奈良教育大学学術リポジトリNEAR
最高裁学テ判決における教育の自由論
著者 高野 真澄
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 13
ページ 1‑11
発行年 1977‑03‑25
その他のタイトル Freedom of Education in the Supreme Court Decision on "Gakute".
URL http://hdl.handle.net/10105/6367
*
最高裁学テ判決における教育の自由論
**
高 野 真 澄
(法律学教室)
は し が き
昨年の上半期に、最高裁判所大法廷は、相次いで、国民の選挙権と教育権に拘わる二つの重要 な憲法訴訟について注目すべき判決を下した。
一つは、衆議院の議員定数配分規定の著しい不均衡について、選挙人の投票価値の平等もまた 憲法の要求するところであるとした上で、公選法の趣旨(別表第一・更正規定)を生かしてこなか った立法府の不作為を裁量の限界を超えたものとして憲法違反と判断したものである(昭和51年 4月14日)。ひと口に言って、これは国会の怠慢を「憲法の『平等原則』尊重の立場から、厳し く警告した」l1)ものである。今一つは、学力テストの手続的、実体的適否とこれに関連しての教 育の基本に拘わる問題をめぐって戦後教育界はもとより下級審判例を二分して来ているいわゆる 学テ事件中、r旭川・永山中学校」、「岩教組」学テ裁判において憲法論を含んだ判断を下した
ことである(同年5月21日)。 この判決は、既に指摘されているように、戦後このかたっとにき 製を深めている「教育権論争」、とりわけ教科書裁判と並び1960年代からの教育裁判の主な実体 をなした学テ裁判判例に、裁判面で一応の方向を指すことによって法的決着を付けようとするも
のの如く見える(2)。
小稿は、このうち学テ事件判決を取り上げ、かっ学テの適法性を扱った「旭川」事件に焦点を 絞り、これを主として教育の自由論の観点から若干の考察を加えることにしたい。
〔1〕 本判決は、本件学力調査が、原判決(札幌高裁判決・昭和43年6月26日、判時524号 25頁)の言うように、教基法10条を含む現行教育法規とその法理に違反するかどうかを検討する に当っては、教育の本質ないしあり方の基本的問題、とりわけ誰が教育を支配し決定すべきか、
教育に対する国家の支配、介入の当否およびその限界について、憲法以下の教育関係法制がいか なる態度をとっているかという全株南念歯豪のもとで行なわなければならないことを指摘する。
本件においても、子どもの教育内容を誰が決定すべきかという「教育権能の帰属」の問題につい て、検察、弁護両論の間に由豪薮舎潅歯二由良衰合潅読の鋭い対立が見られる。が、本判決はr 右の二つの見解はいずれも極端かっ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはでき ない」として、慎重な態度をとり、以下にその理由と裁判所の見解を述べる。
* Freedom o{Education i皿曲e Supre㎜e Co㎜・t Decisi0110n Gakute .
** Masumi Takano (Departement of Law,Nara University of Educatio皿,Nara)
〔2〕 そこで、判決はr子どもに対する教育権能」を金法あ出走および会法上あ痕地に照ら して検討する。
H まず、憲法中、教育に関する直接規定である金法姑桑の規定について、.r福祉国家の理念 に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明ら かに」しナこものと解し、その上で「この規定の背後には、国民各自が、一個の人として、また 一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利 を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するため の教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していること、
換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学 習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられ ているのである」と述べる。だが、判旨は憲法26条からは教育の内容、方法の決定権者が誰であ るかの結論は当然には出てこないと言う。「すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容 は、国の一般的な政治的意思決定手続によって決定されるべきか、それともこのような政治的意 思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、
直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」と。
上記の所論について、ここでは次のことを指摘しておきたい。判旨が憲法26条の国民の教育を 受ける権利を、由良喜自が有する入間的発達、成長、人格の完成、実現のために必要な幸由を手 る固有あ癌未1」として捉え、特に自ら学習することのできない子どもの教育は子どもの李魯去寺え 棲莉に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものであると述べている点は 極めて重要な指摘である。
このうち、国民各自=一人ひとりの市民が、人問的発達と成長のために、憲法上の人権として 固有の学習権を有するとする理解は、近代市民憲法下の教育人権の法理を正当に認知、継承する
ものであるからである。そもそも、近代市民憲法のもとにおいて、発達、成長の過程にある一人 ひとりの市民は夫々豊かな智性を享受し、人間性の全面開花のために学習と教育を欲求し、獲得 することの出来る生来的権利を有すること、換言すれば市民として人間的発達のために学ぶ権利
(dmit d appr㎝dre)ないし教育への権利 ホ。itヨI 6ducati㎝)を有しており、これらの権利 は人間として最も根源的な、自然権的なものとして捉えられていた。要するに、そこでは、人間的 発達のための権利の有用な一手段としての学習の権利は、すべての市民の貴重な生来的人権とし て把握されていたということが出来る。本判決が教育を受ける権利条項の基礎に上述のような学 習権を見出しているのは権利としての教育の憲法思想の形成を適確に認識したものと言えよう(3)。
そして、判決が、特に、自ら学習することの出来ない手ともが、学習の基本的要求を充足する
ための教育を夫人⊥釦と起しそ妻余寺る棲莉を有することを肯認した上で、子どもの教育が、何
よりもまず、子どもの学習権に対応し、その充足を図り得る者の会巷に属するものとしている点
も、注目に値いする。けだし、判決は、発達、成長の過程にある市民=子どもの生来的権利を高
く評価し、教育行為が専らこれら子どもの利益たる学習権に規定された義務であることを確認し
ているからである。ここから、国民は教育施設の設置等、国の積極的行為を要求し、これを利用
する権利を有し、国はr積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負う」
という関係が生ずる。この関係において重要なことは、受教育者がその選択する教育を受け得る単 なる法的な権能(Facult6juridique)ないし法的自由(libert6juridiq凹e)ではなく、学習主体が国も しくは社会全体(大人一般)から一定の教育行為を享受し得る個人的権利(droit pers㎝ne1)、
つまり社会権的基本権の一つとしての「教育への権禾■j」(droit星屹nseignem㎝t〕(4)であるという ことである。もとより、判旨は憲法26条の権利の法的性格について明言していないが、憲法の教育 条項を子どもの教育施策実施要求権を含む国民各自の学習権的受教育権保障として捉えているこ とは、憲法25条の生存権を国の将来負うべき政治的義務に対応する国民一一般の期待的利益に過ぎ ないとして法的権利性を否認した食管法違反事件および朝日事件最高裁判決判旨(最判昭和23年 9月29日別集2巻10号1235頁、最判昭和42年5月24日民集21巻5号1043頁〕と異質の展開を示す ものと考えられる。従って、そこにプログラム規定説から法的権利説への脱皮を読みとることが 出来ようか。
○ 次に、判旨は、学問の自由を保障する会曲き桑は、学問研究の自由ばかりでなく、その結果 を教授する自由を含み、また大学教育だけでなく普通教育における教師の教授の自由の保障をも 含むが、大学生とは異なり、普通教育においては児童生徒に強い影響力、支配力を有することや、
教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があることなどから、
完全な自由を認めるものではないとする。そして、この憲法が教師の自由について、教師間の討 議や親を含む第三者の批判による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は存しないと言
う。
憲法23条の学間の自由の中に学問研究の・自由だけでなく薮衰あ自由、さらには菩遠薮制と創}
之薮日市あ薮撞(薮含)あ自由が含まれるか否かの問題について、従来の判例は消極説に傾いてい たが(東大ポポロ事件最高裁判決、最判昭和38年5月22日別集17巻4号370頁)、本判決はこれか
ら脱け出し、明らかに積極説に近づいていることが注目される。もとより、判決は教師の自由な 教育内容決定権ないし完全な教授の自由を認めておらず、制約を受けるものとしている。が、そ の場合の制約根拠として挙げている理由についても、従来の支配的学説が「教育ということの本 質上」(5)という単純に抽象的な説示で済ましていたのと異なり、児童生徒あ疵幸睦カあ奏逢程度 や薮命あ目釘・壷嚢カ、麦由カ等を挙げて、教師の教育権を教育対象の持っ特性ないし利益によっ て規定されることを肯認しようとしている。従って、判旨のこのような受け止め方は、教師の教 授の自由が「被教育者たる児童生徒の学習権」ないし「教育を受ける権利」の保障から一定の制 約を受けることを是認したもので、いわばその制約を基本自勺に人権相互間の調整として捉える立 場(6)に立っているものと見ることも出来孔
判決は、このように、「知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても」、教師 が学問の自由を保障した憲法23条により教育の内容、方法にっきある程度の教育の自由を保障さ れることを認めているのであるが、このような理解には問題がないわけではない。教師の教育の 自由は、単に真理発見者としての教師が憲法23条で保障された自由な学問活動を遂行し、その結
・果の発表において公権力により妨げられないところに成り立つのであろうか。むしろ、近代憲法
の教育法思想の沿革においては、「教育」は、窮極的には被教育者の自由で個性的な思想形成の 問題として、学ぶ者の人間的発達のための人権に規定せられ、その故に真理にのみ仕えるべく、
公権力による統制と教義の強制から自由に行うべきことが要請されていた。被教育者自身の学習 と教育への権利が教育の自律性を要求する。だとすれば、わが国における憲法的自由の一つとし ての教師の教育の自由も、単に学問活動の成果を被教育者に伝達する媒介的な自由として消極的 に構成するのでなく、積極的.に学習権の主体が享受すべき内容と方法の上での教育上の利益を基 礎とし、衰合の本壷を法的に保障する憲法26条の権利から要請されていると解すべきではないだ
ろうか(7)。
目 判決は、続いて、教育権の憲法史的発達を踏まえた教育権能論を展開する。曰く。手とも の義台は「専ら子どもの利益のために行われるべきもの」であるが、「何が子どもの利益であり、
また、そのために何が必要であるかについては、(子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係 者の間に)意見の対立が当然に生じうる………とすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈と しては、右の関係者らのそれぞれの主張のよって立っ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべ き範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。」この観点から、判決は、子ど もに対する教育権能の「主体」について、(I)癌の家庭教育の自由、学校選択の自由 (II)私事衰 舎の自由 (m)義歯の教育の自由を掲げ、(1V)それ以外の領域において、国政の一部として広く 適切な教育政策を樹立、実践すべく、またしうる者として由の4者を挙げている。
上掲の教育の自由論は本判決において特色ある部分であ孔周知のように、近代市民憲法は発 達、成長の過程にある一人ひとりの市民二子どもの人間発達権とそのために学習をする権利を担 保する憲法的自由として「教育の自由」 (Iibertεde IらnSeignem㎝t)を措定していた。フラン スでは問題の所在は教育の国家独占か私的部門の独占かが大間題として争われて来たが、経験は 両者の平和的共存18)の樹立に置いている。教育の自由の核心は教育する自由(Iibert6dらnseigner)
にあるが、それは何よりも先ず、手ともの幸由権と親あ家庭教青あ自由を一体として把握し、次
いで市民憲法と自由経済体制のもとで、法の下の平等と思想・良心、言論・出版・結社の自由を
獲得した市民が学校開設の自由ないし私学(宗教)教育の自由を享受し、これと併行して親が子
に代位して自ら欲する学校ないし教師を選択する学校選択の自由ないし教師の選択癌を享有する
ことによって、教育に対する市民的権利を実現した。こうして、自由教育体制のもと、教育の自
由の外延が拡大したのである。そして、この側面は、やがて近代公教育の発達に伴って、親の教
育権の一部が専門職としての学校教師に組織的に委託され、学校教育における教師の教育の自由
ないし教育癌が演緯されるようになって来る。ここでは、教師は教育専門職として国から免許状
を与えられるけれども、教育の根拠は親の学校選択権に媒介されている子どもの人問的発達権と
学習権に規定されたものと解されている。かように、教育の自由は、沿革的には、子女・国民の
学習権、教育への権利と親の家庭教育の自由を基盤としつつ、自由国家の教育体制のもとで国民
の学校開設の自由(私学教育の自由)、親の学校(教師)選択の自由が生成し、やがて学校教育
における・教師の教育の自由を成立せしめるに至った。この意味において、教育の自由は、近代憲
法の諸人権中、個人の平等権や思想・良心の自由、言論・出版・結社の自由等の市民的自由権と
深い関連をもって発展したのである。だが、教育する自由に対する国の法的規制が一定限度で及 んでいること一もまた否み難い。
ところで、19世紀後半以降になると、先進諸国は資本主義経済機構の発展による市民社会の構 造変化に侍って生起し足労動者階級の切実な人間回復の要求、その一環としての教育要求に憲法 的保障を与えると共に、国家め教育に対する任務の拡大、関心の増大を示すことになる。すなわ ち、国家はすべての学校に義務教育制を実施し、公教育の整備を進め(無償の非宗教的・公立校 の拡大)、私立校や教育団体に対して監督、統制を強め、また教育費補助を行い、学校教育の公 私二元体制のもとで教育機関の重心を、高等教育を除いて、次第に公立校中心に移し、国の教育 行政権を強化した。このような資本主義の発達に伴う教育の社会的意義ないし全体としての学校 教育の公共性の増大を前にして、教育に対する社会的責圧の法的な組織体として、子女・国民の 学習権ないし教育への権利は広く社会に対する教育保障の義務を要請し、特に国に対して積極的 な作為(条件整備)を要求出来る社会的人権として自覚され、ここに対国家的要求権にまで高め られるに至った(9)。だが、このために、教育の自由を単に教育の私事性と同義に見徹すべきでは ない。西洋に端を発した教育の自由は、確かに市民社会における自由権原理としての私教育の自 由から発展したが、それは公教育を支配すべきものとして拡大を遂げたものと解すべきであろう。
今や、国民各自の教育上の人権は、人格の独立が国政上尊重されるべきことを起点として、個人 の利益のために実定的な教育給付を履行すべき国の積極的義務を創設し、受教育権実現の実質的 な裏付けを要求している。
わが国において、憲法の教育条項の憲法患想的根拠、とりわけ教育を受ける権利の名宛人につ いて、これまで近代市民憲法ないし教育法思想にまで遡って教育の自由ないし教育権の問題を原 理的に追求しようとした先例として、いわゆる家永教科書訴訟東京地裁判決(東京地判昭和45年 7月17日、行裁例集21巻7号別冊、判時604号35頁)が挙げられる。本判決もこれに同調するよう に、近代市民憲法以来の教育の自由法理の展開を踏まえ、かっ継承する態度を示している(1Φ。そ
して、判決は多元的な教育主体の共存を説示している。だが、問題は現代国家の公教育の存立と 維持が何らかの国家的関与によって支えられることにっいて異論はないとしても、受教育権の名 宛人としての国が、いかなる教育事項について、いかなる範囲程度で関与し得るかということに っいての基本認識の問題である。すなわち、国は果して教育課程の内容や方法に関与し得るか、
し得るとすればその範囲、限界いかんという、教育の本質に拘わる問題についての認識である。
この点で、本判決の基本的な立場は、国の教育内容決定権能を肯定する。ここに本判決全体の基 調が在ると言ってよいであろう。それは判旨が国の教育権能の範囲をもって、親、私学経営者、
教師のそれ以外の残余権能を広くカバーするものと成し、正当な理由に基づく合理的な決定権能 を否定する理由はないとしていることによって明らかである。もとより、国の教育内容決定権は 戦前的意味のそれでないことは、国の権能が「子ども自身の利益の擁護のため、または子どもの 成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かっ相当と認められる範囲において」
有するとか、「本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして」の教育に対する国家的介入
は「できるだけ抑制的であることが要請される」と判旨していることから、これまた明白である
(但し、「必要・相当な範囲」とはどういうことなのか、具体的には述べられていない)。そし て、この文脈において、判決が国の教育内容決定権能を肯定する際に、「子ども自身の利益の擁 護のため云々」という限定を施し、殊に子どもが自由、独立の人格として成長することを妨げる ような国家的介入は、憲法26条、13条の規定の上から許されないとしている点は注目される。国の 教育権能が右の限度以上に出られないということは、憲法上、国の権能の発動が子どもの人格尊 厳の尊重ないし学習権=受教育権の充足によって拘束されることを意味しているからである。判 決は、要するに、国を含む教育関係者の教育の自由の基礎にある子どもの学習権ないし受教育権 が、単なる道徳的・政治的な教育要求の宣言ではなく、実体的な法的権利として教育の自由に拘 わる一切の教育権能の発動を拘束する性格を持つものであることを承認したものと解される。
〔3〕 判決は、さらに、「教基法10条の解釈」論を展開する。
H 初めに、教基法あ性格に言及して、曰く。 「教基法は、憲法において教育のあり方の基 本を定めることに代えて」制定されたものであって、「教育の根本的改革を目途として制定され た諸立法の中で中心的地位を占める法律であり、このことは、同法の前文の文言及び各規定の内 容に徴しても、明らかである。それ故、同法における定めは、形式的には通常の法律規定として、
これと矛盾する他の法律規定を無効にする効力をもっものではないけれども、一般に教育関係法 令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び 同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならないというべきである。」と。
上掲の判旨は、戦後憲法が措定した新しい文化国家の建設、創造における教基法の重要性を改 めて認識したものとして重要な指摘たるを失わないだろう。もとより、判旨は教基法一それが 憲法附属法律であることは容認されている一の準憲法的・上位法的地位を承認するものではな いが、単に立法の指針たるに止まらず、教育法令と教育行政の解釈・運用原理としての法的地位 を持つことを承認したものと解することが出来る。この意味において、教基法の規定事項は、立 法機関のみならず、法の適用機関をも拘束すると解される。
目 そこで、判決は、r教基法10条1項」の規定する教育の国民全体に対する直垂合荏主義の 原則について述べる。
この点、判決は、教育行政機関が法令に基づいて行政を行う場合は教基法10条1項に言う「不 当な支配」に含まれないと解すべきかどうかにっいて検討する。それによると、同条項は教育が 国民から信託されたものであり、それ故専ら教育本来の目的に従って行われるべきことを示した ものであるから、教育が「不当な支配に服することなく」とは、教育が国民の信託にこたえて自 主的に行われることを歪めるような不当な支配を排斥することにあって、その主体いかんは問う
ところでなく、従って教育行政機関が行う行政も「不当な支配」に当る場合があり得る、と解する。
この点、従来、「不当な支配」の主体について、議会制民主主義のもとでは国民全体の教育意 思を体現する法律に基づく教育行政機関の正当な権限行使は「不当な支配」となり得ないとする 見解(行政解釈、家永教科書訴訟東京地裁〈高津〉判決、岩教組学テ事件盛岡地裁判決等、参照)
が行われて来たが、本判決は、これを退け、法令に基づく教育行政機関が行う行政も「不当な友
配」たり得る場合があると述べているわけで(同旨、学テ事件福岡地裁小倉支部判決、参照)、
正当な指摘と言うべきであろう。
目 しかし他方、判決は、いわゆる大綱的基準説に立った原判決について批判的検討を加え、
教基法10条の規定は教育行政機関が教育の内容、方法の決定に介入することを一切排斥したもの であるとの結論を導くことは早計である、と断ず糺
そこで、判決は「教基法10条2項」の法意、つまり教育行政のあり方に論及して、本条項は「
国の教育統制機能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確 立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する『不当な支 配』となることのないようにすべき旨の限定を付したにころにその意味があり、従って、教育に 対する行政権力の不当・不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために 必要かっ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ず しも同条の禁止するところではないと解するのが、相当であるd と判示し、原判決の見解を狭 さに失するとして退ける。そして、「本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、おお むね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要 な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認め られるのであり、その中には、ある程度細目にわたり、かっ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的 拘束力をもって地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそ
のように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとして も、右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を 反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性 格をもつものと認められる一…・・それ故、上言己指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の 当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、上言己目的のために必要かっ合理的な基準の 設定として是認することができるものと解するのが、相当であるdと判示している。
本判決全体の重点は以上の論旨に置かれているように思われる。これを要約すれば、教基法10 条は、「教育行政機関が教育の内容、方法の決定に介入することを一切排斥したものと解するこ ともできない」こと、むしろ、国も必要、相当な範囲で教育内容の決定権能を有する以上、許さ れる目的のために必要、かっ合理的な行政権力の介入は、たとえ教育の内容、方法に関するもの であっても、同条の禁止する「不当な支配」に当らない、とすることにある。
この見解には、次のような問題があるであろう。
第一に、先の前記〔2〕で本判決が展開していた子どもの学習権論からすれば、学習主体中心 の教育憲法論に基づいて教基法10条論を構成してゆくことが出来るはずであり、それならば教育 の自主性の要請と共に憲法・教基法等が要求している権力制限原理(「子どもの学習権=受教育 権の保障」、「地方教育白治の原則」等、特に前者)がここでも重視され、より慎重かつ厳格に、
国の教育行政権の限界が指摘されて然るべきであったであろう。
第二に、教育行政権の限界を教基法10条1項の「不当な支配」 (教育の自主性侵害〕に当るか
どうかの一点に絞り、この指標に該当しない限り、教育の目的遂行に必要な諸条件の整備確立の
ための措置は外的事項のみならず内的事項にも及ぶことを肯定しているのは、問題であろう。そ れは、2項の文言(r諸条件の整備確立」一 jの趣旨を超えるように思われる。というのは、r不 当な支配」に該当せず、「許容される目的のために必婁かつ合理的と認められる」権力的介入は、
国会や内閣の裁量的権限に委ねられるにしても、政治部門の合理的裁量(完全な自由裁量ではな い)の範囲にも「事の性質上おのずから広狭がありうる」 (最高裁大法廷薬事法違憲判決、昭和 50年4月30日判時777号8頁)。だとすれば、立法、行政行為における合理的裁量の限界ないし許 容範囲を超える場合は司法審査の適合対象となることを免れないことになる。だ一が、それにして
は、教育条件の整備確立のための措置を講ずるに当って不当な支配を及ぼさないという合理的裁 量に向けられる教育憲法上の具体的制的の保証が必ずしも明確でなく、運用において悠意に流れ る余地を残し、憲法上の教育権の不当な制限を許す危険もまた大きいということである(1D。判決 が行政権力の教育関与に相当な限定を付していることは評価される点であるが、それらの限定が 教育行政の特殊性をどこまで担保し得るか疑問の余地がある。いわゆる学習指導要領の大綱的基 準性(教育課程基準設定権)についても、正に「合理的裁量」に籍口して拡大的な解釈を容れ得 る可能性を本判決自ら示していると言えないであろうか。 この点で、教基法10条の規定の文言 に即し、かっ立法者意思( 教育行政は、教育の外にあって、教育を守り育てるための諸条件を 整えることにその目標を置くべきだ )(1aに則って、教育行政権を厳格に教育に関する外的条件 の整備確立に限定する方向を強調した教科書訴訟第一審(杉本)判決(1③との間に、解釈論上大き な距離が横たわっていると言うことが出来る。
四 判決は、以上の論旨を承けて、「本件学力調査」の行政調査的性格を容認し、これを前提 として、本件調査と「教基法10条」との関係について、H調査目的 日本件のような方法による 調査の必要、妥当性日「不当な支配」の要素の有無、程度等に亘って法的適否を検討する。
そして、上言己のH、目を肯定した後、日について、原判決が不当な支配の理由として摘示した 諸点(本件調査が各学校の教育内容の一部を強制的に変更させ、教育的価値判断にかかわる教育 活動としての実質をもつこと、学校の日常の教育活動を学習指導要領に沿って行わせ教師の自由 な創意と工夫による活動を妨げる危険性をもつ)を否定し、本件でも学テの適否以前に指導要領 の性格が問題となっていることに応えて、「本件学力調査は、生徒の」般的な学力の実態調査の ために行われたもので………指導要領は、単に調査のための試験問題作成上の基準として用いら れたにとどまっている」とし、結局、「本件学力調査には、教育そのものに対する『不当な支配
』として教基法10条に違反する違法があるとすることはできない」と結論している。
〔4〕 判決は、最後に、文部大臣が地方教育委員会(地教委)をして本件の調査を実施させ たことが現行教育法需■」における「教育の地方自治」の原則に反するかどうかを判断する。
判決は、先ず、現行教育法制における教育の地方自治の原貝1」の重要性を認め、地教委の教育権
限に対する文部大臣の介入、監督権に一定の制約が存在すると説く。よって、本件学力調査にお
いて、文部大臣が地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)54条2項によっては地
教委に調査の実施を要求することができないこと教育に関する地方自治の原則に徴し明らかであ
る、とした上で、「しかしながら、文部大臣の右要求行為が法律の根拠に基づかないものである としても、そのために右要求に応じて地教委がした実施行為が地方自治の原則に違反する行為と して違法となるかどうかは、おのずから別個の問題である。………文部大臣が地教委にそめ義務 の履行を求めたとしても、地教委は必ずしも文部大臣の右見解に拘束されるものではなく、文部 大臣の右要求に対し、これに従うべき法律上の義務があるかどうか、また、法律上の義務はない としても、右要求を一種の協力要請と解し、これに応ずるのを妥当とするかどうかを、独自の立 場で判断し、決定する自由を有するのである。それ散、地教委が文部大臣の要求に応じてその要 求にかかる事項を実施した場合には、それは、地教委がその独自の判断に基づきこれに応ずべき ものと決定して実行に踏み切ったことに帰着し、………窮極的にはみずからの判断と意見に基づ き、その有する権限の行使としてした実施行為がそのために実質上違法となるべき理はないとい うべきである。それ故、本件学力調査における調査の実施には、教育における地方自治の原則に 反する違法があるとすることはできない。」と帰結する。
以上引いたところから判るように、判決のこの最終局面の判旨は前段と後段部分を法形式論を 駆使することによって辻棲を合わせたという印象を抱かせるに足るものがある。
すなわち、こうである。判旨前段は教育における地方自治の原則を現行教育法制の重要な基本 原理の一つを成すものと解し、このことを前提に地教委の教育行政上の権限の自主・独立性を認 め、学テ実施を文部大臣の権限としては行い得ないとした原判決を支持している。この判旨は、
戦後の教育改革によって教育が国の事務から地方の事務に移譲され、教育行政の分権化と民主化 をその構造軸に、一方で国家関与の排除、他方で地方公共団体の教育自治権の確立、教育行政権 の独立を主たる内容とする地方教育自治の構造原理が現行教育法制の重要な基本原理の一つを成 すことを是認したものとして、その意義は大きいものがある。だが、判旨後段においては、それ に従う法的義務のない文部大臣の学力調査の要求に応じて行った地教委の実施行為がそのために 実質上違法となるべき理はないと結論するのである。すなわち、判決は文部大臣の要求行為と地 教委の実施行為を峻別し、前者の要求が履行義務なきものであっても後者において独自の判断で その有する権限の行使として行われた以上、地方教育自治に反する違法はないとするものである。
だが、「もともと本来の論点は、地教委の実施行為の問題ではなく、『実施を要求した文部大臣 の行為』にあった筈であるdこの点で、判旨は法形式論によって「巧妙なスリカエを行っている」
(1④と評さざるを得ず、殊に「法律の形式論はともかく、事実上は地教委が 拒否の自由 なしと考 えて半ば強請一」的に学テの実施を行わさせたとみるべき事情が、ここでは全く考慮されていない)(喝 ところに問題がある。この結果、法律の根拠に基づかない文部大臣の学テ実施要求行為の瑠疵は、
結局、地教委が自らの権限行使としてした実施行為によって治癒されるということになる。
結 び
顧りみれば、戦後の教育立法、教育行政の展開の各局面において現出した様々な諸問題、例え
ば教育行政面での文部省の権限の強化、教員の政治活動の制限、教委制度の改変、教員の勤務評
定が、また教育課程面での学習指導要領の法的拘束力、一斉学力テスト、教科書検定制度、道徳 教育の実施が国家による教育の統制強化を容易にする手段として進められて来たことがっとに大 きな批判の組上にのぼせられて来た。今回の判決は、その度び毎に継起し来たった対立と抗争に よって両極に分化し、き製を深めている相互不信の教育論をどこまで架橋することに寄与するか は速断し難い。
判決は格調高い部分を擁し、しかも相当慎重かつ手回く論述を展開し、「教育」と「憲法」の 理解においても柔軟なアプローチとトーンを漂わせている。そこには、憲法、教基法上の有権的 解釈を含み、かっ今後の論議を触発、刺戟するに十分な新しい論点をも提起している。が、同時 イツシュ
に、それだけにまた論旨展開の上で屡々不整合と思われる箇所が目にっき、例えば各論点の前の 部分で展開した柔軟で徴密な論調が結論部分に喰い込まず、萎んだ結論に到達するといった具合 いの型に嵌った論法に出逢うことでも削る。このようなことで、判決自体は、基本的に国の教育 行政責任を重視し、国の教育行政権能を強調する結果となっている。そこには、憲法の最終的保 障機関としての立場にある最高裁判所が、戦後30年のこの時期に当り、自らの憲法・教基法解釈 を通して解釈論を統一し、司法の威信を表示しておきたいとした実践的な態度が相当強く振って いるとも言える。だが、判決は、他方、本件事案の教育政策上の当否を留保し、教育統制を招く 危険に対しても批判を加えている。今回の判決を通観して、筆者は「教育の自由」の一層堀り下 げた検討が益々強く要請されていることを痛感する。今回の判決が今後のわが国の教育に拘わる 立法、行政、司法判断等に大きな影響力を与えることが必定であると考えられるだけに、この判 決を教育に拘わりを持つすべての人びとが教育の自由の問題を発達、成長の過程にある人間の思 想形成の問題、優れて思想の自由保障の問題として受け止め、何が「教育の本質」であるかを憲 法と教基法の示す文化国家の理念に照らして熟考する契機として生かしてゆくことが大事だと思 われる。
口主