) 同 右 、 二 五 六 頁 。 ハ 7 ﹀同右、二五回﹄五頁。斜線は段落。 ( 8 ﹀同右、二五六頁。 ( 9 ) モ ン テ ス キ ュ ー ﹃ 法 の 精 神 ﹄ ( 根 岸 国 孝 ・ 訳 ) 、

(

ω

﹀ 同 右 、 一 一 一 一 一 一 一 頁 。 ( U ﹀ルソ l ( 前 掲 書 ) 、 二 五

O

頁 以 下 。 一 九 三 頁 。 ﹁ 世 界 の 名 著 ﹂ 8 、 中 央 公 論 社 、 二 五 七 頁 。 ﹁ 世 界 の 大 思 想 ﹂ 施 、 河 出 書 房 、 一 一 一 七 I 九 頁 。 点 線 は 中 略 。

(16)

第4巻4号{ー36 ( ロ ﹀ 同 右 ? 二 六 七 頁 。 ι ハ日﹀同右 1 二 六 七 l 入 頁 。 ( M ) 悶 右 、 ↓ 一 六 九 真 。 ( お ﹀ 同 右 -、 二 七 七 i 入 頁 。 (MC 同 右 、 二 七 人 頁 。 ( げ ﹀ 同 右 、 一 一 八 千 一 長 。 斜 線 は 段 落 。 ( m v 同右 1-' 一 八 二 頁 。 ( 四 ) 同 右 、 r 二 八 四 頁 。 (却)これは、その逆もまた真である。即ち、統合は経済力の基盤を成しているのである。経済発展は統合によって大いに促進 される。何故なら、人的エネルギーが統合のために使用される必要がなく、殆ど経済活動のみに集中されうるからである。 統合が欠けている場合には、莫大なエネルギーが人間相互間の争いに浪費されるが、揺るぎなき統合が存在している場合に は、人々は安んじて自己の生活の向上に専心することができ、また互に団結し協力することができる。日本 ιの驚異的な経済 発展の最も根本的な基礎は、そこにあったのである。 (幻﹀自然的統合力がそれほどまでに強いということは、自由の可能性と共にもう一つの極めて重要な可能性を日本に与えてい る。それは、自由の可能性が圏内的なものであるのに対し、対外的なものであり、その対外的な可能性とは即ち倫理的行動 のそれである。日本は、国家として倫理的に(善く﹀行動しうる非常に大きな潜在的能力をもっているというのである。 国家が倫理的に行動することは、まことに困難であり、実際それは稀である。むろん、合理的な打算に基づいて表面上倫 理的に振舞うことは、ありうる。しかし一般的に、国家が個人に較べてはるかに反倫理的であることは、明白な事実である。 ところが、強力な統合の存在は、そのような反倫理性を克服する可能性を生み出すのである。反倫理的国家の倫理化の可能 性が生まれるのである。何故なら、統合が強くなればなるほど、国家の構成は集団的・多元的なものから個人的・一元的な ものへと変化してい︿からである。つまり、そのとき国家はあたかも一人の人間のような存在となるのであり、そうした国 家は、その内部における一体性・共同性・相互性によって高い適応力・問題処理能力を、従って大きな対外的負担能力を、 もつに至るのである。このように、十分に統合された国家は、一個の立派な倫理的行動主体、ハ上述のような意味における)

(17)

37一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則白

道義国家となる可能性がある。そしてそうであるならば、日本にはその可能性が大いにあることになる。世界で最も大きな

可能性があることになる。それ故、日本はそうした方面においてこそ積極的に世界をリードすべきなのである。国益の追求

参照

関連したドキュメント

う。したがって,「孤独死」問題の解決という ことは関係性の問題の解決で可能であり,その 意味でコミュニティの再構築は「孤独死」防止 のための必須条件のように見えるのである

問題例 問題 1 この行為は不正行為である。 問題 2 この行為を見つかったら、マスコミに告発すべき。 問題 3 この行為は不正行為である。 問題

過交通を制限することや.そのためのゲートを設 置することは,日本において不可能となっている [竹井2005: 91】。

 福沢が一つの価値物を絶対化させないのは、イギリス経験論的な思考によって いるからだ (7) 。たとえばイギリス人たちの自由観を見ると、そこにあるのは liber-

 回報に述べた実験成績より,カタラーゼの不 能働化過程は少なくともその一部は可三等であ

被祝賀者エーラーはへその箸『違法行為における客観的目的要素』二九五九年)において主観的正当化要素の問題をも論じ、その内容についての有益な熟考を含んでいる。もっとも、彼の議論はシュペンデルに近

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

実際, クラス C の多様体については, ここでは 詳細には述べないが, 代数 reduction をはじめ類似のいくつかの方法を 組み合わせてその構造を組織的に研究することができる