フィヒテ哲学における絶対性へのアプローチ
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(2) 2. 阿部典子. また、フイヒテ哲学において明らかにされる自我と絶対者との関係構造は、フ ィヒテが生きた社会における宗教すなわちキリスト教との関係において理解さ れるのみではなく、また、仏教的な捉え方に通じる側面があるように思われる。 本論では、そのような観点から仏教の基本的立場との比較対照を試みてみたい。. 2 . 観念論の立場. 2-1 観念論としてのフイヒテの立場 哲学にはいくつかの課題が掲げられるが、そのひとつにこの世界の在り方を 説明するという課題がある。その課題に答える立場として、哲学の歴史の中で は常に観念論と実在論というこつの対立する立場があった。両者は現在の議論 においても二者択一の対象となり、最終的な決着はついていないと言える。フ ィヒテはその初期の著作である『知識学への第一序論jの中で、この課題を「経 I4, S . 1 8 7 )(1) ことであると捉えなおした上で、以下のよう 験の根拠を示す J( な立場を表明している。 フィヒテによれば、経験は知性としての自我と物との結合によって成立する。 その経験の根拠を示す場合には、自我を根拠とするか、物を根拠とするかの二 つの立場が可能であり、前者が観念論、後者が実在論あるいは独断論と名づけ られる。フイヒテは、物を捨象することはできるが、自我を捨象することはで きないとして観念論の立場に立つのである。しかしながら、単に自我を根拠と して物を二次的あるいは派生物と位置づけるのではなく、自我が自我として働 くためには、物の働きかけが必要であることをも示していく。したがってフイ ヒテの立つ観念論は、実在論との二者択一の結果として選ばれたものではなく、 つまり実在論と相対立する立場としての観念論ではなく、対立する両者の「中 I2, S . 3 2 4 ) としての観念論であることが確認されている。これが 間の正道 J( 先験的観念論と名づけられるのである。 先験的観念論の立場から経験の根拠を明らかにしていくフイヒテの思索は、 まず最初に『全知識学の基礎』で試みられた。根拠として挙げられる観念的な ものがここで「自我 Jと呼ばれるのである。この自我が観念的であることをよ く示しているものは、第一原則として「自我は根源的に端的にそれ自身の存在 I2, S.261)と表現される自我の在り方である。これが第一原則 を定立する J( に掲げられているのは、自我は自己を定立するという活動ゆえに存在し、その 自己定立活動が働いている限りにおいて「我あり」が可能であると捉えられた からである。そもそも自我は活動であると理解される。 フィヒテの述べる自我の定立活動は抽象的な「我あり」の表現ではない。し かし、「我在り」の定立を具体的なものとして考察する場合には、我ありと限定.
(3) フィヒテ哲学における絶対性へのアプローチ. 3. したその外、すなわち非我の領域が必要である。それゆえフィヒテは続く第二 原則で非我を定立し、自我とその外としての非我との関係構造を先験的観念論 の立場で明らかにしていくのである。そこで注目されるものは、能動性と受動 性という活動の在り方である。自我の活動を考察する際に、その対立物として 非活動すなわち静止が持ち込まれることはない。この対立構造を持ち込むこと は、単なる観念論と実在論との二者択一の次元に逆戻りすることになるからで ある。そうではなく、活動そのものの中に対立を見出し、自我のより本質的な 活動を探求していくという方向をフイヒテはとる。そこに見出されるのが、活 動における能動的在り方と受動的在り方との対立である。自我の自己定立活動 は本来能動的活動である。しかし、自我を自我として定立するということは、 自我を自我ならざるものすなわち非我との関係の中に定立するということに他 ならない。この定立された自我と定立された非我とは、いわば定立する自我の 働きの領域内で成立する対立である。フィヒテはこれを第三原則として示す。 ここで確認されることは、まず、自我の二重の観点である。自我の在り方に、 定立する自我と定立される自我とが区別されるのである。さらに、定立された 自我と非我とが確認される。定立された自我とはいえ、自我である限り、その 本質的な活動としての定立活動は行なわれる。そしてその活動は、定立された 自我の枠組みの中で働き、したがって常に非我との関係の中にある活動である。 フィヒテはここに、現実的な自我と非我との関係をみるのである。『全知識学の 基礎 Jでは、この両者の関係は、理論的な活動と実践的な活動とに分けられ、 自我の活動が更に詳細に示されていくのである。 以上のようなフイヒテの論述から観念論的な特徴を再確認してみる。第一の ものとされるのは、自我の定立活動である。また、自我以外の領域が可能にな るのは、自我の定立活動により自我ならざるものの領域が同時に聞かれるから であり、したがって非我の領域も自我の活動に基づく。 また、「中間の正道」といわれた先験的観念論の特徴は次のように指摘できる と思われる。現実的な自我と非我との関係は、理論的領域と実践的領域におい てその活動が示されるのであるが、理論的領域においては、非我が能動的に自 我に働きかけ、その働きを自我が受動的に受けとめるところに成立するとされ る。つまり、日常の理論的認識作用に明確にその構造が示されるように、認識 においては、非我としての何か或る物がそもそも在り、その在り方を自我が受 け取るというところに自我による非我の認識が成立しているのである。一方、 実践的活動は、自我が能動的に非我に働きかけ、非我としての在り方に変更を 加えていくところに成立する。非我は自我の働きを受動し、いわば自我化され るのである。 この自我と非我との関係は、相互依存の関係に立つ。認識が成立するのは非.
(4) 4. 阿部典子. 我の能動性とそれを受ける自我の受動的活動においてである。非我の能動性と それに対応する自我の受動性がなければ、認識は成立しない。また、実践が成 立するのは、自我の能動的活動とそれを受ける非我の受動的在り方においてで ある。自我の能動性とそれに対応する非我の受動性がなければ、同様に実践的 活動も成立しないのである。理論及び実践の領域におけるこの自我と非我との 関係を見る限り、両者は同じレベルで関係し合う。したがって、自我と非我と のどちらが根拠であるかという問いに対して、いずれを選ぶかは等価に他なら ない。理論的説明を行なおうとする限りにおいては、相互依存している両者の 関係を循環的に解説することになり、一方、実際の理論的領域や実践的領域に おける或る事態の事実的成立は、一挙である。そして、観念論の立場にある『全 知識学の基礎』においては、第一原則で示される定立的自我の活動を背景にし ながら、自我と非我とが相互依存的に関係しあうことが示されていると言える。. 2-2 観念論としての唯識思想 仏教の中に唯識思想というものがある。 3 ・4世紀ごろのインドの瑞伽行派 (ゆがぎょうは)と呼ばれる人たちが唱えた教理であり、文字通り「ただ識の みがある」という教えである。「識」とは「心 Jあるいは意識活動一般のことで あり、したがって唯識を唯心とほぼ同義に用いることができる。 もともと仏教は「心の執着を滅して解脱・浬繋を実践的に実現すること J(2) を目的としており、その目的達成のために心の分析を重視していた。また「心 の執着を滅する」ということは心の在り方を変えることであり、心の在り方を 変えることによって苦を脱し、平安の境地に達しようとするのが仏教の教えで ある。それゆえ仏教においては「心」の在り方が決定的となる。そして、心の 在り方、及び、心と現実の物質界の在り方とを理論的に関係づけて体系化され たものが唯識思想である。それゆえ唯識思想においては、「ただ識がある jとい う基本の立場から物質界が理論付けられていくことになるのである。 哲学において一般に観念論と呼ばれる立場は認識論上の立場の一つであり、 実在論と対立する。事物の存在あるいはその在り方は、その事物の観念によっ て決定されるとするのが観念論の基本的姿勢である。この方向を推し進めて形 而上的な次元での議論になる場合には、事物の存在そのものも観念化されるこ とになり、むしろ唯心論の立場に近づく。哲学上の唯心論の立場に対立するの は唯物論であり、いわゆる科学的と称されるのはこの唯物論の立場と言えるだ ろう。また、観念論の立場で存在そのものを論じようとする場合には、不可知 論の立場や絶対的な何かを根拠として宗教的方向に向かっていく場合が多い。 仏教はそもそも心の在り方に着目するものであるが、唯識思想、においては物 のあり方も問題にされるようになった。そこに示されるのは「自己と外界の事.
(5) フィヒテ哲学における絶対性へのアプローチ. 5. 物とは、自分の心が作り出したもの Jであるという徹底した唯心論の確立であ る。そして唯心論においては、「事物がある Jと認識される時のその認識そのも のの成立過程の証明も展開される。それゆえ、苦を脱し平安の境地に至ること を本来の目的としながら、その目的達成のために、認識論的に外界の対象を心 の働きによって基礎付けるという問題に取り組むようになったのである。この 点に着目する限り、唯識思想は哲学でいう観念論と同様の問題を扱っていると 言えるのである。 それでは、「ただ識のみがある jとする唯識思想において、現実の物はどのよ うに理解されているのだろうか。基本的な位置づけは、全ては心の働きの現わ れである、とする在り方において示される。ただ識のみがあるのであるから、 心の存在は確実とされる。その心の根源的な部分は唯識思想において見いださ れて、阿頼耶識(あらやしき)と名づけられたのであるが、その根源的部分が 働くと、心が、一方で何らかの物の姿をとる部分つまり客観あるいは対象と、 もう一方でその物を見る部分つまり主観とに分かれる、とされる。日常的には、 主観と客観とが別物であるというところに認識が成立しているのであるが、唯 識思想においては、主観と客観とはともに心の変化したものであるとされるの である。 また、唯識思想では心の在り方を階層的に捉ぇ、仏教に伝統的な「眼識、耳 識、鼻識、舌識、身識、意識」の六識と、その奥の自我意識としての末那識(ま なしき)、そしてこれらの根源にある阿頼耶識という八識をたてる。そして、阿 頼耶識が一切の根源とされ、現実のさまざまな物の在り方はそれを把握するそ れぞれの識の対象として位置づけられる。例えば、阿頼耶識によって形成され る識の一つである眼識は、その対象として現実の色を認識するのであるが、そ の色も実は阿頼耶識の現れとして現象しているものと捉える。このように、識 に対して現れる相としてのみ現実を見るのが唯識思想の基本的姿勢である。現 実をこのように捉える立場は、哲学でいう観念論の立場に他ならない。. 3. 知と絶対性 フィヒテは自我と非我との関わりを明らかにすることによって経験界の構造 を明らかにし、その根拠を自我に求めた。それゆえ、その探求の方向は自我の 内的構造を明らかにすることに向かう。具体的には、自我の働きとしての「知」 の構造が示されることになる。 フイヒテにおいて知は二重に理解されている。一般的に経験のなかで成立す る知すなわち対象との関係において成立する対象知と、知自身のあり方を解明 することにおいて成立する知すなわち自覚態としての知である。知は自我自身.
(6) 6. 阿部典子. の働きであり、その働きの構造を明らかにするには、自覚という方法のみが有 効である。知の働きを外的に対象化することはできないからである。この過程 が『知識学の叙述』に示されるのであるが、そのポイントとなる. r A+BJ. ( I6, S.194)という図式で示される知の構造を以下で確認する。 この図式において、対象知は Bで示されている。 Bの在り方とその根拠を求 めた結果、フィヒテは知の本質的な有限性を見る。あるいは、そもそも知が働 くということは、そこに有限な次元が聞かれているということと同じであるこ とを確認するのである。『全知識学の基礎』では理論的自我と表現されてその働 きが示されているのであるが、知が働くためには知自身の働きとしての能動性 と同時に、知に対しての対象からの働きかけが不可欠であると考えられる。知 はその対象の存在そのものを生み出すわけではないからである。ここに知の有 限性と、有限性を知らしめる存在そのものの領域が示される。そしてその領域 が、知の有限性に対応するものとしての絶対的な領域なのである。フイヒテは これを A で表示し、絶対者と呼ぶ。知の自覚的働きは、知自身の構造を明らか にするのであるが、それは同時に知の働きの有限性の認識となり、知の存在そ のものを、知の働きが及び得ない絶対的な領域にあるものとして確認すること になる。知は存在そのものに対して、知りえないという仕方において接するこ とができるのみであり、したがって、知の自己否定という働きにおいて絶対性 に触れることになるのである。絶対性と有限性のこのような接点をフィヒテは +で示し、+を絶対知と名づけて、絶対知の働くところとするのである。. Bおよび+は知的理解の領域にある。しかし A は知的理解を超えたところに ある。この構造を確認した以降のフイヒテは、知の働きと比較しうる限りにお ける絶対性の叙述と、知とは別の領域としての「生」の領域における絶対性の 在り方を探っていくことになるのである。 そもそも知は有限なもの・相対的なものであるという以上のようなフイヒテ の理解は、仏教の見方に通じるところがある。仏教の基本的見方においては、 実体的あるいは絶対的なものは、我としての自我も含めてひとつとして存在し ないとされ、このことは「無我」ゃ「空 j と表現されて仏教の基本テーゼのひ とつとなっている。 仏教においては常に心の平安なあり方が求められているのであるが、その前 提となっているのは「苦」の理解である。四苦八苦と一般にも言われるように、 この現実世界における人間のあり方を、仏教では「苦 Jと見る。そして苦の原 因を、様々なものに対して執着するという心のあり方に指摘するのである。そ れでは、なぜ執着が生じるのかと言えば、そのものが自分に何らかのプラスを もたらしてくれると信じているからである。そのものが自分に幸福をもたらし てくれると思い込んでいるためにそのものに執着し、まだ手に入れていないも.
(7) フィヒテ哲学における絶対性へのアプローチ. 7. のであれば手に入れることを、すでに手に入れているのであればその永続を求 めるのである。この執着ゆえに、現に手にしていないことやいずれなくなるで あろうことに苦しむことになる。仏教ではこのような心のあり方を、真理を知 らない無知と位置づけ、「無明」と名づけている。 仏教では絶対的なものが説かれることはない。仏教には絶対という見方は基 本的には存在しないのである。これは、キリスト教をはじめとして多くの宗教 が説く教えとは決定的に異なる点である。多くの宗教においては絶対的なもの や超自然的な存在が認められており、それを「神 Jとして崇め、一切は「神 j に基礎づけられ、あるいは、「神 Jによって創造されたと説かれる。よく知られ ていることであるが、仏教ではそのような「神 j が説かれることはない。仏教 の創始者であるお釈迦様は「仏陀」と呼ばれるのであるが、それは. f 覚者」、「迷. いを去って悟りを聞いた人」という意味である。すなわち、真理を悟り、迷い から目覚めた人ということである。その真理が仏教の教えとなっているのであ るが、絶対性という点に関して言えば、絶対性あるいはそれ自体で存在してい るものは、何もないと説かれる。仏教の基本的な教えの一つに「縁起」がある が、これはものごとが縁によって生じることを意味している。一切は縁すなわ ち因果関係によって生じ、それ自体で独立して生じるものはなにもないと説か れるのである。ここには特別な地位としての絶対性の成立する場はないといえ る 。 また、前述のように仏教は唯心論の立場であるため、そもそも物質に関して その独立性が説かれることはないのであるが、唯心論的に捉えられた「我 j に 関してもその独立性は否定される。唯識思想においては「ただ識のみがある J と言われるのであるが、その識もそれ自体で存在する絶対的なものではない。 つまり、永遠に変わることなく、同じように自己同一保ち続ける我として理解 されることはないのである。 それでは、「今のこの私」は、いったいどのように解釈されるのだろうか。 これも「縁起説」によって答えることができる。つまり、過去の私が現在の私 を作り、現在の私が未来の私を作ると考えられているのである。現在は過去の 結果であり、同時に未来のあり方を決定するのである。これが「業相続」と呼 ばれる。「業 Jとは我の行為や、我の思いなどを意味し、我のあり方が全て業と 呼ばれる。その業の結果が次々と続いていくことが「我」なのである。それゆ え、ここでも我のあり方に固定的絶対的なものが成立する余地はないと言える。 このような考え方が過去世や来世にまで広げられると「輪廻」の思想となって いくのである。 このように、それ自体で存在する実体的なものの否定や、縁起という関係性 においてものごとを捉えていく見方が「無我」ゃ「空 Jと呼ばれる。そして、.
(8) 8. 阿部典子. ものごとのこのような真の在り方を理解していないことが「無明」であり、そ こに執着や迷いが生じることになるのである。. 4 . 経験界の位置づけ フィヒテは知の働く領域を有限な世界と見た。そして、その有限な世界の成 立が可能であることを論証する際に、有限な世界を可能にする領域として絶対 的領域を位置づけるのである。もちろんこれは、有限な自我としての知の構造 解明を行なった結果として、知の領域を超えた存在そのものの領域が聞かれた ことから導かれており、フィヒテにとってみれば論理の必然的な帰結に他なら ない。それゆえ晩年のフイヒテは、絶対性の領域を根拠として、有限な経験界 の領域がどのようにして成立しているのかを明らかにするための『知識学 j に 取り組むことになるのである。つまり、絶対的領域から経験界が導かれる仕方 を 理 論 的 に 明 ら か に す る の で あ る 。 そ の ポ イ ン ト と な る の が 、 「 映 像 J( I I. 8, S . 3 6 6 ) としての経験界の理解である。 知はその自覚態において、知自身の根源的存在に至るが、知的に存在そのも のを捉えることはできない。存在に対して知的にアプローチした時に現れるの は、知的作用を媒介とした存在の相のみである。知に対してはそれのみが可能 である。フイヒテは、この知的作用を媒介とした存在の相を、存在が知的領域 に現われ出たものとして、存在の「映像」とするのである。 経験界は知としての自我が理解している世界である。フイヒテの立場から言 えば、自我が経験界を理解するということの本質は、経験界そのものの成立根 拠である絶対的な何かを、自我が知的映像として捉えているということに他な らない。そしてその知的段階に応じて、経験界は様々な段階で現われ出ること になる。この点は『浄福なる生への指教』において詳細に示されている。 根拠として絶対的領域という観点を除く限りにおいて、経験界の理解の仕方 は仏教の基本的立場においても同様であると思われる。日常的認識においては 我と物とがそれぞれ実体的に存続していると理解されているが、それは執着を 生み、苦を生じる誤った理解である。正しい智慧によって認識されるあり方、 つまり仏教で説かれる教えでは、物質は外界に実在しているものではなく、そ れらは心によって生み出されたものであり、存在すると誤解されているものに 過ぎない。したがって、心の在り様によって、存在の姿もそれぞれに異なって くるのである。 唯識思想においては、対象認識の働きに際する心のあり方を次のように区分 している。認識されるものつまり対象として現れる心の働きの部分は「相分(そ. J、認識するところを「見分(けんぶん ) J、そして見分を把握し、その うぶん ).
(9) フイヒテ哲学における絶対性へのアプローチ. 9. 対象認識作用を把握することによって実際に知が成立するところを「自証分(じ. J、さらに自証分の働きを見るもうひとつの部分としての「証自証 しょうぶん ) 分」である。これらの心の働きにおいて知が成立し、また対象の世界が成立し ていると説くのである。. 5 . 教説の根拠 哲学は論理的整合性を備えた理論体系のひとつであり、その証明には論証と いう手段が用いられるのであって、実証という方法は基本的にない。フイヒテ は、自分の哲学を公にするに際して、「汝自身をみよ。汝の目を、汝を取り囲む. I4, S . 1 8 6 ) と呼びかけてい すべてのものから転じて、汝の内部に向けよ。 J( るが、これは、フイヒテが公にする『知識学 Jは客観的に実証することができ るものではなく、その正当性は、知識学を学ぶ人が知識学に書かれている事柄 を自らの内で実証してみる以外にない、という事情を踏まえている。知識学に 書かれていることを単に理論的に後追いするのみであるならば、論理的整合性 の検証で十分であるかもしれない。しかし、もっとも基本的である自我や知の 在り方に関しては、いわば論理的な辻棲合わせの方法はおそらく複数可能であ るに違いない。そのような理論体系において、その正しさの根拠として引き合 いに出されうるものは、フィヒテが言うように、いわば個人的で内的な実証体 験ということになるのである。そしてその体験は必ずしも万人が一致するもの ではないために、「人がいかなる哲学を選ぶかは、人がいかなる人間であるかに. I4, S . 1 9 5 ) と言われるのである。 よる J( 一方、仏教はお釈迦様の唱えられた教えであるため、お釈迦様が唱えられた か否かということが正当性の判断基準となる。したがって、お釈迦様が語られ たとされる経典の文言が典拠となるのである。 さらに仏教にはもうひとつ、「禅定」体験における実証がある。「禅定」とは、 インドに伝統的に伝わっていた修行法のひとつであるヨーガが仏教に取り入れ られたものである。お釈迦様も出家される以前から実践されていたと伝えられ ており、また、最終的な悟りを得られたのも禅定においてであったと伝えられ ている。それゆえ禅定は、「心静かに膜想し、真理を観察すること jとして修行 の徳目に挙げられている。この禅定における意識経験なくして仏教は成立しえ ないのである。 唯識思想はこの禅定中の意識経験に基づいて唱えられたと言う。禅定中に意 識に浮かぶ様々な対象は、意識によって生み出されたものであり、その本質は 意識そのものである。禅定中におけるこの意識と本質上意識であるその対象と のあり方は、日常経験における意識とその対象のあり方においても同じである.
(10) 阿部典子. 1 0. と説かれるのである。つまり、現実に見ている赤いバラは、意識が作り出した ものであって、その本質は意識そのものであると説かれるのである。もちろん、 禅定中の意識はある特殊な意識状態であると言える。しかし、その特殊な意識 状態が実は真理を見る本来的な意識のあり方であり、日常的な意識のあり方は 迷いの状態であると説かれるのである。仏教の教えの正しさあるいは仏教の智 慧の実証は、このような禅定体験において得られると言う。 フィヒテにおける「汝自身を見よ」という要求は、決して系統だ、った方法論 として示されているものではない。しかし、自己を見つめるという姿勢が哲学 の要の一つであることを、フィヒテは的確に表現していたと言える。そしてこ の点にも仏教の基本的姿勢に通じるものを見ることが出来るだろう。フィヒテ の哲学は自我の哲学とも言われ、自我の意識構造が詳細に明らかにされてし、く。 一方唯識思想では、「ただ識のみがある Jという立場から、意識構造がその深層 に至るまで明らかにされてし、く。本論では、特に仏教に関しては一般的な理解 のレベルで、両者の比較対照を試みたに過ぎないが、両立場の比較検討を進める ことによって、人間の意識のあり方がさらに明らかになっていくことが期待さ れる。 注. (1) J . G . F i c h t e Gesamtausgabed e rBayerischenAkademied e r W i s s en s c h a f t en からの引用。引用ページ数は本文中に記す。 (2)以下、仏教の基本用語に関しては、『岩波哲学・思想事典』及び『岩波仏. 教辞典』を参照した。.
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