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自由の客観的可能性と歴史の発展法則 (八)

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43一一『奈良法学会雑誌』第8巻2号(1995年9月〉 八 論 説

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自由の客観的可能性と歴史の発展法則的

W 次 口 同 序 言 第一章社会的統合の手段(以上第四巻二号) 第二章社会的統合と自由 第一節統合と自由の関係(第四巻三号) 第二節政治的空間の規模(第四巻四号﹀ 第三章﹁統合史観﹂ 第 一 節 理 論 付基本思想(第五巻三号) 。メカニズム州第六巻一号) 日 開 発 展 段 階 ( 第 六 巻 三 号 ﹀ 第 二 節 検 証 付日本史の段階区分(第八巻一号及び本号) ∞世界史における若干の事実

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44 ﹁ 身 分 制 ・ 明 治 維 新 ・ 自 由 民 権 運 動 ・ 立 憲 制 ﹂ 凶 ( 近 代 ) 国 民 国 家 H 安 土 桃 山 時 代 } ( 現 在 一 │ ← 一 暴落体制・大正デモク

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弊 後 民 主 主 義 ﹂ 明治以降の日本が﹁国民国家﹂であることは、論を侯たない。従って、ここでの基本的な問題は、それ以前の(安土 桃山時代はともかく﹀江戸時代の日本を果たして﹁国民国家﹂と見なしうるかということであろう。十分に見なしうる とするのは、新しい、そして特異な見方である。或は、始めに少し紹介したように、それに類する(但し控え目に)見 解は存在するものの、そのような論者は未だ少数である。ただ、世界史的に見て、十六・七世紀から﹁国民国家﹂の 段階に入るというのは、決して奇異なことではない。逆に、それは(既述の如く)西欧と殆ど同時期なのである。しか しもちろん、こうした﹁事実﹂は、江戸時代の日本が﹁国民国家﹂であったという説(仮に﹁江戸国民国家説﹂と呼ぶ﹀ の妥当根拠にはなりえない。その確立には、日本史自体による実証が求められる。そこで、ハ主に)江戸時代の分析・ 検討に移らねばならないが、その前に、﹁国民国家﹂の概念について改めて問い直してみる必要があろう。拙論の真偽 を判定するためには、まずそれを明確にしておかねばならないのである。 ﹁ 国 民 国 家 ﹂ ハ

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をロ)を近代市民国家ハブルジョア国家﹀や国民主権国家と同一視する見解があい%と いうより、それがむしろ一般的である。しかし、これは正しくない。それは、近代国家が﹁国民国家﹂であるという ことや(しかし、﹁国民国家﹂は必ずしも近代国家ではない可権力者に対置された意味での﹁国民﹂という言葉、それに十 九世紀以来のナショナリズムへの連想などからくる誤解であって、そのような見方は、原語のロ巳

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の 意 味 ( 語 源 は ラ テ ン 語 の 白 血 昨 日 。 で 、 原 義 は ﹁ 出 身 ・ 民 族 ・ 地 方 b からして妥当ではない。且つまた、それはロ

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ロという新しい国 家及び国家概念の歴史的意義を失なわせるものである。しかも、もしそのような見解が正しいとすれば、﹁国民国家﹂ は現代においですら世界中で僅かしか存在しないということになるであろう(ブルジョアジーが未成熟で多かれ少なかれ

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独 裁 的 な 現 代 の 発 展 途 上 国 は 、 民 族 自 決 を 果 た し て い て も ﹁ 国 民 国 家 ﹂ と 呼 べ な い の で あ る う か ﹀ 。 ま た 、 日本は明治維新以後 も﹁国民国家﹂ではなかったということになってしまうであろう。或は逆に、理論的には、歴史上のあらゆる民主国 家を﹁国民国家﹂と呼んでよいとせねばならないであろう。 ﹁国民国家﹂の基礎又は単位は、市民や単なる人民にではなく、あくまで民族にある。 つ ま り 、 ﹁ 国 民 国 家 ﹂ と は 、 (文化的共通性と集団的一体感に基づく﹀一民族又は歴史的に地綾性・親近性のある諸民族が単一の権力(主権﹀の下に領 域的な統一国家を形成した場合、或は、民族というイデオロギーを基礎として同様の国家が形成された場合を言うの であり、即ち言わば、民族的(又は民族意識的)・領域的な主権国家なのであお山それはその内部における政治や経済 の在り方を問わない。例えば、身分制が存在していても独裁制であっても、差し支えないのである。そもそも、民族 45ーー自由の客観的可能性と歴史の発展法則刊 的統一ということと国民主権ということとは別の事柄であり、互に何の関係もない。従ってまた、それらが両立する とは限らない。それ故、﹁国民国家﹂の概念に両者を含めることはできないのであお w それが結局何を意味するかは、 既に明らかであろう。 そしてそのような民族的主権国家たる﹁国民国家﹂は、西欧では、封建国家(人的結合国家﹀の政治的多元性を克服 し民族的統一を果たした絶対主義の時代に始ま幻 w 少なくとも本稿においては、先の﹁発展段階﹂で規定したように、 そのような意味で使用されている。従って問題は、絶対主義の実態如何ということになる。つまり、もし西欧のそれ が江戸時代の国家形態と基本的に類似しているならば、或は後者の統一性が前者以上であるならば、後者を(そのこ とから直ちに絶対主義と呼ぶことはできないが﹀﹁国民国家﹂と呼ぶことができるであろう。かくして、江戸国民国家説に ついて検討するためには、その前提として西欧絶対主義の基本的性格を把捉しておかねばならないということになる の で あ る 。

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第8巻 2号一一46 そこで、絶対主義についてであるが、なるほどその体制の国家は、絶対君主のもつ唯一・至高の公権力によって全 国的な領域性をもつに至った国家である。従って、それは軍事・警察権や上級裁判権を独占し、国民的な課税権も有 ずる。そのような意味において中央集権的、即ち主権的な国家であった。そして確かに、ここに﹁国民国家﹂たる資 格があると言えよう。 しかし絶対主義国家においては、第一に、身分制が維持され、それによって聖職者や貴族の封建的特権、特に領主 権が温存された。それ故、彼らは相変わらず土地と農民(その人口からして殆ど国民)を経済的及び経済外的に支配な いし規制し続けたのである。最も典型的なフランス絶対王政の下においですら、(中世末に﹁領主制の危機﹂が訪れたが﹀ 十六世紀以降﹁没落した旧領主層に代って市民の貴族俗

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どによる新興領主層が台頭し﹂、それによって﹁十八世紀に 至るまで、いわゆる μ領主的反動 μ : : : が遂行され﹂、領主制は十分の一税・封建地代・領主裁判権を堅持しつつ存続 し問山従って、中央政府による二一ん的領域支配は非常に不完全だったのであ砧 w そしてこのような権力情況は、その 基盤をなす軍事情況に対応しており、 またその反映でもある。即ち、絶対主義に国王直属の常備軍は・欠かせないが、 それは統一的な国家軍ではなかったのである。 暴力の集中には違いないが、 ﹁それは中世における分散した軍事力の 解体、領主の武装特権の剥奪ではなく、国王が常備軍によってかつてのような領主の軍事的奉仕への依存から解放さ れ、領主の軍事力を無意味化したのがその実態であっ凶ご また第二に(とはいえ第一点と重複する面があるがて絶対君主は国民を直接統治したわけではない。逆に言えば、 各 人は個人として直ちに国民であったわけではない。両者の聞には、数多くの身分的、地域的、又は職能的な社会集団 (﹁社団﹂)が介在しており、各人はそのいずれかに所属することによって間接的に国家と結びついていた。そして、各 集団は伝統的な慣習に基づいて一定の自由や特権を認められており、それによって国家の中に階層的に位置づけられ

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て い た の で あ る 。

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つまり、国家とはまさにそうした諸集団のヒエラルヒーであり、全体的な均衡体系だったのである。 吏に第三に、絶対王政はまだ十分な公共性を獲得していなかった。国王権力はなるほど国家公権であったが、それ 自体はなお私的な性格を残していたのである。即ち、国王は依然として大領主であったし、それが根本的な権力基盤 であった。従ってまた、その支配組織についても、官僚は家産官僚、軍隊は傭兵中心だったのである。 これらは絶対主義一般の性質であるが、拙論の観点からして、更に特にイギリス絶対主義について見てみる必要が ある。というのは、周知の如く、 イギリスの絶対主義の在り方は大陸諸国(スペインを除く)のそれとはかなり異なっ 47-←自由の客観的可能性と歴史の発展法則刊 それほど﹁絶対的﹂ではないからである。﹁一四八五年、 いわゆる絶対主義時代に入るが、その後はるか後まで、大貴族は国王の地方行政を左右するに足る、様々の物理的強 制手段を保持しつづけ、西部やことに北部においては、事実上、領域的支配権のごときものを様々の形態で有してい た 。 ﹂ てお り 、 一 言 で い え ば 、 イギリスはテュ 1 ダ I 王朝による 従って、絶対主義の二大支柱の一つとされる軍隊(民兵)も、その動員のかなりの部分を貴族に頼るような状態 であった。そしてなるほど、ようやく一六二

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年代(絶対主義時代の終期﹀に至って初めて﹁人的支配権の国王への集 中﹂が可能になったが、しかしその地方行政は、在地の有力地主・名望家たるジエントリ層に依存していたのである。 ﹁イギリス絶対主義国家の独自性は、 し た 点 に も 見 出 せ る ﹂ 。 し か も ま た 、 官僚制的および軍事的性格の稀薄さとともに、議会の存在を許容 即 ち 、 中世以来の身分制議会がコモン・ローに依拠して国王の専断をしばしば撃肘したので あ る 。 こうした中央集権の不完全性││それがイギリス絶対主義の基本的特徴であるが、これは江戸の体制を判断する上 で見逃せない事実である。何故なら、江戸期日本を﹁国民国家﹂と見なす場合の基本的問題は、後述するように、 ま さにその、藩ハ大名)の存在からくる不完全な中央集権、即ち一定の地方分権性にあるからである。 つまり、当時のイ

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第8巻 2号一一48 ギリスを絶対主義と呼ぶことができるということは、江戸期日本にとって﹁国民国家﹂の(言わば﹀敷居が更に低くな ることを意味するのである。 ともあれ、西欧において﹁国民国家﹂の第一段階となった絶対主義国家の実態は、このようなものであった。それ は確かに民族的統一国家であり主権国家であったが、同時にまた、実際にはかなり分権的だったのである。従って、 これを踏まえて江戸時代というものを見ていかねばならない。江戸時代の日本は果たして﹁国民国家﹂と言えるであ ろうか。幕藩体制は絶対主義と同等又はそれ以上の集権性をもっているであろうか。 しかしそのためには、少し時代を逆上る必要がある。というのは、 日本における﹁近代目国民国家﹂は本格的な形 においては江戸時代からであるが(仮にそうであるとすれば)、先駆的には安土桃山時代、即ち織豊政権に始まるからで ある。そして更に、そうした﹁国民国家﹂を準備したのは戦国時代の分国である。従って、戦国時代は﹁分邦国家﹂ から﹁国民国家﹂への過渡期であると推定することができる。そこで、まず問 の末期であると同時に、 ﹁ 分 邦 国 家 ﹂ わ る べ き は 、 では何故そのように言うことができるのかということであろう。分国は何故﹁国民国家﹂の前段階なの で あ ろ う か 。 それは、分国が著しい集権体制であり、統一的・一元的な統治をほぼ確立していたからである。未だ不完全ながら も、領域支配という点で画期的な前進を遂げたからである。 つまり、戦国時代というのは全国レベルにおいては極端 な分権化であるが、地方レベルにおいては集権化であり、そのことによって、徳川幕府の全国統一への重要なステッ プとなったのである。 室町時代における守護大名の領国支配は、幕府(将軍)の所領思給に基づく主従関係を前提としていた。従って、そ れは幕府の権威に依存する一面をもっていたし、在京の原則は在地領主的性格を稀薄にしていた。また、守護領国は

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権門勢家の荘園領主権を内部に残していただけでなく、守護不入権をもっ奉公衆(将軍直属御家人)の存在もあった。 それに対して戦国大名は、白らの卓越した実力によって独立し、自力で所領安堵を行なった。それ故、彼は一円領有 権をもち、その分国は唯一絶対的な支配(但しまだまだ未成熟であり、また地域差・時代差もあるが﹀、一職支配の下にあっ ( 加 V た。即ち、確かに大名のみならず給人も自己の所領に対して独立的な支配を行ないえたが、戦国大名は分国全体に対 する上級支配権をもっ封主であり、分国内においては主権的(公儀)なのである。 大名は地侍や農民上層の被官(給人)化を推進して、権力を強化すると共に惣的結合を弛緩せしめた。また、貫高制 と ( 指 出 ﹀ 検 地 に よ っ て 重 層 的 土 地 所 有 関 係 を 清 算 し ( 一 地 一 作 人 ・ 一 地 一 領 主 ) 、 家 臣 ( 軍 役 衆 ) と 農 民 ( 新 た に 規 定 さ れ た 非軍役の﹁民間﹂)を直接的・排他的に掌握した。そして、それまで分立していた諸法を統合して一元的な分国法(戦国 家法﹀を制定し、それに基づいて彼らを厳格に統制したのである。とりわけ、家中(家臣団)の一員たる家臣に対して 49一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 は、例えば財産処分や相続・結婚についても規制が加えられたし、特に、自力救済のための私闘・私戦が喧嘩両成敗 法によって禁じられた。同時にその裏付けとして、違法行為や紛争に対する処罰は、二万的裁判権に基づき徹底して いた。こうした内的一体化が戦国時代における対外的戦闘力の強化を目的とするものであることは、また逆に、戦時 動員体制をとることによって支配を浸透・定着させようとするものであることは、一吉うまでもなかろう。ともあれそ 門 忽 ﹀ れによって、不十分ながらも日本史上初めて排他的・主権的な(国単位以上の﹀領域支配が成立したのである。そこで は 、 ﹁ 分 邦 国 家 ﹂ における多元的な権力主体は、 朝廷や寺社も含めて事実上消誠し、次代の全国的主権国家を準備し た の で あ る 。 このような歴史的基礎の上に、織豊政権︿特に豊臣政権﹀は存在した。即ち、それは戦国大名の主権的支配を統合し ( 沼 ) 全固化したのである。それはまさに天下人の立場から惣無事を命じうる政権であった。ただそうであるとすれば、戦

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第 8巻 2号一-50 国大名による地方的な主権の樹立からこの全国レベルへの移行の期聞が短か過ぎるように思われるかもしれない。し かし、既に見てきたように、﹁分邦国家﹂の永い時代を通じて十分に条件が成熟していたと見ることができる。分間 はその蓄積が地域的に顕在化し具現化したものと言えよう。それは全国的一元化の歩みの中の最終段階なのである。 それはともかく、そうした分国の全国レベルでの統合がなされた。それによって、まだ未完成とはいえ、実効的な一 元的支配を行なう全国政権がこの時代に初めて出現したのである。 円 盤 V 織豊政権はこのようにして﹁国民国家﹂の第一歩となった。それは次の如き諸政策或は諸事実に現れている。それ らは殆どが江戸幕府に引き継がれ、その基本政策を構成したのである。即ち(信長政権にはなかったものも含めて)、天 皇・公家・寺社に対する支配、関所の撤廃、楽市、全国交通網の整備、(全国的・公的な﹀検地、石高制、万狩、身分 ハ お ﹀ ( お ﹀ 統制、戸口調査、誠破ハ域わり)、大名領地の区分︿国分﹀・没収・配置換え(国替)、軍役、諸役儀の独占、主要な都市 ハ 釘 ﹀ ・鉱山の直轄、通貨の統一、海賊行為の禁止、貿易統制などである。むろん、この中で検地日石高制が決定的に重要 円咽品﹀ 一であるが、全てが相侯って、中央集権的政治体制、身分制的社会秩序、全国的商品市場が形成された。そして、これ ら政治・社会・経済の基本的在り方が﹁国民国家﹂の基礎となったのである。 だが、信長・秀吉の事業は完遂されなかった。﹁国民国家﹂の十分な確立は江戸時代からであ一明以下、この江戸 国民国家説について説明したければならない。そこでのポイントは、先述のように、徳川国家が絶対主義と言えるか どうかはともあれ、両者の聞に国家体制上の基本的な共通性があるか否かである。そしてその場合、徳川国家に関し て最も問題となることが二つある。 一つは、私的領有からくる卦建制本来の権力的多元性・個別性の如何であり、も う 一 つ は 、 一言で幕藩体制と呼ばれているように藩権力の存在である。 しかし、まず前者について言えば、江戸時代の︿所謂﹀封建制はそのような性格から程遠いものであった。何故なら'

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兵 農 分 離 ( そ れ は 戦 闘 力 向 上 の 必 要 上 戦 国 時 代 か ら 進 行 し た が ) に よ っ て 、 武 士 ︿ 在 地 領 主 ) は 城 下 町 に 集 住 さ せ ら れ 、 武士と農民との個別的・私的な支配関係は切断された。即ち、武士と農民とが集団的に向き合う形となった。それは 一方では在地領主制の解体を、他方では総体的な階級支配の構築を意味する。そしてそれは、更に地方知行制から俸 禄制への移行によって確立せしめられた。それ故、各藩の人民統治は公的・組織的な性格が強かったし、その上下関 係は﹁人と人との直接の関係ではなく、制度を媒介とした間接的な関係﹂だったのである。これは近代的と言うべき で あ ろ う 。 次にもう一つ、後者の問題についてはどうであろうか。各藩は相対的な独立性をもっ地方政権(大名領国)であり、 従 っ て な る ほ ど 、 一元的な﹁国民国家﹂とは異質であるように見えるであろう。だが、果たしてそうであろうか。 幕藩体制の内実を見てみるならば、それは決して分権的・連合的ではなく、非常に集権的・一元的である。確かに、 51一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 人民を直接統治したのは、 そして大名は世襲であった。 ( 幕 領 等 を 除 け ば ) 国 持 大 名 を 始 め と す る 諸 大 名 で あ り 、 し か し、将軍と全大名とは御恩と奉公という封建的主従の関係にあり、藩政(仕置﹀はそもそも幕府の承認と授権に基づく ものであった。従って、大名はその地位も財産も権限も、また行動さえも、幕府によって根本的に規制されていたの ハ制措) で あ る 。 大名のこうした制約性を示す基本的事実を具体的に挙げるならば││まず第一に、領知判物及び領知朱印状が示す ように、大名は将軍の従臣であるから、自らの領地・領民は、その本来的な所有者たる将軍からの預りものである (大名知行制度)。それ故、その給付(宛行﹀・配置は幕府の一方的裁量によったし、その継承も一代毎に幕府の承認(安 堵﹀を要したのである。第二に、武家諸法度などにより、大名の生活は公私にわたって規制された。例えば、参勤交 代・妻子在府の制度や婚姻・養子の許可制などである。第三に、諸藩の軍事についても大きな制限が課せられた。例

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第 8巻 2号一一52 一国一城の原則やその補修の届出制、域絵図の作成・提出などである。全く、最も重大な軍事に関して幕府の 与 え J ば 、 警戒は極めて厳しかった。そもそも、主要な武器は域付きであって大名の私有ではなく、大名の保有兵力も幕府の規 定に則らねばならなかったのである。そして何より根本的なことは、その発動権が将軍にあったことであ(物事実、 内乱や城受取などに際して軍事動員がかけられたし、参勤交代による一定兵力の江戸駐留ということもあ一物なるほ ど、諸大名の軍団は形の上ではそれぞれ独立的であり、統一的な幕府軍として恒常的に編成されていなかった刈ドし かしそれらは、実質的には将軍の軍隊だったと言えるであろう。第四に、幕府によって、知行(御恩)に見合う反対給 付 と し て の 軍 役 ( 前 述 の 軍 事 動 員 の み な ら ず 、 非 軍 事 的 な 普 請 助 役 又 は 手 伝 普 請 や 参 勤 交 代 な ど も 含 む ) や 上 納 ( 上 米 な ど ﹀ が 課 せられた。それは一方的な命令だったのである。第五に、諸法度違反や失政・失策・非行・お家騒動などに対しては、 (後者は藩の問題、内政の問題であるにもかかわらず)減封・転封・改易などの処分が下された。即ち、幕府は大名・藩に 対する処罰権、従って警察川裁判権をもっていたのである。第六に、領国経営の義務や幕府法の優先が命じられた。 またそのため、各大名の藩政は大目付(大名目付)によって監察され、指示を受けた。加えて、将軍交代時には巡見使 (巡検使﹀が、及び必要に応じて国目付が、幕府から派遣され、実情調査がなされたのである。更には、幕府が藩政の 確 立 や 改 革 に 直 接 乗 り 出 す こ と す ら あ っ 場 最 後 に 第 七 と し て 、 ﹁ 幕 府 政 策 の 大 名 領 へ の 浸 説 ︺ そ れ に 関 連 す る が 、 が広汎に見られたということがある。 つまり、大名は自らの領民統治においても基本的に幕府に服従していたのであ る

かくの如く、大名統制はまことに徹底していた。大名の幕府に対するほぼ完全な従属性は明らかであろう。現実の 決定過程においてはかなり相互的な面もあるとはいえ、究極的には、幕府の大名に対する優越性は隔絶的であった。 むろん各藩の領国統治には、封建的分権性からくる一定の独立性・自律性が認められるが、それは上述の如き、 ま た

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更に後述するような、根本的制約を受けていた。幕府は大名に地方行政を委託したのであり、大名は幕府権力の代理 執行の立場にあったのである。 しかも、このような幕府と大名の関係、幕藩関係の在り方と共に考えてみなければならないのは、大名自体の出自 或は系譜についてである。というのは、同じ大名でも、外様とそれ以外とでは性格がかなり異なるからである。そこ ( 必 ﹀ で注目すべきは、徳川政権によって、﹁豊臣・旧族大名に対する大規模な改易・転封﹂と、﹁徳川権力の意志であり、 かっ分身である徳川一門 ( H 親 藩

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譜代大名のおびただしい創出﹂が行なわれたという事実である。従って、 一 口 に 53一一自由の客観的可能性と歴史の発展法刻印 大名と言っても、全て幕府と対抗関係にあるわけではなく、逆に徳川勢力の割合が非常に高いのである。そしてまた、 それらの徳川大名領に膨大な幕領(天領)及び旗本領を加えると、事実上の国有地が全国の相当部分を占めているとい うことになる。おまけに、﹁外様大名はしだいに辺境地帯に移され、代わって徳川一門・譜代大名が関東から東海・ 畿内外にかけての中央地帯に配置されていっ一日のである。これらの諸点を考慮するならば、幕府の権力基盤は見か けをはるかに凌いでいたと言えるであろう。 また大名の系統からして、幕府の統一的支配力は絶大であった。江戸の ( 訂 ﹀ 日本は﹁主従関係のヒエラルキー﹂によって﹁徳川将軍のもとに一元的に統合された社会﹂であり、実質的に主権国 以上見てきたように、幕藩関係からして、 家だったのである。 門川叩﹀ このことを象徴するのが(室町中期以来の)﹁公儀﹂という言葉である。それは本来多義的であり、狭義に は、様々の段階における公的な権威・権力を意味する尚ド秀吉はそれを﹁日本全国の規模での公権力﹂という意味で 使用し一明江戸時代はそれを継承したのであり、 そ し て 、 ﹁藩が領民に対して将軍を大公儀とよび、大名を公 儀とよぶ呼び方は、すでに十七世紀から、各藩で現われてきており、十八世紀にはさらに拡まっている﹂のである。 そ こ に お い て 、

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第8巻2号一-54 しかも、﹁一般的にいえば、大名を n 公儀 μ とよぶことは、江戸時代には比較的に稀であり、 H 公儀 υ といえば幕府を 意味するのが普通であっ K M W ﹂こうした事実は、当時の人々が幕府(将軍﹀の主権性を認めていたことを示しているで あ ろ う 。 このように、幕府は大名及び藩をほぼ完全に支配していたが、でば、人民のレベルにおいてはどうであろうか。幕 府は全人民を統治していたであろうか。少なくとも建前としては、まさにそうであった。﹁将軍が百姓に向って H 領 主 μ H 大名以下の部将は交替するもので百姓こそその土地を頼りにするものだといえば、 H 領主 μ は H 領主 μ で、自分 たちはその領地を将軍から"預かって μ いるにすぎない、自分は H 当分の国主 μ だと呼応するのである。百姓は理念 ( 臼 ) 的原則的には、将軍に対応しているのだという論理が、そこには貫き遇されているといってよい。﹂即ち、田畑は ( 口 叶 ) ﹁公儀の物﹂であり、百姓は﹁公儀の百姓﹂なのである。 とはいえ、現実的には、課税と司法という二大権力(領主権)を直接保持しているのは各藩であり、幕府は原則とし て内政不干渉であった。従って、当時の人民はあくまで﹁領民﹂であって、 まだ完全な﹁国民﹂ではなかったと言わ れるかもしれない。確かに、そういう面はある。しかし、既述のような、幕藩体制における大名と藩の位置を考える ならば、幕府と人民とは間接的にせよ強く結合していたと言えるであろう。幕府は藩という地方機関を通じて人民を 十分掌握していたのである。のみならずそこには、課税及び司法について、またそれ以外の分野について、直接的な 支配関係もかなり認められる。つまり、藩を飛び越した幕府統治の事例も数多く見受けられるのである。 まず課税については、例えば、広域的な治水事業や災害復旧、又は寺院再建などのために、(幕府も一部負担しつつ) 幕領・私領の別なくその領民を対象にして一律に賦課する課役﹂ ﹁ 律 令 制 の 国 を 単 位 と し て 、 ︹ 貯 ) があった。また司法についても、例えば、全国的な恩赦の実施や刑罰の変更などは、幕府による司法権の直接的な行 である国役というもの

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使であると言えよう。或は、領民が幕府奉行所に直接出訴しうるケ l スも存在し場更にその他の分野についても、 同様に指摘できる。例えば、﹁幕府の一般的な単行の制定法﹂は触であるが、幕府はその一種である高札の掲示を全 領主に強制したのである。これは﹁領主・身分に関しない公衆一般への全国法﹂という性格をもっていたことにな認。 また例えば、キリスト教などの禁教のために寺請制度によって宗旨人別帳ハ宗門改帳﹀が作られたが、これは全人民の 戸籍の作成に等しいから、幕府による直接支配の性格をもつであろ崎町或は、飢鐘や災害などに際して、大名から幕 府に被害状況の報告がなされることになっていたし、必要な場合には幕府によって全国的な対策が講ぜられた。そし 一般庶民の生活状態が幕府の(前述の﹀巡見使や惣目付によって調査されもしたのであ引 w て ま た 、 こうした様々の事例は、国家公権をもっ幕府が全人民を直接的且つ一体的な統治対象としていたということを示し 5トー自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 ているであろう。確かに、民政は基本的には各藩に任されていた。しかし、それは幕府の統治権を排除するものでは なく、あくまで後者が大前提であった。幕府は全ての人々を国民として認識し取扱っていたのである。 これまで、幕藩関係及び幕府・人民の関係について見てきた。そしてその結果、大名及び藩の独立性とその領民支 配という事実は、幕府主権を否定するものではないということが明らかになった。前者は一次的なレベルにおける限 定的事実であり、統治権力の所在は最終的・究極的には幕府に存するのである。 しかし、そのように主権的であるとしても、それについてもう一つ問題がある。それは先述した大名及び藩の分立 に対応する事実に関る問題であり、その事実とは、将軍自身も一人の封建領主、最大の領主であり、幕府も直轄領を もっていたということである。幕府の権力は直接的にはそれに依拠し、従ってまたその支配も、直接的には主にそれ を対象としている。このようなそれ自体の性格からして、幕府権力もまた大名権力と同じく限定的・部分的であるよ うに思われるのである。

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第8巻2号一一56 しかし、そうした領主権力と前述の統治権力とは区別さるべきであろう。将軍には、 即ち全国的統治者(﹁日本全土に対する統治権者﹂)という立場があるのであって、後者にあってはその権力は無制約的・ 普遍的なのであい物そしてその組織的基盤となったのが、幕閣以下の幕臣は一般に譜代及び旗本・御家人に限るとい う幕府体制であった。そのような人事原則の故に、外様が中央政治に関与することはできず、幕政は将軍・幕閣の専 一 領 主 の 立 場 以 外 に 総 領 主 、 断によったのである。かくの如き将軍の二面性を認識するならば、将軍・大名による地方的領主支配は幕府の主権性 と矛盾しないということが、理解されるであろう。 しかも、先に西欧の絶対主義国家を主権国家と見なしたが、その﹁事実﹂もまた支援材料となる。というのは、そ 絶 対 主 義 に お い て も ( あ の 中 央 集 権 的 官 僚 制 の フ ラ ン ス に あ っ て す ら ﹀ 封 建 領 主 は 残 存 し 、 たその一人であったからである。即ち、国王は他の領主と同じように自らの王室領を所有し、それを基盤としていた のである。そしてそうした西欧との比較で言えば、実は日本のほうがより近代的であった。何故なら、幕領は決して こ で 述 べ た よ う に 、 国王もま 徳川氏の私領ではなかったからである。それは公儀や天下のもの(公儀御料)、即ち全大名領主又は領主階級全体のも のであった。つまり、将軍とはあくまで公的な存在であり、領主的性格は非常に稀薄だったのである。 以上、徳川幕府の主権性を論証してきた。そしてそれによって、江戸期日本の﹁国民国家﹂たることを明らかにし てきた。ただ、そこで指摘されたのは、客観的・制度的な側面における諸々の事実である。そこで、もう一つの側面、 主観的・精神的な側面についても見てみなければならない。主観的・精神的な面とは当時の人々の意識の如何であり、 また文化の如何である。意識や文化の面ではどうであろうか。││実はそれらにおいても、の徴表ない ﹁ 国 民 国 家 ﹂ し示顕となるものが存在しているのである。というのは、当時の人々には既に国民という意識があり、また国民文化 と呼びうるものが形成されていたと考えられるからである。

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まず国民意識について。例えば第一に、この時代の社会の組織原理が、国家的な規準に基づく、国家の公民として の社会的義務(職分﹀ないし役割分担である﹁役﹂という観念にあり、従って当該社会は﹁役の体系﹂であったこと、 それ故また、︿所謂)士農工商という身分的区別も職能的なもの(家職)であり、社会人としての平等意識があったとい うことが、指摘されてい引ャそうであるとするならば、それは国民意識(しかも良質の)と言い換えてもよいであろう。 一撲の具体的要求はそれぞれ多様であるが、 ﹁公儀領(幕領)の基準で支配がおこなわれることを要求する﹂、というの と、﹁天下共通の基準で政治がおこなわれることを要求する﹂というのがあった。 また第二に、百姓一撲の要求内容にも、それが見て取れる。即ち、 挟 には﹁共通の要求方法﹂があり、その中に、 これは、農民が各大名領国を超え る国家的な意識をもっていたことを物語っているであろう。更に第一一一に、町人・百姓が幕府の政策をめぐって幕府に 直接、合法的又は非合法的に請願するということハ国訴﹀が、しばしば行なわれた。これなどもまた、同様の意識の現 57一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 れ で あ ろ う 。 次に、国民文化について。国民文化と﹁国民国家﹂は一体である。従って、多少とも個性的な全国民的文化の形成 日本の場合、それは江戸時代(及び安土桃山時代)に見出される。現代に連らな る日本の国民文化、即ち日本文化は、確かに江戸時代に確立したのであ一明まず第一に、主に町衆或は町人を基盤と は﹁国民国家﹂成立の根拠であるが、 する桃山文化や元禄文化が、(室町時代に起事をもつものも含めて)基本的な国民文化となった。例えば、能・狂言・茶 道・生け花・歌舞伎・俳句・浮世絵などや、(一日三度の食事といった)様々の風俗・習慣などである。そしてその基礎 むろん文化の(室町時代をはるかに上回る)民衆化があった。第二に、仏教・神道・民俗宗教の三者が一体化し た﹁国民的宗教﹂が、江戸時代に成立し閉また第三に、この時代、学習・教育が普及し、国民的な基礎知識や教養 が社会の下層にまで浸透した。これら三つの点は、それらが結合することによって﹁日本人﹂の誕生を意味するであ

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第8巻2号一一58 ろう。そして第四に、(所謂)古代以来常にその巨大な影響下にあった中華文明からの独立化がなされた。例えば、法 令の文章の変化に見られる如く、﹁輸入の漢字漢文文明から仮名口語文明への転換﹂があったが、 生成を(間接的ながら)示しているであろう。 ﹂れも国民文化の このように、国民意識や国民文化という点においても国民的一体性の事実を指摘することができる。主観的・精神 的にも人々は、領民であると同時に国民として生活していたと言えよう。﹁国家としての統一性に対応する意味での、 国民とよぶべきものが既に形成されていたと考え﹂られるのである。 以上のように、幕府と大名及び人民との関係、次いで国民意識と国民文化の如何について検討してきた。その結果 ( 花 ) からして、また先に見た絶対主義の在り方(特にイギリスのそれ)からすればなおのこと、江戸の日本を﹁国民国新﹂

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と見ることができると思われる。少なくとも、幕藩体制がその(実質的な)統一性・中央集権性において絶対王政に引 をとらないことは、確かなのである。引をとらないどころか、徳川幕府のほうが明らかに強力であった。一体、平時 において諸侯の領地を勝手に没収し或は自由に配置替えしうる絶対君主が、 い た で あ ろ う か 。 そして、江戸国民国家説に関する論点は、むろん以上に尽きるわけではない。その他の論拠として、幕府の実施し た、織豊政権の路線を継承し強化する重要な諸政策を指摘することができる。即ち、広大な幕領、主要な都市・港・ 鉱山の直轄、貨幣の独占的鋳造権、量衡の統一、五街道(及びその宿駅の維持・運営﹀の直轄と主要街道の支配、水運 の統括、外交権の掌握、それに外国貿易の独占(鎖国又は海禁﹀などである。これらは圧倒的経済基盤に立脚する一元 的支配、経済・社会における全国的一体化、外部臆断による内的成熟を促した。即ち、それらは、前述した政治的側 面に対して、(主に)経済的・社会的側面から﹁国民国家﹂の成立に寄与したのである。というより、それ自体が既に ﹁国民国家﹂の諸側面であり、証なのである。

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先述の如く、明治以降については問題がないから、これで については論証を終えたことになる。﹁国 ﹁ 国 民 国 家 ﹂ 民国家﹂という点で、江戸時代と明治時代は連結しているのである。 そこで次の間題は、幕藩体制・身分制と、明治維新及びそれに続く諸改革とをどう見るかということである。始め に設定したように、前者を﹁強権化﹂、後者を﹁自由化﹂とすることができるであろうか。だが、それについては言 うまでもなかろう o 徳川幕府が前代と較べて著しく強力な支配を実現しており、新たに設けられた(所謂)士農工商の 身分制が全く自由に敵対しているのは、明白であるし、また、明治以降の体制が不十分ながらもそれらとは対極的な 性格をもつことも、明らかだからである。 しかし、簡単に説明しておくならば││秀吉の検地と万狩(いずれも既に戦国大名に始まるが﹀によって兵農分離、農 民の土地緊縛が完成し、更に身分統制令で武土・百姓・町持(及び賎民)の身分が固まった。それは、江戸時代になる 59一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則刊 といっそう強化されるに至る。即ち、各身分の内部においても細かな区別や上下関係が設定され、それによって全人 的な服従が強いられたのである。例えば、武士の聞には、主従制的且つ官僚制的な編成による﹁タテ型の支配 l 服属 の命令秩序﹂があり、それは上位者への権力集中を余儀なくした。また、大名には親藩(一門﹀・譜代・外様の(大ま かな)別や朝廷の官位・称号による違い、将軍の直臣には旗本・御家人の別があったし、諸藩の家臣の聞にも家中侍 ・徒士などのランクがあった。更に、都市における町人と地借・庖借の区別、商家における主人と奉公人の関係や番 頭・手代・丁稚のランク、農村における本百姓と水呑百姓の別、及びその他の隷属民(名子・被官等)の差別などもそ うである。そしてまた、こうした身分的規制の存在と同時に、身分は世襲であるから、家というものが社会生活の単 位及び中心となり(家制度﹀、一般に門地・家格が全てを左右すると共に、家長の権力が絶大となる(家父長制)。従っ て、人々は身分制により二重の拘束を受けていたことになる。ともあれこのようにして、安土桃山或は江戸以降、牢

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第 8巻 2号一一60 固とした閉鎖的身分社会が形成されたのであり、それが人々の行動を根本的に制約したのである。 こうした基礎の上に幕府権力が存在したのであるが、両者が相侯って極めて強固な社会的統合を生み出したことは、 容易に想像されるであろう。しかも、その幕府権力は非常に強大であった。それは鎌倉・室町両幕府と較べて雲泥の 差があった。将軍家の経済力は卓絶していたし、(既述の如く、諸大名に対してはもとより﹀天皇 u 朝廷との関係において も、禁中並公家諸法度が物語っているように完全に優位に立っていた。 な る ほ ど 、 ﹁将軍﹂を始めとする官位が示し ているように、将軍も諸大名も形式的には天皇の臣下であったが、実際には幕府が全権を握っており、おまけに、朝 廷に対する幕府の監視・統制は大名に対するそれを上回っていた。官位制度においですら、将軍は武家に対する叙任 権のみならず上位の公家任免権をも奪取し(武家官位制の分離・独立と公家官位制の掌握﹀、天皇の権限は全く形骸化した のである。また、寺社勢力との関係についても同様である。寺社は既に戦国時代に没落していたが、更に本末制や寺 院法度などにより規制された。それによって、体制の単なる翼賛的な下部組織と化してしまったのである。かくして、 こうした諸勢力との力関係から、幕府権力は主権的であっただけでなく専制的でもあったと言えるであろう o このように、江戸時代は厳格な身分制・家父長制と圧倒的な幕府の専制という体制の下にあった。従って、そこに おける人々の生活は身分・階層を問わず基本的に窮屈なものであった。日常生活についてさえ、多くの細かな拘束が あり、自由の余地は限られていた。(既に言及した)武家諸法度や禁中並公家諸法度の示す如く、 大名や天皇・公家で ずらそうであったし、ましてや一般庶民、特に人口の大半を占める百姓には、様々の統制が加えられたのである。例 ( お ) えば、慶安の御触章一回・五人組・宗門改めなどである。そして、そうした個人レベルにおいてのみならず、そもそも村 や町自体が不自由であった。(所謂﹀中世にあって相当に独立的・自治的であった惣村や町中などの諸集団は、(所謂) 近世に入って権力的に再編成され従属化してしまったからである。即ち、支配の末端機構として公式に位置づけられ

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たのでありハ村役人・町役人による村政・町政﹀、伝統的な自律性は内部に限局されることになったのであ一明 以上のようにして、安土桃山時代から江戸時代(又はその盛期)まで﹁強権化﹂の時期とすることができる。それで は﹁自由化﹂についてはどうであろうか。前述のように言えるであろうか。 これについても簡単に説明しておくと││既に明治の初めにおいて、自由や権利の観念が国民の聞にかなり定着し てい対ルまた、﹁幕末以来の公議公論・公議政体という政治理念﹂を承けて、早くも明治五年頃には、憲法や議会制 度についての検討が明治政府自身によって開始された。﹁君民共治﹂は首脳たちにとっても当然の共通認識だったの であ一明明治七年の民撰議院設立建前

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、官民を間わぬそうした気運に呼応するものであり、だからこそ、それを契 機に国家的スケールで政治問題化・運動化していった。即ち、自由民権運動である。それは各地・各層の民権結社 (政社)を中心に全国的・全国民的、且つ多面的な展開を見せた。そしてその結果、政党が誕生し、中央・地方の一連 61一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則刊 の 立 憲 主 義 化 、 つまり憲法・内閣・議会・選挙・地方制度などの創設が(それは﹁外見的﹂であり、天皇主権体制の確立と いう側面をもつが)、実現したのである。明治初期以来のこのような動きが﹁自由化﹂そのものであることは、 言うま で も な い で あ ろ う 。 次いで明治後期になると、資本主義の発達に伴う階級分化・景気変動・物価上昇・都市化などによって、労働運動 ・小作争議などの(社会主義をも含む﹀社会運動や都市民衆運動が発生するようになった。それらは、特に日露戦争後、 資本主義の確立と矛盾の激化とを受けて活発化するに至る。そしてそうした情況の中、更に第一次世界大戦を跳躍台 とする経済の急拡大が膨大な労働者・サラリーマン層という新たな基盤を提供した。そのため、個別的だった運動は 政治的・経済的・社会的な綜合的改革運動へと発展し、婦人運動・部落解放運動などへも広がっていくのである。即 ち、大正デモグラシドけずある。それは国民精神的及び国民運動的な基礎をもち、各地方における地域的な自治への胎

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第 8巻 2号一-62 ハ川抽) 動に根ざしていたのであり、 全国的レベルにおいては(二次にわたる)憲政擁護 ( H 護憲)運動・米騒動などとなって 現れた。そしてともかくも、政党内閣と普通選挙という輝かしい成果をもたらしたのである。大正デモクラシーは、 (それを推進した階層・思想などの性格や実態は複雑多様であるが)大局的に見れば明治憲法体制の更なる民主化であり、従 ってその発展であると言えよう。 このように、(実は)明治の早い時期から昭和の初めまでほぼ一貫して﹁自由化﹂が進行したのである。そこで、問 題となるのは明治当初(及び前期)の維新体制である。それは果たして﹁自由化﹂と見ることができるであろうか。 まず政治体制に関して言えば、幕府独裁が藩閥独裁(有司専制)に置き換わっただけで、あまり変わりばえがしない と言うべきかもしれない。しかし、下級武士、が主体となったことによって、原則的に実力主義的となり、同時に共和 的性格が強まったであろう。またそうした政治に関して、新聞・雑誌等による報道・評論活動や演説会などによる言 (諸法令による制限が加わったとはいえ﹀基本的に可能になった。そして何よりも、内外の諸事情や圧力があ 論 活 動 も 、 ったにせよ、(前述した、部内での検討開始に続いて)既に明治八年に立憲政体樹立の詔を出し、政府自身の手でとにも かくにも憲法の発布と議会の開設を断行したことは、その権力の、当時として些少ならざる民主性を物語っているで あろう。次に社会・経済体制についてであるが、こちらのほうは決定的である。 つまり、変化は革命的であり、明ら かに﹁自由化﹂と見ることができる。その大きな柱は、一つは、封建的身分制度の撤廃による四民平等(民主化)、従 ってまた、移動や職業の自由などであり、もう一つは、地租改正による近代的土地所有権の設定などの自由経済化で ある。つまり、自由・平等な個人から成る社会が、曲りなりにも成立したのである。なおまた、こうした維新政府に よる変革と共に、それに伴って明治初期に活発化した士族の反乱や農民・民衆の一捺・騒擾(新政反対騒擾・地租改正 反対騒中闘いなども、その原因・要求は様々であるが、 同じく﹁自由化﹂ の流れを形作るものであろう o そ し て 更 に 、

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思想の面においても、﹁自由化﹂は顕著である。富国強兵を目的とする文明開化の政策により、西洋思想が輸入され、 明六社を中心に天賦人権の啓蒙思想が開花したが、そうした事実は重要な意味をもっている。国策に由来するとはい ぇ、そのような自由主義思想が一世を風躍しえたということは、﹁自由化﹂の何よりの証なのである。 かくの如く、明治維新以降を明白に﹁自由化﹂の段階とすることができる。それは、武家支配の脱却という一事を もってしても明らかである。そうであるならば、その徴候の現れる転換期又は過渡期がその前に存在しているはずで の前史が既に江戸時代に始まっているはずであろう。実際にはどうであったか。確かに、江戸時 代の後期(一般的には十八世紀後半から)に入って時代は顕著に転回した。明治維新はその必然的な(外圧を媒介とすると は い え ﹀ 帰 結 な の で あ る 。 あ ろ う 。 ﹁ 自 由 化 ﹂ それを具体的に見てみると 1 1 まず身分制そのものについて、第一に、武家社会においては、幕府・諸藩ともに門 63一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則刊 閥制度が弛緩し、下級武士の登用などが行なわれた。 つまり、能力主義である。第二に、身分間の壁が低くなり、境 界付近で流動化するようになった。その一つは、平和による軍役軽減のもたらした、最下級家臣団(足軽・中間・又者 など)の牢人(浪人)化、従ってその多くの町人・百姓化であり、或は逆に、武家の雑役やハレの行事のための、町人 ・百姓の臨時的な武士化又は武士扱い(日雇い・月雇いや帯万﹀である。これらは決して珍しいことではなく、﹁身分的 中間領域における混乱はむしろ恒常化し、この部分での身分の移動は通常の状態になっていった﹂のである。二つ自 は、百姓・町人や武家奉公人がその能力や働きによって正式の土分に取り立てられるケ l スである。それも﹁ごく一 般的にみられた様相﹂であり、中には世代を経て更に上昇していく家系もあっ

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更にもう一つのケ l スとして、貨 幣経済の発展による武士の窮乏化と町人の輿隆から、両者の融合も見られた。しかもそこにおいては、事実上の融合 のみならず、養子縁組による公式的なそれも稀ではなかったし、 ま た 、 ( 肥 後 熊 本 藩 の 金 納 郷 土 制 の よ う に ) 富 裕 化 し た

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第8巻2号一-64 百姓・町人が献金によって武士に準ずる身分を獲得することもありえた。そして時には、商人や村々が破産状態の領 主財政の全面的管理(台所預り﹀を任されるということすら生じたのであり、その際彼らは厳しい条件を突きつけ且つ 飲ませているのである。続いて、第一ニに、農民にあっては、重税、貨幣経済の浸透、凶作などによって階層分化が進 日傭労働・雑業・年季奉公への転業や都市への流入が増加した。即ち、町人化であ 行 し 、 貧 農 ・ 隷 農 の 離 村 ( 走 り ﹀ 、 の形成ということがある。つまり、様 (山山﹀ 々の出身階層の知識人たちの間で、江戸を中心に知的交流が活発化していったのである。このような第一から第四ま での動きは、封建制の根幹たる身分制度を破壊するものであろう。 る。更に第四として、 ﹁身分的・地域的制約をこえた知識市民と称すべき層﹂ 次に権力と人民の関係について言えば、第一に、農村と都市とを間わず、百姓一挟(越訴・徒党・強訴・逃散・打ちこ わし等)・村方騒動・(町人の)打ちこわし・国訴など、民衆の支配者に対する要求や反抗、或は民主化運動が目立ち始 め、天明以降幕末に至るまで加速度的に激しくなる。それは時に江戸全域を無秩序状態に陥れるようなことや、全国 一方において、そのような蜂起の中には統一 的・自治的な傾向をもつものもあったということ、及び、要求・反抗が単なる生活苦からくる反射的な爆発ではなく ハ 川 ﹀ ﹁ 為 政 者 に 対 し H 百姓成立 μ の保証を当然の約定として求める﹂という、 的規模で連続的に発生するようなこともあった。そして注目すべきは、 て 、 そのために幕府・諸藩の支配機構その ものの改変や(例えば徴税・商品生産・流通・金融などに関する)政策の撤回又は変更を迫まるという、民権的意識の萌芽 を底流にもつようなものもあったということである。また他方において、(注目すべきは)もはや権力の側もそれを無 ( 川 ) 視することができず、譲歩を余儀なくされることも多かったということであり、しかも時には、政権担当者の失脚や ( 川 ﹀ 幕藩政改革に結びつくことすらあったということである。そしてそのような動向に関連して、第二に、民衆の実質的 な政治参加は平和的且つ平常的にも行なわれることがあった。即ち、幕政・藩政に対して民衆ハ村役人・豪農商層﹀が

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積極的に献策するということが盛んになったのであり、またしばしば領主層自らがそれを求めたのである。その際、 意見書の内容が公開され、一種の世論調査がなされることもあったし、百姓身分の献策者が施行担当の役人に取り立 てられることまであった。﹁一八世紀半ば以降、地域政治は民衆の政治論議の対象となり、その先端では、政治への 介入と政治機構への進出すら実現していた﹂と言えよう。この延長線上に、幕末に至って農民や商人の中から草葬の 志士が多数出現したという事実が存在しているのである。次に第三として、自治の進展は、支配者との対抗関係にお いてだけではなく、(むろんその側面もあるが)民衆自身の聞における日常的な協同という形でも現れた。例えば、組合 村及び郡中である。それらは、生活上の共同の問題を解決するために自主的に結成された村連合(前者)及び組合村連 65-ー自由の客観的可能性と歴史の発展法郎判 合(後者)であるが、村役人同士の寄合によってそれぞれ組合村議定及び郡中議定という法を設けていただけでなく、 入用という財政ももっていた。また郡中は、更に国単位に拡大することもあり、その場合国集会によって国議定が作 られた。従って、それらは自治的・民主的な地域共同体であると共に、事実上一つの地方行政組織(行政の村誘﹀、つ まりその限りでの権力だったのである。 最後に、権力自体においても流動化・分立化が見られる。即ち、幕藩の力関係の変化である。十八世紀後半には財 政困難から藩政改革の波が広がったが、その主眼は専売制などによる藩の経済的自立にあり、それを通じて藩として のナショナリズムが形成されていくのであ

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そして、改革に(一応)成功した西南雄藩を始めとして、諸藩は次第に 幕府からの独立化傾向を強めていく。その結果、幕府は例えば天保の改革では、(本来一方的な命令であった)大名の転 封に失敗したり、上知令の撤回を余儀なくされた。幕藩体制は、幕府の側の弱体化もあって著しく分権化していくの で あ る 。 以上のような諸々の動向は、身分秩序の崩壊、支配権力の衰退、自治・独立の進展を物語っており、 一 言 で い え ば

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6 ﹁自由化﹂であろう。こうした蓄積が、幕末に至って遂に世直しの気運を生ぜしめ、尊王撰夷から討幕、そして維新 へ主発展していくのである。同時にまたそれは、前述した、明治初期以降の﹁自由化﹂の基礎でもある。両者、とり わけ江戸後期の民衆運動と明治前期の自由民権運動とは、連続しているのである。 かくして、安土桃山時代に始まる近代の﹁国民国家﹂段階においても、﹁強権化﹂から﹁自由化﹂への移行が認め られる。江戸の﹁強権化﹂が明治維新以後﹁自由化﹂の局面へと確かに変わったのである。ただ、そこに一つ問題が ある。というのは、大正デモクラシーまではその傾向が当てはまるように思われるが、その後国家主義・軍国主義の 時代に突入したからである。それは明らかに﹁自由化﹂に反し、歴史の流れに逆行していると言わざるをえない。だ とすれば、上述の規定は妥当性を失なうことになってしまう。この間題はどう考えるべきであろうか。国家主義・軍 国主義の事実をどう見るべきであろうか。 私は、それは歴史法則に基づく内在的・必然的な事象ではないと考える。それは基本的に外的要因による撹乱であ ろう。倒幕・維新の直接的契機が開国にあるということが象徴しているように、明治国家の歩みは根本的に世界情勢 に規定されていた。即ち、帝国主義段階(又はそれへの移行期﹀における万国対時の下、列強の進出に対抗して国家の 独立を守るためには、富国強兵しか道はなかった。植民地の獲得、海外利権の拡張は、不可避的とは言わないまでも 必然的な方向であった。従って、既に明治維新の中に、軍事優先国家と対外侵略の芽は宿っていたのである。しかし、 そうした傾向の圏内的な影響は、飛躍的な経済発展により昭和初期まではまだ決定的とはならなかった。その歯止め をはずしたのは、世界経済と密接に連関するようになった日本経済の危機、即ち慢性的な不況及び恐慌(戦後恐慌・金 融恐慌・昭和恐慌)であり、またその危機の、後発固としての強行突破たるファシズムである。そしてそのようなフア シズム化は、世界恐慌に基づく帝国主義対立の激化によって促進された。かくの如き、自然的統合力の低下及び外部

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こ 浮沈興亡に関るその重大性が、軍部の弓統帥権の独立﹂をバ そ の 背 後 又 は 基 礎 に は 、 政治的空間の拡大 という(法則通りの/﹀根本的事実があった。即ち確かに、当時日本の領土は非常に拡大し、また拡大せんとしていた し、広大な勢力圏も設定されていたのである。しかもそこでは、ハ統合を低下せしめる)抗日闘争や民族運動が活発化し

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u v d i p このように、昭和の国家主義・軍国主義には歴史法則的必然性はない。それは自然的・内在的な発展の結果ではな く、特殊的な変異と言うべきである。それ故、歴史の大きな流れからすれば、戦後民主主義は大正デモクラシーを引 き継いでいるのである。前者が草命的変化にもかかわらず可能であったのは、既に後者の段階にまで到達していたか らである。従ってまた、戦後民主主義は明治以来の﹁自由化﹂の一環でもある。それに異和感を覚える人は、その間 67一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則的 僅 か 一 世 紀 に 満 た な い こ と を 銘 記 す べ き で あ ろ う ハ ﹁ 強 権 化 ﹂ の 時 代 は 三 世 紀 続 い た し 、 転 換 期 に 入 る ま で に も 二 世 紀 か か っ また特に、現代に通ずる内容をもっていた自由民権思想とその運動の国民的高揚とを、 た ﹀ 。 思い起こすべきであろ ぅ。その意味で、戦後民主主義は(現象的には外から、また上から与えられたものであるが)実は自生的であり、順当な発 展 な の で あ る 。 こうして、﹁強権化﹂と﹁自由化﹂については論じ終えた。そこで後に残された問題は、﹁自由化﹂の基礎にあると 思われる経済発展の如何である。既述の如く、経済発展が﹁自然的統合﹂を高めることによって﹁自由化﹂をもたら すはずであった。この場合、果たしてどうであろうか。明治以降における近代産業の顕著な興隆は明らかであるから、 問題は江戸時代である。江戸時代において経済は、後期の﹁自由化﹂を、そして最終的に明治維新を惹き起こすまで に 発 達 し た で あ ろ う か 。

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第8巻 2号一"'--'68 結論から言うならば、江戸時代における経済発展とその水準の高さは、我々の想像をはるかに超えると言うべきで あろう。そもそも、二世紀半という、世界的にも稀な平和の持続(天下泰平﹀が、繁栄を生み出さないはずがない。先 に見たように、既に鎌倉時代から商品 H 貨幣経済の普及が見られるのであり、(衰退の時期はあるものの﹀江戸時代には もはや完全に確立する。織豊政権下における全国単一市場の形成を受けて、﹁江戸時代は日本のすみずみまで貨幣使 用がゆきわたった時代である。﹂ そして、それを決定的にしたのが、経済の根本をなした石高制である。その制度は、 所得を米に一元化するものであるが故に、米の換金による物資購入を当然に予定しており、従ってそれ自体﹁構造的 に一定度の商品の生産・流通を前提としていた﹂からである。それ故また農村においても、﹁幕藩制の経済構造は、 すでにその第一段階において:::農民の流通網へのかかわり、 た 。 ﹂ したがって小商品生産者化への可能性を内在させてい 土地を基礎とする封建制の下にありながら、基本的に自給自足の自然経済︿現物経済)に立脚する西欧のそれと 日本の場合には、領主経済を侵蝕する形で早くから、そして江戸時代には必然的に、園内商品市場が発達 は 違 っ て 、 し(その意味での﹀資本主義化が進行したのである。それに伴って、武士も百姓も﹁町人化﹂した。﹁町人は:::しだ ( 凶 ) いに世間の中核にすわり、町人的気風が社会を支配した﹂。社会はやがて﹁身分本位から貨幣本位へ﹂と転回してい っ た の で あ る 。 このような一穫の商業革命は、兵農分離、武士(領主)の都市集住によっていっそう促進された。先祖伝来の所領を 失なった彼ら(家臣)は言わば(国家・地方)公務員、或は藩(又は幕領)というオーナー会社の会社員であり、 サラリ ー マ ン で あ っ た し ( 俸 禄 制 度 ) 、 なお且つ、非生産的な都市の住人であったので、完全な消費者として大規模な市場を 全面的に必要としたのである。 また諸大名も、(私生活・藩政の経費に加えて)参勤交代や土木事業を課せられたから、 ﹁諸藩はこれらの巨大な経費を統一通貨で支払うためにも、年貢米や特産品を中央市場に送りこみ、鋭意、 換金する

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﹀ こ と を 余 儀 な く さ れ た ﹂ 。 か く し て 、 既に江戸初期には商業資本が形成され、次第に拡散・巨大化していったのであ る。それが元禄の消費社会と町人文化を生み出したことは、一言うまでもない。 ︿

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そうした商品経済は、商農分離をものともせず不可避的にハ前述した﹁内在的可能性﹂を基礎に﹀農村へも浸透してい く。米自体が商品化し、それによって稲作が新品種等に多様化するし、更に、幕府の警戒(田畑勝手作りの禁など﹀を潜 って、年貢対象外の商品作物の生産が普及するのである。そうなれば、(本来、全剰余の収奪という機構にもかかわらず﹀ 剰余が蓄積され、農民の階層分化が進行する。それはやがて土地そのものも資本の論理に組み込むに至るであろう。 ( 出 ) 田畑永代売買禁止令(但しそもそも限定的であったが)にもかかわらず、地主の土地集積、質地小作による地主手作が生 まれ、そして遂には、ハ戦後の農地改革まで生き延びた﹀寄生地主を生み出すことになるのである。 69一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則仰 かく発達した商業資本によって、十八世紀には農村家内工業が問屋制家内工業へと転換し、更に十九世紀に入ると ︿ 似 ) (先駆的には十八世紀にも)、先進地域ではマニュフアクチュアも成立するに至った。そしてまた、こうした貨幣経済の 普遍化は必然的に金融業を成長せしめる。即ち、蔵元・掛屋・札差・両替商などであり、それらは次第に経済的実権 を握るようになった。このような総体的歴史動向、それは資本主義化の大潮流と言えるが、そこにあっては、もはや 誰もその局外に立つことができなくなる。幕藩領主の側でもそれを推進し、それに依拠せざるをえなくなる。最も直 接的には、インフレが、年貢米に頼る財政を破綻に陥れるからである。そこでそれに対処するために、特産品の育成 や商人資本による新田開発などが計られ、また運上・冥加の賦課や金融業者との結合が試みられた。かくして、資本 主義的経済発展は国家政策とも(自己矛盾を苧みつつも)なったのである。 ところで、こうした発展の基礎には、当然産業そのもの(生産力﹀のそれがなければならない。事実この時代、中心 となる農業生産力の飛躍的な増大があった。それには、むろん農業技術の革新も大いに寄与したが、その最大の原動

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第8巻 2号一ー70

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力となったのは、土木技術の著しい発車に基づく旺盛な新田開発であった。その結果十八世紀には、耕地面積は江戸 初頭に比べて二倍近く(戦国時代も含めれば三倍)にもなったのである。 し か も そ の 多 く は 、 肥沃な大河下流の沖積平 野 で あ っ た 。 従って農民剰余の発生と拡大(他方で貧困・没落化を伴 こ の よ う な ( 稲 作 を 中 心 と す る ) 農 業 全 般 の 発 展 、 ( 凶 ) いつつも)は、人口増加を惹き起こすと同時に、必然的・随伴的に手工業・鉱業・林業・漁業など各種産業の興隆をも 促す。そしてそれが、交通・輸送・通信網の整備と相侯って、商品流通、技術の伝潜・交流、地域間分業の形成を推 し進め、全国的な、且つ(三千万人に上る)巨大な商品市場を成立せしめたのである。

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このことは何よりも、急速な都市化の進展によって裏付けられる。先に言及したように、大規模消費地たる都市は 商品経済なしには存立不可能だからである。そして当代の情況はと言えば、都市の発達は﹁世界でも有数のもの﹂で

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あり、それは﹁訪日したヨーロッパ人のすべての感想﹂であった。例えば、江戸は十八世紀半ばまでには人口百万人 に達して世界最大の都市であり、大坂や京都も一ニ十万人を超える屈指の巨大都市であった。これら三都の膨大な消費 また、兵農・商農分離や町人優遇策を基礎に城下町を中心として多数の都市・在郷町が﹁全 ( 印 ) 国を網の自のようにおおった﹂という事実は、当時の商品経済のスケールの大きさと全国的展開とを雄弁に物語って ( 問 ) いるであろ引ル特に江戸は、関東地方の低生産性の故に消費物資の多くを他の地方に依存していたのである。 を賄いえたという事実、 こ の よ う に 、 江戸時代の経済は(統一政権という基盤も得て)全国単一市場に立脚する商品経済であり、 しかもそれ は、農業を中心とする各産業の生産力の増大に伴って拡大していったのである。そのような拡大は都市を発展させ、 富裕な町人層を形づくると共に、農村においても富農や豪農を生じさせる。そして注目すべきは、江戸中期以降、人 口の増減が殆どなかったことである。それは生活水準の一般的上昇に大いに寄与したであろう。ともあれ、こうした 経済発展が﹁自由化﹂の根本的な基礎となったことは、明らかである。明治になってからの﹁近代化﹂(工業化・西欧

参照

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